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武田勝頼 part49

803 :人間七七四年:2022/10/23(日) 01:06:58.35 ID:mxWaf4MO.net
>>795
1.甲陽軍鑑を基にするなら、徳川側は1575年の長篠合戦の後で、
武田側の小山城を攻めた時に、武田側の長篠での損害の多さや、
上杉への備えをする必要性を理由として、
勝頼が3年から5年は援軍にやってくる事はないだろう、と思っていたように思われる。
それが、軍鑑を基にするなら、勝頼が徳川側の上記の予想に反して、武田側が大軍で(武田側の軍鑑でも、徳川側の三河物語でも、
この時の武田の軍勢が数だけ寄せ集めた質の低い軍勢だった事は書いてあるように思われるけど。)
援軍にやってきた事で、小山城攻めをやめて撤退してるように思う。

2.上記1.を考慮するなら、徳川としては、長篠の敗北の後で、勝頼が長期に渡って援軍に来れないと思っていたようで、
その間に、城を取れるだけ奪還しようとしたように思われる。
しかし、小山城を攻めた時に徳川にとっては意外な勝頼の救援を受けて退いたように思われる。

3.軍鑑を基にするなら、家康とその軍勢はその次の高天神城においての、勝頼との対峙では、徳川側は8千人を多少上回るくらいしかいなかったように思われるけど、
意気盛んだったようで(上記にあるような、武田軍の質をよく理解していたと思うけど)、勝頼と対峙をし続け、結局主力決戦はなく、高天神も攻略されず、高天神に武田が兵糧を入れたものの、
徳川側も既に築城していた横須賀の城を確保したまま、武田の方から撤収してるように思う。(徳川も追撃しなかったように思われるけど。)

4.上記のように、長篠合戦の後では、徳川は小山城では、武田側の意外な救援を受けて退いてるように思われるけど、
次の高天神の時には、徳川は可能なだけと思われる動員をして、武田勢と対峙してるように思われる。

5.これらを考慮するなら、徳川も、出来る事なら無駄な出陣はしたくなかったように思われ、
1573年の長篠奪還戦の時も、まだ武田軍主力が健在の状況で、その救援や後詰が想定可能な状況で、
出来る事なら城を攻略したいと思うなら、可能なだけ多くの軍勢を率いて城に攻勢を仕掛け、
始めに派遣されてきたそれなりの数の武田援軍を抑えつつ、
自身達を圧倒し得るだけの後詰が来るまでに、城を攻略する事が必要と思われ、
その為には、軍勢数は出来るだけ多い方がいい様に思うけど、どうなのかな。

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