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レス数が1000を超えているけど、まだ書けるかも知れないよ。

石田三成の挙兵 ★9

1 :人間七七四年:2024/02/09(金) 16:38:34.31 ID:O5D+dSHZ.net
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/
石田三成の挙兵 ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1659567400/
石田三成の挙兵 ★3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1667713567/
石田三成の挙兵 ★4
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1675638266/
石田三成の挙兵 ★5
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1681718599/l50
石田三成の挙兵 ★6
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1688201714/
石田三成の挙兵 ★7
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1694679016/
石田三成の挙兵 ★8
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1700484003/

2 :人間七七四年:2024/02/10(土) 09:36:34.97 ID:CeaDDTOA.net
結局西軍はどうやったら勝てたんだよ?

3 :人間七七四年:2024/02/10(土) 09:52:52.91 ID:6vT6kUJ2.net
7月中に清須制圧
8月中に浜松迄制圧

4 :人間七七四年:2024/02/10(土) 10:30:07.98 ID:mNXUSFTD.net
いちおつ

関ケ原で豊臣と徳川が戦った → ✕
西軍の総大将は石田三成 → ✕
戦闘開始後小早川秀秋がいきなり裏切った → ✕
石田三成は豊臣の忠臣 → そうかもしれないかそうでもない

5 :人間七七四年:2024/02/10(土) 12:09:44.60 ID:1W8nvO32.net
>戦闘開始後小早川秀秋がいきなり裏切った → ✕

いやいや白峰氏はイエズス会日本報告集に始まったと思う間もなく太閤様の妻の
甥など何人かが裏切り短時間のうちに内府様は勝利をおさめた、わずかの間に
奉行軍は総崩れとなった、仕組まれた裏切りにより一瞬にして全軍が敗れた
との記述や戦いを交えたとき(開戦時)小早川、脇坂、小川らが裏切り敵は敗軍
になり(9月17日松平家乗宛石川、彦坂書状)
即時に乗り崩され(9月17日吉川広家書状案)
即時に破り大勝利(9月20日近衛前久書状)
関ヶ原に将に陣を敷こうとしたところに小早川らが味方に付き敵敗軍(当代記)
などから開戦間もなく小早川寝返り西軍は短時間崩壊説を唱えられているよ。

6 :人間七七四年:2024/02/10(土) 12:36:37.82 ID:CeaDDTOA.net
>>5
前から疑問に思ってたけど、一次史料だと小早川、小川、脇坂の名はあるんだけど、
朽木と赤座の名が裏切り組の中に無いのは何故? 松平彦坂には確かなかったよね?
私の知らない一次史料にこの二人の名前があるのかな?

7 :人間七七四年:2024/02/10(土) 13:04:21.89 ID:URPUB+Ec.net
>>6
朽木と赤座は一次史料には出てこないよ
石川・彦坂連署状だと小早川秀秋・脇坂安治・小川父子(祐忠・祐滋)の4人だね

8 :人間七七四年:2024/02/10(土) 13:19:53.28 ID:CeaDDTOA.net
>>7
松平彦坂とか、他のおおかたの一次史料にもこの二人無いよね?
というか、三成が8月に真田に出した編成に関する書状でも、この二人の名前無かったよね?
なんで赤座と朽木の名が加わってるんだろ?

9 :人間七七四年:2024/02/10(土) 14:20:34.62 ID:1W8nvO32.net
確かに一次史料には朽木、赤座の名はないですね、大谷勢と戦った
藤堂家の覚書にも脇坂、小川は出てきますが朽木、赤座の名はないですし
それでも後年の編纂書などには4家とも出てきます

調べた範囲内では当事者の記録として唯一関ケ原合戦にいた僧の覚書と称する
関ケ原合戦承及覚に峠(藤下)村に赤沢越中守(恐らく赤座の事)、脇坂、朽木
松尾山に小早川,小川が布陣していたとありますが、この記録は他の史料と一致するところも
ありますが内容的に関ケ原合戦始末記あたりを参考に書いたのではないかと思われ
信用できません。

10 :人間七七四年:2024/02/10(土) 14:53:17.32 ID:1W8nvO32.net
それでは信頼できる初出はなにかと調べたところ、以前書かせていただいた
太田牛一の関ケ原合戦双紙(別名:内府公軍記)ではないかと思われます

この書は多くの関係者から聞き取りなどをし何回か加筆訂正され、
今の所成立順として栃山本→大和文華本→蓬左文庫本で最終的には
1607年に成立したもので寝返り者の名として栃山本には
小早川、脇坂、朽木、小河で大和文華本と蓬左文庫本には小早川、脇坂、朽木、小河に
赤座が追加されています

ただこの書は他の記録と付き合あせると後のものが正しく訂正されていることも
あれば後のものがかえって誤情報に変更されていることもあり、今の所
最初の栃山本がいちばん信憑性があるといわれています。

実際に朽木、赤座が参戦していたかはわかりませんが
後年の史料に朽木、赤座の名が出てくるのはこの記録が始まりではないかと
思われます。

11 :人間七七四年:2024/02/10(土) 16:18:39.33 ID:CeaDDTOA.net
関ヶ原始末記は信頼できない史料と見ていいのかな?
あれ確か酒井忠勝の編纂だよね
酒井は1586年生まれで関ヶ原にも秀忠軍に従軍していた経験者なんだけど

12 :人間七七四年:2024/02/10(土) 17:58:13.55 ID:kv+tIjjW.net
>>4
正しい答えも書いといて欲しい
僕みたいな初心者のために

13 :人間七七四年:2024/02/10(土) 19:01:18.15 ID:rzx1UnYN.net
>>12


関ケ原で豊臣と徳川が戦った → 関ヶ原で豊臣家家臣同士の内部抗争をした。
西軍の総大将は石田三成 →石田三成にはほとんど決定権がなかった
戦闘開始後小早川秀秋がいきなり裏切った → 小早川秀秋が裏切ったので迎撃or逃走しようとして戦闘が開始した
石田三成は豊臣の忠臣 → 秀頼どころか、故人秀吉の意に反する行動多数で忠臣とは言えない

14 :人間七七四年:2024/02/10(土) 20:31:07.84 ID:C3awGN3B.net
宇喜多は輝元や奉行に意見を言ったりしてないの?

15 :人間七七四年:2024/02/10(土) 20:56:03.68 ID:njHMv9cN.net
丹後に配置している兵力が多すぎるので

16 :人間七七四年:2024/02/10(土) 21:32:07.93 ID:JO/i2CeQ.net
タイトル忘れたけど、関ケ原の本に、西軍蜂起は三成でなく、
秀家がやったって説があった 三成が立つまえに、
どっかで戦勝祈願?してるらしい 
また、そこには北政所もいたと 寧の家康支持説が揺らぐ

17 :人間七七四年:2024/02/10(土) 23:25:54.90 ID:nejtsN4m.net
>>16
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/7/0017?m=all&s=0017

これ読む限りは北政所出てこないし、東殿(大谷母)名代の社参も別日だな
だいたい関東征伐のための必勝祈願でも問題ないし
舜ちゃんも淡々と出来事を記しているだけだ

7月1日説があるそうだが、ほかの写本でもあるのか?

18 :人間七七四年:2024/02/10(土) 23:46:24.91 ID:URPUB+Ec.net
大西氏は公戦である会津征伐に際して、儀礼的、形式的必要から宇喜多は豊国社での神馬立の儀式を行ったのではと言ってるね

また7月7日に豪姫や東殿による湯立神楽の奉納も西軍の必勝祈願と断定するには根拠が乏しいとも言ってる
確かに湯立神楽は特別な儀式ではないし当時の恒例行事みたいなもんだしな

19 :人間七七四年:2024/02/11(日) 00:48:05.56 ID:HssDzPg5.net
確かに公儀の戦ではあるけれども奉行、豊臣家(淀殿、北政所)の反対を
振り切って強行したものだし、太閤の遺言で秀頼補佐の為大阪に詰めていた秀家を
強引に伏見に追い払い、宇喜多騒動で秀家に背いた家臣に寛大な処置をした
家康の戦の為に豊臣家の聖地である秀吉の神前で戦勝祈願するかな

10日後の7月15日島津義弘書状で豊臣家の為に上杉に味方すると相談して決した
首謀者グループ毛利、宇喜多、3奉行、小西、石田、大谷に名を連ねている宇喜多が
内府が大坂にいる頃から(6月16日まで)挙兵計画はあったという石田が動き出す
7月10日頃よりわずか5日前のこの時期に制軍挙兵計画を知らないということが
ありえるだろうか

7月上旬に毛利輝元の祐筆を安国寺の要請で大坂に送っているし
毛利の7月15日以降の素早い動きをみてもある程度事前に挙兵を計画していたと
思われ、毛利、宇喜多が會津出兵に武将の派遣という協力の姿勢を示し
帰国したのは(毛利は6月8日頃、宇喜多は不明だが6月8日には国元にいた)
家康を油断させるための擬態で7月に上坂するという挙兵計画の一端ではなかった
のではないだろうか。

20 :人間七七四年:2024/02/11(日) 05:59:33.69 ID:QsKz7/9K.net
7月ごろは何より会津征伐が優先される
会津征伐が重視されるからこそ隠れ蓑として有効とも言えるわけで

公式に認められた戦はそれだけ重い
東軍の結束と士気の高さもそこに由来する部分もあるんじゃないか

21 :人間七七四年:2024/02/11(日) 06:02:12.53 ID:QsKz7/9K.net
西軍が決起したのも会津征伐が公戦と認められちゃったからでもあるだろ

22 :人間七七四年:2024/02/11(日) 06:38:37.16 ID:dIo1sYkC.net
今の日本の政治家って楽だよな。いくら不正しても罰せられない。
他国に攻められる危険も少ない、対抗勢力による攻撃もない。
まさにやりたい放題、失策し放題。
民主主義最高じゃないか、超絶バカな国民はちゃっちいマスコミによる報道で洗脳し放題だしな。
戦国時代はなんだかんだリセットの嵐だし。
江戸時代ですら幕府によるお取りつぶしに怯えていた。

現代日本は悪人にとって最高な時代になった。
まさに天国。

それにしても先人が血で血を洗って作り上げた日本が外国人の流入でさらなる展開を見せるだろう。
内戦でも起こるのか、調和するのか全くわからないが。
先人には申し訳ないとしかいいようがない。

23 :人間七七四年:2024/02/11(日) 06:45:57.14 ID:dIo1sYkC.net
今の日本って人口どんどん減らして東京を中心とする都市国家を目指してるみたいだが。
それって金融サービス国家な。
ふと豊臣家に似てると思う。金は全国の代官から集まってくる。
しかし手持ちの軍隊が少ない。
徳川は金こそ豊臣に劣るが兵力が半端なかった。
日本もそうなるんじゃないか。世界から金をかき集めるが、軍隊もなければ農民もいない。
すっからかん。戦争しかけられたらめちゃくちゃもろいぞ。
ドローンみたいな無人兵器を大量に用意するのだろうか。

考えてなさそうだな。
豊臣がなんで徳川にひねられたかって結局、兵力不足だからね。
関が原の戦い後に全国の知行地をごっそり徳川にまきあげられた。
代官じゃなくて子飼いの大名の知行地ならああはならなかった。

24 :人間七七四年:2024/02/11(日) 10:20:46.54 ID:WLoBBQmV.net
(;´∀`)…うわぁ…

25 :人間七七四年:2024/02/11(日) 14:26:10.39 ID:PBKR81jA.net
>>19
「不屈の両殿」読んでも
島津の動きはようわからん

確か義久・忠恒は
義弘が勝手に西軍についたと批難しつつも

加藤清正からすれば国元でも島津忠長が小西救援して
「お前らも国元でも西軍に味方してただろ」って認識で

26 :人間七七四年:2024/02/11(日) 14:31:35.60 ID:+ozljknV.net
上杉討伐の際に
「上杉殿を説得しますので是非わたくしめをお供させて下され」
とか三成公に言われたら、徳川公は面喰っただろうね。

27 :人間七七四年:2024/02/11(日) 14:55:19.68 ID:m4v6lPM/.net
本来は会津征伐に反対するなら奉行の誰かがその動きをしなきゃいけないんだけどね
秀吉の遺言の一条のさげさやの躰で~っていうのはまさにこういう事態を想定しているのだろう

28 :人間七七四年:2024/02/11(日) 15:08:35.58 ID:l2aCXOL8.net
>>25
確かに清正は11月25日付榊原康政宛の書状で、義久と忠恒は何も知らなかったと言っているが
宇土への後巻として島津忠長や新納忠元らを佐敷表に派兵しているじゃないかと非難してるね


後段で清正は上洛したら前後の様子を直接お話すると息巻いてるが、義久・忠恒は知らぬ存ぜぬ&秀頼のためで押し
通してるし、その後の対応みてもこの点については大した糺明がされてないようだし不問に付されたんだろうな

29 :人間七七四年:2024/02/11(日) 18:49:11.49 ID:TFR1W8AH.net
小西は国許にいる弟の方が頑張ったな

30 :人間七七四年:2024/02/11(日) 18:57:36.65 ID:HssDzPg5.net
清正は庄内の乱で反乱側に通じてた事があるからね
小西救援はその事が尾を引いていたのかも
伊集院氏は降伏したので清正との通謀の新たな証人、書類などを握られてる事を
懸念し小西救援をあまり追及すると藪蛇になりそうなので取り下げたのかな

31 :人間七七四年:2024/02/11(日) 19:10:47.71 ID:FQ45ZjAg.net
清正は島津ぶっ潰したいマンだから島津挑発するわ大げさに報告するわで島津征伐誘発しようとしてる感じよね。
庄内の乱での内情知ってる家康に見透かされてたから大事にはならなんだけど。

32 :人間七七四年:2024/02/11(日) 20:41:09.08 ID:PBKR81jA.net
加藤清正からしたら
隣国に島津家が居座るのは嫌だろうけど

庄内の乱の支援は下手したら内政干渉で
そりゃ大老として家康怒るのもしゃーない

33 :人間七七四年:2024/02/12(月) 01:11:36.52 ID:/fguJb84.net
清正の庄内の乱での行動は理解不能
仲介の労をとるか島津本家に加勢するならともかく反乱側に回るのはわけわからん

34 :人間七七四年:2024/02/12(月) 02:09:27.95 ID:XbIju/hm.net
妄想ですが
梅北一揆の時の遺恨できたとか?

関ヶ原あんまり関係ないが
庄内の乱の際に忠恒の戦下手を
「近ごろの若い者は」と嘆いてた義弘が

関ヶ原戦後処理で領土安堵勝ち取った後は
忠恒の事を「あなたは島津家の中興の祖」と掌返しで持ち上げてるの面白い

35 :人間七七四年:2024/02/12(月) 10:30:19.76 ID:GD9rAHyB.net
宇喜多騒動が家康の陰謀ってのは当時から囁かれていた噂で徳川も秀家の決起理由だと認識してる
豊臣からすれば家康が難癖つけて豊臣の力を削ってる様に見えてたんだろう

36 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:06:15.94 ID:Y44bx6jd.net
初耳

37 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:09:04.34 ID:aqvYImGd.net
毛利も遺領問題で徳川に手を突っ込まれてるんだよな。

秀吉案 毛利秀元>吉川広家>毛利輝元
奉行案 毛利輝元>毛利秀元>吉川広家
家康案 吉川広家>毛利秀元>毛利輝元

そりゃあ毛利輝元は決起するし、吉川広家は徳川に付くわな。

38 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:16:15.00 ID:/fguJb84.net
成り上がりの家が代替わりでゴタゴタするのはよくある話でもある
前田家も利家が死んで利長が継いだが家中が上手く治まらず大阪から国元の戻る羽目になった上に手続きを怠ったために無断帰国の失態を犯してるし

ただ老臣と一門の多くにそっぽを向かれるのは秀家の力不足しかないわ

39 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:22:53.56 ID:/fguJb84.net
そういや豊臣家も成り上がりだったわ
宇喜多騒動と関ケ原は似てるかも

40 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:31:51.96 ID:aqvYImGd.net
>>38
宇喜多については秀家より直家がなあ……。
あんなもん、直家による暗殺の恐怖と秀吉という絶対的な後ろ盾の両方が消えたら崩れるに決まっていると言うか。

41 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:34:07.04 ID:cWnIzAes.net
>>36
看羊録にある記述だね
とても事実とは思えないけど当時そういう風聞があったことは分かる

42 :人間七七四年:2024/02/12(月) 13:47:33.30 ID:/fguJb84.net
>>40
関ケ原の時点で秀家は28歳かな
若いとはいえ唐入りなども経験して分別もあるはずの年齢だし50万石の家の当主としての才覚が発揮できてないのは否めない
まあぶっちゃけ義父の秀吉あっての宇喜多家だったのかもしれんが

43 :人間七七四年:2024/02/12(月) 15:31:40.54 ID:Y44bx6jd.net
>>41
そうなんだしらんかった。

44 :人間七七四年:2024/02/12(月) 17:26:38.02 ID:HfBBOi3c.net
宇喜多秀家って首謀者の割には残っている一次史料が少なすぎやしないか?

45 :人間七七四年:2024/02/12(月) 20:13:13.86 ID:8yIZKnr/.net
けっきょく秀家も輝元もあほだったのかも知れん
大将があほだと勝てん これはもう鉄板理論

46 :人間七七四年:2024/02/12(月) 20:34:50.72 ID:Pi+CWCIM.net
>>44
首謀者をどういう意味で使ってるのか分からんが
秀家が火付け役だったとは到底思えない
史料貼ったでしょ?
処分もなんだかんだ穏便なもので、子孫はいまでも八丈島にいるそうだしなあ

慶長4年に家康が強引に大坂城に入った(すぐ西の丸へ)
追い出されたのは秀家だったが、さて
もうこの段階で家康一強は確定済み
前にも書いたが、各個撃破されると困るというのが決起衆の本音だろう
安国寺長老の動きがポイントなんでしょう

47 :人間七七四年:2024/02/12(月) 21:57:15.81 ID:gxriHx8O.net
結局家康を暗殺するしかないんだよな勝てる方法
まともにやったら絶対に無理

48 :人間七七四年:2024/02/13(火) 02:07:57.50 ID:xT6jbF+M.net
毛利・宇喜多・前田見てると中央集権化ってくっそムズいんやな

49 :人間七七四年:2024/02/13(火) 02:40:06.74 ID:xqkC3IWs.net
>>48
無能と名高い毛利輝元だけど、最終的には中央集権化に成功した点においては評価してもいいと思う。

あれだけ無能を晒した関ヶ原の敗北を利用してるのは釈然としないがw

50 :人間七七四年:2024/02/13(火) 06:39:48.96 ID:D148Nhke.net
中央集権化?

51 :人間七七四年:2024/02/13(火) 08:12:02.50 ID:QrVEDUgk.net
中央集権ってなんですか?

52 :人間七七四年:2024/02/13(火) 08:41:00.94 ID:kdV0zSFV.net
中央集権という言葉は長年研究者の間でも謎とされていて
いくつもの仮説が生まれてきたな
真実がいつか解明される日が来るかもな

53 :人間七七四年:2024/02/13(火) 09:09:17.28 ID:yTzpb/36.net
中央集権って言いたいだけで定義や中身が伴っていない感

54 :人間七七四年:2024/02/13(火) 12:41:12.57 ID:eDIhwuVS.net
>>52
近代の意味の中央集権と言うより、国人合議制からの脱却でしょ。

他の国人への命令権を得るのが第一段階。
いわゆる戦国大名化。
国人を領地から離して家臣として配置できるようになって完成。

その意味では織田家が早かったし、豊臣も徳川や上杉の転封を自由にやり始めた段階で成立。

55 :人間七七四年:2024/02/13(火) 12:42:40.96 ID:g49aE/ya.net
>>54
織田が早い?
とてもそうには見えないが

56 :人間七七四年:2024/02/13(火) 12:54:29.88 ID:PR6M/X4x.net
織田の譜代を畿内各地に配置したことかな
どちらにしろ在地勢力を一度屈服させる必要がある

57 :人間七七四年:2024/02/13(火) 12:59:32.11 ID:g49aE/ya.net
上杉も武田も河田長親や春日虎綱配置してるから別に織田が特別とは全く思わないな
時代も少し違うし

58 :人間七七四年:2024/02/13(火) 13:11:59.13 ID:PR6M/X4x.net
細川三好とかいるからな
秀吉の生前は絶対的だった豊臣も徳川が独立してるし主従の関係は実力と情勢次第

59 :人間七七四年:2024/02/13(火) 13:37:33.22 ID:J1z+7x+0.net
輝元が関ケ原後に中央集権化できてるかってーと支藩独立運動される程度にはできてないちゅう。たしかにましにはなったが。

60 :人間七七四年:2024/02/13(火) 14:24:15.34 ID:FxDLoysD.net
極端に言えば一番いい中央集権化の方法は組織を縮小することだから。巨大組織を個人の力で動かす事は不可能でどうしても慣習や人間関係に縛られる。組織が小さくなれば必然的にリーダーに権限が集約して動かしやすくなる。改易や敗戦で却って中央集権化するのは道理

61 :人間七七四年:2024/02/13(火) 15:12:32.08 ID:64GT64b3.net
ヒデヨシくんは自分で形成した秀次&譜代の中央集権体制を自分でぶっ壊して外様合議にさせてんの草

62 :人間七七四年:2024/02/13(火) 17:56:28.58 ID:kdV0zSFV.net
日本国王:豊臣秀吉 王妃:北政所
神童世子、関白:豊臣秀頼
五大都督:小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家
十亜都督:家康、利家、羽柴秀保、秀秋、氏郷、輝元、平国保、隆景、有馬、宗
(1595年1月7日 明に提出した授職者請願者名簿:小西飛稟帖)

63 :人間七七四年:2024/02/13(火) 21:46:00.09 ID:UbdN1YES.net
>>62
内容自体はそれなりにマトモなんだよなこれ

64 :人間七七四年:2024/02/13(火) 22:21:25.54 ID:fz1KRxiW.net
都督指揮のメンバーは小西と疎遠な加藤清正や黒田長政を差し置いて
石田正澄や身内の小西主殿助や重臣小西末郷が入ってるのが面白い
まあ身内贔屓になるのはある程度しょうがないけど

65 :人間七七四年:2024/02/14(水) 03:20:03.12 ID:K/oDI+38.net
>>63
どこがまともなんだよ
関白が秀次ではなく秀頼になってるし、明らかに武家関白体制を自分たちから否定してるんじゃないか

66 :人間七七四年:2024/02/14(水) 07:30:29.57 ID:5WzqqGmG.net
>>62
こりゃあ福島ら武断派が怒るわけだし、小早川秀秋が東軍につくのも当たり前だ。

しかも秀保はこの年に急死した上に葬儀すら禁じられ、秀秋は領地を没収後蔵入地の名目で奉行衆に奪われている。

67 :人間七七四年:2024/02/14(水) 08:19:02.93 ID:TwmGW2ts.net
五大都督:小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家
と1598年8月28日の輝元、4奉行起請文の5人を合わせた延べ10人
石田、増田は両方名を連ねてるので8人が
1600年7月15日の島津義弘書状の西軍挙兵首謀者グループの
輝元、宇喜多、三成を入れた4奉行、大谷、小西の8人とぴったり一致するね

68 :人間七七四年:2024/02/14(水) 08:20:29.23 ID:K/oDI+38.net
そういえば、明の宋応昌の『経略復国要偏』に「文禄3年(1594年)、小西行長は朝鮮出兵における対明和平工作を担当していたが、その際に秀吉嫡子を『日本国王世子』とし、関白の秀次をその下に置く要望書を明に提出した。行長はこれについて、『関白が秀次なのは動かせなくても、国際的に通用する日本国王を継承するのは秀頼である』と述べた」
なんてあるらしいな。これは小西の独断ではなく、奉行も絡んでいたのかな

69 :人間七七四年:2024/02/14(水) 09:36:42.52 ID:8hTs5cBg.net
>>65
秀頼が産まれた時点で秀吉が秀頼を関白にしようとするのは明らかなので…武家関白制を否定して豊臣公儀は秀吉政権と明らかにしたのは秀吉なんだからその秀吉に仕えてる連中がそこに気を配らない筈がない

70 :人間七七四年:2024/02/14(水) 22:03:46.24 ID:38dqCYoK.net
>>65
この書状が真実だとしてこれは豊臣公儀の問題点があらわれてる。豊臣公儀とは関白が頭領なのか秀吉が頭領なのかという問題が

71 :人間七七四年:2024/02/15(木) 00:40:51.51 ID:fWf6MsFQ.net
あくまで「秀吉が統治するための機構」 であって、朝廷諸官の頂点の関白は朝廷を利用して統治するのに都合が良いから就いただけでそれ自体を秀吉は重視していない。
自ら初めて構築した武家関白制をあっさり崩壊させたのも、政権の根源は自分そのものにあるから秀次が死のうが関白の権威が墜ちようが構わない。
だからこそその秀吉の意を帯する奉行は秀吉を日本国王、秀頼を継承する世子と記す事が出来た。
だが余りに秀吉そのものに依拠したからこそ、秀吉没後豊臣という政体は崩壊する宿命にあった。崩壊を防ぎ完全に秀頼を政権の根源とするには成人した秀頼に直接秀吉が政権委譲をする以外無かったのに、秀吉がそれを待たずに死去したからに他ならない。

秀吉が老衰して無理やり秀頼を任官させた時、まだ幼児でしかないのに後陽成天皇は秀吉に「秀頼を関白にしてよい」と言ったという。直ぐにそれは豊臣側から辞退を申し出たというが後陽成天皇はどういう積もりだったんだろう。

72 :人間七七四年:2024/02/15(木) 01:48:32.39 ID:w29VPCpO.net
老衰の意味すらわかってないのは外国人なんかね?

73 :人間七七四年:2024/02/15(木) 08:02:59.32 ID:sD6zTIuC.net
>>72
幼稚園児でしょう

74 :人間七七四年:2024/02/15(木) 09:37:02.06 ID:puohPCpo.net
長文なわりには論理性がおかしいし

75 :人間七七四年:2024/02/15(木) 10:31:04.38 ID:rQtfP1rz.net
話がやたら長いだけで論旨があいまいなのは痴呆老人の特徴
見た目はじじい頭脳は幼稚園児並ということだろう

76 :人間七七四年:2024/02/15(木) 17:05:46.27 ID:rQtfP1rz.net
Amazonで入手可能な西軍武将最新研究書

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77 :人間七七四年:2024/02/16(金) 04:22:42.63 ID:hLwQ+YoM.net
そもそも秀次事件の後の秀吉はめちゃくちゃだろ
武家関白制を自分から破壊して、自身の独裁制に戻す
しかし自身の寿命を悟ったのか、「西国の侍は伏見に、東国の侍は大坂に詰めて
秀頼を盛り立てよ」とか言い出す
そして「五人の御家老、五人の奉行もこの時定まり候」とあるように、五大老五奉行制の
集団指導体制に移行する

自分が死ぬたった3年で次々と体制を改変してゆく
これじゃ後継体制が軌道に乗らずに崩壊するのは当たり前だ

78 :人間七七四年:2024/02/16(金) 09:36:07.69 ID:b8iTqCkZ.net
公家の関白に拘泥する必要も無かった。関白は朝廷の要職で慣習含めて制約が強過ぎる

79 :人間七七四年:2024/02/16(金) 19:47:16.95 ID:yVulkFDs.net
>>76
アマゾン見てきたらたしかにその値がついているが
なんでこんなにプレミア価格になってんの?

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80 :人間七七四年:2024/02/18(日) 09:57:02.15 ID:vlL/rmmn.net
最近は三成も単なる官僚で天下取りとか家康憎しとか全く無かったという見解が出てる

81 :人間七七四年:2024/02/19(月) 23:12:29.03 ID:hxPGmvTs.net
>>80
三成の書状は完全に無視ですか、そうですか
家康のことを挙兵の後に「彼の仁」なんて書いてる時点で憎しみがなかったとは思えんけどね
まあ、あの書状を見る限りは、細川忠興に対する憎しみ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>徳川家康に対する憎しみ
なのかな

82 :人間七七四年:2024/02/19(月) 23:40:59.80 ID:rb0VRyq1.net
憎しみがあろうがなかろうが、仲が良かろうが悪かろうが、立場によって対立するときは対立する。
例えば東西の総大将である徳川家康と毛利輝元は割と仲は良かった。

明確に敵対した関ヶ原のあとでも「病気したんか?大丈夫か?ワシのお手製の薬送ったろうか?」
「おー、よう来たな。昔話に花を咲かせようや」なんて書状のやり取りがあったとのこと。

83 :人間七七四年:2024/02/20(火) 17:32:44.49 ID:xfqYn0Xj.net
昔話か、AKやみっちゃんの悪口でも言って盛り上がったんかな

84 :人間七七四年:2024/02/21(水) 11:11:23.70 ID:0rEsD3Dk.net
現今の与野党がオフィシャルな政治的立場では対立しても個人的には仲良かったりするようなもんか

85 :人間七七四年:2024/02/21(水) 12:34:50.50 ID:Q682RHFs.net
野党同士のほうが好き嫌いキツそうだもんな

86 :人間七七四年:2024/02/22(木) 03:19:27.34 ID:MQgK9SYI.net
今何かと話題の石丸市長を見ていると、石田三成ってこんなかんじだったんだろうなあと思う。

87 :人間七七四年:2024/02/22(木) 09:53:07.79 ID:sn87H8N7.net
>>86
皮肉にも、その石田三成たる石丸市長のいるところこそ、毛利輝元の本拠地なんだよなあ。

88 :人間七七四年:2024/02/22(木) 11:11:45.30 ID:UILFFKBd.net
>>81
言うほど憎んでる表現か?

89 :人間七七四年:2024/02/22(木) 21:46:36.85 ID:MQgK9SYI.net
>>87
おお、それは盲点でした。

90 :人間七七四年:2024/02/23(金) 15:11:06.37 ID:cUAMCBm6.net
新進気鋭の水野伍貴さんの関ケ原本読んだけど、
白峰説とか否定して、従来説にそった内容だった
うーん おもしろくないなあ
まあ、まじめな研究だから、おもしろい方がおかしいんだろうけど

91 :人間七七四年:2024/02/23(金) 15:56:01.22 ID:4SZeIcOs.net
白峰説は相反する史料をよくわからん理屈つけて排除してようやく成り立つものが多いからな。

92 :人間七七四年:2024/02/23(金) 20:16:39.31 ID:Pp2IRDgi.net
この場合の従来説ってどこまでを指す?

流石に石田三成が主導で関ヶ原で鶴翼の陣で家屋付を迎え撃ったら、
片翼の毛利が動かず戦闘開始後に小早川秀秋が徳川に鉄砲を撃ちかけられて、
裏切って大谷隊の背後から襲って来たので西軍総崩れという説ではないと思うけど。

93 :人間七七四年:2024/02/23(金) 20:17:19.82 ID:Pp2IRDgi.net
家屋付→家康の打ち間違い

94 :人間七七四年:2024/02/23(金) 20:34:24.07 ID:J77bT6EV.net
横からですまんが従来説というのは
@西軍布陣のことと
A西軍瞬殺ではなく一定時間持ちこたえたということだろう
問鉄砲は白峰氏は明確に否定している

95 :人間七七四年:2024/02/23(金) 21:08:51.24 ID:cUAMCBm6.net
さすがに問い鉄砲はないけど、大坂突かれるのを恐れて城出たと
南宮山もやばいと それで先回りしたと
大坂城まで攻めさせて、挟み撃ちとかできなかったのかねえ
宇喜多軍は八千ぐらいだったろうというのは納得
6千5百の福島隊と互角だった 1万7千のわけがない
吉川の手紙をやたら細かく分析してた

96 :人間七七四年:2024/02/23(金) 23:20:06.96 ID:J77bT6EV.net
宇喜多分限帖によると宇喜多秀家領は49万石なので
1万石当たり300人で計算しても1万5千以下で
宇喜多騒動の離反者の穴を浪人で埋めたとしても1万8千はなさそう
8千というのは妥当なところともいえるが、義演准后日記8月15日条に
宇喜多秀家が1万人で出陣し醍醐を通ったとあり別働隊の明石掃部(3万3千石)
が伊勢に先行(8月19日付の戸川宛明石書状)していたので
8千よりはやや多く1万人強位の兵力だった可能性も考えられる

97 :人間七七四年:2024/02/23(金) 23:36:48.40 ID:7MaYl6oq.net
三成と親しく
加藤清正・黒田長政たちに「朝鮮でのお前の指示は無茶苦茶(意訳)」と非難された
寺沢正成(広高)が関ヶ原では東軍でちゃっかり生き残ってるの草ですよ

98 :人間七七四年:2024/02/23(金) 23:42:02.62 ID:4SZeIcOs.net
寺沢はめっちゃ不思議w
がっつり三成派だったのに。関ヶ原でどこで何してたか実は不明とも見たな。

99 :人間七七四年:2024/02/24(土) 05:16:28.33 ID:6kvaFbDq.net
>>94
一定時間とはどれくらいのことを言ってるのかな?
2時間? 4時間?

100 :人間七七四年:2024/02/24(土) 10:02:27.23 ID:P/G2n8T+.net
出て来ている各書状や9月13日までの配置から、白峰氏関係なく下記は確定でしょ。

①小早川秀秋の裏切り(西軍視点)は西軍と東軍の激突前の9月14日。
②南宮山勢には、吉川、毛利だけではなく安国寺や長宗我部にも関ヶ原への「布陣」の連絡なし。

この結果、大垣勢の目的が小早川排除のためか夜陰に紛れて撤退かはともかく、
少なくとも南宮山勢が東軍側面・後方を突くという戦術は共有されていない。

101 :人間七七四年:2024/02/24(土) 14:17:21.60 ID:6kvaFbDq.net
>>100
既に内通している吉川がそんな真似するわけないと思うんだけど……

自分はなぜ大垣城に福原や熊谷、それに秋月ら一部を残して石田らが向かったのかと思う
石田らがいなくなったら最早大垣はおしまいでしょ
ましてや外郭を焼いてるから防御機能も低下してる
何で城に兵力を残さずに向かわなかったんだろ
福原らは捨て殺しにする気だったのかな?

102 :人間七七四年:2024/02/24(土) 20:12:05.03 ID:P/G2n8T+.net
>>101
吉川が内通していることと、南宮山勢になんの連絡も入れていないことは全く別の話。
仮に内通していなくても動けないじゃないかという話で。

普通に考えれば、内通していない場合の南宮山勢の動きはガラ空きになった大垣城の救援に入るというもの。
後詰めたる南宮山勢のそもそものタスクはそれなんだから、東軍の背後を襲ってほしいならそれを伝えておかないと。

個人的には、小早川迎撃説より大垣撤退説のほうが濃厚だと思っている。そちらのほうが動きに説明がつく。

103 :人間七七四年:2024/02/24(土) 21:43:31.78 ID:YbQuKJ0X.net
ここは専門家気取りの気持ち悪いのは数人いるな
少なくとも3人予備軍2人といったとこか
そこそこ史料や研究本などもかじっているのは認めるが
考察力や分析力はお粗末で妄想充満なので所詮架空戦記や3流小説レベルの
便所の落書きをつらつらと長文で垂れ流すんだから
余程する事がなくて暇な無職のおっさんか年金暮らしの爺さんだろう

104 :人間七七四年:2024/02/25(日) 09:57:39.89 ID:84LUK8jy.net
>>103
君には匿名掲示板はまだ早い
インスタグラムにでも行ったほうがいいぞ
LINEは古いらしいしXもダメらしい

105 :人間七七四年:2024/02/25(日) 12:38:36.57 ID:7EQ0Hd/g.net
>>102
大垣撤退ねぇ…、佐和山に後退して戦線縮小、
南下する前田も西進する東軍も佐和山で効率的に引き付ける、
手としてはありうるけど、戦力比率の悪化した第二の大垣にしかならんと思うけどなぁ…、
前田、秀忠合流でしょ、
南宮山毛利は不戦でこそこそ逃げるだろうし。
とりあえず松尾山奪還して、
松尾山・南宮山・大垣ラインで食い止める算段じゃないかなぁ。
垂井赤坂に東軍を押し込めるというかんじで。

106 :人間七七四年:2024/02/25(日) 12:43:20.57 ID:7EQ0Hd/g.net
大垣は5000も籠ってればそう簡単には落ちん。

107 :人間七七四年:2024/02/25(日) 14:06:17.97 ID:htZzH1zh.net
岐阜落とされて大津で交戦中のところを大垣見捨てて瀬田まで撤退すると
佐和山が孤立する

清洲を攻撃するか、せめて岐阜に後詰めしとけばよかったのに
松尾山獲られてあわてて大垣を出て野戦決戦に持ち込まれてる
このへんのセンスのなさよな

108 :人間七七四年:2024/02/25(日) 14:30:02.93 ID:M7587khJ.net
三方ヶ原がよく引き合いに出されるよな
家康を引き摺り出した信玄
三成らを引き摺り出した家康

三方ヶ原の焦点は研究によって堀江城かもしれないと言われるが
何にしても相手を心理的に追い込み出撃させる方法論自体は変わらない

109 :人間七七四年:2024/02/25(日) 18:28:18.83 ID:7qQ6Mldk.net
出されないだろ

110 :人間七七四年:2024/02/25(日) 19:54:23.88 ID:Bl56Oj4g.net
>>105
・南宮山勢に連絡をしていない
・外曲輪(城外陣地)を焼いている≒大垣城に戻すつもりがない
・松尾山を攻撃する割には背後(赤坂方面)への警戒が非常に薄い
・そもそも、城攻めを行うというのに陣地化を行っていない

とても何らかの戦略を持って戦おうとしているようには見えないのよ。

松尾山からの攻撃に警戒しながら撤退中に、赤坂方面からの東軍に追いつかれて潰走したというのが一番自然に見える。

111 :人間七七四年:2024/02/26(月) 09:31:52.78 ID:nVoj+eUV.net
>>110
ああなったらもう佐和山まで逃れてそこで徹底抗戦して後詰決戦しかない
大津城と田辺城は落としてるんだから、後詰は来れるし
大垣城を派手に焼いてひたすら走れば良かったのに
小早川が松尾山から出てくるかもしれないけど、さすがに全て追撃するのは無理でしょ

112 :人間七七四年:2024/02/26(月) 10:54:56.88 ID:p4vtng+z.net
橋陽介は小早川秀秋がどう来たか、そして三成達の逃走経路に注目してる。つまり三成達は既に佐和山が落ちてるか少なくとも窮地にあると思ってたという
三成は集められるだけの戦力を大垣に集中させたので反面他の拠点は手薄になってたはず。現実佐和山には石田軍二千人程度しかいなかった。そのど真ん前を小早川軍が何もせず通過してきたとは考え難い。だから佐和山への再結集が選択肢から消えていたんじゃないか
三成らの戦略は「まず松尾山の小早川を後退させる」「攻めてくる東軍先手衆と戦争して損害を与える」「膠着状態にしてから佐和山の状況を確認する」とこんなところだったんだろう

113 :人間七七四年:2024/02/26(月) 11:05:33.07 ID:GBAj6WPT.net
>>110
好意的に解釈すると、松尾山を東軍方が抑えると
南宮山はいつ退路を絶たれてもおかしくない状況になるわけで、
ついでにいうと大垣・南宮山の西軍は近江佐和山方面への連絡が絶たれかねないのと同時に山中村の大谷らも壊滅の危機となる。
早急に対応するしかないので大垣から主力をもって
松尾山の秀秋を撃滅し、そのまま松尾山に布陣。
松尾山、南宮山、大垣のラインで東軍を垂井赤坂に封じ込める。
大垣を放棄するわけではないので守備隊5〜7000残してるし、
南宮山部隊への連絡もしなかった。
南宮山は西軍方と認識してるので垂井方面から東軍の進出があれば側面攻撃するだろうと思っていた。
こんなかんじかな、好意的解釈すると。


どのみち南宮山毛利不戦と前田、秀忠到着すれば
西軍に勝ち目はない。
ワンチャンあるとすれば伊勢部隊、瀬田守備隊、大谷らが到着した時点でなにかしら動くくらいしかないと考える。
鳶ヶ巣山砦奇襲みたく、虚空蔵山北方占領とかすれば面白かったかも。

114 :人間七七四年:2024/02/26(月) 11:24:12.02 ID:fnj7Pw0E.net
家康が来た以上は輝元出馬での決戦しか西軍にはもう手がないでな。
手がないっていうか元々いずれはどこかで決戦しなくてはいけない構造だから輝元と合流するために後退するのは軍事行動としてごく自然。

115 :人間七七四年:2024/02/26(月) 11:33:42.25 ID:1I9qWmIX.net
家康赤坂着陣でそれまで赤坂にいた軍勢が元々一部の兵が駐屯していた
南宮山近くの青野ヶ原まで進出したからね
東軍に察知されないよう移動しないと山中、関ケ原方面に先回り出来ない

山中村から中山道沿いに退却するにしても難所の今須峠を越えるまでは
細道が続き大軍が一気に退却するのは不可能
未明に西軍移動をしった家康が即座に先手衆に追撃命令を出したのも
おそらくそのことを考慮に入れてかと

116 :人間七七四年:2024/02/27(火) 13:13:01.23 ID:7vNv9Xic.net
シンプルに赤坂と大垣で正面決戦じゃあかんかったのか?

南宮山勢到着時は西軍のほうが多いわけだし、家康到着で逆転したとは言え、
東軍7万人対西軍6万人ならほぼ互角と言って良い兵数差。

117 :人間七七四年:2024/02/27(火) 15:05:17.63 ID:ChvA4f3h.net
>>116
そういう判断が出来ない子なんです


「おまえは頭はいいが勇気が足りず決断できない、
あとみんなおまえのこと嫌ってるからしゃしゃり出ないで裏方やってろ」
ってわざわざ友達が言ってくれてるのに無視して失敗してる男、
それが三成

118 :人間七七四年:2024/02/27(火) 17:27:15.06 ID:ojiLwreJ.net
>>117
三成はお前の百倍有能だけどな

119 :人間七七四年:2024/02/27(火) 21:23:02.21 ID:Om2Cd8Zc.net
今更だけど、田辺城を攻略する必要ってあったか?

120 :人間七七四年:2024/02/27(火) 21:23:05.45 ID:Om2Cd8Zc.net
今更だけど、田辺城を攻略する必要ってあったか?

121 :人間七七四年:2024/02/27(火) 21:30:51.39 ID:/N/AHHe5.net
人の上に立ったことのない奴がいくら批評しようとね…

122 :人間七七四年:2024/02/27(火) 23:48:26.88 ID:GwEP4p1L.net
ここのレベルもだいぶ落ちたな

112:高橋本だけしか読んでない受け売り馬鹿
113、114:架空戦記、ゲーム脳レベルのバカ
115:長文知ったかバカ、こいつのせいで1日過疎った
116:シンプルイズベスト馬鹿、脳が弱く複雑なことは考えられないだけ
117:ソースが大河ドラマか小説の身の程知らず馬鹿
118:三成はおろか117以下の身の程知らず馬鹿パート2
119、120:二重投稿する電子機器に慣れてないアナログ結果論認知症爺
121:自己紹介乙の一人ブーメランバカ

123 :人間七七四年:2024/02/27(火) 23:58:28.62 ID:wCl5z+Bg.net
age単発は同一人物ということか

124 :人間七七四年:2024/02/28(水) 00:04:52.70 ID:TyUxgPAR.net
>>122
>>も使えない御新規さんようこそ

125 :人間七七四年:2024/02/28(水) 08:26:03.23 ID:Z3JXmvwy.net
>>123
それ思い込みやで

126 :人間七七四年:2024/02/28(水) 08:49:08.94 ID:ziq5NqMH.net
>>116
赤坂は野戦築城で陣城化されてる。
これを正面攻撃しても不利なだけ。
賤ヶ岳の柴田本隊や長篠の武田に近くなる。

127 :人間七七四年:2024/02/28(水) 08:50:52.01 ID:ziq5NqMH.net
同じく東軍も数万が籠ってる大垣攻城しても損害が累積するだけ。
正攻法では対峙睨み合いとなる。

128 :人間七七四年:2024/02/28(水) 22:18:25.20 ID:0tjhAB48.net
>>121
三成の場合、人の上に立ったといっても、あれは秀吉の威光があったから、だしな
秀吉がいなくなったらああいう結果になったし

129 :人間七七四年:2024/02/28(水) 22:21:12.65 ID:0tjhAB48.net
>>113
秀忠の軍勢は中山道から強行軍を重ねてきたから、すぐには使えないだろう
前田の軍勢は数がどれくらいくるかだが

130 :人間七七四年:2024/02/28(水) 22:23:15.44 ID:0tjhAB48.net
>>119 >>120
昌幸宛三成書状
「長岡忠興の糞野郎に遺恨がある」
「忠興の親父幽斎は流罪にした」

三成の鬱憤を晴らすためには意味がありました

131 :人間七七四年:2024/03/01(金) 09:11:46.94 ID:TK3J1r2R.net
ただでさえ食糧の足りない大垣は松尾山取られたら終了だから絶対に看過できない。しかし西軍は大垣に人を集め過ぎて他の拠点は殆どノーガード
本来なら輝元が来ないといけないけど家康が来るという確信が無ければやってこれない上にもう降参ムード
三成にはどうしようもないよ。詰んでる

132 :人間七七四年:2024/03/01(金) 10:14:00.16 ID:dhOI/kJ1.net
勝算は乏しいけど、大垣は捨てて佐和山に撤退
そこで田辺、大津、伊勢の西軍に後詰させて決戦するしかないと思う
あるいは瀬田で対峙して、持久戦に持ち込む
少ししたら冬になるし

133 :人間七七四年:2024/03/01(金) 11:27:05.37 ID:i7Qm4quN.net
>>132
よく佐和山佐和山言われるけど、そこって三成の居城というだけで別に戦略的には価値なくね?
大垣よりも人数入れられないし、そもそも抑えを置かれてスルーされたら何も出来ない。

134 :人間七七四年:2024/03/01(金) 11:56:57.79 ID:Gyrt3r9G.net
普通に近畿防衛における中山道の要所でしょ。
抑えつけられてスルーされても抑えの分が目減りした東軍と大坂本軍の決戦になるだけだから損するわけじゃないし。
それでうまくいくか勝てる勝てないかみたいな話だったら岐阜城瞬殺でほぼ詰んでる状態だから語るのは無意味

135 :人間七七四年:2024/03/01(金) 12:43:20.85 ID:vcOAHJJC.net
現代人は結果が分かってるから勝った方が必勝で負けた方は必敗だった的な考察を書くのは誰でもできる簡単な作業

136 :人間七七四年:2024/03/01(金) 12:47:34.88 ID:CJYTgMSf.net
岐阜落城で毛利は和睦に方向転換し京極は大津籠城に向かった

137 :人間七七四年:2024/03/01(金) 13:20:09.54 ID:dhOI/kJ1.net
>>135
岐阜城が落ちた時点でどうやっても西軍が巻き返すのは難しい

138 :人間七七四年:2024/03/01(金) 13:36:02.92 ID:vcOAHJJC.net
>>137
それって貴方の感想ですよね

139 :人間七七四年:2024/03/01(金) 13:38:51.66 ID:CJYTgMSf.net
>>138
当時の毛利と京極も思ってたよ

簡単な作業と思ってるのも貴方の感想
感想はバンバン書いていいよ

140 :人間七七四年:2024/03/01(金) 13:44:05.10 ID:vcOAHJJC.net
現実はやってみないと分からないことばかりだからね
そういう後知恵考察は個人的に嫌い

貴方の人生だって分からないことばかりでしょ?

141 :人間七七四年:2024/03/01(金) 13:54:22.21 ID:dhOI/kJ1.net
岐阜城が落ちた時点で巻き返す方法があるなら、>>140の貴方が挙げてみたらいいと思うよ
何かそんな方法がある?
頭がよさそうだから良い案が浮かびそう

142 :人間七七四年:2024/03/01(金) 14:01:28.90 ID:vcOAHJJC.net
>>141
戦いは始まる前から勝敗は決まってる
これを否定するつもりはないが、関ヶ原は結局小早川が全て
小早川が西軍ならどうなってたかなんて想像の押し付け合いでしかない
負けた方は後知恵により後から敗因をいくらでも付加されがち

143 :人間七七四年:2024/03/01(金) 14:28:52.21 ID:xpzSbf0t.net
岐阜は大垣も佐和山も自在に狙える拠点となるのでそこを失ったのは痛い。ただそれ以上に「徳川軍は来ない」と踏んで西軍15万の兵力を北に7万伊勢に3万振った直後っていうタイミングの悪さが痛い。まぁ家康に見透かされてたんだろうが
三成や広家が主張した様にもっと美濃に兵を置いておくべきだった。ここから巻き返すなら大坂の輝元が豊臣軍率いて大垣付近に展開するしか無い
それでも徳川には勝てない可能性が高いけど。将としての器が違い過ぎる

144 :人間七七四年:2024/03/01(金) 14:42:11.80 ID:i7Qm4quN.net
>>134
それで言うなら岐阜城や大垣城のほうがよほど要じゃないの。
佐和山城は山城の性質として、街道の監視は出来ても封鎖はできない。
しかも近江にかなり入りこまれて東軍が展開できるスペースを与えてしまうことになる。

その役目なら、米原をガッチガチに固めないと意味がないのよ。

145 :人間七七四年:2024/03/01(金) 14:49:58.82 ID:dhOI/kJ1.net
別に小早川が寝返らなくても問題ないだろ
小早川が寝返って早期決着になったのは事実だけど
小早川が仮に寝返らずにそのままだとしても、あのままなら大垣城が兵糧枯渇して
西軍はやはり城から脱出して佐和山か瀬田を目指すしかないと思う

関ヶ原のあたりは雪が降るから、多少持ちこたえたら自然休戦になる可能性もあるし

146 :人間七七四年:2024/03/01(金) 15:14:29.66 ID:vcOAHJJC.net
>>145
3行目以降は貴方の想像でしかないのでふーん、という感想しか湧いてこない

147 :人間七七四年:2024/03/01(金) 15:51:53.45 ID:Gyrt3r9G.net
これといって知識や構想は持ってないけどなんとなく納得いかないから噛みついてみたい

148 :人間七七四年:2024/03/01(金) 17:10:47.89 ID:O3T+wPAP.net
>>138
今どき馬鹿ゆきの
真似は恥ずかしいぞ

149 :人間七七四年:2024/03/01(金) 17:25:03.99 ID:pbs1/dcw.net
後知恵考察の方が恥ずかしい

150 :人間七七四年:2024/03/01(金) 17:25:14.54 ID:vcOAHJJC.net
後知恵考察の方が恥ずかしい

151 :人間七七四年:2024/03/01(金) 18:55:09.84 ID:rXEhvd9U.net
あーあ
壊れちゃった

152 :人間七七四年:2024/03/01(金) 20:01:18.42 ID:YDUEQYes.net
後知恵というよか岐阜取られた時点で戦略的にかなりキツいのは当時からも言われてるし
退くにしてもどこに退けというのか

153 :人間七七四年:2024/03/01(金) 20:03:36.31 ID:0F1OXds3.net
岐阜陥落後にどうするかじゃなくて、
岐阜が落ちないような作戦を指向するのが一番。
犬山も西軍が押さえて第二次小牧長久手やる布石は敷いてる。
で、なぜ岐阜が落ちたかというと兵力が足りなかったから。
伊勢制圧は構わんが、不必要な大軍を投入して
肝心の美濃尾張戦線が崩壊した。

154 :人間七七四年:2024/03/01(金) 20:05:25.78 ID:0F1OXds3.net
秀元が伊勢制圧にごねて伊勢制圧が数日遅れたのも結果としては痛かった。

155 :人間七七四年:2024/03/01(金) 20:15:10.63 ID:q0wkEcZ3.net
8月22日付秋田実季佐々正孝書状
「岐阜之事も中納言殿無人にて御座候間、日数五十日と被相抱候事成間敷と風聞候事」

岐阜には人がいないのでと東軍側の人間も言ってるからなあ
それでも50日は保つだろうとの見立てをしてるからまさか一日で落ちるとは誰も思わんよね

156 :人間七七四年:2024/03/01(金) 21:25:22.89 ID:YDUEQYes.net
美濃口二万五千七百人
ただしここには島津(軍役上五千人だが一千人程度)がいるため実際には二万人
これでバックに徳川がいる東軍先手衆と戦うのはキツ過ぎる。輝元は家康が伏見を助けなかったのを間違った受け取り方したのか

157 :人間七七四年:2024/03/01(金) 21:45:11.51 ID:i7Qm4quN.net
伊勢攻略はなんら間違っていないと思うが。
中山道と共に東海道を抑え、尾張を直接狙える状況にする事ができる。

他の人も言ってるけど、岐阜城の落城があまりにも早すぎた。
実際に孤立無援で2000人を切るような伏見城や大津城で1~2週間は保っているわけで。

一応は堅城と言われた岐阜城で6000人の兵力、加えて大垣城や犬山城にも兵がいる状況において、
たった2日で岐阜城が落ちて犬山城が孤立して大垣城が赤坂まで占領されると予想するのは難しい。

158 :人間七七四年:2024/03/01(金) 22:47:42.14 ID:B1acCr0d.net
スレが荒廃しそうになったとたん急にハイレベルな書き込みのラッシュで
持ち直したなw
ガチ勢のお出ましか

159 :人間七七四年:2024/03/02(土) 08:01:06.98 ID:W0BKy/dx.net
岐阜に五千、大垣に一万五千で対する東軍が三万五千とかだから何が出来るって話になる
秀信も増援が無い事は知ってたろうしそうなるともう絶望的

160 :人間七七四年:2024/03/02(土) 08:56:01.50 ID:1NqbwScg.net
>>159
攻城戦だと10倍近くの兵数差はよくあり、それでも1週間程度は保つのが普通。

犬山城含めて2万と3.5万、数日待っていれば宇喜多隊が合流してほぼ同数という状況で、
大垣勢を待たず突出して野戦を仕掛けて6000の兵をほぼ壊滅させて、
岐阜城の兵がほぼない状況で救援の大垣勢が各個撃破蹴散らされた挙げ句、
宇喜多合流で瞬間的に兵力が上回った(しかも陣地化がまだ)時点で赤坂の奪還をせず固められ、
南宮山勢が到着して、やはり一瞬兵力が上回ったときも何もせず。

勝つきないだろ?

161 :人間七七四年:2024/03/02(土) 09:52:16.08 ID:i6EuMYC1.net
上回ったといっても瞬間風速的なもので当時からすりゃわからん。東軍は真田信幸経由で備口人数書を手に入れてたからある程度アタリはついていて後は答え合わせで戦略を決定出来ただろうが
西軍には東軍の人数がわからんから一から情報収集しないといけない。結局それも十日は覚悟しないといけないだろうから万全を期せば間に合わない。「東軍の数は少ないはずだ!」で投機的決戦を仕掛けて大敗したらそれこそ一大事だし

162 :人間七七四年:2024/03/02(土) 11:28:06.81 ID:ubheDL2j.net
>>157
主攻方面を間違えてるという問題。
伊勢制圧が良い悪いの問題ではない。

163 :人間七七四年:2024/03/02(土) 11:31:53.59 ID:ubheDL2j.net
小牧長久手でも秀吉も主力を伊勢には送っていない。
主力は尾張美濃、助攻として伊勢。
長島が簡単には抜けない以上伊勢に主力送るメリットは小さい。

164 :人間七七四年:2024/03/02(土) 12:54:09.15 ID:1NqbwScg.net
>>162
そもそも史実だって兵数的にも伊勢は助攻でしょう。

本来なら、関ヶ原の戦いが起きたあたりの時期に、ようやく美濃(岐阜城)での本格的後詰め決戦という状況。
その時に伊勢が西軍か東軍かはえらい違いだよ。

石田三成が8月中旬まで清洲城を交渉で寝返らせようなんてバカなこと考えずに、
最初から尾張を力攻めというなら伊勢にいかず全力で清洲城が正解だったかもしれんが。

165 :人間七七四年:2024/03/02(土) 14:18:19.08 ID:i6EuMYC1.net
清洲を力攻めにしたところで落とせる訳ないから
石田三成が大垣についたのは八月十日だけど十四日には清洲に福島正則らが入城して三万人近くが配備されてる。つまり神の視点をもってしても四日しか余裕が無い
その視点を除いて考えても清洲ほどの城を美濃口二万人の総勢で攻めて落とせる訳ないしそうしてる内に東軍先手衆が後詰にきたらそこで決戦になる。犠牲者次第だけど美濃方面軍は致命的な打撃を受ける事は避けられない。下手すりゃ佐和山まで全部東軍の手に落ちてジエンドよ。そんな博打は打てない

166 :人間七七四年:2024/03/02(土) 15:29:02.73 ID:1NqbwScg.net
>>165
その場合は伊勢攻略をしない前提だから西軍の数は2万人じゃなく5万人、
いや、大津城の京極が離反前だから毛利元康や立花らも参加できて6.5万人だよ。
加えて岐阜城と犬山城が健在だから7.5万人ほどになる。

ただし、伊勢から近江を直接狙われる危険が常に付きまとうし、
西軍7.5万人で城に籠もる東軍4万人を簡単に短期でどうこうできないから結局持久戦。

ならば史実通りに伊勢、美濃を抑えて尾張を圧迫するほうが合理的。
……岐阜城がたったの2日で落ちなければな。

167 :人間七七四年:2024/03/02(土) 16:01:29.21 ID:1tPSiwiE.net
だいたい徳川を政権から弾劾した時点で
上杉討伐軍が家康から離反して帰洛するか、そのまま徳川討伐軍になる予定だったんだろうから
そうならなかった時点でだいたい詰んでるよね

168 :人間七七四年:2024/03/02(土) 16:47:27.57 ID:oYtJqfTp.net
>>166
岐阜が落ちるのは仕方が無い。秀信は三成との会話で西軍の初期配置を知ってしまってるんだから
後詰が絶対来れない状況だから打って出るしかないわ

169 :人間七七四年:2024/03/02(土) 20:53:13.78 ID:ubheDL2j.net
>>164
秀元吉川安国寺長束で伊勢制圧するなら
鍋島長曾我部は美濃に送れよってことよ。
伊勢制圧が10日遅れても構わない。
鍋島長曾我部が犬山岐阜に詰めてるだけでも
おそらく結果は変わってる。
これで膠着化できればあとは小牧山先に占領した方が
尾張美濃戦線は有利になる。

170 :人間七七四年:2024/03/02(土) 21:43:43.20 ID:w4f4k1Ku.net
輝元が美濃を軽視したのが間違いのもと

171 :人間七七四年:2024/03/03(日) 03:25:59.91 ID:QCjHjxZj.net
そもそも西軍は満を持しての決起でもないからな
戦略にも多くの保険かけるだけの余力もない
毛利的には岐阜が簡単に早く落ちる想定はしてない
そもそも岐阜城がこれだけあっけなく落ちるなら西軍蜂起してないやろな

172 :人間七七四年:2024/03/03(日) 14:46:24.13 ID:fzE8TkFG.net
岐阜ってそんな大した城でもないし輝元の見込みがおかしい

173 :人間七七四年:2024/03/03(日) 15:47:52.83 ID:bQ1mnY10.net
大した城じゃなくても西軍側の前線になろうかという城があっけなく落とされるのが都合が悪いんよ

174 :人間七七四年:2024/03/03(日) 18:25:51.39 ID:m6oU/6O2.net
家康すら来てないのに岐阜城瞬殺なんて異常事態を予見するのはまぁ無理だろうなぁ

175 :人間七七四年:2024/03/03(日) 19:28:34.92 ID:fzE8TkFG.net
岐阜城の性質考えたら美濃口にもっと兵を置くか迅速に陣地変え出来るようにしとかないと徳川に攻められたら下手すると寝返るのがでるだろう
三成は僅か一万五千でよく守ったというべきじゃないか

176 :人間七七四年:2024/03/03(日) 21:40:22.04 ID:1JhKnwZX.net
>>172
一応はかつての斎藤・織田の居城として堅城と名の通った城なわけで、
西国の輝元に実は大したことがないと分かれというのは無理がある。
自身の少し前までの居城、吉田郡山城くらいには耐えられると思うだろ。

これが例えば元城主の池田輝政に弱点を突かれて落城とかならまだわからなくはないが、
自分で野戦に出て将と兵を失って、各口に配備する兵が数百しかない状況に陥って陥落とか予想できるわけがない。

177 :人間七七四年:2024/03/03(日) 21:48:28.16 ID:1JhKnwZX.net
>>175
守った?いったい何から何を守れた?

1万5千ってことは宇喜多到着前、岐阜城陥落時の話だろうけど、
岐阜城は守れないのはまだしも、あっさり川を超えられて赤坂まで一気に攻め込まれてるじゃん。

長良川、せめて揖斐川のラインは守らないと大垣城は死に城になってしまうわけで。

178 :人間七七四年:2024/03/03(日) 23:15:53.76 ID:Q0rntk1+.net
三成佐和山引退の1599年閏3月10日に三成が無事佐和山に下って行ったことを
心底喜び今後も三成と進退をともにするといった意味の家臣宛書状を書いている
大の三成党の織田秀信の岐阜城を落とされ秀信も高野山送りとなったのは
余りにも痛いよな

三成と秀信の交流は史料の上では病勝ちの秀信が真田信之領に湯治に行くことになり
その際に三成と信之が親友であることをしっている秀信が
三成に便宜を図ってくれるよう依頼し三成が信之との間を周旋した
ことくらいしかわからない。

179 :人間七七四年:2024/03/03(日) 23:53:48.07 ID:Xjh7KT+E.net
慶長4年閏3月10日付瀧川周善軒宛織田秀信書状に三成と進退を共にするなんて文言あったか?

・「爰元無異儀相済、今朝治少澤山へ罷下候」
・「山之番之義、其外町口々之事、丈夫ニ申付候由尤候」

この二点のことしか書かれてないと思うけど
無事に済んで安堵したくらいのニュアンスで、秀信が心底喜んでるというのもここからは読み取れないね

180 :人間七七四年:2024/03/04(月) 09:44:38.54 ID:USAt2x8M.net
>>177
敵は約四万だぞ(正確には三万四千程度だがそこまでわかるわけない)大垣に集めた一万五千は美濃方面軍のほぼ全員な訳で敵はその倍以上いる
下手打てば美濃方面軍は壊滅して西軍はそこで終わってた訳だからまぁよくやった方じゃないか自軍の倍以上の敵相手でしかも狙うべき大将も居ない中で

181 :人間七七四年:2024/03/04(月) 10:17:38.47 ID:1USbQxTn.net
>>180
結果としてはよくやったとも見れるけど、
東軍が赤坂で留まらず、
赤坂辺りに大垣への抑えの部隊を残し佐和山進軍していた場合、
西軍の部隊配置上、佐和山まで陥落して
8月中に関ヶ原終わってた可能性もある。
無謀な突進に見えるかもだが、
京極と小早川秀秋の存在があり、
近江進軍は逆に東軍兵力が増える。

182 :人間七七四年:2024/03/04(月) 11:25:51.87 ID:yUQr9IX3.net
>>180
それを言うなら、西軍も大垣1.5万、岐阜6千、犬山5千の2.6万だし、宇喜多も近くまで来ているのに待たずに自滅。
秀信のせいとはいえ、味方の位置も把握できず戦端開いて立て続けの潰走でどこがよくやったというのか。

しかも、東軍が大垣からの救援の対応に長良川方面に割いたのは1万程度だぞ?
それを抜けなかったのは待ち構えるほうが有利だから仕方ないとして、
赤坂まで潰走して占領されるってどういうことよって話で。

183 :人間七七四年:2024/03/04(月) 11:37:13.80 ID:USAt2x8M.net
>>182
まず宇喜多は計算に入れられない。そもそも宇喜多軍は伊勢口の担当だからいつ来るか何人来るかもわからない。当てにはならないし実際間に合わなかった
そんで竹ヶ鼻取られた時点で実は大垣詰んでるのよどこを通って行軍しても福島隊約一万五千の強撃を受ける。福島と戦うだけでも大垣を空にしないといけないのにその上岐阜の後詰なんて無理。せめて秀信が池田輝政隊迎撃を成功させていればだけど。こうなったら守る以外なんかあるか状態

184 :人間七七四年:2024/03/04(月) 13:45:50.61 ID:yUQr9IX3.net
>>183
味方がいつ来るか何人来るか、それも1週間後ならともかく2日後には到着しているレベルのことすらわからないなら、
敵の動向なんかもっとわからんだろ。そんなの戦う以前の問題だわな。

岐阜城に突然何万もの敵が現れました、驚いて突撃しました、壊滅しました。
慌てて状況もわからず岐阜に向かいました、待ち構えられて撃退されました、
なんの備えもしてないのに渡河をされて大垣城の首元まで迫られました。

三成達は戦の素人かな?

185 :人間七七四年:2024/03/04(月) 14:54:14.13 ID:USAt2x8M.net
三成達にとって何が最悪なのか逆算すればいい。それは大垣が落ちることじゃないか?大垣には一万五千しかいない。東軍は三万から四万。最悪のシチュエーションは「岐阜を後詰しようとして迎撃されて失敗、大垣も落とされてました」これを避けるなら大垣に人を置くしかない。てなると後詰は絶望的になる。出せる兵は最大で一万程度で現実的には四千人居ればいい方。つまり実際の数値は西軍九千対東軍三万四千
これは無理。じゃあ一か八か美濃口が空になる覚悟で大博打うつか?ってそんな度胸は出せないだろ、精々アリバイの為後詰送って後は大垣を守るしかできん

186 :人間七七四年:2024/03/04(月) 14:56:59.62 ID:kzl/Y8l5.net
またお前か…

187 :人間七七四年:2024/03/04(月) 15:18:21.17 ID:/z0jBQrb.net
三成に劉備くらいの人望あればねぇ・・・秀吉子飼いの武将で豊臣割った張本人ですやん。ハブられた末路

188 :人間七七四年:2024/03/04(月) 15:30:53.00 ID:yUQr9IX3.net
>>185
いや、その最悪のシチュエーションを見事にやらかしてるじゃん。
アリバイの後詰めなら、大垣守るために渡河阻止の準備くらいしておけよと。

大垣城が落ちてないのは、福島らが榊原に流石に窘められて一旦赤坂で足場固めしたからで、
良くて大垣落城、悪けりゃそのまま関ヶ原ぶち抜かれて近江までなだれ込まれてたわけで。

しかも、さっきからなんで東軍は来ている全軍、西軍は細分化していってるのさ?
少数の三成が勝てない戦いを頑張った!悪くない!って言いたいだけでしょ。

189 :人間七七四年:2024/03/04(月) 16:24:21.25 ID:JDozK/uC.net
榊原は秀忠付きだが井伊、本多ということかな
大垣、佐和山を攻めず赤坂で対陣し軍事行動停止した事情は一次資料がなく不明
8月27日書状の家康の停止命令が届いたのは9月初旬だろうし

190 :人間七七四年:2024/03/04(月) 16:32:54.65 ID:USAt2x8M.net
>>188
東軍は細分化する意味が無いからな。西軍は大垣、岐阜と守るべき拠点が二つあってここに守備隊を置かない訳にいかない。だから守備隊の分数は減る。当たり前だよな
東軍はそういう背景が無いからどうでも動ける。極端な話岐阜を攻撃して逃げても良いし適当に囲んで大垣を叩きに行ってもいい。西軍にこいつらを割る方法は無いから。だから難しい局面なんだろってコト

191 :人間七七四年:2024/03/04(月) 20:31:25.03 ID:1EfLt4Cv.net
>>185
三成の西軍内での地位や立場が不明だから「何が最悪なのか」分からんでしょ
数的不利&渡河阻止失敗の時点で大垣に籠り続けるのは敵中孤立のリスクが増すばかりの悪手に見えるけど、当時の三成の立場上死んでも大垣以西に撤退できんかったのかも知れんし

192 :人間七七四年:2024/03/05(火) 01:30:17.15 ID:RKjr0fU2.net
犬山見捨てて大垣からの撤退などありえん。

193 :人間七七四年:2024/03/05(火) 08:26:26.33 ID:V7f+ql2H.net
三成の預かり知らぬ事だし三成の責任でもないが八月初頭の時点で犬山が東軍に寝返ってるのもキツい。当初の木曽川で東軍を防ぐ戦略が早くも破綻している

194 :人間七七四年:2024/03/05(火) 11:27:21.71 ID:RKjr0fU2.net
>>193
明確に東軍に加担しようとしてるのは加藤だけでしょ、
他は日和見勝ち馬ライダー勢で。
最後の大垣城守備隊もそうだし、
戦況不利と見ると岐阜に戻らずどっか行っちまった佐藤もそうだし、
西軍優勢なら素知らぬ顔して西軍ヅラして居座ってる連中。
まぁそれが悪いとは言わない。
小身連中の処世術だし。

195 :人間七七四年:2024/03/05(火) 12:15:49.22 ID:O38UrY/t.net
上有知城主佐藤方政は7月22日の新加納の合戦で奮戦しているし
一説には翌日岐阜城搦手で戦死、実際は岐阜城より落ち延び
大坂夏の陣で豊臣方に加わり戦死してるので
(清泰寺文書)(飛州志)(佐藤金森由緒書)(佐藤系図)
他の風見鶏連中と一緒にするのは酷では

196 :人間七七四年:2024/03/05(火) 13:54:45.23 ID:TBw9N2jo.net
>>195
それはっきりしてないように思うんだけどなぁ、
後詰配置されてたのに戦闘もせずどこかに行ってしまった説をわたしは見てるけど。

197 :人間七七四年:2024/03/05(火) 14:13:15.06 ID:lU3iQe7w.net
>>194
一枚岩じゃない事が既にキツくないか?
大久保長安の八月二十一日書状だと犬山城の守備隊には家康からの朱印状が出されて実質的に降伏してる。ただでさえ東軍の大軍がやってくる時に犬山が降りてるのは割とマズいと思うが。まぁ三成にはどうしようもないが

198 :人間七七四年:2024/03/05(火) 15:36:56.06 ID:nmcW9qa/.net
そもそも徳川家康と毛利輝元では、人間や経験、力量が違いすぎると思うが
当時の人々に家康と輝元は人間の面では互角という認識でもあったのか?

199 :人間七七四年:2024/03/05(火) 15:57:32.65 ID:qi3S1g7J.net
ないだろうな

200 :人間七七四年:2024/03/05(火) 16:10:15.30 ID:avt0dbpm.net
秀吉の家康と輝元の評価が雲泥
徳川家と毛利家の家格ならタメを張れるだろうが当主の扱いが違いすぎというか家康が飛び抜けてる

201 :人間七七四年:2024/03/05(火) 16:21:04.24 ID:e7Vjm0CR.net
そういう一頭地を抜く存在を嫌ったから家康を排除しようとしたんだよ
だから輝元が奉行が手を組む相手としては適任

202 :人間七七四年:2024/03/05(火) 20:31:00.51 ID:f8E6Gd7B.net
>>191
少なくとも大垣を取られたら死。岐阜を取られたら致命傷。これはもう間違いない。それで自軍の倍以上の敵を相手に大垣を取られる覚悟で岐阜の後詰なんて狂ってる。そもそも後詰しようと渡河したところを強撃されたらお終いだし

203 :人間七七四年:2024/03/05(火) 22:14:12.85 ID:a9FWB9/A.net
大垣勢の岐阜救援があまりにのろくぬるいのは単純に岐阜城が瞬殺されるとは思ってないからだろね。
岐阜城が囲まれてる間に味方集合させて犬山城とも連携して後詰戦術。それまでは牽制で兵出して側面援護。みたいな常識的な戦術とったら岐阜城瞬殺で瓦解。
岐阜城が1日で落ちるの知ってる後世の人間だから三成何とかならんかったの?と思うけど

204 :人間七七四年:2024/03/05(火) 23:17:33.50 ID:tNvAso76.net
>>202
逆だよ。
岐阜を取られたら大垣にはなんの価値もない。
それは織田と斎藤が戦った時代から変わらぬ事実。

岐阜城が落ちた時点で、美濃(大垣)から撤退して近江で迎え撃つ体制整えるしかない。

205 :人間七七四年:2024/03/06(水) 08:02:35.59 ID:p7GcBX2B.net
>>203
単純に兵力が無いから助けたくても助けられなかっただけ。三成は2回後詰の軍を出してるけど兵が少なく過ぎて合戦すら出来ず2度目に至っては逆にボコられて大損害被ってるから

206 :人間七七四年:2024/03/06(水) 08:59:39.46 ID:vohzO2kf.net
>>205の言うようにとにかく兵力が少ない。
戦力配分の戦略が間違ってる。
以前にも言ったけど、大垣はすでに南濃方面の東軍への対応もしてるし大垣自体も危険な状況。
そこでさらに岐阜へ後詰とかまともな兵力が出せるわけがない。

207 :人間七七四年:2024/03/06(水) 09:03:17.24 ID:vohzO2kf.net
南濃方面進攻してきた市橋・徳永らへの対応ね。
大垣も余力はあまりない。

208 :人間七七四年:2024/03/06(水) 11:46:06.87 ID:yFQ/kES0.net
>>188
負けたから三成は無能!っていう単細胞的思考ではなくて何故負けたのかを考えてみて
三成ら美濃口は総員二万人で対する東軍が三万四千という兵力差、川さえ渡れば岐阜も大垣も佐和山も攻撃出来るという地形、北と伊勢に大多数を振った直後の西軍と美濃に集中させてる東軍という戦略差、こうみると三成に勝ち目があるか?全戦力を結集させても東軍に勝てないのに大垣を失う危険をおかしてまで岐阜を助けに行くってのは果たして正しいのか?仮に岐阜後詰の最中に大垣に火の手が上がったらどこに逃げる?

209 :人間七七四年:2024/03/06(水) 14:34:44.52 ID:WPjzpjJh.net
>>118
0に100掛けても0だぞ

210 :人間七七四年:2024/03/06(水) 20:27:18.91 ID:0FdnXpNx.net
北に七万も送ってるからむしろ前田の方が危険と見てたのか?

211 :人間七七四年:2024/03/06(水) 20:34:44.02 ID:E9MnAHvf.net
兵だけじゃなく兵糧も足りてないんだよなぁ

212 :人間七七四年:2024/03/07(木) 11:37:47.01 ID:Krf4B7F8.net
三成が勢田橋爪在番衆に大垣移動を頼んだのが八月二十五日。本当だったら清洲に東軍が集まってる時には移動して欲しかったろうにこんだけ遅いのが三成の命令権の低さを物語っているのでは

213 :人間七七四年:2024/03/07(木) 11:51:22.81 ID:nIs9KCtI.net
石田三成が西軍の首謀者といわれた頃はともかく
色んな説を見てると貧乏くじ引かされた面もあるなと思ってしまう

214 :人間七七四年:2024/03/07(木) 12:09:59.37 ID:x3h7YMws.net
貧乏くじ引かされる境遇になったのはそこに至るまでの立ち回りのせいなので致し方なしではある

215 :人間七七四年:2024/03/07(木) 15:45:22.50 ID:Okp5QrJi.net
石田三成は言うほど貧乏くじを引いてるか?
命令を伝えるだけの秀吉時代を忘れられず、他人の兵を当てにして動いた結果だから残当かと。

嫌なら毛利みたいに自前で兵を用意しろと。

216 :人間七七四年:2024/03/07(木) 17:15:49.99 ID:/KY5TtVq.net
なんか創作物に毒されてる奴が多いよな

217 :人間七七四年:2024/03/07(木) 17:21:04.10 ID:dJHg7Y+T.net
>>215
毛利112万石で四万・五万、石田が19万石で六千七百ってみれば豊臣公儀からの軍役分はちゃんと出してるのでは?

218 :人間七七四年:2024/03/07(木) 18:40:53.76 ID:Okp5QrJi.net
>>217
軍役分って、兵6000人しか動かせない人間が兵5万人動かせる人に命令しようとしても無理だろ。

秀吉が強かったのは外様なしでも、子飼いだけで10万人は動員できたからなわけで。

奉行(文治派)と武断派、小早川秀秋や宇喜多秀家は秀吉と上司部下の関係だが、
奉行と毛利・宇喜多・小早川ではせいぜい同僚の関係でしかない。

219 :人間七七四年:2024/03/07(木) 23:45:36.39 ID:Sn4tXjyo.net
そう考えると、手紙ひとつであれだけ織田信長を含む全国の大名を引っ掻き回した足利義昭って、地味に凄いな。

220 :人間七七四年:2024/03/08(金) 09:52:52.06 ID:bXQtH6El.net
そら形骸化しつつあったとはいえ天下の大将軍だし。三成は関ヶ原では美濃口の指揮官でしかない
豊臣秀頼の指揮下にあるけど輝元や他の指揮官への指揮権なんか無い

221 :人間七七四年:2024/03/09(土) 11:26:53.77 ID:w7HZ8SFW.net
豊臣家の人望が露呈した一件でもある。三成らに転嫁されがちだが関ヶ原で比べられるのは豊臣と徳川で実はこの時点で豊臣家の実情が見えていた
大坂の陣はその確認

222 :人間七七四年:2024/03/09(土) 12:13:44.41 ID:Wk+59lP4.net
豊臣を守るなら、何もせずにじっと秀頼の成長を待てばよかったんじゃないかと思う
三成らにその気があるなら、だけど

223 :人間七七四年:2024/03/09(土) 13:21:46.77 ID:usj8maLg.net
豊臣を守るとか関係ない豊臣政権内の権力争いやでな。

224 :人間七七四年:2024/03/09(土) 13:40:00.13 ID:+FlZAkhA.net
関ケ原は豊臣と戦ってない定期

225 :人間七七四年:2024/03/09(土) 14:03:20.29 ID:w7HZ8SFW.net
豊臣家が西軍に知行権から軍事指揮権から金蔵まで与えていたのは事実で最期まで西軍の首魁として振る舞えばむしろマシだった。奉行の反乱としたことで豊臣家は自分の軍団すら統制出来ず知行を担保できないと天下に喧伝された。そうなりゃ全員徳川に就くさ当たり前。考えてみれば秀吉が凄かったのであって豊臣家は特段能力ある訳じゃないからそこを読み間違ったのがね

226 :人間七七四年:2024/03/09(土) 14:48:03.64 ID:m1Z88scC.net
>>225
>豊臣家が西軍に知行権から軍事指揮権から金蔵まで与えていたのは事実

前田福島黒田加藤といったところに家康討伐令が出ていない
最前線の石田三成は金欠兵糧兵数不足になるし

どこの世界線ですか?

227 :人間七七四年:2024/03/09(土) 14:49:10.53 ID:D4sU2GgO.net
なんでこんなにバラバラなんだよ西軍!
指揮系統がちゃんとしてないからだろ!
やはり三成が悪い 負けた責任は実質大将三成にある

228 :人間七七四年:2024/03/09(土) 15:04:05.54 ID:eJoHrozs.net
>>227
だから三成は
大将じゃないってば
実質でも大将じゃない

229 :人間七七四年:2024/03/09(土) 15:23:01.51 ID:+FlZAkhA.net
>>227
輝元乙

230 :人間七七四年:2024/03/09(土) 15:32:08.88 ID:w7HZ8SFW.net
>>226
豊臣公儀は伏見城を落として鳥居元忠の首を挙げた鈴木重朝に知行と銀子、刀等を与え恩賞としている。また豊臣家の軍隊は西軍として編入されて実際に行動をしている。これで豊臣が西軍でないとすると輝元や三成も西軍でないということになる

231 :人間七七四年:2024/03/09(土) 15:46:59.75 ID:m1Z88scC.net
>>230
豊臣の名を使って西軍が勝手にやってるだけ
お墨付きが無い
内府ちがひの条々の効力の無さを見ればわかる

232 :人間七七四年:2024/03/09(土) 16:06:44.82 ID:ze2lQ9b0.net
当時の軍議でもこれに近い論議をやってそうだな

233 :人間七七四年:2024/03/09(土) 17:07:22.61 ID:w7HZ8SFW.net
>>231
どっちにしろ豊臣家はアウト。むしろ西軍に与してる方が自然でまだ組織として健全。西軍が勝手にやってるとしたら豊臣秀頼は公儀どころか自分の軍隊すら統制出来てないという事になり武将としての格を喪う。まぁ実際喪ったんだが。
ここまで西軍に肩入れすれば外観上調停者として振舞うことすら出来ない。「毛利が徳川に宣戦布告」とかならまだ助かる道もあったがこうなるとな

234 :人間七七四年:2024/03/09(土) 17:43:52.80 ID:9iW2rutd.net
毛利は毛利で(ホントに秀吉からのお墨付あったのかは知らんが)西日本の宰相として影響力を高めたいだけだろうし
決起の最初から家康との本気の決戦なんて構想も覚悟もほぼ無かったのでは

235 :人間七七四年:2024/03/09(土) 18:48:15.69 ID:lRunVPBt.net
三成は佐近だの、名将をかき集めたにしては謀略に弱い印象がある。戦で余りに正攻法過ぎる。

236 :人間七七四年:2024/03/09(土) 18:53:35.14 ID:eWrV0Ioy.net
>>227
家康の『専横』を嫌って挙兵したんだから
当然軍は寄り合い所帯的な運営になってしかるべき

237 :人間七七四年:2024/03/09(土) 23:00:02.75 ID:3nNL31F7.net
>>230
豊臣公儀とか以前に伏見城を攻めたことは、豊臣家が家康に謀反を起こしたということ
要するに後鳥羽上皇が義時に謀反を起こしたり、義昭が信長に謀反を起こしたりするのと同じ
形式的な地位の上下と謀反の実行犯は必ずしも一致しない
天皇・上皇・将軍だって謀反人になる実例がある以上、豊臣家だって謀反人になる
家康は豊臣の謀反を鎮圧して、秀頼を一度だけ許してやる代わりに見せしめで三成を処刑したに過ぎない

238 :人間七七四年:2024/03/10(日) 00:43:34.82 ID:EGKKnwVX.net
子供が公儀?

239 :人間七七四年:2024/03/10(日) 02:54:19.40 ID:1VuCjgIW.net
また愛妾君なんか?
謀反の意味は知ってんの?

240 :人間七七四年:2024/03/10(日) 08:13:27.47 ID:Lr1NxxfS.net
>>236
でも中心で情報集約し分析判断して戦略を統轄指揮する者が居ない寄り合い所帯は
烏合の衆、て言うんよ…それが西軍が敗れた構造的原因。

241 :人間七七四年:2024/03/10(日) 19:27:56.00 ID:fkh7G8nq.net
特殊な使い方だけど天皇御謀反は確かに当時いわれてはいる
で豊臣御謀反ってだれがいったの

242 :人間七七四年:2024/03/10(日) 23:23:09.99 ID:koSGvJD4.net
義昭の謀反も信長公記か何かで使われた言い回しではなかったかな?

243 :人間七七四年:2024/03/11(月) 07:33:51.82 ID:iY6EElGu.net
天皇謀反や義昭謀反も意味は通る。
鎌倉時代で2代将軍源頼家の謀反、なんて言い方もある。

借り物の軍事力でトップに立ったものが後ろ盾に歯向かう場合は謀反と言われる。

ただ、家康の場合は、その時点で幕府を開いたり、それに準ずる統治組織を持っていたわけでもなく、
豊臣が謀反したと言えるほど豊臣家の後ろ盾になっていたわけでもない。

244 :人間七七四年:2024/03/11(月) 09:39:56.14 ID:TjyscbYy.net
謀反とは平穏を覆し実力者に叛く事で単純な権威だけで判断するもんじゃない。だから天皇も謀反した扱いにはなる
豊臣家は完全に政治運動に失敗した。西軍に与するのではなく裁定者調停者として振舞うべきだった。その場合伏見城の徳川軍は退去させる方針にすべきだったろうが

245 :人間七七四年:2024/03/11(月) 13:57:59.43 ID:GJrYgH8A.net
>>235
左近が名将とかは常山とか後年の創作だぞ
一次史料でこいつが名将というようなものはどこにもない

246 :人間七七四年:2024/03/11(月) 14:52:58.11 ID:0aLPH5Qk.net
豊臣家の直轄領が戦後東軍に恩賞で与えられたのも
敗軍に与したことによる事実上の減俸なのかな

247 :人間七七四年:2024/03/11(月) 15:23:08.54 ID:qjjIh/Qp.net
一次史料ではないが本戦に参戦した島津家の家臣帖佐宗光の覚書に
石田殿の一番備である島左近殿は戦上手であるため混戦の
なかを戦いました。左近殿が優勢となったところ
筑前中納言が反旗を翻し〜とある
当時から戦上手と認識されてたようやね

248 :人間七七四年:2024/03/11(月) 21:17:28.76 ID:TcPmxYg8.net
>>230
やっていることが5年前とそっくりなんだよね
あの時も奉行連中が関白は謀反人であると騒ぎ出し
聚楽第を破壊して女子供お構いなしに殺戮を繰り広げた
そしてその破壊と殺戮を功績として三成たちに恩賞が配られた

秀吉の死後も同じノリで騒ぎを繰り返す奉行連中に対して東軍大名はもちろん
西軍大名の中にもついていけない者が現れた

249 :人間七七四年:2024/03/11(月) 21:40:54.98 ID:qjjIh/Qp.net
>>246
豊臣家のための公戦ということになってるからね
忠節に対する褒賞として西軍没収領の他に豊臣家も
直轄領からということだろう。
西軍が勝利で終わった場合も東軍没収領のほかに豊臣家の金銀、領地を
ある程度は割くことになったろう

三成の8月6日真田昌幸宛書状にも太閤様御貯えの金銀並びに闕地いずれも
御忠節次第それぞれニ下さるべく候とある

250 :人間七七四年:2024/03/11(月) 22:19:27.08 ID:0aLPH5Qk.net
>>249
あー西軍が勝っても程度の差こそあれ豊臣家は弱体化したってことか

251 :人間七七四年:2024/03/12(火) 01:14:49.31 ID:AJBDa/Kf.net
そうすると西軍勝利でも結局太閤蔵入地は程度の差こそあれ西軍側諸将に配られて削減
後世西軍首脳は家康が言われたように「豊臣家領を配って食い潰した」 と言われてしまうんだな。
もっとも蔵入地は秀吉が各大名小名に安堵した領地内の事実上の「安堵してくれた秀吉へのキックバック分」で
領主らはその納入経費も負担しなくちゃならなかったんで鬱陶しい存在でしかなく、消えたら清々したのだけど。
どっちの陣営も蔵入地は食い潰す予定って辺り、豊臣の「忠臣」なんてのはどこにも居なかったんや…当たり前か

252 :人間七七四年:2024/03/12(火) 01:47:28.82 ID:Ysp6nR/Q.net
西軍の最終目標って何だったの
徳川を政権から弾劾して江戸に逼迫させて
最終的には小田原攻めの再来をやって
解体させようとしたのかね

秀吉ぬきで可能な気がしないんだけど

253 :人間七七四年:2024/03/12(火) 03:59:20.36 ID:E/1cMMeN.net
とりあえずは家康にごめんなさいさせて大老職から追いやるんじゃないの
政務に口出ししなければ家康は放置でもいいしな

254 :人間七七四年:2024/03/12(火) 05:40:46.74 ID:Cqagb/RR.net
西軍首脳部は本気で乾坤一擲の決戦やる気あったように見えないんだよな
自分らが上方で決起して家康弾劾して諸将の人質取れば東軍諸将があっさり帰属してくるとでも見込んでたのか
東軍諸将が殺る気満々で襲いかかってきて結果的に決戦やる羽目になった流れに見える

255 :人間七七四年:2024/03/12(火) 08:03:10.14 ID:jedfEu8j.net
でも、どちらが勝っても、豊臣譜代同士で潰し合い。

そして西軍勝利の場合、その立役者は間違いなく毛利。
徳川と毛利、加藤福島らと石田小西らの立場が入れ替わるだけ。
なんなら宇喜多秀家というお家騒動の種が巨大化して残る分なお悪い。

256 :人間七七四年:2024/03/12(火) 09:36:29.88 ID:3vHwQYHo.net
>>254
どちらかというと家康が即座に上洛して来なかったから見誤ったんだろう。伏見城には鳥居元忠が居てこれを後詰出来なければ家康の人望は地に堕ちる。だから家康は何が何でも伏見城に後詰すると見てた(それで数百人の伏見城を数万で攻めた)ところが家康は後詰に来なかった。この時点で家康は家臣を見殺し、上洛を要請した豊臣家の信頼を裏切ってる。豊臣家からすれば家康弱しと見て西軍に乗る大義名分にもなって一石二鳥。家康が後詰に来れなかったと見るなら長期的観点から前田や伊勢方面を制圧するのは理に適ってる

257 :人間七七四年:2024/03/12(火) 10:42:50.70 ID:TkfKn9bB.net
>>256
理には適ってないから秀元はゴネるし吉川は北陸か美濃に行くべきだと言っている。
北陸には明確に前田という敵対勢力がいるし、
情勢的に美濃尾張を制圧することは重要。
伊勢の制圧はしてもよいが、
大きな東軍勢力もおらず大軍を差し向けるほどの重要性はない。
ただまったく懸念がないというわけでもなく、
史実でも伊勢の西軍の防備体制に不明な点はある。
それは筒井定次がどうやって尾張から伊賀に戻ってかつさらに赤坂まで戻った?のか。
熱田から伊勢に渡海して伊賀に戻ったのなら伊勢の西軍はザル過ぎだし、
まぁ筒井が実際どういう行動をしたのが微妙にかんじる部分はある。
ほんとに伊賀戻ったのか、さらに赤坂戻って
関ヶ原本戦参戦したのかと。
いずれにしても伊勢への大軍投入は
せっかく尾張への足がかり犬山押さえたのが意味なくなった。

258 :人間七七四年:2024/03/12(火) 10:49:17.37 ID:TkfKn9bB.net
西軍が筒井の伊賀制圧放置してる点からも信憑性疑問を感じるところではある。

259 :人間七七四年:2024/03/12(火) 15:01:48.42 ID:3vHwQYHo.net
勿論三成や広家なんかが危惧を呈したけど結局輝元を説得するだけのデータを出せなかったというだけではないか?関ヶ原を知ってる現代から見ると非合理的に見える戦力配置だけど当時も同じかというと結構微妙
「攻められている城を後詰しない」「公儀の要請に応えない」ってのはかなりの窮地を意味する訳で輝元達はそこを重視し過ぎたのかもしれない
家康は敢えて伏見城を見捨てて元忠も玉砕を決意して戦ったけどそんなの西軍にはわからんもの

260 :人間七七四年:2024/03/12(火) 21:26:05.16 ID:uD5ri/rg.net
伊勢ばかり話題になるけど
北に七万も送った理由も謎

261 :人間七七四年:2024/03/12(火) 22:22:23.47 ID:dp/RujVs.net
8月5日の御人数備では北国口3万100人で翌月開城の田辺城を開城済みとして
その攻囲軍の人数も含めているので実数はさらに減少し7万もいないよ

262 :人間七七四年:2024/03/12(火) 22:55:26.53 ID:jedfEu8j.net
>>260
北に7万ってどこ情報でどんな構成?
西軍のどこにもそんな兵力はないはずだが。

伊勢は、西軍としては無駄だけど、海上権益を求める毛利視点なら、抑えに行くのはまあ分かる。

逆に海を無視するなら阿波も讃岐も伊予も豊後も全部無駄。
単純な数字の合計だけなら、それだけで1.7万人無駄にしている。

263 :人間七七四年:2024/03/13(水) 00:11:45.98 ID:6uSEq8IF.net
伊勢を抑えるのは何もおかしくないでしょ。兵力分配に考慮の余地はあるけどそれは後世の後知恵の面が大きいからなんとも。

264 :人間七七四年:2024/03/13(水) 06:36:53.45 ID:v5/23rEh.net
伊勢と美濃の二方向から尾張に攻め入るのなら利点はあるけど、それができないなら何の意味も無いと思うが

まさか美濃の敵を放置して東軍が伊勢方面から上洛するとでも?

265 :人間七七四年:2024/03/13(水) 08:48:51.32 ID:IoM7tjsd.net
クラウゼヴィッツが言うには、戦争計画は
可能な限り集中的に行動する
可能な限り迅速的に行動する
というのが大事らしい ほんとそうだと思う
江戸から美濃赤坂に到着、次の日決戦
はやすぎる 輝元このやろう お前何してた

266 :人間七七四年:2024/03/13(水) 09:02:42.22 ID:YHgCIgGA.net
初動のミスを取り戻す事ができなかった
家康に宣戦布告して家康と戦う事を想定してなかったらただのマヌケなので伏見落城を誤って受け取ったんだろう。家康を甘く見てたのは間違いない

267 :人間七七四年:2024/03/13(水) 09:55:14.46 ID:2s+4UuYe.net
なんか家康は伏見を見殺しにしたとか書いてる人がいるけど距離と日数的に間に合うわけないじゃん
地図が読めない人が常駐してるのな

268 :人間七七四年:2024/03/13(水) 10:15:04.69 ID:8oiY+nlt.net
それに例え家康がムチャ早く伏見の危機を知って軍を動かし得たとしても
あの距離とその移動に掛かる兵糧や経費・兵の疲労率とか考えたら
あの時点で救援に軍を動かす判断は下せない。それに軍を軽挙妄動な運用をすれば
それだけ家康側は西軍の一々の動きに振り回されるだけという愚かな軍運用をする事になる。
見殺しというか、救援に派兵なんて無理な相談。

269 :人間七七四年:2024/03/13(水) 10:22:48.91 ID:v5/23rEh.net
そもそも伏見城攻めは西軍はあっさり片が付くと思ってたら、城兵の抵抗が予想以上に
頑強で慌てて城内にいた甲賀衆の家族を人質にして裏切りを起こさせてようやく勝ったわけだしな
家康が伏見城が攻められていると知った時点で西軍は本来なら伏見城は落城していた、でないといけなかったはずなのに

270 :人間七七四年:2024/03/13(水) 15:34:21.51 ID:6ELZiFh7.net
救援が可能か不可能かなんて関係ないんだよなぁ
重要なのは結果。伏見城を家康は助けられなかった、しかも豊臣家が直ぐに上洛してくれと言ったのに助けなかった。この結果のみで家康にとっては大打撃になる

271 :人間七七四年:2024/03/13(水) 15:36:50.08 ID:6uSEq8IF.net
相手にしなくてよさそうやね。

272 :人間七七四年:2024/03/13(水) 15:40:31.24 ID:6uSEq8IF.net
>>264
真田家文書も中川家文書も読んでないんかな。

273 :人間七七四年:2024/03/13(水) 15:54:55.27 ID:v5/23rEh.net
なら岐阜城を救えなかった西軍と三成は一体……

274 :人間七七四年:2024/03/13(水) 16:08:27.57 ID:6uSEq8IF.net
予言者じゃないからね岐阜城瞬殺なんて想像できんでしょ。

275 :人間七七四年:2024/03/13(水) 16:38:13.82 ID:E1g1k21L.net
>>269
北政所の手引きで伏見城は防御能力落ちてたからな

276 :人間七七四年:2024/03/13(水) 16:47:03.79 ID:v5/23rEh.net
三成って秀吉の下で戦歴を積んできた割にはそういう危機感ないんだね
山中城とか古処山城とか、秀吉がアッという間に落とした前例を見てきたのに

277 :人間七七四年:2024/03/13(水) 16:53:49.78 ID:YHgCIgGA.net
>>256
事実から逆算すればいい。美濃口の西軍は二万五千、しかもその中の島津軍は軍役割れしてる二級戦力の寄せ集め。明らかに西軍は家康が美濃に来ると想定してない。家康に宣戦布告しておきながら何故か、と見て西軍が把握出来た徳川情報は「伏見の後詰に来なかった」しか無い。西軍は家康が後詰に来なかったから美濃には来ないと踏んだ
戦国時代には城を後詰しない事は致命的な失点だったから西軍もその常識に囚われ過ぎていたんだろう

278 :人間七七四年:2024/03/14(木) 08:28:29.27 ID:5jPztBWQ.net
>>276
三成にはどうしようもできない。美濃方面軍全員集結させてなお東軍に勝てないんだからどうしろと?岐阜と大垣どちらかしか救えないなら大垣を救うのは当たり前。原因は西軍の歪な戦力配置と戦略思想にあって三成の責任じゃない

279 :人間七七四年:2024/03/14(木) 10:42:32.00 ID:AxcSyibw.net
>>278
同意。

280 :人間七七四年:2024/03/14(木) 11:15:39.16 ID:Ds5hJTD5.net
前田はどこまで進出する予定だったんだろう

281 :人間七七四年:2024/03/14(木) 12:58:27.86 ID:apGXhAa3.net
いや、それこそ大垣の責任者である三成の責任が大きいのでは?

岐阜城の時は仕方ない、兵力配置のせいだとなるけど、関ヶ原の時は言い訳できない数が集まってたでしょ。

常に劣勢だったわけでもなく、一時は西軍が東軍を兵力で上回っていたわけだし。

それで足りないとか、指揮権がないとか言い始めたらもはや西軍を何十万人集めても無駄、
つまり西軍の決起に参加したこと自体が三成の罪。

282 :人間七七四年:2024/03/14(木) 14:55:32.34 ID:Vs+BM6op.net
東軍が岐阜城に迫ってる時は三成に動かせる兵は一万五千しかいないし大垣も守らないといけないから後詰に出せる兵はそれより少ない。奇襲の要素が薄いあの辺りで兵力差は決定的要素になる。正直三英傑でもどうにもならんだろう
そして三成の指揮下にあるのはこの一万五千だけだからその後やってきた援軍にも命令は出来ないどうしてもお願いベースになる。三成も何度かお願いしたらしいが全部拒否された模様。勝手に出撃したところで無駄死にするだけ

283 :人間七七四年:2024/03/14(木) 16:12:58.08 ID:apGXhAa3.net
>>282
そうなると、結局西軍がどんなに兵集めても無駄と言えるんだよ。

単独で指揮権を持って徳川+豊臣譜代の半分を超える勢力が必要だけど、
そんな勢力がいたら徳川の前にとっくに排除されてるわな。

あ、そういえば関白ですら排除されて自害はせられたな。怖い怖い。

284 :人間七七四年:2024/03/15(金) 04:50:47.83 ID:AIi5tTWa.net
小早川は伏見落としたくせにゃく家康に許されたよね。そんだけ大戦力だったとはいえ心情的に許せないだろ。

285 :人間七七四年:2024/03/15(金) 04:54:33.56 ID:AIi5tTWa.net
鳥居元忠は一定抵抗した上での降参なら関ヶ原終わって家康から批判なんかされないだろうに
なんか腑に落ちない。名城の伏見まで焼く意味よ。

286 :人間七七四年:2024/03/15(金) 09:20:24.96 ID:kC8OxjKe.net
>>284
小早川は伏見城攻撃には参加したけど落としては無かったはず。途中で離脱して伊勢へ転進、からも離脱してたらしい

287 :人間七七四年:2024/03/15(金) 11:00:08.35 ID:Nku6W36+.net
鍋島よりやる気ないやん

288 :人間七七四年:2024/03/15(金) 12:25:47.15 ID:XVNaSohK.net
朝鮮出兵と同じで現場に指揮権が無いまま戦争に突入してそのまま蹂躙された

289 :人間七七四年:2024/03/15(金) 12:56:54.20 ID:im+6V2V9.net
忍城、朝鮮、関ケ原

なんで毎回指示待ち人間的なの?

290 :人間七七四年:2024/03/15(金) 13:22:49.34 ID:xczun8yF.net
問題なのは、毛利、小早川、島津、長宗我部あたりにとって豊臣家は味方でもなんでもないこと。
宇喜多秀家とて、猶子であっても秀次の時のことがある。

そんな中で、豊臣家の中でも番頭でしかない石田や奉行に兵権を預けられるわけがないわな。

291 :人間七七四年:2024/03/15(金) 13:28:15.78 ID:k4FEFDKK.net
指示待ち人間に
ふさわしくないスレタイ

292 :人間七七四年:2024/03/15(金) 13:56:01.21 ID:XVNaSohK.net
>>289
軍人だから。軍人は指揮系統が絶対でそれを乱す行為は禁忌。下手すりゃ裁判で死刑になる。だから本来はトップが現場に指揮権を設定するのが当たり前で関ヶ原では家康はそれをしてる。ただ豊臣家はそうした行動をしてないので三成も指示が無ければ動けなかった

293 :人間七七四年:2024/03/15(金) 14:26:07.96 ID:im+6V2V9.net
>>292
秀吉軍の構造的問題かあ
そういえば秀吉本人が陣頭指揮とってると強いけど
戸次川とか長久手とか派遣軍が手痛く負けるイメージあるよね

294 :人間七七四年:2024/03/15(金) 14:30:22.17 ID:xczun8yF.net
>>292
だからダメなんだよ。
秀吉(秀頼)というトップが不在なのに、勝手に決起している時点で立派な反逆。

逆にトップが動けないので奉行が繰り上がりで動いたと言うなら、トップは三成ら奉行衆で責任が出てくる。

まあこの場合、本当の繰り上がりのトップは徳川家康なので結局は三成が反逆者なわけだが。

毛利輝元?外様で五大老五奉行の序列でも下位の毛利に、豊臣譜代への命令権があるとでも?
あったとしたら、石田ら奉行衆は豊臣家を毛利に売り渡した反逆者。

どう足掻いても詰んでるんだよ。

295 :人間七七四年:2024/03/15(金) 15:04:34.64 ID:XVNaSohK.net
岐阜城攻めでは家康は軍監を送って大戦略は伝えた上で作戦は現地指揮官に任せてる。福島正則が織田秀信の処遇を家康に相談してないからかなりの権限を認めてた。しかし〆るべき時が来たら自ら出馬して〆た。対する西軍はそこらへんが曖昧で各方面軍の優劣もわからなかった。まぁ立場が違うから仕方ないんだけど

296 :人間七七四年:2024/03/15(金) 15:36:14.74 ID:MtRYL/Vk.net
よく考えりゃ小早川さえ裏切らなきゃ勝てたもんなあ
小早川本人も悩んでたみたいだし
西軍につく可能性はゼロじゃなかった
でもバクチはバクチよ!
もっと万全に勝つ手があったはず
なぜもういっちゃえと思ってしまったのか・・

297 :人間七七四年:2024/03/15(金) 16:05:09.20 ID:FbwpVGqF.net
西軍はどこまでも寄り合い所帯
信長包囲網とか武田包囲網とかと同じで家康排除では一致してるけど自分の家を傾けてまで家康打倒をやろうとしてるのは一部だけ

298 :人間七七四年:2024/03/15(金) 19:41:40.54 ID:IdWiIeZZ.net
>>295
秀信の処遇については井伊・本多に確認してるし福島の独断による処置ではないでしょ

8月24日付結城秀康宛福島正則書状
「小作・百々以下罷出、三郎殿御身命無異儀様ニと降参仕候ニ付而、井兵部少輔
・本中務令談合、くるしかるましき由被申候ニ付而、先尾州まて退申候」

299 :人間七七四年:2024/03/15(金) 20:55:45.50 ID:Bo5u4cWD.net
攻める方と守る方では難易度が違うのも確かなんだけど西軍はもう少し指揮統率を重く見るべきだった

300 :人間七七四年:2024/03/15(金) 21:40:37.59 ID:xOz4viXq.net
打倒家康で立ち上がったまではいいけど
そこから全員ハテナマーク状態

「……で? どうするんだ?」
「……とりあえず伏見攻めちゃう?」みたいな

301 :人間七七四年:2024/03/16(土) 00:50:11.83 ID:VzzYb4yC.net
そう、誰も戦略所か当面の戦略拠点設定すら出来てないというか組めない。
戦略決定するトップ居ないんだもの。
小説ドラマじゃそれをするのが三成なんだが、史実の三成は参加メンバーなだけで全然そんな立場でない。
やりたい目標が「家康排除」のみ共通してるだけで、それから先の各位の目標がてんでバラバラ
しかも豊臣政権の最大の特徴の惣無事体制が崩壊しても自家の好き勝手出来る世界望む奴まで混ざってる雑さ
まあ無理っちゃ無理。

302 :人間七七四年:2024/03/16(土) 12:31:12.24 ID:GF3ngVlP.net
>>301
そもそも共通目標の「家康排除」ですらどこまでまとまってたか怪しいもんだ。
三成なんかは小田原攻めの再現とばかりに江戸まで攻め込んで徳川家を滅ぼすところまで想定してそうだし
毛利なんかは家康を豊臣政権から追い出しさえすれば自領の拡大優先で決戦を挑む気があるようには見えない。

303 :人間七七四年:2024/03/16(土) 16:06:01.57 ID:6+180bJu.net
>>298
読むべきレスがこれしかない

304 :人間七七四年:2024/03/16(土) 18:27:53.53 ID:+dD/hv61.net
>>303
あんたは>>1をよく読んだら?
〜したらどうなっていたか、つまりIF要素語ることは間違っていない。

305 :人間七七四年:2024/03/16(土) 18:29:20.64 ID:+dD/hv61.net
>>298
池田の家譜には福島が独断で決めた的なこと書いてなかったっけ?

306 :人間七七四年:2024/03/16(土) 18:33:36.97 ID:6+180bJu.net
>>304
その上で言ってるんだが?
逆に読む価値あるレス教えてくれるかい?
おままごとやってるだけでしょ

307 :人間七七四年:2024/03/16(土) 18:36:09.64 ID:WtVKKmqx.net
おおー上から来るね
匿名掲示板でオラつかれましても

308 :人間七七四年:2024/03/16(土) 18:52:23.08 ID:9XXD7fWb.net
どっちにしろ福島正則らに敵将の処遇すら決せられる権限が与えられていたのは確か。ただ攻めていけばいい東軍に対して守らないといけない西軍の方が戦略的に難しい立場にあるしそもそもの兵力=権限が大きくなかったのも厄介だったね

309 :人間七七四年:2024/03/16(土) 20:05:29.07 ID:hTDj8gMY.net
>>302
というか、本気で家康を追い出す気すらないように見えるんだよな。

西国権益を固めて、前田や上杉のように簡単に攻められないようにしてから、
奉行衆を売って和睦して政権のNo.2かNo.3くらいに落ち着く、
万が一、西軍が勝つならそれはそれで重鎮になるように動くって感じに見える。

その意味では、阿波、讃岐、伊勢を落とし、失敗したが伊予と豊後を攻めるのは理に適っている。

310 :人間七七四年:2024/03/16(土) 20:16:08.61 ID:Yc2NwbcV.net
>>305
池田家履歴略記だと
「城主秀信は自殺せんとそ望まれける、
正則かたく制止す、扨正則は独此城を請取らんと有けるか、国清公(輝政)
大いにいからせ給ひ、先城に入る者は我なり、城を取、秀信を拘る者我にあらすして誰にか任すへきと仰ける…」
この後は福島・池田の二人が殴り合いになりそうなところで、井伊・本多が仲裁に入って収まったとある
確かに池田の史料では福島が独断で処置しようとして池田と喧嘩になってるな

8月24日付の福島書状はもう一通あって(浅野長政宛)こちらは「中納言殿儀いろいろかうさん
被申候間、小しやうとも二三人にて、尾州へおくり申候」と結果のみ書かれてる

311 :人間七七四年:2024/03/16(土) 20:57:46.51 ID:6+180bJu.net
>>307
たとえば以下を例に取ろうか

>>309
西国権益って具体的になんなんですか?
瀬戸内権益を連呼していた同一人物だと思うんだが、瀬戸内権益って具体的になんですか?
結論から逆算してそれっぽいワード当てはめただけの言葉遊びでしょう

312 :人間七七四年:2024/03/16(土) 22:35:24.17 ID:Nck5QK2n.net
戦国時代最も重要だったのが瀬戸内海。ここは正しく日本海運の大動脈。だから毛利元就の時代から毛利家はここを押さえる事に腐心してきた

313 :人間七七四年:2024/03/16(土) 22:39:28.23 ID:vB1qXbEe.net
言われてみると漠然としたもんではあるが、個人的意見でよいのなら(309とは別人です)
織豊政権によって大幅に減退させられた旧毛利領(影響力があった地域も含む)の
領土や既得権益の復活及び、祖父元就が欲した博多権益の獲得でいいんじゃないの
この辺はまさに輝元時代に奪われたもんだし、取り返せるもんなら取り返したいだろ、普通

314 :人間七七四年:2024/03/17(日) 03:11:01.44 ID:k0S3vrjy.net
今更瀬戸内ねえ
平清盛も知らないんじゃないか
もうスレチだが

315 :人間七七四年:2024/03/17(日) 05:10:16.80 ID:mJxplLL4.net
大幅に減退させられた

そもそも毛利の勢力ってそんなに大きかったか?
北九州にはわずかな勢力
中国地方で制圧していたのは安芸、石見、周防、長門、出雲、備後
備中は三村、宇喜多が従属してきたから傘下に入っただけ
伯耆は南条が従属したから
それより東になると毛利の勢力はそこまで及んでいたわけではない
瀬戸内海に関しても、伊予方面(中予・東予の一部に島嶼部)には拡大していたくらい

秀吉に降って南条、宇喜多が分離されたから、備後以東や出雲以東は失ったが、それ以外は安堵されてるし、
伊予方面は失った(安国寺恵瓊が数万石あるとかないとからしいが)が、小早川が筑前を与えられてるんだから
その代替は十分に与えられている

領土や既得権を失ったとか考えにくいんだがな

316 :人間七七四年:2024/03/17(日) 05:14:18.91 ID:mJxplLL4.net
>>296
小早川が裏切らなかったら

いや、小早川が裏切らなくても西軍は詰んでると思うんだけど……
そもそも小早川の軍勢って小説の類では1万5000なんだけど、これ多すぎない?
秀秋の所領は筑前名島35万石
1万5000って領内守備でぎりぎりまで動員したならあり得るけど、遠征軍の兵力としては
考えにくいんだけど
このあたり、だれか知っている人いますか?

317 :人間七七四年:2024/03/17(日) 06:06:13.45 ID:scCFq1e1.net
おそらく1万5千というのは中臣祐範記という当時の日記に
上方衆が有利の所に羽柴金吾殿が寝返り後ろから1万5千余の軍勢で
攻めかかり(上方衆は)どうしようもなく敗北しました。
というのが出典かと、ただ当時の一次資料だが合戦場所を尾張としていたり
三成が戦死したなど伝聞を其の儘記録したようで正確でない部分もあり
1万5千というのもそのまま信用はできない

8月5日の三成書状では小早川秀秋は8千となってるのでおそらく
こちらのほうが石高からも実数に近いのだろう

318 :人間七七四年:2024/03/17(日) 09:00:46.54 ID:7p8pVHLc.net
まぁまぁまぁまぁ
俺の顔に免じて許してやってくれ

319 :人間七七四年:2024/03/17(日) 10:10:56.55 ID:pONEQpzw.net
毛利元就は瀬戸内海交易圏を確保することで勢力を伸ばしてきた。そして輝元もその路線を引き継いだ。その為に四国にも侵攻して毛利の圏内に収めようとしてる
ところがそれを秀吉にぶっ壊された。惣無事令の下に。下関の様な核心的な場所こそ取られなかったが四国は没収されそこに秀吉派の人間が送り込まれた。これを輝元がどう思っていたのかは慶長五年に明らかになったろう

320 :人間七七四年:2024/03/17(日) 10:54:54.64 ID:mFKz9jwQ.net
いや豊臣が、力を持ちすぎた最大家臣徳川を、下剋上される前に潰そうとしたのが関ヶ原じゃね?
鎌倉殿の13人でもよくあったし、足利義満もやってた 功臣の粛清 
三成の乱だなんて徳川の洗脳
焦らなければ絶対潰せた
反乱軍vs政権軍なんだから

321 :人間七七四年:2024/03/17(日) 12:19:21.21 ID:2V8SDnec.net
>>316
軍役に関して
豊臣政権から3000で規定されてた長宗我部が

関ヶ原ではやる気満々だったのか
兵力5000してたり
割と自由なんじゃないかと

322 :人間七七四年:2024/03/17(日) 12:50:31.01 ID:bg41b4AP.net
>>316
それを言ったら毛利なんて120万石で6万人だからなあ。

毛利や小早川、宇喜多あたりの1万人以上の兵数は、後世で家康神格化のために盛られた可能性が高い。

奉行衆や朽木脇坂やなんかが千数百人とか数百人で表記されてるのに、
大名クラスになると一気に数えが大雑把になるからな。

323 :人間七七四年:2024/03/17(日) 13:24:06.57 ID:mJxplLL4.net
>>320
三成と足利義満が同列にされる謎
室町最大の怪物が三成程度と同等なわけないでしょ

324 :人間七七四年:2024/03/17(日) 14:41:46.93 ID:XG9pN1QO.net
>>321
島津義弘書状によると長宗我部は2000→5000、立花は1300→4000とある
義弘は立花の元の軍役は1300と言ってるが、結局備口人数の軍役通りの数になってるな

8月20日付島津忠恒宛島津義弘書状
「長宗我部殿人衆之事、二千之軍役にて候へ共、此度之御忠節ニ候と被仰、五千めしつれ被罷上候」
備口人数の長宗我部→2100人

8月21日付吉田清孝宛島津義弘書状
「立花殿ハ千三百之役ニて候へ共、四千程被召列候」
備口人数の立花→3900人

325 :人間七七四年:2024/03/17(日) 15:07:21.28 ID:mJxplLL4.net
西軍で戦闘力の高い島津軍が朝鮮出兵で疲弊し、さらに庄内の乱で動けないのが痛すぎたな
本国に大半の軍勢を置きっぱなし
7月末に毛利、宇喜多が出した動員令も忠恒は無視してるみたいだし

326 :人間七七四年:2024/03/17(日) 16:05:43.39 ID:yY5LI54l.net
島津軍の数がおかしいことは最初から分かってた訳でそんなのを美濃口に送るあたりに西軍のヤバさが伺える

327 :人間七七四年:2024/03/17(日) 16:10:06.41 ID:mJxplLL4.net
以前から気になってたんだけど、佐々正孝って奴は東軍所属だと思うんだけど、8月22日に出した書状で
それなりに情報をまとめてるよね? あれはどこから集めた情報なんだろ?

余りに西軍の情報が筒抜けになってるのが気になる

328 :人間七七四年:2024/03/17(日) 16:38:15.65 ID:5m5supwX.net
備口人数書は真田家文書にあるけど三成書状にあるように真田信幸にも送られてる。信幸は七月二十四日には徳川家康に従ってたから東軍は八月初頭には西軍の正確な兵力及び配置を知ったんだろ
それ以外にも徳川に従う諸領主が家康に西軍からの書状渡してるから情報戦で家康は西軍を圧倒してる。対して東軍の情報を漏らしてくれる奴は…

329 :人間七七四年:2024/03/17(日) 17:51:31.32 ID:hpY+s2c/.net
>>327
そりゃ普通に各地から集積した情報でしょ
一例を挙げると8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状にあるように
西軍からの書状を奪って家康へ送達みたいなことも当然やってる
「上方石治少・大刑・石備書状、御才覚にて御取被成候、則状江戸へ致進上候、定而可為御大慶候事」

他にも8月10日付真田父子宛石田三成書状が浅野家文書に伝来しており、8月25日付毛利輝元他宛
上杉景勝書状は真田家文書に伝来していることから途中で真田信幸の手に落ちたことが分かる
8月に入ると西軍の情報収集や伝達の精度が極端に落ちてるし、佐々書状の内容は別に不自然なことではない

330 :人間七七四年:2024/03/17(日) 18:31:13.45 ID:e3guj9Bi.net
佐々書状と同程度の情報なら九州の黒田や松井でも知ってたりする程度には西軍は筒抜け

331 :人間七七四年:2024/03/18(月) 09:41:05.04 ID:LUIlFH/U.net
情報戦では家康の方が遥かに上手だからこればかりはどうしようもない。秀吉の裏をかいた手腕が錆びてなかっただけよ

332 :人間七七四年:2024/03/18(月) 10:03:42.11 ID:wHtegzcR.net
東国は家康の影響力が強いし畿内の連中は勝ち馬に乗りたいだろうし
家康は政権の第一人者で織田政権のころから公家商人寺社など諸勢力とも関係があるはずだからな
対して西軍は豊臣家の後ろ盾が無いせいか西軍というか奉行衆の影響力と情報収集力の無さが致命的

333 :人間七七四年:2024/03/18(月) 11:17:23.52 ID:LUIlFH/U.net
徳川の味方面して実は西軍っていうと佐竹氏なんかがそれだがミエミエ過ぎて完全に警戒されて防諜網敷かれてたし。家康ほど情報の重要性を認識してた将が居なかっただけかもしれんが

334 :人間七七四年:2024/03/19(火) 09:29:30.52 ID:OOrmdB1F.net
>>330
それってかなり致命的だけど……

335 :人間七七四年:2024/03/19(火) 17:54:54.74 ID:L4o2txGV.net
三成ってアスペ気味だったのかもな。こんだけ武断派武将連中に嫌われるのは普通じゃない。
かといって大谷吉継みたいな人格者が見捨てない。秀吉に与えられた任務にひたすら忠実で融通が効かない。
そんなこんな考えると可哀想ではあるな。秀吉亡き後も原理に忠実で豊臣政権という機構に縛られた。普通の人間なら上手くやろうとするよな。

336 :人間七七四年:2024/03/19(火) 18:06:18.54 ID:MdV8QULH.net
西軍は会津征伐に行った大名達を帰参(転向)させる気だから
自軍の情報を(ある程度吹かしを入れて)伝えるのは当然でしょ
対するに東軍は端から敵対している認識なので情報を漏らしたりはしない

337 :人間七七四年:2024/03/19(火) 18:21:30.05 ID:0F8JAZ5M.net
東軍が得た西軍情報はどうも喧伝ではなくて西軍の内部情報を引っこ抜いていたってのが問題
特に備口人数書が流出してたのは痛い

338 :人間七七四年:2024/03/19(火) 18:21:32.08 ID:L4o2txGV.net
他の奉行はおろおろ、裏で家康と通じようとする始末。これが普通なんだよ。現代でもそこらにいくらでもいるタイプ。
三成の誤算は人は弱いってこと。それぞれ家族や部下の人生背負ってもいるわけ。
原理原則よりとにかく自家温存が主目的な連中なのだ。

339 :人間七七四年:2024/03/19(火) 20:09:40.75 ID:GsOzCuqi.net
>>338
そもそも、豊臣のためという三成の行動が疑わしい(三成の私利私欲に見える)し、
仮にそれが豊臣のためでも、他家はなんで豊臣のために働かなければいけないんだって話だ。

毛利や宇喜多が乗ったのは、あくまで前田や上杉の次は自分達だという危機感から。

結果的に失敗したとはいえ、西軍を売り渡して本領安堵をチラつかせられたら喜んで飛びつくわな。

340 :人間七七四年:2024/03/19(火) 21:17:49.18 ID:IhOQPIfV.net
>>339
真田昌幸宛の書状で、三成自身が長岡忠興に対する遺恨ってぶちまけてますよ
家康に対しても「彼の仁」なんて書いてるから、個人的な怨恨が動機なんでしょ
しかも昌幸に「幽斎は流罪にしたった」とか嘘まで書いてるし

341 :人間七七四年:2024/03/19(火) 22:14:24.37 ID:0F8JAZ5M.net
家康を彼の仁と書いてるから憎んでたと分かる、なんてのは聞いた事が無いがそうなのか?

342 :人間七七四年:2024/03/19(火) 22:38:38.79 ID:4H263FZa.net
>>340
「彼仁」はネガティブな呼称じゃないよ
同時期の佐竹義宣宛三成書状にも使われてるけど普通の三人称の人代名詞だぞ

「真田事、無二ニ京家次第と被申候間、信州之仕置彼仁ニ被仰付候事」

343 :人間七七四年:2024/03/20(水) 06:58:41.56 ID:HftVvTUe.net
そもそも三成がなんで忠興だけそんなに悪し様に言ってるのかがわからん
そりゃ三成を奉行解任に追い込んだメンバーの一人である事は知ってるけど
忠興一人が追い込んだ訳でもないし、黒田とか福島も関ケ原では戦ってる
忠興だけに遺恨が集中する理由がさっぱりわからない

344 :人間七七四年:2024/03/20(水) 09:36:10.59 ID:VU7vhPVV.net
おそらく忠興への恨み、とかではなく
・豊臣公儀からの命令を無視して人質が自害
・朝廷と繋がりが深い幽斎が西軍と抗戦
この二つで忠興に注目が集まっていたんじゃないか。故にこれについて見解を述べる必要があった

345 :人間七七四年:2024/03/20(水) 10:27:27.10 ID:VU7vhPVV.net
ただ勿論細川忠興と石田三成は無茶苦茶仲悪かったらしいというのも確か。忠興は大坂の人質に「三成に捕まるくらいなら死ね」と言っておりまた三成を襲撃した一人でもある。三成だってそんなやつと仲良しだったとは思えないし

346 :人間七七四年:2024/03/20(水) 11:42:45.96 ID:21ARQzQG.net
7月17日に長束・増田・前田の3奉行が別所吉治に宛てた書状では
「忠興は何の功労も無いくせに福原長堯の跡職をせしめた」とか書いてるから、それが動機なんじゃないのか?
つまり、杵築に所領を与えられたこと
でもそれなら杵築を与えた家康に文句言えよとも思うけどな
三成の動機も多分これじゃないのか?
福原は三成の娘婿だし

347 :人間七七四年:2024/03/20(水) 11:48:56.82 ID:21ARQzQG.net
>>339
昔の大日本帝国もそうだけど、なぜそこまで焦るかね……
当時の秀頼後見という立場の家康に、上杉や毛利、宇喜多らを潰すまでのことができると思うか?
むしろそれをやったら家康に対する見方が変わっていくと思うけどな

348 :人間七七四年:2024/03/20(水) 12:29:42.55 ID:mf/jrvLC.net
近畿周辺で唯一明確に反抗してるのが田辺城。
細川はこういう理由でもともと悪い奴。悪い奴なので我々に反抗してて悪い奴なので我々に攻撃されている
細川が特殊なだけで他は従順に従ってるし明確な理由なしに我々が攻めることもないので安心して我々西軍に従ってほしい

奉行衆があれこれ理屈を並べてるのはちゅうことやろな。

349 :人間七七四年:2024/03/20(水) 12:47:05.45 ID:EKdMkzZI.net
大津城が反旗を翻す前か

350 :人間七七四年:2024/03/20(水) 14:05:10.71 ID:b1BIpBnh.net
>>347
毛利については内部の権力闘争の影響もある。

豊臣家から推されている毛利秀元(安国寺恵瓊が後見)、徳川家から推されている吉川広家が対立する中、
毛利宗家による領国支配体制を確立したい毛利輝元という、割と面倒な状況。

分かりやすい当主としてのイニシアチブの奪還が西軍総大将就任とすれば辻褄はあう。
一方で反対していた吉川広家に対しては保険の意味も含めて対徳川交渉に当たらせ、冷遇しているわけではないと。

351 :人間七七四年:2024/03/20(水) 17:45:16.20 ID:mf/jrvLC.net
毛利秀元は徳川も押してたんちゃうか。
広家は徳川との太い接点あったっけ?関ヶ原の時もつなぎは黒田経由だったし

352 :人間七七四年:2024/03/20(水) 18:46:07.10 ID:GRAKiKKY.net
結局家康に人望があったってことになるのかなあ
確かにちゃんとした政権つくって平和になったもんな
それにめっちゃ強いと思われてたか みんなびびってた

353 :人間七七四年:2024/03/20(水) 20:05:15.74 ID:Xmwvn8DK.net
東軍と西軍は家康が上洛したら終わりと認識してたっぽいからなぁ。東軍はもとより西軍も内府が上洛したらどうするか考えてなかったわけだし

354 :人間七七四年:2024/03/20(水) 21:21:52.93 ID:QziJgTRn.net
>>346
三成たち奉行連中が戦に無知なせいで評価基準が不明瞭なんだよね
加藤・黒田は働きが足りないとか、細川は何の功労もないとか言い出すけど
多くの大名にとって何を基準に評価しているのかが見えず
三成たちが好き嫌いや派閥のコネで決めている疑惑が生まれた

一所懸命に戦っても働きが評価されるかどうか分からないのだから
西軍の士気が上がらないのも当然のことだった

355 :人間七七四年:2024/03/20(水) 21:48:14.73 ID:E0fwN67+.net
しょせん奉行は秀吉あっての存在にすぎなかった……
と言うか、仮にあのまま三成ら奉行衆が生き抜いても、秀頼にそのまま使われるのだろうか……

356 :人間七七四年:2024/03/20(水) 21:53:09.54 ID:HM1Bxvwy.net
>>346
それは個人的な怨恨と言うよりは細川領への攻撃の大義名分を示すための理由付けと見る方が自然だな

357 :人間七七四年:2024/03/20(水) 21:55:58.09 ID:2BFk37qM.net
秀次事件も奉行が秀吉没後の自分らの地位を守るために進めたんじゃないかって見方あるな

358 :人間七七四年:2024/03/20(水) 23:03:05.51 ID:b1BIpBnh.net
>>354
典型的なのが、小早川秀秋に関白の地位を提示したことだよな。
本当に豊臣家のためであれば、この提示は絶対に有り得ない。

確実に空手形、いや、むしろ秀秋の立場、過去に受けた仕打ちからすれば、
殺害予告とすら取れる「評価」を出されれば、迷うことなく東軍につくわな。

359 :人間七七四年:2024/03/20(水) 23:28:32.59 ID:COWjizfV.net
>>357
それは流石に穿ちすぎな気がする。秀吉の意向を奉行が曲げられる訳ないから

360 :人間七七四年:2024/03/21(木) 08:26:38.55 ID:FSPfs0fe.net
>>358
秀秋に関白、ってのは後世の創作っぽいけどね
西軍は秀秋の所在を把握してないわけで

361 :人間七七四年:2024/03/21(木) 10:10:49.67 ID:BNYA4Vos.net
まあ幾ら豊臣親族っても家自体は毛利一門だしちょっとねぇ

362 :人間七七四年:2024/03/21(木) 10:11:33.86 ID:eqfX3pOO.net
詳しい人お願いします

戸沢政盛、本堂忠親、南部利直ら奥州の小大名たちが、「東軍」につくとしてそれぞれ誓書を提出しています
あれは自分たちが東軍、つまり家康と秀忠を裏切らないことを約束したものとされていましたが、原文では
「上様」「中納言様」となってます

上様=秀頼、中納言様=景勝か輝元、秀家

と見ることはできませんか?

確かに、従来の説では上様=家康、中納言様=秀忠

でした。しかし、当時の家康が上様はおかしいし、中納言にしても秀忠を指すなら江戸中納言様と書くのでは?

小大名たちは万一を考えて、江戸中納言、安芸中納言、備前中納言、会津中納言と書かなかったのでしょうか?

363 :人間七七四年:2024/03/21(木) 14:00:06.05 ID:Uweg60xW.net
白峰氏論文より
慶長5年8月13日付・8月18日付・8月19日付最上義光宛南部利直・戸沢政盛・
本堂茂親起請文
    敬白天罰起請文前書事
   一、上様・中納言様御事、疎略存間敷事
   一、貴所・我等間之儀、自然他所ゟ成共、家中之者成共、悪様ニ申成、横合之儀有之といふ
とも直ニ申断、不審をはれ、無相違可申談之事
右条々、私曲偽有之者、此霊社起請文之御罰可被蒙者也、神文如常
八月十三日 南部信濃守 八月十八日戸沢九郎五郎 八月十九日 本堂源七郎
                         最上出羽守殿

この内容から上様:秀頼 中納言:輝元とするのはどうかと、当時の状況は
提出者の3大名は最上宛7月7日家康及び家臣連署状により最上口(最上領)から
會津領侵攻を命じられており、その後7月23日最上宛家康書状により
會津攻め中止となり最上からの伝達で伊達政宗は8月3日に会津出兵中止をしり
最上領に駐屯していた3大名はそれよりも少し早めに知る、8月中旬頃に家康の
自領に引き上げて待機の命令を受ける

8月3日内府違いの条が
上杉に届き直江が自身の書状を添えて奥羽の諸将に配布、8月7日秋田実季に直江書状が届き
翌日秋田他奥羽諸将が家康及び榊原に会津攻め中止の照会、秋田の晩年回想では
この時出羽の諸将色めき立ち見えとあり
8月12日直江書状に山形から南部,仙北衆が引き払い最上義光が取り乱しているとあり
上方挙兵により奥羽諸将に動揺が広がり、おそらく様々な流言や雑説が飛び交っていた
と思われる

364 :人間七七四年:2024/03/21(木) 15:37:18.13 ID:Uweg60xW.net
この状況下では一見、1か条目が秀頼、輝元というのも
考えられなくはないが、それであれば最上及び3大名が西軍加担を決めたので
なければ特に最上に起請文を提出する必要はなく、秀次事件で娘を失い
豊臣政権に恨みを持っている最上や鳥居元忠の娘婿の戸沢や
南部が宿敵津軽と懇意の三成の陣営に加わるとも思えず
仮に西軍加担を決めたとすると
2か条目は公儀、秀頼に一筋に奉公などの文言であるのが自然で
お互いに流説、讒言などに惑わされないような内容であるのは不自然

やはりこれは西軍挙兵で動揺する奥羽諸将との結束を固め
家康、秀忠親子への忠節を誓った起請文であるという通説通りでは

中納言は当時、輝元、景勝、秀家、織田秀信、豊臣秀頼
徳川秀忠ですが中納言としかないのは元々家康、、秀忠指揮下の
会津出兵に従軍してたので自明の理だからではないでしょうか
逆に輝元であれば安芸中納言としないとわからないですし
文章の作成者が最上である以上は3大名が万一の場合を考えてというのは
ないかと

当時の家康を天下人の呼称の上様というのは確かに異例ですが
最上は5月7日書状で隣国での戦は内府様一世中にもうないだろうから
人数も身上過分にだし御奉公するとしており、本来天下人に
対して使用する奉公を4度も使用しており(他の諸大名は殆ど忠節と記述)
最上の意識下では次期天下人、主君なのでしょう。
他に目端の利く伊達政宗(8月3日書状)黒田如水(9月16日書状)
も家康に対して奉公という用語を使用しています

365 :人間七七四年:2024/03/21(木) 15:39:55.40 ID:Uweg60xW.net
当時の中納言に小早川秀秋も追加

366 :人間七七四年:2024/03/21(木) 19:11:05.32 ID:eAnj6EQ4.net
西軍にこういう起請文が無いのはなぜだ……

367 :人間七七四年:2024/03/21(木) 19:38:18.74 ID:qp+3cTfD.net
>>362
前にも同じ質問してたよね
上様=秀頼、中納言=景勝、輝元としてるのは白峰氏くらいかね
前にも言ったけど上杉博物館の見解では最上の動向を踏まえて上様=家康、中納言=秀忠としてる

8月18日付直江兼続宛最上義光書状からこの頃最上は上杉との和睦を画策してることが分かるので、それを受けて最上が奥羽
の諸将にも西軍への忠節を求めるために起請文を提出させたとすれば上様=秀頼、中納言=景勝、輝元とも取れなくはない
しかし前後の最上義光の動向を見ていくとやはり上様=家康、中納言=秀忠と読むのが自然だと思う

東軍の勝報が届く以前の9月27日付最上義光宛秋田実季書状で「菟角無二内府様へ御奉公可申上覚悟ニ候間」と言ってる
8月末頃から秋田は交通の遮断されて最上を介さないと独自で徳川方と通信できなくなってる
徳川方ではなく最上に対して私は無二に内府へ奉公する覚悟だと秋田ははっきり
宣言してるから一部(小野寺)を除いて奥羽は一貫して家康方と見ていいと思う

368 :人間七七四年:2024/03/21(木) 20:33:33.33 ID:W8oYqz6Z.net
>>366
当然山ほど取り交わしてたろうが。ただ西軍が負けた時点で処分したってだけ

369 :人間七七四年:2024/03/21(木) 21:44:32.82 ID:CES0xPrx.net
>>361
隆景時代とは重臣も家臣団もかなり入れ替わってるし知行宛行文書も毛利とは別口になってるから
秀秋小早川家はあくまで毛利から独立した豊臣一門て認識だなぁ

370 :人間七七四年:2024/03/21(木) 21:45:51.03 ID:eacPJyhv.net
徳川親子ならわかるけど秀頼と輝元を同列に置くのはないだろうとは思うな

371 :人間七七四年:2024/03/21(木) 23:37:34.78 ID:eAnj6EQ4.net
このスレ見てると西軍が本当に自爆するみたいな挙兵をしたんだってことがよくわかる
ならどうやったら勝てたの?
家康を差し違える覚悟で暗殺するしかないか?
あるいは寿命を待つか?

372 :人間七七四年:2024/03/22(金) 06:26:21.33 ID:4JktwE5Y.net
>>371
まず差し違えでは意味がない、徳川に対する考えがどうであれ、己が破滅してでもって奴は
いないと断言してもよいから
そして自分らの現在の立場の維持や向上が目的の連中は、そもそも寿命待ち作戦に
我慢できないから挙兵してるわけで(つまり、前提が成立しない)
あくまで西軍にとって理想的なご都合主義満載な展開にするのなら、諸大名が西軍の発布した
内府違いの条々を全面的に受け入れ、上杉征伐軍も完全に瓦解、孤立した徳川は
震えあがって関東に引きこもり、諸侯は奉行達に頭下げに行く…になるのかね(その後徳川討伐)
頭悪い言い方するのなら『敗者側が勝てると思った脳内勝利ルート通りに物事が進めば勝てる』
としか言いようがない

373 :人間七七四年:2024/03/22(金) 07:17:46.24 ID:dVj+/gFR.net
>>372
対米開戦みたいやな

374 :人間七七四年:2024/03/22(金) 08:26:02.96 ID:N3DKzQ4U.net
いくつかの誤算があった結果あぁなった。

伏見城をすぐに落とせていたら、
前田の後詰目的?南下はなかったかもしれない。
田辺城をすぐに落とせていたら、
田辺攻囲軍を北陸か美濃尾張に派遣できていた。
秀元、吉川が伊勢進軍にごねなかったら
数日早く伊勢攻略は終わっていた。
伊勢に大軍を投入せず美濃尾張に主力を送っていたら
岐阜城は落ちなかった可能性はある。

初めから第二次小牧長久手やるつもりの戦略で行っていたら
結果は変わっていた可能性はけっこうあると思う。

375 :人間七七四年:2024/03/22(金) 09:30:23.71 ID:5MhA3BZa.net
西軍の誤算はただ一つ、毛利輝元を見誤った

376 :人間七七四年:2024/03/22(金) 09:40:43.08 ID:v4dTpYya.net
>>374
ないない。
そもそも、何万人集めようが軍勢を束ねて指揮する者がいないのだから、烏合の衆にしかならんよ。

関ヶ原(大垣城+南宮山)だって、まともに指揮されていれば一瞬で瓦解するような兵力差ではなかった。

裏切った毛利や小早川と摺合せしろとまでは言わん。
せめて奉行衆の中でくらいは意見の統一しとけと……。

377 :人間七七四年:2024/03/22(金) 09:50:59.57 ID:NL10hmUp.net
幽斎はなんで東軍についたん?
息子が東なら西も担保して味方はともかく早々に開城だろ。
多くの大名はそうしている。
当時どちらが勝つかなんて分からないんだしな。

378 :人間七七四年:2024/03/22(金) 09:51:40.24 ID:v4dTpYya.net
>>375
逆になんで毛利輝元をそこまで信用できると思った?

能力的にもだが、政治的立ち位置からしても、秀吉なきあとの豊臣に、
ましてやその役人でしかない奉行衆に従う義理はない。

対徳川で共同歩調を取ったとしても、思うように動かせないのは分かり切っていただろうに。

西軍の敗因は、秀吉時代のように豊臣の名を持ち出して命じれば皆従ってひれ伏すという
奉行衆の傲慢な思い上がりと甘い見込みでの行動だと言わざるをえない。

379 :人間七七四年:2024/03/22(金) 09:52:57.84 ID:R0uz8v7K.net
西軍の誤算てことなら東軍諸将が総じて家康に協力的だったことだろ
真田に送った三成の書状からも東軍諸将の去就に対して楽観的に考えてる節があったが
まさかこぞって自領の城と兵糧まで提供するとは思ってもみなかったろう
アレで美濃まで速攻かけられる結果に繋がった
秀吉や豊臣が得意としてた電撃戦を逆に喰らうような格好で

380 :人間七七四年:2024/03/22(金) 10:06:31.92 ID:v4dTpYya.net
>>379
正直、秀吉末期の悪政が祟ったとしか思えない。

各地の大名は豊臣家に散々押さえつけられ、気分ひとつで潰されたり無益な海外遠征させられた。

秀吉死後に全く統制が取れなくなった豊臣政権中枢を見れば、
最大の大名である徳川に付いていこうと思うのは当然の成り行き。

上杉や毛利の行動(対徳川より自領周囲への侵攻)も別の形での豊臣からの脱却と言える。

381 :人間七七四年:2024/03/22(金) 10:07:34.86 ID:E6JY3B2X.net
先の大戦が相手に初手大打撃を与えたら後は向こうも言う事を聞くわ
(ウイーン会議までの欧州の戦争パターン)なんて発想で始めたら
アメさんにそんなパターン通じなくて完全ズダボロにされたように
西軍も自分達の都合のいい戦果ばかり得られる戦術じゃそりゃ負けるわなーと。

382 :人間七七四年:2024/03/22(金) 10:08:14.78 ID:N3DKzQ4U.net
>>376
東軍先発隊も諸将の軍議で岐阜攻め決めたわけでしょ、
西軍とそう変わらん。
例えば小牧長久手の時に、小牧山に氏直氏邦の
北条の援兵3万が来たとする。
楽田には秀吉と羽柴主力がいる。
この状況で岐阜攻めを織田徳川北条連合軍は選択できるか?
かなりリスキーでしょ、
つまりなにが言いたいかというと、
岐阜を攻められない状況にすればいい、
関ヶ原の場合ならば美濃尾張方面の兵力が多ければそれを為せる。
犬山押さえられてるのに木曾川渡河して岐阜攻めって、
兵力互角ならかなりリスキーな選択だよ。

383 :人間七七四年:2024/03/22(金) 10:30:20.60 ID:v4dTpYya.net
>>382
兵力の問題ではなくて、その、誰をどこに配置してという采配を振るう人がいないのよ。
合議と言っても、史実レベルですらろくに合議ができていない。

9月14日夜間の大垣城からの移動とか、せめて長束や安国寺にくらい連絡しろよと。

384 :人間七七四年:2024/03/22(金) 12:34:06.48 ID:qxBisojd.net
豊臣の命令で朝鮮出兵したら恩賞どころか讒言されて不当な処罰を受ける
豊臣の命令で上杉征伐に出たのに内府違いの条々で糾弾される
で、次は東軍諸将は豊臣のために徳川を討てってw
東軍諸将からすりゃ西軍のトップが毛利だろうが三成だろうがそれこそ豊臣家が西軍支持だとしても命がけで徳川と戦ったところでその働きに報いてくれるとは思えないだろうな

385 :人間七七四年:2024/03/22(金) 12:44:13.36 ID:Tvo3BDll.net
豊臣は「殿下」と呼称される皇族と同じ絶対的に尊貴な存在だったんだー
とか今でも言ってるのがいるけど奉行も同じ勘違いしてたんだろうなあ
実力がないくせに権力欲だけはあるからハリボテでも豊臣の権威とやらに縋るしかなかったんだろうけど

386 :人間七七四年:2024/03/22(金) 15:14:09.48 ID:5MhA3BZa.net
>>383
松尾山を取られたって緊急事態でもあるし連絡無しは仕方ない。というか連絡をする理由があんまない

387 :人間七七四年:2024/03/22(金) 16:16:55.31 ID:v4dTpYya.net
>>386
松尾山を奪還するにしても近江へ退却するにしても、東軍の牽制は必要でしょ。

大垣城から兵力をごっそり抜くなら、そこを補充するなり支援できる位置に軍勢を移動させるなりも必要。

それこそ散々「南宮山が動かなかったから西軍が負けた」と言われているわけで。

別のスレで記載があったが、実際の移動時間を計算すると吉川広家が南宮山の麓で邪魔をしていなくても、
南宮山勢が開戦当初から東軍に殺到しないと西軍は壊滅するようなタイムスケジュールだったとのこと。

そのへんの打ち合わせも無く「緊急時だから仕方ない」なんて言うようなら、どれだけ兵がいても西軍は負けるよ。

388 :人間七七四年:2024/03/22(金) 19:33:26.28 ID:DMj7nihU.net
>>364
その5月7日付仁賀保挙誠・赤津弾正忠・瀧沢春長宛最上義光書状の当該箇所は
「か様之隣国ニ御陣なとの御座候事者、内府様御一世中ニ者有之間敷由存候条、
人数以下之事御身上ゟ過分之躰ニ被成候而、御奉公之義今度ニ御座候由存候」

なので正しくは最上が人数を身上より過分に出して家康へ奉公することを宣言
したものではなく、仁賀保や赤津に対して家康への格別の奉公を求めたものだね

389 :人間七七四年:2024/03/22(金) 20:02:03.42 ID:dS8+nTS4.net
>>387
緊迫した戦況が許さなかった。松尾山は大垣と近江を繋ぐ要衝でそこを東軍が押さえた意義は大きい
ここで問題が2つ。一つは松尾山を奪還しないと大垣城は絶体絶命の窮地にある。仮に何もしなかったら補給路を断たれた上に徳川含めた大軍に焼き殺される。二つめは単純に生存のみを考えるなら関ヶ原に打って出るのが最善なのよ。松尾山を最小の兵で囲んで佐和山に向かって逃げる。その場合逃げ遅れた連中は全滅するが
だからこれを軍議にかける余裕が無かった。紛糾するに決まってるじゃん

390 :人間七七四年:2024/03/22(金) 20:17:36.69 ID:r4Oed5Kn.net
>>389
松尾山は陣城化してたと言われるのにそこに小早川の軍が入れば早々に落とせるかはわからない
小早川の守備状況は行って見なければわからないはずなのに打てる手を打たずに見切り発車
しかも大垣城の外郭を焼き移動を喧伝する自殺行為
案の定、追撃を受けてあっさり負けた

実際は毛利に連絡したけど毛利が動かず見殺しにしたのかもしれないけど、そんな史料は無いからな

391 :人間七七四年:2024/03/22(金) 20:47:23.38 ID:v4dTpYya.net
>>389
外様であり利害一致のみで参加している毛利や吉川はともかく、長束や安国寺は志を共にして立った味方だろ?

関ヶ原へ向かう行動は、勝敗が決定的になるような、あるいは脱出の可否に関わるような最重要事項。

それすら紛糾するからと合議どころか連絡すらしないというような関係なら、
もはや合議で決められることは何もないし、誰も指揮が取れないということ。

こんな集団、仮に20万人の軍勢を集めても確実に負けるよ。

392 :人間七七四年:2024/03/22(金) 21:29:12.48 ID:5MhA3BZa.net
悠長にお話してたら大垣城が完全包囲されて死
しかも話は単純に「こうしよう」で決められるもんじゃないし

393 :人間七七四年:2024/03/23(土) 05:08:50.09 ID:iFk2knk7.net
垂井に東軍が進出した時点で大垣は捨てるべき
佐和山まで逃げてそこで抗戦し、伊勢や丹後、大坂や近江にいる西軍に後詰させて後詰決戦

あるいは瀬田に砦を築いているから、そこにさらに防衛網を築いて瀬田を防衛線にして対峙する
その間に四国や九州に送り出していた毛利勢を呼び寄せる

これくらいか、やれることとしたら

394 :人間七七四年:2024/03/23(土) 12:07:21.97 ID:TCSZOZWt.net
南宮山からすら関ヶ原の様子が分からないから残された連中は信じるしか出来ない。しかも信じたとて関ヶ原部隊が負けたら残ってる連中は逃走経路を失って皆殺しに遭う。こうした状況で関ヶ原に向かう事を南宮山に報告する事が適切といえるかどうか

395 :人間七七四年:2024/03/23(土) 13:44:47.66 ID:iFk2knk7.net
奉公のほうが重い意味を持つのか……
忠節のほうがどちらかというと、身分上の人に尽くすみたいに思ったが……

396 :人間七七四年:2024/03/23(土) 14:09:10.51 ID:Nvwf9o8r.net
>>391
吉川は言われてないとして。長束安国寺にも何もなかったん?

397 :人間七七四年:2024/03/23(土) 14:31:17.14 ID:IPxphfgQ.net
素朴な疑問だけど西軍主力の転進をなにも南宮山勢に知らせてないというのは
2通の吉川書状を引用の高橋本が出典でしょうか?

9月17日吉川広家書状案(913号)には秀秋逆意が明らかになり
A:大柿衆も山中の大谷陣が心元無くの由にて引取られ候
B:これは佐和山へ二重引き仕る覚悟と相見え候(意訳)
とあり大谷陣が心もとなくなったのでその近くに移動とのことと
Aの説明はあり
次の佐和山への二重引きに関しては相見え候とあるので
Bは吉川の推量と思われます

吉川家文書917号では石田、大谷は相談して南宮山に軍勢を集結して一戦する
と決していたところ、9月13日家康赤坂着陣、石田、大谷は大垣、南宮を捨て山中に引き取り
候時に前日までの評定とは相違して佐和山へ入ることがわかり広家らは
意見をした(意訳)とあり、報告があったともなかったともとれますが
家康着陣日が相違してますし913号では佐和山にひくのではと
推量しただけのはずが、917号ではそれについて意見したと矛盾しており
あまり信用できません、917号は東軍との密約について毛利家中より
批判がありそれに対して翌年毛利輝元に弁明という体裁ですが
家康を大御所と書いている部分もあり1605年以降に作成されたもので
参考資料くらいにしかならないのではないでしょうか

いずれにしても山中方面に移動に関して事前相談がなかったのは
確かでしょうが決定後の事後報告は913号のAの部分から
あったのではないでしょうか

398 :人間七七四年:2024/03/23(土) 14:39:23.65 ID:9IRWZUPu.net
そもそもどうやって、どのルートで石田ら大垣勢は関ヶ原まで行ったんだ?

南宮山南側の街道を通るなら、西寄りの南宮大社付近の吉川と安国寺はともかく、
街道付近に陣取る長束と長宗我部と接触してなけりゃおかしい。

なんと言って3万人にものぼる大軍を通してもらったのか、
その時に一緒に連れて行くなり、大垣城へ入場させるなりしなかったのか。

399 :人間七七四年:2024/03/23(土) 15:54:46.68 ID:vh6iGTsM.net
>>396
こいつらに伝える理由が無いから

400 :人間七七四年:2024/03/23(土) 16:31:21.71 ID:Nvwf9o8r.net
>>398
普通に南宮山南側でいいでしょ長束と長宗我部は別に敵じゃないし
三成が佐和山まで撤退して中山道を守るなら、対応して長束には東海道を水口かどこかで守ってもらわんといけんからついてこられても大垣にこもられても困るでしょ

401 :人間七七四年:2024/03/23(土) 16:39:46.57 ID:rng1kGfo.net
>>397
917号文書の「佐和山へ入ることがわかり広家らは意見した」と意訳したのは高橋氏?
「前日に佐和山へ入ることが露見した」まではいいとして、広家はそれに対して何のリアクションもしてないと思うが

佐和山へ入ることが露見したの続きを読んでみると、
「佐和山へ可被打入催露顕候、然者拵之儀連々申上も此時ニ候間、黒甲州へ可申試之通、福式申談、一人遣之以口上申候處、
則井兵・本中・福左太・黒甲州㚑社血判之以起請文被申易候、此方ゟも福式・我等神文進之候て、九月十四日御和平相澄候事」

佐和山に入ることが露見した後、広家は家康との和睦を申し出るのは今この時だと福原と相談して黒田を通じ使者を送った
井伊・本多・福島・黒田は血判起請文を出すことを約し、こちらからも誓文を提出し9月14日に和睦が成立したとある

広家は三成らが佐和山に移動する計画を知った後、すぐに和睦の準備を始めたとしかめないと思う

402 :人間七七四年:2024/03/23(土) 17:08:20.61 ID:Nvwf9o8r.net
>>399
ちょっと意味わかんないや

403 :人間七七四年:2024/03/23(土) 18:23:39.63 ID:Ap9Wu4EO.net
佐和山まで辿り着いても近江は東軍の田中、堀尾、山内、中村などにとっては勝手知ったる他人の庭なんだよな
甲賀も大津も敵対してるし詰んでるわ

これ秀秋が退路塞いで偶然大軍同士の決戦になったから格好良さげなイメージ付いたけどもし佐和山に籠城してたら後世でこんなに語られることもない戦になってたかもしれない
歴オタとしては秀秋様様だ

404 :人間七七四年:2024/03/24(日) 07:15:33.97 ID:ql+MJl3q.net
で?結局三成や宇喜多は関が原への移動を毛利、吉川、長束他に
全く連絡しなかったというのがFAなのか

405 :人間七七四年:2024/03/24(日) 09:19:23.41 ID:aMtaHbJV.net
吉川は聞いてないって言ってる。そのほかは不明。

406 :人間七七四年:2024/03/24(日) 09:19:40.11 ID:1QNzmVbd.net
>>402
伝えたからなんなの?って問題
関ヶ原が死地で大垣に居れば生き残れるなら安国寺や長束は涙して喜ぶだろうよ。だが現実は関ヶ原から佐和山に逃げれば生存確定、大垣に残った連中は全滅必至となれば話は違う。しかも大垣からは関ヶ原が見えないからマジで信じるしか出来ない。大垣衆は関ヶ原で戦う決意をした、となれば南宮山との連絡不備は法的には問題であっても戦略的には無問題だろう。仮に連絡したとして長束や安国寺が止めにきたらただ戦機を逸して全滅するだけ

407 :人間七七四年:2024/03/24(日) 10:00:44.19 ID:aMtaHbJV.net
ありがとう。長束安国寺にも連絡してないっていうからそういう資料でもあるかと思ったんだすまない

408 :人間七七四年:2024/03/24(日) 10:31:23.82 ID:b/B6sfjE.net
大垣見殺しは南宮山見殺しとイコールだが
連絡無しの佐和山撤退は毛利の離反を招く
あるいは毛利本家と毛利秀元吉川広家の内紛勃発だ

409 :人間七七四年:2024/03/24(日) 11:14:10.43 ID:1QNzmVbd.net
松尾山を小早川=東軍に取られた時点で西軍の取れる戦略は「このまま大垣に陣取って大坂からの後詰を待つ」「松尾山を急襲して小早川を退却させる」「大垣から退却して伊勢に逃げ込む」くらい。ここから退却はまず可能なのか怪しい。近江への道を潰されたら補給路が無いから長期戦も取りにくい。残る道は関ヶ原しかない
だが関ヶ原は唯一の逃走経路で誰が行くのかからしてモメる。絶対モメるだろうこんなの。関ヶ原で負けても逃げられるが大垣に残されたら降伏が認められないと死だもの

410 :人間七七四年:2024/03/24(日) 11:40:49.11 ID:i4ho/ndt.net
赤坂に家康到着したらほぼ負け確なんだから、
9月15日にどうすべきか考えても意味ないんだけどな。

411 :人間七七四年:2024/03/24(日) 14:12:56.97 ID:1QNzmVbd.net
家康到着だけならまだチャンスはある。大垣を南宮山・関ヶ原含めた一帯で支えて防衛戦、長期戦に持ち込んで徳川が和睦したいと思うようなイベントが起きれば勝ち。西軍の失態は大垣を最終防衛線に想定していながらそこに軍事指揮権者を置かなかったことか

412 :人間七七四年:2024/03/24(日) 14:24:21.43 ID:aMtaHbJV.net
チャンス無いでしょ

413 :人間七七四年:2024/03/24(日) 14:37:50.87 ID:1tRE4LSN.net
>>406
つまり三成とその周囲以外は、大垣城も南宮山勢も殿ですらない、囮として壊滅しろって話だろ?

もはや戦略も大義もなにもあったもんじゃないな。

で、のこのこ関ヶ原山中で立ち止まって東軍の追撃食らって逃げることすら出来なかったのか。

……無能オブ無能の輝元を更に超える無能じゃん。

414 :人間七七四年:2024/03/24(日) 15:26:52.40 ID:bb/kQyz/.net
西軍方は輝元が前線に居ない時点で期待出来ないんだよな
形だけでも総力決戦の様を呈すれば家康も嫌だと思うが史実関ヶ原なら否応なしに家康は早期の決戦に踏み切りたい所やしな

415 :人間七七四年:2024/03/24(日) 17:49:46.81 ID:T2jMvImq.net
南宮山に総司令官が居るなら報告して下知を仰げば良かったが、そんなのは居ない。居ないとなると報告は無駄どころかマイナス。吉川広家も言ってる通り関ヶ原を抜けて佐和山に逃げ込む事も出来る訳で南宮山に「俺たちを信じて戦ってくれ」という事になる。だがそれが嘘でドロンされたら死ぬのは毛利、ってなるとこれは荒れる。関ヶ原で決戦する保証がどこにあるよ。つまり言おうが言うまいが結果は変わらなかった

416 :人間七七四年:2024/03/24(日) 21:55:58.35 ID:SmYW6k7k.net
大垣決戦が間違いだとしてどこで決戦する?大垣と佐和山を捨てたら京大坂は目前、どこで止めるべきか

417 :人間七七四年:2024/03/24(日) 22:07:13.39 ID:HL06AFV/.net
そもそも論だけど、知らせる知らせない関係なく、南宮山の西軍も、赤坂の東軍も、大垣勢の移動は認識していたろ。

何万もの軍勢が数kmも離れていないところで城を抜けて山を迂回していくんだぞ?
どんな間抜けな軍隊でも気が付かないはずがない。

そしてその時点で南宮山勢は、不戦の密約があろうとなかろうと、「動かない」が正解。
攻められるにしても陣地化された自陣で迎え撃てるからまだマシだし、
東軍は高確率で勝手に移動した大垣勢を狙うから延命できる。

ちなみに南宮山勢には、その東軍の背後を突く、なんて選択肢はない。
大垣勢狙う振りして陣地から釣り出されたところを倍の兵力で叩き潰されたらお終いだからな。

まあ、結果的には最初から不戦の密約だったわけだが。

418 :人間七七四年:2024/03/24(日) 22:56:09.57 ID:3fbGEhxB.net
wiki読むと南宮山の陣は大垣方面での戦いを想定してそちら方面へ堀切や土塁が強化されてて大垣城方面への視界も良好とあるけどそうなの?
もしそうなら大垣勢の佐和山への移動が暮れからだろうと深夜からだろうと
数万の大軍の動きが南宮山勢から見て全く掴めなかったということは無いと思うが

419 :人間七七四年:2024/03/25(月) 01:43:15.64 ID:mL//+yxh.net
>>411
9月15日時点では無理。何度も言ってるが。
毛利の不戦、小早川秀秋の松尾山占拠、
家康到着。ついでに鍋島も離脱してるし。
さらに7〜10日もすれば前田、秀忠も到着する。
形勢不利を見た西軍勝ち馬ライダー軍団は
続々と寝返るか逃げるかする。
もう決戦など無理。
9月15日ではもう無理。
ギリギリなんとかなる可能性があるのは9月12日くらいまで。

420 :人間七七四年:2024/03/25(月) 01:54:50.79 ID:mL//+yxh.net
かすかな望みとしては、大垣南宮山方面は堅持のまま、
9月18日くらいに大津城攻略隊で松尾山の小早川秀秋の排除、かな。
どのみち毛利不戦が効いてるんでもう勝てないだろうが、
9月下旬に前田が木之本辺りに布陣、
秀忠赤坂到着で、ひょっとしたら史実よりはマシな結果の事実上敗北の和睦ができるかもしれない。

でも東軍からしたら和睦なんかせずに佐和山攻撃しに行くだろうなぁ。
和睦するメリットあまりないし。
毛利不戦はきついわ。

421 :人間七七四年:2024/03/25(月) 06:57:27.19 ID:5IZtEs3b.net
西軍が動かなくても家康着陣で兵力に余裕が出きた東軍が
9月15日から9月17日まで動かないとは思えないけどな
山中の大谷陣を小早川とともに攻撃するか、南宮山勢の
長宗我部、安国寺、長束などを駆逐し
毛利勢に降伏を迫るかなどしそうだけど

422 :人間七七四年:2024/03/25(月) 08:18:35.48 ID:t5zWASmP.net
南宮山からは大垣衆が出陣して行くのは見える
ただ山中、関ヶ原までは見えない。だから松尾山を奪還しにいったのか佐和山まで逃げたのかは判断つかない

423 :人間七七四年:2024/03/25(月) 08:32:51.84 ID:hxxxhtTT.net
岐阜以降で西軍に勝ち目があったのは、やはり9月12日頃、南宮山勢が到着して西軍が東軍の兵力を上回った一瞬しかない。

ここで一気に決戦を挑んで、家康到着まで無理をしたくない東軍を赤坂から後退させ、
東軍との連絡線を失い西軍のただ中に孤立する小早川秀秋が東軍側参戦するのを躊躇させる事。

小早川が動かないということは9月14日の吉川による毛利勢の不戦もなくなる。

希望的観測に希望的観測を重ねた無理やりなシナリオだが、これ以外、後知恵ですら思いつかない。

424 :人間七七四年:2024/03/25(月) 09:02:26.59 ID:htpoCLhY.net
退けば退くほど離脱者が増える
岐阜から大垣に退いて京極と小早川が離反
大垣から関ヶ原で毛利が離脱して終了

情報が無ければ対策なんぞ立てようがない

425 :人間七七四年:2024/03/25(月) 10:32:46.10 ID:Zk+xvR9p.net
家康は井伊直政を指揮権者に指名した。その割に影が薄いのは直政が家康の威を借りる事無く諸将のアイデアを聞いて活かしたからだろう
対して西軍にはそういう存在はいたのだろうか

426 :人間七七四年:2024/03/25(月) 11:07:29.83 ID:hxxxhtTT.net
>>425
いたら史実の結果にはなっていない。
各大名にそれぞれ指揮権がある、信長包囲網の時と同じようなもの。

そもそも主な大名自体、家中すら纏まっていないところばかりなわけで。

毛利・吉川(毛利遺領問題)
宇喜多(宇喜多騒動)
小早川(筑前の改易・復帰に伴う家臣団崩壊)
島津(庄内の乱)
長宗我部(元親死去に伴う家督承認問題)

そりゃあ兵のいなかった伏見とか伊勢みたいに無難なところを攻めてやった感出すしかないわ。

427 :人間七七四年:2024/03/25(月) 11:13:34.93 ID:mL//+yxh.net
>>421
多分そう来るだろうね、山中村東軍で押さえて
山中村、松尾山ラインで佐和山方面から来る西軍の迎撃。
そうなると大津城攻略隊も迂闊に美濃方面進出できなくなる。
前田が南下してくるとまずいから大津組は
いったん佐和山まで下がるかな。

もうどうにもならんやん、西軍。

428 :人間七七四年:2024/03/25(月) 18:06:13.82 ID:FSyBno1z.net
誰か自分の命に代えてでも家康と刺し違えるような忠義の勇者はいなかったのか……

429 :人間七七四年:2024/03/25(月) 18:14:17.23 ID:AzM3WOE7.net
家康は完全に護衛されてるから本当に無駄死に
西軍の根本的な誤解は家康は上洛出来ないのではなく上洛してない、つまり戦略的理由で見送ってる事を理解して無かった事じゃないか
上杉と佐竹や豊臣の影響力を過大に評価して家康の戦略を読み違えた。伊勢や北を攻めるのは悪くは無かったけどせめて直ぐに美濃を支えられる様に戦力配置をしておくべきだった

430 :人間七七四年:2024/03/25(月) 20:23:42.45 ID:l/76IFFv.net
加賀野井弥八が最初は家康狙ってた説とかあるな
何の忠義かはしらんけども

431 :人間七七四年:2024/03/25(月) 20:39:16.49 ID:bneEtOX/.net
独身者に社会的地位を持たせないのは古今東西から意味あんのよ
山上も幸せな家庭じゃないから特攻できたんよな

432 :人間七七四年:2024/03/25(月) 20:53:44.71 ID:htpoCLhY.net
家康殺しなんて現代で宝くじの一等が当たるようなもん
それなら正面から戦ったほうがマシ

433 :人間七七四年:2024/03/25(月) 20:54:22.24 ID:htpoCLhY.net
ここにもスクリプトか

434 :人間七七四年:2024/03/26(火) 06:41:38.47 ID:Og4bD5a7.net
加賀野井は子供いるから結婚してるはず
息子は水野にぶっ殺されたけど

435 :人間七七四年:2024/03/26(火) 07:54:29.62 ID:jdBBfV4W.net
あの時代は跡継ぎがいるから自分は無茶できるってのもあるかも試練

436 :人間七七四年:2024/03/26(火) 10:25:29.97 ID:Y+zVHOZA.net
西軍も豊臣を立てただけあって中々の求心力を得たけど決定的なモノは得られなかった

437 :人間七七四年:2024/03/26(火) 17:26:37.84 ID:MgYjTlT/.net
>>434
そもそも豊臣御為って言葉がこの時期は強すぎる、よくも悪くも
たとえ建前でもこの言葉を掲げなければ勝負の土俵にすら立てないよ
家康でさえ、この頃は豊臣政権の第一人者である事が大義名分なんだから

438 :人間七七四年:2024/03/26(火) 20:36:44.47 ID:p3ICFVw5.net
家康が徹底して豊臣と距離を置いた事が結果的に家康を助けたな

439 :人間七七四年:2024/03/26(火) 21:57:36.29 ID:XmKjL0Jq.net
関東が領国だから誤解しやすいが
家康本人も側室たちも、秀忠嫁も伏見か大坂にいて
秀忠一人が江戸に単身赴任してた状態だぞ

文禄の役始まってからは政権中枢でずっと仕事してる
誰よりも秀吉のそばにいたから信頼されたんだよ

440 :人間七七四年:2024/03/27(水) 08:25:13.32 ID:5OQBs/YA.net
大垣ってどっちかというと西軍エリアだろ
もっと戦力集中しろよ なんで東軍のほうが多いんだよ・・

441 :人間七七四年:2024/03/27(水) 08:37:54.34 ID:UZC0t4zO.net
>>440
西軍は20万人(領地軍含む全軍)を集めても5万人(家康到着前赤坂)の東軍に勝てないよ。

南宮山勢どころか、大垣城内3万人すらまとめられなかったのだもの。
むしろ増えれば増えるほど身動きが取れなくなる。

442 :人間七七四年:2024/03/27(水) 08:58:03.50 ID:nboSj760.net
>>439
誤解されやすい家康といえば、家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証し
真実を解明している最新研究満載のこの書は必読だな

誤解だらけの徳川家康 (幻冬舎新書) 360ページ1166円

家康は遺訓「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」で知られるなど
「寡黙な苦労人」と思っている人が多いが、実はこの言葉は後世の創作だった。
「関ヶ原合戦で徳川家の覇権が確立」「神君伊賀越え」「真田父子に恐れおののいた」
などは、近年の研究によって事実とはいえないことが判明。
これらは「松平・徳川中心史観」「アンチ家康」によるもので家康の神格化、
または面目潰しのためにつくられていたのだ。
本書では家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証し真実を解明。
従来の家康像を大きく覆し、新たな歴史を紡ぎ出す。

443 :人間七七四年:2024/03/27(水) 10:42:38.85 ID:52jIErH5.net
家康は徹底して豊臣と距離を置いて豊臣一門衆にならないよう努力した。その甲斐あって天下を取れた

444 :人間七七四年:2024/03/27(水) 11:43:31.28 ID:34SCEMsj.net
まーた大門推してるアホ湧いてんな

445 :人間七七四年:2024/03/27(水) 12:31:17.17 ID:oMnvsDCf.net
秀吉の妹が家康の継室
茶々の妹が秀忠の正室
その娘が秀頼の許嫁

秀長、秀次亡きあとの一門衆筆頭だよね

446 :人間七七四年:2024/03/27(水) 17:04:44.60 ID:4guYmF47.net
そもそも一門衆とは?の定義の問題もあるが置いといて一般的に使われる一門衆には外戚は含まないんじゃないの
徳川は豊臣一門とは言い難いが…
親戚=内戚(一門)+外戚 ってイメージなんだけどな

447 :人間七七四年:2024/03/27(水) 18:03:16.25 ID:xkqqDyUc.net
家康は関ヶ原時点では豊臣とは関係薄い。朝日姫はとっくに死んでるしその間には子供も居ない。秀忠の正室は浅井長政の娘で豊臣と直接の関係は無い。そして秀頼と秀忠娘の婚姻は実行されてなかった
そもそも朝日姫との結婚で家康は秀吉に「こいつとの間に子供は生まれない」ことを認めさせてる
これにより「家康と朝日姫の間に養子を送る」ことすら出来なかった

448 :人間七七四年:2024/03/27(水) 18:59:05.14 ID:/Jf/L4MV.net
>>445
時期はずれてるけど3つとも秀吉が決定して家康に拒否権がほぼ無いんだよな
2つめは秀次事件のあとに秀忠と江の婚姻が決まってるから、あからさまな抱き込み工作
3つめは最晩年の秀吉は必死だなと
自業自得なのが大半だが

449 :人間七七四年:2024/03/27(水) 19:18:28.03 ID:UZC0t4zO.net
直系断絶はともかくとして、秀吉の姉の子孫が九条家を経由して大正天皇の正室となり、
昭和天皇以降の皇家に繋がるというのも面白いよな。

450 :人間七七四年:2024/03/27(水) 20:56:51.26 ID:FDwhrhuM.net
折角旭と結婚させたのに養子入れて徳川への楔にするとか出来なかったのがね。そんだけ家康が強かったんだろうけど。そのせいで家中に豊臣派を作って厚遇して統制するって戦法が徳川に使えなくなって逆に豊臣の取次が徳川に取り込まれる始末

451 :人間七七四年:2024/03/27(水) 21:16:08.56 ID:oMnvsDCf.net
入れる養子要員がいなかったからな

秀康を返し、代わりに長丸(秀忠)を預かったのがそれを狙ってなのかも知れないけど
タイミング悪く朝日が亡くなって縁が切れちゃうのよね

452 :人間七七四年:2024/03/27(水) 21:56:33.67 ID:xo1vf6MH.net
江が秀吉養女として秀忠に嫁いでることを知らない感じ?

453 :人間七七四年:2024/03/27(水) 23:30:05.28 ID:JR+OEc+3.net
それを言い出したらキリがないゾ

454 :人間七七四年:2024/03/28(木) 08:41:30.05 ID:YlCjs62j.net
家康は秀吉と親しくする姿勢こそ見せたが豊臣と深く繋がる事は避けた。この姿勢は徹底していて徳川家中にすら生まれなかった。それにより徳川家の親豊臣派が家康に謀反、みたいなノイズ無くゴールに辿り着けた。こう見ると淀君との結婚が流れたのは最高だったな

455 :人間七七四年:2024/03/28(木) 09:53:59.88 ID:Xln+N8zv.net
キリはあるぞ
養女なんだから秀吉の子供扱いだよ

456 :人間七七四年:2024/03/28(木) 10:20:22.98 ID:J1fZ8qO/.net
家康の養女と結婚した養子を、実子が産まれたから邪魔だといじめて殺した福島正則に一言おねがいします

457 :人間七七四年:2024/03/28(木) 10:38:04.60 ID:YlCjs62j.net
>>455
「扱い」だから実子と同じ効果は無い。そりゃ相手がそう感じてくれるかもしれないけどそれは個人の感覚で他人が強要できるもんじゃない。江の方は淀君との血縁こそ強調出来るが秀吉の養女だからというのは然程意味はなかった。少なくとも秀忠にそうした縁を感じさせる意味は無かったしなんなら家康にすら効果無かった

458 :人間七七四年:2024/03/28(木) 12:15:59.94 ID:ML83M4iF.net
徳川家の中に親豊臣派と言えば例の石川数正だな
あれ数正だけでなく何人か引き連れて出奔してるが
結果的に潜在的な親豊臣派もいなくなることで家中分断が回避されたと言えなくもない
家老格の数正の出奔でイケイケの武闘派の頭を冷やし危機感持たせる効果もあった
実際秀吉からしたら数正が徳川に残っててくれた方が徳川弱体化に向け都合良かったのかも知れない

459 :人間七七四年:2024/03/28(木) 12:31:38.92 ID:MyU73LZV.net
>>455
秀吉の養子ほど軽い言葉はないよな。
血縁でも秀次は切腹、秀勝は領地没収、妻側の血縁でも秀秋は領地没収✕2。

血が繋がらなければ織田秀勝(織田信長四男)、結城秀康(徳川家康次男)、池田輝政、池田長吉(池田恒興次男三男)、
伊達秀宗(伊達政宗長男)、宇喜多秀家(宇喜多直家長男)

養女まで広げれば更にわんさかといるし、全体的に、見境なしに養子にしては扱いが酷いので、
養子だからと言ってもだから何?という程度の権威しかない。

460 :人間七七四年:2024/03/28(木) 16:39:16.99 ID:o/H9Qadl.net
実子と養子が同列な訳がない
養子と言っても育ての親とよべる関係性なら別物だが婚姻の為にワンクッションとして養女入りしたような件は子供と言えんよ
一応は養女名目で常日頃の付き合いをするのが目的なわけだしな

461 :人間七七四年:2024/03/28(木) 17:02:22.68 ID:YlCjs62j.net
家康は全く豊臣と縁が無い、というわけでは無いが際立って近しいわけでもないんじゃないか。豊臣家と連なる一門衆で言えばまず宇喜多秀家(秀吉猶子・正室が秀吉養女)が筆頭でそこから小早川秀秋ら木下一族と並んで家康はその下あたり
仮に朝日姫との間に子供が居たら家康もかなり豊臣一門に近くなっていたけど「子供が秀吉一族と結婚」枠では

462 :人間七七四年:2024/03/28(木) 17:31:21.60 ID:lvfIQuZc.net
浅野家は一門衆かな?

463 :人間七七四年:2024/03/28(木) 17:41:59.22 ID:8Yova7/w.net
どこ基準でみるかだが家が父系と違えば一門とは言いにくいでしょ
嫁方や母方を一門と呼ぶには違和感あるけどな

464 :人間七七四年:2024/03/28(木) 17:56:22.52 ID:YYyG8HdW.net
久松松平は家康の一門か?

465 :人間七七四年:2024/03/28(木) 19:00:00.41 ID:3QPVa+Wg.net
>>454
だって親豊臣化した石川は出奔しちゃったし、官位をほかの徳川家臣より高くして
優遇していた井伊直政は関ヶ原直後に病死しちゃうんだもの
>>463
普通の家ならそれでいいけど、秀吉の場合は譜代が存在せず一門が秀吉のせいではあるが
壊滅状態だから、姻族でもある程度優遇しないとしょうがないんじゃないか
豊臣に限ってはほかの大名家と比べるべきではないと思う

466 :人間七七四年:2024/03/28(木) 20:02:18.26 ID:MyU73LZV.net
>>465
だからって養子だの、養女だの、婿だの、更には豊臣姓、木下姓をばら撒き過ぎなんだよ。

主要大名家全部に養子や婿を作った段階で、既に「特別」でなくなっていて、なんの価値もなくなってる。

467 :人間七七四年:2024/03/28(木) 20:33:35.55 ID:3QPVa+Wg.net
>>466
しょうがないだろ、譜代はどうしようも出来ん以上はたとえバラマキと言われようが、
疑似一門作って身内枠増やすしかないんだよ、秀吉一代では
こればっかりは秀吉の血統の問題だからどうにもならん、つーか親族も母方や嫁関係ばっかで
父方が全く出てこないのはどういう事なんだ

468 :人間七七四年:2024/03/28(木) 21:02:47.16 ID:yN2zA3Ty.net
しかし関東仕置きの時点では結城秀康を別にして
秀長、鶴松、秀次、秀勝、秀保、小早川秀秋、宇喜多秀家のいる秀吉に対し
家康は秀忠、忠吉、信吉、あとは異母弟くらいで、
近親一族の数でいうとけして秀吉のほうに人がいないわけではないのよね

家康も爺さん父ちゃんが早死にしたせいで
必ずしも身内といえる人数が多いわけじゃない

469 :人間七七四年:2024/03/28(木) 21:05:54.21 ID:yN2zA3Ty.net
異母弟✕
異父弟ね

470 :人間七七四年:2024/03/28(木) 21:07:07.05 ID:o/H9Qadl.net
>>465
別に無理して一門をカテゴライズしなくていいやろ
徳川家は別系譜
秀康や秀忠は秀吉的には便宜的な一門扱いでもいいけどね
宇喜多秀家も一門扱いでもいいがあくまで宇喜多は別もの

471 :人間七七四年:2024/03/28(木) 23:49:53.85 ID:3QPVa+Wg.net
>>468
一門はともかく、譜代がゼロなのはやっぱり問題に思う、どうしようもないのはわかってるが
後の天下人の徳川でさえ関ヶ原前から徳川家臣なら譜代、とか結構強引な事して
譜代の数を大幅に水増ししているし
>>470
むしろ徳川を豊臣に取り込む位でもよかったように思う、少なくとも人材不足は一気に解消される
徳川が藤原氏になるのを受け入れれば、実験は握られたとしても政権の寿命は大幅に伸びそう
毛利や上杉、奉行達が豊臣政権の礎として各個撃破され、権力の座から排除されるのを
一斉反抗などせずに(要するに関ヶ原を起こさない)受け入れられればの話だが(多分無理)

472 :人間七七四年:2024/03/29(金) 00:39:11.31 ID:1CH4lPyK.net
小大名に無理言うなと思われるだろうが
秀吉に近かった木下氏・小出氏ですら豊臣に味方しないのは悲しい

あと冬の陣・夏の陣で豊臣滅ぼすのに功績上げた
蜂須賀・黒田家子孫の両侯爵が
明治時代に豊国神社の奉賛団体の中心人物だったの笑える

473 :人間七七四年:2024/03/29(金) 09:15:29.96 ID:+RN2Hg3h.net
だからこそ秀吉の「家康と淀を結婚させる」遺言が如何に重要だったかよ。これが成れば家康は秀頼の父になる訳で明確に豊臣を預かる存在になってた。それを潰した豊臣家と流した家康、両者の思惑がそのまま関ヶ原の決着に繋がったと言える

474 :人間七七四年:2024/03/29(金) 09:38:29.22 ID:701olU3d.net
>>467
いや、譜代はいっぱいいたろ?
その譜代が真っ二つに分かれて争ったのがまさに関が原なわけで。

血の繋がった親族衆(秀次、秀勝、秀保)を冷遇、秀次に至っては一族根絶やし。
そのうえで、譜代同士で、それもそれぞれが外様の中でも二大勢力を引き入れての潰し合い。

こんなの同じことやれば、織田だろうと徳川だろうと、どんな大勢力でも滅ぶに決まってる。

475 :人間七七四年:2024/03/29(金) 10:07:56.98 ID:jSv7CN7E.net
譜代って定義で言えば譜にある代々仕えてきた臣?だとすると農民同然から成り上がった秀吉にはそもそも…

476 :人間七七四年:2024/03/29(金) 10:11:39.72 ID:o51hHo2a.net
>>474
子飼いと譜代は全然違うぞ、そこを一緒にしてはいけない
秀吉には自分の代で引き立てた子飼いしかいないから、『恩顧』というほかの大名家や政権が
没落したり滅亡したりする際にはあまり使われる事のない、あいまいな言葉が使われてる訳で
加藤や福島、石田らを譜代と呼ぶのは無理がある、せめて主君と家臣両方が代替わりして
秀頼が執政を自ら行うぐらいになって初めて譜代化したと言えるんじゃないかな
史実ではそうなる前に関ケ原が起きて政権崩壊、秀頼も結局関白になれずで
そうなる機会がついに訪れなかっただけの話だろう

477 :人間七七四年:2024/03/29(金) 10:26:01.75 ID:qqt2BVv7.net
子飼いは外様という斬新な新説

478 :人間七七四年:2024/03/29(金) 10:28:13.44 ID:Znqcr+uX.net
木下氏は関ケ原の時は北政所の兄の木下家定は北政所守護
家定の子で成人していたのは5名

長男の勝俊は伏見城留守居だったが退城し
父とともに北政所守護、家臣団は田辺城攻めや北陸戦線に西軍として参陣
利房、俊定、小早川秀秋は西軍として参陣、秀秋のみは東軍に寝返り
延俊は細川忠興の妹が正室の為か東軍
関ケ原当時幼かったと思われる6男秀規は大坂夏の陣で豊臣勢に加わり
戦死してるので木下氏が豊臣家に味方しなかったということはないよ

479 :人間七七四年:2024/03/29(金) 11:02:08.09 ID:jSv7CN7E.net
>>477
「一門」「譜代」「外様」で分けると子飼衆は外様になるんじゃね?正確には「重用されている家臣で譜代では無い者を子飼とする」んだろうけど
代々家に仕えて初めて譜代、つまり最初はみな家では無く主人(個人)に仕えてる。そうした外様は主人が死んだ場合必ずしもその後継に仕える義務は無く却って後継者に力が無ければ主家を乗っ取ることすらあった。その展開が豊臣秀吉な訳で主君に重用されている=能力が高い者ほど独立志向が強いとも言える。だからこそ主家からも万全の信頼は得られない、譜代とは言えないってことになる

480 :人間七七四年:2024/03/29(金) 11:09:09.00 ID:U421E3iS.net
譜代というより累代の家臣というほうがいい
譜代の定義なんてあとから決められる
徳川将軍家ですら関ヶ原の前に臣従したら譜代となってるんだから

豊臣の場合は秀吉一代の成り上がりだから累代の家臣なんているわけがない
それと織田家から見たら秀吉も譜代の家臣と言えるかもしれん

481 :人間七七四年:2024/03/29(金) 11:12:23.19 ID:701olU3d.net
>>476
それだと譜代なんてほとんど存在しないことになるが?

徳川家の譜代を松平広忠の代からの家しか認めないと言っているようなもの。

482 :人間七七四年:2024/03/29(金) 11:50:01.03 ID:qqt2BVv7.net
まぁ新しい定義を作りたいなら確立させてから来てくれとしか

483 :人間七七四年:2024/03/29(金) 11:50:46.43 ID:o51hHo2a.net
>>481
いわゆる三河者はマジでそう考えてたっぽいけどね(三河以来の〜とかいう表現もあるし)
ただ、徳川家自体はさすがにそれでは政権が回らんと考えたようで関ケ原前から
徳川の家臣として臣従していたら譜代って形にして譜代の大幅な水増しを行ってるな
ただ、秀吉のようにゼロからのスタートだとさすがに子飼いらを譜代扱いするのは無理があるよ
せめて代替わりをしないと認められないんじゃないかな

484 :人間七七四年:2024/03/29(金) 12:19:20.98 ID:XvCcK3Rw.net
>>472
だって当時は明治天皇から庶民まで、安土桃山江戸初期に対する歴史観が
太閤記とかを根拠にした「講談史観」なんやもん…
蜂須賀あたりの明治天皇からドロボウネタで弄られてまんざらでもなかったなんて逸話は
それがお互い(及び周囲)の認識してたベース故こそ。
それだから豊国神社奉賛とか出来る。多分先祖が豊臣を身限った事への贖罪意識なんて無い。

485 :人間七七四年:2024/03/29(金) 12:26:53.45 ID:701olU3d.net
いや、徳川で関ヶ原以前で譜代として認められるなら、豊臣も賤ヶ岳以前は譜代になるだろ。

言葉尻はともかく、要はその家が戦国大名として決定的な地位を築くまでに配下に加わっていたかどうか。

「お前ら、うちが覇権取るとき部外者だったじゃん。それまでの配下を優遇して当然だろ」ってことなわけで。

486 :人間七七四年:2024/03/29(金) 12:28:57.96 ID:ZcHRVbOF.net
>>473
すげーウルトラCだよな、実現してたら
頼朝が義時を、尊氏が高師直を繋ぎの養子に迎えるような感じでしょ
豊臣家康になるのか、徳川秀頼にするのか、秀忠はどうするのか、
とても現実味のあるプランには見えないのよね
今際のきわに思いつきで言い出した感満載で悲しい

487 :人間七七四年:2024/03/29(金) 12:42:55.93 ID:qqt2BVv7.net
外戚やろ

488 :人間七七四年:2024/03/29(金) 12:45:31.98 ID:SJWWF4lP.net
>>473
家康と淀の結婚って所詮巷間の風聞だからな
結婚話があってそれが流れたわけでもなく当初から話自体なかったと思うけどね

489 :人間七七四年:2024/03/29(金) 13:01:38.62 ID:bQUk0DGv.net
将軍職徳川家と摂家豊臣徳川家で並立させて領地や大坂城と切り離して
高家として緩やかに存続したかも知れん
千姫の子が家を継いでさ

結局徳川の天下になるのは避けられないけど

490 :人間七七四年:2024/03/29(金) 13:13:55.87 ID:o51hHo2a.net
>>485
だって秀吉、その辺の基準を全然作らなかったんだからそんな事言われても…
きちんと線引きが出来てないんだからそんな独自主張をされても困る
秀吉の部下が決して譜代と言われず子飼いなんて表現されてるのはそういう事だよ
>>488
確かに秀吉の命令書とか豊臣家側からそういう書状とかは発見されてないんだよね
ただ、看羊録・多聞院日記・毛利家文書と複数の史料に記載が見られるのも事実
とはいえ、これらもみんな風聞としか認識してないっぽいんでちょっと微妙な話ではある
単なる風聞にしてもなぜこんな噂が飛び交ったのかもよくわからないし

491 :人間七七四年:2024/03/29(金) 13:41:28.26 ID:701olU3d.net
>>490
あなたのほうがよっぽど独自主張でしょ。
子飼いだって正式な呼び方ではない。

あくまで徳川幕府にて呼ばれた親藩、譜代、外様を豊臣政権に当てはめて呼ぶわけだから、
基準は徳川家にとってどこまでが譜代と呼べたかだろ。

それともなにか?
石田も福島も加藤も、「旗本」とでも呼べば満足なのか?

492 :人間七七四年:2024/03/29(金) 14:14:54.90 ID:jSv7CN7E.net
「譜代」って単語自体は関ヶ原以前からあるからそうした概念は当時からあってそれを江戸幕府が使ったというだけでは

493 :人間七七四年:2024/03/29(金) 14:17:39.62 ID:o51hHo2a.net
>>491
子飼いでいいよ、正直加藤や福島、石田を譜代と言われてもピンとこない
将来的に豊臣家や政権が末永く続けば譜代化してくだろうけど、関ヶ原の段階で
譜代って言うのはさすがに無理がある、ていうか徳川の基準を当てはめるべきではないと思う
私は秀吉自体が極めて特殊で独自的な存在ととらえているし(悪い意味ではない、念のため)

494 :人間七七四年:2024/03/29(金) 14:20:44.20 ID:U421E3iS.net
>>491
徳川家にとっての譜代と豊臣家にとっての譜代は基準が違う
はっきりした基準を決めなかった豊臣家
基準をはっきりさせて譜代の定義を作った徳川家

あとから作った徳川の基準を豊臣家に合わせてもなって話
更に言うなら徳川の基準も手前勝手で強引だから

豊臣の譜代の基準を当てはめるとしたら室町幕府とかの譜代の基準になるんじゃないの

495 :人間七七四年:2024/03/29(金) 14:48:02.06 ID:SJWWF4lP.net
>>490
毛利家文書に結婚に関する記事なんてあったか?
毛利方の関連史料だと萩藩閥閲録所収の慶長4年10月1日付内藤周竹書状の大野治長と淀殿に密通の風聞に関する記事があるけどそれと混同してないか?

この頃起こった家康暗殺計画に関連して色々と巷間で尾ひれがついて噂が広がったんじゃないかね
(慶長4年)9月23日付島津龍伯・忠恒宛伊那令成書状
「仍而内府十七日ニ大坂江被罷下、重陽之御祝儀被申上、其上於爰元、秀頼様御為悪事申ニ付て、大蔵卿局・大野修理退出被申候」
とあり、大蔵卿局と大野治長が大坂城から退去させられてるから多聞院日記
の記事はこれを受け、更に尾ひれがついて書かれた可能性は考えられると思う

あと当該書状では17日に家康が大坂へ下ったとなってるけど誤記で、正しくは7日だろうね
多聞院日記の結婚に関する記事は9月17日条なので流石に大野退去の報を当日知ることは無理だし

496 :人間七七四年:2024/03/29(金) 14:56:32.55 ID:jSv7CN7E.net
代々家に従っていればこそ後継者への奉公も期待出来るけど秀吉にはそうした家臣は当然居なかったしなぁ

497 :人間七七四年:2024/03/29(金) 17:24:34.19 ID:jSv7CN7E.net
火のないところに煙はたたないと言って家康と淀君が結婚するという話には伏線がある。宣教師によると秀吉は諸将を集めて秀頼にこれからは家康を父親と思えと言ったという。家康が秀頼の父親という事は家康と淀君が結婚することを意味しているから当時「家康が太閤の権威を引き継いでそれを秀頼に渡す」と思われておりその象徴として家康と淀君の結婚が待ち望まれていた、という面もあるんだろう

498 :人間七七四年:2024/03/29(金) 17:31:41.68 ID:lMbUHLXO.net
ID:701olU3d
こいつガイジすぎない?

499 :人間七七四年:2024/03/29(金) 17:46:36.34 ID:fes4VKe/.net
譜代とか子飼いとか恩顧とかあれこれ呼び名にこだわるけど要は豊臣に対して無条件に絶対的な忠誠を尽くす都合のいい家臣が欲しいだけでしょ
そんなもの豊臣に限らずどこにもいないのに
徳川だって祖父を殺され三河一向一揆に加担され石川数正に出奔されるなど譜代だから裏切らないなんて事は無いし幕末を見れば代を重ねれば勝手に忠誠心が湧いて来るわけでも無い

500 :人間七七四年:2024/03/29(金) 18:13:34.46 ID:uRmjksP2.net
ID:jSv7CN7E
ガイジが多すぎて触れたくない

501 :人間七七四年:2024/03/29(金) 18:29:28.83 ID:bQUk0DGv.net
秀吉が家康と茶々を娶せるってことは
秀吉が茶々を秀頼つきで離縁しなきゃならんから不可能だと思う

502 :人間七七四年:2024/03/29(金) 20:08:49.28 ID:KKaQpIky.net
譜代がいれば良いのかというと、源家や足利家を見てるとなあ……。
普通に譜代にぬっころされてるわけだし。

じゃあ親族衆はと言えば、戦国大名の多くが親兄弟でぬっころしあいしてるし。

503 :人間七七四年:2024/03/29(金) 20:27:30.84 ID:oFhSYIwP.net
>>501
それは秀吉が死ねば可能になるというだけでは

504 :人間七七四年:2024/03/29(金) 20:35:03.72 ID:o51hHo2a.net
>>502
どっちもいなかった豊臣はどうなりましたか?って話でもある
そもそもその辺ひっくるめて家中をしっかりと統制する事が御家の当主の仕事だろう
これより大事な事と言ったら後継者を作成する事位だ
一門ってのは管理・整理・制御の必要な厄介な存在ではあるが、
だからってむやみやたらに排除すれば当然御家断絶の危機でもある
譜代だってそりゃ裏切る時は裏切るが、存在しなかった豊臣の末路に残ったのは
行き場をなくした浪人ばかりという惨めなものだった
譜代も一門も『いるに越したことはない』でいいと思うよ(勿論当主がしっかり管理するのが前提)

505 :人間七七四年:2024/03/29(金) 20:52:24.82 ID:HvH8A9r/.net
というかそれこそ秀吉のウルトラCが失敗した最大の要因。家康を豊臣一門のトップにして秀頼を預けるには淀君と結婚させねばならない。ただしそれは秀吉が生きているうちは不可能。しかし豊臣公儀は秀吉が唯一の裁定者なので秀吉死後の遺言実行は誰にも強制出来ない。つまり秀吉の理想とした体制の為には家康が太閤の遺言を盾にその未亡人に結婚を強要するという最悪のシーンが生まれることになり。そんなの実行出来るわけもなくそのまま流れた

506 :人間七七四年:2024/03/29(金) 21:37:45.57 ID:DBnGytr2.net
江戸幕府で徳川家継が将軍になった際も、御三家とか一門が一応いたから江戸幕府は続いた
豊臣は一門がまったくいないし秀吉が取り立ててない状態
おまけに譜代もいない
これじゃ乱れるのは当たり前なんだよ

福島正則や加藤清正は従兄弟に一応当たるんだから、一門として取り立てておいたらよかったのにな
家臣扱いして一門にしてないし

507 :人間七七四年:2024/03/30(土) 01:15:29.32 ID:eiWdUiLv.net
福島正則や加藤清正とか譜代だろ居ないってことはない質はともかく。
福島正則と青木一矩は従兄弟だけあって普通の譜代より一段上の扱いされてるがあんまり離れたのを一門にしてもそれはそれで混乱の元だしな

508 :人間七七四年:2024/03/30(土) 01:19:40.49 ID:XmQBE7gj.net
浅いなあ。
誰も彼もみんな、人為を人為のみの閉鎖系として語ることに自閉して、
事象の表面をガリガリ引っ搔いて空回りしているだけ。
もう少し事象を「構造」として考察できる人はいないものかな。
人為の外にある状況と一体不可分の構造として。

所詮は5ch、場末の落書に何を期待する?と悟った風に斜に構えるのも一周回って古い。
深みと拡がりのある論考の出現を期待したい。
 

509 :人間七七四年:2024/03/30(土) 01:25:18.36 ID:EvPjByc9.net
くだらん

510 :人間七七四年:2024/03/30(土) 06:17:48.38 ID:AitZW6Fo.net
淀と家康の婚姻説をとなえてる専門家いるのかね?
ネタじゃなくて真面目に言ってる人居るのか?

511 :人間七七四年:2024/03/30(土) 11:06:09.96 ID:RpCJTe+R.net
学説云々の前に史料に残ってる。否定してる奴の方が珍しいだろ

512 :人間七七四年:2024/03/30(土) 11:34:51.40 ID:cBfm2zUO.net
結果として家康と淀は結婚しておらずそれが問題となった形跡もない
予定が変更されたのか単なる噂話にすぎなかったのか断言するには史料が足りないってのが現状じゃないの?
婚姻説の話題なんてよくある〇〇してれば豊臣は滅ばなかったという妄想議論のネタの一つってだけでしょ

513 :人間七七四年:2024/03/30(土) 16:26:16.49 ID:Zr3x2VM5.net
豊臣の問題は譜代がどうとか、そこじゃない。
純粋に、幼少の後継ぎしかいないということに尽きる。

というか豊臣に限らず、それで権勢を保てる家なんて殆どない。
一番直近の話として、織田家が他ならぬ秀吉の手で簒奪されたわけだし。

514 :人間七七四年:2024/03/30(土) 16:29:24.03 ID:eiWdUiLv.net
まともなこと言うなよ上のやつらが立つ瀬ないじゃないか。

515 :人間七七四年:2024/03/30(土) 16:38:04.78 ID:EvPjByc9.net
足利は?

516 :人間七七四年:2024/03/31(日) 05:40:46.56 ID:9M4ABTJ9.net
豊臣に譜代家臣さえいれば足利義勝や徳川家継のように幼少の秀頼でも天下人として君臨できる
そうなれば若死した義勝や家継と違い秀頼は成人して子供もいるから豊臣の天下は安泰
で、家康さえいなければ、西軍が勝ちさえすれば三成派閥が譜代家臣の役割を果たしてくれる
ってのが豊臣贔屓や西軍(石田)贔屓にありがちなIFストーリー

517 :人間七七四年:2024/03/31(日) 06:46:47.03 ID:khLG/138.net
幼君を奉じて政権を支えるはずの大老家康が奉行衆を統率できず
二の矢として備えた守役前田家も役に立たなかったゆえ
上杉の反発と、毛利宇喜多奉行衆の謀反を招いた
鎮圧したものの幼君秀頼の権威に大きな瑕をもたらし
結果的に豊臣天下を終わらせることになった
政権を任されながら守れなかった意味では家康は豊臣の大逆臣

518 :人間七七四年:2024/03/31(日) 07:43:10.19 ID:OJRNbnjq.net
>>517
それは結局家康の権威や権力をもっと高めておかなかった秀吉の失態だろう
反家康派に徳川を打倒できそうだと思わせてしまう程度に権限があったのがいけなかった
本人らの事情はどうあれ、挙兵という形で政権崩壊の引き金を引いてしまったのは
西軍なのだから、その責任を家康に押し付けるのは違うだろう(家康無罪とまでは言わんが)
大体政権運営者が円滑に運営する為にある程度政権を改造するなんて当たり前のことで
そこに文句をつける方がおかしいよ、反家康派は政権の為に礎になる覚悟が足りなすぎる
後の江戸幕府の幕閣は偉いよ、政変や代替わりで政権から排除されても
『このまま没落してたまるか、一戦仕る』なんて奴はいなかった、おかげで政権は250年以上続いた

519 :人間七七四年:2024/03/31(日) 08:15:18.91 ID:ARFUKBMz.net
家康は豊臣からすると外様要は敵なので秀吉が生きている間に力を与え過ぎる事は絶対出来ない。旭との間に子供がいればまだ打つ手はあったろうが家康は拒否してたからな

520 :人間七七四年:2024/03/31(日) 09:41:07.87 ID:tV2avXlS.net
家康しか頼めるやつがいないから
頼めるなら奉行衆や前田利家に家康を超える権力を与えてた
毛利上杉宇喜田はどうにもならんし
晩年の秀吉なりの精一杯

521 :人間七七四年:2024/03/31(日) 09:46:12.79 ID:as0Aad41.net
>>516
三成擁護派は、なんでそんな結論に至るか不思議だよなね。

徳川家康さえいなければ、つまり何らかの奇跡が起こって西軍が勝ったなら、
その家康の椅子に座ってるのは最大兵力を供出した毛利輝元。

家康に勝つほど毛利輝元が有能だったなら、それはもはや毛利元就なんよ。

522 :人間七七四年:2024/03/31(日) 10:01:53.48 ID:B3CfbbYa.net
>>521
そんな結論には至らん。ないものはない、
現状の持てる戦力でどうするか、それだけだろ。

523 :人間七七四年:2024/03/31(日) 10:26:10.12 ID:tV2avXlS.net
>>522
ないものはないのなら現状の戦力ではどうしようもない

524 :人間七七四年:2024/03/31(日) 10:43:35.91 ID:as0Aad41.net
>>522
至らんっていうか、至って暴れている人がいるじゃんって話で。

で、大抵はその原因を「三成にのせいじゃない。毛利輝元ガー」ってやってるけど、
毛利輝元が有能で家康に勝てるほどだったら豊富は大内・陶のような末路になるだろと。

525 :人間七七四年:2024/03/31(日) 10:52:30.10 ID:ARFUKBMz.net
家康と茶々の婚姻遺言はおそらく真実、というか秀吉の遺言それ自体が厄介。十人衆に絞っても
・徳川→家康は秀頼の父親/天下の事は任せる/東国の事は任せる/家康は伏見で政務をみろ/家康に何かあったら秀忠が引き継げ
・前田→利家は大坂で秀頼を養育しろ/3年間上洛免除
・上杉→3年間上洛免除
・毛利→西国の事は任せる
・宇喜多→大坂に居ること
・十人衆全体→全て多数決で相談して決めろ
こんな感じで各勢力に伝わる秀吉遺言はバラバラでその上全てが矛盾してる。毛利の言う通り家康と輝元で東西を支配するなら前田利家の立場が無いし十人衆合議で政務を行うなら上杉と前田が上洛免除されているのが意味不明。つまり秀吉の遺言は「太閤さまがこう言った」と言えば成立してしまうぐらいあやふやな存在だったことになる

526 :人間七七四年:2024/03/31(日) 11:09:16.99 ID:as0Aad41.net
>>525
まあ、諸症状を見る限り、完全にボケ老人だし整合性なんて皆無よ……。
豊臣が終わったのは、関ヶ原どうこうではなく秀次追放・切腹の時。

ボケ老人の暴走の歯止めが効かなくなる最後の分水嶺がここだった。
むしろ秀吉があと5年生きていたら、豊臣家は史実より早く滅んでいただろうね。

527 :人間七七四年:2024/03/31(日) 11:41:09.54 ID:deBf/g41.net
まあ相手が徳川家康という英雄人傑だからね相手が悪いとしか・・・
家康が早死にして秀忠相手とか250万石あっても輝元、景勝のような
相手なら勝てただろう。

528 :人間七七四年:2024/03/31(日) 13:54:57.23 ID:8N2Gzvqt.net
>>527
それは結果から逆算してないか?
家康が人傑なのは関ヶ原や
大坂の陣で勝ったからだろう

529 :人間七七四年:2024/03/31(日) 13:58:42.37 ID:Z4tD4KkT.net
最晩年の心神耗弱状態の秀吉の言ってることが怪しくなってるからまともに受け取らないでおこう
みたいな申し合わせを大老奉行間でしてるんだよな確か
そんな状況で作成された遺言覚書がどんなものか推して知るべしで
遺言違反だ何だと言われるがその遺言自体が指針として当てにならない代物だったのかもしれない

530 :人間七七四年:2024/03/31(日) 14:02:51.31 ID:6wjCsq77.net
ただそれを聞いた奉行衆にとっては恣意的に運用できるわけだよな

531 :人間七七四年:2024/03/31(日) 14:08:46.44 ID:X/F6rbT/.net
奉行どころか豊臣家含めて誰もが自由に使えるマジックワード。最終的には「秀頼に素質が無かったら天下は一人のものではない」になって豊臣滅亡に繋がった

ただ片桐且元曰く且元が「秀吉はそんな殊勝な男では無かった、本当の遺言を教えてください」と徳川に懇願したところ本多正純から「太閤遺言を知っているのは徳川家康と前田利家のみ。利家が死んだら家康様しか知らない(だから徳川の言う遺言をみんな信じるしかない)」と返答したというから何らかの遺言書がまだあった可能性もある
ただ死の間際ってなると内容は無茶苦茶だろう

532 :人間七七四年:2024/03/31(日) 14:23:53.14 ID:JsyieGR+.net
>>510
そういう研究者は見たことないね
話自体は確かにあったけど多くの研究者も単なる噂話に過ぎないと見てるってことだと思うよ

533 :人間七七四年:2024/03/31(日) 15:08:28.57 ID:X/F6rbT/.net
渡邊大門だったかな。四大老五奉行が家康に指摘した「縁辺」とは家康と茶々の婚姻だったのではないかと言ってた。橋陽介も家康と茶々の婚姻が予定されていたとしている
まぁそもそも秀吉の遺言は多数あってしかも統合性が無い。「秀吉の遺言」という事実があってそれに尾鰭がついてる訳では無い。つまり噂だと断ずる根拠が全く無い訳で事実とみて間違いなかろう。実際秀吉は諸将の前で秀頼に家康を父親と思うよう言い聞かせてる。家康と茶々の婚姻は実在したことになる

534 :人間七七四年:2024/03/31(日) 15:12:24.56 ID:tV2avXlS.net
現代では弁護士を立てて作成した遺言状が一番効力をもつ

秀吉の遺言だと諸大名や女房衆が居並ぶ中で出したと言われる浅野家文書などのやつが一番有効だろう

535 :人間七七四年:2024/03/31(日) 16:37:57.75 ID:M/q2F0Xq.net
>>533
慶長4年2月12日付四大老五奉行起請文の第一条にある「縁辺」のこと?
四大老五奉行から縁辺の件について家康に申し入れ、それを家康が受けたことに感謝する
ここまでなら家康と淀の結婚話だとしても辻褄が合う

しかし後段では、今後は遺恨もなく以前と変わらず諸事入魂に付き合うと言ってるんだから
やはり私婚問題に対する警告を家康に申し入れてそれを家康が受けたと読むのが普通だよ
これが淀との結婚話なら今後は遺恨を捨てて互いに仲良くしましょうねって何の遺恨だよって話になるでしょ

秀吉の遺言だとする史料も公表されたものではなく結局伝聞に拠るものなんだから事実だと断ずるのは難しいよね
仮に遺言ならなぜ秀吉の死から一年後のこの時期に急に結婚話が湧いて出たのかも不思議
慶長4年9月は家康暗殺計画や家康が大坂城西の丸へ入ったりと大きな動きがある
時期だから、それに伴った噂話の一つなんじゃないかと個人的には思うけどね

536 :人間七七四年:2024/03/31(日) 17:03:07.08 ID:X/F6rbT/.net
>>535
一つ確かなのは当時の事で確定してる事なんて何も無い。だから史料から考察を組み上げていくしか無い。そうして見ると実はあの起請文、何かの事件を前提としてない。恐らくは家康の他家との縁辺だろうが茶々との婚姻でも矛盾は無い。その場合九人は家康の約束不履行を詰った訳で遺恨があってもおかしくはないしそれをカバーしたのだと言われたら否定は出来ない

537 :人間七七四年:2024/03/31(日) 17:18:18.37 ID:M/q2F0Xq.net
>>536
すまんけど渡邊大門の論説読んでみたいんでソース教えて
確かに私婚問題とは書いてないがかなり不自然な解釈だとは思うけどね

史料から考察していくのは当然だけどあなたはいつも断定するよね
今までも史料の誤読や自分の主張のための曲解も多々あったし申し訳ないが信用ならんのよね

538 :人間七七四年:2024/03/31(日) 21:56:50.88 ID:JsyieGR+.net
>>536
渡邊大門が寄稿してる私婚問題に関する記事があったから読んでみたけど
通説を取っていて家康と淀の婚姻については全く触れられてないね
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/02ab8160fce7ab2d10bea5f8481061d6fe6f8190

>慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が病没すると、徳川家康がほかの大名と無断で縁組をしたことで、五奉行らから糾弾された。

(中略)

しかし、慶長4年(1599)2月、家康は「掟」への違反を認め、五奉行に「掟」を遵守する旨を誓約することで(「慶長三年誓紙前書」など)、私婚問題は解決したのである。

539 :人間七七四年:2024/04/01(月) 08:21:45.70 ID:aotuWcwM.net
家康と茶々の結婚は確かに秀吉の遺言ではある。わざわざ諸将の前で秀頼に家康を父親と思えと言ったんだから。家康が秀頼の父親になるには家康が茶々と結婚するか秀頼が家康の養子になるかしかなくてどっちが現実的かと言えば前者
ただ問題なのは秀吉は諸将の前であれこれぶち上げる人間だったのと秀吉の遺言を実行する機関が存在しなかった事、そして何より秀吉が割と判断力を喪っていたから遺言が山ほど出来ていてどれを実行するかは実力者の選択に委ねられた事につきる

540 :人間七七四年:2024/04/01(月) 08:29:10.30 ID:BcNj3l8O.net
要は>>529
ぶっちゃけ秀吉の遺言は関係者の相談でどれが有効か決められてる
賛同者が多かったのが浅野家文書

541 :人間七七四年:2024/04/01(月) 09:59:56.56 ID:kB9rauCE.net
渡邊大門が四大老五奉行が指摘した「縁辺」とは家康と茶々の婚姻だったの
ではないかと言ってたというのはどこに書いてあるのか気になるところ
ですね、関ヶ原関係のこれらの著作の中だと思いますのでさっそくにあつめねば

関ヶ原合戦全史 1582-1615 草思社
誤解だらけの徳川家康 (幻冬舎新書)
誤解だらけの「関ヶ原合戦」 徳川家康「天下獲り」の真実 (PHP文庫)
江戸幕府の誕生: 関ヶ原合戦後の国家戦略  文学通信
関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実 (PHP新書)
謎とき 東北の関ヶ原〜上杉景勝と伊達政宗〜 (光文社新書)
豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争  柏書房
徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か (星海社 e-SHINSHO)
こんなに面白いとは思わなかった! 関ヶ原の戦い (光文社知恵の森文庫)
戦国の交渉人 安国寺恵瓊 (歴史新書y)
宇喜多直家・秀家: 西国進発の魁とならん (ミネルヴァ日本評伝選)
家康伝説の噓 ‎ 柏書房

542 :人間七七四年:2024/04/01(月) 10:25:15.58 ID:OE6lQ868.net
>>539
その程度でよければ徳川家康と毛利輝元は兄弟になるわけでして……。

543 :人間七七四年:2024/04/01(月) 10:46:34.25 ID:aotuWcwM.net
>>542
実際起請文で確認してるからな
尤も家康が上位な内容だが

544 :人間七七四年:2024/04/01(月) 16:09:25.10 ID:BcNj3l8O.net
家臣を父と思えなんてのは三国志の劉備、劉禅、諸葛亮の話が有名だな
中国史なら他にもあったはずだが思い出せん

545 :人間七七四年:2024/04/01(月) 16:32:27.95 ID:6cUQYBUj.net
豊臣公儀が秀吉によるワンマン経営だったから秀頼を公儀の長にするにはそれまで誰かが秀吉の代わりになるしかない。ただその誰かは確実に政権を奪ってしまう。秀吉は家康を秀頼の父親にしようとしてるのは一種の諦観が混じってる。家康と茶々が結婚すれば確かに秀頼が天下人になる可能性は残ってたろうが、家康と当の秀頼にその気が無かったから秀吉の危惧した通りになった

546 :人間七七四年:2024/04/01(月) 19:41:23.55 ID:Sis5Roqe.net
>>539
相変わらず都合が悪い指摘はスルーして妄想のごり押しかよ
で、渡邊大門が指摘してる縁辺=家康・淀の婚姻のソースは?

547 :人間七七四年:2024/04/01(月) 20:07:32.76 ID:gX6o3psL.net
くっさいボケ猿の寝言に振り回されたゴミクズどもと比べて
ガン無視した家康公の賢きことよ

548 :人間七七四年:2024/04/01(月) 20:32:38.48 ID:Wsf+H5hu.net
それぞれ遺言を自分の立場によって都合良く引用して利用してたという気がするが

549 :人間七七四年:2024/04/02(火) 01:54:57.09 ID:6cuiYoAS.net
>>544
足利義詮、細川頼之、足利義満。
元ネタはやっぱり漢籍かもしれないが。
 

550 :人間七七四年:2024/04/02(火) 04:27:36.08 ID:qXDV4pcc.net
渡邊大門ってWikipediaの記事をパクって事典出した奴でしょ
そんな奴の言うことなんか当てにするの?

551 :人間七七四年:2024/04/02(火) 07:04:56.59 ID:nCPy3izp.net
>>541
そのリストのkindleで出てる本を全部とリスト外でのkindle本2冊を
買って1599年の該当しそうなとこだけ読んだが
どこにも家康と淀の婚姻話が実際あったなんて書いてないぞ
本当に渡邊大門が言ってたのか?
紙書籍しかない安国寺恵瓊本と宇喜多直家・秀家本、家康伝説の噓
リストにない宇喜多秀家と豊臣政権、関ヶ原合戦人名辞典の5冊は未確認なので
そちらに書いてあるのかもしれんが。

552 :人間七七四年:2024/04/02(火) 08:11:52.09 ID:UpEDrbrh.net
家康と茶々の結婚は確かに秀吉の遺言
宣教師によると秀吉は諸将を前にして家康に秀頼の父親になるよう懇願してる。だから「家康と茶々が結婚する」というのは当時共通認識で驚くことでもなかった
しかしそれが流れたのはこれは秀吉目線では上策でも家康と茶々にとっては面倒なものだったから
これを豊臣に強行されてたら家康の天下取りは不可能だったかもしれないが茶々が拒否してくれたお陰で自然に無効化できた。天下人はこうしたツキも重要

553 :人間七七四年:2024/04/02(火) 08:57:40.90 ID:viyqssNb.net
>>544
托孤の鞭ですな

主君を息子と思って叱ってよいという鞭を与える奴
これやられたら、幾ら主君でも独断で何も決められなくなる

同時に、これで下克上したら評判悪くなるところでは

554 :人間七七四年:2024/04/02(火) 09:00:01.56 ID:viyqssNb.net
まあ、家康が盗将大権現になったのって後ろめたいからだろな
神様に通常の善悪は無いから、盗将大権現になれば主君殺しも無効

555 :人間七七四年:2024/04/02(火) 09:29:37.27 ID:UpEDrbrh.net
>>535
一つ重要なのは秀吉の遺言は全て「噂話」でしかない。秀吉の遺言とされるものは最期の直筆書状以外は全て秀吉が話した内容を書き出したもので要は事実なのか捏造なのか誰にも分からない。基本的に全て「噂」だと思ってもいい
逆に言えば秀吉が言った事は全て遺言として効力あるんだがどれを実行するかは当事者次第。だから最後は「天下は相応しい者に与える」という遺言だけが残った

556 :人間七七四年:2024/04/02(火) 09:48:09.17 ID:qXDV4pcc.net
>>551
「関ヶ原合戦人名事典」 渡邊大門。東京堂出版。2021年

これWikipedia日本語版の記事をほとんどパクったものだから見ても意味ないよ
自分は図書館でそれを確認しました
文章があまりに見覚えがあったのでスマホで確認したので間違いないです
ただ、直江兼続、上杉景勝、毛利輝元、吉川広家とか一部の主要人物だけは少し
Wikipediaと異なるように書いてるので「全てコピペしてないだろ」と渡邊が
言えば通るとは思いました

557 :人間七七四年:2024/04/02(火) 09:58:30.08 ID:UpEDrbrh.net
家康と茶々の婚姻が秀吉の死後一年というのは当時の政治情勢を踏まえれば不思議でも何でもない
まず慶長三年八月に秀吉は死ぬ。だがまだ朝鮮出兵は実行中で豊臣公儀は朝鮮からの撤退・明朝鮮との和睦交渉に忙殺される。退却が完了したのは同年十二月のこと。慶長四年一月、前田利家が秀頼を奉じて大坂城に入る。家康はこれに従った後伏見城に入り豊臣公儀新体制が始まる。すると十九日、四大老五奉行が「家康の縁辺」について使者を送る。家康は「縁辺については奉行にも相談した。まず訴人を明らかにせよ」と激怒し同時に家康暗殺計画が噂され伏見大坂に諸国の兵が集まり一触即発になる。二月には九人は家康に謝罪して一応和解するも家康と利家の関係は険悪になる
三月、利家の病状が悪化すると家康が大坂に見舞いに行く。ここで家康は利長後見を明言し家康と利家は和解。翌月利家は死ぬ。と同時に三成が襲撃され伏見に逃げ込む事件が起きる。家康が解決して伏見城に入ったのが十三日、この日人々は家康を天下様と呼んだ

558 :人間七七四年:2024/04/02(火) 10:15:06.18 ID:UpEDrbrh.net
秀吉の死後で家康と茶々が結婚可能だったのは慶長四年一月、前田利家と大坂にいった時くらいでその後は激動の年、四月までそんな機会はなかった
そして問題の九月九日、重陽の節句は最高に縁起の良い日で吉日中の吉日、縁辺が披露されるならこの日しか無いという期待感があっても何らおかしくは無い。ただこの日、非常に間が悪い事に家康暗殺計画が露見。暗殺者が拘束されるなど重大事件となってまたも流れた

559 :人間七七四年:2024/04/02(火) 10:37:34.03 ID:9wtsRWDi.net
妄想断定くんか
まだ生きてるんだな

560 :人間七七四年:2024/04/02(火) 10:41:32.90 ID:9wtsRWDi.net
なろう小説家にはなれなかったみたいだね

561 :人間七七四年:2024/04/02(火) 10:59:49.38 ID:nCPy3izp.net
全然説得力なくて君の願望だな、結論ありきで可能性でしかないものを
蓋然性、必然性、確定事項と都合よく飛躍させてるだけ
根拠にしている秀吉が秀頼に家康を親と思えと確かにパシオ書簡にあるが
その記録には徳川と豊臣の縁を深くするために秀頼と千姫を婚姻させるとあり
その時千姫と秀頼が一同の前で対面したとある、当然淀と家康の婚姻話などは
記述がない、あなた自身が根拠に挙げた資料で淀と家康の婚姻話が否定される
繰り返すがあなたの説は願望、希望的観測、悪く言えば妄想でしかない

562 :人間七七四年:2024/04/02(火) 11:14:54.26 ID:UpEDrbrh.net
秀吉は茶々と家康の婚姻を遺言したけどこれは豊臣にとっては得だが家康にとっては害でしかない
確かにこれで家康は全権を振えるがそれは最後秀頼に渡さねばならない。その上「豊臣家康」になってしまえば徳川に利益を与える事すら非難される。宣教師は秀吉が家康を後継に選んだ理由を「家康は唯一、天下を奪おうとすれば叶う存在だから」と推測してるがその対処としては満点ではあった。問題は三つ
一つは生前にこれを実行することができない
二つはこれを強制する機関権能が豊臣公儀にない
三つは豊臣家か家康がこれを嫌ったら実行されない

563 :人間七七四年:2024/04/02(火) 11:27:32.88 ID:b+bZ7H6Z.net
意味わからないちゃんと説明してみ?

564 :人間七七四年:2024/04/02(火) 11:32:07.64 ID:9wtsRWDi.net
へうげものでも読んで曲解したんだろ
自分にとって都合のよいものしか認めない統合失調症によくあるパターン

565 :人間七七四年:2024/04/02(火) 11:36:39.74 ID:UpEDrbrh.net
はっきり言えば家康にとって茶々との婚姻は断りたいということ。理由も単純、秀吉がこの婚姻を遺言したのは家康に天下を預けて秀頼に承継させる為だから。逆に言えば徳川には天下を渡さんということ、もし家康にとって得なら太閤遺言として実行したがここまで分かりやすい毒では食べる訳にはいかない。また豊臣家は一時的とはいえ他人に豊臣家当主を獲られる事は認められない
この遺言は「書置」があったというがそんなもの処分してしまえば誰が気にしようか

566 :人間七七四年:2024/04/02(火) 11:53:53.34 ID:pCgHBt77.net
>>565
黙れグズ

567 :人間七七四年:2024/04/02(火) 11:55:07.73 ID:ugAPjLlz.net
>>565
気持ち悪い長文妄想を連投すんな
で、>>533の渡邊大門が指摘してるという「縁辺之儀」が家康・淀の婚姻だったのソースは?逃げんなよ

慶長4年2月12日付四大老五奉行起請文
「今度縁邊之儀付而、御理申入候之處、早速御同心畏入存候、然上者、向後
御遺恨無御座旨、各におゐて忝候条、前篇に不相替、諸事入䰟可仕候事」

568 :人間七七四年:2024/04/02(火) 12:10:12.70 ID:WC/yRgyR.net
他人の話もロクに聞けないし相手するだけ無駄な人間だね

569 :人間七七四年:2024/04/02(火) 12:49:57.13 ID:UpEDrbrh.net
>>561
実はパシオ師の報告書で凄まじく奇妙な記述がある。秀吉は家康の孫娘・千姫と秀頼の婚約を持ちかけたとき
「貴殿は、一方の祖父、同時に他方の父となり得よう」
と言ったという。でもこれって奇妙じゃないか?戦国時代の家族関係には詳しく無いが妻の祖父は夫の祖父であってそこが変動する事があるのだろうか?
考えられる一つの可能性は千姫と秀頼が婚姻し同時に家康と茶々が婚姻する、ということ。これなら確かに秀吉の言う通り家康は千姫の祖父であり同時に秀頼の父になる。つまるところこれは秀吉お得意の探りだったのだろう。それは誰もが分かった。その為「家康と茶々の婚姻」は遺言と認識されて広まった。だが家康も茶々も守ろうとしなかった結果雲散霧消してしまった

570 :人間七七四年:2024/04/02(火) 13:03:04.73 ID:pCgHBt77.net
>>569
喋んな

571 :人間七七四年:2024/04/02(火) 14:22:02.38 ID:sUPrj1io.net
仮に淀と家康の婚姻とすると、ふたりとも秀吉とは血が繋がってないわけでして。
それこそ、淀と家康の間に子でも生まれれば秀頼は排除対象になりかねない。

秀次を切腹させ、秀勝、秀保、秀秋を遠ざけたのに、なんの意味もなくなる。

572 :人間七七四年:2024/04/02(火) 15:18:33.21 ID:UpEDrbrh.net
>>571
家康と茶々の間に子供が産まれる、なんてのは秀吉は気にしなかった。おそらくそこまで考えているほど余裕が無かったんだろうが
そも家康が茶々との婚姻を拒絶した理由の一つだろうが家康と茶々が結婚すると徳川と豊臣をどう分けるかが非常に難しくなる。既に徳川は家康→秀忠の継承を確立していてここから更に複雑化するのは避けねばならないから
兎角秀吉は家康を秀頼の父親、つまり秀吉のコピー役にすることで秀頼が成人した暁には即座に天下が舞い込む事になるとその事で一所懸命だった
豊臣公儀のシステム作りなんかも二の次三の次

573 :人間七七四年:2024/04/02(火) 16:03:29.23 ID:hJ9XOQ/r.net
結果的に長生きしたとはいえいつ死んでもおかしくない家康と淀の婚姻より秀忠の娘と秀頼の婚姻の方が重要に決まってる
秀頼が家康を義祖父、秀忠を義父として敬いボクちんに逆らう奴は家康爺ちゃんと秀忠パパが黙ってないぞーって諸大名を従わせるつもりが
毛利や奉行達が家康を追い落とそうとするわ
秀頼は言う事聞かないわで
そりゃ徳川家も面倒見切れんわ

574 :人間七七四年:2024/04/02(火) 17:37:55.97 ID:Jr71BCDX.net
>>569
パシオ書簡の記述から家康と淀を婚約させると読むのは妄想くんくらいのもんでしょ

千姫と秀頼を婚約させて縁を結び両家の繋がりを深め、死にゆく自分(秀吉)
に代わり秀頼の父のように目をかけてやってくれと読むのが自然だよ
奇妙でもなんでもない

575 :人間七七四年:2024/04/02(火) 18:06:25.78 ID:sUPrj1io.net
>>572
痴呆症だから仕方ないとはいえ、それすら考えてない(覚えていない)次元まで行くと、もうどうにもならんわな。

下手すりゃ「お捨て」のために秀頼すら排除しかねない。

個人的な経験談だけど、ボケてしまった祖母の介護してたら、
お前は孫(本人の意識は幼児)を誘拐しに来た人攫いだ、出ていけ、◯ね、孫は渡さん、
なんて言われた。その孫って自分なんだけどなあ……。

576 :人間七七四年:2024/04/02(火) 19:15:13.81 ID:h2ChU/Zl.net
家康暗殺するしかねえ 

577 :人間七七四年:2024/04/02(火) 21:03:37.40 ID:dpw+ACcP.net
家康と淀殿の結婚って「多聞院日記」以外に明確に書いてる記録ってあった?
それほどの重要事なら普通遺言に入れとくべきなんじゃないかね?
「我が死んだら家康は淀を継室に迎えるべし」とか

578 :人間七七四年:2024/04/02(火) 21:59:00.23 ID:b+bZ7H6Z.net
あとは看羊録かな。どっちも噂レベルでしかないが

579 :人間七七四年:2024/04/02(火) 22:03:38.40 ID:Jr71BCDX.net
>>577
あとは看羊録にある「淀殿は治長の子を孕んでいたので家康との結婚を拒否した」くらいかね

多聞院日記の当該箇所読むと
「大坂ニテ去十日、秀頼之母家康ト祝言在之候、大閤之書置在由候、
大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重、無殊儀候、大名之由候」

太閤の遺言で祝言したの後段では大野が淀を連れて高野山へ参ったと続いてるからな
今で言う週刊誌のゴシップレベルだよ

580 :人間七七四年:2024/04/02(火) 22:09:58.08 ID:nCPy3izp.net
看羊録にも一応あるね

「多聞院日記」慶長四年九月十七日
大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、
大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重無殊儀候、大名之由候

「看羊録」
1,秀吉は自ら死を免れないと悟り諸将に後事を託した、家康には秀頼母を室と
して政事を後見し秀頼成人を待って後政権を返すようにさせた
1,家康はまた秀吉の遺命をもって、秀頼の母を室にせんと欲す。
秀頼の母は、まさに大野修理と通じてはらんでいたので、ゆえに辞して従わず。
家康はますます怒り、修理を執らえて関東に流し、さらに途中で死を与えた

慶長四年十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状
一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野
修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に
密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の
修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江
逃れ候共に申し候よしに候

581 :人間七七四年:2024/04/02(火) 23:01:44.59 ID:W6FbgmEY.net
週刊誌のゴシップレベルには巷の話題になってたってことか

文春、新潮レベルかな?

582 :人間七七四年:2024/04/02(火) 23:21:58.44 ID:DZ8mTG3I.net
>>581
当時の内藤隆春は、公家社会の繋がりを利用した情報収集役。
その息子、この書状の発行元の元家は当時19歳の無職。

当然、大層な情報を得られる立場にないため、市中の噂話を集めて親の隆春に報告した内容なのだろう。

そして政権から遠い多聞院日記と類似があるのは、同じ噂話が市中に回っていたから、
そんな噂が立ったのは家康暗殺計画騒動が同時期にあったからと推定できる。

583 :人間七七四年:2024/04/03(水) 13:46:11.46 ID:4Olvz3/W.net
秀吉は秀頼を天下人にする事だけを真剣に考えて結果家康に天下を渡す事にした。それで家康から秀頼に承継させるにはどうする?家康を秀頼の父親にするしかない。そうしないと家康が豊臣とは関係ないところで天下を取ってしまう。だから諸将の前で家康と淀君の婚姻を公言した。それで誰もがいつかこの婚姻が為されると思ってた。秀吉の遺言は基本的に口頭で話した内容なので遺言として有効だし書置があってもおかしくない。というかそのせいで秀吉の遺言は山ほどある。特定のある遺言だけ偽物という事はできない

584 :人間七七四年:2024/04/03(水) 14:04:19.44 ID:6VvTKI06.net
仮に秀吉が淀と家康の婚姻を本当に遺言に残して諸大名もそれを知っていたとするなら
豊臣家と徳川家といったNo.1とNo.2が真っ先に秀吉の遺言なんか守る必要なしと手本を示した訳だ
もはや三成が何を言っても諸大名からすれば
くたばった猿の世迷言なんぞ知った事か
ってなるのも当然だな

585 :人間七七四年:2024/04/03(水) 15:05:12.97 ID:eV3861fD.net
残っている記録が、奈良興福寺の僧の日記と、伏見に幽閉された朝鮮人捕虜の手記と、
既に隠居した(隠居前も2000石程度の)毛利家家臣親子の書状だけ。

天下人の趨勢を論じる一大事なのに、ものの見事に部外者のものばかりで話にならん。

586 :人間七七四年:2024/04/03(水) 15:27:22.68 ID:Y7119OMs.net
高橋名人逮捕説を思い出すな
一日警察署長をやったのが伝言ゲームで逮捕されたという噂になったんだよな

587 :人間七七四年:2024/04/03(水) 15:45:38.05 ID:/do15Cir.net
家康大坂入りについて記述している毛利輝元の秀元宛9月13日書状

急度申候、今月七日、内府大坂へ被罷下候、其題目者、

一 中納言殿女中江戶へ指下、一所に候やうに在度之通言上候、自然別腹に子供出來候へは氣のさゝはりに已來罷成儀候条、
是非右之女中御下候やうにとの家康被申事候つる、夛分秀ョ様御袋様、此中者御分別候つる、何と共候哉、
此節御下有間敷之由 御意之段、於家康外實無曲次苐候、内々申妨仁在之由、承及候条、
是非申○被仰聞候やうにと○御存分被申之由候、
一 當今樣當春御隱居被成、近衛殿御腹王子に御代を御相續有度之由敕諚候所に、中山殿御腹王子に御相續之通
太閤樣被仰置候之条無御分別之通被仰切候事、更無曲次苐之由、家康達而被申之由候、

一 東國衆之儀者在大坂、西國衆之儀者在伏見と太閤樣御置目候之處、備前中納言殿在大坂之段、更不及分別之由、
家康堅被申上之由候、備前中納言之儀者、在伏見に大かた澄候由候、其外之儀者未相聞之候、
家康人數追々大坂へ被指下候、家康事者、石杢丸に一昨日より被羆居之由候、右三ヶ条之辻、如何可相澄候哉、
いつれも趣追々可申候、其元之儀御隙も可入候へ共、少々之儀者被閣、御上可然候、かやう申候とても、
事々敷御上りは在ましく候、爲御心得候、恐々謹言、

 九月十三日 右馬頭
輝元(花押)
秀元 進之候、  

588 :人間七七四年:2024/04/03(水) 16:30:08.05 ID:/do15Cir.net
家康の大坂下向の目的を

一:秀忠夫人を江戸へさし下し秀忠と一緒の場所に居住者させたい、
秀忠が別の女性と子ができた場合夫婦仲が悪くなることが
懸念されるので是非にと淀殿に申し入れたが願いはいれられなかった
(最終的には12月に秀忠夫人は江戸下向)

ニ:太閤様の遺言では東国衆は在伏見と定められてるので宇喜多秀家は
大坂城より伏見城に移るように家康は強く主張、在伏見に定まった
(いうまでもなく大老は適用外で看羊録によると秀家は太閤様より
大坂城にて秀頼を補佐するように遺命を受けていると当初は応じなかったが
結局押し切られ伏見に移ったとあり)

三:天皇譲位について

だったがまさに伝言ゲーム状態で人々の口を経るうちに太閤の遺言をたてに
宇喜多の移転と別件の淀殿妹の秀忠夫人の身柄を申し受け江戸に移転の申し入れを
淀殿が断ったという話が
太閤の遺言で淀殿を妻に申し受けたいという話にすり替わり
秀忠に正室以外の子が出来ては望ましくないという話が
なぜか淀殿が孕んでいたので家康との婚姻を断った
相手は暗殺容疑事件で処罰された大野修理となり
なぜか別件のキーパーソンの宇喜多秀家が大野の身柄を預かったという話に
尾ひれがついて変化していったのではないだろうか

589 :人間七七四年:2024/04/03(水) 16:35:50.24 ID:/do15Cir.net
スマソ、東国衆→西国衆

590 :人間七七四年:2024/04/03(水) 17:24:44.18 ID:nKXfeY4i.net
>>587
第一条文末の脱字部分を補完すると「是非申口被仰聞候やうにと、忝御存分被申之由候」だね

第一条冒頭の「中納言殿女中」はお江説と小早川秀秋の正室古満姫説があるよね
光成氏や跡部氏はお江説、西尾氏や山口県史は古満姫説を取ってる
個人的には光成氏らが主張するように中納言殿女中=お江と読むほうが自然かなとは思うけど

591 :人間七七四年:2024/04/03(水) 17:28:41.01 ID:Lz5hl+M8.net
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-3/15/0079?m=all&s=0076&n=20

細川家記だと奉行は淀殿を前田利家に「配し」、養父として家康の影響力を排除しようとする謀があったことになっている

この記述が真かはともかく、淀殿と家康の婚姻はあくまで市井の噂レベルとしかいえない代物であるのは確か

>>587
輝元が家康寄りのニュートラルなのが面白いね

592 :人間七七四年:2024/04/03(水) 17:34:14.87 ID:Lz5hl+M8.net
>>590
秀家については備前中納言と言及しているから秀忠絡みととるのが自然だわね

593 :人間七七四年:2024/04/03(水) 18:27:29.03 ID:W9pjw3z+.net
気になるんだけど、関ヶ原本戦は一瞬で決着がついたのはわかってるけど、家康の侍医の記録と書状で書かれてることが違うのはなぜだろうか?

家康の侍医→小早川の裏切りが明らかになったので三成らが松尾山に向かい、そこに東軍が追撃して一瞬で終わった
書状等→三成らが陣を布いたところで秀秋が裏切り、そこに東軍がやって来て総崩れになった

秀秋の裏切りが明らかになったので松尾山に向かった
秀秋の裏切りはわからないまま松尾山に向かった

どちらになるんだろうか

594 :人間七七四年:2024/04/03(水) 21:36:48.14 ID:nKXfeY4i.net
>>591
ちょうど関ヶ原の一年前にあたるわけだけど、当該書状の文末にあるように、この時点で輝元は家康の様子を静観しつつも秀元へは
「少々のことは放っておいて上洛するのがよい。しかし仰々しく上洛しないように」と言ってるから多少の警戒感も垣間見えるよね

595 :人間七七四年:2024/04/03(水) 22:53:00.10 ID:4elxfYg9.net
正直、この時期の敵味方の関係がさっぱりわからないのよな。

特に増田長盛は何をしたいのかさっぱり分からん。
反徳川だった浅野長政や大野治長、更には前田利長を家康に売るような行動をしておきながら、数カ月後には再び反徳川で動く。
このとき売られた前田や浅野は関ヶ原の際に東軍として重要な位置にいるわけで、結果的に利敵行為甚だしい。

上杉も加賀征伐に賛成して家康に付くのかと思えば帰国して戦準備をするわ直江状を出すわ、
毛利は徳川と起請文を出して兄弟の契まで結びながら西軍総大将になるわ。

596 :人間七七四年:2024/04/04(木) 00:29:14.04 ID:6wHKVNES.net
>>595
> 直江状を出すわ
 
偽書説論争は結局どう決着したんだっけ?

597 :人間七七四年:2024/04/04(木) 01:29:25.84 ID:ZSh0YcZ7.net
元ネタはありそうなんで真っ赤な嘘ではなさそうだけど偽書は偽書。的な

598 :人間七七四年:2024/04/04(木) 09:21:20.31 ID:SUboY9Pk.net
そもそも秀吉の遺言は八月五日直筆遺言状を除くと全て秀吉が言った事を「聞いた」もの。だから家康と淀君の婚姻も当然秀吉の遺言ということになる。ただこれは利家や輝元や景勝なんかが聞いた内容と違って家康にとって不利なもの。だから家康は実行しなかった。淀君に結婚を催促されたらヤバかったがどうも豊臣家は家康を嫌ってたようでそうした動きも無かった

599 :人間七七四年:2024/04/04(木) 09:28:15.80 ID:ZSh0YcZ7.net
壊れたレコード

600 :人間七七四年:2024/04/04(木) 09:39:21.92 ID:+yiFryeo.net
慶長5年9月7日付家康宛京極高次書状だけど
「切々の使札、御懇意の段」「修理殿、井伊兵部より申しこし候あひだ」とあるけど、これは家康にかなり前から
調略されていたということ?

601 :人間七七四年:2024/04/04(木) 11:06:06.52 ID:JQ/Y2xZ1.net
>>598
「豊臣家」なるものが徳川を嫌っていた(少なくとも内面をそう読み取ってもおかしくない)史料をいい加減だしてくれよ
(なにを指しているのか謎の)豊臣家は徳川嫌い→豊臣家は西軍と豊国社に参拝してるから公儀と認めてる(これも史料示さず言いっぱなし)

淀殿についても勝手に秀吉の遺言扱いしてるしなあ
まあ返信は期待しないよ
コミュニケーション取れるならとってほしいもんだが無理だろう

602 :人間七七四年:2024/04/04(木) 11:06:24.95 ID:SUboY9Pk.net
>>595
増田長盛は毛利取次なので実質的には毛利を最重要視してると言っていい。特に石田三成失脚後は長盛が専属になってる
加賀征伐は家康と淀君の結婚を阻止したい豊臣家や加藤清正筆頭の反家康同盟、越後を取り戻すべく策動する上杉景勝とそれを危険視する堀家と複数の勢力が複雑に入り混じって起きた出来事なので長盛の意思を見つけるのは難しい。豊臣奉行として家康と淀君の婚姻を破壊するべく事態を悪化させたのかもしれないし反家康同盟の存在を使って政敵である浅野長政を追い落としにかかったのかもしれないし堀秀治らの訴えを真摯に受け止めて対応したのかもしれない
見方次第ではあるがどのみちこの時から長盛は家康と戦うつもりはあったことは確か

603 :人間七七四年:2024/04/04(木) 11:48:20.11 ID:zO/hM8WU.net
調略というか元々徳川家とは京極高次妻の初は徳川秀忠妻の江の姉なので
親戚だし、秀吉死後に家康より大津城の修繕費として白銀30貫文を賜るなど
深い関係で会津への途次大津城に立ち寄ってもいる
弟の京極高知は会津出兵時から家康に従い関が原にも参戦

高次も上方の状況を随時家康に知らせていたようで7月26日の高次宛家康書状に
(2通あり)そのことを感謝する旨と同日先手衆として弟も含めた軍勢を
差し向けた間もなく到着するでしょう、大津城を堅固に守ってもらいたい
家康もきっと上洛するのでその時お目にかかりましょうといった内容で
信用されている様子


7月晦日松井康之らの書状には大津宰相殿。内府様お味方と
家康方と見做すものもあった
周囲が西軍の軍勢だらけなので心ならずも当初は人質も出し
西軍にくみしていたのだろう

譜牒余禄の話なので信憑性には疑問があるが京極家の伝承として
慶長5年6月会津出兵で家康が大津城に立ち寄つた際に高次も従軍を
申し出たが上方筋御心許なく思召され大津は結要の地なので
何か起こった際は頼むとして高次を大津にとどめたとあります

604 :人間七七四年:2024/04/04(木) 20:34:19.21 ID:zQA4xbkK.net
「修理殿、井伊兵部より申しこし候あひだ」
ところでこの修理殿って誰の事?
大野治長じゃないよね?

605 :人間七七四年:2024/04/04(木) 21:07:11.37 ID:zO/hM8WU.net
修理殿=弟:京極高知

606 :人間七七四年:2024/04/04(木) 22:00:20.32 ID:zQA4xbkK.net
高知に修理と称していたことあったの?
Wikiでは確認できないけど

607 :人間七七四年:2024/04/04(木) 22:05:59.55 ID:tCVsIbn/.net
>>603
見做す者もあったというか7月末の時点で東軍内では京極高次は味方だという全体の認識だったんだと思う

7月26日付の二通の家康書状に加えて、7月16日付家康書状でも高次下国につき
遠路の飛札を家康は喜んでるから会津征伐から西軍挙兵の間常に通信してる

8月中の両者の通信を示す書状はないものの、9月7日付家康書状の冒頭で「切々使札御懇意之段、難申尽候」
とあるので、8月中旬もしくは8月末以降も通信していたことが分かるしやむなく西軍についたってことだろうね

608 :人間七七四年:2024/04/04(木) 22:15:09.15 ID:tCVsIbn/.net
>>606
wikiの情報は知らんけど7月26日付、9月7日付家康書状にある修理は京極高知で間違いないよ

他にも以下の書状で確認できる
8月22日付秋田実季宛佐々正孝書状
「京極修理」
8月22日付本多正信他宛井伊直政書状
「羽修理殿」

609 :人間七七四年:2024/04/06(土) 05:13:14.02 ID:1tlLH4R+.net
どうやったら西軍は勝てたんだろうか……

8月29日の家臣に宛てた保科書状で「輝元が後詰に来ても撃退できる」と、浜松にいる
保科にまで言われてるから、この時点で勝ち目がないのはもうわかる

となると、その前のどの時点で勝てるんだろう?
岐阜城を救援したとき?
でもあれも、井伊直政書状で「三成の奴は佐和山まで逃げるだろうとみんな笑ってる」
とか言われているから、三成の戦下手がもろに出たとしか思えない

伏見城を3日で落とす
田辺や伊賀上野、四国など無駄なところに兵力を送らずに美濃に集中する
清洲城を落として城内の兵糧弾薬を確保する
三河岡崎あたりまで落として東軍を迎え撃つ

このあたりまで来てようやく勝てるのかなあ……

610 :人間七七四年:2024/04/06(土) 09:00:03.26 ID:o8V2QMIH.net
9月15日の戦闘に勝つだけなら当日朝時点でもまだワンチャンあったかも

徳川家を滅ぼすのは小牧長久手、数正出奔またりまで巻き戻してやり直さないとムリ

611 :人間七七四年:2024/04/06(土) 09:17:11.28 ID:6lgq4CcS.net
>>610
そうだねー小牧長久手で徹底的に
撃滅した方が良かったかも

612 :人間七七四年:2024/04/06(土) 09:19:36.12 ID:FdS1Rijg.net
その場合、豊臣政権は東国の把握に少し手間取りそう
子飼いの諸将はより東側に配置されて
朝鮮への出兵は遅れるかなくなるか…

あれ、理想的じゃね?

613 :人間七七四年:2024/04/06(土) 09:30:17.83 ID:qMHkHXvo.net
小牧長久手は家康に負けた時点で詰んでる。無理に攻撃してまた負けたら秀吉の天下取りが瓦解しかねない。実際この敗北から秀吉は朝廷への対応を軟化させてるし家康が強過ぎた事がよくなかった。その事を分かって無かった輝元が総司令やってたんだから関ヶ原も当然勝てない

614 :人間七七四年:2024/04/06(土) 10:10:18.79 ID:tMg5ZzlT.net
>>609
岐阜城以降で一番可能性が高いのは9月7日~9月12日あたりで決戦を仕掛けること。
この5日間に限り、西軍は小早川がいないものとしても1万人~2万人ほど兵力が多い。

万が一、ここで赤坂を奪還出来れば大津城開城と併せて小早川秀秋の松尾山占拠がなくなる可能性がある。

未来知識かつ希望的観測に則っても、これくらい甘い条件でしか西軍の勝利はない。

615 :人間七七四年:2024/04/06(土) 10:19:38.08 ID:/5JfL7gx.net
絶望的で虚しいのが西軍が勝ったとして豊臣政権安泰の確率がほぼゼロなこと
豊臣家を秀頼1人にして赤の他人の実力者に依存寄生せざるを得なくした時点で豊臣政権は詰んでる
例え小牧長久手の段階で徳川滅ぼしていても豊臣家が史実通り推移すれば結局は同じことになる
どころか徳川がいないからまた戦国に逆戻りする蓋然性が圧倒的に高い

616 :人間七七四年:2024/04/06(土) 10:27:58.38 ID:tMg5ZzlT.net
>>615
なにせ関ヶ原の戦いの本質は、豊臣家臣団が真っ二つに分かれての抗争だからな。
どっちが勝っても豊臣家の勢力は半減。

617 :人間七七四年:2024/04/06(土) 10:29:07.45 ID:qMHkHXvo.net
兵数は情報の揃った現代だから分かるけど当時は感覚に依るところが大きいからギャンブルになる
こっちの方がコマが多いかもで戦争して実は敵の方が多かった、なんてのは普通にある話。それでも三成はヤル気だったろうが指揮権がより上位の連中がヤル気無いんだからどうしようもありません

618 :人間七七四年:2024/04/06(土) 10:46:43.31 ID:PXnLt8u0.net
>>615
秀吉死後に秀頼を任せられる人間なんて誰もいないんだよな
家康が信用できないとして毛利や上杉なら信用できると思えるなら頭がおかしい
前田?賤ヶ岳で柴田を裏切った前科者
宇喜田?裏切らないとしても家中すら纏められない能力不足
さらに言えば秀吉にとって彼らより信用できないのが秀頼以外の親族と恩顧武将達
秀吉と同じ血が流れてる親族や秀吉のやり方こそが正しいとして従ってきた恩顧武将は秀吉から見れば自分と同じ事をする確率が最も高い連中
結局消去法で家康が一番マシという結論

619 :人間七七四年:2024/04/06(土) 10:54:41.64 ID:KuRdtkjB.net
相手を完膚無きまで撃滅するのではなく、輝元や奉行の意図は基本政争の過程で軍を動かしただけ
(ついでに九州と瀬戸内海権益復活するんじゃ)だからある意味
輝元&奉行「内府ぅーイヤンイヤーン(ポカポカ)」家康「何だ仕方無いヤツだなぁ(ポカポカ)」程度のじゃれ合いの積り
で何処かで手打ちしたらエエやろ位しか思ってなさそうなのがな。
けど伏見落とすとか人質する積もりがタヒんじゃったとか、どう考えても家康が簡単に手打ちする訳無い状況にしてるし
色々細かい箇所はそれなりに意味があったんだろうが、戦略的にも政治面からでも全体的に纏めて見ると見通し甘いわ、構想穴だらけとどうしようもない。
家康会津行きこそチャンスと純粋に軍を催した時期だけは正しかっただけ。
勿論秀頼の将来は全くの蚊帳の外だし、そんな中細川憎さに燃え上がる戦下手の三成の空回りと
本当に典型的烏合の衆なんだよな西軍。

620 :人間七七四年:2024/04/06(土) 11:00:09.03 ID:qMHkHXvo.net
>>615
西軍が勝ってたらまだ豊臣は勝軍の長として活動は出来た。もしくは家康に輝元討伐指令を出しておくか。会津征伐に反対して西軍に乗った時点で徳川に負けたら終わりの博打になってた

621 :人間七七四年:2024/04/06(土) 14:15:46.56 ID:1tlLH4R+.net
豊臣が会津征伐に反対した?
そんな史料無いでしょ
そもそも会津征伐は5月3日か5月9日に下野の大田原か誰か忘れたけど、あのあたりの
武将に家康が出してる書状から、早くから決められていたことだぞ

622 :人間七七四年:2024/04/06(土) 14:25:42.01 ID:qMHkHXvo.net
浅野の書状で秀頼・茶々・北政所が会津征伐に反対していたとあるので豊臣家の立場は明白
理由不明だが奉行衆と連んでいて「家康は秀頼の言うことを無視して横暴にも戦に向かった」とするため、謂わば反対の為の反対だった可能性もある

623 :人間七七四年:2024/04/06(土) 14:26:02.63 ID:xZah8i7k.net
>>621
横からだがあるぞ
前スレに書いたやつだけど
まあだからと言ってこれを以て秀頼は西軍だったとまでは言えないと個人的には思ってるけど

179 人間七七四年 sage 2023/12/03(日) 17:58:49.36 ID:ive2KSC9
>> 178
横からだが会津征伐に関しては淀と秀頼が家康を止めようとしてる史料はあるね
北政所も秀頼への見舞いと称して、実は家康を止めるため大坂へ下ると幸長は言ってるな

日付不明の浅野長政宛浅野幸長書状写(坂田文書)
※冒頭の5月18日の書状を22日に拝見と、政所様は明日27日に秀頼へ見舞いのための部分から5月26日付と比定できる

「五月十八日之御書、同廿二日至伏見到来、忝拝見仕候」

「秀頼様・御袋様より、内府様御下候儀御留有度と、御奉行衆為御使就被仰付候、
内府様へ奉行衆被参候へハ、御機嫌悪被成于今不被申出候、政所様明日廿七日秀頼様為御見廻、
大坂へ被成御下候ハヽ、是も御内儀者内府様御留有度由ニとの御下と申候事」

624 :人間七七四年:2024/04/06(土) 14:40:39.10 ID:xZah8i7k.net
>>622
お前は早く渡邊大門が指摘してるとかいう縁辺=家康・淀の婚姻のソース出せよ
ずっと逃げつもりか?

625 :人間七七四年:2024/04/06(土) 14:55:32.63 ID:qMHkHXvo.net
秀頼は何故会津征伐に反対したのかは非常に重要
「家康はいちゃもんつけて上杉を潰そうとした」という司馬史観からすると不思議には見えないが当時の史料から事の発端は景勝の越後奪還の野望とわかる。景勝は軍備拡張を繰り返していてそれを堀氏に報告された事が原因。景勝の行いは秀吉の惣無事令にも反する重大事案。何故秀頼はこれに反対したのか、というと内府違いの条々のアリバイ作りかさもなくば政治外交音痴が極まって事態を把握出来てなかったか。宣教師の記録によれば景勝は「内府を挑発した」とあるから秀頼は「景勝が喧嘩を売ったのは家康でその喧嘩に豊臣軍を動員するのは間違い」と判断したのかもしれない。どのみち家康と豊臣家の関係は険悪だったのは確か

626 :人間七七四年:2024/04/06(土) 15:13:32.11 ID:k2TRAA4b.net
會津出兵に反対する淀、北政所への嫌がらせか
5月27日北政所大坂入りしてしばらくたった
6月2日淀殿の乳母大蔵卿の局の身柄が京都にて拘束され
北政所はおそらく家康とかけあって大蔵卿の局を解放させる
必然的にこの間、會津出兵止めの矛先は弱まったのだろう
6月6日家康は大坂城内の軍議で会津出兵決定
同日帰洛予定だった北政所は最後の説得を試みたのか2日後の6月8日帰洛


『義演准后日記』6月2日「大蔵卿局、被召置云々」
『北野社家日記』6月5日「昨日大蔵卿殿儀、相済(京より)大坂二御下之由也」
『時慶記』6月5日「北政所(大坂より)明日可有御上洛由候。大蔵卿局赦免ノ由候」
『時慶記』6月8日「北政所殿、大坂ヨリ御上洛之由候」

627 :人間七七四年:2024/04/06(土) 16:43:10.45 ID:xZah8i7k.net
>>625
司馬遼太郎大好きなんだね
お前は結論ありきで史料を曲解するんじゃなく先ずは正しく史料読めるようになろうな
で、渡邊大門の婚姻の件はまさかと思うけど嘘だったん?

628 :人間七七四年:2024/04/06(土) 19:05:49.14 ID:RU80mJyR.net
妄想君ってすぐバレちゃうよね
いつも秀頼があたかも成人してるかのような書き方するし

629 :人間七七四年:2024/04/06(土) 19:52:51.91 ID:snfH3XMJ.net
>>614
その期間に虚空蔵山北側を占拠して赤坂の東軍の動きを促すしかないと思う。
さらには岐阜城を狙う動きも見せる。
これで釣られれば決戦には持ち込める。
勝てるかはわからんが。

630 :人間七七四年:2024/04/06(土) 20:55:18.83 ID:fhMaleBF.net
南宮山の毛利勢がなぜかやる気出す。っていう改変なければ成り立たん作戦じゃねそれ

631 :人間七七四年:2024/04/06(土) 21:15:48.54 ID:Dj+QQu/9.net
景勝を転封したのは秀吉でそれに異を唱え更に武力をもってこれを覆そうとするのは明らかに太閤と豊臣家への反逆行為。ところがそれを秀頼は黙認した。これが何を意味するかと言えば豊臣家は秀吉の意思を重要視していないということ。ましてや家康の存在は認められない。西軍に味方した理由もここら辺にあるんだろう
今風に言えば「正体を現した」ってところ。普通なら反対なんかしないんだから

632 :人間七七四年:2024/04/06(土) 21:29:13.27 ID:/mpKp63K.net
>>630
やる気満々だったの秀元くらいだし全体的にやる気なかった毛利を決戦の主戦力に考えるのがもう無理ある
東軍諸将が三成の脳内通り何故か都合よく寝返ってくれなきゃ

633 :人間七七四年:2024/04/06(土) 21:32:54.51 ID:k2TRAA4b.net
何を言ってるのか理解できませんが。・・
夢と希望はたとえ痴人の夢や妄想でも持ってる方がいいもんね
でもできれば個人でブログでも開設してそちらでやってもらえませんかね
カルト信者が案外たくさんつくかもしれません

634 :人間七七四年:2024/04/06(土) 22:16:02.93 ID:tMg5ZzlT.net
>>632
秀元にしても、本当にやる気があったか疑問なんだよな。
本当にやる気があるなら、そもそも南宮山の上には陣取らない。

大垣赤坂で決戦すると仮定したら下山だけで1時間以上、戦場まで2時間かかるわけで。

635 :人間七七四年:2024/04/07(日) 06:23:43.89 ID:hLr2jjCu.net
誰も裏切らず全員戦っていたらどうなっていたのでしょうか

636 :人間七七四年:2024/04/07(日) 08:06:42.03 ID:DxHAnKga.net
>>635
上杉が征伐されて終わり以外ないよ
だって西軍の挙兵って政権事業である上杉征伐に参加する予定だった諸侯を足止めして
結成されたものだから、裏切りというなら西軍こそが政権運営に対する裏切り者になる
だから西軍挙兵が起きない以上は全国諸侯相手にする上杉が勝てるわけがない

637 :人間七七四年:2024/04/07(日) 08:25:34.79 ID:xzL15vRW.net
反家康決起の黒幕は秀頼ら豊臣家だった。決定事項の会津征伐に敢えて反対する事で家康が豊臣の意思を踏み躙る反乱者だと天下に喧伝して西軍の正当性を強化した。どう言って反対したかは不明だが会津征伐が当然の帰結である以上その反対論は的外れだった訳で家康が不機嫌になるのも当たり前。まさか裏で謀反を企んでいたとまでは思わなかったろうが

638 :人間七七四年:2024/04/07(日) 09:26:38.55 ID:7RTunbjX.net
上杉の考えとしては、最上、伊達以外の東北諸侯は旗幟が不明確で、そこで、最上伊達を倒せば奥羽越の覇者は可能とみていた
越後の一揆も有効に堀を足止めしていた
まず最上を倒そうとしたが、義光は驚いて、人質を出すからと云いだし、8月23日には一度最上攻めの準備を一旦止めている。9月4日から侵攻作戦再開したが、

639 :人間七七四年:2024/04/07(日) 10:37:12.06 ID:AdRnstQJ.net
>>630
じゃあ伊勢から南宮山に何しに来たということになる。
大規模かつ複雑な作戦になるから軍議は絶対必要。
虚空蔵山北側隊、南宮山隊、大垣隊の連携が絶対必要。
虚空蔵山北側へは小谷、木之本辺りから迂回する必要がある。
長篠の鳶ヶ巣砦占拠のように退路、補給路遮断、
挟撃陣形取って、敵を動かすのが目的。
結果決戦か撤退を強いるのが目的。

640 :人間七七四年:2024/04/07(日) 10:38:55.50 ID:AdRnstQJ.net
ただし難易度高いので、
虚空蔵山北側への動きがバレたら失敗、
決戦になっても勝てるかわからん。
ただ、なにかやるならこれくらいしかないと思う。

641 :人間七七四年:2024/04/07(日) 10:49:26.98 ID:tm/+ijXe.net
命令だから来たけど損害出す気はない日和見なんて諸侯連合じゃありふれた現象じゃね

642 :人間七七四年:2024/04/07(日) 11:03:42.50 ID:eRj0dqO/.net
東軍はとにかく福島池田黒田ら先発隊の戦闘力が家康の懸念も吹き飛ぶほどダンチだった
何であそこまで戦意旺盛だったのか不思議なほどだが西軍に相当ムカついてたんだろうか

643 :人間七七四年:2024/04/07(日) 11:23:38.45 ID:AdRnstQJ.net
あるいは、シンプルに大垣城勢で岐阜攻撃の動きを見せる。
東軍がこれに釣られたら南宮山隊で赤坂の占拠ないし陣城破壊。
大垣隊は即大垣退却。
目的は赤坂の拠点奪取ないし破壊。
大垣隊が撤退に失敗すると小牧長久手の中入り隊同様の結果になる恐れがある。

644 :人間七七四年:2024/04/07(日) 11:30:43.76 ID:eEJTfLj5.net
>>639
南宮山勢は「そこにいること」が役目。
戦国時代の後詰戦の定石だよ。

互いに大軍が控えつつも、前衛の小競り合いに終止して、なんとなく不利な方が撤退する。

むしろ史実の関ヶ原みたいに、ひとつの決戦で大半後動いて致命的一撃が入るようなのは滅多にない。

645 :人間七七四年:2024/04/07(日) 11:43:51.54 ID:1aWUKq7j.net
岐阜、赤坂、垂井を取られてからは何をやっても負けだろうが少しでも
勝機を見出せそうな案として3つくらい考えたんだがまず第一弾

1:9月7日着陣した南宮山勢の長曾我部、長束、安国寺を美濃ではなく
尾張に向ける、長嶋城は史実通り鍋島が抑える
9月9日、9月10日村上、九鬼水軍が野間、知多方面で勝利した事実があるの
(相手は分からないが長嶋勢か尾張地元勢か家康の派遣した徳川勢のいずれか)
海軍とも共同して陸海両面作戦とする。決行は9月5日から8日位に)
海軍のみで勝てた位なので勝利は得られるが戦勝後史実の九鬼勢よりも大規模に
焼き働きを行い、清須城を伺うような気勢を見せる、岐阜城からこの日は見える
筈なので赤坂につたわり士気を挫くのが狙い、東軍は垂井まで進出と
大優勢下にあるが逆に言えば深入りしていて兵站が伸び切っているのも事実
こういった場合補給線を脅かし後方遮断の恐怖を敵方に与えるのが有効

9月9日10日打ち取った首を史実では大坂に送ったようだが
赤坂から大垣城はよく見えるのを逆利用して大垣城外にでもさらし
士気を高める、合わせて戦勝を誇張して噂として流し
清須城危うし大坂方面より更なる海軍が上陸予定など流言をばらまく
当然ほらだし清州を落とせるとは思えないので頃合い見て撤収するが
敗戦続きの西軍にとっては貴重な戦勝になるのではないだろうか

646 :人間七七四年:2024/04/07(日) 11:58:17.18 ID:tm/+ijXe.net
ありがとうもういいよ

647 :人間七七四年:2024/04/07(日) 13:58:16.63 ID:JSUru5Mo.net
>>645
そんな細かい動きが出来るなら、そもそも史実関ヶ原があんな無様な負け戦にならんのよ。
兵力的には不利とはいえ本来瞬殺されるような兵力差ではないのだから。

考察するなら、石田が動かせた、あるいは宇喜多まで含めた2万5千でどうやって勝つかを考察しなければ無意味。

次点で、石田視点を捨てて5万人動かせる毛利視点ならどうできるかを考察するくらいだが、
この場合豊臣家は傀儡にするか切り捨てるかの二択だから「豊臣の勝利」はない。

648 :人間七七四年:2024/04/07(日) 15:50:07.41 ID:9s5rgB9d.net
>>644
それお前の印象で源平の時代から大会戦で致命的な結果になってる事が多い
設陣からの要塞化になってれば会戦が起こりにくいだけの話

649 :人間七七四年:2024/04/07(日) 20:48:23.50 ID:eEJTfLj5.net
>>648
自分で書いてるじゃん。設陣からの大会戦が起きにくいって。

だいたいは設陣からの小競り合いで和睦がセオリーなのよ。大会戦に発展することが珍しいわけで。

650 :人間七七四年:2024/04/07(日) 23:23:53.59 ID:AdRnstQJ.net
>>644
後詰して終わりじゃないんだよ。
刀根坂で朝倉はどうなった?
諏訪から新府に撤退した武田はどうなった?
後詰に出張った以上、少なくとも敵が撤退するか和睦しない以上それで終わりじゃないんだよ。
確かに、史実の南宮山毛利は不戦密約で安全を確保したわけだけど。でも、それは9月14〜15日。

>>645
それわたしが以前考えた鳴海上陸作戦に近いわ。
それね、ちょうどその頃家康本隊が沓掛熱田の辺りに到着する。家康本隊との決戦になるんだわ。
だから相応の戦力動員しないときついよ。

651 :人間七七四年:2024/04/07(日) 23:31:32.95 ID:LZhkvMeY.net
>>649
じゃ和睦がセオリーじゃない関ヶ原なら大会戦なるのが想定内やんけ

652 :人間七七四年:2024/04/08(月) 04:28:47.04 ID:hYqT+Iyr.net
>>650
大阪城の輝元ほぼ全軍を水軍使って上陸してもだめですかねえ
南宮山全軍と鍋島で
熱田にいる家康を挟み撃ち

653 :人間七七四年:2024/04/08(月) 04:48:58.95 ID:vakneJNH.net
そもそも水軍海賊衆って自分達の活動テリトリーあるから
大名の指示一つで自由自在に活用するようなのは難しいのでは
毛利は尼子や織田との山陰での海戦がいくつかあるけどその時も山陰側の海賊衆を中心に動員してる

654 :人間七七四年:2024/04/08(月) 09:28:14.66 ID:bMR93BmK.net
>>652
大坂城の輝元は5000しかいないぞ
そもそも毛利水軍は尾張だかで海戦して敗北してなかったか
伊勢に上陸して陸路で合流くらいしかできなそう

655 :人間七七四年:2024/04/08(月) 12:09:11.47 ID:gAsjBjgm.net
プチ改変で変化起こりそうなのを思いついた。
史実では宇喜多15000は大垣入城したが、
明石隊5000(3000でも可)は大垣に援兵派遣、
秀家の主力1万は犬山に入城する。
犬山はの備えの東軍部隊が多少いるかもだが
数で蹴散らせられる。
これで当面犬山が開城することはない。
犬山が保持されることになる。
大垣も1万以上で籠ってればそう簡単には落ちん。
で、伊勢方面隊と犬山城衆で岐阜奪還作戦を行う。
赤坂の東軍釣れたら長良川挟んでの決戦になるかな。
赤坂の東軍的には大垣への備えも残さなければならないので
全力で岐阜防衛には振り向けられない。
かと言って岐阜を放置すれば赤坂で孤立する。

これけっこういいかも。
ポイントは犬山が健在かつ戦力化することかな。

656 :人間七七四年:2024/04/08(月) 13:05:28.89 ID:NwxsnjrZ.net
>>655
無理。
宇喜多が大垣城に入場したのは岐阜城陥落の翌日だから犬山城までの進軍路がない。

結局近日中に宇喜多隊が到着するのに待たずに岐阜城から打って出て、
その結果防衛戦力を失って1日で岐阜城が落ちた時点で詰んでる。

岐阜城が6000で籠城、大垣勢が宇喜多を加えて3万程度で川を挟んで東軍と対峙まで持ち込んで、
やっとそれからどうしようかという戦略を考える余地が生まれる。

657 :人間七七四年:2024/04/08(月) 13:09:36.44 ID:OMZh3dky.net
宇喜多勢大垣入城よりも犬山城開城の方が先なので無理やないかな

658 :人間七七四年:2024/04/08(月) 13:17:03.70 ID:eo9lGCIV.net
結局何やってもダメじゃん
家康と刺し違える勇者でも現れない限り無理ってことか……

659 :人間七七四年:2024/04/08(月) 13:53:26.55 ID:hYqT+Iyr.net
もうこうなったら家康が赤坂に来るまでに
秀頼と淀、ねねが大垣に入り
秀吉公の恩を忘れたのかぁと叫んでもらうしかない

660 :人間七七四年:2024/04/08(月) 15:23:46.00 ID:PWfDKar/.net
だいたいなんで赤坂に駐屯されてんだよ 
大垣城包囲されてるじゃん
正則の清州城やるって話じゃなかったのかよ

661 :人間七七四年:2024/04/08(月) 15:44:20.28 ID:NwxsnjrZ.net
>>660
岐阜城救援に行ったらそのまま追い返されて赤坂まで追いちらされた。

西軍側の救援の兵数は不明だけど、東軍の対大垣の兵力は11000人。

大垣城からの救援が1万人未満なら救援する気あんのかって話だし、
1万人以上いて赤坂まで占領されたとなるとどんだけ弱いのかって話で結局詰んでる。

662 :人間七七四年:2024/04/08(月) 22:35:16.29 ID:COCkmU47.net
>>659
> 秀吉公の恩を忘れたのかぁ
 
忘れたくてもンナモナ端っから無ぇよ。
徳川は羽柴の恩なんか受けてねえから。
どっちかってぇと羽柴が徳川の御蔭で天下を取った。

663 :人間七七四年:2024/04/08(月) 22:39:17.58 ID:QRn/ZQvK.net
個人的には西軍決起のタイミングが悪すぎると思ってる
家康は上杉討伐軍(東軍)を編成してる状態がかなり有利なんだよな

664 :人間七七四年:2024/04/08(月) 23:19:18.09 ID:lHmuuIor.net
>>663
西軍諸将も上杉征伐にかこつけて兵を用意するしかないのだから、
(勝手に兵を用意した結果、征伐軍向けられたのが上杉)
決起するならあのタイミングしか無かった。
上杉征伐が終わったあとだと、もう決起のタイミングはないし。

逆に、上杉征伐が起こらなければ毛利が奉行衆の決起に加担することも無かっただろうから、
毛利抜きでは兵力不足で奉行衆も決起出来ない。

タイミングの良い悪い関係なくあのタイミングでしか決起は起こり得なかったかと。

665 :人間七七四年:2024/04/09(火) 07:49:27.56 ID:nfTVyjlm.net
>>656
まぁ確かにその通りなんだけどね。
宇喜多が犬山に辿り着けるかは博打要素がある。

>>657
犬山開城は9月入ってからでしょ。
稲葉が郡上に帰ったりとかも。

666 :人間七七四年:2024/04/09(火) 08:00:12.35 ID:nfTVyjlm.net
それと何度か言ってるけど、市橋・徳永らが南濃方面の城攻撃してるから大垣からは全力出撃はできない。
島津は墨俣で守備についてるし
岐阜への救援兵力は精一杯出してる。
それじゃなくても石田から既に岐阜には援兵1000だったか送ってる。
なので岐阜が籠城して粘ってくれればまた展開も変わってた。

667 :人間七七四年:2024/04/09(火) 08:01:25.57 ID:nfTVyjlm.net
岐阜の瑞龍寺砦守備してたのは石田の援兵。

668 :人間七七四年:2024/04/09(火) 10:03:48.79 ID:oGr0EyNH.net
>>662
秀吉小飼に言うんのですよ
西軍に寝返り家康を討て
わらわの一声で
大津城は開城したと

669 :人間七七四年:2024/04/09(火) 19:13:50.60 ID:Dfp3iDeh.net
>>666
そもそも、その南濃の、岐阜城の5日前に行われた福束城の戦い自体が、岐阜以上に無様。

攻城側の東軍勢力は市橋、徳永らの兵2000程度の兵に対して、防衛側の西軍は福束城の1000人+大垣城からの援軍3000人。

防衛側で倍の兵力で戦ったのにもかかわらずたった1日で援軍潰走、翌日落城してるのよ。

本来なら、むしろ西軍が今尾城と松ノ木城を落として南濃を固め、清須城を囲まないといけないのに、
逆に福束城を落とされ高須城、竹ヶ鼻城を孤立させられた時点で、
岐阜城以前に美濃における戦略が破綻している。

670 :人間七七四年:2024/04/09(火) 20:18:42.75 ID:ACgsarkv.net
徳永って人、美濃の戦線ではちょいちょい名前を聞くね
軽く調べてみたけど(といってもWIKIだが)なかなか立ち回りがうまいというか…
関ヶ原の論功行賞にも参加してるのはちょっと驚きでもある
美濃方面の戦略を考える時、西軍は割とこいつどうにかした方がよさげな気もする

671 :人間七七四年:2024/04/09(火) 20:39:23.03 ID:EHsQPRIQ.net
徳永ごときをどうにもできないくらい
どいつもこいつもダメだったってことじゃね

672 :人間七七四年:2024/04/09(火) 21:14:29.02 ID:kmO1C/SN.net
>>669
一応福島の援兵もいくらか加わってるみたいだよ、
まぁせいぜい数百程度だろうけど。
あとは尾張衆の横井だったかも加わってる。
まぁそれでも全部で2000〜3000程度だとは思う。

673 :人間七七四年:2024/04/09(火) 22:48:41.85 ID:zT2K1UGh.net
1000人~2000人のこもる城に万単位の軍勢をぶつけてそれぞれ軽く1週間以上足止めされる西軍。
城攻めすれば2日あれば陥落させる東軍。というか持ちこたえられない西軍。
そりゃあ相手にもならんわな。

しかも遅いとはいえど、他の城を落としてるのは大垣勢「以外」なわけで、石田三成の戦下手が際立つ。

674 :人間七七四年:2024/04/10(水) 02:26:51.82 ID:Aj5fpeWx.net
>>669
島左近も援軍になら勝てかな

675 :人間七七四年:2024/04/10(水) 04:55:41.66 ID:0k8fm5JI.net
そりゃあ急ごしらえで出来た西軍にテルも覚悟決めてねーもん
士気が高いわけがない

676 :人間七七四年:2024/04/10(水) 08:07:47.65 ID:Rq2V/jfq.net
>>675
GLAYかよw

677 :人間七七四年:2024/04/10(水) 10:15:43.16 ID:Aj5fpeWx.net
会津討伐軍
赤井忠泰、秋山光匡、浅野幸長、天野景俊、荒尾平左衛門、有馬豊氏、有馬則頼、池田知政、池田輝政、池田長吉(輝政の弟)、池田彌左衛門、生駒一正、石河貞政、石川康長、伊丹正親、市橋長勝、稲葉道通、浮田詮家(坂崎直盛)、大島光義、岡田助左衛門、岡田善同、織田長孝、織田有楽斎、落合新八、加藤嘉明、金森可重、金森長近、兼松正吉、河村助右衛門、京極高知、九鬼守隆、黒田長政、桑山元晴、小出秀家、佐久間勝之、佐久間政實、佐久間安政、佐々行政、佐々長成、佐藤堅忠、真田信繁(幸村)、真田信幸、真田昌幸、清水小八郎、神保相茂、鈴木重時、施薬院、千石秀久、田中長顯、田中吉政、柘植正俊、津田信成、津田正秀、筒井定次、寺澤広高、藤堂高吉、藤堂高虎、戸川逵安、徳永

678 :人間七七四年:2024/04/10(水) 10:15:53.41 ID:Aj5fpeWx.net
寿昌、徳永昌重、富田知信(信高)、中川忠勝、中村一榮(一氏の弟)、中村一忠、中村元勝、野尻彦太郎、能勢頼次、野間久右衛門、長谷川重成、蜂須賀至鎮、一柳直盛、平野長元、福島正則、福島正之(正則の継子)、福島正頼(正則の弟)、舟越景直、古田重勝、古田重治(重勝の弟)、別所治直、細川忠興、細川忠利、細川忠隆、堀田権八、堀田重氏、堀尾忠氏、本多正武、松倉重政、水野清忠、溝口源太郎、三次慶清、三好為三、村越光、森可政、山内一豊、山岡景宗、山岡道阿彌、山城秀宗、山名禅高、分部光嘉

679 :人間七七四年:2024/04/10(水) 10:19:42.22 ID:Aj5fpeWx.net
真田ぐらい
他は東軍

680 :人間七七四年:2024/04/10(水) 10:22:54.90 ID:Aj5fpeWx.net
福島なんて絶対に無理なんだから
織田秀信調略後すぐさま清須攻め落とせば
かなりの武将が西軍につかないか
金森、古田、等

681 :人間七七四年:2024/04/10(水) 11:08:25.10 ID:PgyLI4Ju.net
秀信を調略したのって書状類では確か8月6日だったかな?
三奉行が中川に出した書状で確か秀信が味方になったとか書いてたはず

8月6日に調略したとして、三成が大垣に入ったのは9日なんだけど……
三成は8月上旬は何してたんだ? 真田昌幸に書状を出していたのはわかるけど
9日に三成が大垣に入ってそこから大急ぎで岐阜、そして清州に行っても、既に東軍は
西上してるから下手したら清州包囲中に背後突かれて終わるぞ

682 :人間七七四年:2024/04/10(水) 11:26:50.03 ID:DfJPBQVP.net
福島正則の調略してて戦わずに清州城は手に入ると思ってたのでは
木曽川で東西の連絡遮断して正則居城の清州を西軍の最前線と見込んでたのが初期構想ぽいし

683 :人間七七四年:2024/04/10(水) 12:07:27.48 ID:PgyLI4Ju.net
>>682
普通は失敗も考慮して2段構え(調略、失敗したら即時攻撃態勢を整えておく)で
行くものだと思うんだけど……

吉川広家がいつの書状か忘れたけど、奉行衆は戦が全くわかってない、とかぼやいてる書状が
あったけど、ほんとだね

684 :人間七七四年:2024/04/10(水) 13:35:17.48 ID:Aj5fpeWx.net
>>682
それが大きな敗因なのでしょう

685 :人間七七四年:2024/04/10(水) 13:45:34.62 ID:Aj5fpeWx.net
>>682
「さて、上方で石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)が決起したとの雑説が伝わってきたので、将兵についてはその地でお留めになって、御自身はここ小山までお越しいただけまいか。詳しいことは黒田甲斐守長政(くろだかいのかみながまさ)・徳永法印寿昌(とくながほういんとしまさ)が申しあげるでありましょうから、詳しくはここで記すことはできません。謹んで申し上げます」

三成はこれに勝る書状が書けたのであろうか

686 :人間七七四年:2024/04/10(水) 14:16:47.24 ID:Aj5fpeWx.net
そもそも書状出すのが遅いと真田に怒られているぐらい

687 :人間七七四年:2024/04/10(水) 17:32:31.24 ID:8mwk1Pp7.net
>>685
小山評定があったかなかったかには興味がないのだが、論争の種になっている書状を特段の断りもなく挙げるのはどうなのかね
ましてあくまで「上方雑説」としか記されていないもの三成の名前だけ挙げて超訳しすぎ
ついでにいえば「人数(軍勢)之儀者被上」であって、将兵をその場で留めろではなく広義の「上洛」(西上)を命じている
福島本人については小山に来いとも書いておらず、ここにきてねだけだしな

688 :人間七七四年:2024/04/10(水) 18:19:27.95 ID:Aj5fpeWx.net
>>687
小山にいく気にさせたと思うのだが

689 :人間七七四年:2024/04/10(水) 20:12:21.98 ID:PgyLI4Ju.net
そもそも福島を調略するのが三成とか喧嘩売ってるとしか思えない人選
他にいなかったのかよ

690 :人間七七四年:2024/04/10(水) 21:15:46.13 ID:uwWGj6S4.net
>>688
おめぇゲェジか?

691 :人間七七四年:2024/04/10(水) 21:46:48.17 ID:qIX5utY5.net
福島宛書状は福島家の記録と武徳編年集成で日付が異なり(7月9日、19日、24日)

「人数(にんじゅ:軍勢のこと)之儀者」の次は福島家の記録(3種類あり)は被止
武徳編年集成は被上になってるね、一画違いなのでどちらかが誤字なんだろうけど
他の家康書状から先手衆の西上は7月26日からのようなので
7月24日書状で上方雑説の件で明日正則殿は家康の所まで軍勢はて被上て来てください
7月25日正則は家康のもとへ(この日家康の所在は小山)
7月26日東軍先手衆は西上開始(正則は書状を持ってきた徳永と同じ組で進軍)
と考えるのが自然だと思う

正則調略は真田宛書状で三成が報告しているが
確かに三成が前面に出るのは逆効果かもしれないので
調略自体は2大老3奉行などで豊臣公儀の名で行ったのではないだろうか
ただ8月8日黒田長政宛本多正純書では上方からの正則への説得工作には
ゆっくり対応して時間稼ぎするように指示してるので
正則は西軍からの調略について徳川に報告していると思われ
時間稼ぎの為に気のあるふりをしていたが全く応ずる気がなかったのだろう

692 :人間七七四年:2024/04/10(水) 22:03:13.44 ID:oUJ4e9J1.net
福島、もっと言えば美濃方面全般に関しては、西軍の意思というより石田三成の独断かと。

真田や佐竹に出している美濃の戦略を書いた書状も、何故か石田のみの筆しかない。

特に旗幟を伺う書状なら、少し前まで一緒にいた輝元や奉行、安国寺らと連名にするものだろ。

693 :人間七七四年:2024/04/10(水) 22:44:04.33 ID:CF4GrNSp.net
生駒利豊の書状によると福島が清須に帰城する前に秀信と三成で清須落とすつもりだったんだよな

8月5日付真田宛三成書状でも「拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人数出候」
8月6日付真田宛三成書状
「此方為仕置明後八日尾州表へ被出候、岐阜申談候」
とあるので秀信とは密に通信して色々相談していたことは伺えるが、せいぜいこれくらい
のもので美濃方面に関しては西軍全体が共有していた戦略とはとても言い難いな

694 :人間七七四年:2024/04/10(水) 23:28:09.23 ID:oUJ4e9J1.net
>>693
むしろ西軍全体の主戦略から外れた格好の三成が、秀信と結んで主導権を得ようと色々画策したとも取れる。

695 :人間七七四年:2024/04/10(水) 23:40:30.74 ID:5jaX/Vt2.net
織田秀信以外に伊藤盛正や一柳直盛などの説得にも三成や三成手の者の名が出てて彼が美濃尾張方面や東の調略窓口としてどうしても目立つ
スレの上で話題出てた福束城の丸毛氏も三成じゃなかったか

あと気になるのが西軍への誘い文句に領土や大坂城の金銭を提示してたりするんだよな
提示した領土が被ってるケースもあるし三成が単に空手形連発してただけなのか

696 :人間七七四年:2024/04/11(木) 00:41:11.89 ID:wW3pcrBr.net
文献史学を少しかじっていたら分かると思うんだよね
敗者にならずとも、敗者側からの書状なんてそうそう残さないということ
のちのちに焼かなくても、朴斎によると、ほぼ初報の段階で金森だったかが三成から届けられた書状を、箱の封印を解かずに家康に差し出している
そんなケースもある
ちなみにこの書状の中身については「家康以外だれも知らない」という

惣村史料だって残っているのは基本的に自分たちの権利を証拠だてるもの
なぜ残っているのかも考えてみたらどうでしょうね
「家康が快勝した」という結果を現代人が知っているってのは、極めて厄介ですねえ

697 :人間七七四年:2024/04/11(木) 00:57:54.28 ID:YWEil4F+.net
>>693
さっさと清須落とせばかなり違ったはず
武器弾薬、秤量

698 :人間七七四年:2024/04/11(木) 10:02:55.12 ID:N+AOEUN7.net
清洲については、最上は福島が説得に応じ味方すること、
次善は福島の敵対は確実になるが攻め落としてしまうこと。
最悪は福島が味方せず清洲を確保できないこと。
結果は最上を望んで最悪になったということ。
この結果は半ば博打なので仕方ないとは思う。
ただ説得がだめだった場合の次善策として、
大垣、岐阜、犬山から兵1万くら抽出して小牧山を占拠しておくという手はあった。
メリットは、対清洲に有利な形で第二次小牧長久手に挑めること。
デメリットは、ただてさえ少ない兵力をさらに分散配置、
守るところも大垣岐阜犬山小牧山と増える、
宇喜多が来るまでにどこか落ちててもおかしくない。
個人的にはデメリットのほうが大きいと感じる。


清洲強襲案についても同じことが言え、
結局味方の来援がくるまで持ち堪えられるのかというのが最大の問題。

結局結論としては戦略が間違っていたとなる。
秀元吉川には美濃経由で清洲に行けと命じておけば
西軍というか石田の構想通り尾三国境付近とか浜松付近での決戦に持っていけていたと思われる。
伊勢は元康長束安国寺鍋島長曾我部あたりにゆっくりやってもらえば十分。伊勢には有力な東軍戦力はいない。

699 :人間七七四年:2024/04/11(木) 12:03:02.10 ID:kM4XSVNZ.net
7月中に清須を攻略できると西軍につく武将出て来ないか
伊勢無欠開城とか
金森なんて優勢と見たら西軍についてくれそう

700 :人間七七四年:2024/04/11(木) 12:03:03.85 ID:lNrnnCQ3.net
>>698
前提条件がそもそも間違ってるのよ。
8月頭の時点で、美濃衆はまだ西軍側に付いていない。
伊勢に侵攻したあとに、美濃衆が西軍に付いたので、今更美濃(あるいは尾張)に行くなら史実通り伊勢を片付けてからになる。

そして、本来ならそれで十分間に合うはずが、安濃津城を落とした段階で既に岐阜城陥落、赤坂占拠(中山道遮断)で詰んだ。

701 :人間七七四年:2024/04/11(木) 12:59:04.89 ID:RVhg7leU.net
西軍の誤算は秀頼のネームバリューが低すぎた事
これは豊臣家の誤算でもあるが
戦国時代家中統制が出来ている方が珍しくて下剋上したい連中は山といる。そうした連中に「あいつは秀頼さまの敵」と蜂起させればそれで良かった。要は福島正則が西軍につかなくとも福島家臣が西軍につけばそれで事足りた
そんなことすら起きなかった。それだけ正則の家中統制が良かったのもあるが西軍つまり豊臣家の人望が致命的に足りなかった

702 :人間七七四年:2024/04/11(木) 13:31:31.91 ID:qT26bq1/.net
西軍が豊臣家そのものという妄想を立証してくれないと酔っぱらいの戯れ言だぞ

703 :人間七七四年:2024/04/11(木) 14:28:26.36 ID:lNrnnCQ3.net
>>701
同じ西軍でも、そこに毛利みたいな外様と、最初から豊臣臣下の三成らとでやり方の違いが出ている。

毛利が主体となって動いた伊勢、阿波、讃岐、負けたが伊予、豊後については、
書状(秀頼の威光)なんか当てにせずに全部武力侵攻している。

豊臣公儀なんかより実利を求めた侵攻先だから当たり前といえば当たり前だが、
三成らに足りなかったのって、そういうところじゃないのかと思うんだが。

704 :人間七七四年:2024/04/11(木) 14:59:56.27 ID:RVhg7leU.net
>>702
んなもん浅野幸長書状と伏見を落とした鈴木重朝に秀頼が褒美を与えた事で証明は終わってる。今や一周回って豊臣vs徳川という構図が確立した
家康は関ヶ原で「自分が公儀」という姿勢を見せてないけどこれも豊臣家が敵に回った以上当然のこと。正当性を云々したら豊臣家がついている西軍に勝てるわけない。だから黙殺する
同時に西軍もこれがわかってるから自分たちが有利だと思っていた。家中に溝があればそこが割れる様にしたということ
だが事が成らなかったのはまず家康が強過ぎたこと、豊臣と徳川を比べて豊臣では徳川に勝てないと見做されたこと、そして何より徳川家が割れなかったこと。こうしたところを見間違えた結果西軍は敗れ豊臣家は凋落した。せめて家康に輝元討伐の書状でも送ってれば話は違ったろうがな

705 :人間七七四年:2024/04/11(木) 16:05:25.70 ID:jEhoC8UF.net
再度貼っとく
史実時系列表(仮・本戦後を加筆)

6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
6月23日 細川忠隆隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
6月27日 細川忠興隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着、毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月4日 瀬田の砦構築完了
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月16〜17日 市橋長勝・徳永寿昌・横井時泰らが福束城を攻略。
         福束城主丸毛兼利、大垣からの援軍伊藤盛正・武光忠棟・石田らは敗走
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月19日 市橋・徳永らは高須城高木盛兼、駒野城高木帯刀、津屋城高木正家を攻略
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日  京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9〜10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日   関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走

706 :人間七七四年:2024/04/11(木) 16:25:25.73 ID:jEhoC8UF.net
8月初頭時点では、前田南下に備え近江を空にはできない状況にある。
その脅威が去った後美濃尾張方面への進出企図となると、
それほどもたもたしていたわけではないと言える。
逆に言うと前田が越前で大谷らと対峙していれば西軍の伊勢美濃進出はもっと遅れている。
第二次小牧長久手ではなく、第二次賤ヶ岳に近くなっていたと思われる。
最善は美濃尾張への大軍投入で第二次小牧・長久手の再現狙い、
もしどうしても伊勢に大軍を投入するなら、攻撃先は安濃津ではなく長島。
長島落として清洲を狙う動きを見せるなら効果はあると言える。
まぁ長島がそう簡単に落ちるとは思えんが伊勢に大軍投入するなら
なんとしてでも長島落とせ、と思う。

707 :人間七七四年:2024/04/11(木) 16:43:35.73 ID:OjMA4Cqp.net
長島落とせば、あとは清洲狙いに行くか、
熱田鳴海沓掛辺り占拠すれば東海道遮断、
面白い展開にはなるが、
尾張南部に展開する伊勢方面隊は退路が海になるので非常にリスキー。
早期に美濃方面の味方と小牧山辺りで合流するのが
リターンは小さいがリスクは低いと言える。
それで第二次小牧長久手やるのが一番堅実には思える。

708 :人間七七四年:2024/04/11(木) 16:55:13.43 ID:jEhoC8UF.net
岐阜落城と同日長島落城だと東軍先発隊はかなり悩むだろうね、
選択肢は、
強気に大垣を狙いに行く、
岐阜の守りを固める、
犬山を狙いに行く、
清洲の守りを固める、
長島に向かい伊勢方面隊と決戦する、
強気に佐和山を狙いに行く、

選択肢が多くて軍議纏まらんと思う。
なにを選択するかも想像がつかん。

709 :人間七七四年:2024/04/11(木) 17:20:18.63 ID:ziU5cU19.net
清州着いてからまず最初に福束城攻略やるような連中だから状況変わっても多分ガンガン行くと思う
福束城なんて木曽川と長良川二つ超えなきゃいけなくて大垣城の目と鼻の先にあって伊勢へも出られるような奥にある位置への楔打ち込み
周りの城もまだ落ちてない中で命知らずに先駆け争いまでやるような武断連中だ。三成達奉行衆とは面構えが違う

710 :人間七七四年:2024/04/11(木) 18:02:32.72 ID:YWEil4F+.net
>>701
堀は秀頼に忠誠するとか言っていなかったっけ

711 :人間七七四年:2024/04/11(木) 18:09:24.10 ID:I5o/Me7H.net
過去ログから宇喜多秀家の所在地

419 人間七七四年 sage 2023/08/06(日) 22:11:10.42 ID:+i3qLP+V
宇喜多は岐阜城落ちるまで伊勢だぞ

420 人間七七四年 2023/08/06(日) 22:16:54.69 ID:ec56rJSQ
>>419
??
8月29日の保科書状で宇喜多の名前があるから、8月下旬には大垣にいたんじゃないの?

422 人間七七四年 sage 2023/08/06(日) 22:26:24.61 ID:+i3qLP+V
>>420
27日まで長島攻めてない?

425 人間七七四年 sage 2023/08/06(日) 22:43:21.46 ID:U+hY+jx+
>>422
宇喜多は安濃津攻めの後恐らくすぐ大垣に向かってると思うよ
8月27日付のはやし村(岐阜県大垣市)に宛てた禁制に宇喜多も島津・小西・石田と共に連署していて花押も据えられてる

712 :人間七七四年:2024/04/11(木) 19:25:27.35 ID:bMlXRZw2.net
>>703
藤堂領は調略により一揆を蜂起させてはいるが侵攻はしてないね
8月18日付山田兵庫助宛、久枝又左衛門宛毛利元康・堅田元慶連署状で藤堂領内の山田や久枝らの国人を調略してる

輝元も8月27日付村上武吉他宛毛利輝元書状で
「藤佐領分之儀、留守居操之道在之儀候条、動之儀今少可差延、やかて趣可申下候」
と、藤堂領は調略の手立てがあるので侵攻は延期しろと命じていて、結局その後も軍事行動は起こしてない

713 :人間七七四年:2024/04/11(木) 22:04:55.21 ID:JDYVamjk.net
>>711
秀家は草津で待機していた。
明石が推定桑名周辺にいた。
明石が長島攻めに先に着陣し、それに合流しようとした秀家が大垣からの救援要請により大垣に向かったと見るのが自然。

714 :人間七七四年:2024/04/11(木) 22:17:07.65 ID:JDYVamjk.net
大垣の石田視点では、東軍先発隊が赤坂に布陣した(山内隊は垂井周辺放火)、このまま突進されれば
ろくな戦力がない佐和山陥落の可能性大、
なんとしてでも東軍を赤坂で食い止めなければならない、
なので北陸大谷、伊勢方面隊毛利、宇喜多、瀬田守備隊(西軍のほとんどだな)に大垣救援要請を出した。
一応東軍は赤坂で止まったが、結果的にはこれはあかんかったな。
一万で大垣籠ってればそう簡単には落ちん。
遅れてはしまうが伊勢方面隊でそのまま長島攻略して尾張に進攻したほうがよかったと思われる。
大垣救援は大谷らと瀬田守備隊だけで十分だった。

715 :人間七七四年:2024/04/12(金) 08:44:38.67 ID:ZOHkru+Q.net
>>699
もう終わったことだ

716 :人間七七四年:2024/04/12(金) 13:01:06.52 ID:oMVH13z+.net
>>715
そこをなんとか
三成に勝たせてやりたいのよ

717 :人間七七四年:2024/04/12(金) 13:54:01.28 ID:srzBwsUg.net
>>716
三成が東軍に寝返る。これで勝ち確。

……いや、割とマジな話。

718 :人間七七四年:2024/04/12(金) 13:54:51.63 ID:pzNZgQMN.net
>>712
愛媛県宇和島に行ったことあるけど、あんな奥地まで軍勢を送るのははっきり言ってどうかと思う

719 :人間七七四年:2024/04/12(金) 13:58:03.52 ID:pzNZgQMN.net
>>716
せめて関ヶ原本戦が二次史料であるように、両者がまともに激突して最初は西軍優勢
午後過ぎに小早川裏切りとかいうものなら、何とかなりそうなんだけど……
あれは完全に作られたお話だしねえ……

家康が大坂にいる時に暗殺する
食事、トイレ、外出何でもいいから、とにかく暗殺
それしかないと思うんだけど……
家康に三成、輝元がまともに戦って勝てる未来が想像できない

720 :人間七七四年:2024/04/12(金) 15:10:06.35 ID:xU08zCc3.net
新説関ヶ原合戦だとそうなんだけど、最近はある程度は持ちこたえた
という結構従来説への部分的揺り戻しも出てるね。
何より瞬殺説提唱の白峰氏がその後は明け方に小早川らが関ケ原の大谷勢瞬殺
その後午前10時頃から山中村の西軍主力を壊滅させたと時間をあけての2段階
合戦説に変更してるからね。

721 :人間七七四年:2024/04/12(金) 15:21:21.84 ID:srzBwsUg.net
>>719
その二人なら、まだ毛利のほうが配下に実戦経験者が多いからマシかも。

三成はただでさえ戦前から戦下手の評判なのに、
福束城救援、岐阜城救援、関ヶ原本戦の怒涛の3連敗を喫しているので、
劣勢どころか同数の兵を集めてぶつける想定ですら勝ち筋が見えない。

722 :人間七七四年:2024/04/12(金) 15:30:07.29 ID:xU08zCc3.net
杭瀬川があるので1勝3敗で頼む

723 :人間七七四年:2024/04/12(金) 16:22:02.57 ID:pzNZgQMN.net
杭瀬川ってあれ一次史料あるのか?

724 :人間七七四年:2024/04/12(金) 16:26:52.46 ID:40TPpiHA.net
>>720
それは初耳。大谷らに対して小早川秀秋が夜襲?
早朝攻撃したと?
当日朝の天候は霧だよね、
ちょっと色々と詳細を聞きたい。

725 :人間七七四年:2024/04/12(金) 16:39:02.29 ID:40TPpiHA.net
ん、でも脇坂小川らの寝返りが前提なら夜襲や
霧中攻撃かつ大谷瞬殺も可能か?
それも大垣勢が関ヶ原に辿り着く前の奇跡のタイミングで?

726 :人間七七四年:2024/04/12(金) 16:57:01.82 ID:40TPpiHA.net
大谷瞬殺後小早川脇坂小川らが推定山中村付近に布陣、垂井からも東軍先鋒が南下、
東軍が待ち構えている所に大垣勢が無警戒に進出し
大谷同様瞬殺される。
話が出来過ぎだが一応筋は通るな、

んー、でも霧で見えなくても戦闘音は聞こえるだろうし
大谷の敗残兵が落ちてきてなにかしらの戦闘が起こってるのは認知できるだろう、
そんなところに進出するだろうか?
関ヶ原本戦は桶狭間みたいな不期遭遇戦でした説か?
桶狭間同様、夜間、霧という天候がポイントになる。

727 :人間七七四年:2024/04/12(金) 16:58:50.04 ID:oMVH13z+.net
水口で甲賀忍者を大人数雇い暗殺

6月20日、四日市より、お供には陸路を周らせ、家康は舟に乗り、女中十人・小姓十人ほどで佐久島の崇運寺で宿泊。【慶長年中卜斎記】
九鬼水軍で舟を沈める

728 :人間七七四年:2024/04/12(金) 16:59:43.67 ID:xU08zCc3.net
杭瀬川の戦いについては一次資料にはないが
島津家家臣の史料『山田晏斎覚書』(『旧記雑録後編三』に9月14日に
『石田殿衆、赤坂之軍衆ニ掛合、敵三十人程打取候由、石田殿より注進候事』
とあること。

地元大垣に戦死した中村家の野一色頼母の兜塚、三成が首実検したと
いう遮那院跡が伝承されていること。

家康養女の満天姫が1611年(翌年説もあり)津軽家に嫁ぐ際に
家康所有の関ケ原合戦屏風をもらい受け持参してますが
この1611年か1612年までには成立していた屏風に
杭ノ瀬川の戦いの場面が描かれていることなどから、
この合戦は実在したと考えています

729 :人間七七四年:2024/04/12(金) 18:01:34.65 ID:nAMOwGFB.net
>>712
愛媛県宇和島は南予になるが伊予でも東予、中予とは色々別物
経済的にも政治的にも優先度はかなり低いと思う
土佐中村方面とルートがあるぐらいで微妙な土地
鶏肋

730 :人間七七四年:2024/04/12(金) 18:02:58.65 ID:srzBwsUg.net
>>728
全くの嘘ではないんだろうけど、日付まで含めて記述が全て本当なら、
9月14日にわざわざ赤坂を突付いて刺激してからその夜に関が原山中に移動したってことになる。

……え、何しとん?
呼び鈴鳴らして動くようなもんじゃん。

731 :人間七七四年:2024/04/12(金) 18:30:26.08 ID:xU08zCc3.net
>>724 >>726
レスありがとうございます。

白峰氏が二段階合戦説を唱えだしたのは2014年の新説本瞬殺説の2年後2016年
だったと思います。ただ自著ではなく地方研究史などに寄稿した論文が主で
書籍ですと編著(2016年渡辺大門編w)戦国史の俗説を覆すに問鉄砲は真実か
という一節で2段階合戦説を主張されてます。

内容はどれもほぼ同じなので『愛城研報告』関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について
ー島津家家臣史料の検討ーの記述を上げさせていただきますと
「15日早朝の戦い家康方軍勢と小早川秀秋の軍勢による挟撃で大谷吉継が戦死し、
その後、巳の刻(午前10時頃)頃に家康方軍勢が石田三成方本隊を攻撃して、
それから時間的に早い段階で石田三成方本隊の陣が総崩れになったことになる」
「石田三成方本隊の陣が総崩れになった時間は、巳の刻(午前十時頃)以降、早い時間帯であり、
最終的に決着がついたのが午の刻(昼の12時頃)ということになる」

大谷勢の布陣場所が関ケ原、西軍主力は山中村布陣というのは大門編纂本の
白峰氏の文章で出てきます

個人的にはこの白峰説は全く首肯していません
なにかで確実に読んだ記憶があるのですが白峰氏が大谷勢が関ケ原町に
布陣というのは不破の関、藤下に進出してそこで戦死ということの筈ですが
そこはぎりぎりですが山中村で関ケ原ではありませんし

未明に大谷勢が壊滅したという資料がないわではないですが
(9月晦日伊達政宗家臣宛書状等)、他の史料では戦闘のさなか
小早川が寝返りという時系列のものが多く、有力な新資料でも発見されない限り
2段階合戦説を定説とするのは無理があると思います

732 :人間七七四年:2024/04/12(金) 18:46:49.51 ID:pzNZgQMN.net
早朝というのが具体的に何時かわからないけど、いくら何でも大谷が戦死した情報が三成たちに入らないというのは考えにくい
それに吉川広家の文書とも矛盾してない?
確か広家は三成島津たちが大垣城から出たとき、吉継も心細くなったのか後を追ったとか言ってたはず

733 :人間七七四年:2024/04/12(金) 19:27:27.26 ID:pzNZgQMN.net
>>729
そもそも宇和島城に行ってみたけど、余り大きな城ではなかった
市街も余り大きくなかった
人口も10万いるかどうかじゃない?
松山市から車で確か2時間くらいかかった、高速通って
遠すぎ、辺鄙すぎ

734 :人間七七四年:2024/04/12(金) 19:36:40.79 ID:40TPpiHA.net
大谷大垣入城説はわたしは疑問に思う。
>>732
その文言通りだとすると大谷は関ヶ原に向かった西軍最後尾となる。
そこが真っ先に壊滅する状況とはどんなものだろうか、
佐和山目指して退却中に小早川秀秋に襲撃されたとか?
この場合最後尾というか殿に相当する。
取って返すより佐和山への退却という目的完遂を目指すと思うけどなぁ。
そも佐和山へ退却というのもわたしは違うと思ってる。
大垣勢の目的は松尾山の奪還かなと。
大谷らは山中村布陣していた前提で。

とりあえず大谷瞬殺からの大垣勢瞬殺は
一応筋だけは通る。
その白峰説は。
大坂夏の陣並の部隊間連絡ならこんな各個撃破もあるかもなぁという感想、

735 :人間七七四年:2024/04/12(金) 19:47:39.77 ID:pzNZgQMN.net
佐和山目指して退却中に小早川秀秋に襲撃されたとか?

卜斎記で「小早川の謀反が明らかになったから大垣城を出た」とあるのに、最後尾に
いる大谷が小早川に襲われるというのは……意味がわからない

736 :人間七七四年:2024/04/12(金) 20:08:04.87 ID:40TPpiHA.net
>>735
だから最後尾にいるであろう大谷が真っ先に壊滅する状況が想像できないということ。
大谷大垣入城説だとね。
大谷らは山中村に布陣していたとするなら
真っ先に壊滅しても説明はつくから。
あとは一周回って定説、
家康の赤坂着陣、小早川の松尾山占拠により、
垂井から佐和山へ進出されること危惧した石田は
関ヶ原でこれを阻止することを決断、
定説通り布陣、定説通りの展開で西軍敗北。
一応定説でも大谷が真っ先に壊滅するのはおかしくない。

737 :人間七七四年:2024/04/12(金) 20:17:23.54 ID:xU08zCc3.net
吉川家文書913号「就其大柿衆も、彼地被居候事不成候而如山中、
大刑少陣無心元之由候て、被引取候」とあるのを
「それで大垣衆も、そこに居続けることが出来なくなって、
おそらく山中へむかって、大谷吉継は不安になって撤退して行きました。」と
意訳したのは高橋陽介氏だけど明らかな誤訳

彼地被居候事不成候而は見せ消ち部分なので訳すべきではないし
そもそもこの部分の主語は大柿衆なので大柿衆がそこにいられなくなって
移動したという話で大谷が移動したという文意ではない

おそらくと意訳したのは由の文字にかけてるのだろうが
よくある用例では噂など人づてに聞いた話か当事者から聞いた話で
〜とのこととでも訳すのが妥当

大刑少陣無心元之由候の部分で大刑少陣とあるので山中の大谷陣が
心もとなくなったという意味で大谷が不安になってという文意ではない
なのでそれについて大垣衆は山中の大谷陣が心元なくなったということで
撤退していきましたとでも訳すのがいいと思う

他に大谷が大垣城にいたという資料はおそらくないので
9月14日時点では通説通り山中村に布陣でいいと思う

738 :人間七七四年:2024/04/12(金) 20:30:15.79 ID:n5TGe4dj.net
>>717
> 三成が東軍に寝返る。
 
東軍が負けそう…

739 :人間七七四年:2024/04/12(金) 21:02:42.82 ID:oMVH13z+.net
>>738
そうなると一番に西軍に寝返るのが福島
池田、田中、筒井と続々裏切る
池田が家康を攻め出したので吉川も動く

東軍で絶対に裏切らないのは
黒田、藤堂、京極、山ノ内ぐらいか

740 :人間七七四年:2024/04/12(金) 21:28:54.49 ID:BOujlwwE.net
石田大谷は決起直後から西軍決起人として東軍側にモロバレなんだから
寝返りなんてそもそも赦されないだろうけどな…てかそのifやる必要あんの?

741 :人間七七四年:2024/04/12(金) 21:33:09.06 ID:oMVH13z+.net
>>740
三成の道を開く為に

742 :人間七七四年:2024/04/12(金) 22:25:06.71 ID:srzBwsUg.net
>>740
総大将が寝返りやらかした西軍だぞ?
結果的に反故にはされたが、一度は「赦された」わけで。

それに比べたら豊後、伊予、讃岐、阿波、大坂、伏見、田辺、大津、伊勢の
いずれの戦線にもろくに貢献してない石田が赦されるなんて余裕でしょ。

743 :人間七七四年:2024/04/13(土) 02:15:11.19 ID:/xJW6IAP.net
>>737
その辺はまんま白峰氏から厳しく突っ込まれてるな
これに対して高橋氏が反論してるかは知らんけど、誰が読んでも誤読は一目瞭然だし大した反論ができるとは思えんね

744 :人間七七四年:2024/04/13(土) 07:13:25.38 ID:rr5sijDQ.net
たとえ西軍が勝っても毛利輝元、上杉景勝はそれぞれ西国東国の覇者をめざすであろう。とくに毛利輝元は、阿波、讃岐、伊予、豊後、豊前を有機的結合した瀬戸内海地域覇権の形成は、新たな時限爆弾になる。

745 :人間七七四年:2024/04/13(土) 11:07:25.10 ID:Zx7vZE+s.net
白峰説を纏めると、まず大垣勢が関ヶ原に到着する前の時点で小早川脇坂小川らが大谷隊を瞬殺する。
おそらく午前03〜06時頃か?
垂井から東軍先鋒も進出し、霧の中東軍が待ち構えている所に大垣勢が進出、
霧の晴れ始めた午前09時頃戦闘開始も
圧倒的不利な布陣状況で西軍瞬殺、
石田小西宇喜多は北国街道方面に逃走。
島津は伊勢方面に逃走。
こんなかんじかな。


不審点としては石田らが伊吹山方面に逃走しているという点で、
東軍先鋒は垂井からそれほど進出していないように思える。
敵中突破して伊吹山逃げるより素直に佐和山逃げたほうがよくね?と思う。
なので石田らは定説のように笹尾山天満山とかまで
山中村を通過して進出したとしか思えない。
小早川脇坂小川らは霧の中、味方のフリして大垣勢を
やり過ごせたのか?
大谷隊壊滅を知らずに進出したのか?
と、いくつかの疑問点は残る。

746 :人間七七四年:2024/04/13(土) 11:14:25.25 ID:B5J68ldb.net
>>745
南宮山勢にも言えることだけど、軍隊が山から降りるのには、早くても2時間はかかる。

通過まで待ったと言うより、下山してたタイミングで捕捉出来たのが大谷隊、
勝ち目がないと判断して寝返ったのが朽木脇坂らという形では?

747 :人間七七四年:2024/04/13(土) 12:47:38.98 ID:lyusTqcj.net
>>746
南宮山に大群は地形的に布陣出来無い
毛利秀元は麓だったのでは

748 :人間七七四年:2024/04/13(土) 13:36:10.16 ID:7EbPa5gk.net
>>747
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/37/0005?m=all&s=0004&n=20

三成書状を信じるなら長束、安国寺は人馬の水もない高山で、合戦になっても軍勢の上り下りできない山に陣取ってる
秀元のみ麓とも考えにくい

ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0069?m=all&s=0067&n=20

上記吉川広家によると、長曽我部、秀頼御弓鉄砲衆と安国寺陣を落としてから「かさの陣」に切り上るのが東軍の当初の方針
秀元らが南宮山のもっとも深い場所に籠っていたと考えざるを得ない

749 :人間七七四年:2024/04/13(土) 15:04:50.56 ID:lyusTqcj.net
>>748
航空レーザー測量から判明したところによれば、南宮山山頂には陣跡はなく、毛利方が陣した位置はおそらくその北側山麓であり、小早川秀秋も松尾山山頂ではなく関ヶ原寄りの山麓に陣しており、後者は当初のおそらく西軍計画から逸脱した配置であった。小早川は当初から寝返りを考えており、その為、高所にではなく、関ヶ原に進出しやすい山麓に陣を敷いた。

750 :人間七七四年:2024/04/13(土) 15:11:53.85 ID:RlPN8HaX.net
>>749
そうなると、「吉川隊が邪魔で毛利本隊や安国寺や長宗我部が動けなかった」というのに矛盾しないか?
山麓にいたらないくらでも道はあっただろ。

751 :人間七七四年:2024/04/13(土) 15:34:10.26 ID:7EbPa5gk.net
>>750
「邪魔で動けなかった」は俗説だ
吉川によると、長束、安国寺は口だけ雄々しいが戦は見合いしていたとある

むしろ山頂に削平地がないから布陣は麓なんだ~、に疑問を持つべき
Wikipediaによるが、山頂は眺望がなく、山頂からの尾根筋の遺構は大垣方面が一望できるそうで
ある意味で西には無防備なんだが、一時的な陣城や境目の城なんかだとこういう構造はよくある
>>749が言っていることと真逆なんだよ
そもそもソースがなんなのか示されていないしね
「戦は関ヶ原で起きた」という結果から逆算したかのような仮説だよ

752 :人間七七四年:2024/04/13(土) 15:49:28.82 ID:9pswDCKq.net
標高404メートルの山頂にある毛利秀元陣跡の入り口に堀切や土塁で築かれた
枡形虎口などの遺構が残っているしので確かにここに本陣があったんだと思うよ
9月7日布陣で決戦まで8日なので大規模な工事はできなかっただろうけど
その航空レーザー測量というのは何がソースか知らないけど正しくないのでは?

753 :人間七七四年:2024/04/13(土) 16:53:37.54 ID:lyusTqcj.net
>>750
秀元別働隊が山中を突き進み
家康本陣のそばまでたどりつく
家康は手を出すな

三成が降った後でも京まで追い回した

ってのもあるのだが

754 :人間七七四年:2024/04/13(土) 16:56:15.19 ID:lyusTqcj.net
>>751
nhkでやっていたのですがねえ
玉城とか
山頂には見張りがいたのでは

755 :人間七七四年:2024/04/13(土) 16:57:28.02 ID:lyusTqcj.net
>>752
 2万人も無理と

756 :人間七七四年:2024/04/13(土) 16:59:24.14 ID:lyusTqcj.net
歴史探偵 関ヶ原の戦い

757 :人間七七四年:2024/04/13(土) 17:05:18.93 ID:B1tmch6c.net
ソースはTV

758 :人間七七四年:2024/04/13(土) 17:26:11.26 ID:7EbPa5gk.net
>>754
そのNHK半分くらい自分も観ていたよ
確かにレーザー測量もやっていた
で?、という話で

千田先生の論は「玉城 秀頼」ででもググればテレビと同じものがでてくる
それを一読すれば分かるがちょっと飛躍しすぎだし、のちに「関ヶ原」で合戦があったことに引っ張られている
一部はこちらがソースを挙げたがその他の一次史料とも矛盾する

玉城が輝元や秀頼の御座所予定地というのもどうなんでしょうかね
秀元も馬廻り鉄砲衆も南宮山付近に布陣しているのに

759 :人間七七四年:2024/04/13(土) 18:23:29.20 ID:7CfeQusT.net
>>748
そういや安国寺・長束・長宗我部隊は浅野・池田隊と小競合い起こしてるけど
弓や鉄砲隊など極一部だけの衝突で隊ごと全体的な戦いには発展しなかったのも
陣跡とされる場所や布陣図では山麓や平野部に出張ってるように見えるけど彼らも案外守りやすく身動きとりにくい場所(高所)に陣取ってたのかもね

760 :人間七七四年:2024/04/13(土) 18:29:17.95 ID:PaDpZTqK.net
>>754
イキってたけど批判に反論たできなくて笑う

761 :人間七七四年:2024/04/13(土) 18:52:32.25 ID:rr5sijDQ.net
南宮山山麓には、池田輝政、浅野幸長、山内一豊、有馬豊氏の四隊、総計四万の兵がひしめいている。
それを釘つげにするだけでも、立派な手柄ではないか

762 :人間七七四年:2024/04/13(土) 19:38:42.15 ID:Zx7vZE+s.net
>>748
長曾我部の陣所は南東端の栗原山だよね、
そこ攻撃するということは、南宮山と大垣を切り離し、
大垣包囲するつもりだった、ということかな。

763 :人間七七四年:2024/04/13(土) 19:45:46.19 ID:9pswDCKq.net
>安国寺・長束・長宗我部隊は浅野・池田隊と小競合い起こしてるけど

高橋氏の意訳は間違いが散見されるのであまり全面的に信用されない方が・・・

9月17日吉川広家書状案のその部分は
合戦前日に福島黒田の使者と講和の話をした際に東軍の作成計画を吉川が
尋ね長曾我部、弓鉄砲衆、安国寺の陣の切り崩し〜という予定でしたが
和談が成立したので相違となるでしょうかと使者から反問され
吉川としては和談のことは吉川、福原のみが知っているので
東軍より抑えの兵が出ると(毛利勢以外の南宮山軍と)合戦になるでしょう
(原文には合戦に及び候可と可の字が入っているので現実に起こったことを
語っているわけではなく、未確定のこの場合は想定を意味する)
なので抑えの兵を置かずにそのまま通り過ぎてくださいと
9月14日から見て未確定の未来の想定を語っているにすぎません

764 :人間七七四年:2024/04/13(土) 22:21:02.31 ID:lyusTqcj.net
>>757
金かけて調査しているよ

765 :人間七七四年:2024/04/13(土) 22:21:35.81 ID:lyusTqcj.net
>>758
3回以上見て

766 :人間七七四年:2024/04/14(日) 13:35:40.14 ID:Z4NCMZNQ.net
>>758
玉城が輝元や秀頼の御座所予定地だったのなら
西軍は最初から関東にいる家康が畿内の入り口まで進軍して攻めてくることを予定して蜂起したわけ
そんな予定を立てる軍なんて輝元や秀頼でなくても見捨てるに決まっている

767 :人間七七四年:2024/04/14(日) 13:48:36.53 ID:Cp7NJeWU.net
昨日はバカの夢のオールスター戦だったのか。こいつら出禁にしろや。

ID:rr5sijDQ:大河や光成本しか読んでない,本の受け売り馬鹿、IDまでドキュン
ID:Zx7vZE+s:妄想架空戦記、ゲーム脳レベルの馬鹿
ID:B5J68ldb:齧った程度の知識しかない無知蒙昧馬鹿。特に脇坂について
ID:lyusTqcj:TV番組がソースで鵜呑みにする、超ウルトラスーパーDX馬鹿
ID:9pswDCKq:最近湧いて来たド素人の長文知ったかバカ、TVソースと馬鹿の双璧
ID:7CfeQusT:高橋陽介本しか読んでない本の受け売り馬鹿

768 :人間七七四年:2024/04/14(日) 20:50:54.46 ID:ZNbgbi5B.net
>>767
荒師?

769 :人間七七四年:2024/04/14(日) 22:25:05.89 ID:cOgZi159.net
三成や輝元が、家康に勝つなんて前頭が横綱に勝つより難しいことだと思う

暗殺しかない
一次史料見てるともうそれしかない
まともにやりあったらたとえ岐阜城を守り切っても、負ける未来しか見えない

770 :人間七七四年:2024/04/14(日) 22:36:25.98 ID:cOgZi159.net
慶長5年留守政景宛伊達政宗書状にある「島津又一郎」って誰の事?
あの書状には戦死した武将名に大谷、平塚、戸田がいるけど、島津は又一郎ってある
忠恒も義弘も豊久も又一郎ではないし

あと、あの書状では「15日未明に一気に切り込んで押し崩した」とあるから、やはり関ヶ原は一瞬だったんだよね?

771 :人間七七四年:2024/04/14(日) 23:03:34.95 ID:QPIfvy8q.net
>>770
又七郎(豊久)の誤記でしょ
又一郎は久保だけどとっくに亡くなってるし

772 :人間七七四年:2024/04/15(月) 01:58:48.89 ID:SE2douao.net
9月17日松平家乗宛彦坂石河連署では戦死者として大谷、嶋津又八郎(忠恒)、嶋左近、
嶋津中務(豊久)、戸田、平塚とあるので「島津又一郎」は嶋津又八郎(忠恒)の
誤記だろうね。
どちらにしても忠恒は関が原に参陣してないので誤報

773 :人間七七四年:2024/04/15(月) 09:43:14.29 ID:PtKR9dIL.net
>>772
石川・彦坂連署状の方は又八郎で忠恒のことだろうね
9月30日付留守政景他宛、石川昭光父子宛伊達政宗書状の方は又七郎豊久の誤記でしょ

774 :人間七七四年:2024/04/15(月) 10:32:38.94 ID:CFFXOAwa.net
>>769
暗殺計画はあったがいずれも回避された
半蔵の手柄?

775 :人間七七四年:2024/04/15(月) 11:10:44.04 ID:62ILwD3m.net
>>769
小牧長久手で秀吉が家康に合戦で勝ったか?
要は和睦内容。
内容が勝ちに等しいものならば勝ちと言える。
外交とか根回しとか交渉はむしろ西軍が得意とする分野でしょ。
第二次小牧長久手やって自軍に有利な落とし所を探る。
信雄との単独和睦みたいな妙手を考えること。

776 :人間七七四年:2024/04/15(月) 23:24:01.75 ID:qmYtW2aA.net
>>775
いうても結局は力がなければ一歩間違えれば妙手は悪手に変わる。
毛利輝元が大坂城明け渡しでまさにそれを体現したじゃん。

あの時点で所領安堵を勝ち取れるなら、上杉宇喜多奉行衆やが沈む分、相対的には勝ちに等しい妙手だった。

結局力がない故にあっさり反故にされて、戦国時代を代表する無能に成り下がったが。

777 :人間七七四年:2024/04/16(火) 08:21:05.29 ID:BGT44jhb.net
あれ普通に減封で話まとまってたって話があるらしいぞ

778 :人間七七四年:2024/04/16(火) 08:39:55.00 ID:HU17isCt.net
>>777
それはないだろ。
最初から纏まっていたなら、他はともかく安芸だけは手放すことはなかったはず。

779 :人間七七四年:2024/04/16(火) 12:40:25.93 ID:BGT44jhb.net
>>778
近衛前久が息子の信伊に送った書状に記載がある
表向きは領地安堵という形にして、実際は所領半減で降伏する事になったそうだ
領土がさらに半減したのは、毛利が西国に兵を出したりして挙兵にがっつり関わった事が
徳川にばれたからだろう、安芸失陥はそれが原因なんじゃないかな

780 :人間七七四年:2024/04/16(火) 15:05:52.21 ID:xmv1eP19.net
「各々大事大事と図り、心得候で物申す者無き事候」

781 :人間七七四年:2024/04/16(火) 20:01:49.93 ID:uU6N+HQD.net
>>759
まぁ最初から山の頂上に陣取ってるだけで怪しいし
麓の長宗我部隊も徳川軍と戦ってるのに降りても来ないとなれば真実に気付くに時間はかからんよな

782 :人間七七四年:2024/04/16(火) 21:30:16.03 ID:BS9rM/YT.net
>>775
小牧・長久手の戦いは信雄を和睦させたのが妙手ってより、信雄が負けまくって和睦に追い込まれただけでしょう。
家康は負けなかったけど、信雄は負けた。そして家康は信雄を救援するほどの力は無かった。

783 :人間七七四年:2024/04/16(火) 22:07:32.50 ID:xmv1eP19.net
毛利輝元が言ってるやん
「各々大事大事と図り、心得候で物申す者無き事候」

結局みんな己の身が一番可愛いんだよ

784 :人間七七四年:2024/04/16(火) 23:21:55.64 ID:eF9/O2yo.net
毛利輝元や織田信雄、嫌いじゃないんだよなあ。あの小物感が良き。
チョンボを繰り返しながらそれでも最後の一線で踏み止まって生き延びていく様。
無様が様になるというか。

785 :人間七七四年:2024/04/17(水) 00:35:13.44 ID:69F3WyXX.net
信雄は織田家(信長)の血縁のおかげで生かされただけ
最後の一線なんて何度も超えてたよ

786 :人間七七四年:2024/04/17(水) 01:56:08.48 ID:CWn74veG.net
>>782
長島も清洲もどちらも落ちてない。
一万で籠もればどちらもそう簡単には落ちない城。
ではそんな相手にどうやって勝つか?
和睦しかないやろ?
蟹江落としたときが合戦で勝つチャンスがあったが
連携取れなくて台無し。
竹ヶ鼻は釣りが露骨すぎ。
結局和睦という手段になっている。

787 :人間七七四年:2024/04/17(水) 22:16:14.03 ID:JvteoQEb.net
>>786
蟹江城を攻めた大半は滝川に調略された元信雄家臣が大半でしょ。蟹江城を奪還したと言っても信雄の勢力は小さくなり続けてる。
長島城が落ちなくても、信雄の領地は奪われて、信雄の領地で戦を続けて、信雄の家臣が裏切り続出。
信雄が勝てないと思い、心を折られて講和するのも仕方ない情勢。

つまり西軍が東軍の誰かを和睦させようと思っても、まず軍事的にそいつを追い詰める軍事力が必要不可欠だよ。

788 :人間七七四年:2024/04/18(木) 10:27:12.80 ID:mbL4YiUk.net
>>787
下段部分に同意、もちろんそれはある。

789 :人間七七四年:2024/04/18(木) 15:14:10.72 ID:cy90PqYr.net
三成に何が出来るかと言えば何もできんだろ
大谷吉継を追い返して佐和山に籠城でもするのか?

790 :人間七七四年:2024/04/18(木) 16:49:55.63 ID:cBFzQWj/.net
>>789
三成が首謀者じゃなかったは以下の書状から成り立たないと思う
7月末日付の真田宛三成書状に「しかれども内府在大坂中、諸侍の心いかにも計り難きについて、言発の儀遠慮つかまつり畢

とあるから、家康がいる間は計画はしていたけど、露見したらまずいから黙っていただけじゃないのか?

791 :人間七七四年:2024/04/18(木) 22:27:12.59 ID:2jE3TCNc.net
三成って随分間抜けじゃない?
富岡藤太郎宛三成書状だけど、あれ慶長5年7月28日付になってる
つまり挙兵してからでも13日もたって「今後は誰からも注文受けるんじゃない」なんて言ってる
自分の領内のことなんだからもっと手際よくできなかったのかな?

792 :人間七七四年:2024/04/19(金) 19:44:52.28 ID:iCG5YBpA.net
西軍の兵站は誰がやってたんだ?

793 :人間七七四年:2024/04/19(金) 19:48:05.69 ID:iCG5YBpA.net
長束が前線に出てきたのは何故?

794 :人間七七四年:2024/04/19(金) 20:57:56.73 ID:xg9RC5By.net
三成が言う上杉との協働には真田特に沼田を押さえる真田信幸の協力が必須なのに七月末まで書状も送ってない辺りに三成の立ち位置が見えてる
つまるところ三成は反家康決起計画すら知らず故に事前の準備すら出来ず更に立場はかなり下に置かれて戦略決定にすら関わらなかった
そこから二万の兵で四万の東軍と戦わされた訳で貧乏くじってレベルじゃない

795 :人間七七四年:2024/04/20(土) 05:03:36.41 ID:2sv8wfh/.net
本能寺でもそうだけど、バレたら即処分されるんだから、そんな計画立てること自体無理でしょ
会津征伐にしても、家康が少なくともその気になったのは5月3日付の伊王野宛だから、交渉から
1か月近く経って征伐を決めてるし

796 :人間七七四年:2024/04/20(土) 15:24:26.36 ID:GInmH34q.net
白峰氏は5月3日付伊王野資信宛家康書状を慶長6年に比定してるよね

新井敦史氏によると慶長6年5月上旬の段階でも徳川と上杉の間で軍事的緊張は
続いていたみたいだが、やはり通説の通り慶長5年と見る方が自然だな

797 :人間七七四年:2024/04/20(土) 16:49:19.00 ID:2sv8wfh/.net
アの書状を慶長6年?
内容から見てもあり得ないと思うんだけど……

798 :人間七七四年:2024/04/20(土) 16:52:59.54 ID:0z2NuyNw.net
>>795
三成は「内府がいると連絡できなかった」とか言ってるけどこれは苦しい言い訳。だって七月十七日に毛利軍が大坂城に入って徳川方を追放して伏見城攻撃してるのにそっから2週間も連絡してないんだから

799 :人間七七四年:2024/04/20(土) 21:01:30.53 ID:9aiguYxS.net
戦国板って過疎ってるね 勢い11.2のここがトップとか

800 :人間七七四年:2024/04/20(土) 23:35:43.23 ID:JYQrSNBL.net
石治少としては首尾良く内府に勝利したとしても、
島津、毛利、前田、宇喜多、伊達、上杉、佐竹ら巨大大名の割拠経営を
黙認する方向にならざるを得ない

801 :人間七七四年:2024/04/21(日) 09:03:04.96 ID:VnxB252C.net
>>800
それすらも理想が過ぎると思う
言っちゃなんだが、室町幕府が豊臣政権に置き換わっただけの第二次戦国時代になるとしか思えん
これなら政権内での権勢拡大程度に留まっていた徳川を容認していたほうがまだマシまである

802 :人間七七四年:2024/04/21(日) 10:00:18.29 ID:+uB4dSeR.net
芝辻砲みたいなのを100丁ほど国友に作って貰えないか

803 :人間七七四年:2024/04/21(日) 19:15:53.33 ID:Nv3bKxyO.net
そうだな 西軍が勝ったとしても後がたいへんだ
毛利は120から200は必要か 
備前を欲しがったら宇喜多を国替えに
すると宇喜多も100万じゃすまないか
毛利200上杉200宇喜多150島津100
三成や吉継も50は欲しいだろうし 
こりゃひでえ まとまるわけがねえ

804 :人間七七四年:2024/04/21(日) 20:47:55.12 ID:5GAayg7q.net
案外西軍勝ったら三成が相模武蔵あたりに国替えになって
第二の徳川になったりして

805 :人間七七四年:2024/04/21(日) 20:53:18.08 ID:Ve7ARmWb.net
島津加増(恐らく国替えは絶許なんで薩摩大隅+α)は確実に九州は乱世に突入
清正や黒田のみならず九州の大小名は島津の拡大を許さない。
それに島津兄弟内の確執で島津自体が内紛に陥る。
また北九州は毛利が食指を延ばしていて所領を欲してるからやはり収まらない。
毛利の関ケ原後の九州出兵は例え西軍勝利で毛利が北九州に権益を得ても遠からず起きるだろうから
かくて九州と中国地方西部より戦国再開。
関東は徳川勢がどれだけ打撃を受け、所領召し上げになるかとその後に誰が来るか次第で変わる。
直ぐに乱世になるかも知れないし、ならないかもしれない。
恐らく三成を始め豊臣政権の中枢を占める奉行勢は毛利に強く出られない上に、島津を抑制する力も無いから
結局大坂で手をこまねくだけで豊臣惣無事体制はもう再構築出来ない。

806 :人間七七四年:2024/04/22(月) 04:10:57.40 ID:QZJYwkRr.net
そもそも恩賞の件は西軍は誰が決めてたんだ?
真田に数か国とか誰が決めたんだ?

807 :人間七七四年:2024/04/22(月) 06:50:30.83 ID:3ZO9P19Y.net
ひょっとするとアレですか、九州は如水、島津、毛利の九州新三国志爆誕?

808 :人間七七四年:2024/04/22(月) 07:33:00.86 ID:MI1ner2s.net
最初は、豊臣政権で奉行たちと毛利がどっちが主導権を握るかという問題がでるよな。
すでに毛利が秀頼の意向として、自己の勢力拡大にいそしんだ部分をどうするのかもあるし。

809 :人間七七四年:2024/04/22(月) 08:32:22.19 ID:b73B+x/X.net
>>806
豊臣秀頼。秀頼は西軍に恩賞を与えているので必然的に秀頼が決めたことになる

810 :人間七七四年:2024/04/22(月) 08:36:23.23 ID:GS7kIjKs.net
>>806
三成が勝手に決めたというか書いた。
他の首脳陣からは感状や所領安堵程度ならあるが、一国レベルの報奨の話は三成以外からはでていない。

一応、毛利輝元が伊予国人衆や大友義統を焚き付けたのはあるが、確約までした書状は残っていないはず。

>>808
いうても、勝った場合は過半数の兵力を供出した毛利の功績は大だしなあ。
それに勝利のシナリオの場合、勝手に動いた阿波讃岐伊予豊後こそファインプレーになるわけだし。

811 :人間七七四年:2024/04/22(月) 08:58:43.04 ID:QZJYwkRr.net
三成は西軍挙兵の時点で、奉行に復活していたとみていいの?
伏見城落城を語る書状や鈴木に恩賞を約束する書状では確か、輝元や他の奉行と
連署していたよね。これは奉行復帰をしていたと見ていいの?

812 :人間七七四年:2024/04/22(月) 10:15:27.39 ID:T2x5n6Qf.net
奉行衆と輝元の対立は「坂西之儀」は毛利輝元だとする秀吉の遺命の効力や解釈をめぐる問題になると存じます

813 :人間七七四年:2024/04/22(月) 16:44:39.09 ID:gMrBi1wQ.net
最上が上杉に難癖つけた軍道建設ってこれのことか?

朝日軍道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%BB%8D%E9%81%93


場所的には村上領と最上領の境目みたいだが、
上杉が飛地の庄内行くには道は必要だろ?

814 :人間七七四年:2024/04/23(火) 08:02:36.24 ID:O2yVE9OZ.net
これ、リンクの通りだと最上の主張は難癖でもなく正当だと思うけど、どうなんだろう。
平和に使うなら、現在ある道を馬が通れるように秘密裏に行う必要はなさそうだが。実際に軍事行動にも使用されてるし。

815 :人間七七四年:2024/04/23(火) 10:16:30.60 ID:dWeyn1X7.net
會津と荘内を隔てるは最上侍従24万石。上杉にとって最上領併呑は一番にやるべき路線である。徳川もそれを見抜いていたのか、南下はないと考えていた

816 :人間七七四年:2024/04/23(火) 11:11:44.49 ID:VQsAAZAX.net
>813-814
江戸時代でも山奥の更に奥の土地は所有権が結構グレーだったからこの当時はもっと曖昧だろうな

817 :人間七七四年:2024/04/23(火) 13:02:06.03 ID:u6AJDfbR.net
>>802
承知した

818 :人間七七四年:2024/04/23(火) 18:48:01.87 ID:Me+dhXui.net
>>814
飛地なんだからある道使うなら最上領通るしかないんじゃないの?
で、最上が通行の許可出すなら通れるんだろうけど、
山形あたりの地理は詳しくないけど、
米沢から庄内酒田方面行くには山形城下を通らなきゃならないのと違う?よくわからんけど。
それを最上が許可しない、あるいは許可しないと思ったから軍道作ったとわたしは見るけど。
関ヶ原の時でも東軍が岡崎城下通る時書状で通行許可求めてたとこみると
城下を他大名家が通るのは敏感になるんじゃないかと思う。

819 :人間七七四年:2024/04/23(火) 22:40:58.47 ID:7ad72JeA.net
最上が通行の許可出さなかったら中央(豊臣政権)に訴えて
解決を計れってのが惣無事令なんで
飛び地をつなげなきゃっていう発想は戦国時代的なんだよね
だから朝日軍道の整備は豊臣政権的には余裕でアウトで
どうしてもやりたいってんなら許可を得てからやりなさいって話
上杉がその辺のロジックを理解してなかったのか
意図的に無視したのかは判断が分かれるところだけど

820 :人間七七四年:2024/04/24(水) 04:59:49.02 ID:hjyi4Puo.net
徳川は上杉の南下はあり得るとみてたよ
だから抑えを用意していた
というか最上併合できたとしても
徳川が生きてればそんなの無意味なんだから上杉は最上とかと遊んでる暇はなかった

821 :人間七七四年:2024/04/24(水) 06:55:04.27 ID:gtqEH4hS.net
抑えの結城秀康は実際にはどれくらいの戦力で備えてたのだろう
前に2万人という書き込みを見たが本当なら上杉佐竹でも抜けなそう

822 :人間七七四年:2024/04/24(水) 06:56:18.91 ID:DTUbFA72.net
>>820
さすがに最上領は制圧したいんじゃねーかな、いくら軍道を作ったとはいえ
それに抑えの兵を残したという事は、逆に言えば大規模侵攻をする気はないという事だ
ならば旧領越後を奪回するなどして、領地拡大の既成事実を積み重ねようとする可能性もある
大体家康が生きてようと、この時点では東軍先発隊崩壊があり得ない訳ではないし、
東軍が(可能かは置いといて)軍事的か政治的に屈服すれば徳川の存在など放置してもよい
極端な話、関東征伐なんて西軍が勝利すれば後回しでもいいんだしな
見通しが甘い?諸侯の大半が長期戦を想定してるんだからそんな事を言われても困る
いっちゃなんだが景勝の戦略眼や戦術眼なんてそう大したものではないだろ

823 :人間七七四年:2024/04/24(水) 09:23:13.92 ID:qHN/hLeB.net
阿部哲人氏だったかな?
1次資料から上杉の目標はあくまで最上の服属させることで
滅ぼすつもりはなかったのではないかと考察してたのは

824 :人間七七四年:2024/04/24(水) 20:52:23.21 ID:Iaxteolp.net
>>823
直江兼続が慶長5年9月15日付秋山伊賀宛書状で「畑谷城で江口父子をはじめ500人を撫で斬りにしたぜ」ってほざいてる
書状あったでしょ。あれ城兵だけでなく周りの領民も皆殺しにしたらしいけど、そんな真似して最上が即座に服属するとでも?

実際、どこの城も降伏するどころかさらに抵抗を激しくして、上杉軍は2万も率いていながら、山形城の主力すら出てくる前の
出城でみんなつまづいて撤退する羽目になっている

どこを見たらそんな考察になるのか?

825 :人間七七四年:2024/04/24(水) 21:03:35.80 ID:krtXMmkX.net
直江兼続には兵隊を進退させることが重荷だったのである

826 :人間七七四年:2024/04/24(水) 21:17:36.53 ID:qiMHWbyt.net
>>823
まぁ一次史料だと最上屈服させて味方につけるとかそんなんばっかだからね。言うこときいてくれればOKそのための脅しが最上攻めみたいな

827 :人間七七四年:2024/04/24(水) 21:40:50.97 ID:eO5fqEt0.net
上杉が西軍の状況を知る連絡路は真田領か佐竹領しかない。その内真田領は沼田を支配する真田信幸が密かに東軍に通じてるので連絡不能、そこを往還する事は出来ない。佐竹は当初は東軍か西軍かわからなかったが家康からの人質提出を拒絶して手切となったのでやはり連絡路にならない
だから上杉は「西軍が豊臣秀頼と共に決起、伏見城が陥落」「家康は豊臣公儀より追放されて軍事行動不能」という情報しか掴んでなかった。この状況なら最上や伊達を攻撃して領国を拡げるのは普通の行動、というかきたるべき徳川挟撃戦の為には必須だろう。その裏で岐阜が落ちて西軍が虫の息なんてわからないんだし

828 :人間七七四年:2024/04/24(水) 21:51:45.90 ID:FtD0QOnE.net
9月3日付本庄繁長宛直江兼続書状によると、最上とは一応交渉を続けるが
ダラダラ引き延ばすようなら外聞のためにも最上領へ一働きする

伊達とはもし政宗から手切れを言ってきたとしても、使者を遣わして交渉を
継続するとあるので、最上攻めは伊達への牽制の意味合いも強かったんだよな

829 :人間七七四年:2024/04/24(水) 22:20:54.27 ID:h8axhEku.net
8月中旬の時点で最上は戸沢らと起請文交わしてるのに無駄なことを……
それに上杉とは荘内をめぐり十五里ヶ原、豊臣に対しては秀次事件のことがあるんだから、味方なんかするわけないとわからないのかな?

830 :人間七七四年:2024/04/24(水) 22:22:22.28 ID:h8axhEku.net
>>827
「家康は豊臣公儀より追放されて軍事行動不能」
は?
誰がそんなこと言ってたの?
西軍は五大老解任なんて宣言したかな?

831 :人間七七四年:2024/04/24(水) 22:31:10.85 ID:6BJIbfh5.net
>>829
その意味で言えば、なんで小早川秀秋が西軍に味方すると思ったかも謎だよな。

まあ、百歩譲って毛利には隆景のことと旧領復帰のことで義理があったかもしれないが、
豊臣なんて秀次事件と朝鮮の役の2度にわたって領地を没収してきた怨敵じゃん。

なんならその実行犯は両方とも石田三成というね。

832 :人間七七四年:2024/04/24(水) 22:37:28.43 ID:25oyQ55G.net
家康が毛利石田連合の豊臣新公儀政権樹立で8月以降軍事行動不能に
なったというのは白峰氏の新説本に出ているな、東軍諸将に連日のように
指令は出してるしトンデモ説でしかないが

確かイエズス会の記録に上方の豊臣公儀より家康に行動停止の命が下り
家康が江戸より動かなかったのはそのせいだという意味の記述があったと思う
いうまでもなく単なる風説、伝聞で事実とははるかに乖離しているが
白峰氏が狂喜して何かの論文か著作(新視点関ケ原合戦だったか?)
に取り上げてたと思う

833 :人間七七四年:2024/04/24(水) 23:22:27.23 ID:h8axhEku.net
8月のいつか忘れたけど、榊原が秋田に「今回の挙兵した天下の公儀」だった?
そんな文言があったとは思うけど、それ以外は特に西軍を政権として認めた一次史料も無いよね?

834 :人間七七四年:2024/04/24(水) 23:23:41.64 ID:h8axhEku.net
そもそも上杉の最上征伐はだらしない
いや志村が凄すぎるのか?
長谷堂城でわずか1000で半月も持ちこたえたんだし
しかも一切の後詰なしで

835 :人間七七四年:2024/04/24(水) 23:58:29.73 ID:FtD0QOnE.net
>>833
8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
「此度別心之衆始終天下之仕置可被成候哉」
今回別心の衆が始終天下の仕置をできるだろうか

前にも言ったけどこの「哉」は反語表現だから榊原は西軍には天下の仕置はできないと言ってるんだよ
白峰氏はこれを以て西軍が天下の仕置をしていることを徳川方が認めていたと言ってるけど首肯しかねる

836 :人間七七四年:2024/04/25(木) 00:05:42.02 ID:PzI5LOPZ.net
>>834
一次史料を研究した高橋明ら福大史学によると
出陣前の直江から力攻めする気が無い降伏を促す書状が散見される
城攻めには不向きな後方にある管沢山へ登り山形城への示威が目的
上杉や注視していた伊達の一次史料には攻めた形跡が殆ど見られない
最上伊達を巻き込んだ江戸攻めが目標だったので兵を失う訳にはいかなかった

837 :人間七七四年:2024/04/25(木) 06:55:41.27 ID:c/diH4j1.net
後先のこと考えすぎ。

838 :人間七七四年:2024/04/25(木) 10:15:52.97 ID:SMofCpxR.net
>>824
一撃必殺で畑谷城撫で斬り
山形囲めば最上は屈服すると睨んでたんじゃないか?

そのうえで最上が降伏すれば伊達も従えられると
確か直江兼続書状でそんなニュアンスがあったはず

予想に反して義光が強固に抵抗して戦略意図が崩れたけど

839 :人間七七四年:2024/04/25(木) 10:20:11.43 ID:PKFyLcYg.net
先代のときあれだけ精強だった上杉の兵が景勝の代になると見る影もないな

840 :人間七七四年:2024/04/25(木) 12:36:11.96 ID:ev06+uCh.net
景勝が指揮した大坂冬の陣はそこそこ見せ場があったらしい。

841 :人間七七四年:2024/04/25(木) 15:23:37.96 ID:eiJzhW5B.net
徳川を背後から突けば面白かったのにな

842 :人間七七四年:2024/04/25(木) 21:34:45.35 ID:ukwCBFQ7.net
秀康は来て欲しかっただろうな
本当かどうかわからんが退屈だから一戦さしようぜかかってこいやと戦書景勝に送りつけたそうだし
秀康の采配見たかったわ

843 :人間七七四年:2024/04/25(木) 21:50:00.93 ID:yey8UF1T.net
>>839
いや、先代の頃も特に精強というほどのことはない。
関東ではコロコロ負けている。
強いて云うなら「潰滅に至る前に逃げ時を見極めるのが上手かった」。
 
「越後上杉」が本当に強力だったのは上杉房定の時代。
景勝とも先代とも何の繋がりも無い本物の越後上杉だが。
 

844 :人間七七四年:2024/04/25(木) 22:07:32.74 ID:VINssbW+.net
>>830
内府違いの条々がそれ
現実はさておき景勝の知り得た情報で言えば
・豊臣家が毛利輝元を総守護に任命して『内府違いの条々』で家康を弾劾(これで家康は豊臣公儀から追放された)
・西軍は伏見城を攻撃してこれを陥落させその勢いのまま伊勢を制圧
・これに対して家康は江戸に入って動かない
なので「豊臣公儀からパージされて求心力を失った家康が江戸で困り果てて動けない」という見立てはそこまで奇想天外じゃない。福島正則らが一致団結して岐阜を落としてるなんて分かるわけもない

845 :人間七七四年:2024/04/26(金) 09:16:30.60 ID:DrfiMFPZ.net
>>844
前田利家が生きていた最後の頃でさえ、4大老揃っての弾劾に失敗してるのに、
前田が徳川に屈服し、上杉が国元に戻っている状態でそんな都合の良い話にはならん。

せいぜい、上杉征伐の隙に毛利が反旗を翻したかという程度でしかないよ。

846 :人間七七四年:2024/04/26(金) 12:42:40.29 ID:FEpUd1Uv.net
>>836
敵の大名を無傷であるいは軽傷で従属させるなんて相当時間かかることだよ
かなり圧倒的な実力差がないと不可能
直江兼続ってかなり過大評価されてない?
名将とはとても思えない

847 :人間七七四年:2024/04/26(金) 12:44:36.35 ID:FEpUd1Uv.net
>>835
その書状の「哉」だけど、つまり「今回挙兵した西軍に天下のまつりごとを見ることができるのだろうか」であり、
榊原は西軍を「天下の政権」とは認めていて、要はそれらが政治をとることができるのか? と疑問視していたとみることができるのでは?

848 :人間七七四年:2024/04/26(金) 16:28:26.52 ID:bGCZAl28.net
別心の衆て呼んでるやん
どうみても政権とはみなしてない

849 :人間七七四年:2024/04/26(金) 18:02:07.92 ID:zWR0ZA7v.net
榊原康政は大刑少とともに備前中納言の騒動仲裁をしていたが、家康から江戸召喚されて不首尾に終わった

850 :人間七七四年:2024/04/26(金) 23:34:26.14 ID:eh4UmjTR.net
上杉は畿内と連携なんか取れてなかったんじゃねーかな
そういうとこあるよね織田の時も滅びの美学とかに浸ってたし

851 :人間七七四年:2024/04/26(金) 23:44:40.23 ID:FEpUd1Uv.net
石田三成との交信が8月中旬から全然確認できないしな
いくら東軍が主要街道を抑えていたとしても少し酷すぎる
敗報も9月22日あたりに噂で舞い込んできたらしいし

852 :人間七七四年:2024/04/27(土) 14:25:40.70 ID:KamDzYY+.net
備前中納言が主将となり、石治少、長大、小摂、大刑少らが指揮を採らば、苦戦は必至。それより明朝陣を払い、途中佐和山を屠り、大坂表にて毛利勢と決戦し、諸将の妻子を解放せん

853 :人間七七四年:2024/04/27(土) 20:06:13.27 ID:N+MZjBCB.net
景勝の戦略は当時の上杉が掴んでた情報からするとおかしな話じゃない。西軍が大坂を制圧して徳川は反撃もしてないんだから周辺の脅威を打破して来るべき決戦に備えた。西軍から挟撃のロードマップが渡されるのを待ってたんだろう
その頃には既に岐阜城が落ちて西軍が虫の息とは思っても見なかった。仕方ないことだけど

854 :人間七七四年:2024/04/28(日) 06:06:02.53 ID:Kir8N9RO.net
確か来次氏秀書状だったかな
おかしい内容ばかりの書状だから、景勝は偽情報でも信じてたのか

855 :人間七七四年:2024/04/28(日) 14:56:41.69 ID:S9AQpJb2.net
会津は徳川と真田を敵に回すと完全な陸の孤島なんで正確な情報は望むべくもなく

856 :人間七七四年:2024/04/28(日) 15:06:34.77 ID:Kir8N9RO.net
そもそも直江兼続とか上杉景勝は目前の危機を前にして、これから関東に攻め入るとか
伊達や最上を協力させるとか、捕らぬ狸の皮算用しまくってるんだよな……

857 :人間七七四年:2024/04/28(日) 16:06:11.92 ID:4GT1LlKV.net
みんなそうでしょ

858 :人間七七四年:2024/04/28(日) 18:10:35.06 ID:ChkNo82v.net
ここのスレ民はポジショントークなどを考え無い人が多いからな
良く言えば純情 悪く言えば世間知らず

859 :人間七七四年:2024/04/28(日) 18:25:47.27 ID:4GT1LlKV.net
頭悪いだけだよ

860 :人間七七四年:2024/04/28(日) 21:30:04.88 ID:9XTyPdDj.net
上杉なんか速攻で土下座外交に転ぶし景勝と兼続もその程度

861 :人間七七四年:2024/04/28(日) 22:03:09.96 ID:T0aFf31s.net
今まで景勝と兼続は有能だと思ってたけど、幻想だったのか。でも家を滅ぼしてないから無能でも無いな。
輝元と同程度の有能さで、家康と争える器量が無かっただけくらいの理解で良いのかな?

862 :人間七七四年:2024/04/28(日) 22:18:34.44 ID:lzqizzRc.net
>>861
正直なところ輝元以下かと。
というか、西軍の多くは輝元以下の動きしかしてない。
輝元が凄いとかではなく、輝元含めて尽くろくな動きをしていない。

863 :人間七七四年:2024/04/29(月) 01:14:33.97 ID:0wwd6b82.net
そもそも家康会津に行ったから軍を催すチャンス!だから伏見攻めた
程度の事から始まってんだもの、計画性は殆ど無いんで雑は雑。

864 :人間七七四年:2024/04/29(月) 09:35:20.06 ID:t58krxd7.net
豊臣家と毛利家はだいぶ前から反家康計画を練ってたからここの連携は非常に効果的だった
だが豊臣奉行衆は景勝と連絡する手段が全く無かったのでここの連絡は西軍決起後でも想定すらされてなかった
そして景勝も具体的な対家康戦略を持たず「自分と徳川が戦争になれば誰かが立ち上がるだろう」程度の考えだったので中央との連絡路を絶った、元取次の石田三成とすら連絡してないから(三成が親家康に転んだからかもしれないが)
だから景勝には大した展望無く偶機に賭けた戦でありその為に戦略は破綻していた、それで誤った情報を信じて負けたと

865 :人間七七四年:2024/04/29(月) 10:04:02.74 ID:MEHILiPV.net
確かに毛利だけは動き出しがかなり的確なんだよな。
初手大坂城をあっという間に占拠から、阿波讃岐を落として瀬戸内海の航路を確立。
瀬田に防衛戦を構築し、伊勢攻略着手。

このあとのグダグタは評価できないが、ここまでであれば割と意図の理解できる動きをしている。

故に、やはり一連の関ヶ原の首謀者は、少なくとも前半は毛利主体と言わざるを得ない。

石田三成は、前半戦がうまくいくのを見て、急遽各地に書状をばら撒いた、故に空手形と無策が多い感じ。

866 :人間七七四年:2024/04/29(月) 15:19:15.75 ID:ReXx+Yu8.net
毛利はまあわかる
能力もないし準備も杜撰だがワンチャン確かにあった
上杉はマジで謎
540度回って西軍誘引のために徳川と示しあわせて挙兵したのかってくらい

867 :人間七七四年:2024/04/29(月) 15:39:28.25 ID:9hTEPSrb.net
安国寺「春頃に福原広俊や堅田元慶を木津留守居として置いたのは大坂城西の丸にその人数を入れるためだった」

毛利秀元、吉川広家、宍戸元続「は?そんな話全然知らんけど」

868 :人間七七四年:2024/04/29(月) 15:50:26.35 ID:P5uRb7s7.net
上杉もようわからんな、一度上洛は承諾しながら先に讒言者を究明しろとか
家中をまとめないといけない領内仕置きのため秋まで待ってくれとかいって
結局日限切られたので上洛できんとかいって会津攻めとなるし。
家中や領内のことなら直江がほとんどしてるので在国必須でもないだろうし
讒言者とは自信の言い分に自信があるなら堂々と上洛して
対決すればよかろうに

上杉贔屓の研究者などは滅びの美学とか名門の意地とか
家康の専横にたいする義戦とか賛美してるが
現実的でないし書状を見てもどうもそんなにご立派なお考えとも思われず
説得力に欠ける

869 :人間七七四年:2024/04/29(月) 18:32:20.25 ID:96oUH2/n.net
毛利秀元を養子として迎えていたが、実子藤七郎が生まれたので秀元に分地をせねばならなくなった。しかし周防・長門では話がまとまらず、徳川に調停を頼むという忸怩たる結果に終わった。
そこで分地の問題、そして一族内の時限爆弾というべき吉川侍従を大人しくさせるべき解決法として、瀬戸内の覇権確立を思い立ったのである

870 :人間七七四年:2024/04/29(月) 19:33:47.96 ID:9hTEPSrb.net
4月27日付島津義久宛義弘書状
「伊那圖書頭殿并御奉行中よりも、使者を被相添、去月(去カ)十日伏見御打立、会津へ下向候、
必六月上旬の頃ニ可為上洛候条、御返事申はなされ候ハヽ、依其返事内府様御馬可被出ニ御定候」

4月下旬の時点で景勝は6月上旬に上洛すると返答したが、家康は納得せず会津征伐を決定している
この島津の話が本当で1ヶ月余りの猶予も許されないとなると景勝がごねるのもまあ無理ないかな
事を構えたくないなら何を差し置いてでもすぐさま上洛すべきだったとは
思うけど、景勝は家康に許す気がないと見て取ったんじゃないかね

871 :人間七七四年:2024/04/30(火) 10:13:35.95 ID:S+pDF/hd.net
>>868
魚津在城衆十二名連署状からもそうだし、
滅びの美学というか武家の面子が第一みたいなのが上杉の家風としか思えんけど。
魚津城衆も景勝も上杉のためなら死ぬのも滅亡するのも構わないみたいなこと言ってるやん。

872 :人間七七四年:2024/04/30(火) 10:42:56.53 ID:QUDUa2m8.net
>>868
結論は至ってシンプルで景勝の謀反が事実だったのよ。景勝は本気で越後を取り戻すべく軍拡を進めていてその結果徳川と戦争になる事も覚悟していた
上洛延期なんて北条もやってる謀反人の定型句みたいなもん。景勝は軍事が終了するまでの時間稼ぎとして上洛を呑んだに過ぎない。逆に家康が時限をしたのはその内心を読んでたから

873 :人間七七四年:2024/04/30(火) 11:19:40.95 ID:QUDUa2m8.net
景勝の行動を追うとまず景勝は神指城を造りだした。これは公儀の許しがあったらしく多くの資材が集まってる。しかしその神指城は関ヶ原のときに殆ど手付かずという有様。集めた資材はどこへと言えば景勝は「秋までに城砦を完成させろ」という書状を出してる。つまり神指城建造を名目に集めた資材を城砦整備に流用していた。神指城は軍事的な要素が見当たらないので公儀への目眩しにもなる
ところがそんな小細工が通用する訳もなく景勝を警戒していた堀秀治がこの事実を突き止めて徳川家康に報告してしまう。家康から上洛を求められた景勝は四月までの上洛を約束するがこれを反故にする。伊奈ら使者が問い糺しにくると今度は六月を約束するが家康も騙されず征伐を開始する

874 :人間七七四年:2024/04/30(火) 12:22:15.06 ID:QUDUa2m8.net
承兌書状によれば訴人は堀秀治で景勝の軍備拡張(城砦建造、領内整備)が問題になっていて最早上洛して謝罪するしかないと言われてる訳でどう見ても訴人の糾明なんぞの段階じゃない
つまり景勝書状は「こういう筋書きでいくからお前たちも間違っても公儀に討伐されるなんて言うなよ」っていう口裏合わせみたいなもんだろう

875 :人間七七四年:2024/04/30(火) 14:53:16.55 ID:zKtXQg14.net
輝元や三成が挙兵した際に確か「天下の謀逆が露見した」とか言ってた日記があったけど、この場合どちらが「謀逆」に当たるのか

876 :人間七七四年:2024/04/30(火) 14:58:44.38 ID:6UwECcMe.net
>>864
この馬鹿の豊臣が反家康という主張無視されてて笑う

877 :人間七七四年:2024/04/30(火) 15:27:52.12 ID:9ynQ/1Zh.net
>>875
舜旧記7月15日条
「謀逆露顕、伏見城内府家康軍兵楯籠」

・白峰氏→伏見籠城は家康家臣による豊臣公儀への反逆
・大日本史料の注釈→「徳川氏の諸将等変を聞き伏見城に拠る」
つまり西軍による反逆と見做してる

878 :人間七七四年:2024/04/30(火) 16:08:39.35 ID:5GWFza2l.net
最上や村上や溝口が上杉の軍道整備の懸念を訴えるならまだわかるが、
堀は直接は関係ないと思うがなぁ。
米の持ち逃げの逆恨みとしか思えん。

879 :人間七七四年:2024/04/30(火) 16:32:49.69 ID:dpELIZFR.net
でもさ、その堀家に米を高利で貸し付け、期日がくると厳しく
支払いを督促というのは恨まれても仕方ないとも思うけどな

880 :人間七七四年:2024/04/30(火) 17:33:39.38 ID:5GWFza2l.net
そう考えると上杉が越後に米残していってれば
上杉征伐は起きなかった可能性が高いってことか?

881 :人間七七四年:2024/04/30(火) 19:29:37.85 ID:bbBDY27W.net
無理でしょ
上杉景勝って自己陶酔型のアタオカだし
情勢が情勢なんだからさっさと上洛していたら済んだ話なのに

882 :人間七七四年:2024/04/30(火) 19:36:06.97 ID:6UwECcMe.net
上杉が主張する上洛免除はともかく軍備増強は言い訳できないと思うんだが

883 :人間七七四年:2024/04/30(火) 20:37:25.47 ID:MMjvCNXo.net
会津に東軍が侵入したらどう戦うつもりなんだ

884 :人間七七四年:2024/04/30(火) 23:16:56.20 ID:Ibqdxroo.net
そもそも御掟に不誠実な申し立てをする者があった場合は双方を呼び寄せて
必ず究明するべきであるって書かれてるし、景勝が上洛渋ってる時点でマズいだろ

885 :人間七七四年:2024/05/01(水) 00:25:12.51 ID:QxDXol7W.net
戦国板でもここだけはスクリプト嵐の中で上位を維持しているな。
書込内容の水準はアレだが住人の皆さんの熱意には敬服する。

886 :人間七七四年:2024/05/01(水) 00:39:29.73 ID:doWxqraY.net
>>885
こういう奴にじゃあ高水準の書き込みとやらを頼むって言うとだんまりなのつまらんわ

887 :人間七七四年:2024/05/01(水) 01:59:40.87 ID:m6lI4zkn.net
いい感じのサンドバッグになってる愛妾君がこのスレには居るからね

888 :人間七七四年:2024/05/01(水) 02:08:32.42 ID:QxDXol7W.net
>>886
高いか低いかはともかく、
弥次馬軍談よりはもう少し地に足の着いた議題は提供できるかな。
 
関ヶ原のような大戦に当たっては当然ながら各大名とも所領から物資・人員の臨時徴発を行なっている筈。
その徴発規定や定例(臨時ではない)税制に対する位置付けを幾つか例示して頂けるとありがたい。
よく「〇〇氏は苛政」「△△氏は善政」などと云う話は聞く(石田は善政とも)が、
それを定量的に比較してみたいと考えている。
 

889 :人間七七四年:2024/05/01(水) 07:44:39.31 ID:NMnX8ZvR.net
>>882
軍備増強って、朝日軍道建設以外の具体的なものが見えてこないんだが。
堀のでっちあげ、逆恨みじゃない具体的なものでもあるの?

890 :人間七七四年:2024/05/01(水) 09:18:19.65 ID:RrByGJmS.net
>>889
戦国時代って募兵しなくても2万3万集められるのかよ恐ろしいな

891 :人間七七四年:2024/05/01(水) 09:47:56.24 ID:ixW+Xt0N.net
軍備増強については会津国替えで石高倍増したからね、
公儀の軍役に応じられるよう義務として
石高に応じた人数や武器は揃えなきゃいかんやろ
表向き神指原の新城工事を隠れ蓑にして伊達との国境の城や白河口の城の
修築工事などを進めたのはどうかとは思うが。

892 :人間七七四年:2024/05/01(水) 09:49:12.30 ID:zNwem3/a.net
ただでいいから陣借りして働かせてくれ、ただ、手柄があったら仕官や報酬を検討してください的な参戦はあった。しかしせいぜい数百人レベルでは。そういう飛び入り参加をまとめる専門の侍大将も大名家にはいた。

893 :人間七七四年:2024/05/01(水) 09:52:39.70 ID:DHpW/z/5.net
最初から難癖つけて潰すつもりだったから上洛しなかったとかならともかく
とりあえず話聞かないと判断しようがないから上洛してくれと何度も交渉してるのよな
それをのらりくらりと躱して戦争体制整えてるのなんか秀吉と北条みたいだわ

894 :人間七七四年:2024/05/01(水) 13:02:19.19 ID:NMnX8ZvR.net
もし朝日軍道建設を軍備増強と言っているなら、
軍道完成に一年掛かってるなら景勝まだ大坂か伏見にいる時に着工してるよね、
なんでその時に言わんって話。
まぁ景勝もその時に奉行衆か家康に城普請、軍道建設すると言っておけば問題なかったろうに、
たしかにこれでは疑心を持たれるわな。

895 :人間七七四年:2024/05/01(水) 14:16:59.15 ID:do33uLGT.net
軍道だけが問題だったと力説する馬鹿がいるな

896 :人間七七四年:2024/05/01(水) 15:15:57.01 ID:/iODhjoU.net
何も知らん西笑承兌すら「上洛して誠意を見せないととんでもないことになるぞ」と送るくらいなんで景勝の野心は完全に露見してたのは間違いない。同じように堀秀治に訴えられた前田利長は無実だったから助かったが

897 :人間七七四年:2024/05/01(水) 15:28:14.45 ID:/iODhjoU.net
具体的に景勝の軍事行動を挙げると
慶長五年二月二日に景勝は岩井・安田・大石に対して陸奥仙道筋の城砦を春夏までに完成させろと命令しまた三月二十日には赤津の拠点再築を進めている。同時に武具収集・交通網整備を進めまた牢人衆を集め組外衆を編成する
仙道筋を固めてるのはおそらく伊達政宗対策で戦争準備なのは明らか。景勝謀反のとばっちりを恐れて三月には藤田信吉が出奔し家康に報告、また景勝の越後への野心を確信する堀秀治は証拠を押さえてこれも家康に報告したという流れになる

898 :人間七七四年:2024/05/01(水) 16:00:44.94 ID:zNwem3/a.net
史料によると上杉はコメだけではなく耕作人まで會津に連れて行ってしまったそうだが、
戦後処分でそれらがどうなったかは気になる

899 :人間七七四年:2024/05/01(水) 16:27:51.66 ID:mbIb0BxB.net
出典は恐らく白峰氏の論文だろうけど、その2月2日付安田・岩井・大石宛景勝書状
も読んでみたが、確かに景勝がこの時期領内の普請に注力してたのは間違いない

2月2日付安田・岩井・大石宛景勝書状
「并普請作事去年申付候通、急度成就専一候、仙道筋城々普請春夏之間相究、其地普請可申付候之由、遣書状候条早々相届、可成其心得候」

伊達への備えのためだったのはそうなんだろうけど、白峰氏はそれを伊達攻めのためだったとは言ってないな

3月21日付秀忠宛景勝書状
「然ハ其元御普請以下被仰付由尤存候」
景勝がどこまで報告していたかは不明だけど、普請については一応徳川方に
報告はしていて、この時点では秀忠もそれを尤もなことだと了承はしている

900 :人間七七四年:2024/05/01(水) 16:54:24.12 ID:mbIb0BxB.net
>>899
訂正

○3月21日付景勝宛秀忠書状
✕3月21日付秀忠宛景勝書状

901 :人間七七四年:2024/05/01(水) 20:40:20.41 ID:ixW+Xt0N.net
秀忠が景勝に会津の領内普請尤もと認めるその書状を送った
3月21日の翌22日に上杉を出奔した藤田信吉が
會津不穏の情勢を訴えに江戸城の秀忠の基に飛びこんでくるんだよな

902 :人間七七四年:2024/05/01(水) 21:44:38.42 ID:fAD5oquV.net
上杉が会津に国替になった理由が、伊達の監視だとすると、
会津の東、伊達領方面の仙道筋の城砦の普請は、
むしろ豊臣の意向に沿ったものじゃないの?
だからそれについて>>899のように尤存候なんじゃないの?

じゃあなにが問題だったかということになる。

903 :人間七七四年:2024/05/01(水) 21:56:01.98 ID:PUuuhx3M.net
>>902
なら上洛してそう言えばよかった

904 :人間七七四年:2024/05/01(水) 22:10:41.93 ID:fAD5oquV.net
>>903
秀忠が把握していることを上洛して言うのか?
そんな舐めくさったこと言われりゃ上杉もブチ切れるだろう。

905 :人間七七四年:2024/05/01(水) 23:11:37.40 ID:EsCshIGv.net
>>904
「申請内容は了解しました。ではこの書類を持って三番窓口に行って申請内容を説明して下さい。」
令和の御世にもそんなことは多々ありそうな、、、

906 :人間七七四年:2024/05/01(水) 23:15:35.02 ID:KgSelZvj.net
>>905
秀忠の返答はほぼ豊臣公儀のそれと同じだよ
銀行の整理券じゃないんだから

907 :人間七七四年:2024/05/02(木) 03:46:51.43 ID:xfKz1sZw.net
そもそも上杉は8月は何してたんだ?
家康が撤退したのが7月末
最上に攻め込んだのが9月初旬
1か月もの間、何してたの?

8月5日付本庄繁長宛直江兼続書状では、「佐竹から昨日使者が来た。家康から人質を
出せと言われたが拒否して手切れした。だから我々に加勢してくれることは間違いない」

とか書いてるんだから、佐竹の加勢を得てさっさと関東に攻め入ったら良かったのに
何で伊達や最上まで加える必要があったんだ……

908 :人間七七四年:2024/05/02(木) 04:10:16.25 ID:1rVqgO5N.net
結城秀康軍が2万もいたそうだから上杉佐竹だけでは抜けないと思ったのだろう
そもそも佐竹が味方になるかというのは置いておいて

909 :人間七七四年:2024/05/02(木) 04:55:40.90 ID:kvMPJopo.net
秀康に加えて8月23日までは秀忠もまだ宇都宮に滞陣してるしね
家康も江戸城で徳川250万石の兵が井伊、本多以外ほとんど関東に
残っていて背後に伊達、最上もいる以上は
上杉、佐竹だけで攻め込むのは無謀だろうな
宇都宮城の前に最前線の大関氏の黒羽城の攻略が必要だが
家康はこの城を重要視して家臣の岡部長盛を入城させているし
万一攻められても城の周りに大軍を展開できる那須平原が開けており
宇都宮から後詰めの軍とで挟み撃ちというのも考えていたと思う

910 :!donguri:2024/05/02(木) 09:26:14.99 ID:ie2mDVHi.net
景勝は言われてるほど愚直な男じゃない。むしろ腹黒い、梟将と言える。そもそも秀忠の出した普請の許可は神指城の事を指していた可能性が高い
それを利用して領内整備を進めてる訳で謀叛と言われても仕方がない(本当に野心が無ければそもそも上洛して弁明してるだろうから謀叛は真実だったと言える)
そして時間稼ぎが不可能となると景勝は家康を挑発した。何故かと言えば「豊臣家に喧嘩を売ったのではなく徳川家康に喧嘩を売った」と論点をすり替えた。この意を豊臣家が汲んで秀頼・茶々・北政所が会津征伐に反対した事で現代まで「家康は会津征伐を強行した」と言われてるんだから割と凄い人間だったんじゃないか。尤も大戦略を見通す力が無かった結果負けたんだが

911 :人間七七四年:2024/05/02(木) 10:28:58.59 ID:xfKz1sZw.net
結局、長生きが勝つということかな
家康に対抗できるような器がもう、慶長5年にはいない

912 :人間七七四年:2024/05/02(木) 10:42:41.84 ID:UTnfdq1k.net
秀吉の征伐軍に唯一打撃を与えたのが家康だしな
北条も島津も長宗我部もまともにやりあえてすらいない

913 :人間七七四年:2024/05/02(木) 10:48:27.72 ID:ie2mDVHi.net
>>907
景勝の掴んでいた情報では「豊臣が家康を追放」「伏見が落城」「家康は江戸から動かない」で止まってる。なら上方の西軍が徳川攻撃を決定してから動いても遅くはない、その前に最上か伊達を征服しておこうという考えだろう。むしろ先走ってお手つきする方が拙いとみたか
それで上方からの連絡を心待ちにしてたんだろうがその時にはとっくに西軍が詰まされてた。家康の方が遥かに強かったという結論

914 :人間七七四年:2024/05/02(木) 11:55:59.77 ID:npMCUtDS.net
>>907
最上義光から上杉宛書状では、嫡子義康を人質に出し、
最上勢は外様の家臣並に奉公するから最上攻撃は止めて欲しいと言われ、
人質提出を待ったが8月20日から9月初旬まで待っても
一向にやってこないから、攻撃に踏み切ってる。
半月の空費は最上義光の書状のせい

915 :人間七七四年:2024/05/02(木) 12:07:39.39 ID:oXPkdvae.net
>>907
その書状の宛先は岩井信能だな
人質供出の拒否まではいいとして、この時点ではまだ手切れにはなってない
きっと手切れになるであろうことを直江に訴えている
手切れ不可避なので上杉の加勢が必要だと佐竹から要請があり、直江はそれを快諾したって内容だよ

916 :人間七七四年:2024/05/02(木) 12:55:44.23 ID:8lcvLzNG.net
>>911
その観点で言えば、「毛利は残った」という小説を思い出したな。
関ヶ原からスタートして、徳川家康が亡くなるまで毛利家を維持して生き残りを目指す輝元の話。

表紙のバカ殿具合に反して、なかなか面白い作品だよ。

917 :人間七七四年:2024/05/02(木) 13:21:12.80 ID:xfKz1sZw.net
>>907
ごめん、岩井だったね
あれ、訳間違えたかな?
「佐竹より使者、昨日罷り超し候。内府より証人を請われ候共、ふっと申し切り候の状
定めし手切れ之有るべく候。左様に候はば、御加勢申し受けたきとのことに候条。此儀は深々と
請け合ひ使者返し申候」

918 :人間七七四年:2024/05/02(木) 13:38:11.41 ID:oXPkdvae.net
>>917
「定而手切可有之候」
定而だからきっととか必ずの意味で未来のことを指している
更にここでの「可」は推量を表すからまだ手切れにはなってないよ

手切れになりそうだから佐竹は上杉の加勢を受けたいとのことで、直江はそれを承諾したという意味になる

919 :人間七七四年:2024/05/02(木) 14:09:39.07 ID:xfKz1sZw.net
輝元と景勝
どちらがマシだったんだろうか

ゲームではなぜか景勝が物凄く評価されてて輝元は悲惨な能力に落ち着いているけど

920 :人間七七四年:2024/05/02(木) 15:30:35.67 ID:ie2mDVHi.net
景勝は状況から仕方がない面がある。徳川家康が劣勢とはいえそこに腹背に敵を抱えながら突撃というのは余りにも投機的で常識的に考えれば上方と足並み揃えて攻撃する事になる。沼田の真田信幸が敵に回った以上景勝の力を超えたところで趨勢が決まったのだから関ヶ原に限れば景勝の能力は云々出来ない(そもそも越後に未練を持つなって話だが)
輝元は擁護出来ない。美濃への陣張り決めたのこいつだろうし

921 :人間七七四年:2024/05/02(木) 16:08:04.43 ID:npMCUtDS.net
上杉景勝の投機的リーダーシップ

922 :人間七七四年:2024/05/02(木) 18:48:24.23 ID:qNRBsOyt.net
>>919
能力的には目くそ鼻くそ

ただ景勝は大河&マンガ補正があって
輝元は人格がクズというマイナス補正が

923 :人間七七四年:2024/05/02(木) 19:09:58.19 ID:e/FNr1Rq.net
全員輝元以下の働きしかできない西軍はある意味すごいと思う

924 :人間七七四年:2024/05/02(木) 19:35:05.38 ID:kvMPJopo.net
景勝は花の慶次、真田太平記、天地人(特に空想革籠原合戦で東征軍を
壊滅させ颯爽と馬上より命乞いする家康を見下ろすシーン)などで格好よく
描かれてるからな。

輝元は担がれた飾り物大将、人は良いがお調子者、戦略を誤り
敗戦を三成に責任転嫁して淀殿よりビンタくらう羨ましいではなく
情けない武将などあまりよく描かれてないね

925 :人間七七四年:2024/05/02(木) 20:27:45.83 ID:5HG0TCFz.net
景勝は能力値70で輝元は50のイメージなんだよな
最近の信長の野望は案外まともな採点してる

926 :人間七七四年:2024/05/02(木) 20:49:29.11 ID:fFSPKWhC.net
景勝は統率戦闘は80ちょうどでいいけど知略50政治60くらいなイメージ
能力的にはリトル勝頼みたいな

927 :人間七七四年:2024/05/02(木) 20:53:18.92 ID:8lcvLzNG.net
素の能力だけで言うなら景勝>>輝元くらいの圧倒的大差があると思う。
奉行衆や宇喜多なんかと比べても輝元が1段くらい落ちる感じ。

だけど、上杉征伐から一連の関ヶ原に限るなら、輝元>景勝>奉行衆という感じ。、

928 :人間七七四年:2024/05/02(木) 22:33:00.42 ID:R6g7hlpj.net
ゲームスレ池

929 :人間七七四年:2024/05/02(木) 22:44:19.55 ID:npMCUtDS.net
だからだ、静かに、丁重に、治部少のめい福を祈ってやってくれまいか

930 :人間七七四年:2024/05/02(木) 23:24:38.27 ID:5LdI4zV5.net
>>928
丁度ノブヤボ過大過小スレでも
景勝輝元どっちかマシか話してて草

931 :人間七七四年:2024/05/03(金) 08:00:22.71 ID:3RqagFBC.net
>>925
お前は能力値2だけどな

932 :人間七七四年:2024/05/03(金) 09:21:54.06 ID:oNrWdgvK.net
景勝の戦略は戦国時代では有効だったのよ。「自分が動けば他の誰かも動く」、てか上杉謙信がそういう戦略を好んでた。実際豊臣や毛利が呼応して動いた訳だからね。ただ純粋に徳川家康の方が強過ぎて景勝の能力を超えた状況になってしまった

933 ::2024/05/03(金) 11:28:47.50 ID:YxoVT7Z2.net
>>914
西軍はその最上といい清洲の福島といい
まんまと東軍の時間稼ぎに嵌ってるね。
あ、上田の昌幸も数日時間稼ぎしたか。

これいずれも時間稼ぎしてなかったら戦局変わってたかもしれんなぁ。
最上は伊達からの援軍間に合わない可能性高いでしょ、
清洲は早期陥落の可能性あり、
秀忠隊は関ヶ原に間に合ったかもしれない。

934 :人間七七四年:2024/05/03(金) 12:48:01.40 ID:uIfuNbdC.net
>>933
伏見の時点でね…

935 :人間七七四年:2024/05/03(金) 14:28:57.73 ID:6KaIKnSM.net
伊達、堀も上方加担を表明して時間稼ぎしてんね
徳川の指示と確認できるのは福島だけだけど

936 :人間七七四年:2024/05/03(金) 14:46:53.75 ID:dFzvgnTS.net
まあ時間稼ぎは大なり小なりやってるよな
前田も上方へ奉公すると言いながら、芳春院が人質に取られてるせいか丹羽領に兵を出したと三成を困惑させてるし

937 :人間七七四年:2024/05/03(金) 19:39:12.11 ID:YCZOAEP+.net
>>932
> 「自分が動けば他の誰かも動く」、てか上杉謙信がそういう戦略を好んでた。
 
でも謙信和尚、
「他の誰かが動いても自分は動かない」を常用したおかげで
自分が動いてもだぁれも動いてくれなくなって関東で負けちゃいましたよね、、、

938 :人間七七四年:2024/05/03(金) 20:31:18.62 ID:rShervIw.net
そもそも美濃方面に兵を送らなかった毛利輝元に問題あるんだがね

939 :人間七七四年:2024/05/03(金) 20:39:20.17 ID:XqB8qIMt.net
>>938
あれなんでなのかな
丹後も伊勢、近江も未平定だったからか

940 :人間七七四年 ころころ:2024/05/03(金) 21:06:36.64 ID:amyJmOyI.net
輝元は家康と直接対決までは考えてなかったんじゃないの
西国の覇者になれればよくて
徳川とか前田とか上杉とか三成とかのことは
やむなく手は貸すけどあとは勝手にやってって感じで

941 :人間七七四年:2024/05/03(金) 21:29:47.50 ID:Jiz2j/9e.net
流石にそれは通らないくらい輝元だって分かってたろうし分かってないなら割とヤバい。確かに豊臣家が西軍のトップだから「その気は無かったが秀頼さまに命令されて仕方なく」と言い訳は出来るかもだけどそれで西国の親徳川派諸国併合まで認められる訳ないから(しかも豊臣家が「毛利に無理強いされた」と言い出したら改易まである)
あるとしたら家康が西軍に苦戦したところで和睦して豊臣秀頼を掲げて西軍を攻撃するとかいう裏切りかますしか無い

942 :人間七七四年:2024/05/03(金) 22:33:40.81 ID:NyIVAUFl.net
時系列を見ると、そもそも西軍にとって美濃戦線は予定外。
織田秀信をはじめ美濃衆が西軍についたのが8月初旬だけど、その時には既に西軍は伊勢に向かっている。

943 :人間七七四年:2024/05/03(金) 22:58:50.56 ID:A8DNfO8P.net
>>941
輝元、その位の事は普通にやりそうだけど
つーか逆に奉行も毛利が出すぎた真似するなら徳川と和睦すりゃいいだろぐらいに考えてそう
奉行が一番の望みは徳川滅亡ではなく、豊臣政権の運営権獲得なんだし

944 :人間七七四年:2024/05/03(金) 23:13:46.11 ID:NyIVAUFl.net
>>943
でも、そのための手をなにか打ってたかというと……。
輝元はなんだかんだで徳川とのパイプは切っていない。

分からないのが増田長盛。
パイプを作って内通してたのかと思いきや、普通に改易されて高野山追放。

945 :人間七七四年:2024/05/03(金) 23:35:11.61 ID:amyJmOyI.net
増田は徳川も毛利もナメ過ぎ

946 :人間七七四年:2024/05/04(土) 09:14:54.68 ID:xQDq+b0D.net
増田長盛については最初から反家康で家康に連絡していたのは情報工作だったという話だろう。こいつは三成謀反と言いながら豊臣軍や毛利軍が伏見を攻撃していることを黙ってたんだから。内通者面は出来んかった。おそらく許されたのは大坂城の金銀を家康に渡したとかそんな後ろ暗い取引の結果だろうさ

947 :人間七七四年:2024/05/04(土) 10:22:55.21 ID:9fVR9eKT.net
>>938
個人的に妄想にすぎないが、あれはまず長束増田が
自領の安全を図りたかったことと、
輝元が伊勢に秀元を国替させるつもりだったんじゃないかという気がする。
それで大した東軍戦力いない伊勢に大軍送り込んで
敵戦力撃滅よりも、領地制圧を優先させた。


勝った後のこと考えるより勝つこと考えろと言いたい。

948 :人間七七四年:2024/05/04(土) 10:26:58.97 ID:9fVR9eKT.net
ただし、伊勢進攻も長島を落とすのであれば話は別。
長島から尾張にかなりの圧力を加えられる。
まぁ半端な戦力で長島が落とせるとは思わんけど。

949 :人間七七四年:2024/05/04(土) 15:36:07.60 ID:s2b44hQ8.net
輝元に実子が出来てから秀元の領地をどうするかは問題になっていた
そこで

950 :人間七七四年:2024/05/04(土) 16:02:22.40 ID:KRKdMyd2.net
長島は当時はがっつり島なんで水軍無しでは信長ですら落とせない難所で水軍用意して準備してで時間がかかる。
落とせない事はないが落としたころには関ヶ原おわって佐和山あたり攻められてそうやね。

951 :人間七七四年:2024/05/04(土) 19:49:42.06 ID:g8g0LPd9.net
>>950
ほとんど水軍を持っていない長島攻め当時の織田と、
毛利が自前の水軍を持ち、九鬼嘉隆がついた西軍とでは条件は違う。

むしろ伊勢湾沿岸に影響力を保持するなら、山奥の美濃なんかより伊勢のほうがよほど重要かと。

952 :人間七七四年:2024/05/04(土) 20:04:04.98 ID:Pdz0xLIx.net
三奉行が7月17日付で真田に出してる書状
あれも意味不明だな
「家康が秀頼を見捨てて出馬した」

どこをどう見たらそういう発想になるんだ?

953 :人間七七四年:2024/05/04(土) 20:04:26.40 ID:KRKdMyd2.net
割れてる九鬼がどこまで有効に動けるか。瀬戸内から回してる村上待ちになるんでないかね
右往左往ばかりしてたグズな伊勢方面軍がなぜか有能になるちゅうIF付け加えないと早期長島攻めなんか実現しないからどうでもいいけど

954 :人間七七四年:2024/05/04(土) 21:00:47.46 ID:CsR45wQr.net
>>952
かなり説得力ある表現だな
浅野書状にあるように秀頼・茶々・北政所は会津征伐に反対していて家康を説得していた。その意見を無視して会津征伐を実行したわけで「秀頼さまを見捨てた」というのは正確な評と言える

955 :人間七七四年:2024/05/04(土) 22:57:06.51 ID:AAmwsK3m.net
会津征伐は早くに決まっていたみたいだがな
島津義弘書状では「内府様御馬出らるべく御定まり候」とあるし、卜斎記では「5月になりて景勝陣とひたすら用意。この節、日々、大小名出仕」
とある
景勝は家康を少し甘く見すぎてたんじゃないのか?

956 :人間七七四年:2024/05/04(土) 23:00:24.32 ID:AAmwsK3m.net
>>954
秀頼が反対していたというのは何の史料?

6月9日付の来次書状では「内府は会津へ出陣するそうです。その際、秀頼様の出馬を申し出たそうですが、御馬廻衆が
拒絶したようです」とあるから、明らかに満7歳の子供の意思は無いでしょ

957 :人間七七四年:2024/05/05(日) 00:27:43.25 ID:bsvE872L.net
年次不明浅野幸長書状



秀頼が反対というのはこの5月26日と比定されている浅野幸長書状が出典だろうな

 一 秀ョ樣御袋様より、内府樣御下候儀御留有度と御奉行衆爲御使就被仰付候、
内府樣へ奉行衆被參候へは御機嫌惡被成于今不被申出候○○○政所樣明廿七日○○○ 秀ョ樣爲御見廻大坂へ被成御下候はゝ、
是も御内儀者内府樣御留有度由にとの御下と申候事、
一 石治少子息隼人出陣に候へき者、此間爲何儀に候哉ん、佐和山騷申に付、治少者罷立候樣にと此程被仰出之由候事、
一 北國之儀彌相濟、御袋竝山大膳、前野對馬、山崎七衞門、土方但馬人貭江戶へはや御下し候、肥前殿御内加賀殿、
孫四郎殿は北國へ御下候、有之しまつも相濟申爲御禮五三日已前山大膳、土方但馬罷上候事







一 我等儀一昨日内府樣へ罷出候



頓而不着仕可申と何分可令得御意



淺左京

958 :人間七七四年:2024/05/05(日) 00:33:11.83 ID:QePdZQFA.net
>>951
長島攻めようとしたら東軍に岐阜城落とされて急いで美濃へ反転してたじゃん
どのタイミングで攻撃するつもりなの?

959 :人間七七四年:2024/05/05(日) 00:40:08.36 ID:vAchUUGW.net
>>956
横からだけど>>623見てないんか?
というかあんた>>621でしょ
適当にレスする前によく読みなよ

あとその来次氏秀書状は6月10日付だね
これも前に言ったが当該書状は景勝の船頭が大坂で収集した情報で信憑性は比較的低い
後段では家康が清洲城を借りようとしたが福島が拒否したとか、高麗の人数が
壱岐や対馬に攻め込んだようだとか事実と乖離したようなことも記述されてる
恐らく巷間の風聞を持ち帰ったものだと思うよ

960 :人間七七四年:2024/05/05(日) 00:45:23.75 ID:OjBNLz9r.net
秀頼が西軍に付いて家康を攻撃しようとしたのが事実なら戦後領地を切り刻まれたのは残当ということになるけどいいのだろうか
戦国時代が終わって何年も経ってないのに家臣を裏切る主君なんかいらねえわってなるのは当たり前だし
戦後は東軍諸将の大半からも実力ある主君と認められてない

961 :人間七七四年:2024/05/05(日) 11:38:09.69 ID:N+9ZSYky.net
>>958
伊勢ルートでの作戦立案するとすれば、
秀元吉川長束安国寺宇喜多長曾我部鍋島の西軍主力をもって、
九鬼熊野(堀内)淡路毛利水軍の協力の元、
桑名を進攻拠点とし長島を早期に強襲陥落し、
犬山岐阜大垣長島の線で尾張進攻できる体勢の構築が一期段階。
二期段階で小牧山守山方面、熱田鳴海方面制圧すれば
清洲辺りの西尾張は孤立化できる。
安濃津、松阪方面は抑えの兵だけ置いておけばいい。
どうせ伊勢には大した東軍戦力はいない。

秀元がごねてなければ秀元隊の伊勢到着は数日早くなる、タイムリミットは8月22日長島攻略。
最大の問題は水軍衆が間に合うかどうか。
安濃津力攻めするくらいなら長島強襲したほうが結果は変わってくるだろう。

962 :人間七七四年:2024/05/05(日) 22:09:52.57 ID:Lj+JJrAs.net
>>960
前も挙げた史料だけどね
下記の末尾一文
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/45/0057?m=all&s=0056&n=20

慶長五年九月十五日に黒田如水が藤堂に宛てた書状

「一加主計(加藤清正)拙者(如水)事は、今度切取候分以内府様御取成を、秀頼様より拝領仕候様に井兵(井伊直政)被仰談御肝煎頼存候」

清正と如水が九州で切り取った土地については、家康様の取り成しで秀頼様から拝領できるように、井伊さんとよろしくやってね高虎さん
という内容
如水はぶんどった土地の「拝領」は「秀頼様」からされるという認識
「豊臣」と喧嘩しているなんて微塵も考えていないことが分かるでしょ

963 :人間七七四年:2024/05/05(日) 22:15:26.02 ID:wHJ2iErk.net
>>962
じゃあ力のない主君を軟禁した西軍を撃破した功臣に論功として主君の領地を分配することは何も間違ってないな

964 :人間七七四年:2024/05/05(日) 23:13:32.18 ID:/uflq6ZD.net
>>961
西軍が伊勢方面を攻めた理由は8月5日付真田昌幸宛石田三成書状に書かれてるよ

「もし済まずにおいては清州へ勢州へ一所に成り候て行に及ぶべく候」

清洲城の開城交渉が不首尾に終わった場合、西軍は美濃口と伊勢口から一所になって清洲城を攻め落とすつもりである

西軍の武将程度が伊勢の重要性に気付くわけがない
せいぜい北と西から尾張を挟み撃ちにする程度しか考えられないだろうと思ってはいたけどね

そもそも伊勢攻略部隊は8月5日に鈴鹿峠を越えてから鈍重な行軍を続けて、大将格の長束や恵瓊は東軍来襲の虚報で退陣するなど
全く軍勢として役に立っていない

965 :人間七七四年:2024/05/06(月) 08:32:06.68 ID:a7RjnaN6.net
毛利秀元には家督交代、宗家との絶縁料として伊勢40万石を与える予定だったのである

966 :人間七七四年:2024/05/06(月) 09:25:58.17 ID:mQi6YpoT.net
西笑承兌書状には「景勝公が上洛を延ばしてるのが悪い、早く上洛しないと危ない」とあるのでおそらく景勝は四月までの上洛を約束してそれを反故にしたと思われる。約束を果たさないのは明らかに謀反の前兆だから家康が「次に上洛が無かったら即座に攻撃するよう態勢を整えろ」と命令するのは至極当然(例えば謀反を企んでなかった前田利長は上洛を断固拒否しつつ家臣を上方に送って釈明に尽くしてる)
秀頼が反対した理由は「反家康決起の口実作り」という直球やもしくは家康が重要案件を豊臣家に諮問しなくなった事が癪に触ったのかもしれない
本来は豊臣家こそ豊臣公儀の頂点であって徳川家康という重臣とは言え外様が勝手に天下を差配するのは僭越と思ったか

967 :人間七七四年:2024/05/06(月) 11:52:13.01 ID:R1ojoFI3.net
石田三成が無能かどうかなんて話は大好きなスレ民は伊勢方面軍の大将が長束という軍事的にはやべー奴なのにはあんま興味ないのか言及しないのよね

968 :人間七七四年:2024/05/06(月) 12:09:16.18 ID:DH9+DDK+.net
増田=無能
浅野=親徳川
前田玄以=空気
石田=無能
長束=無能

詰んでる

969 :人間七七四年:2024/05/06(月) 16:12:46.56 ID:JfKdoSkT.net
>>964
少なくとも石田、秀信は第二次小牧長久手できるような行動をしている。
犬山に美濃衆入れて、さらに石田秀信で尾張進出しようとしていた、
その矢先に市橋徳永らが福束攻めてきて
尾張進出は有耶無耶になった。
伊勢から同時進行で長島落としてたら石田の絵図通りになっていた。
しかし実際は安濃津落としたが岐阜落とされてどうにもならなくなった。

970 :人間七七四年:2024/05/06(月) 16:19:16.92 ID:JfKdoSkT.net
>>967
備口人数からは伊勢の大将は輝元じゃないかと思うが。
長束は城加番扱いになってる。
美濃口は石田、北陸は大谷ではないか。
あくまで備口人数みた感じではね、実際はわからんが。

971 :人間七七四年:2024/05/06(月) 17:07:20.77 ID:R1ojoFI3.net
輝元が出陣してるとは知らなんだ

972 :人間七七四年:2024/05/06(月) 17:26:45.96 ID:00tskHsG.net
>>968
前田玄以は空気というか求められた仕事だけするタイプ
だから西軍蜂起の最初だけ奉行連盟に名前貸したけどそれ以降は粛々と自分の仕事をしてた

973 :人間七七四年:2024/05/06(月) 17:28:05.66 ID:00tskHsG.net
>>969
第二次小牧長久手できるような行動とは?

974 :人間七七四年:2024/05/06(月) 17:39:21.95 ID:lZgqK5Ge.net
>>966
秀頼にそこまでの判断能力があったならば、自分の意思で征伐中止を叫んでいたら良かったのに

975 :人間七七四年:2024/05/06(月) 17:52:57.26 ID:CxiybB1J.net
>>966の彼によると秀頼は天才少年らしいからな
現代なら小学2年生のガキが知行宛行から改易、派兵まで全て主導してやってのけたらしいよ

976 :人間七七四年:2024/05/06(月) 18:10:40.27 ID:bX9ny2qo.net
>>964
一次資料を否定したら何も始まらないのは承知の上で、
西軍の戦略として語られるもの殆どが石田三成書状で、他の裏付けがないのが気になる。

他の首脳陣の書状は感状(過去)とか、現状報告(現在)ばかりなのに、
三成な書状だけ「これからの計画」「褒美の確約」が目立つ。
しかも、ほとんど他の首脳陣とは別行動しているにもかかわらず。

977 :人間七七四年:2024/05/06(月) 20:07:06.78 ID:lZgqK5Ge.net
それは美濃方面の司令官が三成だったから仕方ないんじゃないの?
普通は宇喜多秀家がそれをやるべきだが、秀家は若く前年に御家騒動を起こしたせいか、そんな書状が余り確認できないし

よく見たら7月14日付直江兼続宛石田三成書状に「越後の儀は、上杉御本領に候間、中納言殿に下し置かれ候旨、秀頼公御内意に候」とあったね

978 :人間七七四年:2024/05/06(月) 20:39:24.83 ID:lZgqK5Ge.net
佐竹義重が8歳の時に陸奥国衆の上遠野氏に対して書状を与えた記録があるけど、この時点で父親の義昭がまだ健在だから
やはり父親の後見があってのことだと思うし

秀頼の場合、後見が家康しかいないから、本当に独立独歩が7歳でできたのかどうか

979 :人間七七四年:2024/05/06(月) 21:01:04.11 ID:00tskHsG.net
>>978
この義重の例って俺の後継者はこいつだからよろしくな、てぐらいの意味だと思う

980 :人間七七四年:2024/05/06(月) 21:16:17.59 ID:CxiybB1J.net
>>977
その7月14日付直江宛三成書状は続武者物語所収の書状だけど、同じく同書所収の6月30日付
直江宛三成書状と共に中村孝也氏や今井林太郎氏により疑義が呈されてるし当てにならんよ

周知の通り、真田家文書の三成書状では真田に護衛を頼み沼田経由で上杉との通信を試みようとしていた
わけで、事前盟約説の根拠となるこれらの書状とは内容も矛盾してるし偽書で間違いないでしょ

981 :人間七七四年:2024/05/06(月) 22:12:43.56 ID:lZgqK5Ge.net
あれ本当に偽書?
確かに疑いはあるみたいだけど

桐野作人、笠谷和比古らは確かに偽書の疑いはあるけど、それにしては三成書状で一致する点も見えるから、ということで
偽書かどうか、というニュアンスを付けてるよ

笠谷は三成がよく使う「天の与へ」がこの偽書とされる6月20日にもあるから、必ずしも偽書ではない、と言ってるみたいだし
笠谷はそれに加えて軍記大成にもあるから、と付け加えてる

982 :人間七七四年:2024/05/06(月) 22:34:55.23 ID:CxiybB1J.net
>>981
「天の与えた」は三成に限らず当時の書状でも散見される表現だよ
内容的に見てこの二通の写しは偽書の可能性大だと思うよ

(天正10年)6月10日付中川清秀宛羽柴秀吉書状
「明智久我其邊へ居陣候て、其国か河内へ欤、可相動旨風聞由候、哀さ様ニ動候
へかし、一騎懸にて不寄夜中可馳参候、天与所候間、罷出候へかしと所希候」

(天正10年)6月26日付滝川一益宛羽柴秀吉書状
「中国表儀、敵城数ヶ所責崩申ニ付而、毛利及迷惑、取巻候城十町十五町之間罷出候条、天之与儀候間、根切可申付与希處」

(天正14年)12月2日付吉川元春他宛豊臣秀吉書状
「嶋津豊後の国へ打入儀、誠天之与所にて候間、不退様ニ懸留」

983 :人間七七四年:2024/05/06(月) 22:54:24.31 ID:a7RjnaN6.net
前田玄以の肖像画を見たが、わりとでっかい顔面でケーシー高峰みたいで意外だった

984 :人間七七四年:2024/05/06(月) 23:12:34.03 ID:HDxAb9tj.net
笠谷氏はその後2022年発行の論争関ケ原合戦という新著で
6月20日三成書状を旧著では真文書として扱ったが虚妄と判断せざる得えないと
考えを改めてるね。

詳しくは著書にて確認していただくのが良いと思いますが
理由として三成が挙兵を打ち明けたのは7月10日頃の大谷が最初で
それ以前は7月30日真田宛書状から誰にも挙兵を打ち明けてなかった
毛利も安国寺、吉川を會津遠征に従軍させてることから7月10日頃
安国寺に挙兵を継げたのが最初で毛利も首謀者ではない、
7月12日家康家臣に三成、大谷不穏を通知した増田も同様
7月10日頃に初めて挙兵を表明した三成が6月の段階で
上杉に挙兵連絡はありえないという論旨のようです

個人的には6月20書状が偽文書という結論はその通りでしょうが、その7月30日三成書状で内府が
大坂にいるうちは(6月16日まで)諸将の心測りがたく打ち明けられなかったと
6月16日以前に翌月実現したような挙兵の計画はあったこと、
挙兵自体三成一人では不可能なので同氏の存在が考えられますが、7月15日島津義弘
書状で首謀者と挙げられている毛利、宇喜多、3奉行、三成、大谷、小西の8人に
おそらく安国寺は6月16日以前に一味同心し挙兵の決断を
していたのではないでしょうか。

なので毛利が安国寺、吉川を會津遠征に出発させたのは家康を油断させるための
擬態、安国寺が佐和山城を訪れたのは今後の打ち合わせのため、増田書状は
7月27日榊原書状により後日出されたと思われる
3奉行の家康上洛要請の書状とともに奉行は
家康の味方と思わせる擬装ではないかと思います。

985 :人間七七四年:2024/05/06(月) 23:19:36.57 ID:o8uoLZff.net
>>981
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0040?m=all&s=0040

秀頼「公」とある時点で眉唾なんだよね
書中に「宇佐美民部」が出てくるあたりがポイントじゃないか

986 :人間七七四年:2024/05/06(月) 23:38:20.47 ID:o8uoLZff.net
>>984
考えすぎで無理があるよ
偽書を偽書と見抜く術は、究極的には「匂い」なんだよ
あれ、これ安土桃山の書状じゃないぞって
もちろん研究者はそれじゃ困るから厳密な史料批判をするわけだけど
用語、文体からする「匂い」だと江戸中期くらいまでの偽書でしょ

987 :人間七七四年:2024/05/07(火) 10:29:08.15 ID:x+fK/p1N.net
秀頼が会津征伐に反対した時は家康もキレかけたろうな

988 :人間七七四年:2024/05/07(火) 10:58:40.42 ID:ZrqbinbZ.net
>>976
最初から西軍首脳部が美濃方面を軽んじて大して調略を行ってなかった結果皺寄せを三成が行ったという話なのでは。三成は西軍首脳部ほど家康を甘くみてなかった訳で美濃こそ最前線と思っていれば必死に領主たちの歓心を買おうとしてたはず

989 :人間七七四年:2024/05/07(火) 11:15:52.96 ID:SMq0cL/X.net
もしかして秀頼(淀殿?)が上杉征伐に反対したのって、家康が大坂城空けたら馬鹿どもが反乱起こすんじゃないかって危惧してたからなんじゃね?

990 :人間七七四年:2024/05/07(火) 12:35:25.54 ID:9QsY4J1D.net
そういう空気感は巷間あったんじゃないかね
景勝もその空気を読んで直接対決に舵をきったんだろうし
家康もわざわざ上総から鳥居元忠呼び寄せたんだし

991 :人間七七四年:2024/05/07(火) 12:55:06.41 ID:S9RUq3uT.net
>>988
自分は逆に思えるけどな。
石田三成が甘い見通しで美濃に手を出して戦線を広げて、
勝手に窮地に陥ったのを西軍が仕方なく支援に行った構図に見える。

992 :人間七七四年:2024/05/07(火) 20:15:53.15 ID:0//2cMsO.net
大坂にいた豊臣軍二万は何の為に居たのかって話よ。大坂城も守れないならそりゃ豊臣家は滅亡するわ

993 :人間七七四年:2024/05/07(火) 20:53:11.74 ID:+ayBvHZq.net
小田原征伐で北条氏政と氏直の直接動員した軍が3000とかだし完全に言うこときいてくれる数もそれくらいだったんじゃね
他の軍は家臣に任せてるから拒否されたり渋られると動かせないとか

994 :人間七七四年:2024/05/07(火) 21:09:15.20 ID:IzblgVc9.net
石田勢が布陣した笹尾の傍に豊臣麾下の黄袰衆2000が布陣したとあるがどういう働きをしたのかまるで謎だ

995 :人間七七四年:2024/05/08(水) 03:47:40.86 ID:oYEckO69.net
>>988
三成の書状を読んだことないのかな?

慶長5年8月6日付真田昌幸宛石田三成書状
「内府は会津や佐竹を敵として、わずかに3万の人数を持ち、分国に15の城を抱え、20日路を
上られることができるものであろうか」
「内府次第といっても、20年以来の太閤様の御恩を内府の去年1年の御恩に替えて、
しかも秀頼様を粗略にして、あまつさえ大坂に妻子を残している。そのうえ内府は諸大名
に温情をかけていないと聞いている。右のような分別もなく内府が自分の人数1万、上方勢
1万ばかりで上洛しても、尾張・三河の間で討ち取れることはまことに天の与えである。そうなれば、
会津や佐竹、貴殿は関東に袴を着て乱入できるでしょう」

家康が弱いとあえて味方に言ってるとしても、これは酷すぎる
三成は完全に家康をなめていたとしか思えない

996 :人間七七四年:2024/05/08(水) 09:34:47.46 ID:f/OubckV.net
>>991
じゃあ前線を関ヶ原・鈴鹿に設定するのか?
それとも初期想定通りに瀬田で決戦するのか?
美濃には進出しないが伊勢は制圧するってのは意味がわからんのだわ。

997 :人間七七四年:2024/05/08(水) 10:12:20.39 ID:oYEckO69.net
毛利秀元らが鈴鹿峠を越えたのが8月5日
石田三成が大垣城に入ったのが8月9日

4日も何してたんだよ三成
少なくとも伊勢方面軍と同時に美濃に向かえばいいのに

998 :人間七七四年:2024/05/08(水) 10:49:15.75 ID:xHRAI/8j.net
>>996
>>997
織田秀信が西軍についたことが公開され、美濃衆が西軍について美濃への進出が可能になったのは8月5日。
そこから準備すれば順当にそのくらいの日数にはなる。

7月末時点で西軍に付くかもわからない美濃を待って伊勢を放置するよりも、
それなりに手応えのある伊勢から攻略するのは何ら間違いではない。

999 :人間七七四年:2024/05/08(水) 12:51:37.97 ID:oYEckO69.net
新スレはないのか?

1000 :人間七七四年:2024/05/08(水) 12:58:16.33 ID:4G+cn5dw.net
備前中納言が主将となり、長大、石治少、大刑、島津惟新が指揮をとらば、苦戦は必至

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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