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【池泉式】日本庭園【枯山水】

1 :列島縦断名無しさん:2013/10/24(木) 22:09:39.11 ID:o8u7TMSS0.net
日本庭園を見るなら、どの季節、どこがおすすめ?
お気に入りの庭は、どこですか?
各地の日本庭園の魅力を語り合いましょう。

2 :列島縦断名無しさん:2013/10/24(木) 23:26:32.87 ID:KpdzOPi/0.net
乙、以前スレがあたような気がする

3 :列島縦断名無しさん:2013/10/24(木) 23:44:52.78 ID:8vvYqv5w0.net
ひつまぶし…蓬莱軒
味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…欧味
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…三和
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…鬼作堂

4 :列島縦断名無しさん:2013/10/25(金) 03:43:48.70 ID:+H1Wg/7Q0.net
このスレが立てられたいきさつがくだらない理由。

5 :列島縦断名無しさん:2013/10/25(金) 06:59:53.87 ID:ScdaNm3L0.net
日本三名園は六義園、兼六園、栗林公園だな。

6 :列島縦断名無しさん:2013/10/25(金) 20:19:24.76 ID:SJGVOutDO.net
金津園は?

7 :列島縦断名無しさん:2013/10/25(金) 21:36:25.80 ID:qUY2XQiM0.net
岐阜なら犬山の有楽苑だな。
国宝の如庵もあるし。

8 :列島縦断名無しさん:2013/10/26(土) 00:35:13.93 ID:qfvjAZAXi.net
広島縮景園のホームページの横長画像はずるい

9 :列島縦断名無しさん:2013/10/26(土) 21:50:34.24 ID:5lI1dHQY0.net
早稲田の甘泉園

10 :列島縦断名無しさん:2013/10/27(日) 08:34:25.35 ID:yP0DXgKy0.net
>>7
犬山は愛知…
犬山城に二回行ったのに
まだ行ってないわ如庵。
明治村にも行ってみたいが、
少し離れているんだっけ?

11 :列島縦断名無しさん:2013/10/27(日) 08:44:43.66 ID:LmywYA7V0.net
これから紅葉の季節だから京都の庭園がイイね。
東福寺、永観堂のような有名どころより高桐院、円光寺のような小さい寺院の庭が良い。
それでもこの季節は混雑するけど。

12 :列島縦断名無しさん:2013/10/27(日) 10:06:20.27 ID:dw7xmmLr0.net
>>11
京都の混み具合知ってるのか?
隣の大津にも多くの名庭があるのは知ってるのか?

13 :列島縦断名無しさん:2013/10/27(日) 21:14:01.59 ID:7IBv0xXR0.net
和歌山の養翠園は、池の水が海水で萎えた

14 :列島縦断名無しさん:2013/10/27(日) 21:17:05.95 ID:TEkCh0RV0.net
小堀遠州の作と伝えられる庭園
岡山県高梁市頼久寺庭園は遠州の作風ではない感じがする
作ったとされる古文書も出てこない(遠州の古文書は多いにもかかわらず)

15 :列島縦断名無しさん:2013/10/27(日) 21:26:12.94 ID:7IBv0xXR0.net
城郭のような寺だよね

16 :列島縦断名無しさん:2013/11/02(土) 07:26:30.88 ID:Rz7AulKvi.net
紅葉の季節はどこも混むよな

17 :列島縦断名無しさん:2013/11/02(土) 08:19:51.65 ID:U43aKUOH0.net
都心だと殿ヶ谷戸庭園がイイね。

18 :列島縦断名無しさん:2013/11/02(土) 10:54:43.13 ID:9Q63uZLV0.net
岡山の後楽園が1だったな

あとは熊本の水前寺公園

19 :列島縦断名無しさん:2013/11/02(土) 15:18:52.40 ID:jZG3u8bv0.net
鹿児島の磯庭園がいいな
桜島借景は反則だ

20 :列島縦断名無しさん:2013/11/05(火) 08:04:16.47 ID:Npy40zoh0.net
大名庭園ファンですな

21 :列島縦断名無しさん:2013/11/05(火) 21:09:02.50 ID:HqZcG6+B0.net
あそこは山の岩に字が彫られているのがカッコいいな。

22 :列島縦断名無しさん:2013/11/06(水) 03:01:51.38 ID:dBwIQknri.net
岡山後楽園は周囲に竹を植えてビルを遮断してるからよいな
浜離宮とか縮景園とかはダメすぎる

23 :列島縦断名無しさん:2013/11/06(水) 08:22:13.88 ID:1IIZ2mKF0.net
権力者である大名が庭園で優雅を楽しむのはわかるけど、
寺院に立派な庭園があると、なんのため?と思ってしまう。

24 :列島縦断名無しさん:2013/11/06(水) 17:38:18.92 ID:zfA+f8YU0.net
今度、偕楽園に行くのですが
梅以外でどこが見所ですか?
撮影スポットなどを教えて頂けないでしょうか?

25 :列島縦断名無しさん:2013/11/06(水) 20:13:48.03 ID:WBxBYFM10.net
見所は好文亭だけ
千波湖が見える辺りが撮影スポットかな
続きは↓

26 :列島縦断名無しさん:2013/11/06(水) 21:58:47.83 ID:4e9Y3RXj0.net
すぐ横を常磐線が走ってる所。

27 :列島縦断名無しさん:2013/11/07(木) 07:33:45.72 ID:cd5hOprx0.net
>>22
都市の庭園に行くからそうなる
田舎にも名庭はある

28 :列島縦断名無しさん:2013/11/08(金) 20:27:08.70 ID:L1xeJ/2R0.net
庭園のパンフレットやHPは、どこも似たような説明文しかない
しかも数十年同じ文で、しっかり説明出来る人材はいないのか

29 :列島縦断名無しさん:2013/11/08(金) 20:41:16.11 ID:U7pTKxsR0.net
池が動いたり、木が急に伸びたり、
庭園は変化するものなのか?

30 :列島縦断名無しさん:2013/11/10(日) 15:39:54.78 ID:eGZnKqMmi.net
歴史的なことは新たに分かったりするだろうな

31 :列島縦断名無しさん:2013/11/13(水) 19:24:32.01 ID:xdBodhBD0.net
庭園は30年も経つと植栽が大変貌する
山口市の雪舟庭は石の周りに植えてあった樹木を取り払った
まあ、雪舟が庭を作ったという証拠は無いのだが

32 :列島縦断名無しさん:2013/11/18(月) 09:25:24.15 ID:NCh8eHnD0.net
>>23
大名が力を誇示するために援助した

33 :列島縦断名無しさん:2013/12/02(月) 23:51:46.27 ID:EmQVecas0.net
足立美術館は素晴らしかった。
それから、東福寺。三鈴の庭園がいいね。
金沢の野村家庭園もよかった。

34 :列島縦断名無しさん:2013/12/03(火) 06:47:36.98 ID:0z3c3AIUO.net
>>24
千波湖に水戸黄門の銅像があるよ

35 :列島縦断名無しさん:2013/12/10(火) 13:39:38.98 ID:MJLAhnoG0.net
大津市坂本の里坊群に行くといい

36 :列島縦断名無しさん:2013/12/10(火) 21:07:25.16 ID:ARxyP0sy0.net
石垣の街並みが素晴らし過ぎて、
寺院の庭の魅力が薄れてるじゃん
鳥よけが邪魔だし

37 :列島縦断名無しさん:2013/12/11(水) 12:18:34.49 ID:J2LWUUSf0.net
>>36
石垣が立派なことがマイナスになるのか?

38 :列島縦断名無しさん:2013/12/11(水) 20:11:20.59 ID:beQr36Mk0.net
ブログで「石垣」を検索していたら
職人肌の社長が、城の石垣の一部を赤色で囲って「ここがダメ」と書いていた
石垣の石組みが全部合格という城はなかなか無い

39 :列島縦断名無しさん:2013/12/11(水) 22:17:04.68 ID:cxKQ2ZcH0.net
城の石垣の技術って17世紀中ごろが全盛期で、
それ以降のは現在の修理も含めて劣ると
三浦正幸の城本に書いてあったような。

40 :列島縦断名無しさん:2013/12/14(土) 18:03:45.63 ID:a3iDLRJv0.net
浜松市の龍潭寺。
庭園は小堀遠州の作。

41 :列島縦断名無しさん:2013/12/14(土) 23:04:58.30 ID:gqnQWTuv0.net
>>40
小堀遠州は、江戸初期を代表する建築設計家で有能な官吏でもありました
世間では茶道と庭園のほうで有名なようです
龍潭寺庭園が小堀遠州の作庭とする確かな証拠が無いと「小堀遠州作と伝えられている」庭です
庭園全体の雰囲気が江戸中期以後で、しかも心字池が横に長すぎて江戸後期の特徴です
しかし、これらは後世の修正が下手で悪くなったことも庭園や古建築にはよくあります
江戸初期、作庭当時の古文書か設計図があればよいのですが

42 :列島縦断名無しさん:2013/12/15(日) 15:44:33.35 ID:p7WTilxv0.net
なんか遠州好みの庭は多い気がする。

43 :列島縦断名無しさん:2013/12/15(日) 16:50:04.41 ID:idlSBmY00.net
古い庭園は、遠州作とすれば世間の受けが良い
それくらい庭園研究家は少なく、遠州作と聞けば偽物と思ってよい
某お屋敷の庭に下手な遠州燈籠があり、教育委員会の先生は「この庭は小堀遠州作」

44 :列島縦断名無しさん:2013/12/21(土) 08:49:30.19 ID:gzEqLtLs0.net
遠州作と付け加えなくても、それらは良い庭
雪舟の履歴がわかるのは、明から帰国後でそれ以前は伝説の多い人
遠州は大阪の陣以後、徳川政権になって小大名でありながら
産業振興(製鉄、製紙)で手腕を発揮、有能な若手大名として登用された
高度な技術集団(土木建築)を持っていたと思われる

45 :列島縦断名無しさん:2013/12/23(月) 15:02:39.27 ID:kkYaVWSS0.net
>>33

金沢の野村家庭園みたいな狭い中に凝縮されている庭園もいいですね。

京都大徳寺の大仙院もいいですけど、あそこは写真撮影禁止のため、雑誌などでしか見られないですね。

46 :列島縦断名無しさん:2013/12/23(月) 15:37:43.26 ID:oKDmXdi/0.net
大徳寺なら高桐院が好きだな。
誰が造ったとか関係なく素晴らしい庭だ。

47 :列島縦断名無しさん:2013/12/28(土) 09:49:25.78 ID:QUn2W25d0.net
福岡は清水寺の本坊庭園がええよ〜
庭園というよりあの山全体がええんよ
あまり知られてないから観光地化してないし、かといってさびれもしてなく、市民の憩いの場になってるまったりとした空間
山頂からの眺めも最高だ
たださすがに紅葉の時期はゆっくりまったり庭園をながめられんね

ttp://www.e-kiyomizu.or.jp/

48 :列島縦断名無しさん:2013/12/31(火) 14:12:34.28 ID:saLdYCPm0.net
金沢では、野村家よりも、松風かく、がよい。

49 :列島縦断名無しさん:2014/01/02(木) 07:59:47.30 ID:F/1aVcue0.net
和歌山の粉河寺行ってきた。本堂前の庭園は独特の世界で面白かった。
本当は根来寺に行きたかったんだけど交通の便が悪くて断念した。

50 :列島縦断名無しさん:2014/01/02(木) 10:31:51.07 ID:tZbb++aY0.net
粉河寺と根来寺は、僧兵の総本山、というイメージだな
実際は延暦寺や興福寺がすごかったんだろうけどね
その2つの寺、行ってみたいんだよなあ

51 :列島縦断名無しさん:2014/01/25(土) 23:18:57.19 ID:8rOKnQvh0.net
京都都ホテルの庭園もいいよ

52 :列島縦断名無しさん:2014/01/28(火) 12:36:46.88 ID:Qkwokx7n0.net
たまたま見つけたブログ紹介「岡山太陽のそばの果樹園」
果樹園の経営の傍ら造園業もやっていて庭園の紹介ページがある

53 :列島縦断名無しさん:2014/02/12(水) 00:14:49.52 ID:P3RvJqz0i.net
2年続けて都内で庭園の雪化粧を見られるとは

54 :列島縦断名無しさん:2014/02/12(水) 21:53:29.65 ID:63S7yNxT0.net
>>53
その手があったか。
うかつだった。

55 :列島縦断名無しさん:2014/02/12(水) 22:43:13.04 ID:aV54cZ8N0.net
また週末降るから大丈夫。

56 :列島縦断名無しさん:2014/02/13(木) 20:00:02.05 ID:kFXdNno10.net
湿った重い雪だから
北国の雪の庭園風景とはちょっと違うが、まあいいか
バッテリー3個充電中

57 :列島縦断名無しさん:2014/02/13(木) 22:58:41.21 ID:MlAAzDAH0.net
水口の大池寺に行って来た
頼久寺みたいなのをイメージしていたが狭苦い感じで今一
冬季で縁側がガラス戸で密閉(!)されていたせいかな

58 :列島縦断名無しさん:2014/02/14(金) 12:23:41.12 ID:hzFa7VXK0.net
今日の雪は、植木や燈籠にわずかしか積もらず撮影はやめた
そのかわり、急いで河川に行き足跡のない木の橋を撮れた

59 :列島縦断名無しさん:2014/02/15(土) 00:11:57.36 ID:7wl/nnmt0.net
古い庭園は夢窓疎石作とすれば世間の受けが良い

60 :列島縦断名無しさん:2014/02/15(土) 19:42:56.43 ID:Z3eViFTw0.net
>>59
で江戸初期は遠州作と。

61 :列島縦断名無しさん:2014/02/15(土) 20:12:11.60 ID:8i7UVwLq0.net
岩がごろごろしてるのは雪舟作だな。

62 :列島縦断名無しさん:2014/02/15(土) 22:16:24.53 ID:jT7Dkr5P0.net
虎渓山永保寺って庭も良いけど観音堂や開山堂も
庭にマッチして良いね

63 :列島縦断名無しさん:2014/02/15(土) 23:00:03.92 ID:4fomCro10.net
現代庭園は、重森三鈴作となる

64 :列島縦断名無しさん:2014/02/15(土) 23:32:53.60 ID:4fomCro10.net
>>63
正しくは、重森三玲でした

65 :列島縦断名無しさん:2014/02/18(火) 23:20:14.45 ID:fYg07Ibk0.net
>>13
海水だと何故萎えるの?

66 :列島縦断名無しさん:2014/02/23(日) 23:09:38.59 ID:HbMI0eRM0.net
米国の日本庭園専門誌による足立美術館の11年連続日本一って
ノンノの好きな男ランキングでの15年連続1位みたい
一体どんな選定基準なのかな

67 :列島縦断名無しさん:2014/02/23(日) 23:21:46.17 ID:cmvwv9x40.net
アングロサクソン系は際立った刈込が好み
戦闘的挑戦的な絵画が好み
日本芸術の朦朧とした湿潤さは理解できない
哀しいのは、さすがアメリカが選んだNo1の庭だとブログで誉める人
自分の眼で見た感想を書け

68 :列島縦断名無しさん:2014/02/23(日) 23:25:04.95 ID:Vn7dHfNd0.net
国宝の概念を伝え、日本美術の素晴らしさを日本人に説いたフェノロサは何国人でしたか?

69 :列島縦断名無しさん:2014/02/24(月) 20:40:51.90 ID:1Iv5dODs0.net
フェノロサは、狩野芳崖などの勢いがある画風が好きだった
当時の日本画壇は着物の柄のような絵が良しとされていた時代
フェノロサ来日以来、絵画のみならず日本刀まで各流派の創業者の勢いある芸術が見直された
また正確な日本地図を作ろうと測量を始めたが、伊能忠敬の地図の正確さに驚いて中止
そのフェノロサも日本庭園までは見尽くしてない

70 :列島縦断名無しさん:2014/02/26(水) 01:19:55.65 ID:9aqUZ05Y0.net
ノンノは噓臭くなって企画そのものを止めるしかなかったんだろな
ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングもどう始末を付けるのかね
でも権威有る雑誌でなく同人誌みたいなものなら他人の目は気にならないか
だから限られた雑誌製作者が知っている限られた庭だけがずっとランクイン

71 :列島縦断名無しさん:2014/02/27(木) 22:39:14.42 ID:y6ncW2rd0.net
多賀町の胡宮神社行って来たが社務所(?)の屋根が傷んでいる
とかで周囲にロープが張られ入れなかった
ちょい荒れ気味の庭で凄くそそられたんだが残念…
それにしても屋根が傷んでいるどころか後5年もしたら建物が
倒壊しそうなんだけど大丈夫かな

72 :列島縦断名無しさん:2014/02/27(木) 23:38:48.91 ID:y6ncW2rd0.net
その後に行った多賀大社は冬季閉園で2月一杯迄見られないとの事
正規料金払うから遠くからチラ見でも良いからと掛け合うも
庭は奥書院の向こうで書院自体に入れないのでと丁寧に断られた
こんな経験初めてと半泣きで糸切り餅食べて帰ったよ

73 :列島縦断名無しさん:2014/02/28(金) 23:55:58.01 ID:pKOVmlFy0.net
このランキング違和感有るわ
ホテル・旅館の庭がやたら多いのは何故
http://gardenrankings.com/

74 :列島縦断名無しさん:2014/03/02(日) 22:13:59.54 ID:8sOIVI1K0.net
足立さん的にも連続1位には正直困惑だろな
落ちるしか無いし何となくいい加減なランキングと思われ始めているし
1位から5位とかの間を上がったり下がったりするのが無難だね

75 :列島縦断名無しさん:2014/03/03(月) 00:25:31.79 ID:rSSiNRr80.net
長浜の慶雲館に行ってきた
植治作だけど自分的には今一つだった
しかし盆梅展はどうしても猪木が思い浮かぶわ

76 :列島縦断名無しさん:2014/03/03(月) 00:32:07.66 ID:iWrhH2L90.net
>>67-69
フェノロサの好みは分からないけど、欧米人には理解できないって決めつけはおかしいよ。

77 :列島縦断名無しさん:2014/03/03(月) 21:10:02.23 ID:fK7P95MM0.net
>>76
日本人とアングロサクソン系の好みの違いですよ
狩猟民族は挑戦的なのを好みます

78 :列島縦断名無しさん:2014/03/04(火) 22:40:55.14 ID:HPiFxUTF0.net
鳥居坂の国際文化会館(元の岩崎小弥太邸)も植治だね

79 :列島縦断名無しさん:2014/03/05(水) 23:13:25.69 ID:LSrzhQPT0.net
10年位前に奈良の慈光院に行ったが借景がただただ無残だった
今はもっとひどいんだろな

80 :列島縦断名無しさん:2014/03/06(木) 23:21:46.17 ID:SBwYjX000.net
慈光院は刈込の向こうに中途半端な民家が一杯有るのが絶望的にきつい
何か初めて蓮コラを見た時の様な感覚だった
浜離宮や小石川後楽園の奥に高層ビルやドームが見えるとかの方がまだ
ましだと思ったわ

81 :列島縦断名無しさん:2014/03/15(土) 23:19:51.89 ID:ynOc89CS0.net
金沢城の一角で江戸時代の庭園を復元中。
北陸新幹線開通までには完成するとのこと。

82 :列島縦断名無しさん:2014/03/20(木) 20:19:35.18 ID:shOsVHOL0.net
竜安寺のように塀で借景を遮るという手段もあるが
あの当時は、民家が見えても風情があっただろう
庭園の観光パンフレットには、一律に○○山を借景としてと書いてあるのが多いが
良い庭園は、○○山の借景など無くても良い

83 :列島縦断名無しさん:2014/03/20(木) 21:09:40.10 ID:bEA8QBiY0.net
円通寺は別に比叡山が見えなくてもいいな。

84 :列島縦断名無しさん:2014/03/21(金) 13:32:40.82 ID:lwUqtcC20.net
紅葉あるときはまだしも、それ以外のときは叡山ないと単調じゃね。
まぁ、叡山みえる個所だけ覗き穴みたいになってて他樹木で覆ってるから
そう言いたくなるのもわかる。

85 :列島縦断名無しさん:2014/03/22(土) 09:36:56.21 ID:almPHvk60.net
わざと「借景に○○山」と付け足したようなパンフレットもある
庭園の見どころから、その山を見るには無理な庭

86 :列島縦断名無しさん:2014/03/23(日) 11:29:06.08 ID:HhFg/svk0.net
鹿児島の磯庭園なんか、桜島が借景だぞ

87 :列島縦断名無しさん:2014/03/23(日) 14:26:59.47 ID:zcC7E4Mn0.net
東京の庭園は高層ビルが借景だ
その醜さが売りとなっている

小石川植物園なんかいい風景だぞ、汚い住宅の2階部分が壁の上から丸見えで(^^)

88 :列島縦断名無しさん:2014/03/25(火) 13:33:10.40 ID:NNeWi3Jhi.net
ドーム借景は個人的には嫌いではない

89 :列島縦断名無しさん:2014/03/25(火) 20:59:43.45 ID:J8/Pob9V0.net
小石川植物園と小石川後楽園の区別ができない、とかね

90 :列島縦断名無しさん:2014/03/26(水) 22:03:09.73 ID:62Qc8Cf60.net
後楽園の園名は小石川も岡山のも「先憂後楽」から取ったのに
前者は江戸、後者は明治からの呼び名
普通は後から付けた方が区別の為に頭に地名とか入れるのに
何故小石川が付けなくちゃいけないのかな

91 :列島縦断名無しさん:2014/03/30(日) 13:06:23.86 ID:vQYv+EG70.net
でも皇居の周囲に高層ビルおっ立てるってどういう神経してるんだろう
戦前だったら不敬罪で投獄されないか?

92 :列島縦断名無しさん:2014/03/30(日) 13:59:17.86 ID:vIxeB3//0.net
戦後何十年経ってるんだよw

93 :列島縦断名無しさん:2014/04/01(火) 09:37:10.66 ID:xZOlZYve0.net
明治時代の写真見るといいよな見渡す限り瓦屋根で、もちろん二階屋止まり。
今見たく高さも形も色も不揃いな高層ビルがぼつぼつと生えてる風景と違って。
汐見坂とか富士見坂とかの命名も納得出来るわ

94 :列島縦断名無しさん:2014/05/05(月) 23:13:32.46 ID:TsN0aCZn0.net
占春園はかつて江戸三名園の一つとされたらしいけど
今の姿からはとても想像が付かないわ
もうちょっと整備して見栄え良くしてくれないかな

95 :列島縦断名無しさん:2014/05/09(金) 00:11:49.31 ID:Jvu5rsCa0.net
戸山荘も池の跡が窪んでいるとか案外地形が残っているし
いつかアパートや早稲田を全撤去して復元して欲しいな

96 :列島縦断名無しさん:2014/05/09(金) 01:51:48.20 ID:tn5OcIRZ0.net
当地には旧家の良い庭があるが、庭を11月に剪定するから
ツツジの花芽も剪定されて、いいツツジだが花が貧相でもったいない

97 :列島縦断名無しさん:2014/05/10(土) 01:03:27.30 ID:4/BeEeGc0.net
戸山荘は早大敷地で龍門の瀧の遺構が発掘されたのに結局撤去
されたのが残念
一部石材を使って徳川園で再現させたけど所詮はイミテーション

98 :列島縦断名無しさん:2014/05/11(日) 20:30:23.85 ID:XrHK8Gqt0.net
京都に行ってきたけど、やっぱり京都は特別だな。
庭のレベルが高いわ。

実光院
http://i.imgur.com/KHuEKP6.jpg

圓光寺
http://i.imgur.com/tc10L17.jpg

高桐院
http://i.imgur.com/t3aPwwT.jpg

99 :列島縦断名無しさん:2014/05/11(日) 21:49:38.47 ID:68LFdp940.net
そらそーだ
アメリカ人に、日本の庭ベスト10など勝手に発表してほしくない

100 :列島縦断名無しさん:2014/05/13(火) 13:15:50.03 ID:61e6PEkX0.net
奈良の依水園に行ってみたい

101 :列島縦断名無しさん:2014/05/15(木) 09:47:07.73 ID:a6WjrnzRi.net
>>98
京都は写真映えする寺が多いね

102 :列島縦断名無しさん:2014/05/17(土) 01:51:50.91 ID:xxVUC9YE0.net
南禅院は実に結構な庭だった
但し庭の説明をテープ(?)で流すのは本当止めて欲しいわ

103 :列島縦断名無しさん:2014/05/17(土) 09:27:56.78 ID:XNiuGfPG0.net
庭園という芸術作品に、他人の説明はいらぬお節介だ
日本最高の庭園に、虎の子渡しなどという説明は止めてもらえないか

104 :列島縦断名無しさん:2014/05/18(日) 08:20:58.64 ID:kRwmUMA90.net
京東山別荘群、すべて庭園に自由に入れたらいいんだが、そうすると
マナーの悪い観光客が増えて折角の庭園がゴミだらけになるのか

105 :列島縦断名無しさん:2014/05/18(日) 20:30:30.79 ID:lBMKUm2F0.net
去年、檀家しか行かないような小さな寺の藤が新聞で紹介されたんだけどさ。
団体が勝手にやってきて、ベンチとかもないのに弁当食ったり、騒いだりで
今年は部外者お断りになちゃったよ

106 :列島縦断名無しさん:2014/05/24(土) 23:23:15.38 ID:j7ZDAVd60.net
>>105
それどこの寺や?

107 :列島縦断名無しさん:2014/05/28(水) 00:59:07.49 ID:sywW/10k0.net
名古屋城二の丸庭園はもう少し整備して欲しいな
ありゃただの荒れ庭だわ
雰囲気有る荒れ庭は嫌いじゃないけど

108 :列島縦断名無しさん:2014/05/28(水) 23:46:34.80 ID:W2hBUmhP0.net
NHKで「京都迎賓館」を今日で3度見た
あの庭を見てみたい、灯籠を引き受けた西村金造の作品なども

109 :列島縦断名無しさん:2014/06/14(土) 01:53:30.05 ID:Ppvvod720.net
名古屋なら御深井庭を復元希望
絵図も結構残っているし慶勝さん撮影の写真もそこそこ有る

110 :列島縦断名無しさん:2014/06/18(水) 00:59:51.39 ID:wXHSJcLJ0.net
南禅寺は後ろが山なのが良いね
宜しくないのが天龍寺でお堂の横迄駐車場にしている
幾ら庭が良くてもあれは雰囲気台無し

111 :列島縦断名無しさん:2014/07/10(木) 19:43:16.80 ID:qazeVYUCi.net
月の桂には敵わないな

112 :列島縦断名無しさん:2014/07/19(土) 12:53:32.00 ID:ehKJ1Fdo0.net
>>98
作られた感が強すぎて好きじゃない

113 :列島縦断名無しさん:2014/07/20(日) 11:09:42.01 ID:aRZtjngr0.net
京都(あるいは大阪)が首都になってたならこの東京にも大名庭園が数多く残っていたんだろうね
空襲被害はそれなりに有っただろうけど
日本橋に高速道路の醜さもなかったし掘割も残って水の街の景観が保てた

114 :列島縦断名無しさん:2014/08/20(水) 15:27:49.81 ID:Z6PgSg3z0.net
江戸にも大名庭園は数多くあったはずだが、
六義園が残ったのはなぜだろう?

115 :列島縦断名無しさん:2014/09/13(土) 09:21:24.08 ID:qMx7IiWW0.net
参勤交代がなければ大名庭園も屋敷もなかったのか
江戸の町民も迷惑だったろうね、あんなのが無ければもっと広々とした家で暮らせたのに

116 :列島縦断名無しさん:2014/09/13(土) 12:35:12.62 ID:rP82cljJ0.net
大名が残らず在国してたら、
江戸にカネが落ちないだろ

117 :列島縦断名無しさん:2014/09/14(日) 06:15:52.59 ID:UHq9TtUY0.net
街道も栄えないよね

118 :列島縦断名無しさん:2014/11/24(月) 22:44:50.70 ID:CDP+OEVt0.net
寺で仏像や障壁画の撮影禁止なのは解るけど
庭が駄目な所が有るのは何故かな
三宝院とか

119 :列島縦断名無しさん:2014/11/24(月) 23:31:40.95 ID:q5yCVU72O.net
三脚立てて長時間占拠する馬鹿がいるから

120 :列島縦断名無しさん:2014/11/25(火) 22:44:26.83 ID:Rv6V+YUR0.net
先週末特別公開している芳春院に行った時に撮影禁止と知らず
寺の人の真ん前で堂々と撮ってしまったが何も言われなかった
ぱっと撮って終えちゃったから大目に見て貰えたのかな

121 :列島縦断名無しさん:2014/11/26(水) 07:33:47.30 ID:IxFgo1UBO.net
連休中、楽山園に行ってみた。
冬季の閉園時間が16時で、15時30分までに入園しないと見学できない。
それを知らずに僕は15時40分に行って、チケット売り場に人がいたのでダメ元で交渉して入れてもらった。
平成以降に復原された庭で、特に見るべき物はなかったが、築山の上に茶室があって、まだ数人の客がいるのに管理人がガタガタ雨戸を閉め始めていたので急いで見に行ったら、まだ15時45分なのに「もう暗くなるんで」とぶっきらぼうに言われた。

122 :列島縦断名無しさん:2014/11/26(水) 08:37:49.80 ID:XdOkqn9X0.net
撮影禁止はまあなんとなく分かるんだが、撮影禁止の立て看板や貼り紙なんかは
なるべく無くしてもらいたいよ、外人観光客はなんと思ってるだろうね
たとえば教会にそんな貼り紙や犬のおしっこ禁止だとかの看板が立ってたら

123 :列島縦断名無しさん:2014/11/28(金) 22:49:27.29 ID:z4skhh+U0.net
大徳寺孤篷庵が10月に特別公開していたのを今になって知った
特別公開は11月以降にするものと勝手に思い込み全くチェックして
いなかったわ…

124 :列島縦断名無しさん:2014/11/29(土) 09:43:21.45 ID:9mapxUWn0.net
きのう名主の滝行ったんだが、藥師門(裏門?)にさっそく「自転車進入禁止」
「犬の散?禁止」の立て看板が。せっかく苔むした石があったり風情があるミニ庭園のある門だったのに
で、表門に行くと自転車がビッシリで。自転車置場くらい敷地内につくれよと。立派な門が台無し、紅葉が綺麗だったのにね

125 :列島縦断名無しさん:2014/11/29(土) 09:45:11.54 ID:9mapxUWn0.net
歩の字がどういうわけか?に変換されてる、2チャンは日本語変換になに使ってるんだ?

126 :列島縦断名無しさん:2015/01/05(月) 00:25:08.48 ID:aQ07N6nI0.net
1日・2日NHKの南禅寺界隈の庭の番組は對龍山荘ばかりだった
碧雲荘や有芳園もやって欲しかったな

127 :列島縦断名無しさん:2015/01/06(火) 14:47:57.40 ID:ln7OZYVB0.net
南禅寺の水路も完成した当時は、不釣り合いな建造物だったろうな

128 :列島縦断名無しさん:2015/01/31(土) 23:18:43.07 ID:VXwhE5nP0.net
誰がどんな選考基準で投票しているのか細かく説明して欲しいね
http://gardenrankings.com/
【2014年日本庭園ランキング】上位15位
1位 足立美術館(島根県)
2位  桂離宮(京都府)
3位  山本亭(東京都)
4位  御所西 京都平安ホテル(京都府)
5位  養浩館庭園(福井県)
6位  依水園(奈良県)
7位  無鄰菴(京都府)
8位 佳翠園皆美(島根県)
9位  栗林公園(香川県)
10位 庭園の宿 石亭(広島県)
11位 皆美館(島根県)
12位 大濠公園(福岡県)
13位 玉堂美術館(東京都)
14位 二条城 二の丸庭園(京都府)
15位 頼久寺(岡山県)
16位 松田屋旅館(山口県)
17位 白河院(京都府)
18位 武家屋敷跡・野村家(石川県)
19位 湯の助の宿 長楽園(島根県)
20位 詩仙堂(京都府)

129 :列島縦断名無しさん:2015/02/03(火) 00:14:53.35 ID:MUOLdb9X0.net
龍安寺とか外国人が好きそうなイメージだけど
「世界各国の専門家」の評価は低いのかね

130 :列島縦断名無しさん:2015/02/03(火) 11:29:22.15 ID:Sl/jhENH0.net
海外の評価は写真ベースでなされるのが多いから回遊式は不利ってのはよく聞くな

131 :列島縦断名無しさん:2015/02/03(火) 23:13:19.33 ID:ONo4tPko0.net
発行部数の少ない無名出版社が勝手に順位を決めているだけで、知識は無い

132 :列島縦断名無しさん:2015/02/05(木) 11:48:30.13 ID:sOXUbRN10.net
金沢の兼六園行ってきた。あの広さで、完璧に手入れがされてることに驚嘆。残念ながら雪景色は見れなかったけど、
松の一本1本に雪吊がかけられて、樹への愛情が感じられた。
開園直後だったので清々しい気分で歩けたけど、新幹線開通したらどうなるか、ちょっと心配。

133 :列島縦断名無しさん:2015/02/05(木) 13:24:44.02 ID:4elHEoce0.net
日本庭園はどこも維持費が大変らしいね
京都東山の日本庭園群(別荘)なんかもどうなるか

134 :列島縦断名無しさん:2015/02/05(木) 20:58:50.70 ID:OsQqDWRd0.net
>>133
固定資産税もかかり、時代時代で所有者が変遷する
今は、宗教団体が所有する傾向にある

135 :列島縦断名無しさん:2015/02/11(水) 14:38:46.10 ID:lx68TfjP0.net
期待せずに行った渉成園が思いの外良かった

136 :列島縦断名無しさん:2015/02/11(水) 16:02:23.50 ID:CN+fUJK30.net
池の外に貧乏そうなビルが見えるのが残念だよな。

137 :列島縦断名無しさん:2015/02/13(金) 01:11:34.48 ID:Dul8LIJ40.net
その点 浜離宮は立派なビルが見えるね

138 :列島縦断名無しさん:2015/02/13(金) 14:19:30.76 ID:0quVYdCv0.net
>>128
足立美術館が1位という時点でもーね
あんなん何処が良いんだか・・・価値観はそれぞれだが

139 :列島縦断名無しさん:2015/02/14(土) 00:52:37.96 ID:l+e4wByh0.net
12位って大濠公園そのもの? それとも大濠公園に
有る有料の日本庭園の事?

140 :列島縦断名無しさん:2015/02/14(土) 09:35:42.35 ID:cL5skw3I0.net
アングロサクソン系の好みは、イギリス庭園のように見てはっきりとわかる物
気に入られるように日本庭園を改造したら、目も当てられなくなる

141 :列島縦断名無しさん:2015/02/17(火) 23:45:02.99 ID:k5xmykAO0.net
ミスワールドとかの日本代表には「?」と思う事が多いけど
あれって欧米人の美的感覚を意識して選んでいるのかな
このランキングもそんな感じ?

142 :列島縦断名無しさん:2015/02/18(水) 08:22:24.61 ID:AqN3/i5N0.net
欧米というより、アメリカのSukiya Living Magazineとかいうところが勝手にしおさいプロジェクトを作ってるだけっぽいからなあ
プロジェクト参加者の二人以上が点をつけたところみたいだし、足立美術館は特定少数が高得点をつけて、他に誰もいかないから点が下がらないんではないか
外国評価ならTripadvisorとかの方が余程客観性あるように思う

143 :列島縦断名無しさん:2015/02/18(水) 23:09:29.15 ID:21KDOpby0.net
選考システムの胡散臭さがよりクローズアップされたら
足立も傷を負うな
足立はそろそろランキングをPR材料に使わず一切無視
する方向に舵を切った方が良いと思う

144 :列島縦断名無しさん:2015/02/19(木) 21:30:07.77 ID:yd+C69ha0.net
好みは人それぞれだし怪しげな団体が訳の判らない選考を
しても全然OK
わざわざそんなものを引張り出してきて自己の権威付けに
利用する方があれなんじゃないかな

145 :列島縦断名無しさん:2015/02/28(土) 23:25:51.08 ID:d3sHSVD50.net
金沢城玉泉院丸庭園が3月7日に開園だね
短冊積石垣が気になるわ

146 :列島縦断名無しさん:2015/03/10(火) 23:26:56.00 ID:XofVfNhn0.net
円覚寺に久し振りに行ったら妙香池が江戸初期の姿に復元
したらしく木々が取り払われたりして随分すっきりしていた

147 :列島縦断名無しさん:2015/03/12(木) 23:41:21.88 ID:R3iAl9Qd0.net
鎌倉だと瑞泉寺が良いなあ
夢窓疎石だっけ

148 :列島縦断名無しさん:2015/03/16(月) 00:05:38.56 ID:YfZ4o0K30.net
龍安寺の石庭の謎が気になる部 作者は誰か 意図は? 虎の子渡しの庭 七五三の庭 心の字を配石…
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1426417825/

149 :列島縦断名無しさん:2015/03/17(火) 08:46:52.38 ID:DWvyrJzF0.net
小堀遠州の名前がどこでも出てくる、どこまで信用したらいいもんか

150 :列島縦断名無しさん:2015/03/17(火) 19:22:38.51 ID:FR+8dxhZ0.net
夢窓疎石、雪舟、小堀遠州はどれも信用できない。

151 :列島縦断名無しさん:2015/03/18(水) 00:58:10.22 ID:PeLWA+6q0.net
大徳寺、公開している塔頭は少ないけれど、
人が少なめなので、ぼーっと庭を眺めに年1回くらい行く。

152 :列島縦断名無しさん:2015/03/18(水) 01:03:28.76 ID:2Z1x7kNs0.net
雪舟が庭園をつくったという信用できる資料は無い
遠州は、若い頃は元気のいい官僚で
備中の鉄と和紙を増産させ、せっせと江戸へ運んで幕府の点数を稼いだ
庭園など作庭する余裕は無いはず
幕府の作事奉行となってから建築と作庭を始めたが、有能な棟梁と庭師がいたらしい
夢窓疎石は、まったくわからん

153 :列島縦断名無しさん:2015/03/28(土) 00:45:50.64 ID:kB1f3Hcg0.net
小川治兵衛作と伝わっている庭にも怪しいのが結構有るよね

154 :列島縦断名無しさん:2015/03/28(土) 11:20:56.25 ID:gSjAh3sV0.net
小川治兵衛作、小さな庭は下手なようだが
怪しい贋作だろうか(ブラックに近いグレー)

155 :列島縦断名無しさん:2015/04/02(木) 23:28:55.69 ID:N+c8lafZ0.net
しおさいランキング23/50行ったことあったわ
ホテルやレストランが多いのは賄賂渡してるのかな?って勘繰りたくなる

156 :列島縦断名無しさん:2015/04/20(月) 22:38:39.19 ID:NS0rkF620.net
養翠園に行って来た
前の時はぱっとしない庭と思ったけど久し振り行ったらなかなか良いな
惜しむらくは交通が不便な所で自分も奮発して紀三井寺駅からタクシー
使ったわ

157 :列島縦断名無しさん:2015/04/22(水) 23:48:55.48 ID:8+9Mcjhd0.net
>>156
近くにある温山荘園もなかなか良いよ

158 :列島縦断名無しさん:2015/05/05(火) 22:50:30.79 ID:kzZPoOUg0.net
養翠園って西湖堤が有るね
他って小石川後楽園・芝離宮以外で有るのかな

159 :列島縦断名無しさん:2015/05/07(木) 19:08:10.42 ID:JwbpmN3o0.net
縮景園

160 :列島縦断名無しさん:2015/05/13(水) 23:55:24.67 ID:z47W/Spr0.net
日本三名園に偕楽園が入る謎

161 :列島縦断名無しさん:2015/05/14(木) 09:09:56.66 ID:rr0oEtAB0.net
それより優れた栗林公園

162 :列島縦断名無しさん:2015/05/14(木) 19:56:41.82 ID:cfhai5pf0.net
確かに栗林公園は栗林園に改名して三名園に入れる価値あり

163 :列島縦断名無しさん:2015/05/18(月) 23:12:08.87 ID:c8e4rCS50.net
昨日の日曜美術館は重森三玲だったけどミュージシャンや
作家が好き勝手に庭を批評してばかりで今一だった
でも三玲ちゃんの喋っている映像は初めて見たわ

164 :列島縦断名無しさん:2015/05/31(日) 07:26:23.98 ID:M4KBoDuX0.net
今まで見た庭園の中では
管理されてるって意味では桂離宮
自然と融合してるって意味では西芳寺
が素晴らしく良かった
九州なら太宰府の光明禅寺がいい
愛知でオススメある?

165 :列島縦断名無しさん:2015/05/31(日) 07:59:09.16 ID:01u12nDA0.net
無い

166 :列島縦断名無しさん:2015/05/31(日) 08:26:51.10 ID:/IYgYKo40.net
>>164
愛知はない
浜松のりょうたんじがいいよ

167 :列島縦断名無しさん:2015/05/31(日) 09:43:42.11 ID:6oTj0eaE0.net
名古屋城二の丸庭園のさびれっぷりは凄い

168 :列島縦断名無しさん:2015/05/31(日) 13:15:11.85 ID:OoTW3y0x0.net
愛知は徳川庭園とかは?
それか新しいけど白鳥庭園とか

169 :列島縦断名無しさん:2015/06/01(月) 21:14:55.12 ID:gt0QzGi/0.net
徳川園に行ったら結婚式の写真撮るグループばかりで嫌になった

170 :列島縦断名無しさん:2015/06/02(火) 01:20:00.23 ID:eWSsypr+0.net
徳川園は俺が行った時も結婚式してたなw

171 :列島縦断名無しさん:2015/06/03(水) 21:08:15.38 ID:DBFs2IPM0.net
名古屋城の二の丸庭園はもう少し手を入れれば良いのに
本丸御殿復元の何十分の一の予算で見違えるようになるんだけどな

172 :列島縦断名無しさん:2015/06/05(金) 19:17:02.30 ID:6BnoXLDc0.net
今までの自分内トップ5
兼六園、後楽園、栗林公園、大濠公園、醍醐寺(順不同)

173 :列島縦断名無しさん:2015/06/05(金) 22:27:27.64 ID:nAGx+iiT0.net
横浜の三渓園が、一番落ち着くことが出来て好きだなあ。栗林公園は確かにすごかった。

174 :列島縦断名無しさん:2015/06/06(土) 01:36:14.80 ID:kDunf1Oi0.net
自分は栗林公園、仙洞御所、修学院離宮、兼六園、実光院がベスト5かな

彦根の玄宮園、大宰府の光明禅寺もよかった

175 :列島縦断名無しさん:2015/06/06(土) 08:22:36.16 ID:z8btz9Up0.net
三渓園は庭園というより建物博物館という感じだな。
小さな庭園なら高桐院が好きだわ。

176 :列島縦断名無しさん:2015/06/06(土) 09:22:10.80 ID:xC93i0Hv0.net
>>175
確かに。 一般的な池泉回遊式を期待して三渓園へ行くと少し面食らうかも。

小さな庭園なら曼殊院がおすすめ。

177 :列島縦断名無しさん:2015/06/06(土) 13:07:59.78 ID:kwN0VhEU0.net
そうか、三渓園は少し違うんですね。
庭園でのんびりすることが好きで、よく行くんですけど、詳しくなくて……。
庭園についてのおすすめの本とかありますか?

178 :列島縦断名無しさん:2015/06/07(日) 23:13:54.04 ID:5j22NBVf0.net
来週こそは癒されに日本庭園に行こう

179 :列島縦断名無しさん:2015/06/13(土) 19:41:23.27 ID:EbkvVOJi0.net
穴場なのが千葉県柏の葉公園内の日本庭園
駅から歩いても5〜6分だしバスも多い
結構高そうな鯉も泳いでた(カルガモはここにも居たが)
茶室で軽食も可能、曲水の宴が出来そう、深山幽谷という感じ

180 :列島縦断名無しさん:2015/06/13(土) 19:51:18.78 ID:EbkvVOJi0.net
追記10分位かかるかも?あと、規模は大名庭園や寺院庭園ではないので
あまり期待はしないで。つくばエクスプレスは運賃がバカ高であきれた

181 :列島縦断名無しさん:2015/06/14(日) 18:55:19.23 ID:bYBYgh7k0.net
二条城に行って来たけど綺麗に整備され過ぎてあんまり楽しめなかった。

182 :列島縦断名無しさん:2015/06/24(水) 22:42:37.30 ID:tEsZMNcG0.net
足立美術館も整備され過ぎていて息が詰まるわ

183 :列島縦断名無しさん:2015/06/25(木) 05:24:51.41 ID:uWp1e3bI0.net
足立美術館は横山大観の絵画の世界を具現化した
庭だからね。絵画として切り取った庭が完璧であるように
見える部分は相当な手入れをしている
ここに行った翌日、由志園に行ったが手入れの差が・・・
でもここは回遊できるし伸び伸びとした感じはあって
これはこれでよかった

184 :列島縦断名無しさん:2015/06/25(木) 06:08:16.33 ID:XVBdpnKf0.net
見るものに自由を与えない西洋的視点が好きじゃないんだよな
好きな角度から自分の視点を額縁として鑑賞したいのに

185 :列島縦断名無しさん:2015/06/28(日) 20:46:39.85 ID:UV/vQKqJ0.net
>>184
アングロサクソン系の外人は、ああいう洋風庭園並みの形と手入れを好む

186 :列島縦断名無しさん:2015/06/28(日) 22:00:19.41 ID:xbFXxi5E0.net
しおさい庭園の鯉に心なしか品があった

187 :列島縦断名無しさん:2015/06/28(日) 22:00:18.10 ID:Z0pzozz20.net
西洋庭園はザ管理って感じだもんな
トピアリーなんか見ると実感する
だから足立美術館が西洋人評価されるのも分かる

188 :列島縦断名無しさん:2015/07/06(月) 01:27:30.00 ID:RaUKlmuE0.net
『縁側から庭へ―フランスからの京都回顧録』エマニュエル・マレスは必読

189 :列島縦断名無しさん:2015/07/11(土) 02:05:31.52 ID:NWHbZ72g0.net
全国どこでもいいんで夏でもおすすめの庭園ってありますか?

190 :列島縦断名無しさん:2015/07/11(土) 08:19:19.03 ID:WfJsLuEf0.net
兼六園

191 :列島縦断名無しさん:2015/07/11(土) 13:53:56.34 ID:SpFYsFua0.net
小石川後楽園

192 :列島縦断名無しさん:2015/07/22(水) 19:48:56.58 ID:ZZHLcvcU0.net
今夏は東北旅行中に日本庭園も回る予定で、
盛美園、藤田記念庭園、有備館、酒井氏庭園、南湖公園、御薬園を検討中。
それぞれの評価および他にも検討すべきところはあるかな?

193 :列島縦断名無しさん:2015/07/23(木) 15:58:04.32 ID:hriJ9tId0.net
大阪出発して淡路島、高松、松山、しまなみ海道経由の尾道終着を計画しているんだがオススメの庭園を教えてくれまいか?

194 :列島縦断名無しさん:2015/07/23(木) 16:11:31.58 ID:8e7Q2UzQ0.net
>>192
旧池田氏庭園
如斯亭
斎藤氏庭園
總光寺

195 :列島縦断名無しさん:2015/07/23(木) 17:14:30.02 ID:h5n6gWbW0.net
>>193
定番だけど高松の栗林公園かな

196 :列島縦断名無しさん:2015/07/23(木) 20:17:43.09 ID:FuWffaiK0.net
>>194
ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

>>193
その経路なら栗林公園、中津万象園かな。
少し寄り道しても構わないなら天赦園と縮景園も。

197 :列島縦断名無しさん:2015/07/24(金) 07:47:34.97 ID:0tKEatn00.net
>>192
山形の玉川寺は見るべきと思います

198 :列島縦断名無しさん:2015/07/25(土) 00:23:53.54 ID:8TN9TuHc0.net
>>197
教えていただきありがとうございます。

199 :列島縦断名無しさん:2015/07/26(日) 20:28:57.39 ID:17JJA0O+0.net
銀閣寺の庭は突出していた
あと、あまり知られてないと思うし、
小さい庭だけと、岡山市の吉備神社の
庭が凄い綺麗だった
めちゃくちゃ写真映えしたわ

200 :列島縦断名無しさん:2015/07/27(月) 17:25:24.50 ID:1dC/0eP+0.net
銀閣寺とか観光客だらけで落ち着いて庭を見られないイメージ

201 :列島縦断名無しさん:2015/07/27(月) 23:44:16.92 ID:ikHIpxKd0.net
観光シーズンでなければそうでもないよ

202 :列島縦断名無しさん:2015/07/28(火) 11:55:15.04 ID:76h//h2O0.net
200訂正
×吉備神社
○吉備津神社

ちなみに吉備津彦神社の庭園もまあまあ

203 :列島縦断名無しさん:2015/07/29(水) 19:10:14.93 ID:wtSkEHqh0.net
>>195
>>196

規制で書けませんでした。
遅くなりましたが、どうもありがとうございました。
淡路島の万勝寺庭園へ行きました。http://i.imgur.com/UnsLDwT.jpg

204 :列島縦断名無しさん:2015/08/03(月) 22:17:30.40 ID:fOa7782b0.net
東京って思いのほかたくさんの日本庭園があるよね
皇居東御苑庭園と浜離宮庭園しか行ってないけど、
いずれ新宿御苑や他の庭園も行ってみたいな

205 :列島縦断名無しさん:2015/08/03(月) 22:19:07.02 ID:J7/XsM+50.net
最初に六義園行けよw

206 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 06:29:11.95 ID:8v9tW/2T0.net
明治維新で、都が京都に帰っていれば、お江戸の大名庭園はほとんど残っていたかもしれない。
そうすると、東京は世界的な庭園都市として、まるごと世界遺産だったに違いない。

207 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 06:52:34.24 ID:foqadVAR0.net
庭園は西高東低って感じ
極端に言えば京都だけで他の全県に匹敵するかも

208 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 07:16:16.64 ID:8v9tW/2T0.net
京都を10とすれば、滋賀が5、東京が3、静岡が1、見たいな感じ?

209 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 07:39:08.63 ID:VdH5yInJ0.net
静岡ってそんなにあるのか。起雲閣と楽寿園しか行ったことない

210 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 08:28:52.49 ID:foqadVAR0.net
庭園不毛地帯は圧倒的に北関東だと思う

211 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 10:01:58.16 ID:BNfnrrGH0.net
静岡は龍潭寺や柴屋寺など良い庭園があるよ

212 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 21:47:03.42 ID:NxCksHYL0.net
>>208
東京3に対して滋賀5、京都10もあったっけ?
京都はお寺と御所や離宮関係がメインでしょ?
東京の3倍以上もあったっけ?
そして滋賀、地元だけど東京以上にあったかな・・

213 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 22:02:47.52 ID:foqadVAR0.net
異論はあると思うけど(見所のある)日本庭園の数トップ10は以下の県だと思う

京都>滋賀>東京>岡山=福岡>新潟=石川=福井=兵庫=和歌山

214 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 23:11:39.54 ID:NxCksHYL0.net
滋賀ってたとえばどこ?
とりあえず玄宮園くらいしか思い浮かばん

215 :列島縦断名無しさん:2015/08/04(火) 23:31:25.68 ID:foqadVAR0.net
>>214
慶雲館、居初氏庭園、西明寺、青岸寺、円満院などなど
延暦寺界隈にもたくさんある

216 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 06:51:32.78 ID:i877oQ3z0.net
>>214
湖東三山はどれもすばらしいし、坂本も宝庫。
他にも、思い浮かぶだけでも三井寺、大池寺、龍潭寺、福田寺、興聖寺などなど。
質でも京都に次ぐレベル。

ちなみに、東京は庭園面積はかなりだが、「庭園力」なんて数値があれば、全部合わせても桂離宮+修学院とイイブン?

217 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 12:07:16.94 ID:Y5BxsU5/0.net
>>216
関東の人間にとっては滋賀の庭園と聞いてもピンとこないだろうが、居初氏庭園最高だったなぁ。
琵琶湖を借景とした風景がまたクオリティを引き立たせる。ま、庭に出るとトンビが襲ってくるのには閉口したが(笑)


湖東三山は百済寺が良かったな。でも三井寺って庭園あったっけ?
坂本に関しては竹林院が休みだったのが残念。

福田寺は聞いたことないからググってみるわ。


ま、正直、庭園の華やかさは京都が断トツなんだが、関東に住む者としては関西の充実ぶりがうらやましい。

東京の庭園って大名庭園位でしょ。あまり好きじゃないしねぇ。
でも大名庭園と言えば玄宮園は最高だったな。

園内にあるお茶屋からみる庭園はなんともぜいたくだった。

218 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 14:57:46.71 ID:2PhGeBdU0.net
東京の庭園もそこそこ巡ったけど、隣に高層ビルってのが、何ともな。

あと、掃除や剪定なんかも、関西に比べると甘いのが目立つなあ。

あと、滋賀のお庭なら教林坊がいいです。是非見てください。

219 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 16:12:18.23 ID:nVM1o7CN0.net
まわりに高層ビルという意味では、縮景園のホームページはものすごく気を遣ってるな
完全に諦めてる浜離宮あたりとは違う

220 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 19:52:12.25 ID:jHm0Jt430.net
関西では奈良の日本庭園が他の文化財や世界遺産の数と比べて少ない

221 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 21:12:11.01 ID:i877oQ3z0.net
まあ、奈良は仏像、京都は庭園と、相場は決まってるからな

222 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 21:26:34.19 ID:HRbMwiAW0.net
奈良は中国から渡った当初ような建物・伽藍の寺が多いからかね
ちまちました庭とか彫刻なんかないあのおおらかさが好きだわw

223 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 21:38:07.69 ID:AkwvKtkJ0.net
静岡ってどこかある?
龍潭寺と三島の楽寿園は行ったことあるんだけど、ほかにおすすめあれば教えてください
龍潭寺はきれいに管理されていたし、なかなかよかった
楽寿園はもういいやって感じでした

224 :列島縦断名無しさん:2015/08/05(水) 22:00:43.12 ID:3qDiRYUn0.net
>>215-216
サンクス
滋賀県の庭園は寺院系がメインか
慶雲館や湖東三山は行ったけど、そこまで印象残ってないわ
地元滋賀なんだけど、庭園は東京が上だと思うけどな・・・
まあ、そんなに庭園に詳しいわけでもないけどね

225 :列島縦断名無しさん:2015/08/06(木) 07:08:10.87 ID:u3L5FeXx0.net
>>223
行ったことあるのは本興寺、摩訶耶寺、大福寺、方広寺、満光寺、医王寺、清見寺、龍華寺、柴屋寺、誓願寺かな。
なかなか楽しめるよ。

226 :列島縦断名無しさん:2015/08/06(木) 07:26:20.14 ID:6zV94U4R0.net
ここの人達だと宮内庁管轄の5つ及び南禅寺界隈別荘15を全て制覇してる人もいたりするんだろうか

227 :列島縦断名無しさん:2015/08/06(木) 22:18:49.75 ID:HZChOIa60.net
庭園というと、皇室関係、寺院関係、大名関係、公園関係が思い浮かぶけど、
203が挙げているような神社関係のはどう?いいところある?

228 :列島縦断名無しさん:2015/08/07(金) 06:13:16.09 ID:o0pPpwfb0.net
神社系ねえ
パッと言われると、平安神宮、滋賀の多賀大社あたりかな
神苑ってあんまり面白くないんだよね
そうそう、金比羅は神社系か

229 :列島縦断名無しさん:2015/08/07(金) 07:27:44.11 ID:Qm8hSKC70.net
神泉苑って神社系?
汚いし、全然良くないけど

230 :列島縦断名無しさん:2015/08/07(金) 22:39:40.45 ID:zwXGQ8xa0.net
平安神宮の庭は文句なしの庭だね
多賀大社は何度か行ってるけど、そんなにいい庭だったかな

231 :列島縦断名無しさん:2015/08/08(土) 07:21:06.58 ID:GwHukKul0.net
>>230
まあ多賀は、地味だけど神社らしからぬ、庭っぽい庭だな。
他に思い浮かばないし。
金比羅も、だいたい同じようなものだったな。
あと、「庭」じゃないけど、糺の森は庭といってもいいのかも。

232 :列島縦断名無しさん:2015/08/08(土) 11:58:35.77 ID:3O31d5Bh0.net
城南宮の庭もなかなかいいよ。
手入れが行き届いてる。
最近はしだれ梅が人気あるね。

233 :列島縦断名無しさん:2015/08/08(土) 21:52:59.67 ID:zCY+Da1X0.net
>>231
多賀大社の庭って参集殿と本殿をつなぐ廊下?から見えるあの庭のことかな?
比較的地味というかまさに庭っぽい庭だね

城南宮も金毘羅も行ったことあるけど庭は覚えてないわ(見てないかも)
神泉苑は悪くないけどまあ普通って感じかな
糺の森は良いね
あと、神社系じゃないけど円山公園の庭もまあまあ

234 :列島縦断名無しさん:2015/08/09(日) 23:09:24.22 ID:frkw2aK70.net
ベタだけど、二条城の庭園
あとは兼六園

235 :列島縦断名無しさん:2015/08/10(月) 21:24:18.15 ID:XJWzOu3G0.net
新宿御苑&京都御苑

236 :列島縦断名無しさん:2015/08/11(火) 01:13:53.99 ID:Kl7AcvUV0.net
松尾大社の庭も神社系のくくりになるのだろうか

237 :列島縦断名無しさん:2015/08/12(水) 21:46:27.91 ID:VlbO3vcT0.net
吉備津神社の庭を見た人って他にいないの?

238 :列島縦断名無しさん:2015/08/12(水) 22:40:21.34 ID:04urSnN80.net
これまでここに挙がった庭園の八割方は行ったことあるけど吉備津神社はないなぁ。

239 :列島縦断名無しさん:2015/08/12(水) 23:13:37.86 ID:AwOPC7pz0.net
吉備津神社には行ったことあるけど国宝の本殿と回廊しか見なかったわ。

240 :列島縦断名無しさん:2015/08/13(木) 00:07:22.40 ID:EnnQ1rDv0.net
吉備津神社の庭ってどこのことを言ってるんだろう?

241 :列島縦断名無しさん:2015/08/16(日) 00:39:30.78 ID:31RtZAtn0.net
>>240
本殿の横のほうにある鯉のいる池がある庭

242 :列島縦断名無しさん:2015/08/28(金) 03:04:24.36 ID:2JpEV5ww0.net
規模にもよると思うけど日本庭園を自作する費用っていくら位なんだろうか
定年したら自分好みの庭園を設計から手がけてみたい

243 :列島縦断名無しさん:2015/08/28(金) 19:46:02.19 ID:k/usw97M0.net
池泉式か枯山水かで大きく変わりそう

244 :列島縦断名無しさん:2015/08/28(金) 19:48:54.41 ID:du4vk6c70.net
池泉式というか大名庭園作れる金あったらなあ

245 :列島縦断名無しさん:2015/08/29(土) 08:05:45.35 ID:O9zhGLps0.net
とりあえず、お盆に白砂を敷いて構想を練ろう。

246 :列島縦断名無しさん:2015/08/29(土) 08:48:40.71 ID:/YYgdpmD0.net
大名庭園は見所が散漫になるから好きじゃない。
高桐院ぐらいがいい。

247 :列島縦断名無しさん:2015/08/29(土) 09:38:12.53 ID:/URZovv20.net
個人的には佳水園の築山、無鄰庵の滝を再現したい

248 :列島縦断名無しさん:2015/08/29(土) 23:40:10.89 ID:t3g/1aQ20.net
実際に行ったことはなくて、映像で見ただけなんだけど
天龍寺の庭はかなりのものだと思う

249 :列島縦断名無しさん:2015/08/30(日) 01:27:38.06 ID:aKn0z7bk0.net
天龍寺は紅葉の季節に行くと特に良いよ

250 :列島縦断名無しさん:2015/08/31(月) 22:21:07.98 ID:BAKtFWOW0.net
寺院の庭としてはかなり大きい方だよね

251 :列島縦断名無しさん:2015/09/01(火) 07:33:07.49 ID:p85psJ7n0.net
桂離宮に住みたい

252 :列島縦断名無しさん:2015/09/01(火) 12:29:59.98 ID:6CTKR2wh0.net
高桐院の檀家になりたい

253 :列島縦断名無しさん:2015/09/02(水) 22:36:30.01 ID:zXJhQAX20.net
根津美術館の庭園は素晴らしいと思う

254 :列島縦断名無しさん:2015/09/03(木) 23:47:36.95 ID:ZAwrD81z0.net
高桐院をすごく推してる人がいるな
未見だから今度行ってみよう

255 :列島縦断名無しさん:2015/09/04(金) 06:31:10.33 ID:Hb569xld0.net
>>254
この時期でしたら、蚊がたくさんいるので虫除けスプレー持っていった方がいいですよ

256 :列島縦断名無しさん:2015/09/05(土) 06:36:36.20 ID:3xvZd9s/0.net
どうせ行くなら11月の20日過ぎ

257 :列島縦断名無しさん:2015/09/05(土) 09:20:40.85 ID:nezRdMiu0.net
>>254
高桐院、龍源院、瑞峰院、大仙院はセットで

258 :列島縦断名無しさん:2015/09/07(月) 13:24:06.63 ID:9TpGgzb90.net
時期を選んで芳春院、黄梅院をセットにできれば、なお良い。
真珠庵も見れれば完璧。
弧篷庵もとくれば、一生に何回もチャンスはない。

259 :列島縦断名無しさん:2015/09/07(月) 22:37:34.15 ID:iYp9tsdV0.net
聚光院も忘れないで・・・・・・・ っても
ここもめったに見られないんだよなあ

260 :列島縦断名無しさん:2015/09/07(月) 22:49:24.65 ID:iYp9tsdV0.net
じつは聚光院はまだ入ったことないんだ(真珠庵も)

いくつ入ったことあるかなあと思って調べてみたら
龍源院 三玄院 興臨院 黄梅院 瑞峰院
大仙院 芳春院 高桐院 孤蓬庵の9つだった

261 :列島縦断名無しさん:2015/09/08(火) 06:43:53.37 ID:QHmsIJJe0.net
三玄院は、前から見たいと思ってたんだけど、どうすれば入れるのかな?

262 :列島縦断名無しさん:2015/09/08(火) 09:19:51.29 ID:au9PQ1c50.net
やはりと言うか、総見院の名前は出ないな

263 :列島縦断名無しさん:2015/09/08(火) 12:55:58.50 ID:8VbNlWn/0.net
大阪堺の大仙公園に昨日行ってきたけど、公園内の日本庭園は月曜休日だったわ
まあ古墳がメインだったんで仕方なかったんだけどね、残念

264 :列島縦断名無しさん:2015/09/26(土) 00:39:31.46 ID:EqTElT5g0.net
栗林公園の評判はどう?
子供の頃に行って印象強かったんだけど

265 :列島縦断名無しさん:2015/09/26(土) 07:52:29.33 ID:3BnLkUFN0.net
評価高いよ。
後楽園より上。

266 :列島縦断名無しさん:2015/09/26(土) 09:44:47.46 ID:ZVBGojhI0.net
後楽園、偕楽園よりずっと良いよ

267 :列島縦断名無しさん:2015/09/26(土) 22:46:08.20 ID:4X9DGJ1m0.net
栗林公園を悪くいう声はあまり聞かないと思う

268 :列島縦断名無しさん:2015/09/26(土) 22:46:47.80 ID:4X9DGJ1m0.net
大仙公園もいいね

269 :列島縦断名無しさん:2015/09/26(土) 23:39:35.17 ID:EqTElT5g0.net
>>268
大仙公園の日本庭園ってどんな感じですか?

270 :列島縦断名無しさん:2015/09/28(月) 23:59:54.27 ID:oszl+q+l0.net
日本三園の兼六園、後楽園は行ったけど、偕楽園は行けてない
場所的に行くのがやや難しい
死ぬまでには行きたいけど・・

271 :列島縦断名無しさん:2015/09/29(火) 00:00:56.88 ID:ttjak4xs0.net
ちなみに日本三園のそれぞれの評価ってどんな感じですか?
もちろん人によるし、絶対的な評価なんてできないことはわかった上で

272 :列島縦断名無しさん:2015/09/29(火) 00:09:45.43 ID:+NXvx/+90.net
取りあえず偕楽園はいらんw

273 :列島縦断名無しさん:2015/09/29(火) 02:06:36.12 ID:jdaitqez0.net
>>269
石の配置や水周りがとても良かった


このスレの流れを見ると兼六園、後楽園、栗林公園が三名園かな?

274 :列島縦断名無しさん:2015/09/29(火) 07:06:29.81 ID:g0zZWQ5v0.net
後楽園もいらん

修学院>仙洞御所>栗林公園>兼六園=桂離宮>>>後楽園>>>偕楽園>>>足立美術館

275 :列島縦断名無しさん:2015/09/29(火) 15:34:09.65 ID:OqiQa6SL0.net
栗林公園はもっと変化に富んだほうが良いと思う
足立美術館 は、論外

276 :列島縦断名無しさん:2015/09/30(水) 22:53:22.98 ID:onCakEwT0.net
>>274
皇室関連の庭園つえーー

277 :列島縦断名無しさん:2015/10/01(木) 00:38:10.28 ID:okq4jsoc0.net
>>276
個人の趣味もあると思う
自分なんかは宮内庁管轄の庭園より京都の寺社の庭園の方が好き

278 :列島縦断名無しさん:2015/10/01(木) 15:07:49.76 ID:l1Gmi+Oo0.net
滋賀県も結構いい庭園があって、京都みたいに拝観料が高くないのでおすすめ。興正寺の足利義晴の庭園が小さいがいいよ

279 :列島縦断名無しさん:2015/10/02(金) 13:24:57.90 ID:gb0q2S/e0.net
仙洞御所や桂離宮、修学院離宮はよく出るけど、京都御所の庭はあまり出ないね

280 :列島縦断名無しさん:2015/10/02(金) 21:05:58.27 ID:MJtPucvD0.net
京都御所の御池庭も御内庭もあんまり面白くないんだよね。
池があって橋が架かってて奥に木が密集してるだけ。
修学院離宮の雄大さ、桂離宮や仙洞御所の緻密さのどちらも
なくてただ雑な感じがする。

281 :列島縦断名無しさん:2015/10/03(土) 22:04:59.68 ID:rhUaV7ii0.net
銀閣寺の庭はなんというか手入れの凄さが際立っていた
去年の秋に行ったんだけど、本当にきれいだった

282 :列島縦断名無しさん:2015/10/06(火) 21:20:03.00 ID:mmmQyH520.net
>>280
庭を一方から見るだけで、庭の中を歩けないのが痛いかも

283 :列島縦断名無しさん:2015/10/06(火) 21:35:22.95 ID:eD1SpJkS0.net
西芳寺は逆にもう少し手入れすべき

284 :列島縦断名無しさん:2015/10/06(火) 21:36:56.23 ID:gGbtR6Tp0.net
せっかくの枯山水が台無しなんだよな

285 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 07:49:03.00 ID:0Lucd9wG0.net
西芳寺の「手入れ」は、微妙だと思うぞ。
「手入れ」がいいかげんだから苔寺になったわけで、苔寺であり続けるための「手入れ」とは、なんなんだろうね。

286 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 08:13:16.86 ID:XgD/ZgMT0.net
手入れがされていない、という言い方が適切なのかわからんが
確かに西芳寺はどこか汚いように見えてしまうんだよな
それを風情と解釈できないオレが未熟なだけなのかもしれんが

287 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 08:21:20.19 ID:R4Qm++d20.net
手を入れ過ぎると人工的になってしまうってのもあるぜ。

288 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 08:29:00.11 ID:EFU6MGwr0.net
苔は邪魔。作庭者の意図にはない

289 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 10:07:45.73 ID:GjDTHaZv0.net
あの苔がいいんじゃないの?
苔をなくしたら苔無寺になる。

290 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 11:20:20.44 ID:Lf0nTyK40.net
TVで東福寺の庭園映してたが、あれっていかにも近現代人が作った庭という感じだな、
現代彫刻にも似た、一種未来的な、(自分としては受け入れられない感じ)

291 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 12:13:52.32 ID:fGsmvhHY0.net
>>290
重森三玲の庭園はあんな感じが多いよ。

292 :列島縦断名無しさん:2015/10/08(木) 22:00:14.80 ID:ebKy3bNb0.net
東福寺の小さいほうの市松模様は好きだけど他の庭は嫌い。
中根金作のほうが良いわ。

293 :列島縦断名無しさん:2015/10/09(金) 12:27:38.76 ID:Mg7UKyPi0.net
西芳寺は、庭を手入れするゼニがなくて放置していたら苔が生えまくった、とか
その風情が良い、とかいわれて液肥で苔を育てている

294 :列島縦断名無しさん:2015/10/12(月) 08:12:37.23 ID:aQoXe8Mq0.net
重森三玲の孫の千氏と友達なんやで

295 :列島縦断名無しさん:2015/10/12(月) 19:58:49.53 ID:PB2XWOZS0.net
千氏の選ぶ日本庭園ベスト10とか聞いてみてもらいたいな

296 :列島縦断名無しさん:2015/10/12(月) 20:36:44.99 ID:iE8opF150.net
桂離宮が1ではないかな

297 :列島縦断名無しさん:2015/10/13(火) 23:05:10.25 ID:rQHPYu5z0.net
桂離宮の人気相変わらず高いね
一度は行ってみたいけど、シフト制の仕事なんで難しいんだよね

298 :列島縦断名無しさん:2015/10/14(水) 11:29:13.33 ID:UkEk+UYG0.net
東山別荘群は(すべて公開されていれば)見応えあるだろうな
庭園といえばほとんどが神社仏閣に付属するものしかない(大名庭園もあるが)

299 :列島縦断名無しさん:2015/10/19(月) 23:50:19.27 ID:skjevDL/0.net
そろそろ紅葉シーズンにどこ行くか考えるシーズンだな

300 :列島縦断名無しさん:2015/10/20(火) 00:34:49.64 ID:QKouThWZ0.net
おそっ

301 :列島縦断名無しさん:2015/10/22(木) 23:09:00.78 ID:D6pSu4UZ0.net
来週の平日、仙洞御所の観覧に行けることになった
評価高いし、楽しみ〜

302 :列島縦断名無しさん:2015/10/22(木) 23:12:16.01 ID:qPmE/ptv0.net
仙洞御所はいいよ。
狭いからすぐ終わっちゃうけど。

303 :列島縦断名無しさん:2015/10/23(金) 23:02:14.94 ID:NTffX0Yb0.net
>>302
狭いっていうのはどの庭園と比べてですか?
仙洞御所の庭園は結構でかいと思ってたんですが・・

304 :列島縦断名無しさん:2015/10/24(土) 06:16:19.34 ID:sMKlKOSyO.net
>>175
言いたいことは分かるが、関東在住者が近場で手っ取り早く一番京都の雰囲気を感じられるのは三溪園だと思う。

305 :列島縦断名無しさん:2015/10/29(木) 22:41:22.08 ID:eQg384uv0.net
仙洞御所行ってきました
さすがにここでも評価高いだけあって、きれいで見事な庭でした
その後、仁和寺にも行ったのですが、ここもきれいな庭でした

306 :列島縦断名無しさん:2015/11/06(金) 22:18:47.47 ID:sNq+cE1R0.net
>>210
茨城は偕楽園、西山荘
栃木は日光田母沢御用邸、塩原御用邸、輪王寺逍遥園、二荒町神社神苑
群馬は楽山園

307 :列島縦断名無しさん:2015/12/21(月) 23:25:18.29 ID:Fpy+kGYi.net
仙洞御所、修学院桂離宮、京都御所、時間の関係で二つしか行けないのですが、どの二つがオススメですか?

308 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 00:06:25.34 ID:dIlpCZch.net
308です。
何度も申し訳ないのですが、この三つは申し込みをしないとお庭を見ることが出来ないという認識で正しいのでしょうか?

309 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 04:45:40.79 ID:WBbHRR5i.net
2ヶ所しか行ってないので(3ヶ所でなく)4ヶ所から選んで勧める訳にいかないが、
条件面から考えると、
・京都御所と仙洞御所はいずれも京都御苑内で市街中心にある
・修学院離宮と桂離宮はお互いかなり離れてる
(ごく大雑把にいえば修学院は市街の北東はずれ、桂離宮は市街の南西はずれ)
従って移動の時間を考えると御所2ヶ所が無理ないが、
逆に市中心から外れる両離宮はわざわざ出向かなくてはならないので、移動と見学の時間に問題なく予約も取れるなら、チャンスとして行く価値あるかも。
京都御所は春秋に一般公開するので、離宮2ヶ所が時間的に難しければ、予約ないと見れない仙洞御所と離宮1ヶ所に絞るとか。


通常は事前申込必要で、
・郵便で申込
・ネットで 申込
・京都御苑内の宮内庁事務所で申込
のいずれか。
どうしても予約とれなきゃ、京都着き次第ダメ元で翌日以降のキャンセルとかないか宮内庁事務所に行って調べてもらう手もある。
そうなると申込取れたとこに行く形に。
(なので何処に成っても良いよう事前に各所の交通手段と移動時間を下調べしておくと現地で慌てないで済む)
詳しくは宮内庁のサイトで。

310 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 05:01:58.68 ID:WBbHRR5i.net
参考まで、どちらも予約が必要で市街はずれ西方にある、
桂離宮を午前中、苔寺(西芳寺)を午後に回ってみてよかったですよ。
ただし折角いくなら緑のきれいな時季がオススメですが。
(特に苔寺)

311 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 08:59:03.84 ID:dIlpCZch.net
>>309
ご丁寧にありがとうございます。
予約はやはり必要なのですね。そうなると時間が指定されるので、難しいですね……
苔寺もいいですね。ただ冬に行くので、苔の状態が心配ですが、候補に入れさせていただきます。

312 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 20:54:35.76 ID:rIdbeUGX.net
その4つなら
桂離宮>修学院離宮>仙洞御所>>>京都御所だな。
ただし冬なら桂離宮と京都御所にする。

313 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 21:16:04.59 ID:dIlpCZch.net
>>312
冬の京都御所がお勧めということですか? それとも他の庭園が、冬は魅力がないということですか?

314 :列島縦断名無しさん:2015/12/22(火) 21:27:38.16 ID:b8/zT2lC.net
苔寺も予約必須だった気がする

315 :列島縦断名無しさん:2015/12/23(水) 02:37:12.90 ID:9ndmy/zY.net
>>314
その通りです。
だから>>310に「どちらも予約が必要で」と書きました。

316 :列島縦断名無しさん:2015/12/23(水) 03:11:11.29 ID:9ndmy/zY.net
>>313
横レスだけど、御殿(建物)中心に見る京都御所が最も季節感に左右されないかも。

桂離宮は冬と夏いくと、やっぱり夏の方が良かった。
でもこれは冬も見てたから言えるんだよね。
寺社の庭園とは異なる凛とした趣があって、冬でも充分楽しめると思うよ。
庭の造形や御殿の配置みるだけでも美しいからねぇ。

修学院は敷地が山の斜面なので、冬は一段と寒そうなイメージw

317 :列島縦断名無しさん:2015/12/23(水) 07:08:53.01 ID:FFb9EjTj.net
桂離宮って楓とかあったっけ?

318 :列島縦断名無しさん:2015/12/23(水) 13:01:18.91 ID:Qcwr35ag.net
>>765
>予選会で一定基準のタイムをクリアしたら優勝しなくても全国へ出れるようになったらいいな
男子2時間10分、女子1時間10分などさ。

予選会が全県、直線下り坂、追い風の日にレースするように成ったら、こまるだろ
第一、大会参加校数が不明なら、準備不可能だよ

319 :列島縦断名無しさん:2015/12/23(水) 15:12:53.96 ID:fe5TafnN.net
>>316
そうなんですか!
庭園だけでなく、建物も魅力的なんですね! ありがとうございます。

他の場所なども考え、京都御所と修学院桂離宮に行くことにしました。
みなさん、ありがとうございました!

320 :列島縦断名無しさん:2015/12/23(水) 18:00:10.54 ID:yJYPxqdx.net
雪が降ってるなら金閣寺に行くね

321 :列島縦断名無しさん:2016/01/02(土) 18:42:53.54 ID:pNhvILRr.net
山口の常栄寺と益田の医光寺・萬福寺に行ってきた。
常栄寺は伸び伸びしてて良かった。
医光寺行きのバスが1時間に4本ぐらいあって安心して乗ったら、
帰りのバスは全然無くて駅まで3キロぐらい歩いて帰る羽目に。
庭はまぁまぁ。
萬福寺は行かなくても良かったかな。

322 :列島縦断名無しさん:2016/01/03(日) 00:22:58.02 ID:gyLjyKD+.net
今年は必ず桂離宮に行こう
平日が休みなのはこういう時強みになる

323 :列島縦断名無しさん:2016/01/06(水) 19:29:18.35 ID:Wj7qInN8.net
>>321
全部、雪舟の作庭だそうですが共通点がありましたか?

324 :列島縦断名無しさん:2016/01/06(水) 19:49:46.75 ID:uohxR6cY.net
岩組の雰囲気が似ているような。
奥行のある常栄寺と裏山を立体的に使った医光寺と比べると
萬福寺は面白くないかな。
ただ萬福寺は本堂が重要文化財なのでそういう意味では価値が
あったが。

325 :列島縦断名無しさん:2016/02/29(月) 20:53:47.48 ID:nNPFxkSi.net
はじめてかくよ
漫画の「へうげもの」で興味を持って
徳島城と和歌山城、粉河寺に行ってきたよ
名古屋城も行った。二ノ丸庭園は、大きな枯れ池があって、工事中なのか意図したものなのかはわからないけど、楽しみました。

でまあ、いろいろいくべいと、小石川後楽園とかも行ったりして、
とりあえず都内の大名系から攻めるかと
思ってるよ

これは抑えておくべき、と言う参考書なんかあったりするかしら?
小野健吉あたりを図書館で探しつつ
まぁ、ちょっとお値段がねぇ。
必携してくたびれさせるには、ちょっとお高い

326 :列島縦断名無しさん:2016/03/01(火) 00:03:52.03 ID:1DVTv1r6.net
都内なら取りあえず六義園

327 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 08:55:34.09 ID:PW9tlHMg.net
六義園行って来ました
正面からの景色は素晴らしいのだが
裏手に廻るとなかなか粗が目立って。

池水の廻りも、良いところに松が植わっていて、島が中々見えないという。

庭園の周りの木が高いので、喧騒が聞こえてこないのが良かった
あと、木橋の縁に草が植わっていて、土橋の趣、これも面白く
滝も良かった、二つ、ちょっと離れすぎかとも思ったけど。

328 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 08:59:15.67 ID:PW9tlHMg.net
併せて、旧古河邸にも。
池が汚くて。浄水工事?してるみたいで
大滝の水量が少なくて残念。

枯滝は中々のサイズ感で
付近にあった老松の幹にウロが出来ているのが趣深く。

ただ、一番はバラ園下の石垣かな
前に配した庭の苔の具合も良く
石には雨、と言うから、今度また雨の日に行かなければと、思いましたまる

329 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 12:12:18.23 ID:VnE/v37Z.net
大徳寺龍源院の龍吟庭が苔系では好きなのだが、
通路しか解放されていなく、ゆっくり座って鑑賞できないのが残念。

330 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 13:02:50.86 ID:+hquJo+P.net
>>328
6月に行くとバラも咲いていていいよ。

331 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 19:24:14.69 ID:cp/WLpNB.net
日本三大名園の偕楽園行って来ました!
色とりどりの梅が満開で最高でした。
鉄道で分断されているのが残念なので、あの辺りを地下鉄化して欲しいですね

332 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 19:27:27.50 ID:6Wsi4JBg.net
今までよかった庭園といえば、兼六園と足立美術館

333 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 19:38:14.13 ID:Pm2/8/So.net
兼六園はカキツバタの時期は好きだが、
その他の時期はあまり印象にない。

334 :列島縦断名無しさん:2016/03/06(日) 19:42:21.23 ID:Pm2/8/So.net
私も昨日偕楽園に行ってきました。
7分咲きというところ。でもきれいでしたね。
好文亭の襖絵の梅も素晴らしかった。

335 :列島縦断名無しさん:2016/03/07(月) 11:27:51.41 ID:AHHaTBFR.net
4月に関空からレンタカーで一泊二日の奈良観光の予定だけど
奈良行く途中だよね
粉河は西国でまわったけど根来寺はいつか行きたかった
往路か復路に当麻寺方面とそれぞれ検討している

関空から成田2000円、レンタカー一泊二日9000円
に飛びついてしまった

336 :列島縦断名無しさん:2016/03/14(月) 12:05:15.76 ID:TL/K1a1N.net
http://m.imgur.com/T9DzDF4.jpg
称名寺行って来ました

浄土式というのは、花とか光でバーっと来ると、また違うんでしょう。
反り橋から照り返しの夕陽を見たりとかも。

池の回りもただ土で止まっているくらいで、名物と言えるような石も池中に一つばかり。
物足りなくはあるけれども、工夫、というのが出てくるのはまた後代の話で、
むしろシンプルな方が、圧倒的にもなる予感。

初めての浄土式が冬の朝の曇天で。
そういう認識が出来て良かった。

337 :列島縦断名無しさん:2016/03/14(月) 19:50:12.74 ID:wztCYlP1.net
http://m.imgur.com/sKOu0jb.jpg
続いて三渓園。

いきなりこれで。なんか凄い。
でも、歩き回ってみると、建物なんかは特に面白くもなく
さりとて池の周りが凝っている訳でもない

ただ、滝は数も多いし、それぞれ違う表情があって面白く
また、三重の搭の近辺には、使わずに棄てられた名石っぽいのが転がされていて面白かった
崩れたままの、煉瓦の倉庫跡とかね、面白がるのは私がスネ者だからでしょうか

あと猫。
人に慣れすぎていて、余りに動かないから
十分ぐらい撫でて擦ってしていました。

338 :列島縦断名無しさん:2016/03/14(月) 20:02:05.82 ID:wztCYlP1.net
最後は横浜球場裏の
http://m.imgur.com/oIOtAMU.jpg

石を積んどきゃ日本庭園なのか、と言う気がちょっとする
有名な作庭家の手によるものなら、私の目が悪いんだけど

いっそ、向こうの中華街の門を活かして欲しかったな
お釈迦様だって中華料理好きかもしんないじゃん

あと、池の中で蛙が大量に死んでいました
何故か

339 :列島縦断名無しさん:2016/03/14(月) 20:43:22.33 ID:pScntEpW.net
>>337
三渓園というと思い出すこの一枚。
http://goo.gl/O6yQCl

340 :列島縦断名無しさん:2016/03/20(日) 12:43:24.46 ID:QL2iQCSYa
枯山水なら建仁寺の庭園が好きだな
次が大徳寺高桐院だな
南禅寺の金地院も好きだな

341 :列島縦断名無しさん:2016/03/20(日) 16:31:12.14 ID:ILrDy+jJ.net
http://m.imgur.com/qYw5Y6u.jpg
今週は殿ヶ谷戸庭園

滝はそんなに工夫もなく、まぁ三段か四段で、豪快ではあったものの
流れをまたぐ飛び石が、そのままなのも良い
年間何人ぐらい池に落ちるのだろう

日本庭園には珍しく?和金の池があって
これは豪勢で良かった。紅葉亭の脇に、絶えぬ赤。美し。

写真はそこから二郎弁天池の眺望
来週からは超混みそう。このタイミングで良かったかな。

342 :列島縦断名無しさん:2016/03/27(日) 15:48:25.92 ID:NYUilYt2.net
http://imgur.com/JvNES6w.jpg
浜離宮庭園

石やら水に、大して面白いものはなかったけど
ここは木ですな
池の周りではないんだが、なんと言うか木に力がある
木が自信を持っているとでも言おうかと言う佇まい

奥にある鴨場から、池に向かって進んで行くと
ぱっと開けて、ビルの高さが、また空を高く見せてくれて
(写真はその場所じゃないのだが

桜は来週かな
今日は菜の花畑が全力で咲いてて、素晴らしかった
観光客が異常に多いけど、さもありなんな素晴らしさ

343 :列島縦断名無しさん:2016/03/27(日) 21:56:16.05 ID:MOSXwgSI.net
http://tenkomo.com/blog-entry-5046.html
こんなのあったぞ
【画像】車中泊で各地の日本庭園行ってきたから勝手にBEST25を挙げてく

344 :列島縦断名無しさん:2016/03/28(月) 12:16:24.90 ID:Mlh0PawE.net
参考になるな、崖の庭園は是非いきたい

しかし、このレビュアーの人は小さいのが好みなのかね
作事の細かいの細かいのに、寄ってる気がする
ま、それこそ好みだが

あと、ミレー好き過ぎるな
実はサウザンドブルーの投稿なんじゃねぇ?

345 :列島縦断名無しさん:2016/03/28(月) 16:41:16.66 ID:fgcloaH7.net
小堀遠州作庭の庭には、「伝・小堀遠州」とした方が納得できるのがある
作庭がダイナミックでなく、江戸中期以降の小さくまとめた石組みや植栽の特徴

346 :列島縦断名無しさん:2016/04/03(日) 19:20:59.65 ID:Leh3Ohff.net
http://i.imgur.com/vJEjOqm.jpg
清澄庭園。

この時期に桜がほぼ植わっていないと言うストイックさが素敵。
メインじゃ無い方の館から、松原を経て、池面、富士山と。あまりそうは見えないかな、腕前か。

枯山水の方は、踏み石で歩くリズムを制御して
ちょっとの視線の移動で、新たな仕掛けが出てくる工夫。楽しい。ま、見るべきものは余りないけど。

石が凄い。
石に名札貼ってるのはダサいと思う、むしろ、池周辺の無銘の石こそ超豪華で。
遠くから見て豪放、近くで見てまた繊細
どんだけ金掛かったんだろう、大岩崎すげぇなぁ、ってなりました。

347 :列島縦断名無しさん:2016/04/07(木) 17:09:38.58 ID:3YWcX2Fh.net
友達にランキング連続1位の凄い庭園がある!と勧められたのを
思い出して足立美術館行ったけど心底がっかりしたわ
価値観は人それぞれでいいけど5万坪に及ぶ6つの庭園とか
ドヤ顔で謳いつつ散策する事も出来ない庭なんか
個人的には無価値(龍安寺みたいなのは別として)

あのランキングとやらを審査してる外国人たちが来る時も
一切立ち入らせていないのかな?
なんかVIPが来た時だけ揉み手で庭を歩かせてる光景が
容易に浮かんできちゃうんですが

348 :列島縦断名無しさん:2016/04/07(木) 17:16:05.79 ID:aU4PAbU3.net
>>347
全く同感。
絵を眺めてる気分だった。

349 :列島縦断名無しさん:2016/04/07(木) 22:22:14.33 ID:KoDnJv88.net
日本文化を理解しないアメリカ人が作ったランキングだからなw

350 :列島縦断名無しさん:2016/04/09(土) 19:25:09.76 ID:EnyfxprS.net
http://imgur.com/yjq3fFA.jpg
青梅にある玉堂美術館に、枯山水を見に行きました。意識して、見ようとして、行ったのは初めて。

そもそも
美術館の前が多摩川のつくる渓谷で。
巨石もあれば滝もあり、山水の庭のある意味が、よく分からないな、と言う状況。

とまれ
壁の向こうの桜を使っちゃったりなんかして
秋には脇の楓が赤くなっちゃうんだろうな、とか
いろいろ想像できて良かった
砂と石、波紋なんかは、多分普通なんだろうな
他所でも同じものを相当見そうだ

そう、そして、ここの脇の遊歩道が素敵でした
巨岩マニアには堪らんだろうな
季節柄、桜の散るのが河面に映えて
それはそれは素敵だった。ラッキーだった。

351 :列島縦断名無しさん:2016/04/17(日) 21:26:08.70 ID:x9F5H6S+.net
http://imgur.com/YiZ6XDm.jpg
世田谷、五島美術館庭園。
鉄道王が、開発時に取り除かれた灯籠石仏の類いを、国分寺崖線の高低に散らしたと言う
謂わば、想いと願いの庭園。

ま、置いてあるだけで、いっかなセンスも感じられず。
かといって、キッチュな感じもなく。
周囲に人物は居なかったものかと、心配になった。

上の方は茶室があって賑かなんだけど。
下っていく道は、通る人も少なく、苔がふく始末。
むしろ、この先10年20年、放置してもらえると、と思った。

352 :列島縦断名無しさん:2016/04/17(日) 21:35:28.02 ID:x9F5H6S+.net
http://imgur.com/gWF1mVE.jpg
一方、二子玉川公園内帰真園

最新式の日本庭園なのかな
池はあくまで浅く、むしろ底の白石が光を反して、浄土式な趣
滝と流れ、大きすぎる、ジャブジャブ言うております
大名庭園なら、施工者の首が飛ぶね

一方に枯山水な石組があって。
種類は赤いどっかの石、なんだけど
配置に工夫があって、遠くに滝を見せたり
断崖のなんのと表現していたり

いろいろ楽しかったですが
家族連ればかりで、まぁ落ち着かない。
それだけ。

353 :列島縦断名無しさん:2016/04/17(日) 22:06:08.73 ID:6LBPWpkt.net
>>352
ここは、結構自由に中で遊べる庭園なので、子供が事故ったりしないように配慮して池が浅いんだと思う。
少し歩くと多摩川が見えるし、駅近で食べ物屋も多いし無料だし
これから育つ名園だと思うよ。

354 :列島縦断名無しさん:2016/04/24(日) 21:42:26.16 ID:LhYhxJVa.net
http://imgur.com/fYxbIM7.jpg
埼玉県は飯能にあります、能仁寺と言うところ
安土時代の設計だとか
関東ではここまで古いのはそうはないぞ、と。
二層式。

禅寺で本堂を廻って観るスタイルが実は初めてで。
その意味では面白かったが、
枯れ滝が植木で隠れているのは、禅の本分から幾らか離れてしまったのではないか?と。
ふと思いました。
一方で、無常ってのはこう言うことだと、言っているのかも知れないな、とか。

メインの庭には無いんだけど、巨大な方石が石垣がわりにに使ってあって
そこは見応えがありました。

355 :列島縦断名無しさん:2016/04/24(日) 21:56:08.11 ID:VC8yYVr8.net
島根の由志園が良かった。同時期に見た足立美術館よりこっちの方が良いと思うくらい。

356 :列島縦断名無しさん:2016/04/27(水) 21:13:56.50 ID:ALwHjog/.net
>>355
あれは、お節介ヤローのアメリカ人が好む庭
世界中で戦争をする国だ

357 :列島縦断名無しさん:2016/05/02(月) 19:40:10.97 ID:jigjYKgk.net
酒田の本間美術館の庭が良かった。
こんな僻地にこんな素晴らしい庭があるとは思わなかったわ。

358 :列島縦断名無しさん:2016/05/06(金) 18:48:57.83 ID:WaVfHDig.net
http://imgur.com/e3wR92K.jpg
http://imgur.com/hSjUrEs.jpg
連休中締め?でもないけど、とりまとめ。
上州小幡にあります、楽山園
右がパパで左がサル、中納言織田信雄さんの作庭とのこと。

ボンクラ次男の印象が強いけど、庭は素晴らしかった
どこから見ても名物な景の見える感じ
余計な植栽を排して、木なら借景で満足しろとばかりなところも素敵
石なんかも白と青、縞模様のものなんかを配して、楽しめたり
奥には曲水なんかもある

群馬の奥のちょっと手前。遠かったけど、行って良かった。

359 :列島縦断名無しさん:2016/05/10(火) 21:18:48.04 ID:M5ls0I3C.net
http://imgur.com/6tSVRd8.jpg
どこでしょうか

360 :列島縦断名無しさん:2016/05/10(火) 23:03:28.21 ID:yFmv2yk7.net
瑞泉寺

361 :列島縦断名無しさん:2016/05/11(水) 00:04:51.53 ID:aH5jGkVT.net
http://imgur.com/9itVegQ.jpg
お見事お見事
有名なのはこの角度でしょうね
ガチで岩壁に穴が掘ってあるだけだけど
サイズ感とかヤバかったですね

発注してこれが出てきたら、ちょっと考えて打ち首にするかもしれないけど

362 :列島縦断名無しさん:2016/05/12(木) 17:14:10.08 ID:ovCD+CPg.net
ブラタモリ見て天龍寺行きたくなった
嵐山は何度か行ってるが行ったことなかった

363 :列島縦断名無しさん:2016/05/19(木) 22:13:10.43 ID:zlVi4NH4.net
http://imgur.com/XZCAdXL.jpg
前日光、古峯(ふるみね)神社にある古峯(こほう)園、と。

ど級の山奥に庭園造ってどうするのかと思いながら。
あまり工夫も面白味もない池のぐるりを巡り
どんづまりにありました、滝

高さで言えば、殿ヶ谷戸とかにも行ったけど
水量が尋常じゃないのですね
ずんずん降っております、遊びでも水分石のあたりなんかにゃ行けないぐらい

過ぎたるものこそ面白し、と言うわけで、
一見の価値ある滝でございました
近くに華厳滝があるのに?
それは言わない約束で

364 :列島縦断名無しさん:2016/05/21(土) 16:18:04.15 ID:oKRG+kXh.net
大和3名園の慈光院、当麻寺はよかった。どちらも片桐白州作。隙のない作庭。
吉野山の庭はわからん。

365 :列島縦断名無しさん:2016/05/21(土) 20:26:11.28 ID:cP7e2xMv.net
慈光院は外に工場が見えたり鉄塔が立ってたりでガッカリしたな。

366 :列島縦断名無しさん:2016/06/15(水) 00:48:50.08 ID:fyiYnUbT.net
南湖公園

公園の池自体は、サイズの割に景色が一様になっておらず
楽しめた

併設の日本庭園と言うのが、茶亭からの眺めに特化していて
その他のところがまるでなっていないというか
まぁ、そんなところでガッカリしました

南湖自体は良かった、のに

367 :列島縦断名無しさん:2016/06/15(水) 17:47:47.71 ID:KcGSHITW.net
>>365
千円だしても行く価値ある?

368 :列島縦断名無しさん:2016/06/15(水) 19:19:51.04 ID:oPgWElca.net
>>358
俺も楽山園はセンス良いなと感じた
城下町の雰囲気もね
>>363
古峯園は秋に行ったから借景も含めて割と良かった
遠いけど

逆に都内は借景で萎える庭が多いかな
ビルとか観覧車とかw

369 :列島縦断名無しさん:2016/06/15(水) 19:26:09.15 ID:cavzGiKf.net
>>367
茶室とか好きなら良いかもしれない

370 :列島縦断名無しさん:2016/06/15(水) 21:49:13.74 ID:79gNjA8l.net
>>367
無い。
奈良は依水園と当麻寺ぐらいかな。

371 :列島縦断名無しさん:2016/07/24(日) 02:08:41.44 ID:aqSZjSqK.net
新宿御苑が大人気
主に、、、100でピカチュウのおかげだが

372 :列島縦断名無しさん:2016/08/09(火) 22:45:06.95 ID:XXzdZvWwO
建仁寺の枯山水庭園が一番すきだな
次は高桐院だな

373 :新生創一:2016/08/17(水) 23:02:31.04 ID:z5Gq6gUt.net
>>98
>京都に行ってきたけど、やっぱり京都は特別だな。
>庭のレベルが高いわ。

>実光院

確かに庭のレベルは高いですね。

ただ、メリハリが無いのが残念なところですね。


>圓光寺

自然と溶け合っている感じで、良い庭園ですね。

枯山水庭でもなく、石庭でもない、西洋の庭園なのでしょうか?

ちょっと物足りないかな?

>高桐院

渓谷の感じの力強い良い庭園です。

ただ、惜しむらくは、ガチガチに石を詰め過ぎて、
作為的な要素が目立ち、不自然な感じが残念なところです。

374 :新生創一:2016/08/18(木) 06:36:56.96 ID:8hLM+HVf.net
>>373

>高桐院

こちらの庭は、渓谷の庭ではなく、江戸時代に有名な庭師の「記念碑の庭」
とのアドバイスがあり、この場を借りて修正したいと思います。

大変失礼しました。

375 :列島縦断名無しさん:2016/08/18(木) 07:01:27.69 ID:0K/cI6dv.net
どこの庭を見てきたのか分からない感想だな。

376 :新生創一:2016/08/18(木) 16:18:38.62 ID:8hLM+HVf.net
>>375

それは、 失礼しました。

作庭で有名なのは、小堀遠州氏や夢窓疎石氏くらいしか憶えていないのです。

他の方でお気に入りの庭師の有名な方がおられましたら、教えて戴けますか?

377 :列島縦断名無しさん:2016/08/18(木) 19:25:00.02 ID:EA6vHBuz.net
小堀遠州作庭というのは、伝・小堀遠州と言われている
という程度のつまらん庭が多い(なんでも鑑定団に見てもらえ)
後世に改変されたかも知れんが

378 :列島縦断名無しさん:2016/08/18(木) 19:34:36.13 ID:6lknPIEz.net
>枯山水庭でもなく、石庭でもない、西洋の庭園なのでしょうか?
まさか池泉式を知らないとか?
スレタイにもあるのに?

379 :新生創一:2016/08/18(木) 23:33:33.22 ID:8hLM+HVf.net
>>378
>池泉式

池泉式について、「なんだろうか?」と思いました。

検索すると、枯山水と対極にあるとのことでした。

池泉式は、自然を取り込みながら水を使い、池と泉等を作庭に造るのに対して、枯山水は、自然一如のように、
水を使わず石と岩で表現するとありました。

池泉式の作庭は、中年期に多く求められますが、枯山水の作庭は、老境の壮年期に多く
求められてくるように思います。

高齢になれば、肉体の健康が損なわれやすいため、労力を厭う傾向にあるので、
手間のかからない枯山水を求めるようになると思います。

妄想の産物でした。

380 :列島縦断名無しさん:2016/08/20(土) 20:16:09.06 ID:LkyJh9t1.net
官位や道号通り越した国師号に、氏は付くものかと考えながら

枯山水についてはもう少し検索するだけでも、成り立ちその他がわかりますので。

381 :列島縦断名無しさん:2016/08/20(土) 20:50:10.87 ID:fr70gUWA.net
池泉式と枯山水って軽く覚えるにはこんな感じじゃない?

池泉式
 平安仏教浄土式庭園
池がある、鑑賞して仏教を感じ感慨深くなる

池泉回遊式 
 江戸時代の大名庭園(だから江戸と藩の都の城付近にある)
池がありお客様とみんなで散歩

枯山水
 禅宗(主として臨済宗)庭園

臨済宗寺院の庭なので京都、鎌倉にあるが後発の江戸にはないl
寺院の前庭で儀式しなくなったので余ったスペース
京都では水が貴重だったので水使わないで水を表現

382 :新生創一:2016/08/20(土) 21:20:52.35 ID:N+NYsP7v.net
龍安寺の石庭の作庭した方は、どなたかが判らない状態であることで、だれもが、
龍安寺の石庭の作庭した方の名前や経緯を私的仮説として、下記に述べてみたいと
思います。

宝徳14年頃、庄屋の若旦那であるアマチアの方が、43歳から44歳にかけて
龍安寺の石庭の作庭したとのことです。

名前を、天海道 覚一氏であるとのことです。

龍安寺のその当時、二代目住職が安念和尚という名前とのことで、「作庭したい」
と和尚にお願いしたところ、断り続けて、30回くらい断って、和尚が根負けを
してアマチアに作庭を許したとのことです。

天海道 覚一氏は、神掛かりの状態とのことで、指導神のインスピレーション通り、言われるままに
作庭し、見事な枯山水の作庭が完成し、お披露目したところ、プロの庭師達等から、枯山水の庭を観
て、作庭した天海道氏や和尚に対して、悪口雑言等の酷評で、批判の荒しで、二代目安念和尚も居た
たまれなくなり、龍安寺から夜逃げてしまい、無住職のお寺となったとのことです。

アマチアの作庭した天海道氏は、プロの庭師等の悪口雑言の酷評の解決に、作庭で有名な夢窓疎石氏
の所にまいり、龍安寺の石庭の作庭した方として、夢窓疎石氏の名前をお借りしたいとのことで、時間
は掛かりましたが、事無きを得たとのことです。

383 :新生創一:2016/08/25(木) 14:33:17.28 ID:k1AREFIb.net
>>381

池泉式と池泉回遊式と枯山水のそれぞれの要点の核心の違いが解かりやすく、
頭に入りとても勉強になりました。

384 :新生創一:2016/08/25(木) 14:40:41.82 ID:k1AREFIb.net
枯山水の庭に限らないけど、石の配置は、不等辺三角形の配列で、
大から中、中から小へと連続して、平面的に立体的に不等辺三角形
の配列が何重にもなる石の配列が良いと、知り合いのプロの庭師に
教えていただきました。

385 :列島縦断名無しさん:2016/08/27(土) 15:38:13.92 ID:7OIIgbbj.net
龍安寺の石庭の良さが全くわからない

386 :列島縦断名無しさん:2016/08/27(土) 15:38:31.39 ID:MXSal3nd.net
>>385
俺も、、

387 :新生創一:2016/09/06(火) 10:07:14.03 ID:ie9D9wIc.net
龍安寺の石庭は、色々な解釈が出て、色々な解釈を前提にすると、一層難しく
感じて、「全く分からない」等々の述べ方になると思います。

シンプルなままに、切り捨てれば、色々な解釈に惑わされることなく、真実な
る心の観方として、龍安寺の石庭の素直なシンプルな感想でも良いと思います。

学生の頃に、龍安寺の石庭の虎の子の解釈を信じて、その解釈に合わそうとし
ても、さっぱりわからない状態でした。

私の知力と美的感性が及ばなかったのが原因かも知れないと思ったものです。

388 :新生創一:2016/09/06(火) 16:13:04.46 ID:ie9D9wIc.net
>>387

龍安寺の石庭の「虎の子渡たし」の解釈でした。

失礼しました。

389 :列島縦断名無しさん:2016/10/04(火) 11:33:42.22 ID:2ATG1vLy.net
上でやたら不評だったからどんなもんかと足立美術館調べてみたら
思ってたよりかなり気持ち悪くてびっくりした
自分でも何にこんなに違和感を感じているのか分からないけどこれは無いわw
アンチ西欧風でもなんでも無いんだけどな

390 :列島縦断名無しさん:2016/10/18(火) 06:18:31.62 ID:4Dbi3GZC.net
ただぃま京都に向かうバス車内で。
明日は嵐山の方で、鹿苑寺ぐらぃまで足を伸ばせればと。

金閣はあくまで庭の一部である、と言う視座とか
とりあえずのテーマ

391 :列島縦断名無しさん:2016/11/30(水) 17:10:00.00 ID:lmID+hUt.net
日本庭園はベビーカー禁止してほしい…

392 :列島縦断名無しさん:2016/12/19(月) 21:45:32.02 ID:z0WKmFQE.net
【外国人に人気の日本の観光スポット ランキング 2016】
1位: 伏見稲荷大社 (京都府京都市)
2位: 広島平和記念資料館(原爆ドーム、広島平和記念公園) (広島県広島市)
3位: 宮島(厳島) (広島県廿日市市)
4位: 東大寺 (奈良県奈良市)
5位: サムライ剣舞シアター (京都府京都市)
6位: 新宿御苑 (東京都新宿区)
7位: 奈良公園 (奈良県奈良市)
8位: 鹿苑寺(金閣寺) (京都府京都市)
9位: アキバフクロウ (東京都千代田区)
10位: 清水寺 (京都府京都市)
11位: 箱根彫刻の森美術館 (神奈川県箱根町)
12位: 高野山 奥之院 (和歌山県高野町)
13位: 禅林寺 永観堂 (京都府京都市)
14位: 三十三間堂 (京都府京都市)
15位: 栗林公園 (香川県高松市)       ←★★★★
16位: 白谷雲水峡 (鹿児島県屋久島町)
17位: 成田山 新勝寺 (千葉県成田市)
18位: 浅草 (東京都台東区)
19位: 大本山 大聖院 (広島県廿日市市)
20位: 兼六園 (石川県金沢市)
21位: 沖縄美ら海水族館 (沖縄県本部町)
22位: 立山黒部アルペンルート (富山県立山町)
23位: 河口湖 (山梨県富士河口湖町)
24位: 弥山 (広島県廿日市市)
25位: 明治神宮 (東京都渋谷区)
26位: 京都駅ビル (京都府京都市)
27位: サムライ ミュージアム (東京都新宿区)
28位: ギア専用劇場(ART COMPLEX 1928) (京都府京都市)
29位: 城崎温泉 (兵庫県豊岡市)
30位: 白川郷合掌造り集落 (岐阜県白川村)
https://tg.tripadvisor.jp/news/ranking/inboundattraction_2016/

栗林公園凄いな

393 :列島縦断名無しさん:2016/12/23(金) 00:05:18.48 ID:VHkmBnsl.net
居酒屋の【お通し】が論争になっているが

客が同意していないのに出すなら無料にすべきでお金を取るべきではないし
メニューに記載していないのにカネを取るのは詐欺
明確に【席料】【サービス料】とメニュー等に記載すべき

それに選べない【お通し】の95%は 【廃棄処分寸前の残り物】であることが多いので
こんなものを強制的に出して 300円とか取る店は
ハッキリ言って 最低の商売をやってる詐欺師

だから【お通し】の無い店を利用しよう

394 :列島縦断名無しさん:2017/01/10(火) 21:27:30.42 ID:d3ePKZgc.net
郷里の栗林公園がこんなに高評価でびっくり。

子供の頃は動物園の事だと思っていたり、高校の何とか活動で学校からぞろぞろ歩いて行ってみんなでお弁当食べて帰ってきたり思い出多い公園です。

395 :列島縦断名無しさん:2017/02/28(火) 19:38:10.24 ID:0bGEcDIq.net
age

396 :列島縦断名無しさん:2017/03/03(金) 20:25:15.72 ID:V/NTHsbZ.net
梅が満開

397 :列島縦断名無しさん:2017/03/06(月) 17:34:48.07 ID:dnJG+LVp.net
津軽来たけど、大石武学流の大きいところは四月まで開かねぇって言うし
ねぷた館のとこれは行けたけど、吹雪でさ
見れたもんでなかった

398 :列島縦断名無しさん:2017/05/04(木) 21:17:28.77 ID:TrcZ1upm.net
大池寺の蓬莱庭園行ってきたけど、小堀遠州凄いわ。
刈込みに波打たせるって。
でも公共交通機関だとメチャメチャ不便なのがな。

399 :列島縦断名無しさん:2017/05/30(火) 23:13:13.47 ID:tTv8xCkL.net
あげ

400 :列島縦断名無しさん:2017/07/31(月) 23:13:15.36 ID:vVGrd0oV.net
age

401 :列島縦断名無しさん:2017/08/04(金) 14:17:48.52 ID:XDcPKHHL.net
小堀遠州は、古文書などではっきりと作庭記録が残っている庭以外は
伝・小堀遠州、としてほしい。つまらん小堀遠州がそこらじゅうにある

402 :列島縦断名無しさん:2017/10/03(火) 19:03:41.62 ID:6b6l6Fuc.net
age

403 :列島縦断名無しさん:2017/10/03(火) 20:10:44.42 ID:cSk184Y7.net
>>401
具体的にどこ?

404 :列島縦断名無しさん:2017/10/15(日) 06:53:13.86 ID:9uAu4FcP.net
>>403
南禅寺の虎の子渡しの庭が一番有名だろ

小堀遠州は小とはいえ大名なので住居や行動の記録が残っている。

405 :列島縦断名無しさん:2017/10/15(日) 22:43:30.85 ID:Q1vADg8s.net
当地ド田舎にもジジイ共が勝手に遠州作庭という庭がある
完全に時代が違う(150〜200年も新しい)

406 :列島縦断名無しさん:2017/10/17(火) 17:34:44.81 ID:uv9iQTy2.net
大名なので、そこらじゅうに作庭するわけがない

407 :列島縦断名無しさん:2017/10/17(火) 18:32:28.44 ID:4RaGJBRn.net
南禅寺の虎の子渡しの庭は実に単純。初心者向きというか何というか。
伝小堀遠州作というが、そんなわけない。
小堀遠州が真っ赤になって怒るだろう。
なお、この庭が造られたときに遠州は京にいない。

小方丈の障壁画は狩野探幽の作といわれるが、あれも嘘と判明している。

あと、欄間は左甚五郎が彫ったものだと言われるが、それも怪しい。
まあ腕の良い大工はみんな左甚五郎に」なってしまうんで、罪は無いが。

408 :列島縦断名無しさん:2017/10/20(金) 06:27:37.66 ID:WVop6WBi.net
小堀遠州の最高傑作は大徳寺孤篷庵の茶室「忘筌」の庭。
遠州は、あの庭で枯山水から脱却した「四季を味わう庭」を創造した。
岩と石だけの庭と異なる、木や草花に溢れる四季おりおりの風情を楽しむための庭だ。
この流れの庭でポピュラーなのが詩仙堂の庭。
岩の代わりにサツキの苅込があり、苅込の裏側は唐様庭園になっている。

戦国の世が終わり、人々が来年の桜とか秋の紅葉とか、そういったものに心を遊ばせる
余裕が出てきた。泰平の世の到来(ないしその予感)が庭にも反映しているのだ。

ただし、忘筌の庭は遠州作そのままではない。
寛永年間に庵が移転、さらにそこに移転された庭も庵の火災により壊滅。
現在のものは図面に基づいて再築されたもの。

https://ameblo.jp/rallygrass/entry-11074393919.html

409 :列島縦断名無しさん:2017/10/21(土) 07:09:33.09 ID:ZEVMfNDC.net
石の庭を見るなら、「気勢」というものが分からなくちゃならない。
気勢とは何かも知らずに石庭を見ても無意味だ。

410 :列島縦断名無しさん:2017/10/21(土) 07:44:20.97 ID:+IgkybA7.net
立ち入り禁止区域を示すロープや看板等が野暮ったい事が多く、残念だ
目的としては目立つ方が正しいけど、悪目立ちにもなってる

411 :列島縦断名無しさん:2017/10/21(土) 08:38:02.13 ID:ZEVMfNDC.net
>>410
今は中国人が苑路から庭の中まで入り込むからしょうがないんだろ。

苔の生えているところにまで入って「ハイポーズ、パチリ」ってなもんだ
奈良では鹿にヘッドロックしてるし

412 :列島縦断名無しさん:2017/10/23(月) 07:26:31.10 ID:EgqhlyKw.net
虎の子渡しの庭というのがいくつかある。

龍安寺の庭も虎の子渡しの庭といわれることがある。

枯山水の見方として、岩を虎とし、白砂を川の流れに見立てるものもあった。
そうすると岩には大小があるから、当然親の虎とか子虎というような見方になる。
それが川にいるから虎の子渡しの風景だと名付けられたのである。

宋の周密撰「癸辛雑識」の虎の子渡しの寓話とは関係ない。
虎の子渡しという言葉はそこから来たのだろうが、その寓話(子の中に一頭の豹が
いてどうのこうの、、、)は全く関係がないのだ。

頭の体操みたいな虎の子渡しの寓話を頭に浮かべ、さてこの庭はどのように
あの寓話をあらわしているのだろう? などと考えながら庭を見ている人はアホである。

413 :列島縦断名無しさん:2017/11/01(水) 22:01:53.33 ID:93LlphiP.net
庭園を見る時は、くだらぬ先入観を持つような説明はいらん

414 :列島縦断名無しさん:2017/11/02(木) 09:06:31.27 ID:z31Azcsp.net
近頃は下らない先入観で頭がいっぱいの人間しかいないよな。
この池は心の字を表しているとかいってw
それに乗っかって寺の方でも「心字池」とか名付けていたり。
とてつもなく低劣な事態だ。

例えば天龍寺庭園でも、もともとは背後の築山に苑路なんか無かったわけで。
それを知らないと回遊式の池泉庭園と勘違いしてしまう人も出てきてしまう。
正確な知識がないと庭の鑑賞もちゃんとは出来ない。
くだらぬ先入観は排除すべきだが、正確な知識は必要だ。

415 :列島縦断名無しさん:2017/11/07(火) 07:53:25.22 ID:attTifH8.net
池泉回遊式庭園の嚆矢は桂離宮庭園で、修学院離宮庭園もこれに並ぶ。
これらが作られたのは江戸初期で、江戸時代の大名庭園はほぼこれに倣って
作られたものだ。
池の回りに苑路(園路)が作られ、苑路を巡りながら景観を鑑賞する。
だから、それまでの鑑賞式庭園の視点が一カ所であったのと違って、いくつもの視点を
意識して作られている。
苑路を巡が歩くにつれ、次々に新たな景観が開けるようになっているのだ。

苑路自体も風趣に富む。あるいは木曽路のようであり、また海辺の路のようである。
鄙びた山里の小道、あるいは武蔵野の茅野原を行く路のようでもある。
庭園の中にあるのは観賞用の樹木だけではない。
大名庭園には畑や果樹園がつきものであった。
まず第一は茶畑である。これは必須といってよかった。
つぎにはニンジン畑。ニンジンといっても朝鮮人参である。他にセンブリや
ゲンノショウコなどの基本的な薬草も育てた。
大名の庭が、ときに「お薬園」と呼ばれるのはこのためである。
さらに、柿や栗などの果樹園もあった。秋になって実をとるのは大名の奥方や女中
たちで、今のリンゴ狩りなどの行楽と同じであった。
花畑もあった。日常飾る花や、万葉集や古今集にある草花が植えられていた。

六義園などは、池の周囲は閑散としていて、以前は周囲が畑や果樹園だった雰囲気が
残っている。

池を中心とする庭園であるところから、水の確保が第一の課題となった。
自然湧水があるのが一番であるが、そういう場所だけではない。
水戸藩の小石川屋敷の庭園では、上水道から水を引いた。
これは御三家だから出来たことで、例外中の例外である。
加賀藩の上屋敷では、池は水脈にあたるところまで地面を掘り下げて作られた。
今日三四郎池と呼ばれるこの池は、道の遥か下に見られる。
周囲に木が生えていなければ、工事現場のような雰囲気である。
本郷は台地なので、池を作るのも一苦労だったのである。
大名の多い赤坂あたりでは、溜め池に水を溜めておき、各大名はそこからさらに
水路で水を引いたようである。

大名屋敷の多い六本木や麻布はもともと水が豊富であった。
http://tokyoriver.exblog.jp/14062603/

海に近い場所にある屋敷では、直接海から水を引いた。
汐入り庭園では浜離宮が有名である。

416 :列島縦断名無しさん:2017/11/09(木) 08:11:32.52 ID:9wp0CB3z.net
三四郎池は安田講堂の方から行って思いっきり下まで降りるわな
今は周囲は藪で池はヘドロの沼

417 :列島縦断名無しさん:2017/11/10(金) 12:19:14.55 ID:Bod4KxL2.net
大名は池泉庭園を造るために血眼になって水を確保したわけだが、
そんなにまでして池を作ったのは火事予防の目的もあったかも知れないな。

自分の屋敷から火事を出したら、お家取りつぶしになってしまう。
池があれば最小限の鎮火用の水は確保できるわけだから。

418 :列島縦断名無しさん:2017/11/14(火) 08:09:34.60 ID:zGpaVT1r.net
当然といえば当然だが、池泉庭園の水の引き込み方は今と昔では違っていることが多い。
今は水道や井戸水などで水を確保しているが、昔は流水を確保し、いつも水を流していた池が多い。
だから水は透明で、飲めるほどであった。
今は必要時以外は水を流さず、淀んだ緑色をしているのが普通であるが、
本来そのようではなかったことは注意すべきである。

よく池に月を映して眺めるということが行われたが、濁った水と透明な水では印象は異なる。
水面に花が落ちた眺めも違ってくる。

濁った池は江戸の枯淡趣味なのかも知れない。
平安の池泉庭園などでは水はあくまでも透明であった。
そのほうが平安貴族の趣味に合っていたはずである。
月の光なども、透明な水の上にキラキラ光るようなものが好きだし、池の底に色とりどりの
落ち葉が沈んでいるような眺めも好きだった。

なお、当時の絵巻などを見ると、平安貴族の舘の庭にはやたらと鳥小屋が作られている。
舶来の珍しい鳥を飼うのが流行したらしい。鸚鵡とか孔雀とか。
もちろんその前から鶴などが普通に飼われていた。

419 :列島縦断名無しさん:2017/11/17(金) 13:55:50.52 ID:3GzgRu/C.net
池泉庭園の水の引き込み方は今と昔では違っていることが多い。

と書いたが、昔の水の引き込みは東側からのものが多い。
そして西側に流した。
これは四神相応の思想で
「東に川あれば青竜、西に大きな道あらば白虎、南に池あらば朱雀、北陥』鍋如山あらば玄武」
ということで、
舘の南に池、池の向こうは山、東側から流水で水を入れ、道路側の西に流す、ということらしい。
今はマチマチである。どこから水を引いているのかを見るのも面白い。

今日でも池を作るなら東側がよい、と言われることがある。青竜だから、ということか。

池は水が流れていることが必須で、溜まり水は気が滞留するので駄目だった。
緑色の深泥が池みたいのは江戸時代あたりからだろう。

智積院の池は千年河清を見ずという黄河の流れを表しているので最初から濁らせたと思う。
そもそもあのあたりは京瓦の産地であった。地面を掘れば粘土だった。
だから池を作るのは簡単だったし、水を引けば粘土で濁った。

420 :列島縦断名無しさん:2018/01/29(月) 20:22:22.67 ID:hpy8mMkj.net
.

421 :列島縦断名無しさん:2018/02/02(金) 07:10:31.58 ID:bi/OdzFE.net
銀閣寺(慈照寺)境内には向月台と銀沙灘と呼ばれる砂盛りがあるが、
あれは池の底の砂をさらえて置いたのが始まりとされている。

つまり、昔は銀閣寺の池も底が白砂で、水は透明であったということである。
だから金閣寺の池も同様であった。
金閣寺は釣殿があり、そこから船に乗って船遊びをした。
船は赤や黄や青に塗った唐船であった。

422 :列島縦断名無しさん:2018/02/03(土) 16:46:56.84 ID:pcDYJ7O8.net
西芳寺(苔寺)は、夢窓疎石が作庭した当座は、池の底に白砂を敷き、
池から池へと透明な水が流れていた。
池の周囲は、しだれ桜の大木が植えられ、春には水面が桜の花びらで
桃色一色に染まった。
その水面を着飾った貴族を乗せた船が通る。
この世とは思えない景観だったらしい。

天龍寺庭園も、西芳寺と同時期に夢窓疎石が造ったものだが
(石組みはもっと古い時代からあったもの)、あの池は
今の大方丈が出来たときにかなり埋め立ててしまった。
池の手前側に大きな出島の先端だけが残っている。
そこからすると、奥行きを最低でも20メートルは狭くしてしまった。
池を作ったときに、夢窓疎石も池に入って手伝ったと言われ、
そのときには池の深さは夢窓疎石の足首まであったという。
10センチか15センチぐらいである。
今は50センチ以上あるから、池は狭くなり、他方で深くなった。

あの池も、本来は白砂を敷き、流水を引いて水は透明であった。
西芳寺の庭と違って、こちらは秋の庭であり、紅葉する木々で覆われ、
秋には白い砂と清い水、手前や周辺は紅葉だらけで、さらに
庭の向こうに紅葉する金襴の嵐山が見えた。

423 :列島縦断名無しさん:2018/02/03(土) 22:21:56.03 ID:WAPxdr77.net
六義園て、側用人があんな馬鹿でかい土地を
やりたい放題だったんだな

424 :列島縦断名無しさん:2018/02/04(日) 01:01:23.78 ID:UhtYwcVO.net
ただ側用人でなく大老格だよな

425 :列島縦断名無しさん:2018/02/04(日) 09:39:30.20 ID:83WJ4KNW.net
柳沢吉保は道教とかラスプーチンみたいなもんだろ

426 :列島縦断名無しさん:2018/02/05(月) 12:44:24.81 ID:sQNgtyvk.net
西芳寺の庭に古墳があり作庭時に潰されている。 40年以上前の話

427 :列島縦断名無しさん:2018/02/07(水) 09:26:28.00 ID:qsm5s4Mj.net
六義園は2万7千坪。
新宿御苑はもっと広いぞ。10万坪以上あるらしいな
内藤家の屋敷跡。内藤家は三万石ちょっとの小大名だけどな
四谷から外は江戸と考えられていなかったから土地は大盤振る舞い
だったんだろうな。

六義園は前田家の屋敷地を削ってできたもので、前田家はその代わり
下屋敷の土地を板橋に与えられた。善福寺川の流域で、水は使い放題。
湖のような池を中心に広大な庭園を造った。
土地の広さは22万坪。だから屋敷部分をを除いても、少なくとも
兼六園の5〜6倍の広さはあったろうな。

柳沢の屋敷は御成御殿と言って、綱吉を迎えるために作られたもので、
綱吉は公式に52回も訪れている。お忍びでは何回来たか分からない。
吉保が自分の妻を綱吉の伽に出していたのは有名。
それ以外にも美女を揃えて歓待した。
綱吉も大奥があるのだからそっちへ行けばいいと思うが、大奥は素人ばかり
だし、監視役みたいなのが寝室まで伺っているのだから面白くなかったんだろう。

綱吉の遊びのための屋敷だから、庭園もそのつもりで念を入れて豪勢に作られた。
だから当時から名園として有名だったらしい。
武蔵野の平らな土地に池を掘り、掘った土を築山にして高低をつけた。
水は千川上水から引いた。池の水に上水を使うなど普通ではとても出来ないことだ。

428 :列島縦断名無しさん:2018/02/08(木) 17:15:33.59 ID:67SW7AGm.net
>>427
石神井川ね。

429 :列島縦断名無しさん:2018/02/10(土) 22:40:06.35 ID:aPmqJEcW.net
>>428
そうか
西武線とか東武線沿線の貧乏人ばっかし住んでるところは
よう知らんわw

430 :列島縦断名無しさん:2018/02/28(水) 15:28:45.81 ID:yX4De5/L.net
苔寺(西芳寺)は浄土宗の寺だったことがあり、その時の寺号が西方寺。
「西方浄土」から来ている。庭園の上段部分は穢土寺という別の寺とされた。
この寺の名は厭離穢土欣求浄土という言葉から来ている。
その後両寺とも荒廃無住となる。

夢想礎石が穢土寺の部分を含めて西方寺を再興。
寺号も西芳寺と改め、臨済宗の禅寺となった。

431 :列島縦断名無しさん:2018/02/28(水) 17:12:19.20 ID:eAqolpi4.net
苔寺と六義園の話がでているので繋がり(エピソード)をひとつ

苔寺は作庭の名手「夢窓疎石」が中興の祖となった名刹
「夢窓疎石」が作庭の名手と呼ばれ、苔寺に招かれたのは
多治見永保寺庭園や鎌倉市瑞泉寺庭園および甲州市恵林寺庭園などを
開山、作庭した実績による

かたや六義園とは甲斐出身の江戸幕府重臣「柳沢吉保」の下屋敷
この「柳沢吉保」の墓所が甲州市恵林寺にある

つまり、苔寺の中興の祖「夢窓疎石」が開山した名刹に
400年後に六義園の所有者かつ造営者である「柳沢吉保」が眠り
700年の時を経てWEBの掲示板で両者を同カテゴリーで語りあっているのである


ちなみにこの恵林寺は戦国大名「武田信玄」の菩提寺でもあり
「快川紹喜」が「織田信長」に火をかけながらも、かの名言
『安禅必ずしも山水を須ひず、心頭滅却せば火も自づと涼し』を残した地としても有名である

432 :列島縦断名無しさん:2018/02/28(水) 18:27:45.58 ID:oyJrnt4s.net
ほう、信長を焼き討ちしたのは快川和尚だったのか。

433 :列島縦断名無しさん:2018/02/28(水) 21:10:32.07 ID:yX4De5/L.net
>>432
俺は430じゃないけどさー
2ちゃん(5ちゃん)で誤字・脱字・打ち間違いを指摘する奴は馬鹿だぜ
頭の中で「火をかけられながらも」に変換すれば済む話じゃないか。

>>431
柳沢吉保の墓が恵林寺にあるとは知らなかった。
甲府城主とか息子の代での転封とか元武田一族とか、いろいろあったんだね。

434 :列島縦断名無しさん:2018/02/28(水) 21:13:26.90 ID:7Ak2Z9JJ.net
「心頭滅却・・」は森高千里の楽曲としても名高い

435 :列島縦断名無しさん:2018/03/01(木) 09:44:01.09 ID:KyiuNxIV.net
>>433
いやいや2ちゃんには無学な人間もいるから
431が信じて言いふらしてしまったら可哀そうだ

無学だと織田信長しか食いつくところがないわけで

>>432
織田信長に火をかけたのは明智光秀という説が通説で
これを本能寺の変と呼んでいるんだ(諸説あり)

WIKより
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、
家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、
やはり館に火を放って自害した。
2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、
僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、
戦国時代における最後の下剋上とも言われる。
光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」
「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。

なっ、こうやって俺みたいに自分でも確認すればいいんだ
これがインターネットの使い方な

436 :列島縦断名無しさん:2018/04/02(月) 19:53:39.20 ID:YrR8Cp5m.net
.

437 :列島縦断名無しさん:2018/05/05(土) 10:05:51.58 ID:9OfmopgH.net
虎渓山永保寺に来たけど、スゴイ良かった。
これで無料というのが有難い。

438 :列島縦断名無しさん:2018/06/16(土) 18:36:58.74 ID:pxImwNN7.net
■ネクストガールズ

33位 28,024票 谷口めぐ(AKB48 Team B)
34位 27,648票 小畑優奈(SKE48 Team KII)
35位 27,607票 江籠裕奈(SKE48 Team KII)
36位 26,710票 加藤玲奈(AKB48 Team A)
37位 26,701票 中井りか(NGT48 Team NIII)
38位 26,363票 大西桃香(AKB48 Team 8)
39位 26,202票 チャープラン(BNK48 Team BIII)
40位 25,977票 渕上舞(HKT48 Team KIV)
41位 25,458票 川本紗矢(AKB48 Team 4)
42位 25,261票 内山命(SKE48 Team KII)
43位 25,244票 西村菜那子(NGT48 研究生)
44位 25,045票 佐々木優佳里(AKB48 Team B)
45位 24,940票 末永桜花(SKE48 Team E)
46位 24,331票 熊崎晴香(SKE48 Team E)
47位 24,298票 坂口渚沙(AKB48 Team 8)
48位 24,272票 朝長美桜(HKT48 Team KIV)

■フューチャーガールズ
 
第49位 24,228票 倉野尾成美(AKB48 Team 8)
第50位 23,754票 小田彩加(HKT48 Team TII)
第51位 23,373票 竹内彩姫(SKE48 Team KII)
第52位 22,662票 込山榛香(AKB48 Team K)
第53位 22,292票 太野 彩香(NGT48 Team NIII)
第54位 22,102票 内木志(NMB48 Team N)
第55位 22,050票 松岡菜摘(HKT48 Team H)
第56位 21,910票 一色嶺奈(SKE48 Team S)
第57位 21,818票 渋谷凪咲(NMB48 Team M)
第58位 21,798票 岡部麟(AKB48 Team 8)
第59位 21,606票 鎌田菜月(SKE48 Team E)
第60位 21,519票 小田えりな(AKB48 Team 8)
第61位 21,437票 駒田京伽(HKT48 Team H)
第62位 21,416票 太田奈緒(AKB48 Team 8)
第63位 21,387票 田中菜津美(HKT48 Team H)
第64位 21,332票 中村歩加(NGT48 研究生)

■アップカミングガールズ

第65位 21,323票 後藤萌咲(AKB48 Team A)
第66位 21,196票 松岡はな(HKT48 Team TII)
第67位 21,182票 高倉萌香(NGT48 Team NIII)
第68位 21,082票 高畑結希(SKE48 Team E)
第69位 20,913票 小熊倫実(NGT48 Team NIII)
第70位 20,654票 山口真帆(NGT48 Team NIII)
第71位 20,321票 本村碧唯(HKT48 Team KIV)
第72位 20,106票 ミュージック(BNK48 Team BIII)
第73位 19,371票 秋吉優花(HKT48 Team H)
第74位 19,341票 瀧野由美子(STU48)
第75位 19,009票 久保怜音(AKB48 Team B)
第76位 18,818票 日高優月(SKE48 Team KII)
第77位 18,563票 長谷川玲奈(NGT48 Team NIII)
第78位 18,377票 岡田美紅(SKE48)
第79位 18,359票 城恵理子(NMB48 Team BII)
第80位 18,265票 青木詩織(SKE48 Team KII)

439 :列島縦断名無しさん:2018/07/13(金) 08:27:03.41 ID:cRSmcvgE.net
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪

440 :列島縦断名無しさん:2018/08/07(火) 19:39:35.94 ID:V411d7Sd.net
あげ

441 :列島縦断名無しさん:2018/09/18(火) 18:10:50.30 ID:PyY9Cii8.net
age

442 :列島縦断名無しさん:2018/09/29(土) 13:35:06.03 ID:JbE9ArXS.net
つくばい は手水鉢や湯桶石、手燭石などを合わせた茶庭に必須の施設だが、
日本庭園(茶庭ではない)に景色として設置されることもある。

日本庭園の手水鉢にはよく苔が生えていることがある。

だが本来手水鉢には苔を生やしてはならない。
手を洗ったり口を雪ぐのが目的の道具だから、苔などが生えていたら不潔である。
虫が棲みつく可能性さえある。

利休も小堀遠州も苔を生やすなと言っている。
全く使わない手水鉢なら仕方ないとも思えるが、わざわざ苔だらけにする馬鹿も
いるので要注意。

443 :列島縦断名無しさん:2018/09/30(日) 05:56:44.36 ID:yl1DC7xP.net
昔の日本人は神に詣でるときは斎戒沐浴した。
川や湧き水、あるいは海で身の穢れを落としたのである。
沖の島では今でも上陸する前に海に入って禊ぎをしなければならない。
その他、地方には祭りの前に川に入ったりする禊ぎの習慣が残っている。
この習慣は仏参りのときにも行われるようになった。

この全身を水で浄める習慣を簡略化したのが手水舎(てみずや・ちょうずや)に
おいて手水を使うやり方である。
手水舎では二月堂の登り廊の下にある建物が有名だが、そのすぐ上に
閼伽井屋(あかいや)がある。お水取りの水はここで汲まれる。
閼伽とは水のことであり、この水が涌く井戸を(若狭井という)を囲む建物に
なっている。だから閼伽井堂とも言うのである。
周囲を囲んだ建物になっているのは、かつてはここで全裸になり禊ぎを
したためとも考えられる。

利休は、この手水で身を浄めるというやり方を茶庭(路地)に持ち込んだ。
茶庭の入り口、ないし茶室の傍らに手水鉢を置き、そこで手を洗うように
したのである。手水鉢の典型はやはり東大寺二月堂のものである。
青銅製で竜が掘ってある。
https://www.fureai-cloud.jp/tie/doc/view/2138/
現在の鉢は幕末のものだが、同様のものが古くからあったと思われる。

茶庭の手水を使う場所は、左右に湯桶石や手燭石を置き、手前に前石、
手水鉢との間は水吐ないし海と呼ばれ、窪みになっている。
これらはワンセットになったものを「つくばい」(蹲踞)と呼ぶ。
つくばいは「蹲い」が語源。這い蹲る、という言葉から来た。
這い蹲って手水鉢を使う空間全体(手水鉢に役石を加えた一定の場所)
を蹲踞というのである。

444 :列島縦断名無しさん:2018/10/06(土) 07:01:46.89 ID:4toLFxMT.net
宗像・沖の島が世界遺産に登録され、注目を浴びた。
現在の神道とはあまりに違った祭祀の仕方に驚いた人も多いだろう。
沖の島は島そのものがご神体であり、一般に入島は許されない。
拝むのは海上からである。
祭祀のために島に上陸するときは島の手前で海に入り、海水で身を浄める。
このような原始神道における祭祀には水が不可欠であった。
神に詣でることと禊ぎをすることは表裏一体のことであった。
身を浄めずに神に詣でるのは有り得ないことだったのである。
だから神地とされる場所には水が必要であった。
清浄な水の湧き出るところや、水によって人間世界と隔てられたようなところには
神がいるように思うのも、古代人の自然な感覚だっただろう。

445 :列島縦断名無しさん:2018/10/08(月) 06:49:52.35 ID:QfvurGzN.net
日本人は神域に近づく前には禊ぎ(みそぎ)をした。そのことと関係があるのか、
昔からの神社には川や海の近くにあるものが多い。
川が無くても湧水があり、それが泉水や池となっている場所がほとんどである。
例えば伊勢神宮は(昔は祠は無くただの森だったが)五十鈴川のほとりにある。
今でも参拝の前に五十鈴川で手を雪ぐ人は多い。

伊勢神宮より時代の古い伊勢齋宮(いつきのみや)があった場所は、その名も
祓川(はらいがわ)という川のほとりである。
この場所は昔は海岸でもあった。
おそらくは干潟の中の島のような場所だったのだろう。
https://ninja250ksr.blog.so-net.ne.jp/2012-05-27
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/61267036272.htm

446 :列島縦断名無しさん:2018/10/08(月) 20:44:56.71 ID:QfvurGzN.net
出雲大社のある場所も昔は海岸であった。
出雲大社は現在は海岸から一キロほど離れているが、昔は砂浜に接した森の
中にあった。海岸の名は稲佐の浜という。
現在海岸にある弁天島という巨岩は、昔は「沖の島」と呼ばれていた。
海岸から遠く離れた沖に見えたのである。砂浜がどれだけ前進したか分かる。
出雲大社は巨木が林立する森の中にあったが、昔は森自体が禁足地であり、
当時の稲佐の浜も普通は立ち入れる場所ではなかったであろう。
船で海岸まで行き、海に入って禊ぎをしてから上陸したものと思われる。

447 :列島縦断名無しさん:2018/10/09(火) 06:39:00.89 ID:hRbrGLNE.net
日本最古の神社と言われる石上神宮はかつては水辺の森であった。
かつて今の奈良県の北半分は湖だった。古代奈良湖と呼ばれる。
今の淀川河口あたりは汽水域で、浜名湖みたいな状態。
飛鳥時代、ここから宇治あたりまでは大きな船でも楽に入れた。
奈良の方面に進めば石上神宮あたりまでは進入可。
小舟に乗り移れば櫻井のあたりまで船で行けた。
飛鳥時代は湖はかなり小さくなっていたが、難波からは淀川を遡り、木津川を
通って奈良湖に入り、石上神宮のあたりに上陸して飛鳥の都に向かったのである。
小舟に乗り換えれば今の桜井あたりまで行くことが可能であった。
https://tenrikei.com/sokuhou/sok-0020/
(天理教のサイトだが、分かりやすい。)。

石上の森は奈良湖の中に突き出た半島のような場所にあり、巨大な杉が
鬱蒼と生い茂り、神韻とした雰囲気を醸し出していた。
元々水神祭祀の場であったといわれる。森全体が神域であった。
石上神宮には今だに禁足地がある。
神社となって多くの人を迎え入れるようになっても、古代からの人の立ち入りを
禁ずる部分が少しだけ残っているのである。
http://www.isonokami.jp/map/11.html

448 :列島縦断名無しさん:2018/10/11(木) 10:59:25.98 ID:B2hK9oyu.net
古代から信仰を集める熊野三山は、滝で有名な那智大社、新宮市にある
速玉大社、それと本宮大社からなる。
それぞれ全く別系統の神社である。

熊野本宮大社は、かつては熊野川・音無川・岩田川の合流点にある
「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあった。
明治22年の大水害のときまで、中州の森の中に、末社まで含めると幾十もの
社殿があった。この旧社地は、社殿が造られるようになるまでは、水に浮かぶ
原生林の森であった。
いわば沖の島と同じような「島」であった。
この島そのものが神であり、禁足地であったと思われる。
現在の本宮大社の社殿は、明治の水害で残った社殿を、水害の虞れのない
高台に移したものである。
http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html

熊野速玉大社は神倉山にある神倉神社の分社である。
神倉神社に社殿が無い時代、社殿を造ろうということになり、その新宮として
街中に建てられたのが速玉大社である。
現在は速玉大社が本社となり、神倉神社は摂社ということになっている。
神倉山は速玉大社の裏手・千穂ヶ峰の東南端にある。直線で1.5キロほど
の距離である。
ゴトビキ岩で有名である。これは巨大な磐座(いわくら)で、ここに熊野大神が
降り立ったと伝えられる。この磐座ないし山全体が神であった。
現在、鳥居手前に太鼓橋が架けられ、下を市田川という川が流れている。
奥に進むと猿田彦神社があり、その右手に滝がある。
https://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/63676412.html
https://ameblo.jp/tohya0109/entry-12124591640.html

昔は神社の祠も階段も橋も無かったであろう。滝はもっと水量があっただろうし、
川は勿論現在の放水路のようなものではなく、神倉山を水源とする自然の清流
であった。山に入ろうとする者は、麓の川や滝で身を浄めたのだろう。

那智大社は滝そのものがご神体である。だから地元では滝といわず
御滝(おんたき)という。昔は熊野御滝は滝周辺の山全体が神域であり、山に
入れないため海上から拝んだものらしい。
海側から上陸するには、今の沖の島のように船から降りて海に入り、
海水で水垢離をしてから上陸したと思われる。

449 :列島縦断名無しさん:2018/10/13(土) 07:38:49.63 ID:ZzC4HA2r.net
京都の上賀茂神社は、本殿の両側を川が流れている。
明神川という一本の川が神社隣のゴルフ場とのところで二つに分かれるのである。
二つに分かれた川の一方は御手洗川(みたらしがわ)と名を変え、さらに元々は
御手洗川の分流である御物忌川(おものいがわ)と合流する。
三つの川は神社の下流で合流して再び明神川という一つの流れとなる。
http://waterside.fc2web.com/k4-3.html
上賀茂神社周辺や境内を流れる川は、分水したり名を変えたりしてややこしいが、
これは上賀茂の地を元々流れていた川に、明神川という鴨川からの分水を接続
させたためである。明神川は農業用水である。
人工的な流れで水量も豊富であり、上賀茂周辺の景観作成に一役買っている。
だが元々は鴨川の川水で、さほど綺麗とはいえない。
元々の御手洗川や御物忌川は、隣のゴルフ場になっている場所が水源であり、
森や山の麓の湧水が集まった清冽な流れだったのだろう。

上賀茂神社隣のゴルフ場は、戦後進駐軍がゴルフ場としたものである。
広大な森と、森の中の湧水をたたえた幾つもの池からなる神域であった。
「もののけ姫」の森や池を連想すれば近いものがあるかも知れない。
今でもゴルフ場の中に広大な池が二つある。
この森の数キロ北方にある神山(こうやま)が上賀茂神社の神奈備山であった。
(神奈備山とは神が鎮座する山のこと。)。
昔はゴルフ場から神山の山麓に至るまでの広大な森であり、神山と森が
上賀茂神社本来の神地であったと考えられる。
youtubeに京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースのドローンによる空撮映像がある。
https://www.youtube.com/watch?v=nhH4cbQTMzs

450 :列島縦断名無しさん:2018/10/14(日) 00:34:30.30 ID:OD8VALp3.net
下鴨神社は糺の森(ただすのもり)という森の中にある。12万平方米という
広大な森である。神社の鳥居をくぐって本殿に着くまでに1キロほども森の中を
歩く。森の中を流れる奈良の小川という流れも有名である。
http://www.geocities.jp/nagare_basi/photo/saijiki/06/narano-ogawa-tansatu-02.html
さらに近時、長く消滅していた瀬見の小川が復活した。
http://agua.jpn.org/tour/t4c.html

森の中にはいくつか神地がある。
葵の庭とよばれる場所はかつて禁足地で、その中に神が降りるとされる磐座がある。
そこは「水ごしらえ場」と呼ばれ、正月の若水の儀式など日本中で行われる水の
儀式の本家本元のような場所である。
https://www.travel.co.jp/guide/article/31020/
森の中には船ヶ島というかつて小川に囲まれ島のようであった場所に、奈良殿神地
(ならどののかみのにわ)がある。
かつて斎宮による葵祭の解除(お祓)の神事が行われていた祭場である。
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/nara-kyoto/simogamo-jinjya
/simogamo-naradono.html
川の中の島であるところが熊野本宮と共通する。
そもそも糺の森全体が鴨川と高野川の合流地点にある中州で、島のようなもので
あった。元々は島全体が神地で人が容易に入れない場所だったのだろう。

451 :列島縦断名無しさん:2018/10/14(日) 00:38:31.41 ID:OD8VALp3.net
下鴨神社続き

境内には御手洗川という川が流れている。
かつては御手洗池という境内にある池(湧水を貯めた池)からの流水であった。
現在は湧水もなくなり、ポンプで給水しているという話である。
水量が乏しく流れはほとんど無い。水は淀んでいる。
足つけ神事という祭りが初夏に行われる。昔のように裸足になり、川を渡って詣でる
祭りである。本来の参拝の仕方を再現したお祭りなのだろう。
このときばかりは水も透き通り豊富に流れる。
たぶんポンプを全開にするのだろう。
https://www.travel.co.jp/guide/article/4153/

452 :列島縦断名無しさん:2018/10/24(水) 13:23:32.62 ID:6z5sSVN7.net
現在長谷寺のある初瀬山は初P川のほとりにある。
寺が出来る前は初P山そのもの、ないし頂上付近の盤座がご神体であった。
長谷寺の本尊・十一面観音は、かつて信仰の対象だった大盤座
(おおいわくら)の上に建てられている。
初Pの語源は泊瀬(はくせ)であり、泊瀬とは両岸の岩が迫って川が狭まり
船ではそれ以上遡れなくなる場所を言う。
今では護岸工事がなされ、両岸に家が建ち並んでいるが、当時は神秘的な
渓谷だったのだろう。
初P渓谷には上流に初Pダムがあり、そのため初P川に流れる水も
普通の川水であり、清流とはとても言えない。

初Pは、伊勢に齋宮として赴く姫宮が数ヶ月ないし一年ほど留まり禊ぎをする
場所であった。
禊ぎを繰り返して身を浄め、ようやく伊勢齋宮に入ることができたのである。
ただし、姫宮が滞留した初P齋宮がどこにあったかは不明である。

初P山の東に、初P川を挟んで与喜山(よきやま)という450メートルほどの
低山が連なっている。ここには南斜面に与喜山暖帯林という常緑広葉樹の
林があり、天然記念物となっている。
http://syunmei.fc2web.com/tenjinyama/yokiyama.htm

与喜山南麓の与喜(與喜)天満神社は、泊瀬齋宮の跡地に建てられたという伝承が
あるという。
昔は与喜山や初瀬山、全体が椎や樫やナギなどの常緑の広葉樹に覆われた森で
あったと考えられる。今も神道では榊を用いることから分かるように、アオイや榊、
ナギなど常緑広葉樹は神の降りる木として神聖視されていた。
それらの大木が群生した山なのだから神の山とされて当然であった。
(ただしナギは正確には常緑針葉樹。広葉樹のような葉なのに不思議である。)

与喜山は初P川と吉隠(よなばり)川に挟まれた三角地帯である。
二本の川の合流地点手前の島状になった土地であるから、神のいます土地と
されて然るべきである。
ずっと昔は、こちらの方が聖地だったのではないか。
あるいは初瀬山も聖地だったとしても、与喜山が中心だったのではないか。
http://www3.pref.nara.jp/miryoku/masumasu/2498.htm

初P川と吉隠川は、長谷寺参道口の西一キロほどのところで合流し、大和川となる。
三輪山の方から言えば、大和川に沿って登って行くと二つの川の合流地点にぶつかる。
正面に見える、二つの川に挟まれた島状の隆起が与喜山である。
与喜山の左、初P川の西側にあるのが初瀬山ということになる。
今でも長谷寺の参道は与喜山の裾を通り、初P川を渡って長谷寺山門に至るように
なっている。

453 :列島縦断名無しさん:2018/10/25(木) 13:09:17.22 ID:bXQfYN2U.net
ここまで詳しく述べるなら
「山門」→「三門」とこだわってほしい

454 :列島縦断名無しさん:2018/10/25(木) 14:10:01.50 ID:ZACPU5yt.net
長谷寺では三門とは言わない。

455 :列島縦断名無しさん:2018/12/03(月) 22:23:35.44 ID:d7ZpBrhD.net
年々紅葉がいまいちになってくな
あの熱波じゃしょうがないか

456 :列島縦断名無しさん:2018/12/10(月) 10:40:30.30 ID:7yphfQp8.net
春日大社には、現在楼門の左側に手水場がある。鹿の像が乗った手水であり
俗っぽい。石の組み方なども雑で、低俗そのものである。
その後ろに祓戸(はらえど)神社の社があり、ここで穢れを祓ってから
参拝するのだという。ここも安普請の神社である。
両方とも現代の参拝客用のものであること言うまでもない。

春日大社では境内を川が流れている。
石で作られた水路を流れているので側溝のような感じである。
https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25166003418

この流れの先は楼門左側・回廊の西の外れにある榎本神社である。
神社の下に土管が通っているのだろう。
https://narakanko-enjoy.com/?p=15384
神社の下に滝となって流れ出ている。青龍の滝と名付けられている。
青龍の滝では禊の会などもやっているようである。
http://www.kasugataisha.or.jp/db_pdf/H21-07-11.pdf
しかし禊ぎをするような雰囲気の場所ではない。

昔は、境内の御手洗川で手を洗い身を浄めることができたという。
その頃は、楼門と奥の中門の間は建物も少なく、もっと開かれた空間だった
のだろう。そこに御手洗川が流れ、一部池のようになって禊ぎをする場所に
なっていたのである。
丁度下鴨神社境内の御手洗川・御手洗池のような様子だったと思われる。
ところが、その後様々な建物が立ち並び、水場を置く余地もなくなった。
そこで真っ直ぐな水路にして土管で外に排水するようになったと思われる。
境内で身を浄めるための流れであった証拠に、境内を流れる水路には、
今も御手洗川という名前がついている。

457 :列島縦断名無しさん:2018/12/10(月) 11:14:24.34 ID:7yphfQp8.net
榎本神社の下に青龍の滝として流れ出た水はどこへ行くのかというと、
再び土管に流れ込んで参道の下を通るのだ。
そしてまたもや滝になって参道脇に放水されるようになっている。
明治八年にこの工事がなされたそうである。
土管から放水される場所は白藤の滝という名前がつけられているが、
放水口がまるまる見えて、とても滝と呼べるようなものではない。
https://narakanko-enjoy.com/?p=20616

しかも、流れ出る水はごく僅か。境内を流れる御手洗川の水量に比べて
少なすぎる。これはどういうことかというと、流れ出た水の大半は万葉植物園に
流れ込むと言われているのである。
言われている、というのは、誰もその流れを見たことがないからである。
万葉植物園との間は暗渠になっていて、そこを通っていくらしい。
一方、白藤の滝として放水された水はどこに行くかというと、「ささやきの小道」
から湧き出た小川の水と一緒になって飛火野を流れる川に合流するという。

御手洗川は植物園内の池に源流があるといわれるのが普通である。
それは春日大社内の流れが御手洗川としての機能を失ったので、境内の流れ
を御手洗川と呼ぶ人がいなくなったためである。
さらに、植物園へ流れ込む水を誰も見たことがないので、植物園内の湧水が
源流なのだと考えて当然である。
しかし、実際は暗渠を流れてきた水なのである。

458 :列島縦断名無しさん:2018/12/10(月) 11:16:15.56 ID:7yphfQp8.net
万葉植物園から流れ出た水はどこへ行くかというと、荷茶屋(にないぢゃや)
という店の脇を通る。縁台に緋毛氈を敷いた藁葺きの茶店である。
茶店の横に橋がかかっており、その下の細い流れがそうである。
川は緑の谷を深く穿って流れてゆき、渓流の風情がある。
しかし、その流れを遡ってみると万葉植物園の脇からパイプが突き出しており、
そこから流れ出ているのだ。
荷茶屋の下を流れた水は、深い森を抜けて飛火野に入っていくというので
あるが、それも誰も見たことがない。
この流れは途中で消滅し、その先は分からない。

飛火野は奈良公園西側の広大な園地。
別名は春日野である。今は大地も乾燥して芝生の園地になり、鹿がたくさんいる。
奈良公園の典型的な風景である。
一面の芝地であり、写真などでは平らに見えるが、実際はかなり起伏に富む。
公園化されたときにかなり平坦にされているのだろうが、それでも元々は
尾根筋と沢があったのが分かる。
ここを流れる川は、沢筋を流れる昔からの流れでなく人間の作った水路である。
平らな場所をほぼ一直線に掘り通した水路を水が流れていく。
一直線といっても、さすがに公園の中であるから、自然の流れを演出してゆるやかに
カーブを連続させてある。ただ、そのカーブのさせ方が規則的である。
高いところを通している場所もあるので、ときに低地に伏流水が噴出することも
あるそうだ。
この地が今のような芝地になったのは明治以降公園が出来てからで、江戸時代は
森だったという。
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm066.html

森だった感じはこのあたりから想像できるのでは。
ささやきの小道
こういう森が今の飛火野全体に広がっていた。
https://asunara.jp/magazine/scene/2017/01/sasayaki-komichi/

459 :列島縦断名無しさん:2018/12/10(月) 11:42:49.55 ID:7yphfQp8.net
飛火野を抜けた御手洗川は、バス通りの下をくぐって浅茅ヶ原園地に流れ込む。
浅茅ヶ原園地は春日大社の一の鳥居の右手に広がる野原や疎林である。
中心部分は浮見堂で有名な鷺池である。
この池に御手洗川が流れ込むのであるが、御手洗川だけでこの池を満たすことは
無理と思える。案の定、他に奈良町エリアを暗渠として潜り抜ける「率川」水系の
流れも流入しているらしい。公園化されたのは大正七年。
それ以前は淺茅の生え茂る大湿原だったらしい。
無数の湧水と透き通った池があり、小川があちこちを流れていた。
春になると小川の周囲に花が咲き乱れ、万葉人の行楽地だった。

春日野の浅茅が上に思うどち 遊ぶ今日の日忘れえめやも (万葉集)
という歌がある。

淺茅ヶ原ではなく、淺茅が上というのだから、湿原の周辺の野原で遊んだという
ことだろう。
水辺で芹などを摘んだりもしたのだろうが、茅萱の花穂(ツバナ)は甘いのである。
菰なども昔は食用にしたという。
njun-ouhi-sinkokyu.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-ba5a.html

鷺池を出た水は荒池の方へ流れ行き、奈良ホテル前の西池を満たす。その後は
興福寺の方向へ流れ、猿沢の池に流入するのである。

淺茅ヶ原や飛火野をゆく川は途中名前も変わり、姿を消したり現れたりする。
奈良公園内の川は自然の流水ではない。
完全に管理されており、暗渠になっている場所が何カ所もある。
だから昔の形は分からないのである。
川のみならず池もまた昔からあったものとは限らない。
景観作りという思惑もかなり影響しているように思われる。
http://agua.jpn.org/tour/t2b.htm

飛火野の風景
https://narakanko-enjoy.com/?p=8721
昔は広大な森であったことや、背後に神奈備山を控えていること、池や川が多いこと
など、上賀茂神社の上の(今はゴルフ場になった)森に似ている。

460 :列島縦断名無しさん:2018/12/10(月) 11:55:17.49 ID:7yphfQp8.net
では、そもそも春日大社境内の御手洗川の水はどこから来るのか。
水谷川という境内の端を通る川がある。
春日大社の境内に水谷道(みずやみち)という北に向かう道があり、その道を
三分ほど歩いて突き当たったところに水谷(みずや)神社がある。
社のすぐ脇に橋があり、その下を流れるのが水谷川である。
御手洗川は、実はこの水谷川の上流から分水した疎水なのである。
https://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/0eccf7aa069720d774505c58183ef5ac

まず水谷神社について。春日大社の摂社である。
この神社は、水谷川の上流にある上水谷神社の下社で、上水谷神社というのが
本来の水谷神社である。
本来の水谷神社は御笠山と隣の若草山の間の谷を登っていったところにある。
今は小さな祠があるだけである。
そこでは参拝客が誰も来ないので、出店のような形で今のところに社殿を作った
ということだろう。
本来はこうした場所にあった。
https://ameblo.jp/uhk81507/entry-11712417215.html

おそらくは川の守り神で、水神や龍神を祀る社だったのだろう。
(江戸時代は牛頭天王を祀り、病気を治す神として人気があったらしい。)。
昔は社が七つもあったという。それは江戸時代の牛頭天王社の頃の話だろう。
この水場は、昔は水量が多く、滝ももっと大きかったと思われる。
東大寺や興福寺の僧が修行する場所だったということである。

上水谷神社から水谷川をさらに遡ると春日山原始林の遊歩道とぶつかり、そこを
数百メートル登ったところに「月日の磐」という丸い岩がある。
このあたりに堰を作り、分水して流れてきたのが春日大社境内の御手洗川である。
https://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/0eccf7aa069720d774505c58183ef5ac

461 :列島縦断名無しさん:2018/12/11(火) 13:33:08.83 ID:nnBY+V1i.net
御手洗川は人工的に作られた流れだったのである。
境内に御手洗川を通したのは興福寺の宗徒であるという。鎌倉時代、勝手に
御手洗川を作ろうとして藤原氏の氏の長者の怒りを買い、工事を中止させられた
という記録がある。しかし現に工事はなされているのだから、その後許しが出たか、
或いはなし崩し的に工事をしてしまったのだろう。

春日大社は興福寺の鎮守ではなかったのだが、仏教が優勢になっていって
いつのまにか興福寺に取り込まれるような形になった。
興福寺が春日大社の神宮寺のようになり、春日大社を管理するようになる。
平安中期から僧たちが春日大社で法会を行い、神前で経を読んだ。
そのうち祭神は藤原氏の祖の二神だけでは駄目だ。国の鎮守となすべき
神社なのだからと、鹿島香取の神を勧請してつけ加えた。
さらに、興福寺が若宮を祀り、若宮の祭礼を行うまでになった。
今でも興福寺の僧が春日大社の中門前でお経をあげる社参式という行事が
残っているほどである。春日大社と興福寺はほぼ一体であった。
御手洗川を境内に通すという興福寺宗徒のふるまいは、神仏混淆という状況の中、
寺院の神社に対する圧倒的な優位を背景にしないと理解しにくい。

では興福寺宗徒が境内に御手洗川を通した目的は何か。
まずは参拝者増加のためだろう。湿地や泥濘の中を歩き、裸足で小川を越え、
神社周辺の自然の流れで禊ぎをして、といった参拝の仕方では、訪れる人の
数は限られている。
境内に流れがあって御手洗池もあり、そこで身を浄めることができるというのは、
おそらく最も合理的で新しい(トレンディな)ことだったのである。
一方、境内に川や池を作ることによって、周辺の自然の川や流れでの禊ぎは
不要となる。そこで川には橋をかけてもかまわないことになる。
荷茶屋のところの馬止橋、水谷神社の水谷茶屋横の水谷橋。こうした橋は
境内に御手洗川が通ったのと同じ時期に作られたのだろう。
このようにして神社に参詣しやすくし、誰でもが参拝できるようにするのが
興福寺宗徒の目的であった。

興福寺の方にさらに水を引きたかったからだという人がいるが、もともと本流の
水谷川(吉城川)は興福寺方向に流れており、この流れを分岐して迂回させても
意味がないはずである。
水を分けたのは、ただ境内に御手洗川を作りたかったというだけのことだろう。
だから当時は御手洗川として境内を通した水は、今の万葉植物園や荷茶屋の橋の
ところを通して再び水谷川に戻していたと思われる。

462 :列島縦断名無しさん:2018/12/11(火) 13:35:16.62 ID:nnBY+V1i.net
御手洗川に取水される以前の水谷川は今より大きな流れだった。
まずは、この川(下流では吉城川)が御笠山と山麓を人の世から隔てていた。
さらに今の春日山原生林は水谷川の南側一帯を覆っていた。
淺茅ヶ原園地の方まで手つかずの森が広がっていた。
御笠山山麓に涌き出でる泉は無数にあり、森の中を川が縦横に流れていた。
森の低い部分には細流が集まり、池を作る。陽も射さない暗い森の中に
透明な水を満々と湛えた大きな沼があったりした。
(もののけ姫に出てくる大きな沼を想像するとよい。)。

春日の神の森は、小川や池に囲まれた島のような土地だったのだろう。
そこから原始神道時代の参拝の姿を想像してみると以下のようである。

まず、春日大社は春日造りという神殿が有名だが、最初からあったわけではない。
古い絵図を見ると、今の神殿(四神を祀る四つの祠)の後ろあたりに神地が
あったようである。鬱蒼とした神杉の森の中の、何もない神聖な空間である。
その手前に拝殿のようなものはあったかも知れないが、神の祭り方は
沖の島や宗像神社などと変わらない。原始神道の方式によるものであった。
神奈備山は当然御笠山である。
藤原不比等が710年、御笠山に祖神を招降した。
祖神は白鹿に乗って山上に降臨したとされる。
御笠山は現在も禁足地で人は入れない。ただし特別の許可を得れば奥宮への
参拝が認められるようである。

実は今の春日大社のある場所には春日氏の神が祀られていた。
今のようになったのは藤原不比等が権力を得て、春日氏に委譲を要求した結果
である。ただし不比等は春日氏の神を放逐したわけではない。
榎本神社が元々この地に祀られていた春日氏の神を祀る社なのだという。
鎌倉時代、境内に御手洗川を流す工事をしたときに、榎本神社の下を通すように
したということである。ここから考えるに、榎本神社の神はもともとは水神だった
のではないか。

463 :列島縦断名無しさん:2018/12/13(木) 08:06:51.26 ID:Ova+bJCH.net
>>462 埋め立てですかー で書き込めないためレスを一つ入れる

464 :列島縦断名無しさん:2018/12/13(木) 08:07:40.21 ID:Ova+bJCH.net
今は春日山から御笠山を覆っているだけの春日山原始林が山麓一帯を覆っていた。
森の中の神域に祀られる神は藤原氏の祖神である。
だから詣でる人は藤原の一族でなければならなかった。
(氏神を拝むのはその氏に属する人でなければならないのは当然であった。
同じく、氏寺に詣でるのもその氏の人間だけであった。要するに、氏寺や氏神を
祀る施設というのは氏族集団の持ち物であった。だが平安中期頃から寺社は自立
していく。寺は僧が支配し、一般民衆を相手にして財政を立てるようになっていった。
神仏は混淆し神社は寺が支配した。その結果、どこの寺社でも誰でもが参詣できる
ようになった。)。

春日の神苑の奥に藤原氏の祖神二神が祀られていた時代。
詣でる人は藤原氏の貴族である。

昼なお暗い森の中を歩んだ。
ときに鹿が道を横切る。木漏れ日の奥に群を見ることもあった。
木の間から見える御笠山を目当てに道ともいえないような道を進むと、清らかな
水に囲まれた聖なる森が見えた。
素足になって湿原を歩く。小川を渡り、疎林を越えて又小川を渡る。
湧き水の溜まった池のほとりに出た。引き込まれそうな青い水の周囲を歩く。
彼方の茅萱が生い茂る湿原を、鹿の群れが跳ねながら渡って行った。
やがて二抱えもある杉の大木に囲まれた一角に到達する。
ここが春日の神のいます森である。
近づいていくと、見上げるような巨木が五本立っていた。
人の世と神の世界を分ける神木である。
この神木には触れることも許されない。
さらに、神木の向こう側に入れる人は限られている。
中に入るために足を拭き、新しい木沓を履いた。
家臣(舎人)たちは膝をつき、神木の脇から中に入っていく主人を見送った。

465 :列島縦断名無しさん:2018/12/13(木) 08:08:36.58 ID:Ova+bJCH.net
巨木が林立した中にわずかに陽の光が差し込んでいる。
目の前に鳥居が立っていた。鳥居にはヌルデが巻き付いていた。
鳥居をくぐって小道を進むと、木々の間に白木造りの拝殿の屋根が見えた。
千木が光っている。
拝殿の周囲には白砂が敷き詰めてあった。拝殿の横が入り口である。
太いしめ縄がかけられ、そこに紙垂(しで)が下がっている。
しめ縄をくぐると中はほの暗い。隅のさらに暗い場所に巫女が控えていた。
正面に御簾が垂れている。
拝跪して幣帛を奉る。顔を上げると御簾の向こうに白砂の空間が見えた。
林の中の神地である。拝殿との間に笹が数本立てられ、しめ縄が張り巡らされていた。
神韻とした気配が漂っている。御笠山の陰になった暗く深い森の中で
そこだけが白く浮き上がり、輝いている。
木々の奥から御笠山の黒い山塊が迫ってくるようにも思われた。
氷の塊のような張り詰めた雰囲気に、藤原の公達は神の存在を実感し、戦慄した。

春日山原始林
http://www.enyatotto.com/mountain/nara/kasugayama/kasugayama.htm

航空写真
https://www.google.co.jp/maps/@34.6815782,135.8472135,293m/data=!3m1!1e3?hl=ja

466 :列島縦断名無しさん:2018/12/28(金) 04:40:37.85 ID:KHoOIbV3.net
武蔵一宮である大宮の氷川神社にも御手洗池がある。
奥には蛇の池という池があり、水源は湧水である。
案内板に
「この神秘的な湧水があった為に、この地に当社が鎮座したとも伝えられ
氷川神社発祥の地と云われる。」と明確に記してある。
神域であるとするためには、どうしても水が必要だったのである。
https://blog.goo.ne.jp/contiparati/e/26614924642dcbca3b6a62646cc03a29

そもそもは、湧水による透明な池があって、池の中に島があったと思われる。
その島の中に神地があったか、又は島そのものが神地だったのではないか。
何故なら、江戸時代まで氷川神社の横は妻沼湖という大きな湖であった。
氷川神社を上空から俯瞰すると、左右を大きな川が流れている。氷川神社は
川の中州のような三角地帯にあったのである。
その中に、周囲が乾燥しきった現在でも水が涌きだしている。
とするなら、周辺が湖や湿地だらけだった昔は、蛇の池は現在のものとは
比較にならないほど大きかったはずである。そこに神が祀られたとしたら、
そこには中島があり、樹木が生え茂って森となっていたと考えるのが
自然なのである。

明治以降、皇室の四方拝の対象ともされた神社でも寛政の頃はこうだった。
https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/bfd06a3e34f0c2348d9a1101c821a707

境内に天神も稲荷も愛宕神社も住吉神社も石上神宮もある。一方で観音堂も不動堂もある。
主祭神として男神と女神と中氷川様といわれる神(たぶん男神と女神の子)が祀られている。
池の向こうにあるので、おそらく古い時代には上賀茂神社のように白砂を山にして
神の依代(よりしろ)としてあったのだろう。
さらに古い時代は、森の中のただの空間(神地のみ) であった。(沖の島のような祭り方)。

図面は江戸寺際のものだから、神仏混淆が進んで寺のようになっている。
参道を挟むように神宮寺が並んでいる。それぞれ「○○院」という塔頭の形式である。
(大徳寺に塔頭が二十いくつある。みな○○院という寺号である。高桐院などを知っている
だろう。ああいうのと同じ。)。このいずれかに別当が住んでいた。
神宮寺は明治になって全部破壊され、神主の館だけが残っている。今の建物はたぶん明治
以降のものだろうが寺院の形式である。

氷川神社にも維新後に交野時万という尊攘派の元公家が大宮司として入り込んだ 。
そして廃仏毀釈をやった。
廃仏毀釈運動では、仏体のご神体を強制的に取り除くだけでなく、より積極的に信仰が改変
されていく。「復古神道」の実現を名目として、 『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれて
いない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが 実施されたのである。

氷川神社も祭神のすげ替えをやられた。
氷川神社と別のところにある女体社(氷川女体神社)と中氷川社の三社は一体であるので
女体社と中氷川社は合祀。三柱の神は男神と女神とその子供か何からしい神なので、
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと) の三神とした。

稲田姫命 はクシナダヒメで、オロチに食べられてしまうところをスサノオに助けられ妻に
なった女神。大己貴命はオオクニヌシノミコトで、スサノオの娘の婿さんである。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ふざけた選択である。

おそらく大宮氷川神社の神は三匹の蛇だったのだろう。
それが皇室の祖神であるスサノオ等の三神に変えられた。それ故に皇室の正月の行事である
四方拝の対象とされ、さらに明治以降天皇が数度遙拝に訪れたりもしたのである。

まあ祭神のことはどうでもいい。
大宮氷川神社は元は川に挟まれた島状の土地にあり、その中の湧水の池の中にあった
中島を神地としており、今の神社はその神地の部分に立っているということを押さえればよい。

467 :鹿島神宮その1:2019/01/05(土) 13:44:24.20 ID:3xLZZzpS.net
最後に常陸一宮の鹿島神宮

ここにも御手洗池がある。湧水を湛えた森の中の池で、幻想的な風景を現出している。
https://icotto.jp/presses/13976
「1日40万リットル以上の湧水がある御神水」と書かれている。

神社の周辺は森であり、その中に「奥参道」と呼ばれる回廊状の参道がある。

昔は森ははるかに大きく、池の湧出量も今とは比較にならない程であったと思われる。
現在は御手洗池しか無いが、昔は広大な森の中に泉や池が無数にあったはずである。

祭神はタケミカヅチノ神。弟のフツヌシノ神とともに現在の鹿島神宮東北の明石の浜に
降臨し、地上を支配していたオオクニヌシノ神から国譲りを受けたとされる。
この、「浜に降臨した」というのが大事である。
つまり、鹿島という地に行くには、昔は船で行って浜に上陸するしかなかったということ
なのである。鹿島という地名そのものが、この地が昔は島であったことを示している。
鹿島という土地は、今でも北浦という大きな湖とその続きの外浪逆浦という小さな湖に
東側を分断された土地である。
この北浦等の湖沼は、昔は浜名湖のように海と繋がる汽水域で、鹿島一帯を囲っていた。
鹿島神宮の森に湧水が豊富なのは当たり前で、鹿島の森は湖に浮かぶ森だったのである。
鹿島神宮には「一の鳥居」が三つある(近時、北側にも建てられ四つになった。)。
現在参拝客の誰もが通る「西の一の鳥居」の反対側に「東の一の鳥居」がある。
この鳥居は明石の浜沿いの海の中に立てられており、柱の間を船が通れるほど巨大である。
この鳥居があるところは、昔、船で鹿島神宮に詣でる人たちの船着き場だったそうである。
江戸時代あたりでも、鹿島には陸を行くより船で行った方が便利だったのである。

平安の頃まで、関東地方は今の霞ヶ浦や北浦等の湖が海まで繋がり、今の茨城県中央部
あたりで上下二つに割れていた。常磐線には「土浦」とか「荒川沖」、「高浜」など、昔は
海のようであったことを想像させる駅名がある(これらは内陸にある駅である)。
関東の東側は川と湖沼地帯だらけで通行は不能に近く、東海道を歩いてきた旅人は、
今の横浜あたりからいったん西の八王子(昔は横山といった)に出て、拝島(これも島だった)
の西側を通って現在の埼玉方面に抜けていたのである。
平安よりさらに時代を遡れば、鹿島地方などは陸地というより、海と湖の間の「洲」としか
観念されていなかったであろう。

468 :鹿島神宮その2:2019/01/06(日) 08:47:24.92 ID:mQkF3Oy3.net
鹿島神宮の参道は西から東に向かって通っている。だが、鹿島神宮の社殿は何故か参道
と向き合っておらず、北を向いているのだ。しかも、参道の一番奥ではなく、参道の中ほどに、
北向きに建てられている。
さらに、社殿は北向きだが、その中の神座は東向きだというのである。
社殿の向きと神座の向きが同じでないというのは出雲大社と共通することだが、このことは
置いておく。とりあえず社殿が参道の中ほどあるということに着目したい。
参道の中ほどにあるということは、参道の両側から参詣人が来るということである。
つまり、海側から来る人も考慮してあるということなのだ。
そして昔は海側から詣でるのが普通だったことを考えると、かつては海側からの参道が
通っているだけで、陸(東)の方向には道など無かったであろう。
あるとすれば今の奥参道がそれである。陸側からは、森の中をくねくねと曲がった道を
歩いて来るしかなかったのである。
さらに今の社殿の場所にたどり着いても、昔は社殿もなかった。
今の御手洗池が森の中に大きく広がり、池の中の中島のような場所が神地とされていたの
だろう。神地は当初は何もないタダの空間であったが、その後は白砂が盛られるようになって
いたかも知れない。

細かいことは省くが、鹿島神宮はいろいろな点で出雲大社に共通するところが多い。
海の側であり、神聖な浜があり、昔は海からしか詣でることができなかった等である。
詣でる人はまずは船から海に入って海の中で沐浴し体を浄めた。
そして浜に上がって森に入り、その中の泉や池を渡り、幾度も足を濡らしながら神地にたどり
着いたはずである。

469 :列島縦断名無しさん:2019/04/20(土) 03:37:30.86 ID:X5cJbDt5.net
あげ

470 :列島縦断名無しさん:2019/04/21(日) 14:05:17.08 ID:X9+8wTrH.net
武光誠 地名の由来から知る日本の歴史 

山の麓は「やまもと」と呼ばれた。
そこから山本、山元や本山、本山などの地名ができる。
この地名の中の「山」はただの山ではなく、山の麓の集落の守り神の住む山をあらわす。
さらに神の住む山を「もり」とも呼ぶことから、森本や森元、杜本、杜元の地名もつくられた。

「小林」の地名もこれに似たいきさつでつくられた。「集落の近くの神々の宿る森林」は
「御林」(おはやし)とか「神林」(かみばやし、こうばやし)となるが、発音しにくいので
「こばやし」になった。

神の住む森をさす地名

「もり」の地名のなかに、神の住む森や神社をあらわすものがある。
それは、社殿の裏山や裏の森が鎮守の森とよばれたことにもとづくものである。

神社(かならずしも建物ではない)をあらわす「もり」の地名は、森の他に
「守」「母利」「茂利」「毛理」「毛利」などさまざまに表記される。
毛利はもとは「もり」であったが、のちに漢字の読みに引きずられて「毛利」になった。

森山や守山は、神の住む小高い山をさす。
岩手県の盛岡市の名m、神をまつる岡をあらわす地名である。
そこの小高い岡に、「不来方(こずかた)城」がおかれていた。
朝廷の東北経営のときに、そこが地の果てとみられたのだ。
そして、そのあたりは「森が丘」と呼ばれていた。
南部家は慶長二年に、不来方の名を不吉なものとみて、それを「盛岡城」と改めた。
森を盛としたのは、盛の字を使った方が、自家が盛んになるようで目出度いと考えたのだ。

471 :列島縦断名無しさん:2019/04/27(土) 21:59:47.24 ID:J5X8FP8u.net
飛鳥・奈良時代にも庭園は造られたが、中国の庭園を模したものである。
飛鳥時代には、地面を掘り下げて粘土を厚く敷き、そこに平たい石を敷き並べるといった
工法で作られていたようである。タイルで作られたプールのようなもので、今日の公園のように、
整備された人工的な景観を楽しむためのものであった。
噴水のような仕掛けがなされているものまであった。
飛鳥・奈良時代は中国の文化を移植するのに急であり、庭園に関してもまだ日本独自のものは
生まれていなかった。岩や木を使ったとしても、中国の神仙式庭園の影響を受けたものであり、
池の中心に大石を積み上げて中島を作り、そこに松やツツジを植え、蓬莱山や須弥山
(しゅみせん)に見立てるといったものであったようである。

昭和50年に発掘された奈良時代の平城京左京三条二坊宮跡庭園には大量の丸石が埋もれて
いた。これは池の周囲を「州浜」にしたからであり、曲水の宴などが催されていたのではないかと
いわれているが、疑問である。
築山が無く平板で、後代の日本庭園のような情緒は感じられない。
池は中国的な風景を作り出すための装置に過ぎなかったのではなかろうか。
すなわち、周辺に柳などを植え、水路(クリーク)の景観を作り出していたのではなかろうか。
あるいは揚子江、又は随の煬帝が作った大運河のミニチュアのような気がする。
現在復元された庭園は、いかにも日本風に剪定された松などが植えられているので日本庭園風
に見える。しかし、当時は現代の庭師がやるような剪定は行われてはいなかったと思う。
玉石が多数使われていたので州浜であったとされているが、自然の川岸を演出したものではなく、
もっと立体的に組んで人工的な護岸にしていたのではないか。
当時中国では川や運河を天の川に見立てることも流行した。
夜、たくさんの浮灯籠を流すと、天上に瞬く天の川の星のように見えた。
奈良の都人が楽しんだのは、このような中国風の宴ではなかったか。
(流れの周囲にこのような提灯を飾って酒肴に供した可能性もある。
https://www.afpbb.com/articles/-/3173991)。

472 :列島縦断名無しさん:2019/04/27(土) 22:04:37.17 ID:J5X8FP8u.net
植栽も和風ではないと思う。
(土中の花粉分析などはアテにならないと思う。)
流れに沿ってヤナギや木蓮が植えられ、中国的な空間を演出していたのではないか。
昔の中国では街路樹の筆頭は槐(えんじゅ)であった。
街路だけでなく、官吏や教養層の家の庭には必ず植えられていた木であり、中国文学にも
よく登場する。魯迅も、夏はよく槐の木の下で読書し、青虫が首筋にヒヤリと落ちた、と書いて
いる。だから槐も当然植えられていただろう。
この庭の中心は、朱塗りか丹塗りの小橋だったのではないか。
中央部分に出島のようなものが作られているが、これは出島ではなく、橋の中央部の基礎が
置かれた部分のような気がする。
奈良の都の人々は、明治の都人士が日比谷公園で西洋式庭園を楽しんだように、中国風の
景観を楽しんだのではなかろうか。奈良の都には川がなく(外京の春日山や御笠山の麓には
小さな川はいくらもあったが)、郊外の淺茅ヶ原などに行かないと水辺の風景に接することは
できなかった。
そうした奈良の人々の、長安の水路などに対する憧れがこの庭園になったのではないか。
日本の庭は平安京から始まるというのが伝統的な理解であるところ、この平城京左京庭園の
発掘でそれが覆ったという人もいる。しかし伝統的な理解でいいのではなかろうか。

平城京左京三条二坊宮跡庭園発掘現場の写真
https://taisi123jp.exblog.jp/22119217/
こちらは写真がいい。景観が上手く捉えられている。
http://mohsho.image.coocan.jp/sanjonibo4.html
唐の都の樹木
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/
11177/615/1/BA67898227_2007_010_011.pdf

473 :列島縦断名無しさん:2019/05/01(水) 18:18:13.32 ID:j1Gbice3.net
次々と問題を発生させ挑発する反日国家を貴方は許すのか。?
・日本に対する敵国、反日教育・自衛隊機にミサイル発射用レーダー照射・数百人の拉致被害
北朝鮮韓国連合(核・ミサイル保有)核ミサイルで日本都市を攻撃目標か・日本海で不穏活動
・自衛艦の入港拒否・従軍慰安婦捏造、補償問題や各国へ慰安婦像設置・韓国予算の5倍の
賠償、経済協力で賠償解決済・徴用工で完結の条約、賠償協定破棄と日本企業へ賠償命令の
韓国判決・竹島不法占拠と大統領、議員等の上陸問題・東日本の農産物や魚類等食品の
輸入禁止・日本企業の高度技術情報漏洩スパイ・日本製品の不買運動・造船補助金等企
業活動の国際ルール違反とWTO訴訟・史実捏造、日本歴史教科書介入問題・ステンレス
、バルブ等工業製品、農産物等で韓国政府をWTOに提訴・サッカー大会等会場で日本避難
の横断幕・私立大学留学やマスコミ(朝日新聞)等へ大量入社と記事等介入・韓国人窃盗すり
団や産業スパイの国内侵入・天皇の土下座と千年入国禁止の大統領発言・日本海での漁業不法
操業と日本漁船のだ捕・国連での日本批判や行動阻止等反日活動・韓国内での日本文化、芸能
普及禁止・靖国神社参拝と日本帝国の韓国侵略問題・韓国統一教会による拉致監禁、霊感商法、
結婚詐欺、日本人妻の性奴隷化・対馬等の盗難仏像問題・日本海、竹島等の名称変更・旅行者
へぼったくり、すり、・日本海への有害物、糞尿等の領海侵犯、不法投棄で海洋汚染、環境問題
・いちご、桃、ぶどう、リンゴ等農業技術の流出、泥棒問題・韓国資本が対馬を買収、占領か

474 :列島縦断名無しさん:2019/05/06(月) 06:32:42.66 ID:nN2itWjU.net
古代から、雨乞いの儀式を行うことは、権力者の重要な任務だった。
雨乞いは誰でもが主宰できるものではない。王の専権であった。
雨乞いの儀式を行える者が、その地の王であるといえた。
一つの国が一つの集落であったような時代、国は氏族団体でもあったから
氏族の族長が雨乞いをなしたのである。
雨乞いの場所は神聖な森や林の中の、水の涌き出でる池のほとりであった。
そのような場所には水の神が棲み、雨を降らす天の神と繋がっていると
考えられた。水の神の姿は目に見えないが、人の前に姿を現すこともある。
そのとき水の神は蛇の姿をしていた。少なくともそのように考えられていた。
だから人々は蛇を敬い、蛇を殺すことは禁忌であった。
古代、人々の神のイメージは白蛇であり、白い大蛇であった。
たしかに蛇がいないような場所では田は作れない。蛇はネズミを捕る。
米作民族にとって蛇を神とするのは自然なことであった。
この大蛇のイメージが龍に変わり、水の神や雨を降らす神に変わっていく。
これは中国の影響であり、だいたい飛鳥時代から日本人は龍神を祀る
ようになっていったと考えられている。
しかし、蛇信仰は無くなったわけではない。仏教の影響で蛇は竜神の眷属
と考えられ、また水の神が現れる姿は、相変わらず白蛇のイメージで
捉えられていた。

475 :列島縦断名無しさん:2019/05/06(月) 06:38:35.57 ID:nN2itWjU.net
ヤマタノ大蛇は乙女の女陰が好物であった。
大國主の話から蛇神殿があることがわかる。
古事記の「共寝」は神事
イザナギ、イザナミは八尋の神殿で「共寝」神事をした。
蛇と人間との共寝の話はいくつも出てくる。

ニニギの命に出てくる岩長比売(イワナガヒメ)のナガは蛇を想起させる名前。
ニニギの命は蛇神の化身の彼女との「共寝」拒絶したため子孫は短命を運命づけられた。
日向出身の神武天皇の母は蛇体?に変身した。
神武天皇は狭井神社の粗末な室の中で蛇を男親とするイスケヨリヒメと共寝した。
月経中でも神様が共寝を所望すれば・・・・。出雲で御子が共寝した乙女は大蛇だった・・・。
神(蛇)の神威と、蛇の子を授かることを願う儀式?)
古事記には「共寝」「共に寝る」語が多い。
「神と人の共寝」は神事なのか。

476 :列島縦断名無しさん:2019/05/10(金) 05:32:51.04 ID:Jq95NR4u.net
京都で一番最初に作られた庭園が神泉苑である。
御所の南側にあり、広大な池とそこに流れ込む泉とからなっていた。
当然、池と泉の周囲には森もあったろう。
御所の南にあるというより、この池と泉と森があったからこそ、ここに
御所が作られたのである。
小さな集落が国であった時代、森とその中の泉と池が必須な存在であった。
それと同じように、日本という国の都を作るにしても、森と泉と池は必要だった
のである。京都盆地のほぼ中央にあるこの巨大な池こそ、京の中心になる
べき場所であった。

神泉苑の水の湧き出す穴の奧には龍神が棲んでいるとされた。
竜神の名を善女(善如)竜王という。
雨乞いの儀式は当然ここで行われ、主宰するのは当然に天皇であった。
しかし、平安京が作られた時代は仏教全盛である。飛鳥・奈良時代約100年の
間に皇室は中国文化に浸りきり、古代神道の典礼は廃れていた。
だから、日照りの歳、ここでおこなわれた雨乞いの儀式は仏式であった。
祈祷したのは桓武天皇ではなく、西寺の守敏と東寺の空海であった。
守敏の祈祷によっても雨は降ったが、空海が真言を唱えると土砂降りとなった。
空海の祈祷の折、善女竜王たる龍が現れた。
しかし姿は金色の蛇であったという。

神泉苑のほとんどは、二条城の建築によって無くなってしまった。
池の規模は現在のものは往時の十分の一以下であるという。
二条城のお堀のために、水源も奪われた。池は小さくなるほかなかった。
二条城二の丸御殿の庭園は、神泉苑の名残でもある。
本丸の方の庭園は明治になってからのものである。

477 :列島縦断名無しさん:2019/05/10(金) 19:08:05.94 ID:BnubhVq9.net
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結婚詐欺、日本人妻の性奴隷化・対馬等の盗難仏像問題・日本海、竹島等の名称変更・旅行者
へぼったくり、すり、・日本海への有害物、糞尿等の領海侵犯、不法投棄で海洋汚染、環境問題
・いちご、桃、ぶどう、リンゴ等農業技術の流出、泥棒問題・韓国資本が対馬を買収、占領か

478 :列島縦断名無しさん:2019/06/06(木) 10:00:30.49 ID:iQa/+Mzz.net
scfdftgkji;l

479 :列島縦断名無しさん:2019/08/14(水) 18:20:51.23 ID:fm9mWSLt.net
あげ

480 :列島縦断名無しさん:2019/10/18(Fri) 01:36:02 ID:X6frmSgV.net
age

481 :列島縦断名無しさん:2019/10/22(火) 19:05:46.91 ID:WCKShrL5.net
Eテレ 庭作り沼にはまったさん

482 :列島縦断名無しさん:2019/11/05(火) 19:17:19 ID:LaOLqSlj.net
神泉苑は、大内裏(京都御所)に接して作られた庭園である。
というより、森と池と泉があるからこそ、ここに大内裏が作られたという関係にある。
このことは上に述べた。
(なお、当初の大内裏の位置は現在の京都御所とはやや異なる。小さいことだが
一応書いておく。)。

それはともかく、神泉苑は禁苑(皇室が専有する庭園)とされた。
東西二丁(約210m)、南北四丁(約420m)に及ぶ広大な大園池であった。
池の周囲には乾臨閣その他の唐風の建物が並び立ち、池の水面に陰を写していた。
岸辺には多数の庭石も配されていた。これは上述の金閣の池と同じである。
中国の園池は、色彩の美しい大石を数多く岸辺に置くのである。
平安遷都当時は、平安文化はまだ育っておらず、ほとんど中国文明そのままであった。
奈良時代からの中国文化の模倣そのままの伝統に従って、中国風の庭園を作り上げた
のであった。
神泉苑は、漢の武帝の上林苑の中の甘泉宮などをモデルにしたといわれている。
だから、庭園の景観も中国の禁苑風であり、植栽は柳や木蓮やエンジュ、楡などが多く、
梅林などもあったと思われる。
庭園の活用の仕方も単なる鑑賞にとどまらなかった。
中国風に上流宮廷人の社交の場として使用され、狩猟・釣魚・舟遊などに用いられた。
鴨猟はこの当時から行われていただろう。鴨場も当然にあったはずである。
釣りは釣場も設けられていただろうが、舟に乗って行われることもあった。
船遊びは盛大な催しとして行われることもあったと思われる。
池に浮かぶ舟は赤・青・緑・黄色など極彩色に塗られ、舳先を龍頭の形に彫った唐船で
あり、船頭も中国人の衣装であった。
皇族や上流の貴族が乗る舟には中国の豎子の姿をした子供が控えていた。
(豎子はジュシと読む。童子の意味であるが、仙人の召使いのこともある。)。

平安の都には後々無数の庭が造られたが、平安遷都当初は天皇が中国の皇帝の真似を
するために作られたといっても過言でない。
奈良・平安初期の日本では中国文明の影響が圧倒的であった。
平安京が唐の長安をモデルに作られたことと同様、平安京建設当初の庭園は、中国の
実在の庭園や景勝地をモデルとして造られたことは疑いようのない事実である。

483 :列島縦断名無しさん:2019/11/17(日) 13:30:48 ID:w59hW6r3.net
甘泉園の上流に椿山荘があるんだっけ

484 :列島縦断名無しさん:2019/11/17(日) 21:05:02 ID:+wjE92M3.net
椿山荘のもっと上流に後楽園があるんじゃなかったっけ?

485 :列島縦断名無しさん:2019/11/19(火) 06:01:18 ID:kndbSPfj.net
桓武天皇がはじめて神泉苑に行幸したのは西暦800年であるという。
都を開いて6年後のことである。
そのときには船遊びに興じている。
その後を継いだ平城天皇も数回行幸し、以後代々の天皇も神泉苑に詣でることを
恒例とした。
神泉苑には中国の禁苑(皇帝の個人的な庭)の影響を受けた御遊池としての性格がある
一方、神聖な儀式の場所としての性格もあった。
上述のように、京都を干魃が襲うたびに祈雨の儀式が執り行われた。
さらにここで御霊会(ごりょうえ)という怨霊払いのための儀式が行われた。
夏になると都には疫病が流行る。当時の人は疫病は怨霊の仕業と考えていた。
そこで怨霊退散の法会が御所の裏鬼門にあたる神泉苑で行われたのである。
これが祇園祭の元になったという。
祇園祭が御池通りで行われるようになった後も、しばらくの間は山車が神泉苑まで来る
習わしであったということである。
他にもここで行われた宮廷儀式は少なくない。なかでも重陽の節句が有名である。
9月9日に菊花を賞して群臣を集め宴を賜るのが恒例であった。
最初のうちは神聖な儀式として執り行われたのだろうが、年中行事化して饗宴に
比重が移ったものだろう。

重陽の節句は中国の習俗的行事である。
中国人は陰陽五行説によって数を隠と陽に分け、偶数が隠で奇数が陽であるとした。
奇数が陽で縁起の良い数字であるところから、一、三、五、七、九の陽の数字の重なる日、
すなわち一月一日とか三月三日などを重陽の日とし、節会(せちえ、節供)を催した。
陽の数字の中でも九は最大のものであるから最も縁起のよいものだとして、それが二つ
重なる九月九日を特に重んじた。一般に重陽の節句といえば九月九日のものを指す。

486 :列島縦断名無しさん:2019/11/22(金) 07:41:33 ID:AvaakS4F.net
節句とは季節の節目を言い、古くは祭礼を行う日であった。
その後、仏教が入ってきて、祭礼の様式が仏教の法会になったのである。
一月一日以降奇数の重なる日は全部重陽の日で五節句と言うのであるが、上述のように
ただ重陽の節句といえば九月九日のそれを指したのである。
九月九日を特に重視したのは、九が陽の数字中の最大のものだからだが、九が二つ
重なって陽の気が強すぎるため災いが起こるというのも理由とされた。
だから、九月九日の重陽の節句いは、特に邪気払いの性格が強いということになる。
邪気払いのため、宴には菊が多用された。
秋に咲く菊は長く咲き続くため、古来長寿の花とされた。
また香りが強く、その香が邪気を払う力があるとされていたためである。
菊を飾るだけでなく、菊を漬けた酒を酌み交わし、菊花を料理して食べた。
その他、衣類に菊花を挟んで畳み香りを移したり、菊の花を浮かべた湯で体をぬぐうなどの
習慣があった。

その他の重陽の日も、植物の生命力を借りて長寿と健康をもたらそうとした。
一月一日が人日(じんじつ)の節句で、七草を食べる。(これが一月七日の七草になった。)。
芽生えたばかりの野草の力を取り入れようとしたのである。
三月三日が上巳(じょうし)の節句で、桃を飾る。桃は古来、生命を象徴する果実であった。
五月五日が端午の節句で菖蒲を飾り、また菖蒲やヨモギを軒に下げた。
酒に菖蒲の葉を漬けた菖蒲酒を飲み、菖蒲の葉で包んだチマキを作った。
香りの高い菖蒲を湯に浮かべ、その湯で体をぬぐったりもした。
七月七日が七夕(しちせき)の節句で、笹を飾る。笹はどこにでも繁茂する生命力の強い
植物であり、また冬でも青々としている。笹の持つ力にあやかろうとしたのである。
日本では、笹の葉に白、又は金銀や五色の紙(しで、という)を付け、御幣(ごへい)の
ようにした。それで家中のケガレを祓い、最後にその枝を川に流すというようなことが
行われていたようである。
因みに、長崎くんち、唐津くんちなど、おくんちと呼ばれる祭りは、九月九日の重陽の節句が
起源である。九日(くにち)の九州訛りが「くんち」なのだという。

487 :列島縦断名無しさん:2019/12/12(木) 10:39:30 ID:sLgoTsi/.net
五行説は、この世は「木・火・土・金・水」の5つの元素からなるとするものである。
5つの元素を色にあてがうと「木=青(緑)、火=赤、土=黄、金=白、水=黒(紫)」だという。
それゆえ、この五色の布や紙で何かを作ると、それが万物を成す5つの元素が守ってくれる、
つまり邪気を祓ってくれると信じられていた。
例えば、日本では五月の節句に鯉幟を立てる。真鯉緋鯉の他は吹き流しであるが、この
吹き流しは五色の布で作られる。子供の魔除けの意味を持つのである。
上記七月の節句で、笹に五色の紙をつけるのも同じ意味がある。
寺の五色幕も魔除けの意味で張られたものである。
長谷寺の五色幕
https://greenrose.exblog.jp/8955349/

成田山深川不動堂
http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=960

お寺の五色幕には、青は釈迦の髪の色だとか一色ごとに意味があるとされ、あるいは
五智如来など仏の智慧を表すとされることが多い。しかしそれらは後付けの説明である。
神社の拝殿などにも、五色絹(ごしきぎぬ)と呼ばれる布が下げられていることがある。
神仏分離前は寺も神社も一緒だったのだから、伝統としては同じである。

五色が並ぶ順序は、?(青)、黄、赤、白、紫である。
み・ぎ・あ・し・紫  右足紫と覚えるそうだ。
ただし真榊の場合は両端から中央に?・黄・赤・白と並べてきて中央に紫を置く。
http://shinguya.com/special_order/19540

先頃の即位礼正殿の儀において、菊花章中錦旛などの他、「菊の御紋」が金色で刺繍
された赤、白、青、黄色、紫の5色の「錦旛(きんばん)」という旗が22本立てられた。

488 :列島縦断名無しさん:2019/12/12(木) 10:58:02 ID:sLgoTsi/.net
古くは『延喜式』に、神前に供える幣物として「五色幣の料の絹」「五色の帛」「五色物」
が規定してある。五色に彩られたものが祭料として欠かせぬものであった。
これは今日でも変わらない(今日というか戦前まで。)。
宮中から勅祭社に奉献される幣帛は五色の布帛であった。
神前に供える御幣も白色の他、五色のものが用いられている。
巫女が舞うときに持つ神楽鈴という鈴にも五色の紐飾り(布飾り)がついている。

「五色の御幣」で検索してみるとよい。興味深い写真が見られる。

具体例として 平成天皇の御幣物(五色の布帛) ← この文字列を検索してみるとよい。


御幣物に関連して、出雲大社での御幣物奉納の礼。
ttp://www.izumooyashiro.or.jp/saitens/181

神主の着ている衣服が興味深い。
神主の正装は袍(ほう)を身につけ、袴をはく。
正服もやはり五色が使ってあるのが普通である。
しかし、出雲大社では袍は黒、赤、青、白のようである。
黒の袍を身にまとった人はおそらく勅使だろう。
単衣の襟は全員橙色である。さらに青の袍の神主は浅黄の袴をはいている。
浅黄は水色に見えるが、日本では黄色とされる。
これで黄色は使ったことになるのだろう。
黄色の袍は無いようである。黄色は皇帝の色だからか。

489 :列島縦断名無しさん:2019/12/12(木) 10:59:00 ID:sLgoTsi/.net
水引きや正月飾り、縁起物の熊手、上棟式の幡(ばん、旗のこと)など、伝統的な
ものは五色が使ってある。(ただし黒の代わりに紫が使ってあるものが多い。)。
水引きは本来一色ごとに一本の紐を五本組み合わせた飾りを使ったのである。
正月飾りは、よく見れば五色を使っているものが多い。
ただし、最近は日本の伝統的な色使いでないものが出回っているようである。
金銀を多用し、それに光沢のあるオレンジや薄緑色を配色したような、エスニック風
と言うようなものが多くなっているような気がする。

鏡餅は、三方の上に半紙を敷き、昆布と裏白(羊歯)を敷いてその上に餅を乗せる。
餅の上に橙(だいだい)を乗せて、餅に紅白の紙垂(しで)を付けた。
半紙が白、昆布が黒、裏白が青(みどり)、橙が黄色、紙垂が赤である。
裏白以外にユズリハの葉を飾ることもあった。
餅は神饌(しんせん。神に捧げる食事)なのであるから、五の組み合わせは厳格に
なされなければならない。近時いい加減な配色が多いのは考えものである。
ただし、五色が守られれば位置はどうでもよく、橙は両脇に置いてもよい。
紙垂は両脇に下げるのでも棒につけて立てるのでもかまわない。
紙垂は白一色で、敷き紙に赤を使うのでもよい。
鏡餅の原型にあたるようなものは平安時代からすでに存在し、源氏物語にも
出てくる。武家では鎧の前に飾るものであり、具足餅などとも呼ばれた。
なお、吉野裕子著「蛇」 (講談社学術文庫)によれば、鏡餅は蛇(蛇のトグロ)を表して
おり、小さなまる餅は蛇の卵を表しているんだそうである。

490 :列島縦断名無しさん:2019/12/12(木) 10:59:40 ID:sLgoTsi/.net
中国でチマキに五色の糸を巻く伝統など。
ttps://ameblo.jp/madelinem/entry-10269253051.html

なお、陰陽五行説によると、白黒の二色取り合わせは決して縁起の悪いものではない。
白は太陽の光、天をあらわし、黒(玄)は万物を生みだす台地の玄色である。
白と黒との組み合わせは陰陽交合を意味し、目出度いものであった。
もし白黒の取り合わせが不吉であれば、囲碁の碁石などは使えないことになる。
碁盤は天地を表し、白黒の碁石によってよき形(象)を作るのが囲碁の本質であった。
白黒の幕(鯨幕)が葬式に使われるようになったのは大正時代頃からである。
江戸時代には貴人の行楽(たとえば花見)に使われる幔幕は鯨幕が多かった。
明治時代に出版された江戸城大奥の女中だった老女からの聞き書きによれば、
西の丸(将軍生母や妻)主宰の花見や紅葉狩りのときに張られる幕は白黒の鯨幕で
あったという。

491 :列島縦断名無しさん:2019/12/12(木) 16:22:21 ID:TGYQQwEl.net
ロンドン橋
本がない所
香水がないところ
羆に喰われて死んだけん今夜お葬式

492 :列島縦断名無しさん:2019/12/14(土) 18:16:12.47 ID:THrB8ca4.net
鎌倉でおすすめのお庭ありますか?
瑞泉寺と報国寺のお庭はいいなと思った
座ってのんびりできる場所があると最高なんだけど

493 :列島縦断名無しさん:2019/12/14(土) 19:49:43.60 ID:YJ3WOZoy.net
>>492
海蔵寺

494 :列島縦断名無しさん:2019/12/15(日) 15:14:09 ID:wJA/vdFl.net
>>493
ありがとう!行ったことないとこだ
秋と春綺麗みたいだから春を狙って行ってみるよ

495 :列島縦断名無しさん:2019/12/20(金) 08:24:31 ID:DPpKOQVY.net
神泉苑での儀式から重陽の節句の話になり、そこからさらに陰陽五行説の話に
なった。脱線というべきだろうが、陰陽五行説は日本庭園に深い関わりがある。
後々触れることもあるだろうから、全くの無駄でもあるまい。

神泉苑に関連して、さらに苑と庭の違いについて述べたい。

中国の皇帝は王宮以外に巨大な別邸をもった。そこで政務を執るならば離宮であり、
休養や娯楽のための施設であれば別荘である。
別荘であっても周囲に城壁が築かれ、城壁の外側は広大な林野であった。
今日の日本で言えば、別荘とその周辺の山林などをすべて含めたものと思えばよい。
中国では、この山林原野の部分を「苑」といったのである。
苑は園である。苑ないし園は到底管理など出来ないほど広い。
だから、苑・園はどちらかというと自然のままの林野という性格が強い。
囲いが無く、その中に宮殿がなければ山林原野と変わりはない。
上で少し触れた、漢の武帝が長安の西につくった「上林苑」と呼ばれる苑は、
方三百里あったという。
前漢の一里は400メートルであるから、120キロ四方ということになる。
120キロ四方だと、面積は14400平方キロメートル。
岩手県の広さが15280平方キロだから、岩手県より5〜6%小さい程度と
いうことになる。この広さの林野が自然のままに保たれるのであるから鳥獣
は豊富であった。さらに苑内では動物園のように多種多様な動物が飼われ、
加えて狩猟用の鹿なども大量に飼育されていた。
中国の皇帝は時に数万あるいは十数万の兵を催し、狩猟を楽しんだ。
林苑の中には70箇所もの離宮があり、それはどれも馬車一千台、騎一万を
収容できるほどの大きさだったという。
皇帝は離宮間を移動しつつ遊猟し、毎夜宴を催した。

496 :列島縦断名無しさん:2020/01/13(月) 15:53:36 ID:4kbGFoJ8.net
DCY

497 :列島縦断名無しさん:2020/01/30(木) 13:09:16 ID:sN76aaTh.net
一方、庭というものは、もともとは平らな場所を意味した。
平らで、ある程度広い場所であれば、海だろうと陸地だろうと庭と言った。
海の入江の中の、波立たない海面を庭と言うこともあったのである。
陸上では、平坦で木も生えておらず、何も無い場所を庭と言った。
森林の中などに入って行くと、何故か木が一本も無く、野原になっている
ような土地がある。あるいは湿地の葦原の中に、そこだけ葦が生えて
いない乾いた土地があったりする。
そうした場所を庭と言ったのである。
そのうちに、神域の中の、あるいは神域に接続した、平らで何も無い場所を
庭と呼ぶようになった。

中国でも日本でも、神域には一切人間が立ち入ることはできなかった。
立ち入るどころか、神域には近づくことすらできなかった。
しかし、時代が下がると、人間と神の領域が接近してくる。
神域に接続して、そこで神に捧げ物をしたり、儀式を行うための場所が設け
られるようになった。「神域に接続して」と言っても、もともとは人間が立ち
入ることのできない場所である。正確には神域というべき場所であった。
神域の一部が開放され、神官や王族など特別の人間だけが入れるように
なったのである。
こうした場所を「庭」と呼んだのである。

498 :列島縦断名無しさん:2020/02/08(土) 18:16:08.51 ID:A+UIUlus.net
人が立ち入るようになると、そこを自然のままに放置することはできなくなる。
最低限、枯葉や枯れ枝を除けたり通路を保持したりすることは必要であるし、
神域との境界であるから、神域を侵さないためにも厳重に管理しなければ
ならない。
今日でも神社の境内は常に掃き浄められているが、これと同様である。
庭というものは、つねに人の手により管理され、清浄に保たれていなければ
ならない場所であった。

以上要するに、苑(園)というものは自然そのままに存置された山林や原野を
言い、庭というのは人間の手の入った管理された領域を言うことになる。
囲繞の程度も異なり、苑(園)はある程度囲いや柵によって周囲を囲われる
こともあるが、その広大さの故に基本的に境界は不明確である。
庭は、建物や柵によって厳重に囲われ、勝手な侵入などは許されない場所
であった。

499 :列島縦断名無しさん:2020/02/08(土) 18:17:03.22 ID:A+UIUlus.net
庭というものは、そこで神に捧げ物をしたり儀式を行うための場所であったが、
その性格を残すのが宮廷の庭である。
庭での儀式には百官が居並び、庭幡(ていばん)という旗を立て、そこに高殿
を設け、台(玉座)を置き、皇帝がそこで詔書を読みあげる。
あるいは舞台が作られ、その上で舞楽が催されたりした。

先頃行われた即位礼正殿の儀も、雨天でなければ皇居正殿(京都御所の
紫宸殿にあたる建物)を開け放ち、正殿内に置かれた高御座(たかみくら)の
前庭に文武官が居並ぶ形で行われるはずであった。
天皇は神であるから紫宸殿の中の高御座(たかみくら)に登られる。
皇后様の御座「御帳台(みちょうだい)がその脇に並ぶ。
そこから十八段の階段の下が南庭である。
階段で神と人との領域が画されている。
ttps://discoverjapan-web.com/article/12179
もともとは目に見えぬ神に対して行っていた儀式を、現人神である天皇に
対して行うようになったのだろう。

500 :列島縦断名無しさん:2020/02/08(土) 18:18:16.14 ID:A+UIUlus.net
京都御所紫宸殿南庭は天皇に捧げものを奉り、あるいは儀式を行う場所であり、
階段の両脇に左近の桜・右近の橘が植えられている以外何も無い。
白砂が敷かれているだけである。
桜・橘が植えられているのは、百官が整列する際の目印とするためである。
(現在の紫宸殿は安政年間に建造されたものだが、かなり忠実な再建といわれ、
歴史的に意味のある建造物とされる。)
白砂が敷き詰められているだけの庭は、京都御室(おむろ)の仁和寺にもある。
仁和寺は光孝天皇の勅願寺として建立されたが、宇多天皇(菅原道真を取り
立てたことで知られる)がここに御室(おむろ、住居用の御殿)を建て、院政を
行った。上皇としてここで政治を司ったことから朝廷と同様の南庭があった。

501 :列島縦断名無しさん:2020/02/13(木) 11:38:36.47 ID:JRnJJZ2V.net
神託によって政治が行われていた時代には、庭とは神意を問うための卜占を
行う場所であった。
中国では「卜庭」という、卜占(ぼくせん)専用の庭があった。
亀甲を焼いて占う亀卜(きぼく)は、おそらく神域に接した庭で行われていたので
ある。日本では「太占」(ふとまに)といって鹿の骨が焼かれていたが、亀卜も
行われるようになった。
亀卜は中国では唐代に絶えたが、日本では皇室の秘技として続けられ、
今日でも大嘗祭に用いる稲と粟の採取地を選ぶ際に行われている。
先頃の大嘗祭においても、皇居の宮中三殿で「斎田点定の儀」が行われた。
小笠原で獲れたアオウミガメの甲羅が使われたという。
亀甲のヒビの入り方により、斎田候補の地が京都府と栃木県に定められた。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019051302000241.html

「古事記」仲哀天皇条に、熊曾征伐に際して、筑紫で「神寄せ」を行ったとき、
天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭に居て、后の息長帯日売命(おきながたらし
ひめのみこと)に神を寄せたとある。
(天皇御琴を控かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。)
后が霊媒者となり、武内宿禰が神託の判じ役になっていたのである。
この神寄せが行われた「沙庭」というのは、読んで字の如く「砂の庭」のことで
あるが、普通の砂ではなく浄められた砂のことであろう。
だから沙庭を「清庭」とも書く。清庭は「さやにわ」とも読む。
源氏物語では「斎庭」と書かれている。齋み(いみ)清めた場所の意味である。
沙庭(清庭、齋庭)とは、神を降ろすための清浄な場所を言うのである。

502 :列島縦断名無しさん:2020/02/13(木) 11:39:48.84 ID:JRnJJZ2V.net
沙庭という言葉は、後には託宣の意味を判断する審判者(武内宿禰がやった
役目)を意味するようにもなった。
日本書紀に、神功摂政前(北野本南北朝期訓)「中臣烏賊津使主を喚(め)して
審神者(サニハ)と為す」という記述がある。
憑依者は断片的に神や霊の言葉を語るだけなので、意味が判じ難いことが多い。
正確にその言葉の意味を判定する人間が必要なのである。
それとともに、意味もはっきりしない巫女の言葉一つで国家的な事項が決まる
のではたまったものではない。託宣の意味を判断するという形での託宣の
修正や変容は容認しないわけにはいかなかった。
有名な宇佐八幡神託事件で、一旦は道鏡を皇位にという神の託宣があり、
その神意を確かめるため和気清麻呂が派遣された。
この場合、神が降りるのは宇佐八幡の巫女で、巫女が口走ったことを清麻呂が
判定するのである。憑依した神が巫女に語らせる言葉が何を意味するのか、
結局は審神者の判定によるのである。
清麻呂は以前の託宣を覆し、称徳天皇の怒りを買って大隅に流される。
清麻呂は沙庭(託宣の審判者)として宇佐八幡に赴いたのである。

503 :列島縦断名無しさん:2020/04/13(月) 15:47:18 ID:Cyf5sjBo.net
cvq

504 :列島縦断名無しさん:2020/04/19(日) 23:53:41 ID:emYrPC8Y.net
では最初の託宣のときの沙庭は誰だったのだろうか。
沙庭にまで言及した資料は無いが、一応の推測はしておこう。
まず、最初の託宣は、道鏡が主導し、太宰府の役人や宇佐八幡宮の神官たちが
結託して作り出したと解するのが一般である。
(どの史書も、孝謙・重祚して称?天皇の関与については沈黙を守っている。)。
即ち、当時の太宰師(だざいのそち)は道鏡の弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)で
あった。太宰師は太宰府の長官である。
一方、宇佐八幡宮の神官たちは皇室に対してきわめて迎合的であり、都への
進出の意欲に富んでいた。神主たちの中心は主神司の大神田麻呂という。

505 :列島縦断名無しさん:2020/04/19(日) 23:55:11 ID:emYrPC8Y.net
宇佐八幡は、皇室に迎合的というより、その背後にいる藤原氏と結びついて
いたと考えるのが妥当だろう。
大仏建立に際し、聖武天皇は宇佐八幡に勅使を遣わし託宣を請うた。
これに対し、宇佐八幡大神は「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率い、必ず成し
奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)る
ことなくなさん」という神託を下した。
天の神、地の神を率いて協力し、大仏建立を必ず成功させると約束したのである。
また大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年、八幡大神は大仏を拝したいとの
神託を下した。降臨した神の言葉を口走ったのは、宇佐八幡宮の女禰宜(めねぎ、
巫女のこと)大神杜女(おおがのもりめ)であった。
神意に随い、急遽杜女が開眼式に臨むことになった。
大仏開眼のその日、大仏殿の前庭に文武百官が打ち揃う中、八幡大神の憑坐
(よりまし)である大神杜女が、紫の輿(こし)に乗って東大寺の裏門である転害門
(てがいもん)から入場してきた。
紫の輿(こし)は天皇でなければ乗ることのできないものであった。※
大神杜女は、紫の輿から降りると、孝謙天皇や聖武上皇・皇太后門とともに大仏を
拝したという。
さらに東大寺の鎮守(守護神)の手向山八幡は宇佐八幡から勧請された分社である。
八幡大神が自ら大仏の鎮守になるという神託を下したのだという。
このように、宇佐八幡の神官たちはどこまでも皇室・藤原氏の意向に沿って勢力を
伸張させようとする傾向があった。

※大神杜女は弟の多磨とともに入京した。身近にいる男子はこの弟のみで、杜女の
言葉を伝えるのも弟だけであった。魏志倭人伝の伝える卑弥呼のような形態であった
と思われる。しかしその姿は禰宜尼(ねぎあま)という、巫女ではあるが仏教の尼の
装束であった。仏教を国教とする政策に阿る(おもねる)姿勢が感じられる。

506 :列島縦断名無しさん:2020/04/20(月) 08:01:46.22 ID:H1zyJfQc.net
ここまで書けばもはや結論は分かるだろう。
その後の経過だけ記す。
弓削浄人は、太宰府の下僚である太宰主神(だざいかんずさ)の中臣習宜阿曽麻呂
(なかとみのすげのあそまろ)に命じて神寄せを宰領させた。
太宰主神とは、和語では「だざいのかんのつかさ」と読む官職で、太宰府の祭礼を
統括する地位にある。
このような地位と職務に鑑みると、この人物が沙庭に最も適任であることは疑いない。
したがって最初の託宣の沙庭は中臣習宜阿曽麻呂と考えるべきである。
このときの巫女が何を語ったかは分からない。しかし、習宜阿曽麻呂は上司で
ある弓削浄人の期待どおり「道鏡を天位につかしめば国平らかならん」との審判を
なし、その神託を奏上したのである。

507 :列島縦断名無しさん:2020/04/20(月) 08:08:37.69 ID:H1zyJfQc.net
最初の託宣のときの巫女は辛嶋勝与曾売という。
辛嶋氏の巫女である。
大仏建立のときに奈良まで赴いた巫女は大神杜女であった。
宇佐八幡を代表した巫女が大神氏の巫女だったのは、その頃は大神氏が神社筆頭
の地位にあったからである。
しかしその後、大神氏は厭魅事件(754)により没落、宇佐宮の祭祀権を失ったと
される。大宮司の地位が大神氏から宇佐公手人・池守父子に移ったのである。
そうだとすれば本来は宇佐氏から巫女が出るのが自然である。
そうでなかったのは何故か。
おそらく宇佐氏は神秘的能力を一切有しない一族だったのだろう。
宇佐氏の代わりに巫女を出した辛嶋氏は、元々は唐嶋を名乗っていたという。
加羅の国から渡来したと称していた氏族である。
おそらく呪術をもって八幡神に仕える祠官で、宇佐氏の傀儡となり、宇佐氏に代わって
巫女を出していた。
清麻呂が来たときに神が降りた巫女は辛島勝与曽売という。辛島勝を「からしまの
まさる」と読む書物があるが、間違いである。辛島勝は「からしまのすぐり」と読む。
「すぐり」は「村主」などの字を宛てることもある。姓(かばね)の一つである。
「与曽売」は「よそめ」と読む。「からしまのすぐりのよそめ」というのが正しい名前で
ある。辛島氏の巫女は、他に波豆米(はずめ)や乙目(おとめ)、阿古米(あこめ)など
の名が見えるが、個人の名ではないのかも知れない。

508 :列島縦断名無しさん:2020/07/02(木) 17:50:13 ID:FYzTWlJF.net
NEI

509 :列島縦断名無しさん:2020/07/28(火) 13:27:55 ID:4gHcOuIk.net
清麻呂は沙庭(託宣の審判者)として宇佐八幡に赴いた。その後の行動を理解する
には、後世に道鏡事件といわれるこの騒動についての概略を記さねばならない。
まず、孝謙(のちに重祚して称?天皇)が道鏡を近づけたのは単なる色恋沙汰では
ない。道鏡が女帝の近くに侍ったのは看病禅師(かんびょうぜんじ)としてであるが、
この看病禅師という役職は元からあった。
孝謙の父である聖武天皇の看病禅師は126人いたという。
中でも東大寺の初代別当である良弁(ろうべん)が有名である。良弁は看病禅師と
しての功績から大僧頭に任じられている。道鏡はこの良弁の弟子であった。
おそらく若き道鏡は、聖武の看病禅師団の一員だったのだろう。
道鏡と孝謙(太上)天皇の出会いは、病気になった孝謙のもとに道鏡が呼ばれ、治療
にあたったからであるが、道鏡が召されたのはただの偶然ではあるまい。
それ以前から、師である良弁が道鏡の学識と呪力を語り聞かせていたと思われる。
道鏡は、いわば鳴り物入りで孝謙の前に現れたのである。

道鏡が近江保良宮の孝謙のもとに召されたのは762年4月のこと。
そのとき道鏡は宿曜秘法によって孝謙の病を治すことに成功した。
宿曜秘法とは一種の占星術である。星の運行と人の運命を関係づけ、人の運命を
予測し、あるいは好転させようとするものである。道鏡は星を指さしながら孝謙の
病状を説明し、あの星があそこに輝くようになれば病気も快癒するというような説明を
したのだろう。星は道鏡の予言どおりに移動し、孝謙は快癒した。
道鏡は翌763年、病気治癒の功績により少僧都に任じられる。
本来、少僧都になる僧は律師の位を持たなければならない。
職位として律師→僧都と進むのが順序だからである。
しかし、道鏡は律師を経ずしていきなり僧都となった。
異例の抜擢というべきである。

510 :列島縦断名無しさん:2020/07/28(火) 13:28:35 ID:4gHcOuIk.net
道鏡のように異例の昇進をする者があれば、当然それに追われて失脚する者も
出る。小僧都であり、道鏡の先輩格の慈訓がまさにそれにあたる。
慈訓はもともと聖武天皇の看病禅師であり、さらに聖武天皇と光明皇后の華厳講師
でもあった。侍医にして家庭教師という立場である。
藤原一族からも信頼され、藤原氏の氏寺である興福寺別当となった。
藤原仲麻呂とも関係が深く、仲麻呂の推進する仏教政策の最高顧問といった地位
にもあった。
本人は看病禅師としても当然に第一人者を以て任じていただろう。
聖武の臨終の座にも侍り、続いて皇后の光明子の看病禅師となった。
慈訓は光明(太上)皇后が住んだ皇后館(法華寺)の外嶋院に住んでいたという。
そして光明子亡き後は娘の孝謙の看病禅師となっていた。
道鏡がライバルとして現れたときに慈訓は72歳。
当時としてはかなりの高齢である。
現代なら85歳ぐらいに相当するかも知れない。
おそらく孝謙はこの老人の法力を信じていなかった。
それ以前に、皺だらけの老人に己の体のことをあれこれ詮索されるのが嫌だった。
孝謙の父母を看取り、父母の家庭教師でもあった慈訓は、孝謙を子供扱いし、
馴れ馴れしかった。
孝謙はこの老人に嫌悪感しか抱いていなかった。
とはいえ、平城宮においてはこの老人を避けることはできない。
慈訓は、つねに宮中の内道場(内裏にある仏間)に詰め、しかも医者としての
立場で自由に中宮院にも出入りしているからである。
しかし、高齢の慈訓は、さすがに近江の保良宮まで着いてきてはいなかった。
このことが孝謙にとってチャンスとなった。
道鏡は保良宮に派遣されていた看病禅師団の一員だったかも知れない。
保良宮で病に伏せった孝謙は、噂に高い道鏡を召し出したのである。
孝謙が道鏡を気に入ったのは当然というべきか。
道鏡の生年は不明なので正確な年齢は分からないが、当時40歳程度で
あったといわれる。
老人に比べれば何もかも輝いてみえた。弁舌爽やかで学識もあり、医術にも呪術
にも長けていた。しかも実際に病気を治してしまったのである。
慈訓は道鏡が登場して一年後の763年に小僧都を解任されている。
代わって同じ日に小僧都に任命されたのが道鏡である。
道鏡は登場してたった一年で、長老的立場にあった慈訓を、身分の上でも
追い越してしまったのである。

511 :列島縦断名無しさん:2020/07/28(火) 13:29:55 ID:4gHcOuIk.net
看病禅師の職務のうちに夜居というものがある。
夜、天皇の寝所近くに詰めて、終夜加持祈祷をするなど天皇の安穏を祈る
役職である。道鏡は昼の務めだけでなく、夜居も自ら行った。
道鏡は全く寝ないでも平然としていた。
孝謙は、道鏡の精勤ぶりに感動した。
夜を徹しの読経の響きに包まれ、女帝は安心して眠った。
しかし、こうなると道鏡と女帝の男女関係に対する詮索も行われるようになる。
淳仁天皇は事態を放置することは出来なくなった。
淳仁の後ろ盾の仲麻呂はさすがに口を出せないので、代わりに淳仁に
孝謙を諫めさせたという事情もある。
淳仁天皇にとって孝謙は形式上は母である。
息子の立場で、言うべきことは言うしかない。
道鏡に対する寵愛が過ぎるというような意見をした。
「常に以て言をなし」たというから、一度や二度ではなかったようである。
これに対して孝謙は、後に「言ふまじき事を言ひ、すまじきわざをしぬ」(言っては
ならない事を言い、してはならないことをした)と非難した(続日本紀)。
ともかく、道鏡に対する過度の寵愛が原因で、保良宮において仲麻呂・天皇派と
孝謙太上天皇(後の世にいう上皇)・道鏡派は決裂したのである。
淳仁天皇も孝謙太上天皇もともに保良宮を引き上げ、天皇は平城宮の
中宮院に戻ったが、孝謙はそこには戻らなかった。
孝謙は保良宮を去るにあたり、出家して尼となっていた。
尼となった以上、俗人である天皇とは住まいを別にするのが当然だという理屈で
法華寺に入った。※
法華寺は元は孝謙の祖父・藤原不比等の邸であり、孝謙の母である光明子の
実家である。光明子は皇后となった後、ここを皇后館として住まいしていた。
さらに晩年、敷地内に阿弥陀浄土院を建て、光明子の死後に全体が官寺と
されていたらしい。
孝謙と淳仁帝は、法華寺と中宮院に別れてにらみ合いの状態となった。

※ この時代には太上天皇となっても天皇と同じ御所に住まいしていた。
平安時代以降は上皇と天皇の住まいは別になる。天皇であるうちに
あらかじめ譲位後の御座所が定められ、譲位とともにそこに移る。
これを後院(ごいん)と言った。後院には後院庁があって職員も配置され、
後院の経費を賄うための後院領も確保されていた。
院政期に入ると後院は置かれなくなった。後院に移ると完全に引退した
印象になり、権力が失われるおそれがあるからである。
院政の時代には、後院の家政機関である後院庁が院庁という執行機関と
なり、その機構も拡大強化された。上皇は出家して御殿のある寺に住まい
するのが普通であった。

512 :列島縦断名無しさん:2020/07/28(火) 13:34:31 ID:4gHcOuIk.net
孝謙が中宮院を出て一人離れて暮らせば、忘れ去られるだけである。
政治の実権は仲麻呂と淳仁帝が握り、彼らの思うがままとなる。
それを阻止するために、孝謙は思い切った行動に出た。
法華寺に入った10日後の672年6月3日、孝謙は五位以上の貴族を集め
その前で詔(みことのり)を下した。
自分はこれから仏弟子として仏道に従い、国家の大事と賞罰は天皇に委せず
自らの手で行うと宣言したのである。
「政治(まつりごと)は、常の祀り小(ちいさ)けき事は今の帝行ひ給へ。国家の
大事、賞罰二つの柄(もと)は朕(われ)行なわむ。」と続日本紀にある。
おそらく宣言したままに記録されたものと思われる。

孝謙の父・聖武帝は、天皇として初めて出家入道したことで知られる。
薬師寺に宮殿を建ててそこに住まいした。
孝謙の行動はそれを真似たものであろうが、出家して髪を下ろすとは実に
思い切った行動をしたものである。
どれだけ道鏡の影響が大きかったか分かるというものである。

513 :列島縦断名無しさん:2020/08/07(金) 05:29:46 ID:VS6ahrkN.net
孝謙はつねに父の聖武を手本としてきた。聖武は太上天皇(上皇)となって
からも、政治上の実権を手放さなかった。
聖武の場合、年若い自分の娘を天皇にさせたのだから、後見するためにも権力を
持ち続けて当たり前だが、孝謙太上天皇としては自分が父のようでないのが
納得できなかった。だからこそ自分が政治上のリーダーシップを握ることを宣言
したのである。
この宣言は朝廷内に大きな衝撃を与えたことは言うまでもない。
しかし、実際上の効果はほとんど無かった。
孝謙の宣言によっても、淳仁が国家の大事と賞罰について裁可する権限を
失ったわけではなかった。
鈴印は中宮院にあり、律令制の手続きによっては孝謙は何もできない。
律令制国家である以上、権力の正当性は淳仁にあった。
孝謙は口頭による伝達という律令制以前の方法によって影響力を与えていく
以外になかった。
宣言の効果は、それまで一体と思われていた太上天皇・天皇体制が真っ二つに
割れ、対立していることを世に明示したことにある。
孝謙太上天皇と淳仁天皇の対立は、即ち孝謙太上天皇と仲麻呂との対立である。
淳仁天皇は仲麻呂の傀儡に過ぎないことを世間は知っていた。
仲麻呂体制の下で不遇をかこっていた公卿・官人たちは、自然に反仲麻呂連合と
いうべき暗黙の同盟を作っていく。
太上天皇側との緊張状態の中で、仲麻呂はひたすら軍事力を強化していく。
自分の息子を右兵衛府の長官とし、腹心の部下を左衛士府の長官に任じて
衛府の軍隊の掌握を図った。
政治的支配の面では、さらに人事を通じての強化が図られた。
すでに仲麻呂の三人の息子が参議に列していたが、畿内や重要地の国司は
仲麻呂の一族や腹心の公卿が占め、上述のように鈴印も中宮院に置かれて、
地方との連携も怠りはなかった。
仲麻呂の独裁政権というべき実態はそのままだった。
しかし、孝謙の意向を反映した人事も行われ、反仲麻呂派の公卿が登用され、
あるいは昇進したりした。吉備真備の重用はその一例である。
かつてはすべて仲麻呂の思い通りに進んだものが、部分的に取りこぼしが出る。
自分に反対する勢力が貴族社会の中に形勢されてきている。
仲麻呂はそれを肌で感じていた。
何かが起こるぞと人々は固唾を飲んで見守ったが、何も起きずに二年の歳月が
流れた。

514 :列島縦断名無しさん:2020/08/07(金) 05:30:57 ID:VS6ahrkN.net
天平宝字八年九月十一日、事態は密告によって動き出す。
十日ほど前の九月二日、仲麻呂は「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」
という役職を創設し、自ら就任している。
仲麻呂は、この兵事使という役職に就くやいなや文書を改竄し、訓練のために
都へ呼び寄せる兵士の数を増加して布達した。
一国あたり二十人のところを六百人に増やしたという。
これを決起のための行動と見抜いた高丘比良麻呂が、孝謙に密告した。
高丘比良麻呂は仲麻呂に信頼され、高官に抜擢された人物であった。
ほぼ同時に、陰陽師大津大浦からも密奏があった。自分は仲麻呂の依頼で
決起の吉凶を占ったというのである。
大津大浦は仲麻呂の気に入りの占い師で、常に仲麻呂の身辺に侍っていた。
さらに、和気王からも仲麻呂が兵を集めていることを知らせてきたという。

密告に接した孝謙(側)は、ただちに中宮院にあった鈴・印を押収した。
天平宝字八年9月11日のことである。
(鈴・印とは、駅鈴と御璽である。駅制すなわち官立の交通・連絡網を利用する
ための印鑑と天皇の内印をいう。天皇が駅制を使って諸国の国司などに連絡
する場合に用いる。鈴と印を一言で鈴印と言うのが普通である。)。
孝謙が少納言山村王を遣わして鈴印を押収しようとしたところ、仲麻呂の
次男・訓儒麻呂(くずまろ)がこれを奪い返した。
孝謙は坂上苅田麻呂と牡鹿嶋足を派遣、訓儒麻呂を弓で射殺して鈴印を
取り戻す。鈴印は再び山村王の手に戻った。
すると仲麻呂も矢部田老(やたべのおゆ)を遣わして鈴・印を奪い取ろうとする。
谷田部老は甲冑を身につけて山村王を追ったが、孝謙方の授刀(たちわきの)
紀船守(きのふなもり)に射殺された。(授刀とは後の近衛府の武官)。
これらの争いが行われた場所は中宮院と法華寺の間であるが、矢が飛び交った
のは内裏から県犬飼門に至る間の宮廷内道路上と思われる。
鈴印は山村王の手で法華寺の孝謙の下に届けられた。
事態はもはや戦争の様相を呈してきた。
さらに孝謙は仲麻呂とその一族の官位を剥奪し、藤原の姓からも除いた。
全員を庶人に落とし藤原氏から除籍し、財産も没収したのである。

515 :列島縦断名無しさん:2020/08/07(金) 05:32:08 ID:VS6ahrkN.net
その夜、仲麻呂は一族と党与を引き連れて自邸を出発、近江に向かった。
仲麻呂の屋敷は田村第という。現在の奈良市四条大路一丁目一帯にあった。
三笠中学の南側、第一号街区公園あたりがその邸宅の跡地と推定されている。
仲麻呂は長年近江の国司を務め、太政大臣になってからも近江国司の地位を
手放さなかった。父親の代から国守を務めた近江は彼の権力の基盤であった。
実質的に仲麻呂の領地といっても過言でない。
宇治に出た仲麻呂一行は西の逢坂山方面から近江国衙(国府の官庁街)を
目指した。遠回りになるが、逢坂越えの道は官道で道がよかったからである。
仲麻呂勢は婦人や子供も多く連れていたから、牛車を交えた優雅な行列に
ならざるを得なかった。※
だがこの緩慢な行進が命取りになる。
西から近江国衙に入るには瀬田橋を渡らねばならない。
この時点ですでに瀬田橋は官軍の手に落ち、焼き落とされていた。※
近江国府に入って、そこから天下に号令しようとしていた仲麻呂の目論見は
もろくも崩れた。(なお、当時は瀬田は勢多と書いた。)。

※ この頃は、平安時代のような牛車はまだ普及していなかった。
貴人は人が担ぐ輿に乗っていた。
(担ぐといっても、御神輿のように轅(ながえ)を肩に乗せて担ぐ輦(れん)と
下に下げた手て轅を持つ手輿(たごし)の二種がある。)。
しかし荷物運搬用の牛車はあった。さらに人が乗るものとして、牛が牽く
荷車に屋形を乗せた網代車(あじろぐるま)という牛車はあったようである。
旅にたくさんの荷物を一緒に持っていく場合は、網代(竹または檜の薄板を
編んだ覆い)を張り、屋根をつけた荷車は必須だったろう。
そうした車に婦女や子供が乗ることもあったと思われる。
仲麻呂一行は家族を引き連れての脱出であったから、婦女子や老人が
大勢いた。これらの人のすべてが輿で運ばれたとは到底思われない。

なお、明治になるまで天皇は輿に乗っていた。
どの時代でも、天皇が牛車に乗ることは絶対になかったのである。
鳳輦という鳳凰の飾りのついた輦が天皇の正式な乗り物である。
一般的な用途では屋形の頂に葱花の形をした金色の玉を据えた葱花輦
(そうかれん)という輦が用いられた。

御神輿は神の御輿であるから、鳳凰の飾りがついているのが一般である。
屋根の中央に葱坊主のような飾りをつけた葱花輦型神輿もある。
https://www.youtube.com/watch?v=DHOjcZXnYrE
玉神輿という名で葱花輦神輿を担いでいる祭りもあるようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=z-ie_xS2MCE

普通の乗り物としては四方輿(よもこし、しほうこし)という簡易な構造の
ものが用いられた。四方に御簾を下げて人々の視線を避け、切り妻の
屋根を乗せただけの輿である。
http://www.iz2.or.jp/koshi/shurui.html

516 :列島縦断名無しさん:2020/08/07(金) 05:34:59 ID:VS6ahrkN.net
※ 
山城守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智に率いられた数百騎の官軍は、
田原道を通って瀬田に急行し、瀬田橋を焼き落とした。
田原道は(たわらみち)」は現在の城陽市青谷(もとは綴喜郡青谷村)から
宇治田原の禅定寺を経て滋賀県大津市の瀬田に至る道である。
平城京から青谷村まではほぼ北に直進すればよい。そこまでの道は官道の
一部でもある。しかし青谷村から右折して宇治田原町( 綴喜郡田原村)に
さしかかると道は険しくなる。禅定寺(当時は無かった)からの山越えの道は
現在廃道となっているほどである。
仲麻呂の一行は、牛車で山越えは無理と判断し、田原道を避けて宇治道
(逢坂越えの道)を利用したのだろう。
(参考)
其夜、相招黨與、遁自宇治、奔據近江、山背守日下部子麻呂、
衛門少尉佐伯伊多智等、直取田原道、先至近江、燒勢多橋。
押勝、見之失色、即便走高嶋郡」(「続日本紀」卷廿五 淳仁紀五)

なお、天平宝字八年八月(764年、仲麻呂の乱の一ヶ月ほど前である)、
朝廷は大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐に造池使を派遣した。
灌漑用の池を掘ったり水路を作ったりするなどの職務である。
これには大規模な民衆徴発が必要であるため、仲麻呂による兵力徴発の
準備であったとする見解もある。
皮肉なことに、近江の造池使は朝廷軍として働いた。
仲麻呂の乱の当時、近江国の造池使は淡海三船であり、近江国庁の近くに
いた。三船は、造池使判官・佐伯三野と共に近江国衙にいた仲麻呂の一味を
捕縛するなどして、乱の鎮圧に貢献したという。
佐伯三野は、この後さらに軍勢を率いて琵琶湖西岸を北上し、仲麻呂追討に
あたっている。この軍勢が、近江の造池使に徴発された役夫を中心とした
ものであることは明らかである。

ここで地理を説明しておく。琵琶湖を大きな漏斗(じょうご)に例えると、一番下の
すぼまった部分から川が流れ出ている。瀬田川である。
この瀬田川の両岸が今の大津市である。
大津市は琵琶湖の南端、漏斗でいえば一番底の部分に接する湖岸の町であり、
瀬田川によって東西真っ二つに分かれた町なのである。
近江国の国衙(官庁街)は、大津市の右半分、瀬田川の東岸側にあった。
だから西の方から来た仲麻呂勢が国衙に行くには瀬田橋を渡らねばならない。
当時、瀬田橋以外に橋はなかったから、橋を焼かれれば万事休すであった。
橋を渡れば近江国衙はほんの一キロ先である。
仲麻呂は切歯扼腕したであろう。
(当時の瀬田の唐橋の位置は現在より80メートルほど下流にあった。)。
なお、保良宮は瀬田の橋の西側にあった。近江国衙は瀬田の橋の東の橋詰
から1キロほど、保良宮は西の橋詰から1キロほど。
瀬田の橋から見るとパラレルな位置関係になっている。
橋を渡れなかった仲麻呂勢は、その晩は保良宮に泊まったのだろう。
保良宮は仲麻呂がほとんど独断で作ったものである。
中国かぶれの仲麻呂が、中国の皇帝がいくつもの陪都を持つことを真似、
淳仁天皇に詔を発せしめて造営したのである。
詔に曰く、「朕思う所有り、北京を造らんと議る」。
ここから、保良宮は唐の陪都「北京太原府」を意識したものであることが分かる。
仲麻呂もまさか一族一党を引き連れて奈良を脱出、保良宮に泊まることに
なるとは思ってもいなかっただろう。
考えてみれば、保良宮を造らなければ孝謙と道鏡の出会いもなく、孝謙と
淳仁・仲麻呂の決定的対立も起きなかったはずである。
その夜、仲麻呂はつらつらとそんなことを思ったかも知れない。

瀬田の唐橋 空撮 https://www.youtube.com/watch?v=oZKgq0uEKBI

517 :列島縦断名無しさん:2020/08/09(日) 04:59:37 ID:2upu8np6.net
仲麻呂は近江の国衙に行くことを諦めた。
近江が駄目となれば、息子の辛加知(しかち)が国守となっている越前に行き、
その国衙を基盤とする以外にない。瞬時にそう決心したのである。
そうは言っても、人も牛馬も疲れ果てている。
前夜に京の都(奈良)を出て、夜通し行進してきたのである。
瀬田に着いたのは明け方ぐらいであろうか。
仲麻呂勢は保良宮に入って休息し、その日はそのまま宿泊した。
再び行動を開始したのは出立三日目の朝である。
越前に行くなら、まずは琵琶湖の北に行く必要がある。
東岸を辿ることはできないので、西岸を通って琵琶湖の北に出ようとした。

一行は坂本、堅田、高島と西岸を北上した。
高島郡では前少領の角家足(つののいえたり)の館に泊まった。※
角家足は以前近江国の少領(次官)を拝命していた豪族である。
当時地方豪族に官位を与え行政の一端を担わせるということはよくあった。
この晩、仲麻呂の運命を暗示するように、仲麻呂が寝んだ建物の屋根に甕ほど
の隕石が落ちたという。
仲麻呂は、ここで同行していた塩焼王を天皇に即位させた。
淳仁帝を連れて都を脱出することは出来なかったので、新たに自前の天皇を
立てる他なかったのである。
続日本紀では、今帝(きんてい)あるいは今皇(きんこう)と呼んでいる。
角家足の屋敷で即位の儀式がなされたのだろう。
自分の子の真先と朝狩を親王として三品(さんぽん)に遇したという。
仲麻呂はこのことを太政官印を用いて諸国に知らせ、先の偽りの天皇の勅に
従ってはならない、この新しい勅に従うようにと命じた。

※ 角家足の館は、今の滋賀県高島郡今津町北仰(きとげ)あたりにあったという。
仲麻呂は、高島郡に鉄穴(かんな、製鉄所)を所有しており、角家足は鉄作りの
民を統率する族長であったらしい。

今帝を奉じた一行は再び北上を続け、やがて北近江の山地に入った。
山道を辿って越前との国境に至った。
ここに愛発関(あらちのせき)という関所があった(今この場所は福井県敦賀市)。※1
関所はすでに官軍によって閉じられ通行できなかった。
強行突破をはかるも撃退された。
実際のところは、仲麻呂勢が関所を通過できても意味はなかった。
越前の国衙はすでに官軍が占拠していた。国守を務めていた仲麻呂の息子の
辛加知は、すでに官軍の軍士に斬られて死んでいたのである。※2

518 :列島縦断名無しさん:2020/08/09(日) 05:00:33 ID:2upu8np6.net
※1 愛発関(あらちのせき)は三関(さんげん)の一つ。
三関は令義解の規定する三つの関で、伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛発である。
それぞれ重要な官道上にある。
鈴鹿関は東海道を伊賀国から伊勢国に入った所に置かれ、不破関は東山道を
近江国から美濃国に入った所に置かれた。
そして北陸道を近江国から越前国に入ったところに置かれたのが愛発関である。
これら三関は特別に重要視されており、関守でなく国司が交替で赴き守備に
あたることになっていた。
さらに、天皇の崩御や反乱など、政治的危機が発生したときには閉ざされることに
なっていた。これを固関といい、過所(後の通行手形)を持っていようといまいと
一切の通行を禁ずるものであった。
伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関の三つとも、東国への入口
であり、その国の国府よりも畿内側にある。このことから、反逆者が東国へ逃走
したり東国と連絡することを阻止するための関であると考えられている。
なお、愛発関の遺跡は今日まで発見されていない。
愛発関があった場所は確定していないのである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Three_barriers_in_Japan.png

※2 橋を焼いた官軍は、仲麻呂勢が湖西に去るとただちに近江国衙に向かった。
そこで二派に別れ、指揮官日下部子麻呂は国府を占拠し仲麻呂派の者たちを
斬殺した。佐伯伊多智は琵琶湖の東岸を長駆して越前の国府になだれこみ、
国守である仲麻呂の八男・辛加知を斬殺した。
辛加知はまだ事変のことを知らずにいた。伊多智はズカズカと辛加知の部屋に
入って行き、物も言わずに斬り殺したらしい。

519 :列島縦断名無しさん:2020/08/21(金) 06:29:47 ID:N9k2NU2o.net
越前の国府を占領した官軍の一部は、さらに愛発関に向かう。
愛発関で仲麻呂勢を撃退したのは物部広成という武将である。
東国の武人(武蔵国入間出身)で、後に桓武朝の蝦夷征伐で坂上田村麻呂の
幕僚として活躍した。
おそらく愛発関を守っていたのは、板東の兵からなる精鋭部隊であった。

関所越えを断念した仲麻呂一行は琵琶湖まで引き返した。
今度は船を調達して琵琶湖を渡ろうとした。
湖北地方の浅井郡塩津まで行き、東から越前に入ろうとしたのである。
塩津からの道だと愛発関は通らないで済む(別の関はあったが。)。

しかし船は強風で押し戻され、無理に進むと転覆しそうになる。
琵琶湖横断を諦めるしかなかった。
そうなるとやはり北近江の山地を通過するしかない。再び愛発関まで進んだ。
今度は正面から関所を打ち破るのではなく、数十人の精兵が山中から
愛発関を奇襲するという作戦をとった。だが七、八人が戦死して失敗。
またもや琵琶湖畔まで戻ることになる。
越前に行くことは不可能と分かった。仮に可能でも国守である息子が死んで
いては無意味である。このあたりで仲麻呂も息子の死を知った様子である。
おそらく敵に教えられたのだろう。
越前行きという目的を失った一行は湖畔を南下した。
移動の目的は何だったのだろうか。
平城京にとって返し孝謙に一矢報いようとしたのだ、と考える研究者もいる。
しかし多数の女性や幼老を抱えた軍勢にそれは不可能だろう。
移動の目的のまず第一は食料の確保だろう。
食料は、琵琶湖沿岸を移動しつつ、縁故の豪族などから入手する以外に
なかったのではないか。
それならば山がちの北近江よりも人口の多い湖西地域の方が有利である。
そちらへ向かえば当然官軍との衝突が起こるが、仲麻呂勢は将兵一同
官軍との決戦を望む気分になっていた。
一戦して勝利すれば天下の風向きも変わる。
勝ちさえすれば事態は良い方向に展開するだろうと、全力で決戦を挑もうと
していた。窮地に陥った人々がよくとる行動である。
この時点で仲麻呂勢が最終的にどこを目指していたか、想像するしかないが、
仲麻呂は丹波の一部にも支配地があったので、丹波を目指していたのでは
ないかという人もいる。丹波ならば、三尾埼のところから山陰道を行くことになる。
三尾埼は、このまま湖畔を南下していけば自然に行き着く場所であった。※

※ 「埼」は「崎」と同じ意味で、岬や山の突き出た所を表している。
今日でも、海図では岬の名前はすべて「埼」で書かれている。
犬吠埼、御前埼、石廊埼など。
三尾埼も湖の中に突き出しているので、埼という字が当てられたのだろう。

520 :列島縦断名無しさん:2020/08/21(金) 06:32:30 ID:N9k2NU2o.net
官軍が瀬田から攻め上ってきた。佐伯三野・大野真本の率いる討伐軍である。
仲麻呂の乱勃発後数日で編成された軍勢で、乱の当初に瀬田まで急行して
瀬田橋を焼いた部隊とは異なる。
高島郡まで北上してきていた。
湖畔を南に向かう仲麻呂勢も、南から来た官軍も、一本の同じ道を進んでいる。
両軍の衝突は避けられなかった。
ここで仲麻呂勢は三尾埼(みおのさき)の古城に立て籠もったといわれる。
たしかに三尾には三尾城(みおのき)という(三尾柵とも書く)山城があった。
日本古代の山城である。
天智天皇が皇太子時代に西日本一帯に築いた山城の一つと思われる。
壬申の乱のときに近江朝廷側の基地となり、落城したという。
そのときから90年も経ていることを考えると、石垣や土累は崩れ、雨風を凌ぐ
建物も何もなかっただろう。ただの城跡のようなものだったと思われる。
しかも、90年経てば樹木が生い茂り、人が入っていけるような状態では
なかったのではないか。
とにかく、90年前の古城に立て籠もったとするのは無理があるので、最近の
書物には三尾城籠城のことは触れられていないようである。

三尾城の形状も、我々が想像する中世の山城のようなものとは違うらしい。
そもそも古代の山城が果たして戦闘用の城砦だったのか、疑問を持つ人も多い。
単なるランドマーク的な建造物、あるいは遠目で巨大な城郭と見せるための
映画のセットのようなものとする説もある。
たしかに規模が長大なものが多く、このような大規模なものを長期にわたって
維持管理できるのか疑問の余地がある。
また、山頂付近の高い場所に造られており、そんなところに多数の兵が
籠もったら水の確保が困難になるだろうという指摘もある。
確かに古代の山城が実戦用の城ではないとの説には説得力がある。
おそらく天智天皇が長大な山城を造ったのは、国威発揚のためだろう。
朝鮮式山城の話を聞き、朝鮮にあって我が国に無いのは恥ずかしいと、
朝鮮にも無いような大規模なものを造ったのではないか。
新羅などからの使者の目を驚かすためのものである。
世界の戦艦から懸絶する巨大戦艦を造り、パリのエッフェル塔を凌駕する
東京タワーを建てた日本人の心性はこの頃から有ったのである。
だから、実戦に役立とうと役立つまいとどうでもよかったのである。
三尾城に関していえば、壬申の乱のときに、とりあえず大量に駆り集めた兵
(当時の戦争は農民を徴発して兵としたものだった)の宿舎としては活用された
可能性がある。

521 :列島縦断名無しさん:2020/08/21(金) 06:33:29 ID:N9k2NU2o.net
1985年の発掘調査で三尾城に比定される石塁の跡が発見されたが、
白髭神社後方の山々に延々7キロにわたって構築されたものであった。
(しかし、石塁の跡が全部三尾城のものと断定されたわけではない。)。
たしかに壬申の乱の三尾の戦いでは、両軍とも数万の規模だったようである。
城というより兵舎の敷地として用いるなら、複数の山々を横断するような規模で
ないと兵を収容できないだろう。※

※実戦用の城と考えた場合、平安時代の志波城(しわじょう、盛岡市)の
発掘調査を報告した文献が参考になる。
それによると、軍団の兵士は5人で最小単位の「一伍」であり、二伍10人を
「一火」として「火長」をおき、一火ごとに炊事を行う。
一火ごとに一つの兵舎に住むのが原則である。
もちろん兵舎は十人が住む規模と決まったものではない。
大きな竈を備え、二火(20人)も三火(30人)も収容する兵舎もあっただろう。
兵舎は竪穴式住居である。
中に竈(かまど)があり、竈の煙は煙道を通って外に排気されるように
なっている。朝鮮のオンドルのような構造である。
寒冷の東北地方だからそうなっているのかは分からない。
大小の竪穴式住居が幾つかと、それを囲む土塁や空堀が小高い丘に
立ち並んでいるようなものであったらしい。
矢戦(やいくさ)がメインの時代だったから、戦いのときには、土塁の上に
木製の楯が並べられていた。
九世紀に入ってからの城柵でさえこうなのだから、古代の山城はさらに
簡略な作りだったと思われる。
実は西南戦争のときに、田原坂の山中に薩軍が同じような陣地を築いた。
薩軍の陣地というのは、政府軍の砲撃を防ぐため、山の斜面の森の中に
構築されていた。仮小屋のような建物の周囲に古畳や古材を積み上げた
ものであった。防壁に覆われた小屋を一つの「塁」とし、その累が木々の間に
数百も築かれていた。
古代の山城では、斜面を切り土・盛り土してそこを突き固める。
これを版築(はんちく)工法という。固めた土台の上に塁を築いた。
石を積んだ石塁を築くこともあった。
ただし石塁といっても多くは地盤の崩れを防ぐためのものである。
戦国時代の城のような、防御のための石垣は稀であった。
古代の山城としては、岡山県の鬼ノ城(きのじょう)が有名である。

522 :列島縦断名無しさん:2020/08/21(金) 06:37:01 ID:N9k2NU2o.net
三尾には中世の山城や戦国時代の城がいくつもあり、三尾城の調査を
してもそれらの遺構と区別がつきがたく、断定は難しいようである。
三尾城の全貌が明らかになることは今後もないだろう。
地元の伝説では湖西線近江高島駅周辺。現在「乙女ヶ池」と呼ばれている
内湖に沿った線路西方の山のどこかと言われているようである。※
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/c166bc8fa02ca8f32338c887a74437c7

※ 戦前まで、琵琶湖周辺には「内湖」と言われる琵琶湖から孤立した湖が
たくさんあった。塩津内湖や入江内湖、大内湖や津田内湖など。
(内湖は戦後に大部分が干拓されて消滅している。)。
奈良時代には、これら内湖だった部分の多くは琵琶湖の水面だった。
現在干拓を免れて残っている内湖は、「○○沼」と呼ばれているものが多い。
youtube の
「彦根 野田沼 曽根沼 周辺 テスト フライト」
https://www.youtube.com/watch?v=iBGJNSdR9AQ
昔の湖面がどのあたりまであったか、よく分かる映像である。
こちらの動画も非常によい。
荒神山の曽根沼空撮(ドローン4k空撮)
https://www.youtube.com/watch?v=VAeU-lbExWI

乙女ヶ池は、現在は琵琶湖の内湖であるが、かつては洞海と呼ばれる
入江だった。湖が現在の湖西線の線路の西側まで入り込んでいた。
乙女ヶ池の北端に大溝城跡があるので、このあたりは陸地であると
思われがちであるが、大溝城は湖の中に突き出した「水城」であった。
城下町も、掘り割りが縦横に走る水郷であった。
九州の柳川を想像すれば近いものがあるかも知れない。
なお、「洞海」は「くきのうみ」と呼ばれ、普通名詞である。
山と山の間の地溝に水が入って深い入り江になったものを言う。

戦いは三尾埼で行われたが、この三尾の半島の付け根の旧道沿いには
呆れるほどに城跡が多い。
https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/uchioroshi-jyo/
それはここが交通の要衝であり、戦略上重要な地域であるということである。

523 :列島縦断名無しさん:2020/08/21(金) 06:37:50 ID:N9k2NU2o.net
三尾とは「澪」(みお)であり「水脈」(みお)である。
澪・水脈というのは浅い水面の中の水路をいう。
川や海で、船舶が底を打たない道筋をミオと言ったのである。
船道ともいった。
今日の三尾崎は、湖の岸を国道が通り、湖岸がきれいなラインを描いて
いるが、当然ながら昔はそうではなかった。
国道の脇に山がせり出しているところでは、湖の沖の方まで陸地になって
いたのである。反対に、国道の脇が平らになっているところでは、水面が
山際まで入りこんでいた。リアス式海岸を想像すればよい。
山が突き出したようなところは、先端の方は州のようになっており、水面が
入り込んだところは入江で、周囲は湿地帯になっているところも多かった。
そうした浅い水面の中をミオ(澪・水脈)が縦横に走っていた。
現在近江八幡市で水郷巡りが人気である。和船で両岸に商家が立ち並ぶ
掘り割りを巡るコースや茅原の中の水路を通るコースがある。
西の湖という内湖があり、そこの芦原の中の水路を手こぎの和船が往く
風景は写真などでもよく紹介されている。
澪・水脈というものは、ああいったものと思えばよいだろう。

三尾埼には官軍が先に到着して待ち構えていたらしい。
そこに仲麻呂勢が到着したが、すぐに戦端が開かれたようでもない。
両軍とも、自分の方は大軍が結集できて、かつ敵勢は少数を繰り出すしか
できないような位置を望むに決まっている。
両軍ともそうした場所を占め、相手が先に手を出すのを待っていた。
官軍の陣は、おそらく三尾山(白髭神社の背後の山)と湖との間の浜である。
戦いは山際の隘路で始まったのだろう。
https://omiiwakura358.shiga-saku.net/e934552.html

524 :列島縦断名無しさん:2020/08/25(火) 08:16:45 ID:zJPx/9/s.net
仲麻呂勢の先鋒は仲麻呂の次男・真先が率いる精鋭部隊だった。
戦意が高く、佐伯三野・大野真本の率いる官軍はタジタジとなった。
仲麻呂軍の軍士たちは妻子や親をともなっている者が多い。
舎人たちもそうである。皆家族を引き連れて都から逃亡してきたのである。
誰もが、自分の家族を守りたいという一心で戦った。
激闘は午の刻(午前11時)から申の刻(午後5時)まで続いたという。
申の刻まで続いたと明言している以上、その時間には戦いが終わった
ということだろう。すなわち戦いは一日では終了しなかった。
古代史の遠山美都男はそう解している。
この点は、これまでの研究者が触れなかったところである。
もちろん、申の刻には勝敗が決して戦いが全て終わったと解することも可能
である。しかし、戦いの後には仲麻呂の家族や党与の公卿たちの処刑が
なされている。
なかんずく、仲麻呂の首は戦いの終わったその日のうち(18日)に奈良の
都に届けられている。夕方5時頃に仲麻呂が殺されたとするなら、さすがに
そのようなことは不可能だろう。
戦いは、夕方5時頃に一旦終了したのである。
さらに、一旦停戦となったとしても、藤原蔵下麻呂勢が到着したのはいつか
が問題となる。
両軍の戦いは、はじめは仲麻呂勢が優勢だったが、官軍に藤原蔵下麻呂
率いる新手(あらて)が登場したことにより形勢一変したという。
この新手が登場した時点がいつか、一旦停戦の前か後かが問題になる。
遠山は、激闘が申の刻まで行われたその日に藤原蔵下麻呂の部隊が現れ、
仲麻呂勢の先鋒は打ち破られ退却したところで一日が終わったとする。
ここはもはや誰にも分からないが、仲麻呂勢優勢のままその日の戦いが
終わったと解する方が妥当と思える。
何故なら、先鋒の真先の部隊は新手(あらて)の藤原蔵下麻呂軍を加えた
官軍に敗れ、敗走して州の中に逃げ込んだのであるが、そのような状態で
翌日まで軍紀が守られ、翌日再び前日のように戦えたとは思えない。
もし敗走してその日が終わったのなら、仲麻呂軍は夜中に逃亡兵が相次ぎ、
軍隊の態をなしていなかっただろう。
この日は、仲麻呂勢が優勢のまま戦いを終えたのである。

525 :列島縦断名無しさん:2020/08/25(火) 08:17:26 ID:zJPx/9/s.net
翌九月十八日。仲麻呂最後の日である。
早暁から戦闘が始まり、押しつ押されつの激戦となった。
数時間の戦いで真先の部隊は疲労困憊した。
そのときに蔵下麻呂の部隊が到着し、官軍に加わった。
精鋭の蔵下麻呂の部隊を加え、官軍は意気が騰がった。
藤原蔵下麻呂は乱の後、従三位となり、近衛府の大将となっている。
このことから、蔵下麻呂の活躍がめざましかったことが分かる。
勢いを増した官軍の攻撃に真先の部隊はついに崩れ、退却した。
仲麻呂勢の陣内に官軍が攻め込んできた。
仲麻呂勢は軍としての統制を失い、小部隊がそれぞれ孤立しながら懸命に
戦うしかなくなっていた。
やがて一隊が崩れたつと全軍が浮き足立ち、北に向かって敗走をはじめた。
敗走といっても、狭い道は人馬でごったがえし、通行はままならない。
多くの者は湖岸の州(す)の中に退却したとある。
勝野の鬼江(かちののおにえ、おそらく今の乙女ヶ池と重なり合う部分が
大きい)の湖面側に広大な州があった。
兵たちは州を通って北に逃げようとしたが、道などなかった。
逃げ場を失って獣のように州の芦原の中に隠れたに過ぎなかった。
州の近くに官軍の船団が現れた。兵を満載し、上陸地点を探している。
仲麻呂の本陣にも敵が迫った。敵より先に、崩れ立った自軍の兵が押し
寄せてくる。仲麻呂ももはや逃げるしかなかった。
勝野の鬼江の奥に船着き場があった。そこで妻子とともに船に乗り、
湖上に逃亡した。
だが、たちまち官軍の船に追いつかれて斬り殺された。
平城京脱出から7日後のことである。
7日の間、仲麻呂一行は琵琶湖の周囲を彷徨しただけに終わった。
最後に仲麻呂とともに船に乗っていたのは妻子ら三、四人だけであったという。

526 :列島縦断名無しさん:2020/08/25(火) 08:18:08 ID:zJPx/9/s.net
続日本紀は、仲麻呂の最後を次のように描写している。
−−−−−−−−−−−
真光(注、真先のこと)引衆而退、三野等乗之殺傷稍多、押勝遙望衆敗
乗船而亡、諸将水陸両道攻之、押勝阻勝野鬼江尽鋭拒戦、官軍攻撃之、
押勝衆潰独与妻子三四人乗船浮江、石楯獲而斬之及其妻子従党
三十四人、皆斬之於江頭、独第六子刷雄以少修禅行免其死而流隠岐国

「真先は衆を率いて退くと、三野らはこれに乗じて殺傷すること
はなはだ多かった。
押勝は味方の敗れた様子を遙かに望んで船に乗って逃亡をはかった。
押勝の味方はただ妻子三人か四人、これを船に乗せ入江に浮かんだ。
石楯は押勝を捕まえて切り、さらに妻子や従党三十四人、皆これを
入江の浜で斬った。ただ一人、第六子の刷雄は禅行を修めていたため
その死を免れ、隠岐国に流された。」。

仲麻呂の第六子・刷雄(よしお)は僧であったため助けられた。
なお、「禅行」といっても禅とは関係ない。仏教を修めたということである。
刷雄は鑑真の日本人弟子延慶の弟子となり、後に唐に留学して仏教を
学んだ。そうした経歴が考慮されたと思われる。
刷雄は隠岐国への流罪となり、のちに赦されて都に呼び返され、桓武天皇の
時代に大学頭や陰陽頭を歴任している。
唐招提寺の建立にも尽力したといわれている。

他の一族や家臣の大半は戦死し、あるいは逃亡離散した。
生き残ったのは仲麻呂の家族、親類、従者など三十四名で、全員首を
刎ねられた。今帝と名付けられた塩焼王も首を切られた。
彼が続日本紀の「三十四人」の中に入っているのかどうかは分からない。

捕虜となった上、別の場所に集められて斬られた人も少なくなかったろう。
戦場で殺されて首を取られれば戦死であり、いったん捕虜となって殺され
れば処刑であった。その違いはただの偶然にすぎない。
仲麻呂の首は飛駅(早馬)により、その日のうちに平城京にもたらされた。

527 :列島縦断名無しさん:2020/08/25(火) 08:20:33 ID:zJPx/9/s.net
仲麻呂の息子たち(藤原巨勢麻呂、藤原真先、藤原訓儒麻呂、藤原朝狩、
藤原小湯麻呂など)は戦死している。
三尾埼の乱戦の中で討たれたのであるが、最後の様子は分からない。
公卿が自ら刀をふるって斬り合いをすることは多くはあるまい。
戦いは一方的な殲滅戦のようになり、官兵は公卿や高位の者を見るや
我先にと襲いかかり首を獲った。首の奪い合いのような事態も多々起きだ
だろう。戦いの最中に首を獲られれば戦死である。
仲麻呂の息子たちや党与の公卿に戦死が多いのは、そうした事情の
せいだろう。

唯一藤原執棹(とりさお、仲麻呂の九男)は戦死ではない。
勝野の鬼江で一族郎党44人とともに斬殺された。続日本紀に記録がある。
このような形で、戦場のあちらこちらで仲麻呂の一族や係累の者が、その
従者や兵とともに殺されていったのだろう。
残った妻妾や侍女たちは野獣の前に投げ出された獲物も同然であった。
ことごとく陵辱され、しかる後に斬殺される者もあり、戦利品として連れ去られる
者もあり、子供の泣き叫ぶ声や女たちの悲鳴の渦の中で、人々は自分の運命に
したがっていく他なかった。

仲麻呂の首を取ったのは、石村石楯(いわれのいわたて)という一兵率であった。
この兵は、大初位下という最下級に近い位階から一挙に十六階級昇進、従五位下
に叙せられた。翌年には勲四等を受勲している。
明治維新前の朝廷では、従五位下以上の位階を持つ者が公卿とされていた。
一兵率がいきなり公卿に列することになったのである。
孝謙側の人々の安堵と喜びがいかに大きかったか分かるというものである。

藤原仲麻呂は、都を去るにあたって塩焼王を同道させ、最後まで連れ歩いた。
塩焼王は、その父親が淳仁天皇の父と兄弟(腹違い)である。
淳仁とは従兄弟になる。
塩焼王の姉の陽候女王が藤原仲麻呂の妻の一人である。
(仲麻呂には妻が何人いたか分からないほどいた。陽候女王は仲麻呂の八男
藤原辛加知を生んだ。辛加知は乱の時点で越前国守である。)。
塩焼王はいきなり仲麻呂勢と行動を共にすることになり、途中で天皇とされた。
そして仲麻呂やその家族とともに(或いは別に)斬り殺された。
本人も訳が分からなかったであろう。
仲麻呂は当初、当然ながら淳仁帝を連れ出すつもりだった。
淳仁帝は仲麻呂の傀儡であり、仲麻呂を父と呼んでいた。
淳仁帝は大炊王の時代に、仲麻呂の亡き長男真従(まつぎ)の未亡人・粟田諸姉
を妻に迎え、仲麻呂の私邸に住んでいた。
美人の未亡人を餌に仲麻呂に取り込まれたような形になっていたのである。
天皇にしてもらったのも仲麻呂のおかげである。
乱にあたって淳仁帝が仲麻呂と行動をともにしなかったのは、孝謙側に拘束されて
いたからだといわれる。あるいは仲麻呂の前途を危ぶんで日和見したともいう。
いずれにせよ、現天皇を奉戴することが出来なかったのは、仲麻呂の大きな躓きで
あった。

528 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:11:25.71 ID:6fA9cjB/.net
淳仁帝は仲麻呂と行動をともにしなかったが、仲麻呂という大きな後ろ盾を失い、
かつもともと孝謙に憎まれていたこともあって廃位された。
天皇の地位についた者が廃位されるというのは、後にも先にもないことである。
崇峻とか大友皇子(明治になってから弘文天皇とされた)のように非命に倒れた
例はあるが、廃位という例はない。
淳仁廃位と流罪の宣告は乱終結の一ヶ月後のことである。
乱後、逮捕されるまでの間、淳仁帝には誰も近づかず、中宮院に一人放置
されたような状態だった。淳仁の胸中は不安で一杯だっただろう。
それにしても一ヶ月は長い。
淳仁帝が何かの行動を起こすか見定めるためであったのだろうか。
十月九日、突然太上天皇の軍が中宮院を包囲し、淳仁を連行した。
あまりに急だったため、身支度も調わなかったという。

続日本紀は天皇逮捕の部分を以下のように記述している(読み下し)。
「高野天皇(注、孝謙太上天皇のこと)、兵部卿和気王、左兵衛督山村王、
外衛大将百済王敬福らを遣わして、兵数百を率ゐて中宮院を囲ましむ。
時に帝遽(にわか)にして衣履(いり)に及ばず。使者これを促す。
数人の侍衛奔散して、人の従うべきもの無し。
僅に母家三両人と、歩みて図所寮の西北の地に至りたまふ。」。

529 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:12:43.16 ID:6fA9cjB/.net
天皇としての衣服を整える余裕もなく、沓も履かず、普段着・裸足のままで
引き立てられたとある。
淳仁は召使いたちと図書寮(ずしょりょう)まで逃げ、そこで捕まったといわれて
いるが、続日本紀によれば、使者が御座所に参内しており、促されて図書寮の
庭に連行されたのである。
図書寮とは、公文書の作成や保管、書経などをする部署である。
中務省に属する役所であるから、東方官衙(かんが)地区と呼ばれる場所に
あったはずである。朱雀門から見て朝堂院右側の官庁街で、中宮院からは
大ざっぱに言って300メートルほどの距離だろうか。
そのどこに図書寮があったかはもちろん分からない。
淳仁はそこに母親や妻とともに連れてこられ、庭に座らされた。
山村王が建物の奥から現れた。孝謙の詔が記された巻物が命婦から侍従へ
渡され、侍従がかしこみながら膝行(いざり歩き)して山村王に手渡した。
山村王が立ち上がって廊下まで進み、地面に控えた淳仁たちに向かって詔を
読み上げた。淳仁の廃位と流刑を命ずる詔であった。

2002年、この淳仁廃位の「続日本紀」の記事は改竄されているとする研究が
発表された(中西康裕「恵美仲麻呂の乱」)。廃位は十月九日ではなく、仲麻呂
の乱が勃発した九月十一日のことであるとする。
中西によれば、続日本紀の改竄は、「太上天皇が戦いを仕掛け、天皇を廃位
して権力者を倒した、皇位を簒奪したという史実をカモフラージュするため」で
ある。遠山美都男もこの説に賛同している。

530 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:13:36.03 ID:6fA9cjB/.net
たしかに、仲麻呂の乱が鎮圧されたあとの淳仁天皇の一ヶ月の生活は
きわめて想像しがたい。
淳仁は、後ろ盾の仲麻呂を失いながら、依然として天皇として過ごしていた
のだろうか。
天皇に仕える役人は大勢いるはずなのだが、彼らは乱後もその前と同様に
仕事をしていたのだろうか。
内裏にあっては采女という女官たちが天皇の世話をするのだが、女官たちは
それまで同様に天皇に仕えていたのか。
食事はどうだったろう。天皇の食事は大御食と呼ばれ、神に供える食事として
特別に作られた。大御食が従前どおりに作られ、運ばれていたのか。
これらについて肯定的に考える人はまずいないだろう。
淳仁が、今や絶対権力者となった孝謙の下で従前どおりに天皇としての
生活を続けられたとは到底思えないのである。

531 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:14:17.85 ID:6fA9cjB/.net
淳仁はどこかの部屋で監禁されていたと想像するのが一番自然である。
しかし、天皇の地位をそのままに部屋に押し込めておくなどということがある
だろうか。
淳仁を連行するために数百の軍勢が中宮院を取り囲んだというのもおかしい。
仲麻呂の一族一党はすでに壊滅しているのである。
平城宮の中に仲麻呂派の人間は一人もいない。
その中で天皇と二人の女性(母と粟田諸姉※)の身柄を確保するために、数百の
兵を催すのは大袈裟過ぎる。
数百どころか、数十人でも多すぎるくらいである。
さらに、三人を引き立てるのに、早朝から大騒ぎをする必要もないはずである。
天皇は祖先祭祀のための早朝の務めがあり、朝は早かった。
当時は役人の登庁も早く、暗いうちに家を出て、日の出の頃には出勤して
いた。朱雀門が開くのは日の出の20分ほど前だったという。
兵が中宮院を囲んだのは役人が登庁する前だったろうし、天皇がまだ衣服も
つけないうちというのだから、夜明け前であったことは確実である。
夜明け前というより、むしろ深夜というべき時間ではなかったか。
淳仁はそれこそ布団の中から引き立てられたのかも知れない。
仲麻呂の乱終結後の淳仁は、もはや孝謙の虜(とりこ)にすぎなかった。
虜囚のようになっている淳仁の身柄確保のために、何故に暗いうちから軍隊を
動かさなければならないのか。あまりにも仰々しく、不自然である。

※粟田諸姉は淳仁の嬪(ひん)である。嬪とは皇后でも后でも夫人でもなく、
天皇の寝所に侍る女官である。従四位・五位下までの位が与えられる。
平安時代の女御・更衣のようなもの。

532 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:14:54.90 ID:6fA9cjB/.net
夜も明けぬうちから数百の兵を繰り出し、中宮院を取り囲んだという行動は、
仲麻呂の乱が終結し、仲麻呂の党与が一人もいなくなってからの行動とは
考えにくい。
仲麻呂が健在の時、すなわち仲麻呂の乱勃発前のことなのではなかろうか。
むしろ、乱のきっかけとなった行動とすれば一番自然である。
天皇は図書寮に連れ去られ、そのあと鈴印の争奪戦となった。
淳仁は仲麻呂の掌中の珠であったから、天皇の近くには仲麻呂の派遣した
親衛隊のような部隊がつねに待機していたと考えるべきである。
その指揮官は、その日は仲麻呂の次男・訓儒麻呂(くずまろ)であった。
天皇は寝床からひっそりと連行されたので気づかなかったが、山村王の
率いる部隊が中宮院に侵入し鈴印を持ち去ろうとすると、訓儒麻呂の部隊
との間で戦闘が起こった。
その後は死者続出の激戦になったのは上述のとおりである。

孝謙方の軍事行動は準備され抜いており、仲麻呂邸から出撃してきた谷田部老
率いる軍勢も撃退された。おそらく平城京の門はすべて閉じられていた。
塀を乗り越えて侵入をはかる谷田部老の軍勢は、待ち構えた朝廷軍に次々と
射殺された。
仲麻呂は自邸(田村第)に孤立し、官軍(孝謙方)と全面戦争に踏み切るか否か
の決断を迫られた。しかし仲麻呂は淳仁を失っている。
淳仁がいれば天皇と太上天皇との戦いということで天下を二つに割っての戦い
も可能だが、仲麻呂には戦う名目がなかった。
今戦えばただの逆賊になってしまう。
仲麻呂がその夜一族を率いて近江に去ったのはそのためである。

533 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:15:26.67 ID:6fA9cjB/.net
仲麻呂は乱の途中で塩焼王を天皇に立てた。場所は豪族の館であったとは
いえ、儀式は本格的なものであった。
仲麻呂は、淳仁という天皇がいながら別に天皇を立てたのだろうか。
自ら推戴した天皇がありながら別に天皇を立てるというのは晦渋である。
仲麻呂は、淳仁天皇が廃位されたことを知っており、だからこそ新たに天皇を
立てたのではなかろうか。
近江にいても、都から伝わってくる情報で淳仁の廃位を知ることぐらいは
できただろう。
逆に言うと、仲麻呂が今帝という天皇を新たに立てたことからしても、淳仁帝の
廃位は乱の当初に行われたと考えるべきである。
すなわち、続日本紀の十月九日淳仁廃位の記載は、本来九月十一日の記事
として記入されるべきものなのである。

さらに、山村王が図書寮の西北で淳仁に語り聞かせたという宣命に、
「是のみに在らず、今聞くに、仲麻呂と心を同じくして窃か(ひそか)に
朕を掃わむ(はらわむ)と謀りけり」という文言が見えるが、仲麻呂が
敗死して争乱はとっくに鎮圧されているのに、「今聞くに」との文言は
不可解である。この宣命は十月九日ではなく、仲麻呂の乱の勃発した
日の朝、九月十一日に発せられたとするならばその疑問も氷解する
のである。

534 :列島縦断名無しさん:2020/09/29(火) 08:16:15.09 ID:6fA9cjB/.net
仲麻呂の乱は孝謙上皇方が仕掛けた戦いであり、戦いの最初の目標は
何といっても淳仁天皇の身柄確保であった。
孝謙方の最初の軍事行動のすべては、この一点に集中していた。
これは間違いない。
鈴印の争奪戦など本当にあったのかどうか。
中西によれば、鈴印を奪ったり奪い返すというような戦いはなかったという。
続日本紀の描写は淳仁帝の身柄確保をめぐっての戦いであるとする。
たしかに鈴印など天皇の重みに比べれば何ほどのことでもない。
加えて、鈴印など小さなもので、持って逃げてしまえばそれまでである。
球技ではあるまいし、奪ったり奪い返すというようなものではない。
孝謙方と仲麻呂勢との激戦は淳仁帝の身柄をめぐってのものであった。
淳仁を連行されたので、その奪還をはかって訓儒麻呂など仲麻呂の軍勢が
繰り返し戦いを仕掛けたということなのだろう。
その戦闘を、鈴印の奪い合いの話にすり替えているのである。
ともかく、続日本紀の描く淳仁確保の情景は、乱の初日の早暁のことと
考えるのが妥当である。この点、全面的に中西説によるべきである。

535 :列島縦断名無しさん:2020/11/25(水) 07:15:46.92 ID:SHs8VtbF.net
淳仁は十月十四日に淡路島に配流された。
中西説にしたがい、仲麻呂の乱の初日・九月十一日に廃位されたとすると、
一ヶ月以上経っている。
その間は、平城宮内のどこかの役所の一室に監禁されていたのだろう。
孝謙は淳仁を廃して大炊(おおい)親王とし、淡路公(あわじのきみ)と称する
よう命じていた。だから天皇の御座所である内裏での監禁はあり得ない。
軟禁でなく監禁と判断するのは、孝謙の性格と淡路島配流のときの冷酷な
仕打ちから、そのように考えるのが自然だからである。
淡路に出立するときに、大炊親王は小子部門(ちいさこべもん)まで歩き、
門を出ると馬で淡路に向かわされた。※
輿ではなく馬に乗せられ、顔を晒しながら道中させられたのである。
淡路島に行くためには、当然にまずは難波に向かうのであるが、竹内街道に
せよ龍田道にせよ、都の南端・羅城門を出て下ツ道に出ることが必要である。
小子部門から直接南下するのなら東一坊大路を通るが、演出効果を狙うなら
朱雀大路を通るはずである。
孝謙は勿論、朱雀大路を通るよう命じただろう。
廃位させられたとはいえ、元天皇を輿に乗せず、馬に乗せて牽いていくという
時点で、すでに淳仁を晒しものにする意図を見てとれるのである。
朱雀門の前の広場から羅城門まで、朱雀大路の長さは3.7キロ。
大路の群衆の前を馬で引き立てられて行ったというのは、まるで江戸時代の
市中引き回しのようである。
なお、淡路までの護送を命じられたのは、三尾埼の戦いで活躍した藤原蔵下麻呂
である。奪還の噂でもあったのかも知れない。

※ 小子部(ちいさこべ)とは、少年を組織して宮中での雑務や行列の供を
させた品部である。小子部を率いたのが小子部連(ちいさこべむらじ)で、
門の警護も任務としたらしく、小子部氏が護る宮門だから小子部門と呼ばれた。
平城宮の東側の中程にある門である。
宮廷十二門のうちの一つで、少年が警護するような門だから重要な門ではない。
今でいう通用門である。
ここを出るとすぐ北側に、上で触れた平城京左京三条二坊宮跡庭園がある。

536 :列島縦断名無しさん:2020/11/25(水) 07:21:55.35 ID:SHs8VtbF.net
淳仁の廃位によって天皇が空位となったので、その月のうちに孝謙太上天皇が
重祚した。称コ天皇である。
それから一年経った翌年の十月、淳仁(大炊親王)は配所からの逃走を企てて
捕らえられた。
翌日、配所の建物の一隅で亡くなっていたという。
いかにも不自然な死である。殺害されたと見るのが妥当である。
大炊親王は淡路島で死んだのではないとする説すらある。

淳仁の死は、称コの紀伊行幸中のことである。
たまたま紀伊行幸中に淳仁が死んだだけなのか、それとも淳仁の死について
行幸は何らかの意味を持つのか。
それも併せて後に検討したい。

537 :列島縦断名無しさん:2020/12/26(土) 07:54:12.61 ID:Fl82rFsQ.net
淳仁を廃帝とし、自ら即位(重祚)した称コ(重祚以降は当然称コと呼ぶ)は、
どのような政治を行うつもりだったのか。

1.764年9月 道鏡を大臣禅師に任命。
大臣禅師などという職名は勿論律令の規定には存在しない。
称コが新たに創設した役職である。
「大臣」としたのは、太政官のメンバーとするためである。
道鏡を大臣にした理由は、称コの宣命「帝(みかど)の出家しています世には、
出家して在る大臣もあるべし」の一言に尽きる。
「出家した天皇が政治を行う世であれば、出家した大臣がいてしかるべき」
というのである。
大臣というのは、天皇に仕える臣下の最高位である。
したがって、大臣禅師とは、天皇に仕える禅師(僧)のうちの最高位の者、と
いうことになる。

2.翌765年閏(うるう)10月、道鏡を太政大臣禅師とした。
上で、大臣とは臣下の最高位であると言ったが、太政大臣とは大臣の中の
最高位である。ということは、臣下の中の最高の地位であり、トップ中の
トップである。この時代まで、太政大臣とは皇太子に準ずる地位とされ、
国政全般を管掌するものとされた。皇族以外で太政大臣の地位に昇った
者は、この時点まで藤原仲麻呂だけであった。

538 :列島縦断名無しさん:2020/12/26(土) 08:00:38.44 ID:Fl82rFsQ.net
道鏡を太政大臣禅師に任じたのは、紀伊国行幸の帰途である。
称コは紀伊から和泉国に入って深日行宮(あんぐう)に宿泊した。
そこで行幸に付き随った紀伊国守に褒美を与え帰国させている。
「紀伊国守小野朝臣小贄、従此而還。詔、賜 ? (変換不可。太絹のことで
ある。)卅疋、綿二百屯。」。
小野小贄という紀伊国守に、太絹三十疋、綿を二百屯与え、帰国させたのである。
これによって行幸は終わったということになる。

平城京への帰途、河内国に至った称コは、そこに置かれた弓削行宮(ゆげのあんぐう)に
五日間滞在する。
その間、二度にわたり弓削寺に行って仏像を拝み、その庭で唐・高麗楽
(とう・こまがく)(唐・高句麗由来の音楽)の演奏なども行わせた。
道鏡とともに新婚旅行気分で旅をし、道鏡の故郷である弓削で寛いだ女帝は
上機嫌であった。
ここで突然、道鏡を太政大臣禅師に任じたのである。
道鏡を太政大臣に任命したその日、称コは行幸に供奉した官人たちすべてに
道鏡を拝賀させた。
平城京に戻ったあとは、行幸に随わなかった官人全てに道鏡を拝賀させて
いる。

539 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:54:19.10 ID:VEznABzo.net
道鏡の扱いだけを並べていけばいいと思ったが、どうにも書きにくい。
話が前後するが、紀伊行幸の出立のところから整理し直したい。

重祚して再び天皇となった称コがまずしなければならないことは大嘗祭で
あった。大嘗祭を経ないと正式に即位したことにはならないのである。

大嘗祭は、天皇が即位後に初めて新穀を神に供え、神とともに食する
儀式である。11月の下卯の日が祭日とされた。
七月までに即位していればその年のうちに、八月以降であれば翌年の
11月に行われた。稲の生育の関係からこのように定められていた。
孝謙が重祚して称コになったのは10月であるから、翌年の11月に
行われたのである。
天平神護元年(765)11月22日のことであった。

称コが大臣禅師道鏡をともなって紀伊行幸に出発したのは天平神護元年
(765)10月13日である。
そうすると大嘗祭が行われる40日ほど前に行幸に出立したことになるが、
この年は閏月のある年にあたった(閏月は19年に7度設けられる)。
だから10月が二度あり、称コ一行は10月13日に出立して、閏10月8日に
還御したのである。だから大嘗祭を準備する余裕は十分にあった。

540 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:54:58.83 ID:VEznABzo.net
紀伊行幸にはもちろん目的があり理由があった。
1.父聖武の紀伊行幸にならってのこと。
聖武は神亀元年(724)10月5日に紀伊行幸に旅立っている。
(今回の称コの行幸に先立つこと41年ということになる。)。
即位したばかりの聖武が一世一代の大嘗祭に臨んで慌ただしい中を
出立したのである。
行幸の目的は、皇統安泰を紀伊の神に祈願することであった。
2.道鏡の故郷弓削に立ち寄り、儀式を行うこと。
出発前にはたぶん臣下の者たちには知らされていなかっただろうが、道鏡を
太政大臣禅師に任ずることは出立前に決められていたと思われる。
僧であるから太政大臣禅師と「禅師」が「付いているが、太政大臣禅師とは
太政大臣に他ならない。もともとは一介の僧であり、出自も低い身分の者を
太政大臣にするというのであるから、驚天動地のことである。
称コも、さすがにこれをやり遂げるには特別の状況が必要だと思ったのだろう。
それで行幸の途中(帰路であるが)に、いきなり任命することを考えたのである。
紀伊行幸は、三関を閉じるという非常時の態勢で行われた。
固関(こげん)が厳戒の手段として行われることは押勝の乱のところで
伸べた。都は、いわば戒厳令下に置かれたのである。
多数の従者たちは都から引き離され、いわば人質の立場にある。
そして太政大臣禅師の任命は、すぐには都には知らされない。
称コ一行が都に還御したときは、任命はすでに既定のこととなっており、
反対するもしないもないのである。
称コはこのような状況を作りたかったのだと思われる。
紀伊行幸というものを、本来出来ないことをするための装置として利用した
のである。
3.淳仁廃帝がが自死するのは紀伊行幸の途中(正確には還御の途中)
である。しかし、淳仁の死はただの自殺とは思えない。
称コが関与していると考えるべきであり、行幸そのものも、淳仁に死を
もたらすためのものであった可能性がある。この点については後述する。

541 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:55:47.36 ID:VEznABzo.net
上述のように、称コ天皇が紀伊国行幸に旅立ったのは天平神護元年
10月13日。
勿論道鏡も一緒である。
女帝と道鏡に男女関係があったかは今となっては不詳と言うしかないが、
この頃には男女の仲になっていたと考えるのが自然かも知れない。
否、二人が男女の仲になったのは、この旅でのことだったかも知れない。
この行幸は、太政官をはじめ主要官人を率いた重々しいものであったが、
称コの気分は新婚旅行に旅立つ新妻のようであったと思われる。
称コが都を離れるのは初めてである。道鏡と一緒の旅である。
晴れがましい大嘗祭を控えている。
それだけではない。
仲麻呂という憎い政敵を抹殺した女帝は高揚していた。
もともとこの女帝には双極性障害(躁鬱症)の傾向があるように思える。
この障害はヒステリーと表裏である。
称コは、行幸に出立する時点で、人生最高の躁状態にあったかも知れない。

542 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:56:10.32 ID:VEznABzo.net
平城京を出立した称コは、その日は小治田宮(おはりだのみや)に一泊。
この宮殿がどこにあったか、場所は不明であったが、近年の発掘で
奈良県明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。
雷丘東方遺跡がそれである。
小治田宮は、推古天皇が603年から約7年間、住まわれた宮である。
その宮殿が奈良時代まで存続しており、淳仁・称コ時代の小治田宮も
同じ宮殿を指すと考えられるようになっている。
(もちろん建物はそのままではないだろうが。)。
おそらく、宮殿でありながら役所のようなものだったのではないか。
称コが小治田宮に宿泊したのは、それが推古天皇の宮殿であったから
かも知れない。
推古天皇は、この小治田宮で、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど
さまざまな政策を実施した。
称コは、150年前の女帝に自分をなぞらえていたのかも知れない。

※小治田宮は小墾田宮とも書く。

543 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:56:32.15 ID:VEznABzo.net
翌日は大原(※)・長岡を巡歴して明日香川に臨み、翌十五日には
檀(まゆみ)山陵に至る。
檀山稜は称コの祖父である草壁王子の陵墓である。
通過に際しては、随従の百官全員に命じ、敬重の礼をとらせている。
騎馬の者はすべて下馬させ、儀仗兵には旗や幟を捲かせ、最敬礼を
させた。
きわめて政治的な意味の大きいパフォーマンスとなった。
祖父の霊に天皇になったことを報告し、安泰を祈ったということか。

※大原は明日香村にある大原の里。
現在の地名は明日香村大字小原(おはら)である。
藤原鎌足の生誕の地といわれる。
生誕地といわれる場所には現在は大原神社が建つ。
称コの父・聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子である。
また称コの母・光明皇后は藤原不比等の娘である。
(聖武と光明皇后は甥と叔母の関係にあった。)。
藤原不比等は鎌足の次男であるから、鎌足は称コにとって高祖父で
あり、曾祖父であるということになる。
称コは、大嘗祭に臨むにあたって藤原氏の始祖の生誕の地に立ち寄り、
天皇としての統治の安泰を祈念したのだろう。

544 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:57:22.79 ID:VEznABzo.net
17日には紀伊国鎌垣行宮に宿泊し、翌18日に玉津島に到着している。
鎌垣行宮は和歌山県那賀郡粉河町付近に比定されている。
鎌垣は粉河(こかわ)の古名である。
粉河町は現在は無くなり、紀ノ川市となった。
現在は、紀の川市鎌垣という地名にその名を留めている。
古くから紀ノ川の水運の川湊で、江戸時代は鎌垣船と呼ばれる船が
行き交っていた。
鎌垣行宮がどこにあったのかはよく分かってはいない。
称コ一行は南海道を通って旅していたが、南海道は紀ノ川の北岸を
辿る道である。だから鎌垣の紀ノ川北岸だろうとしか言いようがない。
この行宮では夜通し雨が降っていた。
翌日の朝には雨が上がり、玉津島に到着した時は快晴であった。
ここに七日間滞在した。この地が行幸の中心的な目的地であったことが
分かる。称コと道鏡は、その間は行楽客のようにして過ごした。
まさに新婚旅行である。
二人して南の浜の望海楼に御して海を眺め、雅楽や雑伎を楽しんだ。
また市を開かせて随従の官人たちが買い物をするのを見物している。
淡路島から淳仁廃帝の死が伝えられたのは滞在して五日目の23日の
ことである。

玉津島は現在の和歌浦である。
https://wakanoura.exblog.jp/28965431/

545 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:58:05.95 ID:VEznABzo.net
和歌浦は、称コにとっても父の聖武にとっても特別な場所であった。
以下、724年の聖武天皇の行幸に関する和歌山市の解説を転載する。
http://www.shodo.co.jp/tenrai/article/serial01/50-1-0.htm

「この時の聖武天皇の行幸は、10月 5日に出発し、10月23日に還御する、
およそ半月あまりを費やすものでした。天皇は玉津島の頓宮(かりみや)に
滞在されて、この間には離宮の造営の視察や、百僚百姓へ恩賞授与などと
いったことがありました。またその折に、山地と調和した海辺の風光を愛でられ、
詔勅を発して、弱浜[わかのはま]と呼ばれていた地が明光浦[あかのうら]と
改名されました。番人を置いて海岸の保全に努めることとし、以後春と秋とに
官人を遣わして、玉津島の神と明光浦の地神とを祭らせることとされました。
その明光浦[あかのうら]が、山部赤人が歌った「若の浦」(後に「和歌(の)浦」
と記すようになる)です※。
さらには和歌山の県名もここから発したと言われています。」。

※和歌の浦[若浦]に潮満ち来れば潟を無み(干潟が無くなってしまうので)
葦辺をさして鶴[たづ]鳴き渡る

葦は海辺には生えない。淡水か汽水域の湿地に生える植物である。
このことから、玉津島には川水が大量に流れ込み、陸側は淡水域や汽水域
であったことが分かる。

546 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 07:59:52.27 ID:VEznABzo.net
昔は、紀ノ川は今のように一本の河川であったわけではない。
数本の河道を流れ、場所によっては網状に分流していた。
今の流れは明治31年以降の河川工事によって作り出されたものである。
その工事によって河口が今の場所になった。
もともとの紀ノ川の本流は、玉津島神社の東側を流れ、和歌浦湾に
流れ込んでいた。
その名残が現在の和歌川である。
昔の紀ノ川の河口を新和歌浦の方へ持っていってしまい、残った河床に
少しだけ水を流し、和歌川という名前を付けたのである。
このように紀ノ川の河口が和歌浦湾だったのであるから、昔は和歌川より
はるかに豊富な川水が、和歌浦湾に流れ込んでいた。
水量は今の和歌川の数十倍もあっただろう。
だから和歌浦湾には多量の砂が運ばれた。
その砂が堆積した浜を弱浜(わかのはま)といい、砂が山になったものを
弱山(わかのやま、わかやま)といった。
和歌浦も弱浦と書いて「わかのうら」と呼ばれていたのである。
別段、弱浦を聖武天皇が「明光浦」(あかのうら)と改名し、それが和歌浦の
語源となったという話を間に挟む必要はない。
「和歌山」の語源も「弱山」を「わかやま」と読んだからに過ぎない。

なお、かつて温泉ホテルや旅館が軒を並べ隆盛を誇った「新」和歌浦は、
明治41年以降、それまで無人の浜や荒野だったところを開発したもの
である。
日本有数の観光地であったが、ホテルなどの廃業が相次ぎ、荒廃が酷い。
聖武天皇や称コ天皇の愛でた光景は和歌浦湾のそれであり、新和歌浦とは
何の関係もない。注意すべきである。

547 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:00:46.25 ID:VEznABzo.net
和歌浦は紀ノ川が海に流れ込む河口にあり、当時は無数の砂州が広がる
浅い海の中に六つの島が浮かんでいる状態であった。
島々へは潮が引くと陸から歩いて渡ることができたという。

六つの島は、船頭山、妙見山、雲蓋院山、奠供山、鏡山、妹背山と呼ばれ、
現在、島になっているのは妹背山だけで、あとの五つの島はすべて陸地に
なっている。
聖武天皇は奠供山(てんぐやま)がお気に入りで、頂上に登って和歌浦の
景観に感動している。
奠供山の麓にあるのが玉津嶋神社である。
和歌浦の六つの島山は、それぞれ神の棲む山とされたので、長く社殿が
作られることはなかった。
本格的な社が建てられたのは江戸時代以降である。
称コ天皇の行幸のときは、奠供山南麓に望海楼が営まれ、そこで雅楽・雑技
が演じられたという。

玉津島を後にした称コ一行は、海部郡岸村行宮を経て26日に和泉国に入る。
ここからはもはや帰路である。
その日は日根郡深日行宮に泊まり、紀伊国守をここで帰した。
翌27日は同郡新治行宮、翌日に河内国に入って河内国丹比郡、29日に
弓削行宮に到着した。
弓削行宮に五日間滞在。内容は上述。
弓削から因幡宮(閏10月3日)を経て平城京に還御。閏10月8日のこと。

548 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:01:14.42 ID:VEznABzo.net
上述のように、称コは和歌浦滞在中に淳仁の死の報に接した。
その四日後に深日(ふけ)行宮※ に到着した。十月二十六日のことである。
和泉の国に至って行幸は終了した。
行幸はほぼ半月に亘るものであった。
この深日(ふけ)行宮が定められたのは現在の大阪府泉南郡岬町である。
大阪府と和歌山県の境にあり、町の南側は和歌山市に接している。
「茅淳(ちぬ)の海」(大阪湾)の中に突き出た岬であり、目の前は淡路島で
ある。淡路島は普通の島影より平たく広がり、半島のように見える。
昔から淡路航路の発着点であった。※2

※1 行宮とは天皇の仮の宿泊所。行幸のときや、事変によって都を失陥した
ときに設けられる。現人神である天皇の御座所なので、仮に質素な建物で
あっても「宮」なのである。
後醍醐天皇の吉野行宮や安徳天皇の屋島行宮などが有名。

※ 2かつて深日港は、洲本や四国へのフェリーの発着点であった。
フェリーは1998年の明石海峡大橋開通により役割を終え、航路はすべて
廃止された。現在は深日港−洲本間に「深日洲本ライナー」という高速艇が
冬場をのぞき土日祝日のみ運航されている。
公共交通機関というより観光船に近い。
国からの「地方創生推進交付金」や岬町・洲本市の負担で維持されている
航路である。

549 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:01:47.78 ID:VEznABzo.net
行宮があった場所は明確でないが、地元の伝承では現在の国玉神社の
地がそれだという。国玉神社は深日の街外れの小山にある。
平たいタワシのような形なので、小山という表現は当たらないかも知れない。
丘とか台地というべきか。
丘の麓、道路際に大きな狛犬と鳥居がある。
鳥居をくぐって長い石段を登ったところに社殿がある。
鳥居の東側に行宮跡の碑がある。
この碑は、神社全体あるいは丘全体を指して「行宮跡」としているのだろう。
行宮の建物があったのは丘の中腹より上のはずである。
何故なら、鳥居のあるあたりは土地が低いからである。
丘の南と西は川に囲まれている。
千歳川という川が、ゆるくカーブしながら丘の下を流れているのである。
川と鳥居の比高は数メートルもない。
現在の神社周辺は木が茂って見晴らしが悪い。
やたらに木が生え、しかも大木が多い。
木を生やしているというより、木を切らずに放置してある感じである。
かつては景勝の地であったらしい。
『大阪府神社史料』にある国玉神社の解説では、「近くは深日の曲浦を俯瞰し、
遠くは摂津連峰の煙霞の聞に望む」と記されているという。
行宮から西に目をやれば、下に千歳川が流れ、その向こうに深日の浦が
見える。きらめく波の向こうは淡路島。青く霞む淡路の島影の向こうには、
はるかに摂津の山並みを望む場所であった。
なお、千歳川は街中に入ると大川と名前を変える。
千歳川と大川はもともとは別の川であったのかも知れない。
神社の周辺を蛇行する川は農業用水に毛の生えた程度の川であるが、
神社の下流からいきなり太くなる。しかも川底までがコンクリートで固められ、
排水路のような川になって街中を流れる。
戦後のある時期に、付け替え工事がなされたのではなかろうか。
深日港も、埋め立てによって作られた港湾のような印象である。
もともとは、国玉神社の近くまで海岸線が来ていたのかも知れない。
全体に、今の南海多奈川線のあたりが海岸で、国玉神社のある場所は、
海岸地帯に突き出した岬のような形状だったのではなかろうか。※
今の深日の街は、かつては満ち潮になれば波の底に沈む干潟であった。
深日行宮は、眼下に干潟の広がる磯辺の丘に立っていた。
称コ天皇は、この淡路島が見える場所に来て何をするつもりだったの
だろうか。

550 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:02:29.26 ID:VEznABzo.net
※標高がわかるWeb地図(国土交通省・試験公開中)で見ると、国玉神社の
一番高いところで標高22メートルほど。神社北側の深日小学校もほぼ同じ
だが、小学校から先は、いきなり標高5〜7メートルほどに落ちる。
国玉神社の南西の鳥居のあたりも標高5〜6メートル。
南の川の近くもその程度。
標高5メートルというと深日港周辺とほとんど変わりない。
ただ、神社北東の小高くなっている場所は55メートルほどもある。
以上からすると、国玉神社の丘は、海岸の低湿地の中に北東から南西に
向かって突き出した舌状台地であったと思われる。

淡路島の淳仁廃帝が配所からの逃亡をはかったのが十月二十二日で、
翌二十三日に死亡している。享年三十三。
称コが深日に到着したのがその四日後の二十六日。
ここから考えるに、称コは深日から淡路島の国守・佐伯助らに命じ、淳仁を
死罪にするつもりだったのではないか。処刑した淳仁のその首を見るつもり
まであったかも知れない。

折しも孝謙女帝は紀伊行幸を終えたところである。
淳仁を淡路から迎え復位させようとする動きもあったようなので、この行幸は
そもそもたんなる物見遊山ではなく、そのような動きを封ずるねらいがあった
のではないかと言われている。

551 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:03:03.03 ID:VEznABzo.net
淳仁を処刑するのは深日到着の前日の二十五日あたりの予定だった。
しかしその事を知った淳仁は逃亡を図り、捕まってしまう。
翌日佐伯助(淡路守で淳仁監視の責任者だった)が淳仁を殺したのは
淳仁奪還の動きがあり、事態を沈静させるには処刑を早めるしかなかった
からだろう(淳仁復位への政治的動向に関しては後に述べる)。
淳仁の逃走という予想外の出来事で処刑は早まったが、称コはその首を
実検している可能性もある。
すなわち淳仁の首は深日まで運ばれた。
さらに一歩を進め、淳仁は深日まで連れてこられ、そこで処刑されたと
考えることもできる。あまりに想像を働かせすぎているように思えるが、
そう推定する根拠も無いではない。
続日本紀には淳仁の遺体は宝亀三年(772)に「淡路島に改葬」されたと
書いてある。処刑の日から七年後のことである。
淡路島で処刑され、元から淡路島に埋葬されていたならば、「淡路島に改葬」
という言葉にはならないだろう。
ただの書き間違いとも思えない。ここの記述は実に不可解である。
女帝は、淳仁のうちひしがれた様子も見たかったし、処刑に脅え命乞い
する様子も見たかった。
称コが血を見るのを好んだとは思わないが、この女帝には小児的な
残虐性が見られる。
淳仁は深日まで連れて来られて処刑された。
配所から逃げ出して捕まり、翌日死んでいたなどとする続日本紀の記載は
虚偽と考えるべきなのかも知れない。※

※ 
「淡路公、不勝幽憤。踰垣而逃。守佐伯宿禰助。掾高屋連並木等、
率兵邀之。公還明日、薨於院中。

淡路公、幽噴に勝(た)へず、垣を踰(こ)えて逃ぐ。守佐伯助禰助、
掾高屋連並木ら兵を率ゐてこれを邀(さえぎ)る。
公還りて明くる日に院中に薨しぬ。」

552 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:03:35.00 ID:VEznABzo.net
ところで、続日本紀、天平神護元年十月甲申(二十六日)条。
称コが深日行宮に到着したときの情景描写は印象深い。

「和泉国日根郡深日行宮に至りたまふ。時に西の空瞑くして、常に異なりて
風ふき雨ふる。」

ただの気象に関する記事であるかに見えるが、西の空とは淡路島の
方向であり、その空が瞑い(くらい、暗い)というのである。
常に異なりて、とは今までずっと晴天に恵まれた道中であったのに、急に
天気が変わったということだろう。
暗い海の向こうに淡路島が黒く霞んでいる。
風が吹き雨が降った。波は逆巻いていただろう。
陰鬱な風景である。
続日本紀の編者は、ただこの情景を描写したのではなく、そこに淳仁殺害
という陰惨な事実を仮託したのではなかろうか。

553 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:04:01.10 ID:VEznABzo.net
なお、この年の八月、紀伊行幸に先立つこと二ヶ月ほど前のこと、和気王も
逮捕され処刑されている。時間が先後するが、ここで触れたい。
和気王も舎人皇子の孫であり、淳仁天皇の甥であることから、子のない
称コの後に皇位を継いでもおかしくない立場にある。
最も皇位に近い皇族であったと言って過言でない。

藤原仲麻呂の乱については終結後も捜査が続けられた。
捜査の結果、連座する者が多数検挙され、375名の者に死刑が言い渡された
ほどである。
(しかし、後に和家広虫が称コを諫めた結果、流罪に減刑されたという。
375人のうち、どれだけの者が救命されたかは定かでない。)。
田村第(たむらのやしき、仲麻呂の邸)は徹底的に家宅捜査された。
その結果、淳仁帝の兄・池田親王が仲麻呂の謀反に同調して夏頃から
兵馬を集めていたことが判明した。
さらに池田親王と淳仁帝の兄である船親王も、朝廷の失政を訴え出る
べく準備をしていた事実が明らかになる。
いずれも田村第から仲麻呂とやりとりした手紙が発見されたというのである。
二人とも淳仁帝より先に天皇候補に挙げられた親王であった。
一番年長の船王(舎人親王の第三皇子)は「閨房修まらず」との理由で、
池田王(舎人親王の第四皇子)は「孝心に欠ける」との理由で斥けられた
のである。
排斥の理由はどうでもよく、はじめから一番若くて操りやすい大炊王
(淳仁、舎人親王の第七皇子)に決まっていたと思われる。
二人の罪科も事実とは思われない。
淳仁帝が廃帝となった以上、この二人の兄が捕らえられ罪に落とされる
ことは分かりきったことであった。
船王は隠岐に、池田王は丹後に流罪となった。

554 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:04:45.40 ID:VEznABzo.net
船王や池田王に続き、八月には和気王が逮捕された。
和気王の父親は御原王(三原王とも書く)といい、舎人親王の第二皇子。
淳仁や池田王、船王たちの兄である。だから和気王は淳仁の甥にあたる。
和気王の嫌疑は呪詛である。
「続日本紀」に、和気王は皇位を狙い、紀朝臣益女(きのあそんますめ)に
称コを呪詛させたとある。
益女は巫女で巫鬼(ふき、霊媒や呪術)に長じ、当時都で評判が高かった。
紀寺の奴から従四位下陰陽頭まで登りつめた紀益麻呂の一族の者と
いわれる。紀益麻呂の姉か妹かも知れない。
和気王はこの女性をつねに身辺に侍らせていたというから、女性として
寵愛していたのかも知れない。それなら若い女性のはずである。
そのあたりは分からないが、益女は藤原仲麻呂の乱の後(764年)に
無位からいきなり従五位下に叙せられ、翌年には勲三等を受勲している。
若い女性に勲三等ということも考えにくい。
やはり紀益女は政治的な手腕もある老女と考えた方が妥当だろう。
それにしても、巫女でありながら従五位下で勲三等とは驚くほかはない。
巫女という職業的地位を生かした特別の功績があったのだろう。
想像するに、仲麻呂の乱における情報提供の効ではないか。
高名な巫女であった益女には仲麻呂の側近などからも依頼が多く、巫鬼を
通じて彼らの動向や人間関係などを手に取るように把握していた。
のみならず、巫覡(ふげき)の元締め的な立場にあったのかも知れない。※
当時の人々は神託や呪いを信じてやたらに巫(かんなぎ)などを頼ったから、
巫覡(ふげき)の元締めのところに集まる情報は莫大であったと思われる。
仲麻呂の家臣(舎人)やその家族からの依頼も数多くあったのではないか。
益女のもたらす情報は、乱の鎮圧に際して大いに役立ったと思われる。

※ 神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。
巫(ふ、かんなぎ)は女性、覡(げき)は男性。

555 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:05:31.27 ID:VEznABzo.net
和気王は霊媒でもある益女に降霊を依頼した。
先霊(祖霊のこと)を降ろしてもらったのである。
そして益女に憑依した先霊に己の願いを伝えた。
逮捕後の捜査でこの先霊への願文が発見されたという。
和気王にとっての先霊とは、祖父の舎人親王であり、曾祖父である天武天皇
である。
願文には「心に念じていることを成就させたいただいたならば、遠流に
処せられている尊き霊の子孫を都に召還して臣下といたしましょう」と
書かれてあった。
そしてそのために「己が恨む男女二人在り。此を殺し給へ」と書かれて
いたというのである。
この「男女」が称コと道鏡を指すのであることは言うまでもない。
「遠流に処せられている尊き霊の子孫」とは自分の叔父たち、すなわち
船王や池田王とその子供たちを指す。
(淳仁を指していると捉える余地もある。後述。)。
和気王の願いは、称コと道鏡を殺して欲しい、そうすれば(自分は天皇に
なり)他の舎人系の皇族を臣下にして朝廷を支配するであろうということで
あった。実際に淳仁廃位の後、和気王は有力な皇位継承者とされていた。

呪詛の噂が立っただけで和気王は逃亡した。率川社(いざかわしゃ、
奈良県最古といわれる神社)に隠れたが、逮捕されて伊豆に配流とされた。
率川社の率川とは地名である。春日山から率川という川が流れていた。
今は率川神社とよばれるこの社は、近鉄奈良駅の南数百メートルの街中
である。
興福寺や猿沢の池に近い。
平城京から見ると、東大寺など仏教寺院が建ち並ぶ宗教エリアのとっつきで
ある。都人の行楽地である浅茅ヶ池も近くにあった。
人や牛車が通る往来からさほど離れた場所ではない。
もちろん率川社自体は薄暗い森の中にあった。
昔の川は今のように一本の流れになってはいない。
率川は森の中をいくつかの細流になって流れていたのかも知れない。
この頃の率川社は、紀益麻呂の一族と関係があったのだろうか。
都から行楽にやってきた人々が占いにでも立ち寄る場所であったような
気もする。何人もの巫女や祈祷師がいて人々の需要に応えていた。
益女は率川社の巫女だったのかも知れない。

556 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:05:59.21 ID:VEznABzo.net
和気王は、護送の途中、山背国相楽郡(さがらかぐん)で絞殺された。
南山背の木津川流域は、当時は帰化人の多く住む地域であった。
秦氏の支族が拓いた地域であるらしい。
越前や近江との交通の要衝であった。
六世紀頃にすでに越前敦賀に入港した高句麗や新羅などの商人や使節
などを迎えるための館(むろつみ)があった。
この当時も、何かの朝廷の施設があったのかも知れない。
山背の国ではあるが、平城京から半日ほどの距離に過ぎない。
和気王は、平城京を発ってその日のうちに殺されたと思われる。
遺体は狛野に葬られた。
現在狛野という土地はないが、下狛などの周辺の地名からおおよその
位置は確定できる。船で行けば、相楽郡から七、八キロほど下った
木津川の西岸である。
もともと大化以前から狛氏が支配していた土地である。
狛氏は高麗氏で、高麗(こま、高句麗)から渡来した氏族であるという。
狛氏が衰えた後は秦氏が進出していた。
紀益女も山背国綴喜郡松井村(今の京田辺市松井)で絞殺された。
狛野からさらに木津川を下った左岸にある湿地帯の中の集落である。
古代の官道(山陽道)が通っていた場所でもある。※
このあたりで処刑されて埋められたということは、処刑を担当したのは
古代からの豪族ではなく、帰化人の部族であったということである。
古代からの豪族では、皇族を処刑することは憚りがあり、出来なかった
のだろう。

557 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:06:42.01 ID:VEznABzo.net
※奈良時代、山陽道は平城京と太宰府を結ぶ道路として最も重要視されていた。
平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)を経て
淀川を渡り、対岸の摂津国島上郡(現、高槻市・島本町)を経由して三木を通り、
姫路に出て瀬戸内海沿岸を西に向かう道路であった。

なお、和気王も益女も、その処刑地や埋葬地を見ると、山陽道を護送されたと
見るのが一番自然である。流刑地が伊豆というのは何かの間違いではないか。
それとも、和気王を支持する勢力による奪取を懼れて行方をくらましたの
だろうか。
もちろん流刑は方便で最初から殺害するつもりであったなら、流刑地など
何処でもいいわけである。

和気王と親しかった公卿も左遷され、任地で幽閉されて妻とともに没した者や、
任地で自殺した者もある。
粟田道麻呂は和気王と親しく、その邸に出入りしていた。
和気王の謀反に荷担したとして処刑されそうになったが、道鏡の取りなしで
飛騨員外介として左遷されるにとどまった。※
しかし任地で妻ともども一院に幽閉され、数ヶ月の後に死亡した。

※員外介(いんがいのすけ)とは、定員以外の官吏。
律令制の下では、令によって官吏の定員が決まっているところ、激職である
など定員では足りない場合もある。その場合に臨時に増やされた定員以外の
官吏のことを言う。員外介になることは普通は左遷を意味しない。

石川永年も和気王と親しかったため事件に連座した。
解官のうえ隠岐員外介に左遷され、任地で自殺した。

大津大浦も連座して日向守に左遷。その二年後にはその職も解かれ、その
所持する陰陽学の書籍も没収された。
のちに赦されて陰陽頭、安芸守に任じられる。

それにしても、和気王とその党与への処罰は厳しい。
特に和気王の場合、皇位に近い皇族に対し空前絶後の厳罰というべきである。

558 :列島縦断名無しさん:2021/01/10(日) 08:07:10.47 ID:VEznABzo.net
−弓削行宮−
深日行宮は和泉国である。
深日行宮を出立し、河内国に至った称コは、そこに置かれた弓削行宮
(ゆげのあんぐう)に五日間滞在する。
弓削はもちろん道鏡の故郷である。
その間、二度にわたり弓削寺に行って仏像を拝み、その庭で唐・高麗楽
(とう・こまがく)(唐・高句麗由来の音楽)の演奏なども行わせた。
紀伊の神々に詣でる神聖な行幸を終えて解放された気分になったのだろう。
さらに行幸中に和気王を絞殺せしめ、さらに憎き淳仁の処刑も終えた。
もはや自分の地位を脅かす存在はない。
称コは安心感に浸り、勝利感に酔った。
人を殺したことに対する畏れも感じなかったと思われる。
称コは道鏡の法力を信じ、悪いものすべてを道鏡が跳ね返してくれると
信じていた。思えば、保良宮で道鏡に出会ってから称コの運命は好転した。
藤原仲麻呂という、自分を太上天皇という地位に追いやった宿敵を破り、
その一族を全滅させた。さらに仲麻呂の傀儡である淳仁帝を廃帝とし、
天皇の地位を取り戻すことができた。
その天皇の地位を虎視眈々と狙っている和気王やその一党も抹殺した。
そして淳仁を殺して自分を侮辱したことへの復讐も果たした。
道鏡は称コにとってあらゆることを可能にしてくれる万能の神であった。
称コは、仲麻呂に対する不満が宮中に充満していたことなど知らず、
仲麻呂が脆くも敗退していった政治力学も分からない。
ただ、道鏡の叡智と僧侶団の祈祷の力が自分を助けているのだと
感じていた。いうなれば仏法の力である。
称コは、現代の新興宗教の熱狂的信者と変わらない心理状態にあった。
道鏡と仏教に身も心も投げ出していた。
称コにとって、道鏡は師であり恋人であり夫でもある。
道鏡といれば、父聖武や母光明と暮らしていたときのような安心感に
包まれる。
弓削での五日間は、夢見心地で幸福に酔ったような状態だったと思われる。

称コは、有頂天のまま、この行幸の最大の目的である行動に出た。
道鏡を太政大臣禅師に任じたのである。
道鏡を太政大臣に任命したその日、称コは行幸に供奉した官人たち
すべてに道鏡を拝賀させた。
平城京に戻ったあとは、行幸に随わなかった官人全てに道鏡を拝賀させて
いる。

559 :列島縦断名無しさん:2021/01/17(日) 23:56:40.74 ID:ORDEvu0R.net
>>558
>さらに行幸中に和気王を絞殺せしめ、さらに憎き淳仁の処刑も終えた。
について。

和気王が絞殺されたのはいつか。続日本紀には天平神護元年八月庚申蜘条に
書かれている。そのため八月とする説が多いが、紀伊行幸中とする説もある。
当初は紀伊行幸中という立場で書いていたのでこのような記載になった。
以下のように訂正する。

さらに行幸中に憎き淳仁の処刑も終えた。

560 :列島縦断名無しさん:2021/01/18(月) 00:08:56.35 ID:ZT/lCe/t.net
紀伊行幸を終えた称コが休む暇もなく始めなければならなかったのが
大嘗祭の準備である。
孝謙は淳仁を廃位させ、同時に重祚して称コ天皇となったのである。
しかし、大嘗祭を経ないと正式に即位したことにはならない。

大嘗祭の時期について再説する。
大嘗祭は、天皇が即位後に初めて新穀を神に供え、神とともに食する
儀式である。11月の下卯の日が祭日とされた。
七月までに即位していればその年のうちに、八月以降であれば翌年の
11月に行われた。稲の生育の関係からこのように定められていた。
孝謙が重祚したのは十月であるから、翌年の11月に行われたのである。
天平神護元年11月22日のことであった。

大嘗祭は、朝堂院前庭に建てられた大嘗宮で行われた。
称コの大嘗宮がどのような建物であったかは、文化財研究所の調査報告書で
見ることができる。
file:///C:/Users/222/AppData/Local/Temp/heijo_376.pdf

大嘗祭は、神聖な悠紀(ゆき)田・主基(すき)田でとれた新穀の飯と酒を、
天皇が祖先神と共食することで、天皇としての霊位と資格を承継する
祭儀である。
令和天皇の大嘗祭は、悠紀田が京都府に、主基田が栃木県に定められた。
それぞれ悠紀国、主基国という。
称コの初度の(孝謙天皇となるときの)大嘗祭は、因幡国が悠紀国、主基田が
美濃国であった。
称コ天皇となっての大嘗祭は美濃国が悠紀国、越前国が主基国であった。

561 :列島縦断名無しさん:2021/01/18(月) 00:09:13.41 ID:ZT/lCe/t.net
最初の大嘗祭と異なるところは、称コが出家していたということである。
出家した天皇の行う神式の祭儀ということで、何もかも異例づくめであった。

奈良時代より後の資料であるが、「延喜式」には、天皇親祭に先立ち、
皇太子をはじめ大臣以下百官が大嘗宮の前に設けられた幄下の座につき、
宮中で跪いて八開手(やひらで)の拝を行うとある。
八開手とは、八度柏手を打つことである。
跪いての八開手の拝とはどのようなものか、伊勢神宮では現在も行われて
いるので参考になろう。

https://www.youtube.com/watch?v=XTjFoHqR_gg

この八開手の拝の儀式に、僧も参加しているのである。

大嘗祭が終わった後には直会(なおらい)という百官を集めての酒宴が
行われる。豊明節会(とよのあかりのせちえ)ともいい、三日間ぶっ続けて
宴会が行われるのである。
この直会にも、僧を参加させている。

道鏡は、大嘗宮の中での天皇により行われる秘儀に立ち会った可能性がある。

当時、神事と仏事はみだりに混同してはならないという観念があった。
(神仏混淆ははじまったばかりであった。)
称コは、すべての儀式が終わった後の直会の日の初日にわざわざ宣命を
発している。

1.自分がふたたび皇位についたのは、仏弟子として菩薩戒を受けた身と
して仏に仕え、神々を敬い、天下を治めるためである。

2.人々は神々を仏から遠ざけ、神々は仏に触れてはならないものと思って
いるがそれは間違いである。仏典を見れば仏法を守護し敬うのは神々であると
書かれている。だから出家した僧と俗人が一緒になって神事に参列しても
支障があるはずはない。
そこで僧侶も俗人と一緒に大嘗祭に参加させ、奉仕させたのである。

562 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 18:14:04.64 ID:47sRPFq/.net
561

563 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 21:16:39.95 ID:ulwNd6cT.net
562

564 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:11:17.77 ID:QDREjvr4.net
大嘗祭の翌766年10月、法華寺の東南隅にある海竜王寺から仏舎利があらわれた。
このことを祝して、称コは道鏡を法王※とした。
王とは天皇と特別な関係にある皇族に与えられる身分。
古代律令制では、天皇の兄弟・子を親王・内親王、孫以下を王・女王と称した。
法王とされたということは、皇族として遇することを意味する。
これまでの位階と決定的に異なるところは、法王は臣下ではないことである。
大臣禅師や太政大臣禅師はあくまでも臣下であるが、道鏡は、臣下としての
身分を離れて法界の王となったのである。
俗界の王である天皇と並ぶ立場になったと言ってよい。

※法王とは、本来は如来もしくは釈迦をさす。それが貴族社会においては
仏教界における天皇と受け取られていた。
俗世間を離れた道鏡が就きうる最高の地位であった。

翌767年3月には「法王」道鏡のために、その家政機関として「法王宮指職」
(ほうおうぐうしき)が設けられた。
法王職ではない。法王「宮」職である。宮であるから完全に皇族として扱われて
いるのである。
769年(宇佐八幡託宣事件の年)正月、道鏡は大臣以下の朝賀※を受けた。
現在正月に皇居で一般参賀があるが、1948年以前は太政大臣以下臣下が
なすことであった。
朝賀を受けるということは天皇の地位にあるということである。
白馬節会(あおうまのせちえ)の宴も法王宮で催された。※2
月料も供御扱いであった。※3
飲食だけでなく、天皇の乗る輿の使用が許された。

565 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:12:01.29 ID:QDREjvr4.net
※ 朝賀とは、元日の朝、天皇が大極殿において文武百官の拝賀を受ける
ことを言う。拝賀は漢語で、和語では「みかどおがみ」と言ったようである。
朝賀のことは、「あらたまのとしのついたちのみかどおがみ」と言った。

※2 白馬節会とは、陰暦正月7日、左右馬寮 (めりょう) から白馬を紫宸殿
(ししんでん) の庭に引き出し、天覧ののち、群臣に宴を賜った。
一応このように言いうるが、この説明は平安時代以降のものである。
奈良時代には文字どおり「青馬の節会」であった。
灰色の青みがかった馬を青馬と呼び、馬は陽気の生き物であり、春は「青」の
季節である(青春)。
春先に青馬を見ることはめでたく、一年の邪気を祓う行事とされたのである。
法王宮職で、道鏡を主催者としてこのような宮廷行事がなされたのである。
天皇と同格、控えめに見ても天皇に準じる扱いがなされたと見てよい。

※3 月料とは、律令制下において皇族・官吏に毎月支給された食料給与をいう。
供御(くぎょ)とは天皇の御膳(食事)をいう。
律令制下では、畿内の官田から納められた供御稲を宮内省の大炊 (おおい) 寮に
収納し,内膳司に分配して調理のうえ御膳に供した。
魚や野菜なども宮内省の指定した供御人に献上させた。

566 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:12:30.80 ID:QDREjvr4.net
道鏡が法王とされた同日、藤原永手が左大臣に、吉備真備が右大臣に任じ
られた。この二人は九ヶ月前にそれぞれ右大臣と中納言に任命されたばかりで
あり、明らかに道鏡の法王への抜擢に対応した人事である。
この人事の意味は、おそらく、道鏡を法王にはしたが、法王は実権を有さない
ことを明らかにするためと思われる。
法王宮職の人事にこの趣旨が現れている。
法王宮職の官人は、いずれも渡来人であった。
長官である法王宮大夫に任命された高麗福信は、高句麗から渡来した
背奈福徳の孫である。次官の法王宮亮に任じられた高丘良麻呂は、百済から
渡来した沙門詠の孫である。
以下いちいち具体例を挙げることを避けるが、法王宮職の主要メンバーが
いずれも渡来人であることは顕著な事実である。
渡来人の多くは才学や技術をもって優遇されたが、政治の中枢に参与する
ことはなかった。
法王宮職の要職に渡来人ばかりが充てられたということは、その職務は
世俗的な権力を伴うものではなく、さらには出世につながるものでも無かった
ということを意味している。

さらに、道鏡は女帝に寵愛されたことから法王になったに過ぎず、本来は
看病禅師団の一員に過ぎない。弓削氏というのもただの河内の弱小氏族
である。法王宮職の官人となって道鏡に仕えるのは、日本の伝統的氏族に
とっては、抵抗があっただろう。
そのことも法王宮職に渡来人が数多く任命された理由であると考える。
法王宮職が渡来人ばかりで、有力な日本の氏族がいなかったということは、
内容が空虚で形ばかりの役所であったということだろう。

567 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:17:38.74 ID:QDREjvr4.net
道鏡の天皇まがいのふるまいについて詳しく述べる。
既述した部分もあるが諒解されたい。

1.法王就任の祝賀として大臣以下から拝賀を受けた。
 場所は西宮前殿の前庭である。
 続日本紀は「前殿」とするが、おそらく正殿のことである。
 西宮殿は称コが居所(御在所)としていたところである。
 日常座臥の場所なので、西宮正殿の北側には西宮寝殿と呼ばれる後殿が
 あった。正殿と寝殿は屋根つきの回廊でつながっている。
 実質上一つの宮殿である。
 その前庭を拝賀の場所とするということは、称コと同じ場所で暮らしている
 こと、即ち夫婦同然であることを公然と示すことに他ならない。
 もしかして、称コは「夫」が欲しかったのではあるまいか。
 天皇である自分は夫を持つことはできない。しかし、僧ならば(婚姻は禁じ
 られているから夫とはできないが)側に置くことはできる。
 その僧を法王とし、天皇である自分と一緒に天下を治めるのであれば、
 それは夫を持つことと同様である。
 道鏡を法王として群臣に拝賀させたことは、道鏡を自分の「夫」として
 皆に認めさせたかったのではあるまいか。

2.臣下から拝賀を受けた天皇は、それに応えて宣命で応じる。
 宣命とは、本来漢文の形で下される詔勅の類を和文化したものである。
 宣命体と呼ばれる独特の文体で現される。
 天皇が宣命を下したという場合、実際は臣下が代読していることが多い。
 道鏡の場合は、さすがに宣命というわけにはいかず、寿詞を告して
 拝賀に応えたという。しかし、寿詞は自ら読み上げたという。
 読経で鍛えた声なので、百官の前でも堂々と読み上げることができたの
 だろう。しかし、宮殿の前庭で畏まっていた貴族たちは、どのような気持ちで
 それを聞いたのだろうか。

568 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:18:28.80 ID:QDREjvr4.net
3.道鏡の法王就任は、偶寺(すみでら。海竜王寺)の毘沙門像から仏舎利が
 出現したことをきっかけとする。その報をもたらしたのが基信という僧である。
 偶寺とは、法華寺の隅にあったことからその名がついたという寺である。
 法華寺は前述したように光明皇后の皇后館の跡で、称コも淳仁と決裂した
 後にそこに住んだ。もともと藤原不比等の邸であり、光明皇后の実家である。
 その法華寺の一部をなす寺の住職であったのだから、称コは身内として
 遇していたことになる。
 基信は道鏡の弟子である円興の弟子である。
 道鏡の孫弟子ということで宮中に入り、法参議・大律師に任じられていた。
 法参議とは役人としては「参議」のことである。
 僧なので「法」の字がつけられているだけである。
 参議とは、太政官の組織の中で太政大臣、左大臣・右大臣、大納言、
 中納言の下にある重職である。
  原則として三位(以上)の位階を持っており、蔵人の頭・左右大弁・左中弁の
 いずれかを勤め、もしくは左右近衛中将を長年勤め、または式部大輔で
 天皇に教授した経歴のある者の中から選ばれる。
さらに、五カ国の国司を無事に歴任した経歴が必要である。
 中央の官吏として重職を歴任し、さらに地方官もそつなく勤め上げた実務の
 ベテランを国政に参与させようという趣旨の官職である。
 その要件を一切充たさないただの僧が、道鏡の孫弟子というだけで参議と
 いう地位に就いていたのである。
 基信には、物部浄之(きよし)朝臣の姓が与えられていた。
 僧は俗人ではないので、本来姓を名乗るということはない。
 それ故、姓が与えられても辞退するか、一度受けて返上するのが通例であった。
 基信はためらいなく受けてしまっているようである。
 仏舎利出現報告の功労を賞してのことであろうか。
 以下に伸べる基信の性格や行動からすると、基信が望んだことのようにも
 思われる。
 

569 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:19:31.53 ID:QDREjvr4.net
 基信は、法参議となって隋身の兵8人を与えられると有頂天となり、気に入らぬ
 者には兵を使って遠慮なく制裁を加えた。
 「道路これを畏れて、避くること虎を逃るるごとし」(道行く人々は基信を畏れて
 虎から逃げるように基信を避けた)という。
 道鏡の権威を笠に着て好き放題にふるまったのである。
 そのうちに、あろうことか師の円興まで侮辱し、欺いた。
 師を侮ったとあればさすがに道鏡も放置することもできず、飛騨に放逐した
 という。ただしこの事件については異説がある。
 続日本紀は、この事件とは関係なしに、二年前の十月に偶寺で発見された
 仏舎利が偽物だったことが露見したことを記している。
 仏舎利が顕れたからこそ、これを瑞祥として道鏡は法王になれたのである。
 それが偽物であったということになると、道鏡は安泰ではいられないはずである。
 ところが道鏡にも、基信の師である円興にも影響は一切なかった。
 これは、仏舎利発現が嘘であったことの責めを基信一人に負わせ、飛騨に放逐
 して幕を引いたということだろう。
 続日本紀は仏舎利が偽物だったと断言するが、おそらく続日本紀の編者が
 後からそのように断定しているだけのことで、当時は曖昧なまま問題化せずに
 終わったのだろう。

570 :列島縦断名無しさん:2021/01/26(火) 23:20:41.75 ID:QDREjvr4.net
4.基信を切り捨てたということはあったが、道鏡(ならびに称コの) 僧に対する
 特別扱いは続いた。神護景雲元年(767)の六月から七月にかけて、平城京や
 伊勢の外宮、さらに三河国の空に「祥瑞の慶雲」が出現し、それは称コと道鏡の
 治世を祝福する瑞祥とみなされた。
 そこで八月八日(末広がりということか)、僧600人を称コが起居していた西宮に
 招いて食事がふるまわれた。
 続日本紀は、「しりょ(僧侶)の進退、また法門の趣なし。手を拍ちて歓喜すること、
もっぱら俗人に同じ」と記している。僧侶たちのふるまいは仏門にある者とは
とても思えないものであった、手を拍って歓喜する様子は俗人と変わりなかった、
というのである。

なお、ここに言う「手を拍ちて」とは、神や天皇、貴人に対する儀礼であった。
今日、我々は神社では柏手(かしわで)を拍つが、それと同じような動作である。
魏志倭人伝では、貴人と出会うと敬い拝跪して拝手を拍つと書かれている※。
拍手(かしわで)という両の手のひらを打って音を立てる礼拝作法は、古くから
日本で行われていたのである(もちろん今日のように二回とは限らない)。
しかし、それは厳密には神(天皇も神)に対する作法であり、それを仏教の僧侶が
行っていることに周囲は驚いているのである。
食事には当然酒もつけられただろう。僧たちは酔っ払い、上機嫌になって
柏手を繰り返した。そこにいた貴族たちには異様な雰囲気と映ったはずである。
※「見大人所敬 但搏手以當脆拝」。
柏手の作法は、中国の呉の国習俗であり、それが日本に伝わったという
説もある。

5.上記僧侶たちを招いて食事をふるまったのが767年で、その二年後の769年
には西宮前殿で天皇もどきの朝賀を受けている。
道鏡が仲間である僧侶たちから柏手で祝されたのはまだ理解できるが、二年後
には大臣以下百官の拝賀を受けているのである。道鏡は、二年で絶頂に達したと
いうことができる。そしてこの年、宇佐八幡神託事件が起きるのである。

571 :列島縦断名無しさん:2021/03/30(火) 16:53:24.18 ID:MQcDp7a1.net
FWJ

572 :列島縦断名無しさん:2021/05/14(金) 18:19:23.88 ID:7GNeB3F9.net
大阪の万博公園の日本庭園みんな忘れてるなw

573 :列島縦断名無しさん:2021/07/14(水) 07:48:30.46 ID:dA3U3Ml4.net
↑の571 は5月14日に書き込まれてる。

今日は7月14日だろ。二ヶ月間全くの空白だったのか・・・

道鏡の続きでよければ書くぞ。退屈じゃないかな

平安時代以降になれば庭の関係で書くことはいくらもあるんだ。
だがそこに行く前に奈良時代を終わらせないと。
称コ・道鏡は避けて通れない。
もともとは宇佐八幡宮の神池に触れるだけのつもりだったが、そうはいかなかった。

574 :列島縦断名無しさん:2021/07/14(水) 15:26:07.30 ID:3tPz/Jvc.net
>>573
みんなそんなの読みたい訳じゃないんだよ
ブログにでも書いとけ

575 :列島縦断名無しさん:2021/07/14(水) 22:14:49.17 ID:dA3U3Ml4.net
>>574
じゃ、お前なんか書けや

576 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:50:42.72 ID:zzKVp/MW.net
上述の如く、道鏡は763年に慈訓に代わって小僧都に任命されている。
小僧都は律令官制下における僧官の職の一つである。
仏教の僧尼を管理するための役所として僧綱所(そうごうしょ)が置かれ、
僧正を筆頭として、大僧都・小僧都・律師などの位階があった。
僧都というような呼び名はすでに推古女帝の頃からあったが、二色九階の僧位が
定められたのは孝謙天皇治下の760年(天平宝字4)のことである。
大僧都(だいそうず)となった良弁(ろうべん)、小僧都となった慈訓(じくん)、
律師(りっし)となった法進(ほうしん)らの奏請によって、孝徳の時代にはじめて位階が
定められたのである。
律師は数名いるが、僧正や大僧都、小僧都などは各一名の定員であり、小僧都といえば、
かなりの地位といえる。大宝令※の時代に僧都の地位は、俗人とすれば五位にあたると
されたが、孝謙(称コ)の時代のそれを同様に考えることはできない。
(※大宝律令の律とは刑法のことであり、令とは今日でいう行政法である。大宝律令とは
大宝律と大宝令で出来ている法典である。)。

大宝律令が施行されたのは令が大宝元年(701)から、律が翌二年からである。
大宝令が出てから孝謙が皇位に就くまでの間はほぼ半世紀である。
749年に孝謙が皇位に就く。孝謙が道鏡と知り合い、淳仁と対立してこれを廃帝とし
重祚して実権を握ったのが764年である。
764年から称コが没する770年までの六年間が称コ・道鏡時代である。
この時代の僧たちの地位というものは、大宝令の時代とは比べものにならない。
ちょうど後世の軍人の地位に近いかも知れない。

なお、天平宝字元年(757)に大宝律令が廃止され、「養老律令」に代わった。
だから孝謙・称コ時代の律令は養老律令の話でなければならないのだが、養老律令は
藤原仲麻呂(恵美押勝)が自分の中国趣味に合うよう大宝律令の表現等を変えたものに
過ぎず、中身はほとんど変わらないといわれる。
それ故、養老律令はあえて無視した。

577 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:51:30.93 ID:zzKVp/MW.net
大正の軍縮時代、日本では軍人蔑視の風潮があった。
軍人たちは道を歩いていると、通行人から「税金泥棒」と揶揄されたりした。
60年安保時代の自衛隊員と同様だったかも知れない。
そもそも「世論ニ惑ハズ政治ニ拘ラズ」(軍人勅諭)、純粋に軍事にのみかかわるのが
軍人の本分であるはずだった。軍人は軍務に精励していればよく他のことは考える
必要はない。いってみればただの技術官僚で、きわめて地味な存在だった。
しかし、ある時期から軍部に別の風潮があらわれた。
将校たちは政治化して派閥を作るようになる。
政治的行動をとるようになった軍人たちは、政党政治に揺さぶりをかけ、根底から
破壊してしまった。最終的には軍閥が国政を支配するようになる。
大正時代の軍部と昭和の軍部はまるで性格の違う存在であった。
しかし、その変化を辿ると、わずかに十数年のことに過ぎない。
政治化の過程を具体的に辿ると以下のようである。
昭和三年の関東軍の独断専行による張作霖爆殺あたりから急激に政治化し、昭和6年の
満州事変・7年の満州国建国以降、日本の政治は軍部に振り回されるようになる。
昭和11年の2.26事件で政党政治は一気に息の根を止められた。
この頃の若手将校たちは制帽のマチを立ててナチスの制帽のようにし、ドイツ軍人の
ような歩き方で街を闊歩していた。
あれよあれよという間に日本は軍国主義・全体主義の国家となり、日米開戦によって
一挙に破滅に向かうことになる。

大宝律令の時代の僧侶たちというのは、大正軍縮時代の軍人のようなものであった。
国家の用意した学問所である寺の中で教典の究理に専念していればよかったのである。
ところが、称コ時代の僧侶は異様な変質を遂げるのである。
昭和の軍人のように突然のように政治化し、国政を左右するようになった

578 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:52:17.00 ID:zzKVp/MW.net
奈良時代の寺は官寺(かんす)であり、僧は国家により養われていた。
僧は公務員だったのである。だからこそ僧には国家の定めた位階があり、僧は互いに
位階を競っていた。
僧は本来的に官人であり、その仕事はひたすら仏典(漢訳されたインド仏教の教典)の
内容を究めることであった。
教典に精通した僧の祈祷には特別の功徳があると信じられていた。
功徳とは、奈良仏教の場合は鎮護国家である。
仏像を祀り、僧が仏に祈祷を捧げることによって国家が鎮まり、平安がもたらされる
ものと信じられていた。
鎮護国家の中にはもちろん皇室の安泰も含まれる。皇室の安泰の中心は天皇の健勝で
あった。だからこそ御所の中には祈祷所(内道場)が設けられ、看病禅師たちが詰めて
祈祷していたのである。
僧は互いに位階を競い出世競争をしていたが、出世を競えば勢い仲間を作り派閥を
形成するようになる。派閥抗争をするのは一般の官人と異ならなかった。
西の京といわれる奈良の宗教エリアには、薬師寺や興福寺、元興寺や東大寺、法華寺、
西大寺、西隆寺、大安寺などの大寺が甍を誇っていた。
これら巨大寺院は国家が造営したものであり、そこに僧たちが溢れかえっていた。
各寺院の中でも派閥抗争があり、寺院相互間でも抗争がある。
寺院の代表者のような僧たちが集まる朝堂でも権勢を競いあった。
僧たちのグループは、常に激しく抗争をしていたのである。

579 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:54:36.12 ID:zzKVp/MW.net
小僧都は御所内の仏事を取り仕切る地位であり、天皇に近持する。
道鏡は小僧都になると同時に、看病禅師団のメンバーを入れ替えたであろう。
慈訓時代の古参の僧は職を解き、自分の子飼いの僧ばかりにしたと思われる。
内道場の祈祷僧の一人に過ぎなかった道鏡は、いきなり小僧都として朝廷内の仏僧の
頂点に立った。
大宝令によって官僚機構の一部に組み込まれた仏僧たちは、上記のように激しい
派閥抗争を繰り返したが、この時点で最終的に頂点に立ったのは、道鏡とその率いる
禅師団であった。
このグループが当初から目論んでいたことは、朝廷の仏教化であった。
当時は祭政一致であり、朝廷の祭礼は国家行事である。
祭礼の中心は祖先の祭祀である。皇祖皇宗を祀るのが祭祀の中心であった。
この他の様々な政治的行為も祭祀の形を採っていた。
祭祀の様式はもちろん伝統的なものである。今日では「神式」と呼ばれるが、古代から
朝廷に伝わる儀式の様式であった。
これらを仏式に変え、自分たちでなければ宰領しえないものにすれば自分たちの支配は
万全なものとなる。
この一環として、宇佐八幡と伊勢神宮の仏教化も勧められた。
皇室の祭祀だけが仏教化するのはいかにも異様である。
皇室と並んで古い伝統のある宇佐の八幡や伊勢神宮において、祭祀が仏式でなされる
ようになれば、皇室の仏教化も自然に受け入れられるようになる。
しかし、古代からの神祇信仰を一挙に廃棄するわけにはいかない。
両者を融合させるのが望ましい。これが神仏混淆である。
神仏混淆とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの
信仰体系として再構成(習合)された宗教現象をいう。

道鏡が小僧都となった763年、宇佐八幡では観音菩薩などの仏像を安置した(御託宣集、
威巻七)。これは、道鏡が孝謙に勧めて寄進させたものと言われる。ただし朝廷からの
寄進であることは記録にはない。道鏡が個人的に行ったことかも知れない。

伊勢神宮には神宮寺が作られた。766年頃のことだという。
神宮寺は、神域全体を統括する本部のようなものである。
寺であるから仏像を祀り、最高責任者(後に別当と呼ばれる僧)がそこで執務する。
神宮寺の性格は官衙(かんが、役所)と捉えた方が分かりやすい。
そこにいるのは僧であり、僧形の役人なのである。

580 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:56:41.22 ID:zzKVp/MW.net
764に藤原仲麻呂の乱があり、仲麻呂は一族一党とともに滅びる。
その直後に道鏡は大臣禅師となる。大臣禅師という名の官職はそれまで存在しないが、
僧だから禅師と付いているだけのことである。内実は大臣に他ならない。
大臣とは太政官の一員で、臣下の最高位である。
大臣中の最高位として太政大臣があるが、これは仲麻呂就任までは皇族しか就くことの
できない地位であった。大臣が臣下中の最高位であることは変わりないのである。
位人臣を極める(くらいじんしんをきわめる)という言葉があるが、大臣になるという
ことは、まさに臣下として最高の地位につくことを意味するのである。

藤原仲麻呂の滅亡と同時に道鏡が大臣になった。ということは、道鏡に仲麻呂討滅の
ための功績があったということだろう。その功績とは何か。
間違いなく仲麻呂調伏の祈祷であろう。おそらく道鏡は、仲麻呂の乱発生と同時に
祈祷僧団をこぞって内道場に籠もり、怨敵退散の祈祷を続けたと思われる。
ちなみに後世、承久の乱において、後鳥羽上皇は御所内で護摩を焚き続けた。
弘法大師の遺品である袈裟を身につけ、護摩壇の前で一心不乱に真言を唱え続けたという。
道鏡もそのようであったと思われる。
山岳密教系の僧である道鏡は、護摩焚きの呪法のようなものこそが真骨頂であった。
精力絶倫の道鏡は、乱の間中不眠不休で真言を唱え続けた。
七日後に戦勝の報があり、その夜仲麻呂の首が届けられた。
朝廷側の完勝であった。
御所内で道鏡の様子を見ていた称コは、道鏡の法力に驚嘆したことであろう。
道鏡の祈祷こそが勝利をもたらした所以であると確信したのである。

なお、道鏡が大臣禅師となったと同時に、宇佐八幡には戸二十五烟が与えられた。
(烟とは戸数を数える単位である。)。
時期的に仲麻呂討滅への恩賞としか思われない。
おそらく宇佐八幡も仲麻呂退散の祈祷を行ったのだろう。
古くは養老四年(720)、隼人の反乱に際し、大伴旅人が征隼人将軍に任じられて
九州に赴いた時に、宇佐八幡に八幡大神への戦勝祈願を依頼したとされる。
聖武天皇時代に、藤原広嗣の乱が集結した際(741)、宇佐八幡に戸二十烟が施与
された。皇室を脅かすような争乱があった場合には宇佐八幡に戦勝祈願を託し、願いが
成就すると宇佐八幡に封戸を奉るという関係は聖武の時代から存在したのである。
後世、承平・天慶の乱にあたり、朝廷は各地の寺社に調伏の祈祷を依頼している。
また蒙古襲来のおりにも、各地の寺社に命じ、敵国調伏の祈祷を行わしめた。
朝廷が中心となり官寺や祈願寺をこぞって行う祈祷(法会)は平安以降無数に行われたが、
宇佐八幡が行った調伏の祈祷はその最初のものかも知れない。
宇佐八幡と朝廷との関係は、厭魅事件(754年)※1.2の後、途絶えていた。
仲麻呂の乱を契機に、宇佐八幡との関係が復活したのである。

581 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:57:32.51 ID:zzKVp/MW.net
※1.厭魅事件
厭魅(えんみ)とは、まじないで人を呪い殺すことである。
人を呪い殺そうとしたという罪で、薬師寺の僧・行信と八幡宮の神職・大神田麻呂
(おおがのたまろ)が罰せられた事件である。
(なお、大神は「おおが」と読むが、「おおみわ」と読む人もいる。)。
この事件の詳細は一切不明である。
厭魅事件でありながら、誰を呪い殺そうとしたのかさえ明かにされていない。
しかし、この事件を処断したのが藤原仲麻呂であるところから、橘奈良麻呂と結んだ
行信が、宇佐八幡に仲麻呂の呪詛を依頼したことから起きた事件と言われている。
この事件は続日本紀の天平勝宝6年(754)11月24日の条に記載がある。
同日に行信について、下野の薬師寺に左遷された旨の記載もある。
大神田麻呂の処罰については三日後の27日の条にある。
ここでは大神田麻呂の他に巫女の杜女(もりめ)も罰せられているので、呪詛を行った
のは杜女であったことが分かる。両人とも位階・姓を剥奪され、封戸も位田も没収
の上、田麻呂は種子島、杜女は日向に流罪となった。
この時、宇佐神宮は朝廷より与えられていた封戸1400戸の返上を申し出ている。
なお、仲麻呂の乱が終結(764)した後、766年に大神田麻呂は復位している。
位階は元の五位に戻され、さらに豊後の員外掾に任じられている。
呪詛した相手は仲麻呂だったのだから、仲麻呂が誅殺された後は復位して当然であると
一応言いうる。しかしながら、厭魅という行為の陰険さから、ふつう復権は無理である。
仲麻呂が滅亡した764年には復位しなかったのはそういう理由だろう。
その二年後に復位したのであるが、時期的に道鏡が法王になったと同時期であるから、
道鏡が復位せしめたと考えるのが妥当である。
なお、復位は田麻呂のみであり、行信と杜女については一切の記録がない。
おそらく二人とも配流の十二年の間に死亡したものと思われる。

※2
なお、厭魅事件は、大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)に大僧都行信が一切かかわる
ことができず、八幡神(事実上は杜女と田麻呂)も招かれなかったことが原因である
とする説が有力である。天平勝宝4年(752)の開眼会では、婆羅門僧菩提が開眼師
となり、唐から来日した僧・道?(どうせん)が呪願を務めている。
これに先立ち、菩提は大僧正とされ、道?は律師に任じられている。
それまで僧綱のトップであった大僧都・行信は菩提にその地位を奪われ、開眼会でも
全く閑却され、何の役割も任されなかった。八幡神も三年前の華々しい入京と神輿に
乗っての大仏拝礼が嘘のようである。全く登場の機会を与えられなかった。
大仏開眼会の当時、太上天皇である聖武は既に衰弱しており、実際に朝廷を取り仕切って
いたのは藤原仲麻呂であった。
仲麻呂は神祇好きで仏教にはさほど関心がなく、僧綱の僧たちには冷淡であった。
さらに、外国好きで、婆羅門僧や唐僧など外国から渡来した僧を珍重する傾向があった。
これらのことで行信が不満を感じていたところに、開眼会での無視が重なる。
おそらく教養人の仲麻呂は、八幡神が輿に乗って大仏を拝む(杜女は八幡神の依巫)と
いった演出は馬鹿らしくて出来なかったのだろう。
ここに行信と宇佐八幡(田麻呂・杜女)が結託する原因があった。
確かにこの二者の立場になってみると、仲麻呂がいる以上は将来は無い。
反仲麻呂の橘奈良麻呂に与する気持ちになっても不思議ではないと思える。

582 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 20:59:18.04 ID:zzKVp/MW.net
なお、上記宇佐八幡への封戸二十五烟の施与は、大神(おおが)氏に対してなされた
のでないことは当然である。大神氏を代表する人物(多麻呂や杜女)は配流されており、
氏族全体が自粛の状態であった。戦勝祈願の祈祷も出来るわけがないからである。
封戸二十五烟は、宇佐八幡の比売神(?比売大神)に対する報賽である。
すなわち、実際には比売神を主祭神とする宇佐・辛嶋氏に下賜されたものである。
さらに、二年後の天平神護二年(766)、朝廷は宇佐八幡の比売神に封戸600を
献納した。この600戸は厭魅事件のさいに宇佐八幡宮が返上したものの一部である。
すなわち、厭魅事件の後、宇佐八幡宮は朝廷への謝罪の意思で封1400戸を返上した
のであるが、1400戸は元々大仏造立への貢献に対する報賽であった。
その内容は八幡神に奉られたのが800戸で、比売神に奉られた分が600戸であった。
今比売神に600戸を奉るということは、返納された1400戸のうち、比売神の分で
ある600戸を元に戻すということに他ならない。
すなわち、宇佐・辛嶋氏を復権させるという意思の表明に他ならない。
(厭魅事件は大神氏が起こしたものだが、宇佐・辛嶋氏も責を負い自粛していた。)。
そして、600戸を施入した翌年の神護景雲元年(767)、朝廷は比売神のための
神宮寺建立を命じている。とはいえ費用は朝廷持ちではない。
造営に使役する役夫は比売神の封戸の民を徴発せよというのである。
先の600戸の封戸の復活は、神宮寺造営のために予め行われたものだったのだろう。
神宮寺を建てるということは、仏教寺院がその神域全体を支配するということである。
具体的には主神(かんずかさ)や禰宜、祝(ほうり)といった神職の者が、すべて出家
して法体(ほったい)になるということである。
地方の宗教勢力が神仏混淆となるのは、仏教国家化という朝廷の方針に賛同し、国家
体制に参加・協力することを意味する。宇佐・辛嶋氏の奉ずる比売神も、朝廷の認める
ところとなり、今や仏教広宣に協力する神となったのである。
朝廷(称コ・道鏡)の宇佐八幡信仰は、はっきりと比売神の方を向いたというべきだろう。

766年に大神田麻呂は許され復位した。道鏡のはからいであることは既に述べた。
従来、宇佐八幡の神職団の中で、朝廷とのパイプを持つのは大神氏だけであった。
宇佐八幡は聖武の地代から朝廷とつながり、戦勝祈願や大仏建立への協力を惜しまなかった。
実際にそれらの行為をしていたのは大神氏であったが、754年の厭魅事件で失脚する。
その後の大神氏の行動は何とも異様である。
事件後、八幡神は託宣を下した。
大神田麻呂と杜女によって社殿が穢されたと怒り、「汝らが穢れ過有り。神である吾れ、
今よりは帰らざりし」として宇佐より飛び去り、四国の伊予宇和嶺に遷座した。
八幡神はその後12年間伊予の地にとどまり、宇佐には還らなかった。
ただし、託宣は伊予から宇佐に飛来してなしたというのである。(八幡宇佐宮御託宣集)。)
これは、大神氏が一族を挙げて伊予に移ったということだろう。
大神氏が自分たちの意思で、朝廷への謝意を表するために自らを島流しのような立場に
置いたのか、それとも宇佐氏・辛嶋氏に追い出されたような形だったのかは分からない。
この遷座と同時に、大神氏は朝廷から下賜された封戸を返上している。
封戸の返上は宇佐・辛嶋氏もなしている。
宇佐八幡全体として朝廷に対する謹慎の意を表すために行ったのだろう。

583 :列島縦断名無しさん:2021/10/07(木) 21:00:11.39 ID:zzKVp/MW.net
上述したように、八幡神を祀る神職団が大神氏であり、比売神を祀る集団が宇佐・辛嶋氏
である。大神氏が伊予に去った後、宇佐八幡宮は宇佐・辛嶋氏が支えていくしかないわけ
だが、八幡神は宇佐・辛嶋氏が奉齋することはできないのである。
厭魅事件によって杜女が失脚したあと、翌年の755年に辛嶋勝久須売(からしまのすぐり
のくすめ)が杜女に代わって禰宜になっている。
しかし、久須売には、八年の在任中一度も託宣がなかった。
神が久須売には降りなかったのである。
このため、九年目に久須売は禰宜を解任されている。
久須売に託宣がなかったのは当然といえよう。八幡神は伊予の宇和嶺に遷座しているし、
久須売は辛嶋の一族だからその身に八幡神が降りることはない。
一方、比売神は降ろすことはできるが、それはしなかった。
宇佐・辛嶋氏としては大神氏に遠慮があり、沈黙を守る方向を選んだのだろう。

久須売が解任されると、辛嶋勝与女曾(からしまのすぐりのよそめ)が禰宜となった。
(八幡宇佐宮御託宣集によれば禰宜は与女曾である。しかし他の資料では禰宜の名は
辛嶋勝志奈布女または志奈女である。両者が同一人物なのか別人なのかは分からない。)。
その二年後、八幡神が宇佐の地に戻ってくることになる。
天平神護元年(765)3月、八幡神が宇佐神宮の禰宜・辛嶋志奈女によって降臨した。
(八幡神が辛嶋志奈女には降りたらしい。)。
 そして「今の宇佐八幡宮は吾が安んずる処ではない。願わくば、浄き処に移って朝廷を
守護し奉りたい。その処は、吾が指示に従え」と託宣し、古来鎮座していた小倉山ではなく
東の大尾山に帰来したという。
道鏡神託事件が起きたときには、八幡神は大尾山に座(いま)したことになる。

584 :列島縦断名無しさん:2021/10/20(水) 11:39:03.82 ID:arnht1sp.net
−−−−−−
以下は道鏡が小僧都となって歴史に登場した以降の経過を概説する。
多少記載が重複するがご容赦願いたい。

道鏡が小僧都として宮廷内の僧のトップの地位に就いたのが763年である。
道鏡を大臣禅師としたのが764年。その翌年の765年閏10月、紀伊国行幸の帰途、
弓削行宮において、称コは道鏡を太政大臣禅師に任じた。
太政大臣は大臣中の首席であり、仲麻呂が任じられるまでは皇太子など皇族しか就任
できない特別の地位であった。
おそらくこの任命には多くの反対が予想され、だからこそ紀伊国行幸という舞台が
用意されたのである。
まず行幸は三関を閉じた上で行われる。三関を閉じるのは、天皇が留守の間の不測の
事態に対応するためである。三関を閉じることを固関(こげん)といい、その効果は
今日の戒厳令に等しい。道鏡の大臣禅師任命は戒厳令下の国家行為として行われたと
同様であった。仮に反対勢力があっても身動きの取れない状態だったはずである。
次に、行幸には多数の貴族・高官が随行する。
行幸に随行している間、これらの者は皆、人質になったと同様なのである。
人質同様の者たちが反対することは無理だし、平城京に残留した者たちが反対することも、
人質を取られている以上は無理である。
また、行宮の途上というタイミングも人々の意表を突くものであった。
あまりにも出し抜けで、随行の誰も予想しておらず、是非を論じる余裕もなかった。
しかも、任命を発表しただけでなく、その後の措置が徹底していた。
道鏡を太政大臣禅師に任じたその日、称コは随行の貴族官人全員に道鏡を拝賀させた。
この場合の拝賀には、踏み絵と同様の意味があった。
拝賀を拒めば身の破滅しかない。
さらに称コは、平城京に帰還後ただちに随行しなかった官員全員に道鏡を拝賀させた。
行幸に随行したのは貴族・官人の中でも主要メンバーが多かったから、彼らが拝賀した
以上、残留組もそれに倣うしかなかった。
行幸の随行組と残留組の二段階に分けて拝賀を行わしめたのは、巧妙な策といえた。
さらに驚くべきは、拝賀させるという手段である。
拝賀を命じられた貴族官人たちは、当初は目を白黒させ、呆然としたことであろう。
しかし結果的には、全員が屈服せざるを得なかったのである。
拝賀という行為の強制には、人々の反抗心を挫くという目的があった。
だが、それ以上に貴族官人たち全員が拝賀する姿を称コが見たかったのだろう。
称コは安心したかったのである。
自分の重祚を本当に認めているのかどうか、大嘗祭を無事に済ませることが出来る
のか、称コは自信が持てず、疑心案気に取り憑かれていた。
大嘗祭は称コ一世一代の賭けであった。

585 :列島縦断名無しさん:2021/10/20(水) 11:39:31.04 ID:arnht1sp.net
称コの重祚は、後世から見れば滞りなく行われたものである。
しかし大嘗祭を控えた称コの胸の内は、不安と焦燥だけであった。
重祚自体がふつうの践祚(せんそ)とは異なり異例のことであるだけではない。
先帝である淳仁を廃し、しかも(淳仁は自然死したかのように扱われてはいるが)
その命を奪っての践祚なのである。
本来は晴れがましい祭祀であるはずの大嘗祭を控えながら、朝廷の内部は重苦しい
雰囲気が立ちこめていた。
一番の危惧は、自分は出家し僧形となっていることである。
出家した天皇が大嘗祭を行う先例はなかった。
父である聖武は出家して法体(ほったい)であったが、それは天皇になった後のことで
あり、しかも娘(孝謙)に譲位した後のことである。
朝廷に伝承されてきた神祇祭祀は、天皇以外に主催しうる者はない。
はるかな古(いにしえ)より伝わる神祇祭祀を司どる地位にあることが、天皇の権威の
源である。その天皇の行う祭祀のうちでも、大嘗祭は最重要のものであった。
これを僧形の己がなしうるのか。
無理に行ったところで誰も納得しないのではないか。

紀伊国行幸に続いて行われた大嘗祭では、道鏡は大嘗宮の深奥で行われた秘儀(いわゆる
天皇親祭の儀)に立ち会った可能性が高い。朝廷の伝統的神事に、仏教の僧侶が参列する
こと自体あり得ないことであるが、そのことは措くとして、大嘗宮の中の深夜の祭典は
貴族の中でも特別な者しか立ち会うことは出来ない。
平安時代の「貞観儀式」によると、儀式の行われる部屋の外陣に関白の席が設けられて
いたという。
関白とは令外官(常置されない官職)であり、天皇の代わりに政治を行う。
実質的に公家の最高位の官位であった。
奈良時代には関白という官職はないが、官職中の最高位ということであれば太政大臣が
これに該る。とすれば、奈良時代には太政大臣ほどの地位がなければ深夜の祭典に列席は
できないことになる。
称コが大嘗祭に先立つ紀伊国行幸において道鏡を太政大臣(禅師)に任じたのは、ただの
大臣では秘儀への列席ができないからだと考えられる。
称コは、正式に天皇になるための最重要儀式である大嘗祭の、その中心となる儀式である
天皇親祭に、どうしても道鏡を立ち会わせたかったのである。
道鏡を立ち会わせ、また道鏡の率いる僧侶団を参列させなければ、出家天皇である自分の
大嘗祭はなし得ないと考えたからであった。

586 :列島縦断名無しさん:2021/10/20(水) 11:41:38.28 ID:arnht1sp.net
大嘗祭が無事に終わっても、それで称コが安心したわけではなかった。
大嘗祭の後の酒宴(豊明節会、とよあかりのせちえ)の場において、称コは宣命を発した。
勅諭は以下のようである。
1.自分は三宝(仏)に仕え、天津神・国津神を敬い、さらには天かを治めるために
再び皇位についたのである。
2.人々は神々は仏に触れてはいけないものだと思っている。しかしそれは誤りである。
仏教の経典には、仏法を守護するのは神々だと書いてある。
だから僧侶と俗人が一緒に神事に参列しても支障はないのである。
だから今回の大嘗祭には僧侶も参加させ、俗人と一緒に奉仕させたのである。

称コの宣命は、すべてが弁明のように聞こえる。それは当然である。
出家天皇が神事を行うことに違和感を覚えない者はいないだろう。
称コはそれを押し切ったのである。押し切るのは称コ一人では無理であった。
道鏡が傍らにいたからこそそれが出来たのである。
大嘗祭は、道鏡が付き添い、道鏡に従う多数の僧侶たちの力によって成し遂げられた。
少なくとも称コの実感ではそうであった。

道鏡を太政大臣禅師に任じてから一年後の天平神護二年(766)、称コは道鏡に
法王の位を与えた。法王は「王」であるから皇族ということになる。
道鏡を法王とした同日、大僧都円興が法臣に、基真が法参議・大律師に任じられた。
法臣とは大臣のことである。僧なので大臣を法臣としたのである。造語だろう。
基真に与えた大律師という位階もそうである。律令官制の中に大律師という位階は
無いが、律師の中の最高の地位ということで大の文字をつけたのだろう。
称コは造語のようなことをするのが好きだったようである。
女児が人形の名前をつけるような感覚だったのだろうか。
(勝手に言葉を作る傾向は発達障害の子供によく見られる。称コにはそういった障害
があったのかも知れない。)。
称コは、基真には位階を与えた上に、物部浄之(きよし)朝臣の姓を賜っている。
僧は俗人でなく、氏姓とは無縁の存在であるはずだが、おかまいなしであった。
基真に浄之の氏姓を与え、「きよし、きよし・・・」と呼んでいたのだろう。
ちなみに、道鏡の弟・弓削浄人(きよんど)は764年に賜姓され、「御浄」(みきよ)
と名乗らされていた。弓削御浄朝臣浄人(ゆげのみきよのあそんきよんど)となる。
浄人のことは「みきよ、みきよや」と呼んでいたのだろうか。
道鏡の弟であるから身内扱いで、「きよんど」と名前を呼んでいたかも知れない。
称コは、いつも道鏡とべったりと二人でいたようなイメージがあるが、道鏡の腹心の
僧たちに囲まれていることも好んだようである。
円興は元は元興寺の僧で、道鏡の弟子といわれる。道鏡が修業時代からの知り合いで、
道鏡の推薦によって宮中に迎えられた僧であった。
道鏡よりやや若いぐらいの年齢であろうか。
基真は興福寺の僧で、円興の弟子である。自分の弟子ではないが、道鏡も基真を
可愛がっていたようである。
基信は道鏡ばかりでなく、称コに気に入られていた。
性格が明るく愛嬌があって、中年女性に好かれる資質があったのだろう。
基真は称コの寵愛に慢心し、従者たちを手足にしてあちこちで乱暴狼藉を働いたと
いうが、そういう悪童のような子供っぽさが称コに愛されたのかも知れない。
称コは、道鏡をはじめ、円興や基真ら僧たちと一緒にいるときは心から寛げた。
孝謙時代の、孤独で虐げられた生活とは正反対であった。
仏僧団に囲まれていると安心感が得られ、朗らかな気持ちになれたのである。

587 :列島縦断名無しさん:2021/10/20(水) 11:42:02.35 ID:arnht1sp.net
称コが道鏡を法王にした目的は何か。
まずは宮殿に一緒に住むことを可能にするためだろう。
平城京の西宮殿が称コの御在所であった。
西宮殿は、それ以前の大極殿の跡地に建てられた御所の中心である。
奈良文化財研究所の発掘調査の報告書に、西宮殿の想像図が掲載されている。
https://www.gensetsu.com/20140308heijou/doc1.htm
広大な前庭があり、正月など儀式の際は多数の幢旗が立てられ、百官が整列した。
近年、幢旗を立てるための七つの柱穴が発掘されている。
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2016/03/tanken128.html
前庭側の正殿は公務のためのものだが、北側の寝殿は私的な領域であった。
道鏡は称コとともに寝殿に居住し、正月元旦に正殿の前殿(まえどの)に姿を現し、
群臣から朝賀の儀を受けた(769)※。

※続日本紀 神護景雲三年正月壬中 (三 日 〉条
「法王道鏡居西宮前殿 。大臣巳下賀拝。?道鏡自告寿詞。 」。

それ以前は道鏡は称コのもとに通っていたのである。それも何らかの用件を構えての
ことであった。いくら何でも、臣下である者が主上の御在所で寝食をともにできる
わけがない。しかし、いつのまにか同居状態になったのではないか。
それならば、こそこそ称コと同居しているより、正殿から登場して堂々と群臣の前に
姿を現した方がよいと判断したのだろう。
その前提として、法王という皇族の身分が与えられたのである。
道鏡が朝賀を受けたのは、自分はもはや「臣下」の立場ではないとの宣言であった。

588 :列島縦断名無しさん:2021/10/20(水) 11:42:37.00 ID:arnht1sp.net
道鏡を法王にした目的は、もう一つあったと思われる。
称コは、道鏡を「師」として迎えたかったのである。
道鏡は称コの尊崇を受けているといっても、あくまでも臣下である。
一方、天皇である称コは、身分が違うというより次元の異なる存在である。
道鏡は仏道では称コを導く立場であるといっても、臣下の礼をとり、この上なく
恭しく接しなければならないのは当然である。
このことが称コには不満であった。
自分に対して師として厳しく接して欲しいのである。
否、むしろ称コは道鏡に弟子として仕え、奉仕することを望んでいた。
弟子として道鏡の傍らにあってその導きを受け、時には叱責を受けたりしたかった。
称コは道鏡を西宮に迎え、西宮で師僧に仕える弟子としての生活をしようとした
のだと思われる。
道鏡が西宮に住めば、道鏡の弟子たちも側に詰めることになる。仏僧団も頻繁に
出入りするようになるだろう。称コにはそれも望ましかった。
称コの感覚では、仏僧たちに囲まれて暮らすのは自然であった。
称コの父である聖武は、称コ(孝謙)に譲位すると直ちに出家してしまった。
というより、出家するために譲位した。
出家しながら、一方で太上天皇として娘の治世を支え続けた。
母の光明皇后も出家して光明子と名乗る。当然ながら光明皇后も出家の後は僧形で
あった。光明皇后は、自分の里である藤原不比等の住居であった建物を皇后館として
住まいしていたが、出家の後に総国分尼寺として建て替え、寺号を法華寺とし、
そこで尼僧として暮らしていた。そこに侍る従者たちも僧形であった。
光明子は、自分の私淑する僧(男性の僧)たちのために寺を建ててやり、法華寺の
周囲に住まわせていた。
僧形の父と母に支えられながら、天皇の地位にいるのが称コ(当時は孝謙)にとって
一番居心地がよかった。
僧たちに囲まれた西宮の生活は、両親がいた当時の再現であった。
称コは無意識のうちに道鏡を父になぞらえ、父が太上天皇として自分を支えてくれた
ように、道鏡が自分を後見してくれることを望んでいたのだろう。
称コが道鏡を自分の父である聖武の身代わりのようにしたかった。
それは道鏡の装束からも分かる。

589 :列島縦断名無しさん:2021/10/20(水) 11:43:28.00 ID:arnht1sp.net
「道鏡の装束」
道鏡は僧形というより、天皇のような格好をしていた。
称コが道鏡をどう扱ったかについて、続日本紀は「崇(たか)むるに法王を以てし、
戴(たい)するに鸞輿を以てす。衣服・衣食もっぱら供御に擬(なずら)う」と
記している(宝亀3年4月6日条)。
「鸞輿」(らんよ、らにょ)とは天皇の載る輿(こし)のことである。
供御(くぎょ)とは天皇の飲食物。
道鏡を高めるために法王にし、天皇の載る輿を使うことを許し、衣服や食事は天皇と
同様のものにした、というのである。
奈良時代から江戸期まで、天皇や皇后は中国人の格好をするのが正装であった。
袞衣(こんえ)といい、中国皇帝の衣装である。
衣服には日や月、星辰、鳳凰、山や川の模様が織りこまれ、または刺繍されている。
頭には冕冠(べんかん)という冠を被った。
冕冠を被る後醍醐天皇の御像は有名である。
https://premium.toyokeizai.net/articles/-/21421
衣装の袞衣は赤が多いが、正倉院に残された聖武帝や光明皇后の袞衣は白である。
だから道鏡も白い袞衣を着ていたかも知れない。
当時の僧衣は白だったから、袞衣も僧が着るなら白色だったと思われる。
後醍醐天皇の御像は、袞衣・冕冠に袈裟を身に纏っている。
道鏡も袈裟を身につけていたはずである。御像のような感じだったのかも知れない。

590 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 07:19:22.71 ID:jWSvwBk4.net
「宇佐八幡神託事件」

道鏡が法王になったのが天平神護2年(766年)10月。
それからほぼ三年後の神護景雲(769)3年9月、有名な宇佐八幡神託事件が起こった。
新暦では10月28日のことである。
続日本紀には神護景雲三年九月己丑条(769年9月25日条)にみえる。

原文は以下のとおりである。
「始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。
道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。
請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。
蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。
君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。
奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。
除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。」。

『始め大宰の主神習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え、因りて八幡の神教と
矯りて言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。』
太宰府の主神(かんづかさ、かんづさ)習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、旨を希いて
(しをこいねがいて、自分を気に入ってほしくて)方に(ことごとく)道鏡に媚び事え
(こびつかえ)ていたところ、八幡神の神教(お告げ)と矯りて(いつわって)申し上げた。
「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と。これがことの始まりである。

『道鏡これを聞き、深く喜びて自負す。』
道鏡はこれを聞いて深く喜び、なるほど己は天皇にふさわしいと考えた。

『天皇、清麻呂を床下※に召し、勅して日く。』
称コ天皇は、清麻呂を床下に召し、勅書を読み上げた。
※「床下」は寝台の下の意であるが、原典には「床」という字は使われていない。
「牀」の字を用いて「牀下」としており、玉座の意味である。
だから「玉座近くまで招きよせて」と訳するのが正しい。
(ただし、称コは尼僧なので、従来の天皇の玉座を用いるようなことはなかっただろう。
勅するときは、仏僧が読経するときに座るような牀?几※を用いていたのではないか。)。
※しょうぎ。「腰掛け」のこと。

『昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、大神事を奏せしめんが為に尼法均を請うと。
宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命を聴くべしと。』
昨夜夢に八幡神の使いが現れて、八幡神が「事を奏せんが為に」つまりある事を天皇に
奏上させるために法均尼を遣わすようにと言った。清麻呂よ、よろしく法均尼に代わって
宇佐まで行って神託を聞いてまいれ。

591 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 07:20:43.45 ID:jWSvwBk4.net
『発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を
告げんが為ならんと。因りて重く募るに官爵を以てす。』
清麻呂が出発するに際して道鏡が清麻呂に語りかけこう言った。「八幡神が使者をよこせと
いうのはこの己の天皇即位の事を告げるためだろう。」と。
次ぎの文章の「重く募る」とは、重く用いるという意味である。
であるから「因りて重く募るに官爵を以てす」とは、官位や爵位のことを持ち出して
重く用いてやるぞ、と道鏡が言ったというのである。

『清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣して日く。』
清麻呂は宇佐八幡まで行って神宮に詣でた。
八幡神は(巫女に)託してこう宣(の)りたもうた。

『我が国家、開闢より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。
天之日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし』と。
わが国は、天地のはじめより君臣の秩序は定まっている。臣下の者を天皇と成すことは
いまだになされたことがない。天之日嗣(皇嗣のこと)には必ず皇緒(皇族のこと)を
立てよ。この道理にはずれている者は早く取り除け」と。

『清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。』
清麻呂は宇佐から帰ってきて、天皇に八幡神の託宣をそのままに奏上した。

『是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。』
この結果に道鏡は大いに怒り、清麻呂の官職を解いて因幡国の員外介とした。
(員外介(いんがいのすけ)とは地方官の補充員のようなものである)。

『未だ任所にゆかず、尋いで称コ天皇の詔有りて除名し、大隅に配す。』
清麻呂が未だ因幡国に赴任しない間に、尋いで(次いで、続いての意味)称コ天皇の
詔勅が下って、清麻呂は除籍となり、大隅に流罪となった。
(除名とは官員の位階や官職を記した名簿から抹消すること。これによって何の身分も
有しない庶人となるのである。)。

『其の姉法均は還俗せしめて備後に配す。』
清麻呂の姉法均は僧籍を剥奪して俗人に戻し、備後国に流罪とした。

592 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 07:23:19.71 ID:jWSvwBk4.net
現代語訳
初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。
そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は
太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。
天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に
奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。
そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」
と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を
要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、
重く用いて官爵を上げてやるぞと持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。
大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は
定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には
必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。
清麻呂は帰京して、神のお告げをそのままに天皇に奏上した。これによって、道鏡は
大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。
清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍し、大隅国へ
配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

593 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 07:26:57.37 ID:jWSvwBk4.net
広虫の改名について

続日本紀の別の条に、追放に際して清麻呂は姓を「別部(わけべ)」、名は「穢麻呂
(きたなまろ)」に変えられた。また法均尼は名を「広虫売(ひろむしめ)」とされた
とある。
一方、承和七年(840)に編纂された日本後紀の方では、清麻呂は続日本紀と同様に
「別部穢麻呂」だが、法均尼は「別部狭虫(わけべのさむし)」とされたとある。
おそらくこれは続日本紀の方が正しい。
広虫は還俗させられたのだから、元の俗人であったときの名に戻って当然である。
元の広虫に戻ったのである。「広虫売(ひろむしめ)」とされたのは特別の意味はない。
当時の女性は正式に名乗るときは名前の後に「女」や「売」をつけた。
ふだんは広虫と呼ばれ、公的には「広虫売(ひろむしめ)」とされただけのことである。
姉の方は改名されていないのである。
おそらく日本後紀の編者が広虫は改名されていないことに気づき、清麻呂とパラレルに
するために「狭虫」という名を考え出したのだと思われる。
実際にも、姉の広虫は何一つ称コの意に反するようなことはしていない。弟に連座した
だけのことである。さすがの称コも、広虫を狭虫に改名したりはしないはずである。

594 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 08:38:20.06 ID:jWSvwBk4.net
宇佐八幡神託事件を記している史書は、おおまかに「続日本紀」、「日本後紀」、
「宇佐八幡託宣集」(八幡宇佐宮御託宣集)の三つである。
予め、これら三書について説明しておこう。

続日本紀は平安時代初期に編まれた勅撰の史書である。
文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱う。
奈良時代のほぼ全部を編年体で叙述するもので、全40巻からなる。
延暦16年(797年)に完成した。
宇佐八幡神託事件より約30年後の完成であり、事件に一番近い段階で記録された
史書である。

日本後紀は承和7年(840年)に完成した官撰史書。
続日本紀よりさらに40年以上経ってから編纂された。
事件からは70年以上経っており、おそらく事件当時のことを覚えている人間はほぼ
誰もいないような時代になってから記されたものである。
日本後紀は792年(延暦11)から833年(天長10)まで、桓武・平城・嵯峨・淳和の4天皇、
43年間のことを記すものであるが、その史書に何故八幡神託事件が取り上げられて
いるのであろうか。
神託事件は、「日本後紀」延暦一八年二月乙未条の和気清麻呂薨伝に記載されている
のである。「薨伝」とはその人物の略歴を記したものをいう。
和気清麻呂は桓武朝と平城朝で重臣として活躍した。
平安遷都に大きな役割を果たしたことは知られている。
この清麻呂の事績のうち、一番大きなものは宇佐八幡神託事件へのかかわりである
から、日本後紀でも当然これに触れられているのである。
事件から時代を経ているので、内容は事実による制約が緩み、やや物語風になっている。
さらに、時代的に神仏習合が進み、日本の神も仏教的なイメージで捉えられている印象
がある。

宇佐八幡託宣集は1313年(正和2、)宇佐弥勒寺学頭僧神吽(しんうん)が編纂した
宇佐八幡宮の縁起書である。神仏習合がさらに進んだ時代に仏僧が著したものであるから、
宇佐八幡の神仏習合の歴史を展開した書物であるともいえる。
鎌倉時代の人の仏教観もよく分かる本である。

595 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 08:48:59.51 ID:jWSvwBk4.net
日本人が宇佐八幡神託事件の各場面ついて抱いているイメージは、日本後紀や
託宣集の影響によるところが多いと思われる。
続日本紀ではまだビジュアル的な要素が弱いのである。
日本後紀などになると、奔放な空想が加わるようになる。
イメージは具体的になり、芝居の台本でも読んでいるような気になってくる。

和気清麻呂が宇佐八幡の託宣を確認しに訪れたときの八幡神の託宣の場面を
見てみよう。


まず、上述のように、最初の託宣のときに巫女・辛嶋勝与曾売が語った言葉は分からない。
「道鏡を天位につかしめば国平らかならん」との言葉は、あくまでも沙庭である中臣習宜
阿曽麻呂が判定し上奏した言葉である。
だが、おそらく辛嶋勝与曾売も同様のことを言ったのだろう。
というのは、清麻呂が行った二度目の託宣のときに、辛嶋勝与曾売は再びの託宣を
拒んでいるからである。具体的にはこうである。(以下「日本後紀」による。)。
天皇の勅使として八幡神の神託の真偽を確かめに来た清麻呂は、浄衣に身を包み、
神前に額ずいたあと神饌を捧げ、宣命(せんみょう)を読み上げようとした。
宣命とは天皇の命令文書であるが、この場合は八幡神に宛てた「何とぞ神意をお示し
下さい」との願文である。その時に辛嶋勝与曾売は、「すでに一度神託をなしたので
あるから二度は無用である。宣命は受けぬ。」という意味のことを言い、宣命を受ける
ことを拒んだ。宣命は八幡神に宛てたものであるから、その拒絶は八幡神でなければ
できないはずである。ということは、このときには八幡神は与曾売を憑坐(よりまし)と
してその場に降臨していた。
拒絶の言葉は、神が辛嶋勝与曾売の口を使って話したのである。
二度は無用であるというのだから、前の託宣では神が降り、神託をなしたことを肯定
したことになる。そうであれば最初の託宣では巫女(八幡神)も「道鏡を天位につかしめ
ば国平らかならん」というような事を言ったのだと思われる。

596 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 08:50:53.89 ID:jWSvwBk4.net
ここから日本後紀はどのように展開させたか。

日本後紀によれば、八幡神が辛嶋勝与曾売に語らしめた宣命の拒絶に対し、清麻呂
は「我は勅使なるぞ(意訳)」と怒ったとある。
勅使が託宣をせよと命じているのに拒絶するとは何事かと言うのである。
これは与曾売に対して言っているようである。
神に怒りを向けるわけにはいかないから巫女を叱ったということなのだろうか。
八幡神の託宣拒否に会っても清麻呂は引き下がらない。
清麻呂は八幡神に祈ってからこう言った。
「いま八幡大神の教へたまふところ、これ国家の大事なり。託宣は信じ難し。願はくは
神異を示したまへ。」。(原文は「祈曰。今大神所教。是国家之大事也。託宣難信。
願示神異。」)。
清麻呂は必死に祈り続け、与曾売も真剣に神寄せをしたという。
すると身の丈3丈(9メートル)もある大入道が現れ云々、という流れとなる。
(神即忽然現形。其長三丈許。色如満月。清麻呂消魂失度。不能仰見。)。
巨大な仏僧となって現れた八幡神に対して、清麻呂は仰ぎ見ることもできず平服
するのみ。※1

ここにおいて大神はようやく神意を示した。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。
天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし※2」との神託を
下したのである。 
「於是神託宣。我国家君臣分定。而道鏡悖逆無道。輙望神器。是以神霊震怒。
不聴其祈。汝帰如吾言奏之。天之日嗣必続皇緒。汝勿懼道鏡之怨。吾必相済。」。
我国家は君臣の分定まれり、而して道鏡悖逆無道、たやすく神器を望む。
これをもって神霊震怒す。その祈りを聴かず。汝、わが言のごとく奏せよ。
汝、道鏡の怨みを懼るるなかれ。吾、必ず相救わん。

ただし、この信託は与曾売の口を借りて下されたものではない。
神前に額づいて祈り続けた清麻呂は疲労で意識朦朧となった。
深更、その清麻呂の耳にはっきりと聞こえたというのである。

597 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 08:52:11.50 ID:jWSvwBk4.net
※1天応元年(781年)に朝廷は宇佐八幡に大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を
贈った。菩薩とは如来(仏)になる前の仏教修行者のこと。仏に準ずる者である。
信仰を集める菩薩は、観音菩薩や弥勒菩薩、地蔵菩薩など数多い。
本地垂迹説が広まると、八幡神は僧形で観念されるようになる。
もっとも有名なものは東大寺の僧形八幡神である。
手向山八幡神社のご神体であったが平家の焼き討ちで焼失し、鎌倉時代に再建
された。快慶作である。剃髪し袈裟を纏った僧侶の姿である。
https://art.iroiro.co/article/art/buddha/todaiji-sogyohachimanshin/
鎌倉時代には「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」と呼ばれる菩薩像や
画像が盛んに作られたが、東大寺のものもその一つである。
他に神護寺の八幡像画像が有名である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~koua/tamio/kusaoka_emakimono9999.htm

東寺の八幡三神像は、平安初期のものとされる。
東大寺の僧形八幡神は再建であるから、東寺の像がもっとも古いことになる。

八幡神は、円相(満月のような丸い輝き)の中に現れる僧形の巨人とイメージ
されていたようである。


※2八幡宇佐御託宣集によれば、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」
である。

598 :列島縦断名無しさん:2021/11/17(水) 08:56:04.89 ID:jWSvwBk4.net
では実際はどうだったのか。

与曾売(八幡神)はおそらく何も語らなかったはずである。
託宣を複数回行うことは、神託というものの構造から不可能なのである。
神の意思は絶対なのであるから、二度目の託宣で前と異なる神意を示すことは
あり得ない。問い直しは神意の絶対性を疑う行為であり、神が応じるわけもない。
再度の託宣を行いうるとするなら、それは前の託宣が偽であった場合だけである。
しかし、巫女が偽託宣を認めれば、託宣の真実性は根本から崩壊する。
いずれにせよ二度の託宣は出来ない。
託宣をやり直すこと自体がナンセンスなのである。

八幡神は、宣命は受けぬとの神意を示した後、その場を去ったのだろう。
辛嶋勝与曾売は、清麻呂が何を言おうと、ただひれ伏して沈黙するのみであった。
和気清麻呂が持ち帰って上奏した「わが国は開闢このかた君臣の分定まれり・・・」
という世に名高い神託は、清麻呂の創作である。
神託を上奏した清麻呂は罰せられ、大隅国に流される。
姉の広虫も、狭虫と名を変えられ備後国に流刑となった。
しかしその約一年後、称徳天皇は崩御し、後ろ盾を失った道鏡は下野国薬師寺の
別当を命じられる。これは形の上では配置換えであって、処罰の要素はない。
せいぜい左遷といったところであるが、道鏡は赴任二年目に死ぬ。

実際はただこのような事件に過ぎない。
ただ、どのような経緯で神託事件が起こったのか。
それが重要なのである。

599 :列島縦断名無しさん:2022/05/03(火) 16:13:04 ID:awfaQUsk.net
kel

600 :列島縦断名無しさん:2022/05/12(木) 17:41:42.18 ID:9QqfzWXE.net
ラッパもだと思うけど
ししおどしって節を外して全体を空洞にしないと音が響かないんじゃないの
なんかボツとかガト、とかそんな音のやつばかり見かける

601 :列島縦断名無しさん:2022/07/27(水) 23:23:23 ID:UotNP1pe.net
関東で、松が素晴らしいのはどこでしょうか

602 :列島縦断名無しさん:[ここ壊れてます] .net
omi

603 :列島縦断名無しさん:2023/07/16(日) 13:11:55.28 ID:05ds4fp7.net
ζβκ

604 :列島縦断名無しさん:2023/08/28(月) 15:05:28.30 ID:JRQx0YbS.net
ψκο

605 :列島縦断名無しさん:2023/09/22(金) 19:30:52.06 ID:rSjL3J3S.net
θιρ

606 :列島縦断名無しさん:2023/11/03(金) 17:20:06.14 ID:gA+IdCsfu
フクシマ沖の魚から1万8000ベクレルものセシウムが検出されていながら科学だのデ夕ラメほざいて核汚染水たれ流す人の命より拝金の
日本にクソシナ猛反発、クソシナカンコーテロリストは自主的のみならず国レベ儿で禁止して核汚染国日本になんか二度と来るなよな
バカチョンその他も見習って日本にノコノコ地球破壊しにくんなカス、太陽光發電の時間帯なんて電力は余りまくっててタタ゛で業者間取引
されてるわけだがクソ航空機廃絶すれば全部火力発電て゛補っても余裕て゛電力価格下落するほどの莫大な石油無駄に燃やしてるにもかかわらず
その悪の権化を倍増させて大騒音まき散らして威力業務妨害までしていながら毎年何千億もかけて廃炉作業してる中
懲りずに原発再稼働の世界一信用されていないデタラメ日本政府を非難するのは正解、地球破壊テ囗に対して嫌がらせすべきは
鉄道の30倍以上もの莫大な温室効果ガスまき散らして気候変動、海水温上昇させて洪水に土砂崩れに暴風にと住民の生命と財産を強奪して
私腹を肥やしてるクソ航空関係者だろ,クソシナに国交断絶されたら悶えるやつ多いがバカチョンはトモニなにがしに政権取らせて断絶しろ
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