2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

おいしいアンパンマンの顔の作り方

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/21(火) 21:40:24.29 ID:bm5c7pQX.net
まず小麦粉をこねます。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/25(土) 04:45:05.68 ID:lQI/d+NY.net
('仄')パイパイ

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/07(金) 01:07:27.27 ID:KGScDdsd.net
http://uploader.83net.jp/1045191445123459085290

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/07(金) 12:29:38.00 ID:WrCSU9Oi.net
(^ω^) QBまんください
店員(; ・`ω・´)「…チラッチラッ」
(ヽ´ω`;) ブヒ…



ちょっと親戚の結婚式へ行ってました

結婚式でもパチスロの話で盛り上がる奴(笑)
日本よ、これが無職だ(ドン!

専業しながら世帯持ってる知り合いもいるけど俺は絶対結婚できねえなあ


アンパマンの作者の出身地が高知県です

きゅっぷい=3


http://ameblo.jp/53896060/entry-11948768185.html

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:35:24.02 ID:n6Tex91nW
栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:46:54.90 ID:n6Tex91nW
考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:58:25.41 ID:n6Tex91nW
それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:09:56.02 ID:n6Tex91nW
馬琴はとうとうふき出した。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:38:41.61 ID:n6Tex91nW
が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:01:27.13 ID:n6Tex91nW
癇癪を起しちゃいけませんって。」

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:54:02.91 ID:rzv472xP/
馬琴はとうとうふき出した。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:17:04.46 ID:rzv472xP/
癇癪を起しちゃいけませんって。」

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:28:37.34 ID:rzv472xP/
「おやおや、それっきりかい。」

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:40:08.38 ID:rzv472xP/
太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:40:55.28 ID:rzv472xP/
独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:52:26.67 ID:rzv472xP/
偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:03:57.68 ID:rzv472xP/
彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:15:28.61 ID:rzv472xP/
が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:26:59.35 ID:rzv472xP/
仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:38:30.02 ID:rzv472xP/
うちの中は森としている。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:50:00.97 ID:rzv472xP/
彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:01:33.42 ID:rKM1pRtxQ
そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:13:04.77 ID:rKM1pRtxQ
それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:24:35.45 ID:rKM1pRtxQ
彼は昔から「先王の道」

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:36:06.18 ID:rKM1pRtxQ
彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:47:37.01 ID:rKM1pRtxQ
だから、そこに矛盾はない。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:59:07.89 ID:rKM1pRtxQ
が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:10:38.88 ID:rKM1pRtxQ
従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:22:09.69 ID:rKM1pRtxQ
もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:33:40.42 ID:rKM1pRtxQ
実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:45:11.23 ID:rKM1pRtxQ
しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:56:42.25 ID:rKM1pRtxQ
彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:08:13.35 ID:rKM1pRtxQ
と称しながら、常に彼のうちに磅する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:19:44.15 ID:rKM1pRtxQ
水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:31:15.04 ID:rKM1pRtxQ
この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:42:45.76 ID:rKM1pRtxQ
が、彼の前には水滸伝がある。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:54:16.44 ID:rKM1pRtxQ
不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:05:47.08 ID:rKM1pRtxQ
そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:17:18.08 ID:rKM1pRtxQ
袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:28:49.02 ID:rKM1pRtxQ
馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:40:19.80 ID:rKM1pRtxQ
「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:51:50.71 ID:rKM1pRtxQ
崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:03:21.46 ID:rKM1pRtxQ
見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:14:52.27 ID:rKM1pRtxQ
「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:26:23.33 ID:rKM1pRtxQ
「おお、さっそく、拝見しましょう。」

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:37:54.20 ID:rKM1pRtxQ
崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 04:49:25.03 ID:rKM1pRtxQ
絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:00:56.16 ID:rKM1pRtxQ
林間に散っている黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、――

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:12:26.98 ID:rKM1pRtxQ
画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:23:57.82 ID:rKM1pRtxQ
馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:35:28.87 ID:rKM1pRtxQ
「いつもながら、結構なお出来ですな。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:46:59.88 ID:rKM1pRtxQ
私は王摩詰を思い出します。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 05:58:30.72 ID:rKM1pRtxQ
食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 06:10:01.77 ID:rKM1pRtxQ
「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 15:33:33.55 ID:SrI+C6z3B
「とにかく、それよりほかはないようですな。」

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 15:45:04.29 ID:SrI+C6z3B
「そこでまた、御同様に討死ですか。」

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 15:56:35.01 ID:SrI+C6z3B
今度は二人とも笑わなかった。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:08:05.50 ID:SrI+C6z3B
笑わなかったばかりではない。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:19:36.01 ID:SrI+C6z3B
馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:31:06.86 ID:SrI+C6z3B
それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:42:37.41 ID:SrI+C6z3B
「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:54:07.97 ID:SrI+C6z3B
討死はいつでも出来ますからな。」

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:05:38.46 ID:SrI+C6z3B
ほどを経て、馬琴がこう言った。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:17:09.02 ID:SrI+C6z3B
崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:28:39.55 ID:SrI+C6z3B
が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:40:11.18 ID:SrI+C6z3B
崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:51:41.88 ID:SrI+C6z3B
先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:03:12.45 ID:SrI+C6z3B
そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:14:43.38 ID:SrI+C6z3B
すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:26:14.05 ID:SrI+C6z3B
字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:37:44.60 ID:SrI+C6z3B
彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:49:15.37 ID:SrI+C6z3B
「今の己の心もちが悪いのだ。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:00:45.94 ID:SrI+C6z3B
書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:12:16.48 ID:SrI+C6z3B
そう思って、彼はもう一度読み返した。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:23:47.32 ID:SrI+C6z3B
が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:35:18.41 ID:SrI+C6z3B
彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:46:50.13 ID:SrI+C6z3B
「このもう一つ前はどうだろう。」

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:58:20.96 ID:SrI+C6z3B
彼はその前に書いたところへ眼を通した。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:09:51.56 ID:SrI+C6z3B
すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:21:22.18 ID:SrI+C6z3B
彼はさらにその前を読んだ。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:32:52.90 ID:SrI+C6z3B
そうしてまたその前の前を読んだ。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:44:23.41 ID:SrI+C6z3B
しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:55:54.21 ID:SrI+C6z3B
そこには何らの映像をも与えない叙景があった。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:07:25.86 ID:SrI+C6z3B
何らの感激をも含まない詠歎があった。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:18:56.41 ID:SrI+C6z3B
そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:30:26.98 ID:SrI+C6z3B
彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:41:57.86 ID:SrI+C6z3B
彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:53:29.21 ID:SrI+C6z3B
「これは始めから、書き直すよりほかはない。」

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:04:59.85 ID:SrI+C6z3B
彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:16:30.61 ID:SrI+C6z3B
が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:28:01.09 ID:SrI+C6z3B
彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:39:31.64 ID:SrI+C6z3B
この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:51:02.37 ID:SrI+C6z3B
そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:02:32.89 ID:SrI+C6z3B
それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:14:03.45 ID:SrI+C6z3B
彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:25:34.36 ID:SrI+C6z3B
「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:37:04.97 ID:SrI+C6z3B
が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:48:35.46 ID:SrI+C6z3B
こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:00:07.04 ID:6wbH+mU7G
彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:11:37.56 ID:6wbH+mU7G
が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:23:08.11 ID:6wbH+mU7G
その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:15:49.76 ID:ZiqXq9Fsa
「とにかく、それよりほかはないようですな。」

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:39:35.76 ID:ZiqXq9Fsa
「とにかく、それよりほかはないようですな。」

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:51:06.33 ID:ZiqXq9Fsa
「そこでまた、御同様に討死ですか。」

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:02:36.87 ID:ZiqXq9Fsa
今度は二人とも笑わなかった。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:14:07.55 ID:ZiqXq9Fsa
笑わなかったばかりではない。

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:25:39.07 ID:ZiqXq9Fsa
馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:37:09.61 ID:ZiqXq9Fsa
それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:48:40.55 ID:ZiqXq9Fsa
「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:00:11.07 ID:ZiqXq9Fsa
討死はいつでも出来ますからな。」

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:11:41.59 ID:ZiqXq9Fsa
ほどを経て、馬琴がこう言った。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:23:12.11 ID:ZiqXq9Fsa
崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:34:42.60 ID:ZiqXq9Fsa
が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:46:13.11 ID:ZiqXq9Fsa
崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:57:43.62 ID:ZiqXq9Fsa
先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:09:14.19 ID:MDJ0RMFWO
そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:20:44.72 ID:MDJ0RMFWO
すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:32:15.24 ID:MDJ0RMFWO
字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:43:45.76 ID:MDJ0RMFWO
彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:55:16.33 ID:MDJ0RMFWO
「今の己の心もちが悪いのだ。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:06:46.90 ID:MDJ0RMFWO
書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:18:17.45 ID:MDJ0RMFWO
そう思って、彼はもう一度読み返した。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:29:47.96 ID:MDJ0RMFWO
が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:41:19.56 ID:MDJ0RMFWO
彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:52:51.01 ID:MDJ0RMFWO
「このもう一つ前はどうだろう。」

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:04:22.15 ID:MDJ0RMFWO
彼はその前に書いたところへ眼を通した。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:15:52.78 ID:MDJ0RMFWO
すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:27:23.27 ID:MDJ0RMFWO
彼はさらにその前を読んだ。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:38:53.74 ID:MDJ0RMFWO
そうしてまたその前の前を読んだ。

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:50:25.29 ID:MDJ0RMFWO
しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:13:10.87 ID:MDJ0RMFWO
そこには何らの映像をも与えない叙景があった。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:24:41.35 ID:MDJ0RMFWO
何らの感激をも含まない詠歎があった。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:36:11.92 ID:MDJ0RMFWO
そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:47:42.43 ID:MDJ0RMFWO
彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:59:12.94 ID:MDJ0RMFWO
彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:10:43.49 ID:MDJ0RMFWO
「これは始めから、書き直すよりほかはない。」

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:22:14.01 ID:MDJ0RMFWO
彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:33:44.52 ID:MDJ0RMFWO
が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:45:15.10 ID:MDJ0RMFWO
彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:56:45.65 ID:MDJ0RMFWO
この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:08:16.32 ID:MDJ0RMFWO
そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:19:46.88 ID:MDJ0RMFWO
それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:31:17.38 ID:MDJ0RMFWO
彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:42:47.92 ID:MDJ0RMFWO
「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:54:18.47 ID:MDJ0RMFWO
が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:05:50.23 ID:MDJ0RMFWO
こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:17:20.81 ID:MDJ0RMFWO
彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:28:51.50 ID:MDJ0RMFWO
が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:40:22.30 ID:MDJ0RMFWO
その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:30:35.61 ID:8SbvId6b5
と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:42:21.70 ID:8SbvId6b5
「しかし絵の方は羨ましいようですな。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:54:07.29 ID:8SbvId6b5
公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:05:54.00 ID:8SbvId6b5
今度は馬琴が、話頭を一転した。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:17:40.11 ID:8SbvId6b5
御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:29:25.64 ID:8SbvId6b5
「いや、大いにありますよ。」

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:41:11.36 ID:8SbvId6b5
馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:52:57.02 ID:8SbvId6b5
そうして、それにこんな批評をつけ加えた。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:04:42.66 ID:8SbvId6b5
「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:16:28.26 ID:8SbvId6b5
自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:28:13.86 ID:8SbvId6b5
また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:39:59.47 ID:8SbvId6b5
それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:51:45.21 ID:8SbvId6b5
言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:03:30.85 ID:8SbvId6b5
自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:15:17.25 ID:8SbvId6b5
崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:27:02.96 ID:8SbvId6b5
「それは大きにそういうところもありましょう。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:38:50.26 ID:8SbvId6b5
しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:50:36.20 ID:8SbvId6b5
改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:02:21.97 ID:8SbvId6b5
「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:14:07.55 ID:8SbvId6b5
そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:25:53.16 ID:8SbvId6b5
馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:37:38.74 ID:8SbvId6b5
「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:49:24.34 ID:8SbvId6b5
「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:01:10.05 ID:8SbvId6b5
私にはそうも思われませんが。」

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:12:55.83 ID:8SbvId6b5
「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:24:44.98 ID:8SbvId6b5
焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:36:32.79 ID:8SbvId6b5
「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:48:18.40 ID:8SbvId6b5
「私が心細いのではない。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:00:04.00 ID:8SbvId6b5
改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:11:49.93 ID:8SbvId6b5
「では、ますます働かれたらいいでしょう。」

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:47:06.89 ID:8SbvId6b5
今度は二人とも笑わなかった。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:58:52.93 ID:8SbvId6b5
笑わなかったばかりではない。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:45:56.65 ID:8SbvId6b5
討死はいつでも出来ますからな。」

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:57:42.84 ID:8SbvId6b5
ほどを経て、馬琴がこう言った。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 20:43:34.44 ID:8SbvId6b5
「今の己の心もちが悪いのだ。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:39:00.80 ID:72du3DRh2
今度は馬琴が、話頭を一転した。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:03:04.01 ID:72du3DRh2
「いや、大いにありますよ。」

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:39:21.21 ID:72du3DRh2
私にはそうも思われませんが。」

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:27:23.98 ID:72du3DRh2
「私が心細いのではない。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 16:27:29.20 ID:72du3DRh2
今度は二人とも笑わなかった。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 16:39:30.21 ID:72du3DRh2
笑わなかったばかりではない。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 17:27:34.68 ID:72du3DRh2
討死はいつでも出来ますからな。」

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 17:39:35.69 ID:72du3DRh2
ほどを経て、馬琴がこう言った。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:27:41.80 ID:72du3DRh2
「今の己の心もちが悪いのだ。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:55:18.26 ID:kPYld2U0/
子供の時の愛読書は「西遊記」

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:07:34.05 ID:kPYld2U0/
これ等は今日でも僕の愛読書である。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:19:49.61 ID:kPYld2U0/
比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:32:05.18 ID:kPYld2U0/
名高いバンヤンの「天路歴程」

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:44:20.68 ID:kPYld2U0/
なども到底この「西遊記」

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:56:36.19 ID:kPYld2U0/
も愛読書の一つである。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:08:51.65 ID:kPYld2U0/
これも今以て愛読してゐる。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:21:07.22 ID:kPYld2U0/
の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:33:23.35 ID:kPYld2U0/
その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:45:38.85 ID:kPYld2U0/
だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:57:54.37 ID:kPYld2U0/
中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:10:09.83 ID:kPYld2U0/
や小島烏水氏の「日本山水論」

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:22:25.40 ID:kPYld2U0/
同時に、夏目さんの「猫」

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:34:40.91 ID:kPYld2U0/
だから人の事は笑へない。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:46:57.10 ID:kPYld2U0/
の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:59:12.53 ID:kPYld2U0/
中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:11:28.00 ID:kPYld2U0/
それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:23:43.55 ID:kPYld2U0/
ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:35:59.06 ID:kPYld2U0/
ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:48:14.79 ID:kPYld2U0/
その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:00:30.33 ID:zUaJFIleW
これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:12:46.95 ID:zUaJFIleW
などの影響であつたらうと思ふ。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:25:03.18 ID:zUaJFIleW
さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:37:18.67 ID:zUaJFIleW
但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:49:34.32 ID:zUaJFIleW
スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:01:49.82 ID:zUaJFIleW
序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:14:06.09 ID:zUaJFIleW
を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:26:21.73 ID:zUaJFIleW
あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:38:37.27 ID:zUaJFIleW
を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:50:52.77 ID:zUaJFIleW
信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:03:08.67 ID:zUaJFIleW
彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:15:25.19 ID:zUaJFIleW
中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:27:40.81 ID:zUaJFIleW
が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:39:56.69 ID:zUaJFIleW
そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:52:12.33 ID:zUaJFIleW
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:04:27.87 ID:zUaJFIleW
彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:16:44.17 ID:zUaJFIleW
信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:28:59.81 ID:zUaJFIleW
それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:41:15.49 ID:zUaJFIleW
唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:53:31.86 ID:zUaJFIleW
さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:05:47.59 ID:zUaJFIleW
かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:18:04.06 ID:zUaJFIleW
が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:30:19.88 ID:zUaJFIleW
だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:42:35.57 ID:zUaJFIleW
尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:54:51.21 ID:zUaJFIleW
彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 05:07:06.80 ID:zUaJFIleW
が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 05:19:23.01 ID:zUaJFIleW
それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 05:37:38.53 ID:zUaJFIleW
信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:07:47.56 ID:zASrEUT11
子供の時の愛読書は「西遊記」

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:45:20.07 ID:zASrEUT11
名高いバンヤンの「天路歴程」

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:57:51.20 ID:zASrEUT11
なども到底この「西遊記」

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:10:21.78 ID:zASrEUT11
も愛読書の一つである。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:22:52.31 ID:zASrEUT11
これも今以て愛読してゐる。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:25:25.65 ID:zASrEUT11
や小島烏水氏の「日本山水論」

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:37:56.41 ID:zASrEUT11
同時に、夏目さんの「猫」

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:50:27.00 ID:zASrEUT11
だから人の事は笑へない。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:27:59.01 ID:zASrEUT11
それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:30:39.69 ID:zASrEUT11
などの影響であつたらうと思ふ。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:13:19.32 ID:zASrEUT11
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:15:53.07 ID:zASrEUT11
さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:28:23.90 ID:zASrEUT11
かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:40:54.59 ID:zASrEUT11
が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:53:28.12 ID:zASrEUT11
だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 15:35:35.90 ID:gcRvvgT/E
子供の時の愛読書は「西遊記」

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 15:48:21.78 ID:gcRvvgT/E
これ等は今日でも僕の愛読書である。

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:01:07.43 ID:gcRvvgT/E
比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:13:55.07 ID:gcRvvgT/E
名高いバンヤンの「天路歴程」

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:26:41.73 ID:gcRvvgT/E
なども到底この「西遊記」

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:39:28.29 ID:gcRvvgT/E
も愛読書の一つである。

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:52:13.90 ID:gcRvvgT/E
これも今以て愛読してゐる。

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:04:59.72 ID:gcRvvgT/E
の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:17:45.35 ID:gcRvvgT/E
その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:30:31.35 ID:gcRvvgT/E
だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:43:17.00 ID:gcRvvgT/E
中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:56:02.70 ID:gcRvvgT/E
や小島烏水氏の「日本山水論」

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:08:48.34 ID:gcRvvgT/E
同時に、夏目さんの「猫」

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:21:33.92 ID:gcRvvgT/E
だから人の事は笑へない。

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:34:19.52 ID:gcRvvgT/E
の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:47:05.36 ID:gcRvvgT/E
中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:12:36.75 ID:gcRvvgT/E
ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:25:22.66 ID:gcRvvgT/E
ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:38:08.42 ID:gcRvvgT/E
その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:50:54.33 ID:gcRvvgT/E
これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:03:40.19 ID:gcRvvgT/E
などの影響であつたらうと思ふ。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:16:26.17 ID:gcRvvgT/E
さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:29:11.83 ID:gcRvvgT/E
但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:41:59.22 ID:gcRvvgT/E
スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:54:45.80 ID:gcRvvgT/E
序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:07:31.60 ID:gcRvvgT/E
を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:20:17.93 ID:gcRvvgT/E
あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:33:03.52 ID:gcRvvgT/E
を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:45:49.22 ID:gcRvvgT/E
信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:58:35.01 ID:gcRvvgT/E
彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:11:20.62 ID:gcRvvgT/E
中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:24:06.26 ID:gcRvvgT/E
が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:36:51.97 ID:gcRvvgT/E
そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:49:37.70 ID:gcRvvgT/E
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:02:23.36 ID:gcRvvgT/E
彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:15:09.10 ID:gcRvvgT/E
信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:27:54.80 ID:gcRvvgT/E
それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:40:40.43 ID:gcRvvgT/E
唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:53:26.45 ID:gcRvvgT/E
さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:06:15.41 ID:qmfwL8XGF
かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:19:01.40 ID:qmfwL8XGF
が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:31:47.04 ID:qmfwL8XGF
だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:44:33.54 ID:qmfwL8XGF
尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:57:20.10 ID:qmfwL8XGF
彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 01:10:06.00 ID:qmfwL8XGF
が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 01:22:51.68 ID:qmfwL8XGF
それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 01:35:37.44 ID:qmfwL8XGF
信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 09:55:45.33 ID:wzxRSSart
子供の時の愛読書は「西遊記」

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 10:34:47.08 ID:wzxRSSart
名高いバンヤンの「天路歴程」

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 10:47:47.59 ID:wzxRSSart
なども到底この「西遊記」

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 11:00:48.12 ID:wzxRSSart
も愛読書の一つである。

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 11:13:48.69 ID:wzxRSSart
これも今以て愛読してゐる。

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:18:51.84 ID:wzxRSSart
や小島烏水氏の「日本山水論」

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:31:52.38 ID:wzxRSSart
同時に、夏目さんの「猫」

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:44:52.87 ID:wzxRSSart
だから人の事は笑へない。

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 14:28:57.35 ID:wzxRSSart
などの影響であつたらうと思ふ。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 17:18:04.93 ID:wzxRSSart
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 20:28:36.91 ID:D5SKY//7s
子供の時の愛読書は「西遊記」

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:08:24.04 ID:D5SKY//7s
名高いバンヤンの「天路歴程」

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:21:39.71 ID:D5SKY//7s
なども到底この「西遊記」

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:34:55.49 ID:D5SKY//7s
も愛読書の一つである。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:48:11.06 ID:D5SKY//7s
これも今以て愛読してゐる。

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 22:54:39.64 ID:D5SKY//7s
や小島烏水氏の「日本山水論」

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:07:55.32 ID:D5SKY//7s
同時に、夏目さんの「猫」

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:21:10.87 ID:D5SKY//7s
だから人の事は笑へない。

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:07:19.22 ID:hIGloY0EU
などの影響であつたらうと思ふ。

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 03:59:42.75 ID:hIGloY0EU
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 13:39:36.44 ID:LtKMlbfNI
子供の時の愛読書は「西遊記」

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 13:53:07.47 ID:LtKMlbfNI
これ等は今日でも僕の愛読書である。

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:06:38.28 ID:LtKMlbfNI
比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:20:08.91 ID:LtKMlbfNI
名高いバンヤンの「天路歴程」

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:33:39.54 ID:LtKMlbfNI
なども到底この「西遊記」

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:47:10.70 ID:LtKMlbfNI
も愛読書の一つである。

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:00:41.42 ID:LtKMlbfNI
これも今以て愛読してゐる。

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:14:12.15 ID:LtKMlbfNI
の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:08:15.31 ID:LtKMlbfNI
や小島烏水氏の「日本山水論」

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:21:45.99 ID:LtKMlbfNI
同時に、夏目さんの「猫」

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:35:16.71 ID:LtKMlbfNI
だから人の事は笑へない。

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:15:49.29 ID:LtKMlbfNI
それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:23:24.27 ID:LtKMlbfNI
などの影響であつたらうと思ふ。

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:19:05.27 ID:LtKMlbfNI
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:26:42.38 ID:LtKMlbfNI
さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 08:09:47.97 ID:d8ZqKcgvw
子供の時の愛読書は「西遊記」

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 08:23:34.08 ID:d8ZqKcgvw
これ等は今日でも僕の愛読書である。

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 08:37:20.02 ID:d8ZqKcgvw
比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 08:51:05.57 ID:d8ZqKcgvw
名高いバンヤンの「天路歴程」

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:04:51.07 ID:d8ZqKcgvw
なども到底この「西遊記」

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:18:36.61 ID:d8ZqKcgvw
も愛読書の一つである。

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:32:22.01 ID:d8ZqKcgvw
これも今以て愛読してゐる。

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:46:07.58 ID:d8ZqKcgvw
の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:59:53.25 ID:d8ZqKcgvw
その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 10:13:38.84 ID:d8ZqKcgvw
だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 10:27:24.28 ID:d8ZqKcgvw
中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 10:41:10.85 ID:d8ZqKcgvw
や小島烏水氏の「日本山水論」

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 10:54:56.33 ID:d8ZqKcgvw
同時に、夏目さんの「猫」

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 11:08:42.13 ID:d8ZqKcgvw
だから人の事は笑へない。

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 12:58:46.43 ID:d8ZqKcgvw
などの影響であつたらうと思ふ。

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 15:57:39.68 ID:d8ZqKcgvw
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:19:30.87 ID:d8ZqKcgvw
それからこの人形に中るコルクの弾丸。

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:33:16.41 ID:d8ZqKcgvw
人形は勿論仰向けに倒れる。

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:47:01.99 ID:d8ZqKcgvw
人形の後ろにも暗のあるばかり。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:00:47.57 ID:d8ZqKcgvw
少年はまた空気銃をとり上げ、今度は熱心に的を狙う。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:14:33.07 ID:d8ZqKcgvw
三発、四発、五発、――

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:28:18.56 ID:d8ZqKcgvw
しかし的は一つも落ちない。

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:42:04.10 ID:d8ZqKcgvw
少年は渋ぶ渋ぶ銀貨を出し、店の外へ行ってしまう。

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:55:49.61 ID:d8ZqKcgvw
始めはただ薄暗い中に四角いものの見えるばかり。

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:09:35.10 ID:d8ZqKcgvw
その中にこの四角いものは突然電燈をともしたと見え、横にこう云う字を浮かび上らせる。――

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:23:20.69 ID:d8ZqKcgvw
上のは黒い中に白、下のは黒い中に赤である。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:37:06.22 ID:d8ZqKcgvw
火のともった窓が一つ見える。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:50:51.72 ID:d8ZqKcgvw
まっ直に雨樋をおろした壁にはいろいろのポスタアの剥がれた痕。

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 20:51:54.31 ID:P0ty9/18t
この男の前を向いた顔。

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:05:40.09 ID:P0ty9/18t
彼は、マスクに口を蔽った、人間よりも、動物に近い顔をしている。

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:19:25.63 ID:P0ty9/18t
何か悪意の感ぜられる微笑。

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:33:11.16 ID:P0ty9/18t
少年はこの男を見送ったまま、途方に暮れたように佇んでいる。

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:46:56.97 ID:P0ty9/18t
父親の姿はどちらを眺めても、生憎目にははいらないらしい。

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:00:42.64 ID:P0ty9/18t
少年はちょっと考えた後、当どもなしに歩きはじめる。

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:14:28.27 ID:P0ty9/18t
いずれも洋装をした少女が二人、彼をふり返ったのも知らないように。

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:28:14.01 ID:P0ty9/18t
近眼鏡、遠眼鏡、双眼鏡、廓大鏡、顕微鏡、塵除け目金などの並んだ中に西洋人の人形の首が一つ、目金をかけて頬笑んでいる。

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:42:00.01 ID:P0ty9/18t
その窓の前に佇んだ少年の後姿。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:55:45.66 ID:P0ty9/18t
ただし斜めに後ろから見た上半身。

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:09:31.47 ID:P0ty9/18t
人形の首はおのずから人間の首に変ってしまう。

378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:23:17.23 ID:P0ty9/18t
のみならずこう少年に話しかける。――

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:37:03.08 ID:P0ty9/18t
「目金を買っておかけなさい。

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:50:48.64 ID:P0ty9/18t
お父さんを見付るには目金をかけるのに限りますからね。」

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:04:38.38 ID:Qx8E2WCMx
「僕の目は病気ではないよ。」

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:18:24.14 ID:Qx8E2WCMx
斜めに見た造花屋の飾り窓。

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:32:09.71 ID:Qx8E2WCMx
造花は皆竹籠だの、瀬戸物の鉢だのの中に開いている。

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:45:55.29 ID:Qx8E2WCMx
中でも一番大きいのは左にある鬼百合の花。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:59:40.93 ID:Qx8E2WCMx
飾り窓の板硝子は少年の上半身を映しはじめる。

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:13:26.54 ID:Qx8E2WCMx
何か幽霊のようにぼんやりと。

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:27:12.31 ID:Qx8E2WCMx
飾り窓の板硝子越しに造花を隔てた少年の上半身。

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:40:58.23 ID:Qx8E2WCMx
少年は板硝子に手を当てている。

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:54:43.83 ID:Qx8E2WCMx
そのうちに息の当るせいか、顔だけぼんやりと曇ってしまう。

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:08:29.51 ID:Qx8E2WCMx
飾り窓の中の鬼百合の花。

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:22:15.21 ID:Qx8E2WCMx
ただし後ろは暗である。

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:36:00.98 ID:Qx8E2WCMx
鬼百合の花の下に垂れている莟もいつか次第に開きはじめる。

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:49:46.53 ID:Qx8E2WCMx
「わたしの美しさを御覧なさい。」

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:03:32.11 ID:Qx8E2WCMx
「だってお前は造花じゃないか?」

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:17:17.77 ID:Qx8E2WCMx
角から見た煙草屋の飾り窓。

396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:31:03.30 ID:Qx8E2WCMx
巻煙草の缶、葉巻の箱、パイプなどの並んだ中に斜めに札が一枚懸っている。

397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:44:48.86 ID:Qx8E2WCMx
この札に書いてあるのは、――

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:58:34.54 ID:Qx8E2WCMx
「煙草の煙は天国の門です。」

399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:12:20.14 ID:Qx8E2WCMx
徐ろにパイプから立ち昇る煙。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:26:05.84 ID:Qx8E2WCMx
煙の満ち充ちた飾り窓の正面。

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:39:51.51 ID:Qx8E2WCMx
少年はこの右に佇んでいる。

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:53:37.17 ID:Qx8E2WCMx
ただしこれも膝の上まで。

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:07:22.80 ID:Qx8E2WCMx
煙の中にはぼんやりと城が三つ浮かびはじめる。

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:21:08.67 ID:Qx8E2WCMx
城は Three Castles の商標を立体にしたものに近い。

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:34:54.21 ID:Qx8E2WCMx
この城の門には兵卒が一人銃を持って佇んでいる。

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:48:39.84 ID:Qx8E2WCMx
そのまた鉄格子の門の向うには棕櫚が何本もそよいでいる。

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:02:25.41 ID:Qx8E2WCMx
そこには横にいつの間にかこう云う文句が浮かび始める。――

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:16:11.10 ID:Qx8E2WCMx
「この門に入るものは英雄となるべし。」

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:29:56.63 ID:Qx8E2WCMx
こちらへ歩いて来る少年の姿。

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:43:42.19 ID:Qx8E2WCMx
前の煙草屋の飾り窓は斜めに少年の後ろに立っている。

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:57:27.84 ID:Qx8E2WCMx
少年はちょっとふり返って見た後、さっさとまた歩いて行ってしまう。

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 07:11:13.39 ID:Qx8E2WCMx
吊り鐘だけ見える鐘楼の内部。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 07:24:58.93 ID:Qx8E2WCMx
撞木は誰かの手に綱を引かれ、徐ろに鐘を鳴らしはじめる。

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 07:38:44.55 ID:Qx8E2WCMx
一度、二度、三度、――

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 09:59:41.69 ID:cRJRYJF84
斜めに見た射撃屋の店。

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:14:58.29 ID:cRJRYJF84
名高いバンヤンの「天路歴程」

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:29:14.00 ID:cRJRYJF84
なども到底この「西遊記」

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:45:08.56 ID:cRJRYJF84
も愛読書の一つである。

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:59:24.39 ID:cRJRYJF84
これも今以て愛読してゐる。

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:10:40.39 ID:cRJRYJF84
や小島烏水氏の「日本山水論」

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:24:56.18 ID:cRJRYJF84
同時に、夏目さんの「猫」

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:43:38.75 ID:cRJRYJF84
だから人の事は笑へない。

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:57:54.74 ID:cRJRYJF84
の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:12:10.84 ID:cRJRYJF84
中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:40:42.67 ID:cRJRYJF84
ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:54:58.37 ID:cRJRYJF84
ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:09:14.22 ID:cRJRYJF84
その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:23:29.98 ID:cRJRYJF84
これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:37:45.85 ID:cRJRYJF84
などの影響であつたらうと思ふ。

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:52:01.58 ID:cRJRYJF84
さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:06:17.33 ID:cRJRYJF84
但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:20:33.46 ID:cRJRYJF84
スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:34:49.58 ID:cRJRYJF84
序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:49:05.23 ID:cRJRYJF84
を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。

435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:03:21.04 ID:cRJRYJF84
あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:17:36.82 ID:cRJRYJF84
を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:31:52.50 ID:cRJRYJF84
信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:46:08.38 ID:cRJRYJF84
彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:00:24.08 ID:cRJRYJF84
中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:14:39.86 ID:cRJRYJF84
が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:28:55.71 ID:cRJRYJF84
そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:43:11.88 ID:cRJRYJF84
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。

443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:57:27.82 ID:cRJRYJF84
彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:11:43.59 ID:cRJRYJF84
信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:25:59.91 ID:cRJRYJF84
それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:40:15.73 ID:cRJRYJF84
唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:54:31.46 ID:cRJRYJF84
さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:08:47.37 ID:cRJRYJF84
かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:23:03.13 ID:cRJRYJF84
が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:37:18.89 ID:cRJRYJF84
だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:51:35.70 ID:cRJRYJF84
尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:05:51.54 ID:cRJRYJF84
彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:20:07.29 ID:cRJRYJF84
が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:34:23.23 ID:cRJRYJF84
それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:48:39.34 ID:cRJRYJF84
信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:02:55.20 ID:cRJRYJF84
その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:17:28.79 ID:Qx8E2WCMx
俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:32:00.09 ID:Qx8E2WCMx
信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。

459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:46:30.81 ID:Qx8E2WCMx
同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:01:01.84 ID:Qx8E2WCMx
殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:15:32.45 ID:Qx8E2WCMx
一層これが甚しかつた。

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:30:03.50 ID:Qx8E2WCMx
信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:44:34.44 ID:Qx8E2WCMx
従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:59:05.06 ID:Qx8E2WCMx
所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:13:42.60 ID:ICWir2ufq
さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:28:15.20 ID:ICWir2ufq
その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:42:46.21 ID:ICWir2ufq
同窓たちは皆不思議がつた。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:57:16.99 ID:ICWir2ufq
その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:11:47.69 ID:ICWir2ufq
或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:26:18.34 ID:ICWir2ufq
又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:40:49.17 ID:ICWir2ufq
が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:55:22.26 ID:ICWir2ufq
彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:09:56.17 ID:ICWir2ufq
彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:24:26.89 ID:ICWir2ufq
さうして彼是二月ばかり経つと――

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:39:28.17 ID:ICWir2ufq
全く信子を忘れてしまつた。

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:53:58.89 ID:ICWir2ufq
勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:08:29.57 ID:ICWir2ufq
信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:23:00.09 ID:ICWir2ufq
彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:37:30.97 ID:ICWir2ufq
松脂の匂と日の光と、――

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:52:01.64 ID:ICWir2ufq
それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:06:32.48 ID:ICWir2ufq
信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:21:03.29 ID:ICWir2ufq
もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:35:34.29 ID:ICWir2ufq
どうか、どうか私を御赦し下さい。

484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:50:05.28 ID:ICWir2ufq
照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:04:36.11 ID:ICWir2ufq
「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:19:06.78 ID:ICWir2ufq
さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:33:37.42 ID:ICWir2ufq
何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:48:08.17 ID:ICWir2ufq
それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:02:38.86 ID:ICWir2ufq
あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:17:09.93 ID:ICWir2ufq
あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。

491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:31:40.53 ID:ICWir2ufq
この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:46:11.08 ID:ICWir2ufq
ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:00:41.62 ID:ICWir2ufq
私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:15:12.39 ID:ICWir2ufq
けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:29:43.04 ID:ICWir2ufq
御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:44:13.60 ID:ICWir2ufq
(御隠しになつてはいや。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:58:44.17 ID:ICWir2ufq
私はよく存じて居りましてよ。)

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:13:15.36 ID:ICWir2ufq
私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:27:46.04 ID:ICWir2ufq
それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:42:16.67 ID:ICWir2ufq
さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:56:47.35 ID:ICWir2ufq
私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:11:17.93 ID:ICWir2ufq
私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:25:48.49 ID:ICWir2ufq
さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 10:40:19.09 ID:ICWir2ufq
もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 13:55:08.84 ID:DSjPcPIlk
信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:09:54.73 ID:DSjPcPIlk
殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:24:40.21 ID:DSjPcPIlk
が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:39:25.73 ID:DSjPcPIlk
さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:54:11.25 ID:DSjPcPIlk
信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:08:56.72 ID:DSjPcPIlk
そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:23:42.23 ID:DSjPcPIlk
結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:38:27.98 ID:DSjPcPIlk
夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:53:13.49 ID:DSjPcPIlk
それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:07:59.97 ID:DSjPcPIlk
信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:22:45.48 ID:DSjPcPIlk
その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:37:31.38 ID:DSjPcPIlk
夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:52:16.91 ID:DSjPcPIlk
が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:07:02.58 ID:DSjPcPIlk
彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:21:48.10 ID:DSjPcPIlk
信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:36:34.03 ID:DSjPcPIlk
それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:51:19.69 ID:DSjPcPIlk
実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:06:05.28 ID:DSjPcPIlk
殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:20:50.82 ID:DSjPcPIlk
が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:35:36.84 ID:DSjPcPIlk
その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:50:22.31 ID:DSjPcPIlk
そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:05:08.22 ID:DSjPcPIlk
夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:19:54.33 ID:DSjPcPIlk
と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:34:40.39 ID:DSjPcPIlk
しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:49:26.20 ID:DSjPcPIlk
彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:04:11.83 ID:DSjPcPIlk
所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:18:58.79 ID:DSjPcPIlk
が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:33:44.76 ID:DSjPcPIlk
夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。

533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:48:30.33 ID:DSjPcPIlk
さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:03:15.88 ID:DSjPcPIlk
と何時になく厭味を云つた。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:18:01.43 ID:DSjPcPIlk
信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:32:47.03 ID:DSjPcPIlk
それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:47:32.64 ID:DSjPcPIlk
「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:02:18.27 ID:DSjPcPIlk
そんな事も口へ出した。

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:17:03.85 ID:DSjPcPIlk
信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:31:49.74 ID:DSjPcPIlk
すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」

541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:46:36.10 ID:DSjPcPIlk
と、やはりねちねちした調子で云つた。

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:01:21.66 ID:DSjPcPIlk
彼女は猶更口が利けなくなつた。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:16:08.42 ID:DSjPcPIlk
夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:30:54.55 ID:DSjPcPIlk
が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:45:40.13 ID:DSjPcPIlk
と、囁くやうな声で云つた。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:00:25.67 ID:XdYa7MeGV
夫はそれでも黙つてゐた。

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:15:11.71 ID:XdYa7MeGV
暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:29:58.11 ID:XdYa7MeGV
それから間もなく泣く声が洩れた。

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:44:43.64 ID:XdYa7MeGV
夫は二言三言彼女を叱つた。

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:59:29.65 ID:XdYa7MeGV
その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:14:15.21 ID:XdYa7MeGV
が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:29:00.85 ID:XdYa7MeGV
翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:23:42.59 ID:G2RTrE86W
しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:38:43.99 ID:G2RTrE86W
信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:53:44.86 ID:G2RTrE86W
夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:08:45.68 ID:G2RTrE86W
「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:23:46.86 ID:G2RTrE86W
さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:38:48.25 ID:G2RTrE86W
彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。

559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:53:48.95 ID:G2RTrE86W
こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:08:49.61 ID:G2RTrE86W
私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:23:50.65 ID:G2RTrE86W
信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:38:51.47 ID:G2RTrE86W
が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:53:52.12 ID:G2RTrE86W
そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:08:52.93 ID:G2RTrE86W
信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:23:54.04 ID:G2RTrE86W
その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:38:55.08 ID:G2RTrE86W
彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:53:55.80 ID:G2RTrE86W
その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:08:56.48 ID:G2RTrE86W
それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:23:57.56 ID:G2RTrE86W
が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:38:58.39 ID:G2RTrE86W
なぞと、考へ考へ話してゐた。

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:53:59.10 ID:G2RTrE86W
するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:08:59.94 ID:G2RTrE86W
信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。

573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:24:00.96 ID:G2RTrE86W
大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。

574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:39:01.64 ID:G2RTrE86W
又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。

575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:54:02.41 ID:G2RTrE86W
が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。

576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:09:03.18 ID:G2RTrE86W
彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:24:04.26 ID:G2RTrE86W
俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:39:05.25 ID:G2RTrE86W
彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:54:06.14 ID:G2RTrE86W
と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:09:06.83 ID:G2RTrE86W
信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:24:08.06 ID:G2RTrE86W
夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:39:08.69 ID:G2RTrE86W
その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:54:09.56 ID:G2RTrE86W
彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:09:10.31 ID:G2RTrE86W
夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:24:11.35 ID:G2RTrE86W
「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:39:12.03 ID:G2RTrE86W
夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:54:12.73 ID:G2RTrE86W
が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:09:13.38 ID:G2RTrE86W
それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:24:14.45 ID:G2RTrE86W
その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:39:17.34 ID:G2RTrE86W
彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:54:18.31 ID:G2RTrE86W
「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:09:19.01 ID:G2RTrE86W
そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:24:20.14 ID:JE0ELg5du
筆の渋る事も再三あつた。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:39:21.36 ID:JE0ELg5du
すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:54:22.31 ID:JE0ELg5du
松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:09:22.99 ID:JE0ELg5du
その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:24:24.06 ID:JE0ELg5du
夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:39:24.77 ID:JE0ELg5du
が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。

599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:54:25.87 ID:JE0ELg5du
「どれ、寝るかな。」――

600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:09:27.34 ID:JE0ELg5du
二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:24:45.11 ID:L9rASY/Bt
信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:40:01.34 ID:L9rASY/Bt
「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:55:18.15 ID:L9rASY/Bt
彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。

604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:10:34.36 ID:L9rASY/Bt
照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:25:50.30 ID:L9rASY/Bt
当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。

606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:41:07.66 ID:L9rASY/Bt
信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:56:23.86 ID:L9rASY/Bt
「東京も雪が降つてゐるかしら。」――

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:11:39.40 ID:L9rASY/Bt
こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。

609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:26:55.14 ID:L9rASY/Bt
が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:42:10.74 ID:L9rASY/Bt
信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。

611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:57:26.32 ID:L9rASY/Bt
が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:12:41.93 ID:L9rASY/Bt
彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:27:57.67 ID:L9rASY/Bt
彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:43:13.56 ID:L9rASY/Bt
しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:58:31.05 ID:L9rASY/Bt
のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:13:49.14 ID:mB96eak8i
すべてがどの家も変りはなかつた。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:29:05.02 ID:mB96eak8i
この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:44:22.55 ID:mB96eak8i
が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:59:38.85 ID:mB96eak8i
俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:14:55.64 ID:mB96eak8i
彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:30:12.00 ID:mB96eak8i
信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:45:27.71 ID:mB96eak8i
俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:00:43.43 ID:mB96eak8i
座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。

624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:16:00.70 ID:mB96eak8i
殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:31:16.72 ID:mB96eak8i
その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:46:32.95 ID:mB96eak8i
信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。

627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:01:48.63 ID:mB96eak8i
「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――

628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:17:04.56 ID:mB96eak8i
俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:32:20.67 ID:mB96eak8i
「どうです、大阪の御生活は?」

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:47:36.64 ID:mB96eak8i
信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:02:52.77 ID:mB96eak8i
文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:18:08.76 ID:mB96eak8i
彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。

633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:33:24.88 ID:mB96eak8i
俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:48:40.83 ID:mB96eak8i
が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:03:56.87 ID:mB96eak8i
それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:19:12.98 ID:mB96eak8i
時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:34:29.03 ID:mB96eak8i
その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:49:45.10 ID:mB96eak8i
其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:05:00.87 ID:mB96eak8i
すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:20:16.80 ID:mB96eak8i
彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:35:33.05 ID:mB96eak8i
が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:50:48.91 ID:mB96eak8i
その内に照子が帰つて来た。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:06:05.43 ID:mB96eak8i
彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:21:22.28 ID:mB96eak8i
信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:36:38.50 ID:mB96eak8i
二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:51:54.30 ID:mB96eak8i
殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。

647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 08:07:10.04 ID:mB96eak8i
俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 08:22:25.91 ID:mB96eak8i
其処へ女中も帰つて来た。

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:04:30.16 ID:Pu4TXjBq6
照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:20:01.08 ID:Pu4TXjBq6
「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:35:31.79 ID:Pu4TXjBq6
「ええ、俊さんだけ。」――

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:51:02.33 ID:Pu4TXjBq6
信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:06:33.94 ID:Pu4TXjBq6
すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:22:04.50 ID:Pu4TXjBq6
その茶も僕が入れたんだ。」

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:37:35.04 ID:Pu4TXjBq6
照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:53:05.59 ID:Pu4TXjBq6
が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 12:08:37.14 ID:Pu4TXjBq6
間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:24:38.07 ID:Pu4TXjBq6
照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:40:08.61 ID:Pu4TXjBq6
俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:55:39.59 ID:Pu4TXjBq6
小はこの玉子から」――

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:11:10.21 ID:Pu4TXjBq6
なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:26:40.71 ID:Pu4TXjBq6
その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:42:11.21 ID:Pu4TXjBq6
照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:57:41.70 ID:Pu4TXjBq6
信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:13:12.21 ID:Pu4TXjBq6
話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:28:42.70 ID:Pu4TXjBq6
微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。

667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:44:13.22 ID:Pu4TXjBq6
その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:59:43.72 ID:Pu4TXjBq6
彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:15:14.23 ID:Pu4TXjBq6
すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。

670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:30:44.71 ID:Pu4TXjBq6
それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:46:15.37 ID:Pu4TXjBq6
信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:01:45.96 ID:Pu4TXjBq6
「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:17:16.51 ID:Pu4TXjBq6
アポロは男ぢやありませんか。」――

674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:32:47.13 ID:Pu4TXjBq6
照子は真面目にこんな事まで云つた。

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:48:17.67 ID:Pu4TXjBq6
信子はとうとう泊る事になつた。

676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:03:48.31 ID:Pu4TXjBq6
寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:19:18.85 ID:Pu4TXjBq6
それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:34:49.44 ID:Pu4TXjBq6
信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 18:50:19.99 ID:Pu4TXjBq6
足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:05:51.05 ID:Pu4TXjBq6
月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:21:22.49 ID:Pu4TXjBq6
従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。

682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:36:53.40 ID:Pu4TXjBq6
「大へん草が生えてゐるのね。」――

683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:52:24.80 ID:Pu4TXjBq6
信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。

684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:07:55.58 ID:Pu4TXjBq6
が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:23:26.22 ID:Pu4TXjBq6
と呟いただけであつた。

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:38:56.85 ID:Pu4TXjBq6
暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 21:54:57.88 ID:Pu4TXjBq6
鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:10:28.44 ID:Pu4TXjBq6
二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:25:58.93 ID:Pu4TXjBq6
しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:41:29.48 ID:Pu4TXjBq6
俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:57:00.01 ID:Pu4TXjBq6
「玉子を人に取られた鶏が。」――

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:12:30.48 ID:Pu4TXjBq6
信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:28:00.97 ID:Pu4TXjBq6
二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:43:32.09 ID:Pu4TXjBq6
青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。

695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:59:02.89 ID:Pu4TXjBq6
翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 00:14:33.39 ID:vcxutUQhq
何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:19:47.20 ID:rw1/+By1b
彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。

698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:35:17.97 ID:nKBGMu5j8
が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。

699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:50:48.62 ID:rw1/+By1b
照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:06:19.37 ID:nKBGMu5j8
隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:21:50.08 ID:rw1/+By1b
その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:37:20.82 ID:nKBGMu5j8
が、信子の心は沈んでゐた。

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:52:51.50 ID:rw1/+By1b
彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:08:22.09 ID:nKBGMu5j8
それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:23:52.90 ID:rw1/+By1b
妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」

706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:39:23.65 ID:nKBGMu5j8
と尋ねてくれたりした。

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:54:54.26 ID:rw1/+By1b
しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。

708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:10:25.05 ID:nKBGMu5j8
柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」

709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:25:55.72 ID:rw1/+By1b
照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」

710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:41:26.60 ID:nKBGMu5j8
とだけしか答へなかつた。

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:56:57.49 ID:rw1/+By1b
信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:12:28.37 ID:nKBGMu5j8
さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:27:59.29 ID:rw1/+By1b
「照さんは幸福ね。」――

714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:43:29.98 ID:nKBGMu5j8
信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。

715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:59:00.86 ID:rw1/+By1b
が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:14:31.56 ID:nKBGMu5j8
照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」

717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:30:02.57 ID:rw1/+By1b
それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」

718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:45:33.41 ID:nKBGMu5j8
と、甘えるやうにつけ加へた。

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:01:04.34 ID:rw1/+By1b
その言葉がぴしりと信子を打つた。

720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:16:34.97 ID:nKBGMu5j8
彼女は心もちを上げて、「さう思つて?」

721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:32:05.75 ID:rw1/+By1b
問ひ返して、すぐに後悔した。

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:47:36.62 ID:nKBGMu5j8
照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。

723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:03:07.26 ID:rw1/+By1b
その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:18:37.87 ID:nKBGMu5j8
信子は強ひて微笑した。――

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:34:08.61 ID:rw1/+By1b
「さう思はれるだけでも幸福ね。」

726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:49:39.23 ID:nKBGMu5j8
二人の間には沈黙が来た。

727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:05:09.96 ID:rw1/+By1b
彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。

728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:20:40.65 ID:nKBGMu5j8
「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――

729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:36:11.32 ID:rw1/+By1b
やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。

730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:52:40.89 ID:nKBGMu5j8
その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。

731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:00:26.84 ID:rw1/+By1b
彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。

732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:08:12.58 ID:nKBGMu5j8
新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。

733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:15:58.25 ID:rw1/+By1b
その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:23:43.94 ID:nKBGMu5j8
信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。

735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:31:29.70 ID:rw1/+By1b
「泣かなくつたつて好いのよ。」――

736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:39:15.44 ID:nKBGMu5j8
照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。

737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:47:01.56 ID:rw1/+By1b
信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。

738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:54:47.21 ID:nKBGMu5j8
それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。

739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:02:32.97 ID:rw1/+By1b
私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。

740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:10:18.57 ID:nKBGMu5j8
俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」

741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:18:04.36 ID:rw1/+By1b
と、低い声で云ひ続けた。

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:25:49.97 ID:nKBGMu5j8
云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。

743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:33:35.60 ID:rw1/+By1b
すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。

744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:41:21.55 ID:nKBGMu5j8
彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。

745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:49:07.21 ID:rw1/+By1b
が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。

746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:56:52.77 ID:nKBGMu5j8
御姉様は何故昨夜も――」

747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:04:38.35 ID:rw1/+By1b
照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……

748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:12:24.05 ID:nKBGMu5j8
二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。

749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:20:09.89 ID:rw1/+By1b
彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。

750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:27:55.68 ID:nKBGMu5j8
其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。

751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:35:41.36 ID:rw1/+By1b
もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。

752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:43:27.12 ID:nKBGMu5j8
彼女の心は静かであつた。

753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:51:12.75 ID:rw1/+By1b
が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。

754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:58:58.45 ID:nKBGMu5j8
照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。

755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:06:44.05 ID:rw1/+By1b
しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。

756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:14:29.67 ID:nKBGMu5j8
彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――

757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:22:15.31 ID:rw1/+By1b
信子はふと眼を挙げた。

758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:30:00.95 ID:nKBGMu5j8
その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。

759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:37:46.66 ID:rw1/+By1b
それともこの儘行き違はうか。

760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:45:32.40 ID:nKBGMu5j8
彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。

761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:53:18.02 ID:rw1/+By1b
が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。

762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:01:05.21 ID:tcI6LyxB5
彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。

763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:08:51.15 ID:brwdA4kbZ
さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。

764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:16:36.74 ID:tcI6LyxB5
実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。

765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:24:22.45 ID:brwdA4kbZ
が、彼女は又ためらつた。

766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:32:08.02 ID:tcI6LyxB5
その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。

767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:39:53.73 ID:brwdA4kbZ
薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――

768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:47:39.58 ID:tcI6LyxB5
後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。

769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:55:25.18 ID:brwdA4kbZ
信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。

770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:03:10.82 ID:tcI6LyxB5
やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく

771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:10:56.47 ID:brwdA4kbZ
いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨

772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:18:42.14 ID:tcI6LyxB5
ほの赤く岐阜提灯もともりけり「二つ巴」

773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:26:27.72 ID:brwdA4kbZ
の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)

774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:34:13.30 ID:tcI6LyxB5
戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり

775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:41:59.08 ID:brwdA4kbZ
なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく

776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:49:44.85 ID:tcI6LyxB5
春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)

777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:57:30.59 ID:brwdA4kbZ
片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり

778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:05:16.22 ID:tcI6LyxB5
恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ

779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:13:01.88 ID:brwdA4kbZ
麦畑の萌黄天鵞絨芥子の花五月の空にそよ風のふく

780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:20:47.45 ID:tcI6LyxB5
五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ

781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:28:33.15 ID:brwdA4kbZ
刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋

782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:36:18.79 ID:tcI6LyxB5
うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ

783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:44:04.40 ID:brwdA4kbZ
桐 (To Signorina Y. Y.)

784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:51:50.36 ID:tcI6LyxB5
君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける

785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:59:35.98 ID:brwdA4kbZ
君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも

786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:07:21.64 ID:tcI6LyxB5
広重のふるき版画のてざはりもわすれがたかり君とみればか

787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:15:07.23 ID:x5nEeAAps
いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも

788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:22:52.90 ID:tcI6LyxB5
病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする

789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:30:38.47 ID:x5nEeAAps
夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて

790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:38:24.07 ID:tcI6LyxB5
草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる

791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:46:09.67 ID:x5nEeAAps
くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる芙藍の花

792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:53:55.40 ID:tcI6LyxB5
青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも

793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:01:41.00 ID:x5nEeAAps
その日さりて消息もなくなりにたる風騒の子をとがめたまひそ

794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:09:26.75 ID:tcI6LyxB5
いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや

795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:17:12.49 ID:x5nEeAAps
すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は

796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:24:58.08 ID:tcI6LyxB5
香料をふりそゝぎたるふし床より恋の柩にしくものはなし

797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:32:43.68 ID:x5nEeAAps
にほひよき絹の小枕薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓

798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:40:29.33 ID:tcI6LyxB5
夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ

799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:48:14.98 ID:x5nEeAAps
其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは

800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:56:00.75 ID:tcI6LyxB5
わが足に膏そゝがむ人もがなそを黒髪にぬぐふ子もがな(寺院にて三首)

801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:03:46.35 ID:x5nEeAAps
ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蝋もあり

802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:11:32.00 ID:tcI6LyxB5
うなだれて白夜の市をあゆむ時聖金曜の鐘のなる時

803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:19:17.84 ID:x5nEeAAps
ほのかなる麝香の風のわれにふく紅燈集の中の国より

804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:27:03.43 ID:tcI6LyxB5
かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ恋のごとくかなしき

805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:34:49.09 ID:x5nEeAAps
うす黄なる寝台の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は来にけむ

806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:42:34.73 ID:tcI6LyxB5
薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり

807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:50:20.45 ID:x5nEeAAps
初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな

808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:58:06.26 ID:tcI6LyxB5
海は今青きをしばたゝき静に夜を待てるならじか

809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:05:51.89 ID:x5nEeAAps
君が家の緋の房長き燈籠も今かほのかに灯しするらむ

810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:13:37.50 ID:tcI6LyxB5
都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも灯をやともすと

811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:21:23.11 ID:x5nEeAAps
黒船のとほき灯にさへ若人は涙落しぬ恋の如くに

812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:29:08.76 ID:tcI6LyxB5
幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと

813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:36:54.36 ID:x5nEeAAps
憂しや恋ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも

814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:44:39.90 ID:tcI6LyxB5
かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帯よりや来し

815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:52:25.58 ID:x5nEeAAps
二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな

816 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:00:11.38 ID:tcI6LyxB5
何をかもさは歎くらむ旅人よ蜜柑畑の棚によりつゝ

817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:07:57.44 ID:x5nEeAAps
ともしびも雨にぬれたる甃石も君送る夜はあはれふかゝり

818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:15:43.09 ID:tcI6LyxB5
ときすてし絽の夏帯の水あさぎなまめくまゝに夏や往にけむ

819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:23:28.77 ID:x5nEeAAps
うら若き都人こそかなしかりけれ。

820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:31:14.41 ID:tcI6LyxB5
失ひし夢を求むと市を歩める。

821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:39:00.10 ID:x5nEeAAps
橡の花もひそかにさけるならじか。

822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:46:45.76 ID:tcI6LyxB5
夢未多かりし日を思ひ出でよと。

823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:54:31.49 ID:x5nEeAAps
たはれ女のうつゝ無げにも青みたる眼か。

824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:02:17.25 ID:tcI6LyxB5
かはたれの空に生まるゝ二日の月か。

825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:10:03.01 ID:x5nEeAAps
しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる。

826 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:17:48.81 ID:tcI6LyxB5
初恋のありとも見えぬ薄ら明りに。

827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:25:34.42 ID:x5nEeAAps
さばかりにおもはゆげにもいらへ給ひそ。

828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:33:20.09 ID:tcI6LyxB5
緋の房の長き団扇にかくれ給ひそ。

829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:41:05.76 ID:x5nEeAAps
なつかしき人形町の二日月はも。

830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:48:51.43 ID:tcI6LyxB5
若う人の涙を誘ふ二日月はも。

831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:56:37.04 ID:x5nEeAAps
いとせめて泣くべく人を恋ひもこそすれ。

832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:04:23.10 ID:tcI6LyxB5
黄蝋の涙おとすと燃ゆる如くに。

833 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:12:08.74 ID:x5nEeAAps
湯沸器の湯気もほのかにもの思ふらし。

834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:19:54.34 ID:tcI6LyxB5
我友の西鶴めきし恋語りより。

835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:27:40.95 ID:x5nEeAAps
ほゝけたる花ふり落す大川楊。

836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:35:26.58 ID:tcI6LyxB5
水にしも恋やするらむ大川楊。

837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:43:12.18 ID:x5nEeAAps
香油よりつめたき雨にひたもぬれつゝ。

838 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:50:57.76 ID:tcI6LyxB5
たそがれの銀座通をゆくは誰が子ぞ。

839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:58:43.59 ID:x5nEeAAps
恋すてふ戯れすなる若き道化は。

840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:06:29.36 ID:tcI6LyxB5
かりそめの涙おとすを常とするかも。

841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:14:14.94 ID:x5nEeAAps
何時となく恋もものうくなりにけらしな。

842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:22:00.60 ID:tcI6LyxB5
つめたくなりまさる如。

843 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:29:46.24 ID:x5nEeAAps
うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母のごとくまばゆくもあるか

844 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:37:31.87 ID:tcI6LyxB5
八百日ゆく遠の渚は銀泥の水ぬるませて日にかゞやくも

845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:45:17.50 ID:x5nEeAAps
きらゝかにこゝだ身動ぐいさゝ波砂に消なむとするいさゝ波

846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:04:25.70 ID:KVFUK8HpC
いさゝ波生れも出でねと高天ゆ光はちゞにふれり光は

847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:12:11.49 ID:dNxc//Ntb
光輪は空にきはなしその空の下につどへる蜑少女はも

848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:19:57.13 ID:KVFUK8HpC
むらがれる海女らことごと恥なしと空はもだしてかゞやけるかも

849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:27:42.87 ID:dNxc//Ntb
うつそみの女人眠るとまかゞよふ巨海は息をひそむらむかも

850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:35:28.53 ID:KVFUK8HpC
荘厳の光の下にまどろめる女人の乳こそくろみたりしか

851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:43:14.18 ID:dNxc//Ntb
いさゝ波かゞよふきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ

852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:50:59.78 ID:KVFUK8HpC
きらゝ雲むかぶすきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ

853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 01:58:45.51 ID:dNxc//Ntb
雲の影おつるすなはちふかぶかと弘法麦は青みふすかも

854 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:06:31.09 ID:KVFUK8HpC
雲の影さかるすなはちはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ

855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:14:16.70 ID:dNxc//Ntb
支那の上海の或町です。

856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:22:02.30 ID:KVFUK8HpC
昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。

857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:29:48.07 ID:dNxc//Ntb
「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」

858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:37:34.29 ID:KVFUK8HpC
亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。

859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:45:19.94 ID:dNxc//Ntb
占いは当分見ないことにしましたよ」

860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 02:53:05.59 ID:KVFUK8HpC
婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。

861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:02:51.20 ID:dNxc//Ntb
「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」

862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:10:36.85 ID:KVFUK8HpC
「そりゃ勿論御礼をするよ」

863 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:18:22.56 ID:dNxc//Ntb
亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。

864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:26:08.13 ID:KVFUK8HpC
「差当りこれだけ取って置くさ。

865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:33:53.74 ID:dNxc//Ntb
もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」

866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:41:39.37 ID:KVFUK8HpC
婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。

867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:49:25.11 ID:dNxc//Ntb
「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――

868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 03:57:10.74 ID:KVFUK8HpC
そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」

869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:04:56.34 ID:dNxc//Ntb
「私が見て貰いたいのは、――」

870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:12:42.01 ID:KVFUK8HpC
亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。

871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:20:27.80 ID:dNxc//Ntb
「一体日米戦争はいつあるかということなんだ。

872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:28:13.46 ID:KVFUK8HpC
それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」

873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:35:59.06 ID:dNxc//Ntb
「じゃ明日いらっしゃい。

874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:43:44.63 ID:KVFUK8HpC
それまでに占って置いて上げますから」

875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:51:30.36 ID:dNxc//Ntb
じゃ間違いのないように、――」

876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 04:59:16.26 ID:KVFUK8HpC
印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。

877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:07:01.91 ID:dNxc//Ntb
「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。

878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:14:47.51 ID:KVFUK8HpC
何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」

879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:22:33.13 ID:dNxc//Ntb
亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、

880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:30:18.84 ID:KVFUK8HpC
その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。

881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:38:04.52 ID:dNxc//Ntb
が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。

882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:45:50.26 ID:KVFUK8HpC
「何を愚図々々しているんだえ?

883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 05:53:37.37 ID:dNxc//Ntb
ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。

884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:01:23.88 ID:KVFUK8HpC
きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」

885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:09:09.48 ID:dNxc//Ntb
恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。

886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:16:58.31 ID:KVFUK8HpC
今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」

887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:24:44.13 ID:dNxc//Ntb
女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。

888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:32:29.78 ID:KVFUK8HpC
印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。

889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:40:15.38 ID:dNxc//Ntb
「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。

890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:48:19.56 ID:KVFUK8HpC
お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」

891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 06:56:05.26 ID:dNxc//Ntb
こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。

892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:03:50.93 ID:KVFUK8HpC
ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。

893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:11:36.53 ID:dNxc//Ntb
「何を見ているんだえ?」

894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:19:22.28 ID:KVFUK8HpC
恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。

895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:27:07.95 ID:dNxc//Ntb
「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」

896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:34:53.58 ID:KVFUK8HpC
婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。

897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:42:39.25 ID:dNxc//Ntb
誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。

898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:50:24.89 ID:KVFUK8HpC
その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。

899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 07:58:10.51 ID:dNxc//Ntb
それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。

900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:05:56.21 ID:KVFUK8HpC
そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。

901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:13:41.89 ID:dNxc//Ntb
あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」

902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:21:27.46 ID:KVFUK8HpC
日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。

903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:29:13.07 ID:dNxc//Ntb
支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか?

904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:35:57.90 ID:KVFUK8HpC
あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」

905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:43:43.69 ID:dNxc//Ntb
と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。

906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:50:57.95 ID:KVFUK8HpC
そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」

907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 08:58:43.79 ID:dNxc//Ntb
が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。

908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:06:42.08 ID:KVFUK8HpC
まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」

909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:14:28.09 ID:dNxc//Ntb
支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。

910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:22:14.02 ID:KVFUK8HpC
すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。

911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:30:00.26 ID:dNxc//Ntb
日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。

912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:37:46.36 ID:KVFUK8HpC
そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。

913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:45:00.07 ID:dNxc//Ntb
戸は直ぐに開きました。

914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 09:52:45.86 ID:KVFUK8HpC
が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。

915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:00:32.03 ID:dNxc//Ntb
婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。

916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:08:18.39 ID:KVFUK8HpC
「お前さんは占い者だろう?」

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:16:04.60 ID:dNxc//Ntb
日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。

918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:23:49.55 ID:KVFUK8HpC
「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか?

919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:31:36.28 ID:dNxc//Ntb
私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」

920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:39:22.32 ID:KVFUK8HpC
「何を見て上げるんですえ?」

921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:47:08.01 ID:dNxc//Ntb
婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。

922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 10:54:53.83 ID:KVFUK8HpC
「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。

923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:02:39.47 ID:dNxc//Ntb
それを一つ見て貰いたいんだが、――」

924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:10:25.09 ID:KVFUK8HpC
日本人は一句一句、力を入れて言うのです。

925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:18:10.77 ID:dNxc//Ntb
「私の主人は香港の日本領事だ。

926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:25:56.47 ID:KVFUK8HpC
御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。

927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:33:42.15 ID:dNxc//Ntb
私は遠藤という書生だが――

928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:41:27.94 ID:KVFUK8HpC
その御嬢さんはどこにいらっしゃる」

929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:49:14.84 ID:dNxc//Ntb
遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。

930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 11:57:01.14 ID:KVFUK8HpC
「この近所にいらっしゃりはしないか?

931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:04:46.81 ID:dNxc//Ntb
香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――

932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:11:32.47 ID:KVFUK8HpC
隠し立てをすると為にならんぞ」

933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:18:28.52 ID:dNxc//Ntb
しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。

934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:26:14.72 ID:KVFUK8HpC
見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。

935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:34:01.42 ID:dNxc//Ntb
「お前さんは何を言うんだえ?

936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:41:47.44 ID:KVFUK8HpC
私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」

937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:49:24.20 ID:dNxc//Ntb
今その窓から外を見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」

938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 12:55:10.36 ID:KVFUK8HpC
遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。

939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:02:56.11 ID:dNxc//Ntb
「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」

940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:10:41.96 ID:KVFUK8HpC
「あれは私の貰い子だよ」

941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:18:27.68 ID:dNxc//Ntb
婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。

942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:26:13.37 ID:KVFUK8HpC
「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。

943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:33:59.01 ID:dNxc//Ntb
貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」

944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:41:44.81 ID:KVFUK8HpC
遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞がりました。

945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:49:30.50 ID:dNxc//Ntb
見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」

946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 13:57:16.12 ID:KVFUK8HpC
遠藤はピストルを挙げました。

947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:05:01.75 ID:dNxc//Ntb
いや、挙げようとしたのです。

948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 14:12:47.33 ID:KVFUK8HpC
が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。

949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 16:25:47.03 ID:dNxc//Ntb
これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、

950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 16:33:32.69 ID:KVFUK8HpC
と罵りながら、虎のように婆さんへ飛びかかりました。

951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 16:41:18.70 ID:dNxc//Ntb
が、婆さんもさるものです。

952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 16:49:04.57 ID:KVFUK8HpC
ひらりと身を躱すが早いか、そこにあった箒をとって、又掴みかかろうとする遠藤の顔へ、床の上の五味を掃きかけました。

953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 16:56:50.26 ID:dNxc//Ntb
すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。

954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:04:35.83 ID:KVFUK8HpC
遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風に追われながら、転げるように外へ逃げ出しました。

955 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:12:21.42 ID:dNxc//Ntb
その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影を口惜しそうに見つめていました。

956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:20:07.09 ID:KVFUK8HpC
「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。

957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:27:53.40 ID:dNxc//Ntb
一そ警察へ訴えようか?

958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:35:39.03 ID:KVFUK8HpC
いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。

959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:43:24.65 ID:dNxc//Ntb
万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。

960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:51:10.28 ID:KVFUK8HpC
といってあの魔法使には、ピストルさえ役に立たないし、――」

961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 17:58:55.97 ID:dNxc//Ntb
遠藤がそんなことを考えていると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。

962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:06:41.64 ID:KVFUK8HpC
「おや、紙切れが落ちて来たが、――

963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:14:27.22 ID:dNxc//Ntb
もしや御嬢さんの手紙じゃないか?」

964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:22:12.79 ID:KVFUK8HpC
こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。

965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:29:58.39 ID:dNxc//Ntb
すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違いない、消えそうな鉛筆の跡があります。

966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:37:44.07 ID:KVFUK8HpC
コノ家ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。

967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:45:29.68 ID:dNxc//Ntb
時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』

968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 18:53:15.32 ID:KVFUK8HpC
トイウ印度ノ神ヲ乗リ移ラセマス。

969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:01:00.92 ID:dNxc//Ntb
私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中、死ンダヨウニナッテイルノデス。

970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:08:46.55 ID:KVFUK8HpC
デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』

971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:16:32.23 ID:dNxc//Ntb
ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダソウデス。

972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:24:17.88 ID:KVFUK8HpC
今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』

973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:32:03.55 ID:dNxc//Ntb
ノ神ヲ乗リ移ラセマス。

974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:39:49.30 ID:KVFUK8HpC
イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。

975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:47:35.07 ID:dNxc//Ntb
ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』

976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 19:55:20.68 ID:KVFUK8HpC
ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。

977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:03:06.38 ID:dNxc//Ntb
オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』

978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:10:52.06 ID:KVFUK8HpC
ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。

979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:18:37.73 ID:dNxc//Ntb
ドウカ明日ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。

980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:26:23.51 ID:KVFUK8HpC
コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。

981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:34:09.16 ID:dNxc//Ntb
遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。

982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:41:54.80 ID:KVFUK8HpC
時計は十二時五分前です。

983 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:49:40.47 ID:dNxc//Ntb
「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」

984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 20:57:26.07 ID:KVFUK8HpC
遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでしょう。

985 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:05:11.71 ID:dNxc//Ntb
今まで明るかった二階の窓は、急にまっ暗になってしまいました。

986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:12:57.34 ID:KVFUK8HpC
と同時に不思議な香の匂が、町の敷石にも滲みる程、どこからか静に漂って来ました。

987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:20:43.17 ID:dNxc//Ntb
その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、頻に呪文を唱えていました。

988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:28:28.82 ID:KVFUK8HpC
書物は香炉の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせているのです。

989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:36:14.47 ID:dNxc//Ntb
婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――

990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:44:00.10 ID:KVFUK8HpC
いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。

991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:51:45.85 ID:dNxc//Ntb
さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろうか?

992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 21:59:31.55 ID:KVFUK8HpC
あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――

993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:07:17.89 ID:dNxc//Ntb
そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。

994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:15:03.50 ID:KVFUK8HpC
しかし今うっかりそんな気ぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後、この恐しい魔法使いの家から、逃げ出そうという計略は、すぐに見破られてしまうでしょう。

995 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:22:49.19 ID:dNxc//Ntb
ですから妙子は一生懸命に、震える両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移ったように、見せかける時の近づくのを今か今かと待っていました。

996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:30:34.81 ID:KVFUK8HpC
婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。

997 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:38:20.57 ID:dNxc//Ntb
或時は前へ立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするように、そっと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。

998 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:46:06.23 ID:KVFUK8HpC
もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな蝙蝠か何かが、蒼白い香炉の火の光の中に、飛びまわってでもいるように見えたでしょう。

999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:53:51.80 ID:dNxc//Ntb
その内に妙子はいつものように、だんだん睡気がきざして来ました。

1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/30(土) 01:06:54.23 ID:GneD6YXHS
が、ここで睡ってしまっては、折角の計略にかけることも、出来なくなってしまう道理です。

1001 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/30(土) 01:14:40.60 ID:Pe+lwRev4
そうしてこれが出来なければ、勿論二度とお父さんの所へも、帰れなくなるのに違いありません。

1002 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/30(土) 01:22:26.54 ID:GneD6YXHS
「日本の神々様、どうか私が睡らないように、御守りなすって下さいまし。

1003 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/30(土) 01:30:12.26 ID:Pe+lwRev4
その代り私はもう一度、たとい一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしゅうございます。

1004 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/30(土) 01:37:57.94 ID:GneD6YXHS
日本の神々様、どうかお婆さんを欺せるように、御力を御貸し下さいまし」

1005 :1001★:Over 1000 Comments
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

総レス数 1005
134 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200