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戦国ちょっと悪い話48

1 :人間七七四年:2020/04/24(金) 01:06:51 ID:6nyGY0u0.net
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっと悪い話47
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1557310620/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1586920019/

2 :人間七七四年:2020/04/24(金) 01:08:56 ID:6nyGY0u0.net
文明元年、公方家(足利将軍家)の若君(義尚)、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ、
花の御所に於いて諸大名の拝礼を受けられた。これは旧冬、今出川殿(足利義視)が当方を御退去あって、
山名方へ御成あり、例え御心私有らずと雖も、この時公方家に敵対したような形勢となり、これによって
花の御所にては、今更憚る所もなく、この若君を御家督に定められ、持て囃し奉った。
管領には細川勝元、当職として赤松次郎政則を始め、京極武田以下、大小名皆々当方に在り合わせる衆は、
若君へ御礼申し上げた。この時若君は、伊勢守貞宗の膝上に懐かれ給いて拝礼を受けられた。

さてまた、山名方にては今出川殿を公方に取り立て参らせて、一方の主君と仰ぎ、同月八日、
山名入道宗全を始めとして、畠山義就、斯波義廉、その他西陣に在る大小名皆々今出川殿へ、
御太刀御馬を献上し、これまた拝礼申し上げた。時勢は一変して、公方が東軍西軍の両所に御座有る故、
御兄弟(足利義政・義視)の国争いのような情勢と成った。

『應仁廣記』

応仁の乱での、足利将軍の分裂について。

3 :人間七七四年:2020/04/24(金) 03:11:51.17 ID:vpKRisb4.net
保守

4 :人間七七四年:2020/04/24(金) 10:24:21.43 ID:T4UpEmkq.net
大内義隆、方角を忌説


 大内左京太夫義隆は並びもなき大名で、周防国山口に住んでいた。
武道を忘れて、華奢を好んでいた。
常に甚だしいほどのの物忌みを行っており、
家人に屋敷を与える時は、
水性の者は北、木性の者は東、
火性の者は南、金性の者は西と定めていた。
もし木性の者は金性の子を産んだ時は、西の方へ預けていた。

 今按ずるにこれは大内氏のみの話ではない。
今の世(正徳頃)にも、この類はある。
 ある者は家を建てて地を移すのときに、
東北の間は鬼門なり、今年はあっちは金神なり、土用には土は動かさないとしたり、
水神・荒神の祈り、疫病・疱瘡の呪い、矢違・愛敬守、男女の相性、葬送の友引、名鑑・判占い等と忌み、
夢見、カラスの鳴き声、鶏の宵鳴き、犬の長吠え、幽霊、化物、野狐、金花?(ねこまた)などを恐れる。
 尼姥はもとより理に暗い者なのでさもありなん。
武夫がこのようでは、見る目も浅ましく、聞く耳も情けない。
もし書を読み理をわきまえ、吉凶禍福を請い求め逃れ避けようとする思いもせず、
万事万物全て天に任せていたら、宇宙の間に何を疑う事があるだろうか。

(広益俗説弁)

矢違はなんなのかわからないけど、お守りの一種ですかね
武士が迷信にとらわれるなって話なのでしょうが、割と信心深いエピソードありますよね

5 :人間七七四年:2020/04/25(土) 06:55:07 ID:e5r/qk9y.net
矢違は敵の矢が当たらないという御守りのことですよ

毛利元就が石見の山吹城を攻めたときにこの御守りで九死に一生を得たエピが地元に伝わってます

6 :人間七七四年:2020/04/25(土) 18:06:04 ID:tIAqAHF1.net
wikipediaより
逆井城(さかさいじょう)(現・茨城県坂東市逆井)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E4%BA%95%E5%9F%8E
>天文5年(1536年)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立した。そのため後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け逆井古城は落城、
>逆井氏は滅亡したと伝わる。

>「鐘掘り池」という池もある。池の名の由来は、逆井城落城時に城主逆井常繁の室(娘とも)の智姫が
>先祖伝来の鐘を被ってこの池に入水したと伝えられたため、この鐘を探すために後に何度も池が掘り返されたことにちなむ。

そしてこの故事を海外研究者がイラスト化したものである。
https://i.pinimg.com/originals/57/50/49/575049f99c6ba2530c812df5a062aeb7.jpg

7 :人間七七四年:2020/04/25(土) 20:53:04.74 ID:0aAtX73o.net
>>4
矢違のお守りについて
ttp://www.chofuku-ji.jp/temple

8 :人間七七四年:2020/04/26(日) 07:59:56 ID:TCDQXxru.net
>>6
そうはならんやろw

9 :人間七七四年:2020/04/26(日) 09:21:50 ID:HgTynOmZ.net
>>6
英国オスプレイ社のイラスト入り歴史本のこれですね
https://ospreypublishing.com/samurai-women-1184-1877

Samurai Women 1184?1877 Warrior 151
Author: Stephen Turnbull
Illustrator: Giuseppe Rava

著者もアレな人なんですが、そのコレジャナイ感はイラストレーターの責任だと思いますw

10 :人間七七四年:2020/04/26(日) 11:33:47 ID:TtSQuu7u.net
これじゃない的なところから 微妙な違和感まで色々と多いから、日本人のなんちゃってヨーロッパ風世界もOK、OK。

弁慶の立ち往生
https://i.pinimg.com/564x/78/77/e9/7877e92a0a3a2be957a6bcf582577fa7.jpg
大仏殿焼き討ち
https://i.pinimg.com/474x/a9/7c/ec/a97cec913afcbdafbc1d2f8a368b56f2.jpg
桶狭間の戦い
https://i.pinimg.com/564x/2d/11/19/2d11197104d797ae84866bfbfb5b3676.jpg
https://i.pinimg.com/564x/50/ec/31/50ec310697db3e6513c90010410e1c1f.jpg
宗茂とギン千代
https://i.pinimg.com/564x/97/2a/16/972a167637e1e26dbb2a50eea1b4a4e9.jpg
天皇の行幸
https://i.pinimg.com/564x/6a/2a/37/6a2a37cdf26793919e8ec575481cb855.jpg
47ローニン
https://i.pinimg.com/564x/39/ec/29/39ec29b55cf6db990c6b3621a1b73af8.jpg

11 :人間七七四年:2020/04/26(日) 12:47:16.87 ID:SSFFTnBi.net
桶狭間の絵の鎧の再現度の高さに対してビーチパラソルめいた傘がアンバランスすぎて好き

12 :人間七七四年:2020/04/26(日) 13:23:23.27 ID:40kNZi7i.net
前に出てた
島津軍にハブをはなって対抗した琉球軍はまだまともな絵だったのか

13 :人間七七四年:2020/04/26(日) 14:16:37 ID:UYmT6yU1.net
いやあれも酷いでしょ

14 :人間七七四年:2020/04/26(日) 17:27:58 ID:HgTynOmZ.net
というか逆井城自体は、戦国時代の姿を復元した櫓や建物が時代劇ロケ地なんかに
使われているんで知っていましたが
そのエピソードはここで初めて知りましたよ

自分が知らないだけで海外に知れ渡るほどだったのか?

15 :人間七七四年:2020/04/27(月) 05:23:07 ID:hCzYQcAX.net
実際のところ成人女性がかぶったまま入水できる程度の大きさの鐘ってどんなもんだろ

入ったじゃなくかぶったってことは精々数人、なんなら一人で運べる重さだし、となると大きさも絵ほどの大きさじゃなくもっとコンパクトなヘルメットサイズくらいなのかな

どちらにせよかなりシュールな絵面になりそうだ、碇担いで入水はかっこいいのに鐘だとモルゲッソヨになっちゃう

16 :人間七七四年:2020/04/27(月) 11:38:35 ID:RUUNKf2g.net
鉢かぶり姫がいるんだし鐘かぶり姫がいてもいいじゃない?

この時期にもう北条は北総に拠点を確保していたのか

17 :人間七七四年:2020/04/27(月) 14:53:34 ID:b+dspaHN.net
>>6
池に浮かべてそこに入るとかさぁ…wなんでかぶって普通に歩いてんだよ、力ありすぎだろ戦えw

18 :人間七七四年:2020/04/27(月) 16:02:28 ID:wjlhp/pp.net
https://bonsyo.com/free/chishiki
こちらの梵鐘メーカーさんによると
鐘の口径1尺半で83キロ、2尺で244キロだってさ

19 :人間七七四年:2020/04/27(月) 16:16:58 ID:yWZx3ewD.net
無双の豪傑じゃんそんなんかぶれるとか

20 :人間七七四年:2020/04/27(月) 16:43:28 ID:b+dspaHN.net
>>19
周りの死体は味方ではなく姫が屠った敵だった説

21 :人間七七四年:2020/04/27(月) 20:50:47 ID:jJB3odOQ.net
>>6
手からビームとか放ちそう

22 :人間七七四年:2020/04/27(月) 21:11:24.33 ID:19r+QMWd.net
>>21
姫「北 斗 有 情 破 顔 拳」テーレッテー

23 :人間七七四年:2020/04/27(月) 21:30:01 ID:7ZTKr0x/.net
逆井智姫・・
我々は新たなネタキャラの誕生に立ち会っているのだろうか

24 :人間七七四年:2020/04/28(火) 01:25:58 ID:VVo3j/fp.net
真実は姫が背中に子供を入れた鐘を背負って守りきったとかじゃないのか

25 :人間七七四年:2020/04/28(火) 01:55:04 ID:Q9hZfobb.net
近年京都の乱(応仁の乱)より起こって、近隣諸郷はみな兵革の岐と成るのみではなく、関東の乱逆は
年久しく、騒動は更に止まず、日を逐って蜂起が起こった。

この概略は、去る享徳の頃より、関東では兵乱が再興して、鎌倉の新御所(足利)成氏朝臣は公儀を
蔑ろにし、恣に戦伐を行ったため、執事である上杉の一党は京に言上し、これによって公方家より、
成氏御退治のため、駿河の国主、今川上総介範忠を大将として御旗を賜り、多勢を付けられ鎌倉へ
発向した。また関東では上杉の一党。その他国人が大軍を促し、これも鎌倉へと攻め寄せた。
これによって成氏た忽ち一戦に打ち負け、野州古河へ没落した。この時享徳四年(1455)六月十六日、
鎌倉は兵火のために焼き払われ、治承以来の幕府の地は、ただ一片の赤土となって、これにより後も永く
里民の郊居となった。

今川範忠はこれより帰陣したが、その頃、東国の古家として、千葉、小山、宇都宮、結城、佐竹、那須、
小田、壬生を関東の八家と称し、大名であったが、それ故に、上杉の幕下であることを恥じ、無二に
御所方へ心を寄せ、上杉との合戦止まず、関東は治まらなかった。これによって、去る長禄元年(1457)、
京都より御下知があり、渋川左衛門佐義鏡を、関東の探題職として指し下し、上杉を愈々以て関東の管領とし、
諸家その下知に従って成氏を退治すべき旨を相触れたのだが、東国の者共は猶も御下知を用いなかった。
これによって上杉らは又京に訴望し、公方家の御舎弟である政知卿を申し下し奉って、寛正年中(1460〜66)
この政知を関東の御所と称し、東国の大名高家、みなこの御所へ拝謁させ、上杉をその管領として
関東の乱を鎮めようとした。鎌倉炎上の後に御所無き故、政知卿は豆州堀越に御寓居あって、堀越御所と称した。

こうして上杉勢と成氏勢は、武州五十子という所で数年対陣し、未だ雌雄を決せざる所に、文正元年(1466)
二月十二日、上杉家の大将である、兵部太夫(上杉)房顕が病死し、翌年より応仁の大乱が起こり、都鄙悉く
戦国と成り、ただ騒動に月日を送ったが、終に文明十年(1478)の春、上杉方と成氏朝臣の和睦あって、
古河城に安居され、近隣を少々領知された。またこれによって堀越公方の政知卿は、威勢尽き果て、誰も
取り立てる者が無く、僅かの所帯を領して堀越に御住居あったという。

『應仁廣記』

戦国初期の関東、いわゆる「享徳の乱」についての記事ですね。

26 :人間七七四年:2020/04/28(火) 17:04:41 ID:Xtw9+4E9.net
出典ちゃんと挙げてくれるのはありがたいけど、ただ抜き書きをずらずら並べる前に
どういう書籍でだれがいつ書いたのかとか最初に説明してほしいよね

27 :人間七七四年:2020/04/28(火) 17:51:22.77 ID:BgvhFgrj.net
出典明記されてるんだから自分で調べれば済むことやん

28 :人間七七四年:2020/04/28(火) 18:32:06 ID:Xtw9+4E9.net
じゃあ應仁廣記って検索一発で概要出る?
ググレカスだけで済ませないでよ?

応仁記と同じなのかもそれだけじゃわからない

29 :人間七七四年:2020/04/28(火) 18:59:17 ID:BgvhFgrj.net
一発で済まそうとせず検索方法変えればいいだけじゃん
ちょっと調べれば普通に出てくるのに

・乱後の様子を描いた『応仁後記』『続応仁後記』や、乱前・乱後に及ぶ『応仁広記』なども、関連すべきもので『(改定)史籍集覧』三に収められ、これらは『重編応仁記』としてまとめられている。
・応仁広記5巻(著者未詳)

30 :人間七七四年:2020/04/28(火) 19:05:21 ID:vxvO4xuC.net
素直に教えてって書けば投稿者がわかる範囲で教えてくれるんじゃない?

投稿者にそこまで配慮を求める必要は無いと個人的には思うけど

31 :人間七七四年:2020/04/28(火) 19:23:54.87 ID:Eo/Hecpm.net
自己満足と変わらないんじゃないのかな、それではね。

知識自慢ならそれでいいか。
ただそれはこのスレそのものの意義でもあるけどね。

32 :人間七七四年:2020/04/28(火) 19:38:12.12 ID:doPYq7ST.net
こんな話あるんすよってのに対して難癖付けすぎでしょ
正直何様なん感が凄い

33 :人間七七四年:2020/04/28(火) 19:39:28.58 ID:Q9hZfobb.net
投稿者ですが、『応仁広記』は文字通り、『応仁記』に前後の時代を足した(広げた)軍記ですね。

34 :人間七七四年:2020/04/28(火) 21:53:35 ID:o9Xk6mDJ.net
5chのスレに高度なもん求めるほうがおかしい

35 :人間七七四年:2020/04/29(水) 01:33:01 ID:g6+Omaqv.net
おまえみたいな知恵遅れには高度かもしれんけど
ソースを出すのは当たり前やろアホかw

36 :人間七七四年:2020/04/29(水) 01:36:59 ID:4MqUMJ1+.net
それを当たり前と思うほうが能足りん。なんでも人にやってもらわないといけない介護者か

37 :人間七七四年:2020/04/29(水) 03:14:16.24 ID:hFF8Y4zW.net
ソース自体は出てるよね、普通に応仁広記と書いてあるんだし
その上で詳細が知りたいなら都度丁寧に聞けばいいのに、自分の検索能力のなさ棚に上げて言ってもらえるのが当たり前みたいな態度はろくでもないし

礼節わきまえればここまでギスギスせんだろうに

38 :人間七七四年:2020/04/29(水) 11:39:55 ID:tlNIXNFN.net
休校の弊害が如実に出ている。あっ、そもそもの教育の問題か

39 :人間七七四年:2020/04/29(水) 14:31:50.66 ID:z+TP2nUk.net
責任とってアフィカスは公開セックスしろよ

40 :人間七七四年:2020/04/29(水) 16:07:23 ID:SWnYE4NJ.net
(前略)

それより山城守(斎藤道三)は男子3人を設けた。長男は義龍とぞ申しける。

ある時、山城守が外出なされた後で、義龍は母儀に向かって申されたことには「山城守殿は美濃一国を
従え信長を婿に取るほどの威勢おありといえども、筋無き侍のように承ります。武士は氏を威勢に仕え
るものであるのに口惜きことに存じます」と宣えば、

母君は涙を押さえて、「幼き心にはそのように口惜しく思われましょう。さりながら、その方には並び
無き系図がおありですから密かに乳母に御尋ねなされ」と、またさめざめと泣き給う。義龍は不思議に
思い乳母に密かに御尋ねになれば、乳母は承り「音高し!」と小声になって申したことには、

「御父山城殿は筋無き都の笠張と承ります。ある夜の夢の告げにより大殿様に奉公なされて、日々立身
なされました。御家老まで経上がりついに大殿様を滅ぼし御台様を奪い取り、国を押領なされたのです。
古は大桑という所に御在城なされましたが、城内は狭いとこの稲葉山に城を構え、若君の御事はその時、
御母君の腹内におられたので土岐の御筋目でいらっしゃいます。ああ、賢人には漏らしなさるな。御舎
弟御両人は山城守殿の御子息なのです」

と、ことごとく語れば、義龍はいよいよ無念に思い、後見の日根野弥次右衛門(弘就)という者を語ら
い「山城守殿は我が親の仇である!何とぞ討ち取り、我が無念を晴らしてくれよ!」と涙とともに申さ
れれば、弥右衛門は承り「この事は某に御任せください。まず御家中残らず下々まで御情けをかけられ
て、“若君ほどの殿はあるまい”と一家中に思い入れさせ、その節に至り某が存じ寄りますので、それ
までは御色にも出しなさるな!」と、よくよく諫め申して時至るのを待っていた。

されば義龍の才智は世に優れなされたので、弥右衛門の申す通り一家中へ残らず御情けをかけなさると、
「今はこの君の御事ならば御馬の先に立ち御命に替わらんものを」と、思わぬ者も無かった。

ある時、山城守殿は御鷹野に出なされば、弥右衛門は「時こそ至れ!」と若君を語らい御舎弟御両人に
御振る舞いを催し、義龍・弥右衛門両人は手ずから膳を据え折を窺い、兄弟の御首を水もたまらず打ち
落とし、さて大手を固めて門を閉ざし櫓櫓に弓鉄砲を仕掛け用心を厳しく構えれば、山城殿が鷹野より
にわかに取って返し合戦に及ぶといえども、一家中一味の上は是非無く討死なされた。まことに栄華盛
んであるといえども、主を殺した天罪は逃れるはずもなければ、程も無くしてあえなき死をし給いけり。

その後、日根野弥右衛門は備中守にぞなりにける。義龍は政道正しくあられたので信長公の下手に立つ
ことはなかったが、龍興の代に至り奢り強く政道正からざるによって、信長のためについに滅ぼされ給
いける。

――『堂洞軍記』

41 :人間七七四年:2020/04/29(水) 17:02:10 ID:ffOyh58L.net
>>40
信長と濃姫が結婚した頃って、まだそこまで信長の評価は高くなかったんじゃね?
後世に残る伝説はいろいろあっても、まだ何も実績を上げてない時期だよね

42 :人間七七四年:2020/04/29(水) 17:37:16.09 ID:nlZ6WjyB.net
>>29 >>33
ご教示ありがとうございます

43 :人間七七四年:2020/04/29(水) 23:59:28.76 ID:I8j5ty7S.net
>>41
どこから濃姫が出てきたんだ?w

44 :人間七七四年:2020/04/30(木) 00:44:49.91 ID:X0uIBxlF.net
>>43
「信長を婿に取るほどの威勢おありといえども〜」の行の所からの推測ではないかな。
隣国の有力領主と血縁を結んで従えた(by斎藤家視点)程の威勢だが、て程の意味かと。

45 :人間七七四年:2020/04/30(木) 14:54:57 ID:8jN8DtWe.net
斎藤道三の下克上に対して土岐を奉じた朝倉織田連合が美濃に押し寄せてたから信長を婿に取るのは戦略上有効な手ですよ
うつけだろうが魔王だろうが関係ねえ

46 :人間七七四年:2020/04/30(木) 22:36:02.96 ID:ERzFtmz/.net
>>44
「信秀の息子」じゃなくて信長になっているあたりが、いかにも後世の人間が作った話っぽいなと思ったのよ
我々も、これの筆者も後の信長の活躍を知ってるけど、この時の義龍はそんなの知るわけないし、隣国で権勢振るってる信秀をメインに持ってくるんじゃないかと

47 :人間七七四年:2020/05/01(金) 03:13:05.81 ID:WgpLJUom.net
朝倉の爺さんの高評価が漏れてたとか?にしても早いか

48 :人間七七四年:2020/05/01(金) 11:29:53 ID:otohycQn.net
江戸時代に書かれた軍記モノでしょw

49 :人間七七四年:2020/05/01(金) 14:55:22 ID:bp+Neoaz.net
文明一党(応仁の乱の終結)の後であっても、諸国の兵革は止まず、先の乱の余類が猶国々に散在して、
互いに押領をした。中でも近江国の住人、佐々木六角四郎高頼は京の近国に在りながらその後上洛すること
無く、公方の御下知に従わず、我意に任せて逆威を振るい、剰え山門の領地を妨げて山徒の訴訟頻りであり、
猶以て差し置き難く、先ず彼を御征伐あらんと、この時長享元年(1487)九月十二日、新将軍家(足利義尚)は
数多の勢を御供として、江州へ御進発有った。

その日は坂本に到着すると、ここに暫く御陣を召した。越前の守護、故朝倉氏景の家督である弾正左衛門孝景が
多勢を催して馳上がり味方に加わり奉ると、直ぐに六角高頼を攻めた。高頼も一家を尽して出向かって合戦に
及んだが、新将軍家は御武勇を励まされ、御供の人々我劣らじと攻め戦ったため、終に高頼は一戦に打ち負け、
己の居所である観音寺城を落ちて、山賊の望月、山中、和田という者を頼んで同国甲賀山の中に隠れ、行方
知れずとなった。

このようになっても、新将軍家はそのまま置かれなかった。昔、宝筐院殿(足利義詮)の御時、南方(南朝)の
敵徒御退治として、畠山入道道誓(国清)等、京鎌倉、凡そ天下の大軍を催され、大樹(義詮)自ら南方へ
御発進あり、敵は不日に退散して国中治まった。敵は少々山中に隠れ居たが、「この上は何ほどのことも
出来ないだろう。」と、早速に御帰陣あった。しかし和田楠の輩は、その頃の南帝を守護し、身を潜めて
吉野の奥、賀名生の山中に隠れ居て、大樹御帰座の御跡に、幾程もなく立ち返り、国人等同意して又元の如く
蜂起したため、大樹南方御発進の功は無く成ってしまった。

その後、鎌倉御所(鎌倉公方)の(足利)基氏朝臣は、この事への反省が有り、東国で新田の氏族の御退治として、
鎌倉を出馬し、武州入間川という所に数年の間陣を取って、毎日敵徒を捜されたため、幾程もなく新田の氏族は
悉く誅伐され、御敵皆尽き果てた後、徐々に鎌倉へと帰陣したため、それ以後関東では再乱の煩い無く、諸人
安堵の治を成した。

然れば今六角も、御退治このままにて御帰座あれば又元の如く立ち返って、譜代の家人、重恩の国人等、また
彼に従って蜂起反復するならば、御動座征伐の甲斐無く、今度の序に、六角高頼を初めとして残徒一々に
尋ね出し、御敵の根を絶ち葉を枯らして、後難無きように御誅伐有るべしと、新将軍家は御下知有った。

ではあったが、この甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶えて非常に攻め入り難い場所であり、短期間に捜し出す事は
難しかった。且つまた、六角の残徒は数多にして、高頼の旧領は広く、一類所々に隠れ居て、不日に
御退治は成り難く、段々にかの輩共を捜し出して御誅伐有るべしと、同十月四日、新将軍家は坂本より
湖上を御船に召されて安養寺へ御陣を替えられた。

(中略)

斯くて長陣の間、御徒然を慰められる為。かつ御心得の為にとして、折々に春秋伝と孝経の講談を御聴受あった。
新将軍家は、常に天下の乱を退治し、泰平の世になされんとの御志深ければ、一日片時も御身をあだに
差し置かれなかった。翌年秋九月、新将軍家は内大臣に拝任された。この時御名を「義煕」と改められた。

そのような中、長享三年(1489)の春の頃、不意に御不例の御事があった。最初はただ仮初の様子であったが、
次第に重くなられ、治療も尽き果て祈誓も験無く、同三月二十六日辰刻、鈎の里の御陣所にて、義煕公は終に
御逝去された。御父君東山殿、御母公大方殿の御嘆きは例えて言うことも出来ないほどであった。

この君は御年未だ二十五歳、器量、才芸、皆以て世に超えられ、殊更天下の武将として御行跡いみじき物で
あったのだが、それが世を去られた事で、「偏に現在の天下の兵乱は、終に治まること無く、扶桑一州(日本)は
長く戦国の世と成るだろう」と嘆かれ、貴賤上下押しなべて一方成らず泣き悲しんだ。

新将軍家の尊骸は御輿に納め奉り、御供の軍勢が打ち囲んで、同月晦日、御帰洛あった。直ぐに北山の等持院に
入れ奉り、同四月九日、この寺にて御葬儀あった。勧修寺大納言を初めとして、武家昵懇の堂上方、各々参向し
給いて貴賤の参詣群聚した。この日、義煕公の寵臣で、幕府の権柄を司った結城越後守政胤、同弟近江新介尚豊は
その夜中に逐電した。

『應仁後記』

鈎の陣と将軍足利義尚の死去について

50 :人間七七四年:2020/05/02(土) 11:41:15.11 ID:mAEQIMQn.net
>>41
うつけと名高い信長を婿にするほど斎藤に威勢がある
ととれなくもないし
尾張を主導している信秀の息子を婿にできた
と義竜が思ったのかもしれない

どんなつもりで後世の作者が書いたのかは知らんが

51 :人間七七四年:2020/05/04(月) 01:39:09 ID:VaDs4r0i.net
信長を婿にするのが目的じゃなくて信秀と同盟するのが目的なんさ
コロナのせいでアホしかおらんのなw

52 :人間七七四年:2020/05/06(水) 21:32:50 ID:ypGZd1q7.net
昔、皇胤二流に分かれ、北朝の持明院殿と南朝の大覚寺殿と天下を争いましましけるに、終に北朝一統して
南方は帰服ましましけり。

公方家、近年両派にして、今出川殿(足利義材系)と堀越殿(足利義澄系)と、大樹の位を代謝あり、
また応仁の乱前より、畠山も両派に分かれ、斯波家も二方に立ち並んで合戦互いに止むことなし。
ただ細川家だけは、先祖常久禅門(細川頼之)の遺徳深き故であろうか、今に仁孝を厚くし、一家も
睦まじく、六代まで繁昌して大名高家の手本とも成る家風であった。しかし世は既に澆季に及び、時運
衰微に至ったのか、この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。その始まりは政元の不義無道、先祖の人々の
志を違えた故である。

聴く所によると細川家の先祖と云うは(以下細川氏歴代のの行跡が延々と語られるが略)

…(応仁の乱で)細川方の者共は、軍の仕様は鈍かったが、細川勝元の忠義に効き、御敵となる名を恥じて
一人も主人に叛く者無く、西陣へ降る人は無かった。これを以て莫大の戦功成就して終に勝元・畠山政長は
運を開き領国を失わず、一方山名方の一族は京都にも留まり得ず、散々に成って亡んだ。これはただ、勝元が
忠義を守り先祖の志を崇めていた故なのだ。然るに政元はその子として、亡父の志を引き違え、
上総介(畠山)義豊に一味して畠山政長を討ったのみならず、公方家の御敵と成って将軍の御位を
恣に替え奉ること、主君への不忠、先祖への不孝これに過ぎる物はないと見え、天下の人望に背いているので、
滅亡は近きに有ると、人々は皆囁きあった。

(中略)

細川政元の奢侈は世に超えたものであった。
聞く所によれば、政元は世の人とは違い、行年四十歳の頃まで女人に近寄ることを禁じ、
精進潔斎を繰り返し、魔法飯綱の法、愛宕の法を行い澄まし、経を誦し陀羅尼を呪し、さながら出家山伏の
如くであり、見る人聞く人、皆身の毛をよだてるばかりであった。
そうであるので、男子も女子も無く、家督を継ぐべき者が無かったため、家長(家老)の面々色々に、ただ
この事を諫言した。

『應仁後記』


細川政元について

53 :人間七七四年:2020/05/07(木) 21:15:52 ID:/n7fNnNP.net
>>52
>この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。

オーソン・ウェルズ「一人足りなくない?(第三の男BGM)」

54 :人間七七四年:2020/05/08(金) 12:21:48 ID:89RTArGK.net
大河ドラマも話数削減で放送予定だってな。
やっぱ逆臣を主人公にすると、織田家の祟り半端ないわ

55 :人間七七四年:2020/05/08(金) 19:30:14 ID:od3ri4F3.net
信長の子供殺してる(もしかすると2人も)秀吉が問題ないんだから、光秀サイドの星回りが悪いのかと

56 :人間七七四年:2020/05/08(金) 22:51:57 ID:L7iFoqfE.net
永正元年(1504)十二月二十五日、畠山尾張入道卜山(尚順)と、同苗上総介義英と、両家和睦して
河内国富田の八幡宮に会し互いに和平の酒宴をして、年来の遺恨を忘れた。これは公方家(足利義澄)の
後下知によっての事であった。であれば、和平の驗として、この八幡宮に鎧、太刀等を両家より奉納して
誓約をあい堅めた。これにより紀伊、大和、河内の人々国民等まで和睦し、悦び合うこと限りなかった。
このため、五畿内は暫く安治されたのだが、兵乱の世となるべき妖怪は既に顕れていた。

同二年の春、天下大飢饉となり、餓死する者が道に満ちた。例えば十人の内九人まで死ぬほどであった。
同三年、諸国に億萬の鼠出て耕作の米穀、山林の竹木を悉く喰い損じさせた。これは凶年において
餓死した者の亡霊であろうと、諸国在々所々に於いて、餓死者の骨を取り集め、これを収めて寺を建て
弔い祭ったところ、たちまちこの鼠が静まったことこそ不思議である。
同年の秋、春日山の大木七千余本が枯れ果てた。これは藤原氏の人々にとっての凶事であると取り沙汰された。

ともかく、このような奇怪の上は、近日またいかなる乱が起こるのかと、諸人は安堵できず、いまいましく
見ていた。

そのような中、細川六郎澄元は、その頃未だ阿波国に在ったが、祖父の慈雲院入道成之は細川一族の
宿老であり、知恵深き人であったので、京都の有り様を察し、「政元の行跡、日を逐って昏乱している。
これでは当家の安否も計り難い、澄元は急ぎ上洛して養父の行衛をも見届け、一家の治乱をも執り計るべし」
との旨を下知され、澄元も「畏まり候」と、阿州を立って上洛した。この時四月二十一日であった。
この澄元は未だ十三歳の若輩故に、実父讃岐守義春より、三好筑前守之長、並びに高畠与三郎の二人が、
共に武勇の達者として選ばれ、澄元後見の執事として、補佐の臣に命じられた。

中でもこの三好は、阿波国の守護代であり、これも小笠原の末孫、名誉の者と聞こえ、後には改名して
長輝と号し、剃髪の後は希雲居士と称した。

また政元の家臣、香西六郎元近という者有り、武勇にも長じており、讃岐国の守護代として、一方の将と
成っていたが、常に三好と仲悪く、互いに確執の心をはさみ、それぞれの威勢を嫉みあっていた。
またその頃、薬師寺の三郎左衛門(長忠)は兄の与一(元一)の誅殺より、政元に寵せられ、重恩に耽り権威に
募って傍若無人の振る舞いをしていたが、今度三好之長が澄元の後見として在京して以来、香西、薬師寺の
非法の下知を用いず、威勢高く振る舞うほどに、これを見た洛中の諸人は我も我もと澄元を崇敬して
三好らに奔走した。これを香西、薬師寺の二人は共に大いに妬み憤って、その確執は日々に重なった。
それよりしてこの者共は、

「あはれ、六郎殿にいかなる事も出来るものか。三好等を滅ぼして、本意を遂げん」と思い巡らせた。
これぞ早くも、大兵乱の根ざしであった。

『應仁後記』

いわゆる永正の錯乱の前の情勢について

57 :人間七七四年:2020/05/09(土) 15:37:33 ID:pj8HJK61.net
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
(武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』

58 :人間七七四年:2020/05/10(日) 00:45:09.72 ID:ZHTYZdfR.net
斯波家の領国は越前、尾張であった。遠江は元今川家が領地していたが、中頃より斯波家の領と成ったので
あるが、今また斯波家衰え、今川家は応仁に乱に交わらず、威盛んにあいて、遠州を押領しようとした。

その頃、三河国臥蝶の住人に、大河内肥前守欠綱(貞綱)という者があった。元は当国の守護・吉良氏の
家礼であったのだが、近年国中に武威を振るって、遠三両国の士と相親しみ、一揆を語らい党を結んで、
悪逆度々に及んだ。この欠綱、先祖は源三位頼政の二男、源太夫判官兼綱から十一代の末孫であり、
家の紋は丸の内に十六葉の菊を付けていたため、人は皆『菊一揆』と号した。

この時、今川修理太夫氏親は領国駿河に居住していたが、「如何にもして大内介義興の如くに、
上洛し公方家への忠を尽し、大功を立てんと企てていたが、路次の遠州尾州はみな斯波家の領国であり、
度々決戦に及んでいたため、その功を遂げられ無かった。
そのような中、大河内欠綱は斯波家の味方となり、信濃三河の勢を語らい遠州を横領したのだが、氏親は
先ずこれを退治の為、永正10年(1513)の春、一万の兵を率いて遠州に討ち入り、笠井の庄楞厳寺陣を取った。

斯波治部大輔義達は尾州の兵を率い、遠州の井伊次郎直親を相伴い、深嶽の城に籠もったのを、今川の
先陣、朝比奈十郎泰以という者、ただ一手にて深嶽山に寄り来たり、案内を以て一夜討ちし、忽ち城をも
攻め落として、数百人を討ち取った。尾州勢は悉く打ち負け、同国奥の山へ引き退いた。
大河内欠綱等も散々に落失した。

翌年、また甲州の武田次郎信昌兄弟矛楯して合戦に及び、今川氏親も加勢を請われたため、駿遠両国の勢
二千余騎を差し遣わした。この勢は甲州勝山の城に籠もり、戦いに隙無く、これを見た大河内欠綱は、
残る今川家の兵は無勢であると推量し、同正月より再び蜂起し、信濃三河尾張の一族、並びに浪人共を相語らい、
又々尾州より斯波義達を請待して、遠州浜松の庄引間の城に立て籠もり、天龍川の前後在々所々を押領した。

今川氏親はこれを聞いて、六千余騎の兵を率いて、同年五月下旬、遠州へ発向したが、ちょうどこの頃
洪水夥しく、天龍川が非常に増水していたのを、氏親は川船三百余艘を竹の大綱にて悉く結びつけ、
船橋を拵えて多勢一斉に押し渡った。
斯波勢も川端に打ち出、大河内、高橋といった者たちは矢軍して防いだが、散々に切り立てられ、また
悉く敗軍した。今度は遠引も叶わず、僅か五十余町の中に悉く追い囲み、城四つ五つに立て籠もり。同六月から
八月まで相戦ったが、後には今川勢が、駿州安倍川の金堀の者を呼び寄せ城中の井戸を悉く掘り崩させ、
水一滴も無くなったため、城兵は術計尽き果て、同八月十九日、引間の城を攻め落とされ、大河内欠綱、
同弟・巨海新右衛門(道綱)、高橋以下、立て籠もる軍兵千余人討ち死にし、斯波治部大輔義達は
降人となって出てきたのを、氏親の下知として一命を助け、普済寺という禅寺に入れ置き、
『義達、今日より遠州に望む事無く、自今以後、堅く今川家へ向て敵対すべからず』
との警約の起請文を取り堅めて、剃髪黒衣を着せ、太刀、刀を奪い取って後、尾州へ送り返した。
これより斯波家の武威衰え、尾張の国人も皆、義達を疎んじたため、彼の下知に従う者は居なく成った。

然れども、三州の住人・戸田弾正少弼、諏訪信濃守らは猶も、大河内の残党を催し遠州へ乱入して
合戦度々に及んだ。その中で、三州の境、船方山の城代・多末又三郎という者が今川方であったのを、
かの一揆等が攻め落とし、又三郎は討ち死にしたため、掛川城主の朝比奈備中守泰以が、また兵を率い
寄せ来て船方の城を攻め取った。このように遠州も合戦に隙も無かったが、遂には国人等、今川家に帰服して、
斯波家は衰え果てた。

『應仁後記』

遠江をめぐる今川と斯波の争いについて。

59 :人間七七四年:2020/05/10(日) 10:08:14 ID:Bhm2267u.net
山城(斎藤道三)には子息に一男・新九郎(斎藤義龍)、二男・孫四郎、三男・喜平次の兄弟3人がい
た。父子4人ともに稲葉山に居城していた。

およそ人の惣領たる者は、決まって心が緩々として穏当なものである。道三は智恵の鏡も曇り「新九郎
は耄者(愚か者)」とばかり心得て弟2人を「利口の者かな」と崇敬し、三男の喜平次を一色右兵衛大
輔になしながら位官を進められた。そのようであるために弟どもは勝ちに乗じて奢り蔑む如く応対した。

新九郎は体裁を無念に存じ、10月13日より作病を構えて奥へ引き入り養生したのである。霜月22
日、山城道三は山下の私宅へ下られた。ここで伯父の長井隼人正(道利)を使いにして、弟2人の方へ
申し遣したことには「現在、急病で時を期すことになった。対面して一言申したきことがあるので来て
ほしい」と申し送った。

長井隼人正は巧みを廻して意見申すと、同心して2人の弟どもは新九郎の所へ来たのである。長井隼人
正が次の間に刀を置くと、これを見て兄弟の者も同じように次の間に刀を置き奥の間へ入った。良き盃
をと振る舞いを出し、日根野備中(弘就)は名誉の物切のふと刀“作手棒兼常”を抜き持ち、上座にいた
孫四郎を切り伏せた。また右兵衛大輔(喜平次)を切り殺し、年来の愁眉を開いたのであった。

すなわち山下にいた山城道三方へ右の趣が申し遣され、仰天致して肝を消すこと限りなし。ここで法螺
を立てて人数を寄せ、四方の町末より火を掛けことごとく放火して井口を裸城になし、長良川の川を越
えて山県という山中へ引き退き、明くる年4月18日、鶴山へ取り上って国中を見下ろし居陣した。

信長も道三の婿なので、手合わせをして木曽川・飛騨川を舟で渡り、大河を打ち越えて大良の戸島東蔵
坊の構に至って御在陣された。すると銭亀がいてここもかしこも銭を敷いたようであった(戸島東蔵坊
構に至て御在陣。銭亀爰もかしこも銭を布たる如く也)。

4月20日辰刻、戍亥へ向かって新九郎義龍は人数を出した。道三も鶴山を降り下り、長良川の端まで
人数を出された。一番合戦に竹腰道塵(道鎮)6百ばかりが真ん丸になって中の渡りを打ち越え、山城
道三の旗本へ切り掛かった。散々に入り乱れ相戦ってついに竹腰道塵は合戦に切り負け、山城道三は竹
腰を討ち取って床木に腰を掛け、母衣を揺すり満足した。

そんなところで二番槍に新九郎義龍の多くの人数がどっと川を越え、互いに人数を立てて備えた。義龍
の備の中から武者一騎、長屋甚右衛門という者が進み掛かる。また山城の人数の内より柴田角内という
者がただ一騎進み出て長屋に渡し合い、真ん中で相戦って勝負を決し、柴田角内は晴れがましき高名を
なした。

双方より掛かり合って入り乱れ火花を散らし、相戦ってしのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思い
の働きあり。長井忠左衛門(井上道勝)は道三に渡し合い、太刀を押し上げむずと抱き付き、山城を生
け捕りに仕らんというところへ荒武者の小真木源太(小牧道家)が走り来たり、山城の脛を薙ぎ伏せて
首を取った。忠左衛門は後の証拠のためにと山城の鼻を削いで退いた。

合戦に打ち勝って首実検のところへ道三の首を持って来た。この時(義龍は)「身から出た罪である」
と得道したのであった。これより後に新九郎は“はんか(范可)”と名乗った。故事があって、昔唐のは
んかという者は親の首を切った。それは父の首を切って孝となったのだという。(それに比べて)今の
新九郎義龍は不孝重罪恥辱となったのである。

――『信長公記 首巻』

60 :人間七七四年:2020/05/10(日) 12:39:32 ID:HKYSxrCU.net
織田としてはそうせざるを得ないわなw

61 :人間七七四年:2020/05/10(日) 22:14:15.02 ID:ZHTYZdfR.net
享禄4年(1531)、三好筑前守元長は無二の忠功にて一戦に勝利し、常桓禅門(細川高国)を滅ぼした(大物崩れ)。
これによって細川右京太夫晴元は一家(細川京兆家)を一統し、文武の政事を執り行い、乱世も漸く年を経て
静謐に成りゆくかと諸人安堵を成す所に、如何なる天魔の所業であろうか、晴元は未だ若輩にて、佞奸の者を
相近づけ。讒者の実否を糺さなかった故に、また兵乱の世と成ってしまったのだ。

それがどういう事かと言えば、今度降人と成って細川家へと来た木沢左京亮長政は、稀代の悪人にて、種々に
諂い取り入って、晴元の元で出頭し、その他の出頭人である三好神五郎、可竹斎などと相議して、
三好元長に野心が有ると晴元に讒言し、種々の秘計を廻らせたため、晴元は愚にして。それを真と心得、
元長を疑い憎んだ。しかしながら讃岐守之持(阿波守護。息子の細川持隆の間違い。以下持隆とする)は元長の
忠義を感じ、色々と晴元へ言い開き、この年の間は未だ勘気も無かった。

この事だけではなく、木沢長政は今は晴元の元で出頭して、細川家に於いて時めく故に、己の元の主人である
畠山上総介義英(これも息子の畠山義堯との間違い。以下義堯とする)を物の数とも思わず、毎時
無礼を尽くせし程に、義堯はこれを憤って遂に人数を率い陣立てして長政の居城、摂州飯森の要害(飯盛城)を
攻めんとした。元長の一族である三好遠江守(三好一秀か)等は、義堯に頼まれ寄せ手に加わった。
木沢は出陣したが一戦に打ち負け、引き返して飯盛城に立て籠もり晴元へ後詰(救援)を要請した。

晴元はこの時泉州堺に在ったが、一議にも及ばず長政に同心して、この時享禄四年の秋八月二十日、
多勢を率いて自身飯盛城への後詰めのために、摂州中島、三宝寺まで出勢して畠山と一戦し、百余人を
討ち取った。畠山義堯は軍に打ち負け飯盛城も攻めずして散々に引き退いたため、晴元はその跡を追って
三宝寺から富田庄まで攻め上った所に、細川持隆がまた様々に諫言して晴元の軍を留めた。このため
晴元は段々に承知して、富田庄より堺へ帰陣した。

畠山義堯は晴元の姉聟であるといい、然らば近き縁親であり、一方の大将である。そのような人を、
新参で降将である木沢長政に思い替えて、彼を贔屓にし義堯を討とうとした事は、謂れなき邪行である。
「晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ。」と人々は皆彼から心を放した。

『續應仁後記』

62 :人間七七四年:2020/05/13(水) 01:10:04 ID:6M4HJyPQ.net
安八郡西の保の城主・不破河内守通貞(光治)は、東美濃の遠山刑部允正元の孫であるという。
通貞の父は不破彦左衛門通直といって、西の保村の城主である。

一説に不破氏の先祖は山城国の松井蔵人直家といった者であるが、笠置の城没落の後に六波羅
の命に従い、後醍醐天皇を探し奉った。この恩賞として、美濃国に数ヶ所の荘園を六波羅より
賜って初めて当国に至り、不破郡府中村に居住した。その後に氏を不破と改めて、その子孫は
不破・多芸の両郡に数多おり、府中の住人・不破隼人直重は江州の篠原で討死した。

さてまた退翁軒法印の日記を見ると、天正元癸酉年(1573)12月、不破河内守通貞は滝
川左近将監一益に対し、刀傷に及んだことがある。これをもって見る時は源姓ではなかろうか。

その故は、滝川一益の長女を不破通貞の嫡子・彦三郎通家(直光)に嫁がせたいとの由を申し
入れたところ、滝川はどういうわけかこれを承諾しなかった。「我が娘は筋目正しき大名の内
へ嫁がせようとこそ思えども、不破などには得参らせ難し」と言ったである。これを聞いて通
貞は大いに怒り、

「心得ざる左近の言い分かな! 私は今は信長の臣であるといえど、その昔を言えば清和源氏の
後裔である土岐・遠山の正統にして、当国の本家である! 滝川は何程の者なるぞ! 彼はただ
江州佐々木出の浪人者とは聞いているが、祖父の来歴も分からない! 近年ようやく信長公の御
取立てに預かった者だが、今は勢いに乗って当家を侮るとは奇怪なり!」

と立腹して、その年の12月11日の夜に滝川の宿所へ打ち入り、刀傷に及んだと記してある。
しかれば、これなどをもって考える時は(不破は)当国の侍で土岐氏の庶流であろう。山城の
国から来たというのは不審である。

按ずるに土岐頼貞の末子に五郎頼之という者がいるが、不破郡府中に居住したと言われている。
これすなわち通貞の先祖だろう。しかしながら通貞までの来歴の次第は詳らかではないという。

――『美濃国諸旧記』

63 :人間七七四年:2020/05/13(水) 13:17:44.63 ID:4JVWnVPW.net
由緒正しき清和源氏の流れだったら息子の嫁も良いとこから貰えよw
なお正室は北畠具教の娘らしいが

64 :人間七七四年:2020/05/14(木) 01:04:19 ID:xkIpefxS.net
享禄五年(1532)、細川晴元の要請による一向門徒一揆の輩は、畠山義堯を討つと、その勢いで
三好元長入道海雲を討ち取らんと堺へ向かった。

六月十九日の夜、元長は妻子を近づけこのように申した
「敵は今にも攻め寄せ、多勢が路を遮るため、落ち行くことは難しい。私はこの寺にて腹を切って死ぬ。
其の方は如何にもして、嫡子千熊を伴い急ぎ阿州へ落ち行きて、ここの有様を讃州持隆へ申し上げ、千熊を
預け奉って家の運を待ち給え。」

と暇乞いをした。妻女は名残を惜しみつつ「同じ枕にて死に遂げん」と涙を流して申されたが、供の侍が
押し分け妻女も千熊も疾く疾くと追い立て、小舟に乗せて漕ぎ出し、阿波国へ落ちていった。
海上遥かに隔たった頃、夜はほのぼのと明けた。この千熊丸、成長の後は四国五畿内、おしなべて天下に
威を振るった三好修理太夫長慶と云われた人である。

去るほどに、明ければ六月二十日、和泉、河内、摂津三ヶ国の一揆十万余人、馳集まって三好元長の陣所、
堺の津南ノ庄へ取り掛かり、鬨の声を上げて攻めかかった。三好山城守(一秀)、塩田若狭守等は随分
防ぎ戦って、一先ずは一揆を追い散らしたが、寄せ手は限り無い大勢が、幾重とも無く取り囲んで、入れ替わり
入れ替わり、息をも継がせず攻めかかった。また元長の陣所である南ノ庄の者たちも、一揆勢に説得されm
俄に心変わりし所々より敵を引き入れたため、もはや何処を防ぎ留めるという事も出来なかった。

三好元長は、「軍には取り合わず、敵を防ぐに及ばず」と、日頃信仰している日蓮宗の顕本寺に立て籠もり、
「これこそ閑所なり。思いのままに腹切るべし」と云っている所へ、ここにも敵は寄せてきて、四面を
取り巻いた。そのころ、阿波の御所である足利義維は河内国四条の道場に居られたのだが、これも顕本寺に
入られており、一揆等はこれも取り込めた。

三好元長は当寺の本堂に端座して、腹十文字に掻っ切り、腸を繰り出して天井へ投げつけ、臨終正念に
死去した。その腸の跡は、近年まで顕本寺本堂の天井に残っていたと聞いている。
三好山城守一秀も、お伴申さんと続けて腹を切って死ぬと、塩田若狭守、同子供二人、加地丹波守父子、
その他都合二十余人、尋常に居並んで腹を切って死んだ。御所侍の上杉等も八人自害した。
この日、三好方死亡の者上下七十余人。一揆の寄手等も三十余人討たれた。
阿波御所(足利義維)も既に御腹を召されようとした所を、晴元方より使者が来て御刀を奪い参らせ、
人数多警護し奉って元の如く四条の道場へ送り入れ奉った。誠に危うきことであった。

さても細川晴元は、言う甲斐もない者共の讒言を信じて、老臣である三好元長を殺した事は、一家の衰運、
このような事が何事があろうか。例えて世の諺に言うならば、天竺に有ると聞く銘々鳥という鳥、胴は
一つで喙は二つ有り、二つの喙が互いに餌物を争い、一方がもう一方の喙を喰い伏せれば、残る喙も胴も
一度に倒れ死す。今晴元のやったことは、この鳥に異ならず、遠からず滅亡するであろうと、心有る人は
言い合った。

『續應仁後記』

三好元長の滅亡について

65 :人間七七四年:2020/05/16(土) 21:56:49.01 ID:L0A6oYla.net
昔より戦乱の世は多かったというが、それらは武士たち自身が合戦を起こしたものであった。
しかし近年(天文年間)は武士にとって毎日の戦乱が習慣と成り、珍しくも無いものとなり、
そのような環境で、土民、町人、細工人、或いは出家、禰宜、山伏、有りとあらゆる者共が
ここでは徒党を組みあちらでは一揆を企て、二六時中、四季、昼夜と騒動の止むこと無く、
一瞬の間と言えども人心が安堵すること無く、当時の有り様は、前代未聞の乱世であった。

『續應仁後記』

天文の頃の乱世について

66 :人間七七四年:2020/05/18(月) 13:04:30 ID:wxwEStN2.net
天文元年(1532)、摂州では一向宗、土一揆等が右京太夫(細川)晴元の味方をして、三好海雲(元長)を
討ったが、幾程無く、一揆らと晴元の家人たちは不和となり、同年八月四日、晴元随一の味方である
木沢左京亮長政に向かって、一揆の奴原は喧嘩を仕出し、切って掛かった。この時、移動中のことで
木沢方は思いもよらず、木沢の者達は散々に切りたてられた。その恥辱を雪がんと、その日、木沢勢は
泉州堺の東にある浅香の道場を初めとして、近郷の一向寺を悉く放火した。これより和泉、河内、摂津、大和
四ヶ国の一揆等が蜂起し、翌五日、晴元の住居のある堺の庄へ押し寄せた。

これに対して、木沢長政自身が多勢を率いて切って出て。一揆の奴原を悉く追い立て、切りまくって(切マクツテ)
先敗の恥を雪ぎたりとて、大いにこれを悦んだ。その時の一揆の大将は戦場を逃げ落ちて、和州吉野の川西という
所に隠れ居たりと言い伝わった。流石土民の軍、立て掛かる時は強いが、逃げる距離は非常に長い。
同日、摂州の一揆等は池田城へ取り掛かり攻め戦ったが、攻略できず扱いと成って引き退いた。

しかし五畿内の一揆は日を逐って広大に蔓延り、その勢が重ねて堺の庄へ攻め来たらば細川晴元の滅亡も近い、
取り扱い給わるべしとて、晴元は急ぎ、その舅である江州の六角左京大夫定頼へ頼み遣わした。
定頼は同心して、家臣の長原太郎左衛門、進藤山城守、馬淵源左衛門、横山、といった者達を、宗門の本寺、
山科の本願寺に遣わして色々取り扱いを協議したが、本願寺上人(証如)は「今更檀徒に背き難し」と
定頼、晴元の旨を承服せず、その取り扱いも手切れと成った。

長原太郎左衛門は為す方無く、急度思案して、常々一向宗門と仲の悪い、日蓮宗の寺檀に頼んだ。
洛中の二十一ヶ寺と呼ばれる日蓮宗の大寺は皆、この義に同心して、日蓮宗門の檀徒を催た。
この日蓮宗徒等も常に信心深く、本寺の下知とさえ云えば身命をも惜しまぬ、最も頑ななる宗門である故、
本寺二十一ヶ寺のこの催に同心して、洛中洛外の有りとあらゆる日蓮宗の諸檀徒等は悉く蜂起し、一揆と成って
数万の人数が徒党し、先ず直に山科へ押し寄せ、本願寺を攻めると、寺中にも敵の攻撃に備える者達があり、
随分防ぎ戦ったのだが、多勢に無勢であり叶い難く、遂に攻め落とされ、この時八月二十四日、山科本願寺は
忽ちに焼き払われて、金銀珠玉にて飾り立てられた近国無双の大伽藍も、ただ一堆の赤土と成った。
寺中の輩は、上人を始めとして、蜘蛛の子を散らすように諸方へ逃げ散り没落した。
これに日蓮宗の一揆等は大いに悦び帰陣した。

『續應仁後記』

山科本願寺の戦いについて

67 :人間七七四年:2020/05/18(月) 16:15:13 ID:vknL+GhC.net
一揆には一揆ぶつけんだよって考えがなかなか凄いな

68 :人間七七四年:2020/05/18(月) 16:26:42 ID:QgrAJf6x.net
夷を以て夷を制す

69 :人間七七四年:2020/05/19(火) 12:33:55 ID:Bf5WeBmv.net
天文元年(1532)の秋、和州において一揆勃興し、当国高取城を攻めたが、城主の越智某は随分に防ぎ戦って、
終に一揆を追い払った。
同年十月、南都(奈良)の町中が一揆を企て、(興福寺)僧房を焼立てたため、僧房よりこの返報として、
また町中を焼き払った。
この一揆の大将は、一向宗の門徒である鴈金屋願了、同余五郎という者であった。

このような中、当国宇多、吉野、伊賀国名張の一揆等が悉く組み合って、伊勢国へ乱入した。
国司の北畠晴具はこれを防ぎ留めようとしたが、老臣たちは思案して
「あのような賤しき土民の奴原に、当家歴々の侍たちを差し向け防がせるという事は、本意ではありません、
その損害は少なからぬものとなります。」
(懸ル賤キ土民ノ奴原当家歴々ノ侍計を差向テ防カスヘキ事本意ニ非ス其損寡カラス)

と言って、当国山田庄の穢多非人を相催し、乞食多勢に紙小旗を指し連ねさせ、その旗には一様に『穢多』と
いう文字を書き付けて、武士の先に押し立て進ませた。
この勢に対し、流石の和州の一揆もこの小旗の文字を見ると
「いかなる賤しき我々と言っても、穢多非人を相手にして合戦は出来ない」
(イカナル賤キ我々ニテモ穢多非人ヲ相手ニシ合戦ハ成マシ)

と、それより散り散りに成った所を、先に進んでいた穢多を押しのけ、後ろから武士たちが進み出て
一揆を追い掛け追い詰めて、悉く討ち取り退治した。

『續應仁後記』

いわゆる一向一揆の伊勢乱入についてのお話。

70 :人間七七四年:2020/05/19(火) 15:18:53 ID:q4f1rUzL.net
鴈金屋(雁金、かりがね)が
贋金屋に見えてしまった

71 :人間七七四年:2020/05/19(火) 19:15:42.69 ID:k6h9sKFp.net
エタ・ヒニン相手に合戦はできないって価値観
今の俺たちには分かりにくいな
庶民にとってすら「合わぬ敵」ってことなのかな

72 :人間七七四年:2020/05/19(火) 22:56:37 ID:SLuxWB2U.net
武家が相手の戦なら武功を主張できるし、それを基に利権を得る事もできるが、
利権を持たない穢多非人を討った所で得られる利権もない、といった感じなのかな。

73 :人間七七四年:2020/05/20(水) 21:01:31 ID:5ay5kml+.net
元寇で恩賞を貰えなかったのに近いかも

74 :人間七七四年:2020/05/20(水) 21:02:57 ID:6jvJY+1A.net
その頃、伊勢の国司・北畠晴具卿は勢南の多気に住し、武威専ら盛んにして、和州へも討ち入り、
宇智郡の諸士を靡かせた。これに対し大和の国人、越智、十市、久世、満西等は畠山家の家人であるため、
これを防いで合戦に及んだ所、北畠氏の分国である勢州にまた一揆が勃興し、先ずこれを鎮めん為に、
和州への出陣成り難く、ただ勢州の中で戦い暮らした。

中でも、当国度会郡の山田庄は、大神宮(伊勢神宮)の神領なのだが、当所の禰宜、神主等が悉く横領して、
祭用を遂げず、国司の政事に違背してその下知を用いず、剰え一揆を起こし。国中へ討ち入って武士の領地を
相妨げた。その中でも、山田の住人である村山掃部助という神官は大剛の者にて、一揆の大将となり、
宇治、山田、湊、河崎、二見、朝熊の諸勢を催し、国中へ討ち出ようとしていた。彼に同心する神官は、
堤、春木、上部、久志、本龍、福井、益、三日市、喜多、山田、大路、檜垣、橋村、窪倉などという者達が
悉く一味した。

かくて天文三年(1534)の春正月晦日、国司晴具は南方の諸勢を催しかの一揆を攻めた。
一揆の輩は宇治山田に屯し、宮川の東川原に陣取って防戦をした所に、国司方の先陣である
澤、秋山らが川を渡って頻りに駆け入り、速攻にて討ち取ると、一揆等は忽ちに打ち負けて悉く敗北した。

彼等の頭領である村山掃部助は大神宮の社中へ逃げ入り、拝殿に腰を掛けて腹を切って死んだ。
浅ましいというもなお余れる事である。剰え火を放ち掛けて、終に当社は一片の煙として焼失した。
ここに、この村山は稀代の悪人、極罪の匹夫と成った。

それより一揆の残党たちは、二見、塩合など所々において撃殺され、終に手を束ねて国司家へ降参した。
そして徐々に恩免を蒙り、元の如くに神職を相勤め、その後数年を経て、社頭も再建成就した。

『續應仁後記』

伊勢での一揆との戦いについて。

75 :人間七七四年:2020/05/21(木) 17:52:36.05 ID:sLaPQUAP.net
>>72
関わることが恥になるから。

76 :人間七七四年:2020/05/22(金) 09:50:29 ID:XBGq6bG5.net
>>72
女兵士の首は手柄として認められないから女と戦うの嫌がったようなもんじゃね

77 :人間七七四年:2020/05/22(金) 13:53:59 ID:oTO4WNcs.net
戊辰戦争でも、農民兵を相手にできるか、って武士が言ってたって話もあるな。
なお、長州がエタヒニンで組織した部隊に、井伊の赤備えは壊滅させられた模様

78 :人間七七四年:2020/05/22(金) 22:20:10 ID:umYPRi/P.net
畠山長経横死の後、かの家の執事である遊佐河内守長教は忠義を尽し、紀州より左衛門督稙長(長経弟)を
迎え取り、高屋の城に再住せしめ、堅固に守護して奉仕していたが、ただいかにもして、故長経を毒殺した
逆臣共を謀って討ち亡ぼさんと思慮をめぐらし、色々に工夫して、先ず逆徒の斎藤山城守を謀り寄せ、高屋城の
追手、不動坂と言う所にて忽ちに誅伐した。

これを聞いて残る逆臣である木沢左京亮(長政)、杉原石見守等は、次は自分たちであると察し、謀反を顕し
尼上ノ嶽に城を構え、一揆の土民を相語らい、高屋城を攻めんとした。その他、塩川伯耆守(政年)、若狭の
武田、粟屋なども皆これに一味し、河内へ集まり当国の落合上畠という所まで出張した所に、遊佐長教は
近国の三好孫次郎範長(長慶)を頼って加勢を乞うた。範長は同心して、同新五郎政長等を相語らい、
落合表へ助け来て、天文十一年(1542)三月十七日、当所にて合戦した。

敵将の木沢、杉原は三千の人数を備えて待ち懸かる所に、遊佐方の阿州の住人、誉田山城守の子、三宝院という
法師武者が一陣に進み、落合川を渡り越えた。これに続いて味方の総勢ヒタヒタと川を渡り合戦と成った。
そして悉く切り捲って、木沢右近、粟屋父子を初めとして百余人を討ち取ると、残徒は悉く敗軍して四角八方へ
逃げ散った所を、遊佐三好両家の者共、競い立って追い駆け、悉く討ち取った。
中でも河内国住人・文字牛之助という者が、敵将木沢左京亮を討ち取って、終にその頸を得た。

この木沢左京亮長政という人は、気位の高い人物で、度々大軍を促し武功は勝れていたのだが、無双の悪人であり、
先年、大物の戦場にて俄に故常桓禅門(細川高国)に叛き裏切り、又三好の故海雲(三好元長)を讒死せしめ、
その後、主君の畠山故総州(畠山義堯)を殺して、今度も故畠山長経を毒殺した。これ稀代の悪人と言うべきである。

杉原石見守はこの戦場を落ち延び、多年流浪していたが、遥かな後、三好家へ降り、手を摺ってかの家僕と
成り果てた。

『續應仁後記』

太平寺の戦いと木沢長政の滅亡について

79 :人間七七四年:2020/05/22(金) 22:54:00 ID:uq3FTHUO.net
遊佐長教が忠義を尽くしって書かれると????感が

80 :人間七七四年:2020/05/23(土) 06:05:32.82 ID:QRLkc+Fv.net
(稲生の戦い後)

それより後、敵は末森・那古野に籠城したのを節々御働きなされて町口を皆々放火し給う。しかる
に信長公の御母堂(土田御前)と武蔵守殿(織田信勝)は御一緒に末森城にいらっしゃたが、清州
より島田所之助、村井民部を御使に遣わされた。

武蔵守殿謀叛の罪科を今後御赦免なさって和睦させなさるようにとの由で信長公へ様々の御詫言が
あり、信長もさすがに御舎弟といい御母堂の御詫言といい、いずれにしても捨て置き難くすなわち
御同心なされた。

以来、武蔵守殿より信長公へ疎意あるまじき由の起請文を書き遣わされ、御母堂の御同道で武蔵守
殿、ならびに柴田権六(勝家)、津々木十蔵(蔵人)が黒染の衣を着て清州城へ参上申し、御目見
と御礼を申し上げた。

林佐渡守(秀貞)はひとしお罪科の者で御赦免なりがたき輩であったが、諸々の御詫言を申し上げ、
先年に安房守殿(織田信時)御同道で彼の館へ御入りになった時、舎弟の美作(林通具)は信長公
を殺害しようと申したが、佐渡守は差し止めたということをよくよく聞こし召し届けられて、まず
今回は御赦免なさった。

これも首を延べて清州へ参り御許しの御礼を申し上げれば、信長公よりあまつさえ元の如く那古野
城を守るようにとの旨で安堵の御書を賜った。

――『織田軍記(総見記)』

81 :人間七七四年:2020/05/23(土) 09:00:47 ID:pvlENMfI.net
>>79
傀儡君主を貰うためには忠義くらい尽くすだろうさ

82 :人間七七四年:2020/05/23(土) 22:51:09 ID:LqQOcs28.net
武蔵守殿信行(織田信勝)は先の和睦の後もまたまた野心を挟まれ、春日井郡龍泉寺に居住なさる
として当所に要害を構えられた。これは上郡岩倉城主・織田伊勢守(信安)衆と心を合わせ、東郡
篠木三郷を始め、信長御台所入りの知行所どもを、ことごとく押領なされるためである。

また信行は不行儀の事どもが多かったのを柴田権六勝家が度々諫めたのだが御許容なさることなく、
あまつさえ近習の小姓で寵愛なされた津々木十蔵という者は出世甚だしく、諸事の別当となり諸侍
の総頭を仰せ付けられて、この頃は津々木蔵人と名乗った。

この者は智もなく勇もなく第一に驕りを極めたため、諸人に憎まれ疎み果てられた。中でも柴田権
六と仲が悪く、権六を万事引き下げてあしらえば、内々に権六は安からぬことに思っていたのだが、
弘治2年(1556)正月5日、武蔵守殿は家中の面々に椀飯の饗応を下されたのだが、柴田には
その沙汰なし。

勝家は不審に思い、もてなし顔で台所辺へ伺候したけれども、津々木が連日何事かを讒言したのか
信行は柴田に言葉をも掛けなさらなかった。勝家は蒸すが如く腹立ったけれども、わざと顔色に出
さずにいたが、心安き朋友の手を取って自分の眼の上を探らせると、眼の上はさながら猛火のよう
に熱していた。

これほどに感情が高まればどうして少しでも躊躇えようか、その日すぐに勝家は清州へと参上して、
密かに武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由を信長公へと申し上げた。

――『織田軍記(総見記)』

83 :人間七七四年:2020/05/24(日) 09:54:08.64 ID:YdfFy2qH.net
ツイッターからそのまま転載なので、あくまでも参考ネタということで


https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUU8AE3BBR.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUU8AAvDVX.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUVcAIqeHE.jpg
https://twitter.com/tatsu_note/status/1264069349242855424
たつのん/元新聞記者? @tatsu_note
東日本大震災の犠牲者と思われた白骨遺体が殺人事件の被害者だと判明したが
戦国時代の他殺体だった上に休暇中の伊達政宗にやられた家臣だったっぽい話
(deleted an unsolicited ad)

84 :人間七七四年:2020/05/24(日) 10:09:40 ID:B7yyK1lo.net
>>83
政宗を書類送検w

85 :人間七七四年:2020/05/24(日) 12:27:32 ID:CixKdHgZ.net
証拠があったとしても、時効だろw

86 :人間七七四年:2020/05/24(日) 17:07:58 ID:TOtaqHHd.net
これTwitterで見かけたけど、政宗が殺した根拠なんてないのに
本当に政宗が殺したと解釈したようなコメントもいくつかあって引いたわ
ネタかもしれないが

87 :人間七七四年:2020/05/24(日) 18:53:46.00 ID:rR8W1qw3.net
面白さ優先で事の真偽がどうでもいいとされやすいパターンで
本人は恐らくある程度分別つけたうえでのツイートだったけど、確かに周りがそう思い込みだしそうな感じでちょっと危ういなとは思った

88 :人間七七四年:2020/05/24(日) 19:26:51.09 ID:wRe4BRWs.net
(織田信勝誅殺の時)

これより信長は作病を御構えになり一切表へ御出にならず、御兄弟なので勘十郎殿(織田信勝)に
「御見舞いしてしかるべき」と、御袋様(土田御前)ならびに柴田権六(勝家)が意見申すにつき、
清州へ御見舞いに御出になった。

そして清州北矢倉天守の次の間において、弘治4年戌午(1558)霜月2日、河尻青貝に仰せ付
けられて御生害なされた。この忠節を仕ったことにより、後に越前大国を柴田に仰せ付けられた。

――『信長公記 首巻』


(柴田勝家の密告を)信長公は聞こし召されて隠密の智謀を柴田に仰せ聞かされ、その夜に勝家を
末森へ返された。さてそれより信長公は病気と称して虚病を構え、長く籠居なされた。同年の冬に
村井民部を御使として御母堂へ仰せ上げられるには、

「某の病気は日を追って盛んになり、治ることは有り難く覚えます。いまだ子を持ち申しませんの
で家督を武蔵守信行に譲ろうと存じます。早く武蔵守方へ迎えを遣されては頂けませんか」

と真らしく仰せ遣わされた。御母堂は事実と思し召して一先ず御嘆きなされたのを早く早くと勧め
申せば、難無く迎えを遣されて(信勝に)子細を仰せ聞かされた。

武蔵守殿は心浅き人で、この事を真と思し召したため、同11月2日に清州城へ入りなされて信長
へ御対面なさりたいと御寝所の矢倉へ通らせなさったところを、この矢倉の天守の次の間であらか
じめ信長が仰せ付けおかれた如く、討手の人々の山口飛騨守、長谷川橋介、河尻、青貝、この者ど
もは小志津の御刀を預かっていて初太刀を強かに打ち付けると、信行はそこを切り抜けなさって、
御母堂の御座所へ走り退きなさった。

そこを、その方向の受け手である池田勝三郎信輝(恒興)が引き組んで三刀刺し、ついに武蔵守殿
を生害し奉りけり。

――『織田軍記(総見記)』

89 :人間七七四年:2020/05/25(月) 03:38:02 ID:YfHz75EY.net
「さるほどに、斉藤新九郎義竜妻女は、一条殿御むすめ、そく御ぞうしとて、これあり。

ある時、やがて、憑き候て、奇異のわづらひあり。

百座の護摩、千座の護摩、万座の護摩をたかせ、さまぐ祈祷候へども、つひに平癒なく父子三人病死。

天道おそろしき事なり」

太田牛一「大かうさまぐんきのうち」より。

 永禄4年5月11日、斎藤義龍が正妻の一条氏と御曹司もろとも同日に病死したと牛一は記す。Wikipediaでは義龍の正妻は浅井氏から迎えた近江の方(近江局)とされていていますが。
 既載だろうと思いましたが、未だ乗っていないようなので。

 ……当主と正室と嫡男が同日に死ぬって、余程の悪疫にでも罹ったか、仕物でもされたのか。

90 :人間七七四年:2020/05/25(月) 20:33:54 ID:gtwwtRus.net
天文十二年(1543)秋、鎮西豊後の国主。大友修理太夫義鎮(原文ママ)は上洛して公方家へ拝謁し、
それより三条西殿へ属し奏聞を経て、前の公方、法住院(足利)義澄卿に、御増官、御贈位の儀を訴望した。
則ち勅許有りて、同九月十一日、法住院殿へ太政大臣従一位を贈られた。その御料は皆義鎮より調進された。
現在、一天下は乱中である中、真に奇特の大名であると、公方家はその忠義を御感悦のあまりに、
義鎮を九州の探題職に成した。

『續應仁後記』

これは大友義鎮(宗麟)の話にしていますが、実際に故足利義澄へ太政大臣の位を贈るよう奏上したのは、
義鎮の父の大友義鑑で、それも天文2年9月12日の事ですね。
この天文12年には、義鑑は幕府から肥後守護に任じられています。
そして九州探題職と成ったのは大友義鎮ですが、永禄2年(1559)の事であり、とにかく幕府と大友家に係る
いろんな事が混同されている記事となっています。

91 :人間七七四年:2020/05/26(火) 17:43:19 ID:lbGMsvkA.net
>>89
寄生虫の病だよ
義龍は田螺が好物でよく酒の肴にしていたそうな
夕餉に出されて妻子も食べたんじゃないかな

92 :人間七七四年:2020/05/26(火) 18:44:19 ID:aBkkhMvp.net
>>91

なるほど、田螺ですか。かの魯山人も田螺が好きで、生のそれに当たって亡くなったそう(鯉など異説あり)ですが……。

加熱が不充分だったのか、半生や生の方が美味しいと思って意図的に加熱を省いたのか。

斎藤龍興「まことに不幸な巡り合わせであった」

93 :人間七七四年:2020/05/26(火) 22:55:16.97 ID:wLd/15L7.net
一、去る程に信長公の一大人(家老)の林佐渡守(秀貞)、その弟の林美作守(通具)、柴田権六
  (勝家)が申し合わせて、3人が勘十郎殿(織田信勝)を守り立てようとして既及逆心との由
  で、風説取り取りであった。

  信長公は何と思し召したことなのか、5月26日に信長と安房殿(織田信時)とただ2人で清
  州から那古野城の林佐渡の所へ御出になった。

  「よき巡り合わせなので、御腹を召させよう」と弟の美作守が申すのを、林佐渡守はあまりに
  面映ゆく存じたのか「三代相恩の主君をおめおめとここで手にかけ討ち申しては、天道が恐ろ
  しい。どのみち(信長は)御迷惑に及ばれるのだから、今は御腹を召させることはできない」
  と申して御命を助け、信長を帰し申した。

  一両日が過ぎてから御敵の色を立て、林の与力の荒子城が熱田と清州の間を取り切って御敵に
  なり、米野城と大脇城は清州と那古野の間にあってこれも林の与力であるため、一味して御敵
  を仕った。

一、(信勝との和睦の時)

  林佐渡守のことは、これまた召し出されまじきことではあったが、先年御腹を召させるという
  時のことを、佐渡は覚悟をもって申し延べた(先年御腹めさせ候刻を佐渡覚悟を以て申延候)。
  その子細を思し召し出されて、このたび御宥免なされたのである。

  ――『信長公記 首巻』

94 :人間七七四年:2020/05/27(水) 11:03:28 ID:LokIAzXC.net
秀吉の信雄三家老懐柔を思い出した

95 :人間七七四年:2020/05/28(木) 03:50:13 ID:z9c7xj6W.net
さて義龍(斎藤義龍)は一戦に道三を討ち取り悦喜少なからず。諸将へも様々な恩賞感状などを出し、
日根野備中守(弘就)、長井隼人正(道利)をして万事を計らわせ、ついに当国の守護となった。妻
室は江州小谷城主・浅井下野守久政の娘で近江の方というのを嫁する。もっとも義龍は生質勇猛絶倫
にして、身の丈7尺ほどの古今の剛将である。

嫡子の右兵衛大夫龍興は天文18年酉(1549)の2月誕生。すなわち家督として稲葉山に在城し
た。義龍は元来先の屋形・土岐頼芸の胤子であるといえども、道三の子としてかの家で成長し、親子
の恩恵もある仲なので、義を思って氏を一色とも改名した。

しかし子として親を誅した天罰は逃れられないのか、わずか6ヶ年を保った後に難病を受けて大いに
苦しみ、永禄4辛酉年(1561)6月11日、35歳を一期としてついに空しく相なりける。さり
ながら義龍は常に禅法に帰依し信心を明らめたのか、臨終に及んで辞世の偈を残した。その詩に曰く、

「三十余年 守譜人天 刹那一句 仏想不伝」

また永禄元年に自ら伝焼寺(伝燈寺)の別伝和尚に帰依して、国中の寺院の式を定めた。

令嗣の龍興は書工に仰せ付けて義龍の絵像を書し、快利和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈をそ
の上に書いたのである。

――『美濃国諸旧記』


義龍は器量世に優れた勇将なれば、国中に靡かぬ草木もなく井口の大将と仰がれたが、永禄4辛酉年
5月11日、病に臥して逝去し給う。常に禅法に帰依し心源を明らめ、辞世の偈に、

「三十余年 守護人天 刹那一句 仏祖不伝」

行年35。法名を雲峯玄龍居士と号す。

快川和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈を寿像の上に書き記す。(義龍は)永禄元年より伝燈寺
の和尚に帰依して、国中の寺院の法式を定めた(永禄別伝の乱。この事件で義龍と快川は対立した)。
これひとえに、かの僧の所意によってであると国中の僧は大いに擾乱した。

――『濃陽諸士伝記』


しかるに義龍は病に臥せて程なく、永禄4辛酉年5月11日、稲葉山城で逝去し給う。行年30有余
歳なり。すなわち常在寺に葬る。雲峰玄龍大居士と号す。日頃禅宗に帰依なされた故、辞世の偈あり。

「三十余歳 守護人天 刹那一句 仏祖不得」

長子の喜太郎龍興は家督を継いで右兵衛太夫、美濃守に歴任した故に、斎藤の一族どもは心を合わせ
られたため、国中は義龍の時よりも静かであった。斎藤の跡を継いだとして“斎藤右兵衛太夫龍興”と
名乗りける。

――『土岐累代記』

96 :人間七七四年:2020/05/29(金) 03:19:43 ID:L0gBJ9YR.net
濃州稲葉山由来之事

そもそも当国稲葉山は不双の勝跡で、いわゆる和歌の名山なり。当山は3つの名があって“金華
山”“一石山”“破鏡山”とも申すなり。この場所を言う和歌はおよそ21首が万葉集に見える。

仁明帝の御宇に中納言行平卿(在原行平)は勅命によって、陸奥国より金華石を引かせられた。
この石が濃州に到着する。その頃またにわかに勅詔あって、行平を京に召し上げられた。行平
はかの石を捨てて上洛なさる。後にこの石を召して山の神と崇め“金太大明神”と号したという。
行平卿がこの時に歌を詠ぜられたことは、世に知られている。

そもそも当大明神は、人皇11代・垂仁天皇の第8の皇子・五十瓊磯城入彦命を祭る所である。
清和天皇の御宇、貞観元己卯年(859)2月、正一位因幡社と勅額を賜る。蓄奥の院峰権現
は陰神にして五十瓊磯城命の后という。

また峰の権現は垂仁天皇を崇めるともいう。いわゆる“岐山”と号す。麓の里を“岐阜”と号する
ことは往古よりの称号で、明応から永正(1492〜1504)までの旧記に多く載せるとこ
ろである。後世に織田家が名付けたということは信ずるに足りない。

ただ一説に往古は加納を沓井・吉田と称して、岐阜を今泉・忠節・井の口・宗田と言ったのを、
織田家入城の時に及んで沓井・吉田を合わせて加納と言い、今泉から宗田までを岐阜と称した
のだという。

――『土岐累代記』

97 :人間七七四年:2020/05/30(土) 19:11:42 ID:GvcTHadk.net
(桶狭間の戦いの頃)

かように義元(今川義元)勝利の威勢日々強くなりけれども、不思議の事々も多かった。

まず、今川家には往古より“真範公”という出家の亡霊がいた。国主に凶事ある時は出現すると申し
伝えた。しかるに今回、義元が駿府を打ち立ち給うところで、かの真範の亡霊がまさしく阿辺川の
ほとりに現れたのを見た人が多かった。

また駿州の鎮守総社大明神は霊験無双の神なり。かの社の山の中に白狐の奇怪あり。いつもの白狐
を所の者どもは「神の遣わし者なり」と言ったが、その白狐の胸おのずから裂け破れて、自ら死し
て社壇にありけり。

また花倉といって義元の兄弟(玄広恵探)の死霊あり。かの花倉はうつつに出でて、義元にまみえ
来たる。義元はこの時、枕元に立て置いた松倉郷の刀を抜いて切り払い給えば花倉は飛び上がって
「汝の運命尽きたることを告げんがために来た」と言う。

義元もさすがに強き大将なれば少しも騒がず、はったと睨んで「汝は我が怨敵なり。何ぞ我に吉凶
を告げん。ただ我を悩まさんがために来たのであろう」と宣えば、花倉また言うには「汝はもっと
も怨みあれども、今川の家運尽きんこと甚だもって悲しければ、今まみえ来たる」と言い捨て、掻
き消すように失い果てた。

かように怪異ひとかたならず、未然に凶事を現したのは不思議なりし事々である。

――『織田軍記(総見記)』

98 :人間七七四年:2020/06/01(月) 13:32:21 ID:oLIH1Ibq.net
細川晴元入道は、元来愚蒙にして心軽き人物である故、今度の是非無く三好長慶と将軍・義輝の和睦が成立し、
心ならずも遁世者と成ったために、その心安からず、またかの家の浪人共は身の置所も無いままに、猶も
野心を含み、ややもすれば一揆を企て、騒動更に止むこと無かった。

そのような中、三好長慶はこの年、近国の乱を鎮めんとして、天文二十一年(1552)四月二十五日、自身
五千余騎を率いて丹波国へ発向した。摂州上下郡の者共も同じく丹州へ陣立てし、当国の波多野弥兵衛尉晴通
の館である屋上の城を攻めた。

ところが、如何したのか三好長慶の妹聟である芥川孫十郎は俄に心変りして、摂州の池田出羽守、小川某などと
語らい、羽多野と内通、一味して長慶への謀反を企て、剰え晴元方の諸浪人を語らい集め、晴元入道をも
一方の将に立てんと催した。

こうして、明日の合戦で裏切りを行い、長慶とその執事である松永弾正(久秀)をも討ち取ろうと企んだが、
猶も味方を語らんと、摂州の住人である有馬源次郎重則を頼んだ所、有馬は元より無二の長慶の味方であり、
すぐにこの企てを長慶に告げた。長慶は驚き「さては味方無勢なり。明日の軍は叶わじ」と、
同五月二十三日の夜、たちまち軍を引き払って密かに摂州の有馬郡に引き取った。
このため逆心の者共は手を空しくして屋上城中には引き入り後悔した。

このように、晴元方の浪人共は騒動し、また晴元入道も未だ野心を含めているという様々の雑説があり、
長慶は思慮を廻らせて、晴元の嫡男である聡明丸を京都に置いたままにしては敵徒に奪い取られ、後難出来る事
有るべしと考え、同六月三日、聡明丸を京都より鳥羽まで出し、船に乗せて川を通り、摂州の尼崎へ
差し下し、同五日、越水城へ入れ置き、ここにおいて養育し、聡明丸が成長するのを待った。

『續應仁後記』

芥川孫十郎の裏切りについて

99 :人間七七四年:2020/06/01(月) 13:41:06 ID:HA9CZNui.net
昨日は妹婿の芥川が今日は敵、まこと畿内情勢は複雑怪奇

100 :人間七七四年:2020/06/01(月) 17:23:28 ID:oXa/7OeU.net
子孫の龍之介は三国一のクズだから大和民族特有のDNAなんだろうな

101 :人間七七四年:2020/06/02(火) 07:09:38 ID:A6fUsjUm.net
>>100
にほんご おじょうずですね(^^)

102 :人間七七四年:2020/06/02(火) 16:01:22 ID:tp5E/GjB.net
公方家又京都御退座の事

そのころ公方家(足利義輝)は、洛外の霊山に御城構え有るべしとして、今度天文二十一年(1552)十月十七日、
かの山に御普請初めがあった。細川晴元方の浪人である香西越後守元成等は先の三好長慶との和平を用いず、
また悉く蜂起して、同十月二十日、丹波国桑田郡へ打ち入って、細川氏綱方の内藤備前守と合戦し、内藤を
撃ち散らして勝利を得、その勢いで同十一月、丹波の篠口辺りを放火した。この時建仁寺の塔頭も炎上した。

そのような中、三好義賢(実休)がその主君である細川持隆を殺すという事件があり、それより都鄙では雑説が
しきりに起こり、三好長慶と言えどもまたこう言った心があれば、虎狼の野心を挟んで公方家も如何有らんかと、
諸人心安からず、公方家もまた御用心有って、貴賤皆危ぶみ暮れた。

翌天文二十二年の春、正月二十七日、三好長慶は上洛し、伊勢守貞孝と相談して営中洛中の政事を沙汰し、
京都は暫時静謐となったが、猶も人心は安からず、同三月、晴元方の浪人、一揆等が山城国の畑という場所で
蜂起したのを、長慶の執事である松永弾正久秀が馳せ向かって退散させた。

そうした中、三好長慶は摂州の芥川孫十郎が逆心したのを退治の為、同七月、京都を立って多勢で直に
芥川城に押し寄せ、城の向いと成る帯山に陣を取って向城を築き、遠攻めにせんと支度し日を送っていた
所に、この隙を見透かし、細川晴元が上洛して秘計をめぐらせ、様々に公方家に歎訴して長慶の事を讒言
した所、公方家も軽々しく御同意有って、晴元入道、江州の六角父子、その他の人数を催されれ、長慶を
誅伐有るべしとして、和睦は忽ち御改変あった。

かくして晴元入道も再度公方家の権を取って、縁者の六角父子その他所々の味方、譜代の輩、諸一揆を催し
京都に在る三好方の居宅などを一々に焼き払って悉く蜂起した。

この事が芥川へ注進されると、長慶は聞いて
「何ほどの事があろうか。しかし、先ず上洛して事の体を伺い見るべし」
と、芥川城には抑えの勢を差し置き、長慶は自身の人数、並びに河州の畠山高政、安見美作守等
都合二万余人を率いて、同八月朔日、芥川を引き払って直に上洛した。その威勢は辺りを払い、これに対して
中々一戦にも及び難く見えたため。公方家も晴元も早々に京都を開け、近江路へ御没落あり、朽木谷へ
入られた。

毎回のこのような軽々しき御事に、京童共も嘲りあった。この時、もし長慶が追尾して一戦に及んだなら
中々御滅亡疑い無い所であってが、長慶はいつもそういった沙汰に及ばなかった。
そして公方家に従わず京都に残っていた伊勢守貞孝などと洛中平安の政事をし、長慶はまた芥川に帰陣した。

それより公方家は朽木谷に居られたが、晴元や六角義賢の他に味方申す者も無く、次第に御衰微され、
この年の秋より永禄元年まで五年の間ここに御潜居あり、中々長慶を滅ぼされるべき御企ても思いつかぬまま
過ごされた。

『續應仁後記』

足利義輝二度目の京都からの没落について

103 :人間七七四年:2020/06/02(火) 16:18:05 ID:1uSSZG/t.net
続応仁後記の時点ですでに三好実休之相は名前間違えられてるのか

104 :人間七七四年:2020/06/02(火) 19:39:25 ID:1lMaz2iy.net
>>103
それいうなら之虎だろ
知ったか乙

105 :人間七七四年:2020/06/02(火) 19:41:08 ID:1uSSZG/t.net
そうですね、之相をのちに之虎に改名してますね
法名と合わせるならそちらの方が良かったですね

106 :人間七七四年:2020/06/02(火) 22:27:47 ID:VzM8DUrR.net
義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長のために当国を奪われる。この時に光親(揖斐光親)は
稲葉山で織田勢と戦い討死したと沙汰するも、その説は詳らかではない。しかればこれより揖斐
も織田家に降参し、相続いて揖斐に在住した。

さて揖斐落城のことを尋ねるに、その頃の池田郡本郷城主に国枝大和守正則という者あり。これ
は安藤一族の国枝大和守藤原守房の末孫である。数代本郷村の城主で、また本郷の内に良徳寺と
いう禅寺がある。当時は稲葉良通(一鉄)の父・臨仁定門が隠居していたので、正則と良通は折
節参詣した。

また揖斐光就も時々参詣したのだが、光就、良通、正則が良徳寺に参詣して碁会を催したところ、
光就と正則は碁の勝負のことで互いに口論に及んだ。良通はこれを仲裁して双方を宥め、ようや
く怒りを晴らしてその日の参詣は終わった。しかし光就の利はもっとも正しきものであった。良
通は正則の舅故に非を曲げて、無礼に扱った振る舞いであった。これによって、光就は甚だ憤り、
これより遺恨を差し挟む。

その後、天正6年寅(1578)8月18日のことであるが、正則は大野谷汲の観音へ参詣のた
め、わずかな主従で本郷を出て株瀬川を越え、道行の慰みに四方の景色を遊覧して赴いた。光就
はこの由を聞き大いに喜び、日頃の憤りを散ずべき時至れりと郎等を下知し、正則の来る道筋で
ある名礼の崎の広野に伏勢を隠し置いて、揖斐城の裏手へ出て待ち受けた。

そうとも知らずその日の巳の刻に至り、正則はわずかの士卒を引き連れやって来たのを、光就は
すは掛かれと呼ばわって大声を揚げ、「過ぎし頃の碁会の遺恨、良通の不道の扱い!その憤りを
晴らさんがため、早くよりここで待っていた!逃すまじ!」と呼ばわった。

正則大いに驚き、覚えのある事なれば、心を決して少しも恐れずに郎等を下知して切って掛かる。
揖斐勢も槍刀を打ち振り血戦したが、国枝勢もここを先途と戦った。折しも木陰より揖斐の伏勢
50余人がドッと叫んで突いて掛かれば、国枝も仰天してここまでなりと心を定め、太刀を持ち
自害しようと思った。そこへ揖斐の郎等・大西太郎兵衛が切り掛かり、ついに首を取ったりける。

正則すでに討たれければ、残る郎等は七転八倒の働きをしてことごとく討死した。(中略。国枝
方と揖斐方の戦死者を列挙)しかし光就は大いに喜び、兵士を下知して早々に城中へ引き入った。
本郷勢の13の輩の死骸を取り集め、名礼・結城村辺りの土中に埋めて13ヶ所に葬った。その
形は今も残って、谷汲道の傍らにある“十三塚”というのがこれである。

――『美濃国諸旧記』

107 :人間七七四年:2020/06/02(火) 22:49:04 ID:1lMaz2iy.net
>>105
のちに改名ではなく、この頃はすでに之虎だよ
知らないなら実休って言っとけよ情弱くん

108 :人間七七四年:2020/06/02(火) 23:10:27 ID:1uSSZG/t.net
ですねー、当初は之相ですが天文21年以降之虎ですねー

109 :人間七七四年:2020/06/03(水) 03:18:02.59 ID:PNJemRL3.net
>>106
だから賭け麻雀はだめなんだ

110 :人間七七四年:2020/06/03(水) 11:05:40 ID:ahKb3dTD.net
>>109
アハッ

111 :人間七七四年:2020/06/04(木) 01:24:22.53 ID:pW5SX5wd.net
(国枝正則の討死後。>>106

しかるに国枝の舅である清水城主・稲葉伊予守良通方へ、名礼の戦いで命を逃れし者一両輩が逃げ
込み、その様子を告げると良通大いに驚き、現在の婿を討たれて打ち捨て置けるはずもなく、速や
かに馳せ付け仇の光就(揖斐光就)を討ち取らんと即時に士卒を下知して清水を乗り出した。

戦場目指して馳せたところ、深坂の峠で国枝の家来がまた一両輩逃れ来たり「主人はすでに討たれ
て候。揖斐は早や兵士を纏め、城中に引き入りました」と申した。良通は無念骨髄に徹し、むなし
く揖斐の方を睨んで見つめ、歯噛みするといえども光就はすでに居城へ引き入ったので、力無く馬
を返して清水へと帰った。

光就はすこぶる勇剛の士なれば、容易には誅し難し。そこで折を窺って油断を見済まし、不意に押
し寄せようと月日を送った。天正8年(1580)に至り、12月下旬に及び、清水で良通急病な
りと沙汰した。これによって家の子や郎等は騒動する様子で、近辺を行き違う輩引きも切らず。揖
斐では稲葉の振る舞いを気遣い思うところであったから、これを聞いて事実と思い大いに喜んで油
断をなす。

すでに12月の大晦日なので早春元朝の儀式などを取り繕ったが、明ければ天正9年巳正月元日で
ある。良通は形の如く士卒に令を伝え、大晦日の夜より出馬の用意をなし、兵糧など十分にしてそ
の夜の丑三過ぎる頃に清水を出陣し、揖斐坂(原注:揖斐というのは谷汲道にして、白石から深坂
へ越える坂である)の辺りから打ち上り、山続きに押し通って城際へ押し詰めた。

揖斐の城中では元日新玉の儀式をしてそうとも知らずにいたところ、やがて寅の一天に至れば、城
の前後より一同に鬨を作り攻め立てた。城中大いに騒ぎ立ち「こは敵に不意を打たれたり!面々持
ち口に至り防ぎ候へ!」と、上を下へ大慌てした。そこを良通は下知し、数多の松明を灯し連ねて、
城の四方山上の樹木へ一同に火を掛ければ、たちまち猛火が八方へ燃え上がり、煙の下より寄手短
兵急に攻め立てれば、堀池備中守、その子・千代寿丸、大西源吾、花木藤五郎以下は思いのまま戦
い討死した。

城将・光就ももはや討死と馳せ出たのを士卒らが制し「一先ず城を落ちて逃れ給え!」と勧める故、
光就も力無く城の西より桂の郷へ逃れ出て、山岸勘解由左衛門光信の隠館へ落ち入ったが、東南の
風が荒く吹き来たり、山上の猛火はたちまち桂の郷へ焼き下って、その辺りは残らず一片の煙とな
り残さず焼亡した。この時、堀池父子、宇佐美平馬、稲川治左衛門、大西、佐藤、花木、畑野など
数多の勇士が討死した。稲葉の郎等では、加納悦右衛門が比類無き武功を顕した。

さて光就は桂を出て安八郡大垣へ落ち行き、氏家左京亮直元(直昌の誤り)を頼んで蟄居した。そ
の後、氏家は勢州桑名へ移ったので同じく桑名へ赴き、その後の文禄元壬辰年(1593)、濃州
石津郡駒野村で卒去した。56歳なり。

さて稲葉良通は光就を討ち得ずといえども、揖斐の一城焼落し大いに喜んで清水へと帰った。この
時に揖斐山上の城は断絶した。天正9年正月元日の事、未明に落城なり。これ故に今揖斐で俗説に
「朝寝すると城が落つる」というのは、これが例となったのである。今の揖斐中で元日の礼勤を朝
未明より行うのは、この例を引いた事なのだと言われている。

さて、稲葉はこれより揖斐の山下三輪村の要害に嫡子・右京亮(稲葉貞通)を入れ置いて守らせた。
しかるに良通は婿の怨みだと揖斐光就を攻め出し、いささか憤怒を散じたといえども、三代相恩の
主君の連枝(揖斐氏は土岐一族)を攻め落としたので、勇士の本意あらずと思ったのか、その年の
秋に清水北方の山の麓、長良村の釣日寺で法体し“一鉄斎”と号しける(原注:一説に岐阜長良の
崇福寺ともいう)。

112 :人間七七四年:2020/06/04(木) 01:25:47.57 ID:pW5SX5wd.net
しかるに光就落去の折に子息3人あり。長男を栄千代丸という。この時より江州坂本に至り、明智
の養育によって成長し、後には江戸将軍に仕えたという。二男は早世、三人目は女子なり。成長の
後に他家へ嫁いだ。光就の室はこの折より尼となって横倉寺に入ったという。また徳山五兵衛(則
秀)に嫁いだとも聞く。

さて今回の放火によって桂の郷は皆類焼し、鎮守八幡宮も焼失したが本地はつつがなしという。後
に当社へ、明智光秀の霊を祭った。

さてまた周防守基信の妾腹の子に、揖斐六郎太夫基行という者あり。桂の郷戸(虫損)渡という所
に住んだが、弘治元年卯(1555)8月病死。その子・六郎太夫貞行は山岸勘解由左衛門の婿な
り。後に勢州近士の家に養子行ったという。晩年は明智に仕えて近士となり、四手衆の内なり。天
正10年6月2日、京都本能寺で湯浅甚助友俊(直宗)と組み合い、双方刺し違えて死す。

貞行の子を揖斐造酒三郎という。後に作之丞貞次という。母は山本対馬守和之入道仙入斎の娘なり。
貞次は明智の山崎合戦の前日に光秀の遠計に従って濃州に落ち来たり、後に江戸将軍に仕えて子孫
は関東にあり。

康永元巳年(1342)3月に揖斐出羽守頼雄が初めて当城を築き在住してより以来、揖斐氏代々
ここに住し、240ヶ年の星霜を経て、天正9年正月元日ついに落去したりけり。当城は山上に本
丸あって山下三輪村には要害があり、侍屋敷満々たり。山上落去の後は山下の要害だけであった。
故に後にこれを城に改築し、矢倉、塀、堀などを修復してよき一城である。

さて揖斐というのは庄の名で甚だ広大である。城のある所は揖斐の庄三輪村という。しかしながら
揖斐の本城があるので三輪とは言わず、ただ揖斐と称す。揖斐の庄の村々は数多し。三輪村を始め
として桂、南方、北方、房島、仁坂、中津、原野村もその内である。現在、この揖斐は岡田伊勢守
(善同。幕府旗本、美濃郡代)の陣屋である。

――『美濃国諸旧記』

113 :人間七七四年:2020/06/05(金) 22:53:19 ID:nykzd3q7.net
悪い話?かわからんけどNHKでやってた

山形県長井市の「草岡の大明神桜」を守り続けている横山家には、伊達政宗が初陣の際に
この桜の木に身を隠して難を逃れたとする書付が残されている。
https://imgur.com/VOyt05o
http://www.watarigraphic.com/sakura/daimyoujin.php

個人的にはこの話を思い出した
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3693.html

114 :人間七七四年:2020/06/06(土) 22:40:28 ID:TUf8uXey.net
永禄3年(1560)5月19日、昼の時分に大雨しきりに降る。(今川義元は)今朝の御合戦
御勝利で目出度いと、鳴海桶狭間で昼弁当に参る。そこへその辺りの寺社方より酒肴を進上仕り、
御馬廻の面々に御盃を下されたが、その時、信長が急に攻め来たる。

笠寺の東の道を押し出で、善昭寺城より二手となって一手は御先衆へ押し来たり、一手は本陣の、
しかも油断しているところへ押し来たる。鉄砲を撃ち掛ければ、味方は思いも寄らぬことなので、
ことごとく敗軍して騒ぐところに、上の山からも百余人程が突いて下った。

服部小平太(一忠)という者が長身の槍で義元を突き申すと、義元は刀を抜いて青貝柄の槍を切
り折り、小平太の膝の口を割り付け給う。毛利新助(良勝)という者が義元の首を取ったが、新
助の左手の指を義元は口へ差し入れ、食い切られたと聞く。

義元の御馬廻衆も随分働いたため尾州の物頭の佐々隼人正(政次)、千秋新四郎(季忠)、岩室
長門守、織田左馬允、一色などと申す良き者が、数多その場で討死した。

御先衆で討死致した衆は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同荘二郎、朝比奈主計、西郷内
蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守(直盛)、松
平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余人、近習1人も残らずその場で討死なり。

――『松平記』

115 :人間七七四年:2020/06/07(日) 04:41:47.74 ID:Jsn8uRP9.net
>>114
大雨だと鉄砲使えなくね?

116 :人間七七四年:2020/06/07(日) 15:24:03 ID:FjC4Cc4v.net
俄か大雨に紛れて接近→晴れてから襲撃ってのが桶狭間の流れ
まあ、所詮は他家と他家の話の上
義元本陣にほとんど家康系がいなかったとかの事情で詳細には書く気がないのかも

117 :人間七七四年:2020/06/07(日) 17:25:34.03 ID:E7+MQt/A.net
>>116
信長公記が底本と分かるな

118 :人間七七四年:2020/06/07(日) 17:30:27.64 ID:60NDTf3c.net
信長公記とは内容違うよ

119 :人間七七四年:2020/06/07(日) 18:30:45.97 ID:Z25lYa3+.net
>>113
まとめサイトの方にまとめられてないね

120 :人間七七四年:2020/06/08(月) 11:19:35 ID:/oEw+6P0.net
アフィカスが大慌てでアップし始めました(笑)

121 :人間七七四年:2020/06/08(月) 21:46:33 ID:WutUdWiN.net
豊臣秀吉は大きな猿を飼い、諸大名が登城する時、通る側につなぎ置いた。この猿が歯を剥き飛びかかる時。
諸人が狼狽する体を、秀吉は覗き見ていた。

伊達政宗はこの事を聞き、病と称して登城せず、秀吉の猿の猿引を百方手をつくして捜し、密かに猿を借り
玄関に繋ぎ置いた。猿は政宗を見ると歯を剥いて飛びかかろうとするが、政宗は鞭でしたたかに打ち竦めた。
このように度々した所、かの猿は最後には政宗を見ただけで?息した。こう仕込んだ上で猿を返した。

その後、政宗が登城した所、秀吉はこの事を知らず、政宗の様子はいかがかと覗き見た所、政宗が玄関を
上がる時、猿は飛びかかろうとしたが、政宗がはったとにらみつけると、かの猿萎縮して退いた。
秀吉はこれを見て「曲者めが、また先へ廻った」と笑われたという。

(名将言行録)

猿の話は太田道灌のものが有名ですが、政宗のものもあるのですね。

122 :人間七七四年:2020/06/08(月) 21:59:33 ID:iRM7GFQX.net
大友宗麟もだっけ、こういう話あるの
痘痕持ちの女性を正室にした話と一緒で登場人物だけ入れ替えてお話一緒シリーズって感じね

123 :人間七七四年:2020/06/08(月) 22:47:21 ID:iflZPDLi.net
>>121
今は政宗のが一番有名だろう

124 :人間七七四年:2020/06/09(火) 05:39:56 ID:jQPrYPKQ.net
こういうドッキリって真似したくなるよね

125 :人間七七四年:2020/06/09(火) 11:45:37.40 ID:StWSoDZL.net
>>122
明智光秀は疱瘡女か

126 :人間七七四年:2020/06/12(金) 12:01:16 ID:U6CsS30m.net
ニュース「九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達 鳥羽市教委」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e55878b95cf98410de3d035aa58aa1fc1ba67758

許可なくハゲると怒られるでござるの話

127 :人間七七四年:2020/06/13(土) 16:52:47.32 ID:7qGqU/gu.net
永禄3年(1560)より同4年の間、苅屋衆(水野氏)と岡崎衆は競り合うこと度々であった。
そこに信長より水野下野守(信元)をもって、元康へ色々と和談の扱いあり。互いに起請文を書
き取り交わして和談が済み、岡崎衆と尾州の戦いは無くなったのである。

またその頃は京都の諸司代・三好修理大夫長慶の領分は五畿内、播磨、但馬、淡路、阿波、以上
10ヶ国。その侍は下知に従い、公方様や管領と申せば名のみばかりで権勢も無し。

永禄5年の春、かの三好殿の家老・松永弾正は、三好殿の弟・安宅摂津守冬康と不和なので冬康
に逆心ある由を申し遣わしたが、三好殿はまったく臆し給わず。

その時、松永は謀を巡らして安宅殿の右筆の侍が浪人していたのを頼み、叛逆の廻状を作って謀
判を致し、数十通を取り出して三好殿に密かに見せ奉った。これに三好は驚き給い、淡路から冬
康を呼び越して、道で松永衆が生害した。誠に無残の次第なり。

――『松平記』

128 :人間七七四年:2020/06/14(日) 16:11:55.68 ID:vlrl08jF.net
広忠公(松平広忠)は天分18年(1549)3月の鷹狩の折、岡崎領内渡利村の一揆が
生害なし奉る。尾州の織田弾正忠(信秀)の武略により、渡利村の一揆どもに過分に褒美
を与えるとの由。御印(首級)を持って一揆どもは矢作川堤を上り急いだ。

その節、岡崎大将衆3人が岩津の信光明寺にいたが、件の由を告げ来たりその内2人が岡
崎目指して急いだ。1人上将(ママ)出羽守は渡利村を目指し、岩津大川を堤を下り急ぐ。

件の一揆どもに行き合い、御印を見て1人も逃すまいと3人を切り伏せて残りは逃れ、御
印を持って光明寺に納めた。2度覚えがあり、右の内を抜き書いたものである。

――『三河東泉記』

129 :人間七七四年:2020/06/15(月) 19:00:38.89 ID:FUJyT+vk.net
>>126
そら、人望なくすわな、
ハゲをハゲと言うだけでも謀反ものだのに。

130 :人間七七四年:2020/06/16(火) 12:37:23.76 ID:lklO+LpT.net
嘉隆はともかく、
守隆は子供も居ないのに急にハゲたら
何事かあった→秀吉死んだと受け取られるのはありえるから
ほいほいハゲられても困るってのはよく解る

日曜大工中にペンキが髪にかかったからついでに丸刈りにしたらいつのまにか浮気がばれて頭丸めたことになったのでよく解る(隙自語)

131 :人間七七四年:2020/06/17(水) 17:03:07 ID:IBSnElbG.net
北条長氏(伊勢宗瑞)が妻田八郎を攻めた時、逆に追い崩され引き下がったが、今一返しせねば叶わずと励み、
酒肴を諸卒に与えてこれを鼓舞し、引き返して八郎を討ち取った。臘月(十二月)の末であり、八郎は
「戦には勝ちたり。皆々在所へ帰りて越年せよ」
と暇を取らせた隙を考え、長氏は還攻したのである。

(名将言行録)

これは武田信玄の初陣の、海ノ口城攻めの改変ですかね

132 :人間七七四年:2020/06/17(水) 23:42:29.47 ID:crQi+9Pc.net
秀吉の死に際して古田織部の親父が殉死してるけど
こういう殉死も怒られたり、やめろって通告出したりしてたんだろうか

133 :人間七七四年:2020/06/18(木) 07:18:19.29 ID:ZRrTS4LA.net
大名じゃないし勝手にすれば?

134 :人間七七四年:2020/06/22(月) 21:00:53 ID:e7wXX+Ce.net
>>132
そんなにふるおりの親父が秀吉から恩顧を受けたか微妙だよなあ。美濃出身だし、ふるおり自身も直接的な関わりは中国征伐からだろうし、人脈的にはどっちかというと光秀よりだし
息子を見いだした秀吉に感謝していたのかな、そこそこの禄ももらったみたいだし。そんな人はたくさんいるけど

135 :人間七七四年:2020/06/23(火) 14:37:15 ID:7CjeOt33.net
朝倉義景が明智光秀に問うて曰く

「昔は要害のために山に城を築いたが、近年は鉄砲が出来た事で、何れの場所が居城に然るべしと考えるか。
詳しく語り聞かすべし。」

これに光秀は
「御意の通り、高所に登り大銃を撃ちかけます故、要害から二十余町も外の山は問題は有りませんが、
ただし兵法に『国を治め家を安んじ、人を得る也』と申します。また軍歌に『人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方怨は大敵』とあることも考えれば、あながち城郭に頼り切るべきではありません。

但し、当国の事について思案を廻らせると、平城にては北庄、山城であれば長泉寺が、然るべき城地であると
考えます。」

義景が重ねて問うた
「加賀に於いてはどのような場所があるか」

「加賀に於いては、小松寺の辺りが、大形の地であると考えます。」

「また上方に於いてはいかなる勝地があるか」

「京都近辺には見及びません。さりながら殿の御縁者である摂津大阪の本願寺の寺内こそ、無双の境地と
考えます。」

そう答えると、義景はこれを聞いて
「光秀は寺跡ばかりに心を入れたる者なり」
と言って笑ったという。

(名将言行録)

136 :人間七七四年:2020/06/23(火) 14:43:48 ID:migwR6XE.net
名将言行録はほんとにアレだな…
作者自身が作ったような逸話が平気で載る。

137 :人間七七四年:2020/06/23(火) 16:44:29.64 ID:gfEb8r5a.net
そもそも作者が「巷の俗説や怪しい話もあえて載せた」と断ってるしこの手の逸話集には珍しく出典も入れてる

138 :人間七七四年:2020/06/23(火) 16:53:41.79 ID:zixBkBM0.net
あえて載せたと言って断ってるものを鵜呑みにしてた読み手さんサイドの問題か

139 :人間七七四年:2020/06/23(火) 18:02:25 ID:zm69SwQt.net
開山した空海や最澄、蓮如なんかは築城に秀でた兵法者って事でいいのかな?

140 :人間七七四年:2020/06/23(火) 21:30:14 ID:8tiuNQOP.net
名将言行録から小説のネタ探すの憲法で禁止してほしい。武功夜話は焚書

141 :人間七七四年:2020/06/23(火) 22:40:55.04 ID:SS/6Lh9o.net
誰もが宮城谷になれるわけじゃないんだから大目に見ようや

142 :人間七七四年:2020/06/23(火) 22:44:36.31 ID:h+jdG5QU.net
宮城谷でさえ三国志書くときは裴松之注に載ってる怪しい話も使ってたし
名将言行録使用も大目に見るべき

143 :人間七七四年:2020/06/23(火) 22:56:57.42 ID:8tiuNQOP.net
>>142
名将言行録については18禁くらいで妥協してもいいが、武功夜話は焚書だ

144 :人間七七四年:2020/06/24(水) 00:05:46.01 ID:ybXUBbFD.net
やたら名将言行録目の敵にしてんな
影響力は甫庵の方がずっと上だと思うが

145 :人間七七四年:2020/06/24(水) 00:26:52.46 ID:jF2EgUp/.net
>>144
甫庵も最低だが、最近はさすがにまっとうな人なら扱いに注意してるからね。というか槍玉に挙げられることが多い。
といいつつ、成立が比較的近いから甲陽軍鑑みたいに一部、再評価されてるんだっけ?当時の風習、文化とかを知れるということで。加えて甫庵独自の取材もあるとかないとか。出展は忘れた。
にしても武功夜話、貴様はアウツだ。

146 :人間七七四年:2020/06/24(水) 02:42:08 ID:bqS4EDu+.net
https://youtu.be/Jo-o2AwRBuQ

147 :人間七七四年:2020/06/24(水) 05:42:21.15 ID:HdBIPCnD.net
織田信長が安土に城を築く時、明智光秀に意見を問うた。光秀は里見義弘、大内義興等の天守の事を申し、
「当御城の義は天下を知ろしめすべき御城なれば、五常五行を表し、五重の天守を建てられ然るべし」と、
故実などを委細に申すと、信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建てられた。

(名将言行録)

里見義弘や大内義興に天守を建てたという話があったみたいですね。

148 :人間七七四年:2020/06/25(木) 15:01:34 ID:Dcg4FVjg.net
安房国館山が三層の天守、周防国山口が四層閣らしいぞ

149 :人間七七四年:2020/06/25(木) 15:10:40 ID:Dcg4FVjg.net
ただし館山は義頼、義康が築城したらしいので創作くさいね

150 :人間七七四年:2020/06/27(土) 14:46:03 ID:dwJriU8b.net
先年、武田信玄の嫡男である武田太郎幸信(原文ママ。義信)が生害され給わった。
その故は、義信が父を討ち取り家督を取るという陰謀について、これが信玄の耳に入り、たちまち
義信を幽閉し、終には鴆毒を以てあい果てた。

然れば、信玄は父を追い出し子を殺し、甥の今川氏真の国を奪い取った。これを大悪行であると
思った故か、何者の仕業か、落書があった

『子を殺し 親に添てぞ追出す かかる心を武田とや云』

『当代記』

151 :人間七七四年:2020/06/27(土) 21:02:49.55 ID:VWMlXOBe.net
武田の御曹司としての自覚もかなり強かったみたいだし、義信が家中をまとめて勝頼が先陣を切る武田家ってのも見てみたかったなあ
義信は勝頼をだいぶ目にかけていたって話が過去に書かれていたから案外うまくいったんじゃないかと思うけど

152 :人間七七四年:2020/06/28(日) 10:40:18 ID:vBavp88v.net
元亀三年、武田信玄は遠州に発向した。この時織田信長公はその歴々の衆を徳川家康公へ
加勢有り、またかの信玄の娘と信長息(信忠)との縁辺の契約もあり得なくなった。
年来家康と信長は別して子弟同然の間であり、その贔屓の沙汰も斯くの如しであったが、
この時の信長の真実の心底は、「家康が滅亡すれば、定めて信玄は信長を討ち、天下を取るべき
企てがある」と予てより推察されていたため、猶以てこのように援助したのである。

『当代記』

153 :人間七七四年:2020/06/28(日) 22:36:37 ID:V2ZQMWZW.net
>>151
義信−勝頼間の感情が悪くないとしても、重臣や国衆がどう反応するか。
下手をすれば義信派と対立するor対立した国衆に担がれた勝頼が諏訪で挙兵とか、なりかねん。

154 :人間七七四年:2020/06/29(月) 03:15:49.45 ID:WHFvIAdA.net
そうなるには義信の治世が最悪じゃないとな

155 :人間七七四年:2020/06/29(月) 15:44:13.80 ID:tj/soCjd.net
元亀二年九月十二日、織田信長は叡山を退治した。
近年朝倉義景と内通し、特に去年、越前衆がかの山に陣を敷き、信長に敵対したために斯くの如くとなった。

この時の消息に依ると、衆徒、児童に至るまで、或いは首を刎ね、或いは焼き殺し。逃げ去る者から
衣類を剥ぎ取った。堂舎仏閣一宇も残らず焼き払い。哀れなりし事共であった。

これは偏に近年、叡山が大師の掟に背き、衆徒乱行、殊には去年越前衆が陣を張り、この時伽藍、仏前で
食事に魚鳥を用い、男女が登り乱れ放蕩したため、自業自得の果の道理ではないか。

これについて、山王の使者であるため、この乱の時までは山に猿が限りなく充満していたのだが、
乱の以後はその猿が全く居なく成った。奇特なことであると云われた。

信長はこの時、「後代にもし、当代の衆天下に知られていると云えども、叡山を建立しないと、各々に
起請文を捧げさせた。

『当代記』

156 :人間七七四年:2020/06/29(月) 20:11:09 ID:alIFzQgJ.net
>>155
叡山は要衝なんだから、織田方が城郭築いていてもよさそうだが。発掘でそんなの出たとは聞かないし、宇佐山もあるしいらなかったのかな

157 :人間七七四年:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh.net
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

『当代記』

158 :人間七七四年:2020/07/01(水) 21:58:08 ID:spB6JqFb.net
長篠の合戦の時、武田勝頼は「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている」と語った。
これに対して武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は申し上げた

「敵軍は四万、我軍は一万です。この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず
放火し、その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、一両年中に存分と成るでしょう」

という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が「合戦を遂げることこそ尤もです。」と
言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。

この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、殊に弁舌明らかであった。
この時六十三歳であったという。

『当代記』

159 :人間七七四年:2020/07/01(水) 22:03:21 ID:dkvDgPFT.net
当代記の時点で勝頼は老臣の話聞かない思慮の浅い武者、長閑斎は佞臣
みたいなテンプレが出来上がってるのね

160 :人間七七四年:2020/07/02(木) 02:51:07.33 ID:1ucQJuvg.net
>>159
甲陽軍鑑の影響でしょう
近年、再評価されているのは面白い

161 :人間七七四年:2020/07/02(木) 10:32:46 ID:SJFjnxtY.net
大将が討ち死にすべしってだダメだろ

162 :人間七七四年:2020/07/03(金) 01:26:32 ID:wNBo2v6N.net
>>161
信長だって「知恵の鏡が曇るとは」といわれたし
勝頼みたいに退路絶たれて突撃はしないと思うけど

163 :人間七七四年:2020/07/03(金) 02:42:17.31 ID:/iNLXb8k.net
父信玄に劣らない立派な2代目にするって事で臣下が犠牲を顧みず奮起して高天神を落としたのに
勝頼「コイツらやれば出来るのになんで何時も怠けてんだよ、何時も死ぬ気でやらんかい!」
だから設楽原で老臣たちの慎重論を怠けとして全軍突撃を命じたんだよなあ

164 :人間七七四年:2020/07/03(金) 10:08:11.60 ID:yt6Qik+O.net
退路を断たれてしまった以上前方の敵をせめてある程度ひるませないと、退くにしても追撃でとんでもない被害出るし

そこまでおかしな行動とは思えないかなぁ、平山氏曰く織田勢は兵の数が過小に見えるように動いてたようだし

だからそもそもこの当代記の武田勢が織田勢の兵数を完璧に把握できてる状況ってのがすでにフィクションっぽい

165 :人間七七四年:2020/07/03(金) 15:12:49.38 ID:9dv9wt1q.net
>>164
「敵かたへ見えざる様に段々に御人数三万ばかり」ってやつね
しかし、仮に威嚇のためだったとして、何回も突撃して壊滅し、追撃戦を含めて錚々たる面子を失ってるからね

166 :人間七七四年:2020/07/03(金) 21:12:12 ID:yt6Qik+O.net
威嚇じゃなくある程度の撃滅が目的じゃね
そもそも目算が間違って死地に赴いてしまったのが問題であって、そのあとの収拾の方法は問題ないと思う
そもそもが大失敗しててそれを取り返しようがない状況だから

そのまま追撃受けたら壊滅して、錚々たるメンツが死んでたのには代わりないんで

167 :人間七七四年:2020/07/04(土) 00:30:46 ID:PnSlfXWP.net
刀根坂の朝倉じゃあるめえし、それは無いだろ

168 :人間七七四年:2020/07/04(土) 01:08:33 ID:K1RlApYW.net
天正四年九月、さはせ(鯖瀬ヵ)甚五郎という者が有り、彼は元来三河で岡崎三郎(松平)信康の
小姓であったが、朋輩の金作りの刀大小を盗み取ったことが露見したため欠落ちし、この二、三年は
甲州に在住していた。そして鯖瀬は彼の国の住人である甘利三郎次郎を小山の陣中に於いて殺害し、
家康公の陣中に来た。

彼は甘利と日頃より知音にて、別して懇志の間柄であり、些かも隔心が無かったが、甘利が寝入った所を
刺殺した。この時自分の刀を捨てて、甘利の大小を取ってこれを差して来た。
この鯖瀬は年来、甘利と前代未聞に恋慕芳契しており、物取りをしたのではないのだという。

家康公は彼を再び出仕させたが、乍去さして挙用しなかった。三郎信康は彼のことを悪まれた。
そのため一両年の間に他国へまた欠落ちした。

この甘利は十七歳、武田の家老で人数三百余人を備えていたという。

『当代記』

169 :人間七七四年:2020/07/04(土) 13:20:01 ID:90/ImzUl.net
>>164

要するに一撃講話論ですね。

170 :人間七七四年:2020/07/05(日) 07:29:24.35 ID:LTS/0CcL.net
賤ヶ岳の戦いの真実
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのである。
対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りだった。

秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走

戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間だった。

171 :人間七七四年:2020/07/05(日) 09:39:31 ID:j7MvBvjw.net
経緯が省略されたことに伴って当然のこととして時間の経過についても記述が省かれるようになったから秀吉の計画通りに何事も上手くいったのごとくな印象を植え付けられたのでしょうね

172 :人間七七四年:2020/07/05(日) 10:15:35 ID:LTS/0CcL.net
>>171
歴史は勝者が創造する言うけど...たまには敗者側から観てどれだけ敗者側が頑張ったかを知ることが本当の意味で史実を知ることになるのかもね

173 :人間七七四年:2020/07/05(日) 21:53:20 ID:IfAny+F9.net
天正五年、松永久秀が亡んだ後、彼の居城であった多聞山城の家屋を毀ち、信長はその建物を
京都二条に造作し、親王(誠仁親王)に奉った。

この秋、客星(彗星)が未申(西南)に表れた。時の人々はこれを「松永星」と呼んだ。

『当代記』

174 :人間七七四年:2020/07/05(日) 21:58:01 ID:Gya4ITXX.net
歴史は勝者が作るって言う言葉大っ嫌いなのよね
大概がろくに調べてない言い訳に使われるし、言い出したの誰なんだろ

175 :人間七七四年:2020/07/06(月) 11:38:21.15 ID:Z9+SoyjC.net
誰が言い出したとかじゃないだろ
大昔から行われてきた事実を語っただけの普通の言葉やろ

176 :人間七七四年:2020/07/06(月) 11:47:57.25 ID:R/PNruD4.net
「春秋左氏伝」で
斉の宰相の崔杼が主君である荘公を弑した時
史官が歴史書に「崔杼弑其君(崔杼が主君を弑殺した)」
と記したため、怒った崔杼は史官を殺害。
その史官の弟も同様に記したちめ、崔杼は弟も殺害。
そのまた弟と同様に記したところ崔杼は諦めた。
なおその弟が殺されたときに備えて他の史官が「崔杼弑其君」と記した竹簡を用意していた

と特記されるくらいだから太古からの認識では。

177 :人間七七四年:2020/07/06(月) 12:23:32.18 ID:LH5MoHvZ.net
勝っても負けてもない人のが圧倒的に多いし、実際はそんな人たちの祖先顕彰とか判官びいきもかなり多くて
事実を語ってるというにはあまりに大雑把すぎる、わかりやすいだけで一面しか捉えてないかな

勝った側が歪曲させたに違いない、なぜなら歴史は勝者が作ったからだとかの
どういうプロセスを経て今そう語れる程の実証が行われたのか、そういうの全部無視してる言葉だと思う

178 :人間七七四年:2020/07/06(月) 16:43:15.36 ID:0pnAYLDh.net
崔杼は負け組

179 :人間七七四年:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC.net
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

『当代記』

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。

180 :人間七七四年:2020/07/10(金) 12:29:43 ID:9UfOtJty.net
天正九年八月十七日、織田信長は高野聖を方々にて搦め捕らえるよう仰せに成った。その仔細は、摂州伊丹の
牢人(荒木村重残党)の内二人がかの山に在ると聞き召され、急ぎその者たちを出すように、使者を以て
仰せ遣わした所、返事さえ申さず、あまつさえ使者上下の者共二十余人を討ち果たした事も申し届けなかった。
事に御腹立てられ、方々に仰せ触れたのである。
これによって高野聖数千人が搦め捕られ引き立てられた。その誅伐の有様は非常に哀れであった。

昔、高野聖が諸国に下る時、予め宿を取るという事はなかった。路巷において「宿かや宿かや」と呼びかけ、
これに心有る人は、上下によらず宿を貸した。もし宿がなければ、そのまま路頭にて夜を明かした。

しかし信長がこの年に聖たちを殺害して以来、こう言ったことは無くなった。信長が相果てた後でも、
これ以後元のように戻る事は無く、普通の旅人のように宿を取るように成った。
(殊に現代では、聖は商人のように、衣類など様々なものを持ち運び、これを売却する。
少しの坊をも持つような聖であれば、笈(書籍を入れて持ち運ぶ箱)も持たず、馬上にて国を上下する。
何れも大師の掟に違うのではないだろうか。)

『当代記』

高野山側の記録だと、この時信長から遣わされた使者というのが非常に横暴で猛反発を受けたとあったりますね。

181 :人間七七四年:2020/07/10(金) 22:43:46 ID:VQ9zGVWQ.net
>>180
本能寺がなければ高野山は遠からず焼き討ちされたという説があったね
孫にはひどいことしてるし

182 :人間七七四年:2020/07/11(土) 07:28:03 ID:F9RiW6Ba.net
>>181
因果関係は全くないな

183 :人間七七四年:2020/07/11(土) 08:36:33 ID:LiUWsRHc.net
祖父の因果が孫に報い

184 :人間七七四年:2020/07/11(土) 10:05:02 ID:BGi8hkyn.net
NHKで2週続けて放送した戦国日本はどのくらい正確だったの?
信長、バテレン大名は宣教師=スペインの駒。
弾はタイ鉱山産の鉛、カブラルが暗躍
家康はオランダを信じ宣教師追放&鎖国

185 :人間七七四年:2020/07/11(土) 10:08:03 ID:TKCvrENS.net
見方が大陸寄りだな

186 :人間七七四年:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF.net
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』

187 :人間七七四年:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T.net
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

『当代記』

188 :人間七七四年:2020/07/12(日) 07:17:50.69 ID:jBC+6l/v.net
勝つしか無い武田勝頼くん ワシと戦いをした結果 負けて甲斐も信濃も失って 品のないことだよね

189 :人間七七四年:2020/07/12(日) 13:15:27 ID:TOB5fOEN.net
天正十年三月二十一日、甲州征伐を果した織田信長の元へ、武田穴山(陸奥守入道梅雪)が徳川家康の取り持ち
によって出仕した。國久の太刀一腰、金三百両を進上。信長からは半俗の脇差の三つ刀を下された。そして
今回の甲州征伐における穴山梅雪の行動を信長は誉められ、甲斐駿河の本領を安堵した。
信州松尾小笠原掃部太夫も同じく出仕し、太刀、馬を進上し、本領を安堵された。
相州の北条氏政より太刀、馬、金千両、江河の酒十樽、白鳥十、漆桶二千が進上された。

二十三日、滝川左近(一益)に上野国、並びに信州の内二郡を添えて下され、上州厩橋に移り、また御腰の物も
下された。
深志之城に武田軍の残した兵糧が有り、陣中の衆に下された。
上野国の小幡上総介、織田信忠に出仕し、貞宗の脇差、金五百両を進上した。信忠よりは左文字の脇差が
下された。

北条氏政より、白米二千石が進上された。また徳川家康よりも兵糧の進上が有った。これらは織田軍の陣中にて
諸士に充てがわれた。諸士は(兵糧不足で)難儀に及んでいたと云々。

『当代記』

甲州征伐で、実は織田軍が兵糧に苦しんでいたとされる記事ですね。

190 :人間七七四年:2020/07/12(日) 16:33:50 ID:z1pyTWFl.net
>>189
家康の接待とはいえ、のんびり物見遊山しながら御一行は帰ってるんだよなあ

191 :人間七七四年:2020/07/13(月) 13:38:31 ID:s8napJ+l.net
天正十年三月二十三日
甲州征伐に於いて、織田信忠が数日を経ず早速に甲信を納めたことに、織田信長は感じ入り、
この冬にも天下を譲るとし、その験として秘蔵の脇差を与えた。
信忠は畏まり大変に悦んだが、「但し天下お譲りの儀は、未だ若輩である故、存じよらぬ事です。」
との旨を返答した。

二十八日、信忠は諏訪へ向い国割を行った。この日は寒気甚だしく、信忠の中間たちは軽き出で立ちで
あったので、二十八人が凍死した。(此日寒気甚、信忠の中間かるき出立仕間、廿八人寒死。)

『当代記』

192 :人間七七四年:2020/07/13(月) 18:07:45.92 ID:CRkyQ1h5.net
確か武田の透波に冷気を操る奴がいたな

193 :人間七七四年:2020/07/14(火) 18:05:53 ID:I+miO3Td.net
三河国の菅沼伊豆守父子(菅沼満直・新兵衛尉)、同菅沼新三郎(定忠)は、去る元亀三年より家康から
寝返り武田信玄に属し、天正三年の長篠合戦以降は信州に在国していたが、今度の甲州征伐にて降参し、
河尻肥前守(秀隆)を頼ってかの陣中に居たのを、家康が信長に言上し、則ち生害となった。

諏訪の祝女はこの菅沼新三郎の妻であったが、この事を聞くとすぐに、自分の子供たちを刺殺し、自身も
自害した。この女房は普段から大力であり、その伯母も、かつてこの高遠で比類なき働きをして死んだとの
事で、相似たる女であると、人々は皆語った。

『当代記』

194 :人間七七四年:2020/07/15(水) 07:25:50 ID:KpZDFIsf.net
祝女って何でしょうか?

195 :人間七七四年:2020/07/15(水) 10:47:27 ID:m0kw6D0r.net
>>194
検索してみたら沖縄の女性神職者だそうだけど
なぜここで沖縄の神職者の呼称が登場するんだろ?

196 :人間七七四年:2020/07/15(水) 13:06:26 ID:XljmzuPv.net
>>194
>>195
祝女は「はふりめ」といって、中世の言葉では神社の神職の女性のこと。
まあ一般的に巫女の事だね。

197 :人間七七四年:2020/07/15(水) 13:09:07 ID:KpZDFIsf.net
ほうりでググったら出てきた、さんくす。

198 :人間七七四年:2020/07/15(水) 13:20:29 ID:tYNj3Jm7.net
祝は神職の1つだから、祝女は巫女と同じなんじゃない?
ちなみに諏訪氏は諏上社の大祝を務める家柄

199 :人間七七四年:2020/07/15(水) 13:28:15 ID:SgIWpVh4.net
天正十年四月三日、甲斐に在った織田信長は、江州佐々木二郎(六角義定)が恵林寺に隠れ居るという
風聞を聞かれ、恵林寺に対しすぐにこれを出すように、検使を以て再三要請したが、恵林寺からは
「それは全く事実ではない。」と返答し、実際には密かに佐々木二郎を他所へと逃していた。

これを知って信長は甚だ立腹し、津田九郎二郎(元嘉)、長谷川丹波(与次)、関小十郎右衛門(成重)、
赤座七郎右衛門(永兼)に申し付け、恵林寺に火を掛け、快川国師、長禅寺の高山和尚をはじめ、
大綱、睦庵、両人は単寮(禅寺で首座、知事などの、単独で一寮に住むことを許された高位の僧)であったが。
悉く焼死した。その中に未宗という単寮が在ったが、彼は山門から飛び降り逃げ出した。
下法師、若僧などが火の中で躍り上がり、飛び上がって死ぬ有様は、言語に絶するもので、哀れであった。

東光寺の藍田和尚は、その場から逃げることが出来たが、途中において尾張の者と行き合い、強奪に
及ばれ持っていた金を全て奪い取られ、その後殺された。

『当代記』

恵林寺焼き討ちについて

200 :人間七七四年:2020/07/15(水) 15:56:11.70 ID:KpZDFIsf.net
金の仏具なのか金銭のほうなのか、どちらにせよ悪い話だ

201 :人間七七四年:2020/07/15(水) 16:02:19.59 ID:Ul9TM2TJ.net
>下法師、若僧などが火の中で躍り上がり、飛び上がって
高僧は心頭滅却して泰然自若として死んだということだろうか

202 :人間七七四年:2020/07/16(木) 01:06:02.24 ID:nHqIQs2/.net
>>199
美濃土岐氏出身の快川和尚を焼き殺したから本能寺に到るわけだな?

203 :人間七七四年:2020/07/16(木) 15:30:44 ID:4Mxqh86c.net
天正十年六月朔日、惟任日向守(明智光秀)は重臣である明智左馬介、同次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助、
溝尾勝兵衛を召して、これからのことについて調談した。彼ら五人に起請文を書かせ人質を取り、

「明日中国へ打ち立てるべき人数を、信長にお目に懸けるべき。」

と伝え、戌刻(午後十時ころ)亀山を立ち大江山を越え、京へと急速に到着すると、二日の曙、信長の宿所
である本能寺を取り巻き、弓鉄砲を撃ち込んだ。信長はこれを聞かれて「謀反か、何者ぞ」と問われた。
森の乱丸走り出て、惟任反逆の故を言上した。これに信長は「是非に及ばず」と答えられた。

信長は弓を取って矢を数射された。屋代勝助以下が厩より出てきて、相戦って討ち死にした(この勝助は
馬についての目利きで、奥州の者であった)。近習の輩、同じく小姓衆も比類なく相働いたため、暫くは
支えたものの、寄手は大勢である故に、皆以て討ち死にした。

信長は弓の弦が切れたため、鑓を以って戦われたが、その時に右の肘を突かれた。そして内に入り、
女房衆に対し「女は苦しからず、急ぎ退くように」と三度まで言われてから、奥の間に入られた。
その後焼死されたのか、後に御遺骸は発見されず、惟任も不審に思い、色々と捜索させたがその甲斐は
無かった。

『当代記』

本能寺の変について

204 :人間七七四年:2020/07/16(木) 22:09:55.77 ID:4Mxqh86c.net
明智日向守(光秀)はかつて一僕として朝夕の飲食さえ乏しい身であったのを、織田信長が取り立てられ、
坂本の主とし、その上丹波国一国一円を下された。にもかかわらず、かかる不思議(本能寺の変)を思い
立ったというのは是非に及ばぬ(理解の出来ない)次第である。しかし忽ち天責を蒙り、六月十三日に相果て
跡形も無くなった。(この時明智の歳は六十七であった。)

一方、織田信長は近年(天下の)政務を執り行い、無道もこれ無き所に、このように横死されてしまったこと、
偏に(信長の高野聖殺害に対する)弘法大師の法罰が当たったのだと言われた。

『当代記』

205 :人間七七四年:2020/07/16(木) 23:20:14.56 ID:SbkCxOUQ.net
>>204
関連として、太田牛一とフロイスによる本能寺の書きぶりの微妙な違いが気になる
牛一は逃げのびた女房衆に取材している可能性がある
フロイスの場合、南蛮寺が本能寺から至近
ほぼ共通の噂か証言があったと思ってるんだけど

206 :人間七七四年:2020/07/17(金) 22:37:35.86 ID:WYpM/PiB.net
織田信忠は本能寺にて父・信長が明智光秀に襲われたことを聞かれると、自身も父とともに本能寺へ
籠ろうと出られたが、そこに村井長春(貞勝)親子三人が参上し、
「本能寺ははや火が懸かり、事終わりました。また妙覚寺へ帰られるべきでも有りません。
二条の新御所へお籠りに成るのが尤もです」
と言上したため、則ち二条へ移られ、親王若宮を内裏へ移し奉った。しかし寄手も襲ってこないため、
「安土に移られ、その上で惟任を御退治されるべきです。」と各々言上した。
だが信忠はこう言った

「これほどの謀反の企てをする奴原が、どうして京の口々に手を廻さずにいるだろうか。安土に向かう途中で
相果てるのは無念である。徒にここを退くべきではない。」

これに近臣の毛利新左衛門、福富平左衛門、菅屋九右衛門たちが「尤もの御諚」と申したため、信忠の
言うとおりに定まった。

しかし実際には、惟任はこの行動を深く隠密に行っていたため、路地に人を置くと言った事は成されておらず、
安土に移ることは問題なく行えたのであり、これも御運の末であったのだろう。

午刻(午後0時ころ)に及び、惟任は一万ばかりにて押し寄せた。二条に籠もった人々は、坂井越中守、團平八、
斎藤新五、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、猪子兵介、塙伝三郎、飯尾茂介、村井長春親子三人、
菅屋九右衛門親子三人、毛利新左衛門、織田源三郎を始めとして、屈強の衆六十五人、もとより身命を惜しまず
相戦ったため、暫く抗戦が続いたが、その後寄手は隣家に上り弓鉄砲を以て攻めたことで、信忠は切腹された。
鎌田吾郎左衛門が介錯し、その御遺骸は遺言に任せ、焔の中へ入れ奉った。歳二十六であった。

この鎌田は追腹を切ると言ったのだが、どうした訳か終に切らなかった。
右の六十五人の内、討ち死にした者は六十三人であった。
織田源五(信長弟有楽)は逃げ出た。時の人はこれを悪んだ。

『当代記』

207 :人間七七四年:2020/07/19(日) 13:25:42 ID:my2u+8BH.net
徳川家康は堺において本能寺の変の事を聞くと、大和路へ懸かり、高田の城に寄って、城主に刀、並びに
金二千両を下し、その日に出立して、六月四日、三河国大浜に船にて下着され、明智を討つための軍勢を
催し、先ず鳴海まで出陣した。

この頃、羽柴秀吉は美作国高倉(実際には備中国高松)に於いて、森輝元(原文ママ。毛利輝元)と対陣
していた所、信長が没したと告げられ、先ず隠密に森と一和し、摂州表に打ち出て、山崎宝寺上の高山へ
人数を上げた所、明智がかの表に押し出し、六月十三日に合戦した。
明智は敗北し、坂本城に引き上げようと考えていたのか、山科まで逃げ来た所を、百姓等に打ち殺された。
歳六十七であった。

この時、安土に置かれていた明智左馬介はこの事を聞くと、坂本に駆けつけ、明智光秀の男児である十五郎と
一所に火を懸け切腹した。

斎藤内蔵助(利三)は虜となり、京都へ引かれ大路を引き回され六条河原にて斬首された。首は獄門に掛けられた。
この内蔵助は信長勘当の者であったのを、近年明智が隠して抱え置いていたのだという。

家康公は鳴海に居陣していた所、秀吉よりこの様体が委細注進されたため、則ち帰馬され、六月二十八日、
甲州に出馬された。

『当代記』

208 :人間七七四年:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr.net
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

『当代記』

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。

209 :人間七七四年:2020/07/20(月) 19:06:38 ID:AS+ANcNz.net
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 :人間七七四年:2020/07/22(水) 16:29:36 ID:vNuSlIAR.net
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

211 :人間七七四年:2020/07/22(水) 20:58:45 ID:bZEQKy47.net
文禄二年の正月、正親町院崩御の時、諒闇中(天子が、その父母の喪に服する期間)にも拘らず、
関白秀次が鹿狩りをしたことについての落書が有った。

『院の御所 菩提の為の狩なれは 是そ摂政関白の家』

この落書を書いた者は厳重に捜索されたが、その後露見したものの、公家がやったことであったため、
何の沙汰にも及ばなかった。

『当代記』

摂政関白と「殺生」関白をかけたという落書の話ですね

212 :人間七七四年:2020/07/22(水) 21:21:32 ID:pwPPcnwp.net
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 :人間七七四年:2020/07/23(木) 00:27:07 ID:AxVMh1z5.net
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

214 :人間七七四年:2020/07/23(木) 00:37:05 ID:AxVMh1z5.net
>>211
当代記の性格上、秀次貶めて秀吉を上げる必然性が薄い気がする

215 :人間七七四年:2020/07/23(木) 13:18:48 ID:eEqaTPVh.net
まとめの2593
家康と浅野長政、囲碁を通じた友情
の詳しいバージョンが「爛柯堂棋話」という碁関連の話を集めた本にあったので

権現様は囲碁友達の浅野長政とつねづね囲碁を楽しんでいたがある日は負け続き。
対局中、そばにいた本因坊算砂(囲碁の家元・本因坊の家祖)に
権現様が「この石を跳ねるしかないかなあ」と聞いたところ
算砂「おっしゃる通り、跳ねるしかないですね」
と言ったもんだから、そのまま跳ねたところ権現様の勝利。
長政は大いに怒り脇差に手をかけ、算砂に
「今度助言したら討ち捨てるからな!」と怒鳴った。
その後、また権現様が長政のところに来るということで、長政の末子の長重は
「父上、家康公との対局ではわざと負けてください」
と言ったが、長政は
「公相手だからと言って、勝てる碁にわざと負けろというのか?」と立服。
そして庭で毛氈を敷き、二人が対局をしていたところ、長則があらかじめ呼んでいた算砂が
「日差しが強いので傘をさしましょう」
と穴の開いた唐傘を、権現様にとって好手となる位置にちょうど穴からの光が当たるように置き
悟った権現様はそこに石を置き長政に勝利。
長政はむかっ腹を立てたのだった。

216 :人間七七四年:2020/07/24(金) 01:02:10 ID:r3NYavW9.net
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

『当代記』

217 :人間七七四年:2020/07/24(金) 14:28:16 ID:ltGRlQbh.net
秀次は狂犬病に罹ってたからなあ
濃厚接触者が殺されるのはこの時代なら仕方ないことだな

218 :人間七七四年:2020/07/24(金) 22:48:42.24 ID:r3NYavW9.net
文禄二年の春、奈良の近くに不思議な神子(巫女)が現れた(歳十七計也)。
ある時、伊勢御祓笠の上に落ちかかったかと思うと、狂気して水垢離を、日中に百桶計りずつ行った。
そうして、井垣を結い注連縄を張り、其の身は高き所に居た。

さて、彼女を詣で来る者があると、その病はたちどころに平癒し、痛みのある場所は、神子がその手を以て
さするとそのまま治った。こうして彼女のもとに貴賤の群衆する事大変なもので、問う者が心に思ったことが、
この神子が先立ってありのままに語り申した事と少しも違わなかったという。

其の頃、彼女は懐妊し、その年の冬が終わって誕生したのは狐であった。これを見てかの神子は死んだという。

『当代記』

219 :人間七七四年:2020/07/24(金) 23:20:45.99 ID:gVjjP19o.net
後の安倍晴明…ではないのか

220 :人間七七四年:2020/07/25(土) 10:50:40 ID:Wt6Icxx8.net
狐の化身だからクズジャップは卑怯なのね
仕方ないね

221 :人間七七四年:2020/07/25(土) 10:55:39 ID:hW2gAZYG.net
にほんご おじょうずですね(^^)

222 :人間七七四年:2020/07/25(土) 13:05:16 ID:xqSHVabN.net
ヒトモドキのジャップよりは上手だよ

223 :人間七七四年:2020/07/25(土) 18:45:07 ID:vYA16XYj.net
長篠の戦い、1人だけ初期装備の奴が紛れ込んでいた

https://i.imgur.com/M2zcsKI.jpg
https://i.imgur.com/XdUkDmB.jpg

224 :人間七七四年:2020/07/25(土) 19:26:49 ID:pIf84oRg.net
上級武士の馬やその時すぐに使わない武器を預かったりする中間(ちゅうげん)

225 :人間七七四年:2020/07/25(土) 22:19:35 ID:tr+RCr6r.net
文禄四年、この頃京都の傾城達が召し上げられ、そのうち五人が太閤秀吉に召し遣わされた。江戸内府公(家康)、
加賀大納言(前田利家)にも二人ほどが「召し遣われるように。」として遣わされた。
その他の人にも下された衆は多かった。

これら傾城の中に。歌舞、躍りが難渋な美女一人が有った。彼女にその仔細を尋ねた所、
「賤しからざる親類が多く、外聞を思ってのことである。」と言った。

これについて、彼女の兄弟に問うた所、「これ以前に二度まで身請けをして召し直したのだが、両度ながら
又再び傾城屋へ走り入ったため、是非に及ばぬ。」と言上した。

これによって、彼女は磔に掛けられた。(然は則はり付に被掛)

『当代記』

226 :人間七七四年:2020/07/25(土) 23:27:39 ID:5C7FkWSG.net
>>218
てっきり小田家の陪臣が誕生するのかと思った

227 :人間七七四年:2020/07/26(日) 16:14:11.92 ID:XhsgPfgt.net
>>223
>>223
その初期装備の奴の上で
部下(志村又左衛門)が主人(山県昌景)の首を敵に取らせないため抱えて退こうとしてるけど
初期装備の奴も前で倒れてる武者を後送するべく飛び出してるんじゃないの
仮にそうだとすれば奉公人の鑑の図

228 :人間七七四年:2020/07/26(日) 22:10:46 ID:RRjL16Sp.net
慶長二年の春、京都四条に太閤秀吉は新構の普請を行ったが、地の利が狭かったため、また白川出口に
普請をやり直した。町人たちはそれぞれ家を壊され迷惑した。

この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。庶民はこのため迷惑した。

『当代記』

豊臣政権の20%の消費税という奴ですね。

229 :人間七七四年:2020/07/26(日) 23:01:11 ID:QPPTvxSv.net
いまでも苦労しているのに、どう徴収したのかね
ただでさえ商人層への課税がずさん、なんというなら実態に伴わぬ上納の時代なのに

230 :人間七七四年:2020/07/27(月) 11:42:25 ID:NP47T+CV.net
想像を絶するルーズさなのにな
焼き討ちでもして強奪したんだろうか

231 :人間七七四年:2020/07/27(月) 14:04:06.65 ID:boxqkpvD.net
>この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。
なんていっても、各町の代官が個別の商人の売り上げなんて把握してないだろうから、
各町の商人衆が、「あいつは大体これ位儲けてたから」といった感じで仲間内で税負担を割り当てて、
決まった時期に一括上納とかいった感じだったのかなぁ?

232 :人間七七四年:2020/07/27(月) 20:07:16.03 ID:kxCvGttO.net
その為の座、株仲間、町会所やろ。

233 :人間七七四年:2020/07/28(火) 12:32:44 ID:hUBmOpWK.net
大谷刑部少(吉継)は内府公(徳川家康)に別して忠信であったのが、此の度の謀反(関ヶ原)に加担したのは
どういう事かと言えば、去る頃、宇喜多中納言(秀家)が家老の衆と主従の間で騒動があり(宇喜多騒動)、
大谷は中納言の理を専らに言い立てた。一方内府公は家老の者たちの主張を支持し、この事について
「大谷は批拠(比興)を申す」と宣われた事によって、この如く成ったのである。

『当代記』

234 :人間七七四年:2020/07/28(火) 13:00:12 ID:KZU+Tqw3.net
あー、これが関ヶ原であいつマジでなんで西軍についたのか意味わからんけど
直近であったの宇喜多騒動くらいだし、多分これだろうなーって言ってるやつかー

235 :人間七七四年:2020/07/28(火) 23:19:27 ID:4CFfuyEu.net
知性のかけらのない知恵遅れのレスなのが明らか

236 :人間七七四年:2020/07/29(水) 13:33:05 ID:D/tYIpMV.net
慶長元年、春中雨細々と降り、五月中旬より六月二十六日まで露(梅雨)に入った。
この春は雪が節々と降り、四月四日にも雪が降った。

五月九日、尾濃で洪水。六月十九から二十三日、甲信関東で洪水。百年以来の大水と言われた。
知行の損亡は数を知れず、武州の内葛井(葛西)・浅草にて、人三、四百人が溺死した。
その他牛馬も数を知れず死んだ。この時節も、上方にはさほどの事はなかった。

六月二十七日から七月七日まで旱。翌八日よりまた降雨。六月十四、十五日頃彗星出る。
七月二十八日より閏七月二日まで旱。翌三日より九日まで降雨。この九日に俄に水が出て、
山崩れ人が死んだ。この水は所による。

閏七月十二日の夜、子の刻(午前0時頃)に、上方大地震。京中は三条より下、伏見まで家損人死、
上京は無事であった。
伏見御城中にて上臈七十三人、中居下女五百人が死んだ。一の門、三門の番衆は、門が崩れ悉く死んだ。
この時太閤(秀吉)は中の丸に御座在ったが、その身は無事であった。
諸大名の家々も倒れた、人が死ぬこと限りなかった。

大阪、堺も同前で、伏見城殿主石垣は一つも残らず崩れた。大仏殿は無事であったが、中の大仏は
破損した。愛宕山坊中も倒れ、所々より上がった真壺(ルソン壺)の過半も破損した。
この六,七月、閏の間、上方は降雨で。五穀豊かに実った、
この地震で、関東駿遠、何れも東では揺れなかった。

前の七月の浅間山の噴火のように、西の方に噴煙が流れ、これ故か、近江、京伏見ではその頃
灰が細々と降り、それ故か秋毛は少々凶作と云われた。信濃などではこの灰が一寸ばかり積もった。
関東には灰は降らなかったが、但しここでも同秋凶作と云われた。

『当代記』

慶長元年の災害について。

237 :人間七七四年:2020/08/01(土) 01:16:07 ID:5HHCEv4P.net
慶長七年、六月朔日より伏見の普請があり、上方の諸大名が伏見に在した。
同月十日頃、南都(奈良)の蘭奢待について、内府公(徳川家康)が、使者を以て見たいと伝えた。
またこの頃勅使が遣わされ、かの蘭奢待を切りたいという旨の内意がしきりに伝えられたのだが、
これを切れば余命が幾ばくも無くなるという言い伝えによってこれは止んだ。

この蘭奢待というものは、”をふらん”という沈香である。蘭奢待というのは、本来そう言う名前ではなく。
言い習わしたものである。この”をふらん”と併せて、紅塵(紅沈香)という沈香がある。これらは
何れも勅封蔵に有る。

『当代記』

蘭奢待を切ったら余命幾ばくもないというのは、信長が前例に成ったんですかね。

238 :人間七七四年:2020/08/01(土) 08:18:36 ID:6CYBmUaK.net
沈香を愛でることを「をふらんす」といい沈香国フランスの語源となった

239 :人間七七四年:2020/08/01(土) 18:43:07 ID:M3sPawsy.net
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫(徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。

240 :人間七七四年:2020/08/05(水) 15:29:32.80 ID:fc52C7bB.net
お年頃慶長九年の夏、高麗からの使いとして浄雲大師という僧が来た。彼は家康公が関東へ下向された後に
京に到着し、そのため翌年の春まで在京した。そして家康公の意向を得て、高麗へ帰朝した。

かの使いによると、先年秀吉公が軍勢を渡らせたことで、明朝より高麗に防衛のための軍勢を置いたが、
この番手の衆が大変に狼藉を働き、このため大いに迷惑しているのだという。
日本より再出兵の事がないと極まれば、明朝の衆を相返し、前々の如くしたいという事である。

『当代記』

241 :人間七七四年:2020/08/06(木) 15:47:27 ID:C4BZS9Kg.net
自分から防衛力を削減したいからと仮想敵国にお伺いを立てる、て間抜けな話だと思うが
家康に再出兵の意思がなかったからよかったものの

242 :人間七七四年:2020/08/06(木) 16:36:58 ID:R/RiIQk5.net
慶長十年五月の七、八日頃、大阪では下民がしきりに荷物を運び出そうとし、人心が非常に動揺していた。
これはこの頃、徳川秀忠の将軍任官の祝儀として、豊臣秀頼公が伏見に上がられ、その上で上洛して頂きたい
との事を、右府家康公の内存があり、この旨に京都の大政所も従った。これは故太閤の北政所である。
そして大阪にこれを伝えた所、秀頼公の母台(淀殿)はこれを拒否し、

「そのような儀は有るまじき事である。もし達ってその儀に及べば、秀頼公を生害し、我が身も自害する。」

と頻りに宣われたため、これを聞いた下民達は大変に慌てふためいたのだ。
また秀頼公が伏見に上がられるのは勿体ないと、上方大名共の中より、大阪に内通した者もあると
噂された。これによって秀頼公の上洛は引き延べとなった。

『当代記』

243 :人間七七四年:2020/08/07(金) 01:18:43 ID:6BAWdgA3.net
慶長十年の春、日本国の船がルスン、トキン、シヤムロへ売買のために渡航したが、どうした訳か
一艘も帰ってこなかった。これらの船は、或いは岩礁に当たって破損した、或いは喧嘩をして殺害
された、などと云われた。また船の財貨を取るために、かの島々の輩が打ち殺したのだ、とも云われた

また去年、エゲレンという所の者共、黒船(スペイン船)を押し取った(拿捕した)所に、日本の商船が
参って商売をし、過分の利を得て帰朝した船があった。これはルスン、西シンチウという所での事で、
それは「たちうりの桔梗屋の道圓」という者であった。

京の町人たちはそれを羨み、この春、船を多数遣わしたのである。

『当代記』

244 :人間七七四年:2020/08/07(金) 07:28:48.38 ID:a5ACnNha.net
>>241
沖縄で狼藉を働く米兵のために中国と親交を持とうとする知事の努力をお前らバカウヨは軽視しすぎ

245 :人間七七四年:2020/08/08(土) 10:20:39 ID:ZbomlZDL.net
>>243
リスクの高い商売だなあ
こんなの山師しかやらんわ

246 :人間七七四年:2020/08/08(土) 13:42:06 ID:tOMNHB9o.net
保険が海運から始まったのもうなずけるな

247 :人間七七四年:2020/08/08(土) 15:42:41 ID:AJDrik4d.net
慶長十一年正月二十日頃、当時筑前の国主であった田中兵部(吉政)の息子・主膳(吉信)(歳二十計り)が
召使っていた小姓を切ろうとした所、小姓が却って主膳を切り殺した。惣別、この主膳は心中違乱にして、
人を手討ちにすることを好み、それまでに五十三人を切ったと云われる

『当代記』

248 :人間七七四年:2020/08/08(土) 18:48:30 ID:D/lgoKCq.net
>>245
>>246
大航海時代にヨーロッパから新大陸やアジアに行って帰ってくる船って、無事帰ってきたら利益率数100%ってレベルだったしな
マゼランの船団も5隻中1隻しか帰らなかったけど、その積荷だけで5隻分の経費を賄ってさらに儲けが出たっていう

249 :人間七七四年:2020/08/12(水) 16:50:43.48 ID:4yYz9Hx3.net
慶長十二年六月頃、九州島津の使者が駿河に下り、駿府に在府中に、船に乗り遊君を召し連れ遊んだ。
酒興のあまり、見苦しきことも有ったのだろうか、当時駿府の普請を行っていた普請衆がこれを見て
嘲り笑った。

薩摩国の習いは硬口であり戯言を知らず、笑われた事を恥辱と思い、喧嘩を仕掛け闘争に及んだ。
それぞれの小者たちは退散したが、池田三左衛門(輝政)家中の者たちは残り留まって戦い、島津の使者を
搦め捕った。

後日これは追放されたが、かの者は恥辱であるとして、切腹するので、相手も成敗されるようにと
奉行衆に届けた。奉行衆は「この事は我々では治めがたいものです」と徳川家康に言上した。

こうして池田三左衛門家中で、この時の普請物主と、島津の使者、両人が成敗された。

『当代記』

喧嘩両成敗ですね。

250 :人間七七四年:2020/08/12(水) 17:03:28.69 ID:NzwLtqdx.net
江戸末期とやってること変わらんのか

251 :人間七七四年:2020/08/12(水) 18:21:21 ID:mb3/KsK0.net
島津とかいう蛮族

252 :人間七七四年:2020/08/12(水) 18:21:46 ID:tsLUhoru.net
薩摩弁と播州弁(尾張弁?)の喧嘩か

253 :人間七七四年:2020/08/12(水) 20:09:10 ID:z6EQmOdD.net
わいの先祖。
近江の土豪で蒲生氏郷に使え会津まで付いてくも、当主の早死にが続き減封でリストラ。
運良く近江の名家京極家にデューダするが関ヶ原で大津城籠城に参加し、落城落ち延びる。
またまた運良く親戚が有力大名に使えててその縁で再就職。その親戚が大阪の陣で大活躍して永代家老職になり、先祖安泰。
しかし有力大名が粗相して切腹。わいの先祖は討ち入りに参加。
おとんは長男には秘密にして次男は養子にだして御家存続を図るも、いざ集合場にいったら家族三人勢揃い。お家はなくなっちゃいました。

254 :人間七七四年:2020/08/12(水) 21:04:07 ID:mb3/KsK0.net
デューダするって21世紀になって初めて見た気がするw

255 :人間七七四年:2020/08/12(水) 21:05:14 ID:v7GOyqug.net
奉行に届けてるだけ理知的だなって思ってしまった

256 :人間七七四年:2020/08/12(水) 21:17:50 ID:tsLUhoru.net
>>253
間喜兵衛か

257 :人間七七四年:2020/08/14(金) 01:21:01.84 ID:5qQQ85oq.net
慶長十二年7月頃、多武峰大織冠(藤原鎌足)の木像の身体が腫れ、膿んで血くさかった。
七十年前にもこのような事があり、これは天下の凶事であるという。

いつもこのような事については、大和国丹波市という所より、青蓮院に注進して、そこから
朝廷に奏文あるのが作法であるという。今回もこれにより、勅使を立てるべきと成ったのだが
しかし勅使を立てて験が無ければ二度と帰京できない作法があり、使者に成ることを各々辞退した。

またこの山奥で、夜々に城を攻めるような物音があった。これは天狗の仕業と云われた。

『当代記』

258 :人間七七四年:2020/08/14(金) 01:37:32.79 ID:zVEmdrKj.net
>>257
大阪冬の陣まではちょっと間が開いてるなぁ

259 :人間七七四年:2020/08/14(金) 09:06:25 ID:zMp4EMZd.net
高谷知佳「「怪異」の政治社会学」によれば
鎌足像の破裂はもともと鎌足像のある多武峰妙楽寺が興福寺との争いが起きたときに
「大織冠像が破裂した、お怒りになられているから多武峰に有利に裁定すべき」と発信していたのが
いつのまにか多武峰とは関係なく社会不安が起きたときに「破裂したんじゃないか?」「破裂したそうだ」と噂が広まるようになった。
なお破裂と言ってもヒビが入っただけなので気温湿度の関係で普通に起こりうることだとか

260 :人間七七四年:2020/08/14(金) 09:11:19 ID:zMp4EMZd.net
ついでにこの慶長12年の破裂(最後の破裂)をきっかけに後陽成天皇の要望で広橋兼勝が「大織冠破裂集」を編纂している

261 :人間七七四年:2020/08/14(金) 15:32:16 ID:1KuHNIZk.net
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」

262 :人間七七四年:2020/08/14(金) 21:23:11 ID:h/4i2y9k.net
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?

263 :人間七七四年:2020/08/15(土) 07:51:45 ID:9aPcvoDD.net
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える

264 :人間七七四年:2020/08/15(土) 10:24:31 ID:b1boNngP.net
あるわけねーじゃん

265 :人間七七四年:2020/08/15(土) 10:24:36 ID:jjtTjOVp.net
慶長十一年五月二十五日、酉刻の終わり頃(午後七〜八時頃)、伏見に光物があった。唐傘ほどの光物が
城より出て、豊後橋の通りあたりで落ちた。その後に小さな光物が同じように出て、同じ通りに落ちた。

また同月十三日に、伏見古宮より挑灯程の光物出て、これも先の通りに行き落ちた。
又加藤主計頭(清正)の屋敷より、行燈程の光物が出てすぐに落ちた。
愛宕山にも唐傘程の光物が有ったと、今日の町人たちは云った。

又、「やぶれ車」という変化の物が京中にあり、これは車が通る音がするが、その方向を見ても目には
見えない物であった。
昔年に二度このような怪異が有ったが、二度とも凶兆であったという。

『当代記』

謎の発光現象についてのお話

266 :人間七七四年:2020/08/15(土) 10:42:47.13 ID:C5/zy7y4.net
なんかの実験やろ

267 :人間七七四年:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS.net
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?

268 :人間七七四年:2020/08/15(土) 18:31:39 ID:xyBB9vwz.net
怪奇発光現象なら沖縄の話も
時代背景は1500年から1520年くらいの宮古島

沖縄の琉球時代の歴史書『球陽』第3巻

【宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す。】平良の北、務田川、夜半に至る毎に、音響地を揺がし、光輝天に沖して人民畏懼す。
鯖祖氏豊見親玄雅、彼の地に往き去くに、音弭み光滅して一物有ること無し。曙天に至るを俟ち満処に巡到し、心を用ひて之れを見るに、
只一剣有るのみ。豊見親、大いに之れを奇怪とし、此の剣を収獲して回る。此れよりの後、祥光門を?め、瑞色戸を繞りて一点の災殃有ること無し。
豊見親、深く之れを珍重し、以て伝家の宝と為す。後日に至り、深く此の宝剣の凡人庸民の得て宝とすべからざるを念ひ、嘉靖壬午、豊見親、
朝覲入貢するの時、此の宝剣を捧げて中山に至り、聖主に奉献す。公務全く竣りて島に帰るの時、?に逆風に逢ひて八重山に漂到し
、?を多武田礁に破り、人皆溺死を致す。豊見親、浮びて海面に在るのとき、忽ち一大鯖来り、豊見親を負ひて海浜に至る。豊見親、
以て上岸に便す。即ち水梢を?ひ小舟に坐駕して本島に帰回す。翌年の夏、亦中山に入覲し、恭しく金銀簪二(金鳳銀茎一・獅銀茎一)
・白絹衣裳を賜はりて帰島す。


この宝剣が国宝「琉球国王尚家関係資料」の一つ、脇差「治金丸」と言われています

また、タイトルの宮古山は宮古島のことですが、琉球では島を山と呼ぶ習慣があったようで
石垣島の別名の八重山もその一つですね
八重山島じゃなくて八重山だけでいいわけ

なお文中にあるようにこの一族は大サバに助けられたとの伝承からサバを大事にしたそうで

269 :人間七七四年:2020/08/15(土) 20:18:12 ID:jjtTjOVp.net
慶長十三年、
ここ二、三ヶ年以前より、たばこと云うもの、南蛮船によって来朝して、日本の上下これを専らとし、
諸病気もこれによって平癒すると云われた。

しかしながらこれを喫する者で、悶絶して頓死する者が多かった。また南蛮より医師が来朝して曰く、
このたばこを吸う者は発病しても、薬を与えるべきではないと云われた。
たばこのことは医書に書かれておらずこのように云われた、我が朝の医師も同じであった。

(中略)

土方河内守(雄久)が江戸に於いて病死した。日頃よりたばこを用いていた故に、喉が破れ相果てたと云われる。
彼は尾州内府(織田)信雄(信長公二男)無双の臣下であった。

『当代記』

270 :人間七七四年:2020/08/15(土) 20:30:13 ID:bJUfZJhj.net
ちなみに豊見親は宮古島周辺特有の豪族の称号で、沖縄文化圏では
沖縄本島の按司や奄美大島の大親といったものがありました
なのでこの人の名乗は仲宗根豊見親、もしくは仲宗根玄雅になります

沖縄本島には山北、中山、山南の三王国がありましたが、
これも本島を一つの山と見なした表現という説もあるよう


そしてこの宝剣の話は過去記事の「戦国時代の空手マスター」に続きます

271 :人間七七四年:2020/08/15(土) 21:19:34.63 ID:5EtuP/f0.net
>>265
>>268
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

272 :人間七七四年:2020/08/15(土) 22:38:53 ID:C5/zy7y4.net
おい天狗、>>257を無視するとはどういうことだ?

273 :人間七七四年:2020/08/15(土) 23:03:30 ID:zoLp/gsL.net
そうそう、この鯖というのはこの時代琉球の表記で
実際は鮫のことらしいです

274 :人間七七四年:2020/08/17(月) 13:45:51 ID:0v9Fzqga.net
慶長十四年正月十五日、近日大御所(徳川家康)が清須に到着されるとのことで、清州城の掃除が行われた所、
殿主上の段の戸が開かず、無理に押し開けた所、中に人が在った。
この者はかきの手に輪違の紋を付けたものを着、鑓を二つ研いでいた。この者を糾問した所、尾州内の
さなけの者と申した。盗人というわけでも無いので、しばらく成敗もなかったが。それから十四、五日で
死んだ。

『当代記』

275 :人間七七四年:2020/08/17(月) 17:08:37 ID:t/O/HVhh.net
>>274
なんだこれ
猿投の人

276 :人間七七四年:2020/08/18(火) 07:33:13.17 ID:P04Wn4jn.net
信長の遺児か

277 :人間七七四年:2020/08/18(火) 12:28:18.97 ID:bGaHe4v0.net
慶長十四年二月二十九日、伏見に於いて中坊飛騨(秀祐)が殺害された。

去年の夏、彼は伊賀国主の筒井(定次)を駿府に於いて讒言したのだが、この時彼はまさに筒井定次の家臣で
あったのにそのような行為に及んだため、彼は是非に及ばぬ逆臣であると皆指摘し、憎まぬ者は居なかったのだが、
その天罰を蒙ったのか、このような横死に逢った。

その様子は、伊賀守(筒井定次)の被官で山中という者があり、主人が牢人した後、伊勢国の九鬼長門守の元に
居たのだが、旧友であった中坊の所に着て、夜更けまで語り合い、その後中坊は奥に引き入り就寝した。
かの山中は中坊の息子と共に寝た。この時、何者の仕業か中坊は首を二刀切られた。

家中の者たちは全くこれを知らず、中坊は普段、夜半に必ず薬を用いていたのだが、この日はいつもの時間が
過ぎてもこれを求める言葉がなかったので、女房が障子を開けてみた所、そのように殺害されていた。

筒井伊賀守の身上はこの中坊の讒言によって相果てていたのだが、中坊が不慮に相果てた事は、伊賀守にとって
さぞ心地の良い事だっただろう。伊賀守は無足で、当時江戸に籠居していた。

(中略)

中坊を殺害した者が、伏見町に札を立てた。その書に曰く、
『我は伊賀守譜代の者なり。主君の鬱憤を散ずるため、中坊を伐った。この後、また中坊の息子を伐り、
その後まかり出て切腹する。』
と有った。

『当代記』

278 :人間七七四年:2020/08/18(火) 21:28:59 ID:LMf5WF5a.net
中坊ってホント身のほど知らずだよねー

279 :人間七七四年:2020/08/18(火) 23:57:58 ID:rP7c6Hcr.net
脱糞に近い権現様の失態

『利家夜話』
太閤秀吉が坂本の古城跡へ鷹狩りに赴いた。家康や利家はじめ、大名が軒並み参加した。
そのとき、平塚という者が鳥を手づかみにして、秀吉はたいそう機嫌がよかった。
すると、にわかに雨が降り出し、坂本に移動した。
みなが馬でお供したが、家康は「(水をはじく仕様の)油道服」を着ていたが、風で服がばたばたして音がにぎやかに立ったため、馬が驚いて落馬したようだった。
その夜のお話で、秀吉は「家康に似合わぬ濡れようである。大事な油道服を着ていても、それではねえ」と仰せられた。
利家は合羽を着ていたが、何事も問題はなかった。

280 :人間七七四年:2020/08/19(水) 11:25:56 ID:TmuzvyYg.net
家康は脱糞したのを隠すために焼き味噌と称して家臣の前で平らげた神君
三河地方では今でも焼き味噌と称した人糞が珍味として伝承し、うんこブームにのっかって子供たちに親しまれている

「日本の食糞紀行」より抜粋

281 :人間七七四年:2020/08/19(水) 17:00:46 ID:7HYm4Hbx.net
>>279
利家夜話って前田利家の家康への対抗心が異様に書かれてるよね

282 :人間七七四年:2020/08/20(木) 20:06:53 ID:m4rp9N8O.net
佐多岬、宇和島城いってきた
https://youtu.be/rU-jNScaFpU

283 :人間七七四年:2020/08/20(木) 20:48:00 ID:96SZy5U2.net
『祖父物語』から
有名な話でほかの文献からのまとめ記事がありますが、一応。本能寺後の津田信澄の話。いろいろと記事では混乱が見られますが、そのまま記します

津田信澄が明智光秀の指示で大坂に赴いたのは、織田信孝と丹羽長秀に腹を切らせようとしてのことだった。
信澄は織田信勝の嫡男で、明智の婿だった。大坂天王寺の千貫櫓にいた。長秀は玉造、信孝は京橋口乾の角櫓にいた。
夜中に信孝の小姓が1人で長秀宅に向かい、「信澄の内々の用意では、信孝と長秀が明日、弔い合戦に出るところを討とうというはかりごとで、京橋に人数を出すと聞いている」
長秀はそのとき、「ずいぶん早いお出でですね。私も信孝様のところに参って御意を得ようと考えていたところです。明朝、弔い合戦に行く名目で軍勢をそろえてお待ちください。私が鉄砲を2発撃ちます。そのとき、采配を取って千貫櫓を攻撃してください。信澄の軍勢が京橋に出るのは幸いなことです。信澄の周りには侍200人ほどがいるでしょう」
打ち合わせの通り、翌朝長秀が鉄砲を2発撃つと、信孝が采配を取って千貫櫓に攻めかかり、即座に信澄の首を取り、堺にてさらし首にした。
「味方の者どもは信長公に(名誉の討死に?)遅れ、士気が落ちているので、まずはこの首をさらし、味方の勢いをつけるがためにやったのだ」と話していた。
信孝が弔い合戦に出陣したとき、信澄の首を板に打ち付け馬印のごとくにして持ち歩いていた。
池田恒興と羽柴秀吉はこれを見て、「お手柄、吉報です。必ずや明智は力を落とすでしょう。明智には子供がいないので天下はこの人に譲るものだと思っていました。お手柄です」と「殊ノ外ホメ奉ル」。

284 :人間七七四年:2020/08/21(金) 08:52:09 ID:CFIrcChl.net
秀吉も子がいないから秀勝を殺せばよかった

285 :人間七七四年:2020/08/21(金) 20:58:15 ID:31c7bMi9.net
慶長十一年六月二十七日、安芸国厳島の祭事にて、そこの代官である山本小兵衛という者がこの祭りの場で
狂気して、七日の間物に狂い、たちまち滅した。
この厳島の社領は、毛利輝元の時代は三千石が寄付されていたのだが、去る子年(慶長五年)、
福島左衛門大夫(正則)が拝領して以降、これらは悉く取り放たれ、まったく寄付が無く、下民たちは
代官の狂気を「その祟である」と言い合った。

福島左衛門大夫の息男が死んだのもこの神罰であるとして、この年よりわずか五十人扶持を寄付したのだとか。
その上で、末社の堂宇、并びに鳥居一つを建立したという。

『当代記』

286 :人間七七四年:2020/08/21(金) 21:33:31.18 ID:D1gAgxaA.net
慶長12年に乱行が目に余るとして正則に幽閉されて
翌年没した正之の死が神罰?

正則にしてみたら養子(正之)が死んで実子・忠勝に跡を継がせられるわけで神罰と言えるのかどうか

287 :人間七七四年:2020/08/21(金) 21:56:55.20 ID:HXX7KAOx.net
察しのいい子は嫌いだよ

288 :人間七七四年:2020/08/21(金) 23:08:05 ID:dX0iVFsh.net
まあ、徳川バンザイで豊臣系にはとことんきつい表現をする当代記だから…

289 :人間七七四年:2020/08/22(土) 20:44:00 ID:sTKKz/hx.net
寄付しないと祟りが〜っと言って金を貰ってそう

290 :人間七七四年:2020/08/23(日) 16:05:28 ID:cj6DY8oA.net
慶長十四年、奈良の猿澤の池を十月十五日より水を変え、11月四、五日頃、魚を一方の
水のたまりに寄せ、主池を掃除し、二十二日に小川の水を入れた、この時、魚などが十荷ばかり死んだ。

これは一乗院の夢のお告げによるものであったが、この事は不吉の例であると云われた。
昔年、八十年以前にもこのように池を変えして天下凶であった。
また去る永禄十年に、この池の水を変えたという。
その翌年、天下大乱となり、これによって三好(天下主)家は滅亡した。

『当代記』

291 :人間七七四年:2020/08/23(日) 18:31:15 ID:TF5XdP9b.net
一方信長は池に大蛇が出るという噂が出ていたため
池の水を抜いて、いないことを実証した

292 :人間七七四年:2020/08/24(月) 05:14:25 ID:VJwm7SWo.net
>>256
マイナーなのによく分かるな。すごい。

293 :人間七七四年:2020/08/24(月) 05:22:16 ID:QSQhjnbz.net
関ヶ原で落ち延びる某武士を保護して、お礼に脇差貰い大事に保管するも郷土の歴史研究家の取材に応じたせいで、
銃刀法違反で取り調べと、脇差の持ち主の子孫から返還要請、武士の菩提寺から寄付の要請。
嫌な世の中。

294 :人間七七四年:2020/08/24(月) 08:18:02.20 ID:ffH8nQ+E.net
むしろ晴れて因縁が消えてよかったんじゃね
使用された刃物持ちの家系は不幸が多いって言うし

295 :人間七七四年:2020/08/24(月) 08:38:07 ID:KAicSMY6.net
>>290
一度に水を大量に替えたから
温度変化やpHショックで落ちたんだろ
もっとお魚さんに優しい換水しろ

296 :人間七七四年:2020/08/24(月) 17:21:29 ID:Wzvp7A45.net
>>292
47人のうち一家三人参加で考えると間家しか

297 :人間七七四年:2020/08/26(水) 11:39:41.61 ID:c/kOnlNb.net
慶長十五年の六月頃、丹波国亀山の普請中に、薩州島津龍伯(義久)の弟が丹波国に従い、
そこで煩い付き、伏見に着いたところで病死した。

これは去る庚子の年、美濃国関ヶ原合戦の時、兄の兵庫(義弘)退散の時、負傷し馬も離れ、
歩いての進退も叶わず、死人の上に倒れ伏せた所、奇特の夢想があり、かの夢に云わく
『これより東へ下り、木食(穀絶ちの修行僧)と成り年月を送れ』とのお告げであった。

そうして稀有にして命を全うして関東へ下り、夢想の如く木食となって十ヶ年を経て、去年の春
薩摩に帰国したのであるが、見知った者も無く、これまでの経緯を人に語っても、彼は関ヶ原の
合戦で討ち死にしたと云われており、なかなか思いもよらぬ事であったので、これを本気にする者も
なかった。しかしよくよくその様体を見るに、似ている所もあったので、還俗させて見た所、
紛れもなくその人物であった。

この事は龍伯、并びに又八(島津忠恒)に申し届き、対面して往時を語り落涙した。
さて所領を遣わしそこへ居住した所、今度の不慮の煩いで死去したのだという。

『当代記』

この「弟」が誰に当たるのかはよくわかりませんでした

298 :人間七七四年:2020/08/27(木) 23:42:02 ID:+of7yAKA.net
『多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500〜600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 :人間七七四年:2020/08/27(木) 23:42:56 ID:+of7yAKA.net
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000〜7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ

300 :人間七七四年:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W.net
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも

301 :人間七七四年:2020/09/01(火) 12:59:56 ID:xeG/Ao3Q.net
慶長七年三月二十三日、岡本大八という者、親は江戸に在住していた。
この大八は九州長崎の有馬修理(晴信)を駿府に於いて取り持つ物であった。

彼は有馬修理に、修理方より金銀を差し越され、これを各年寄衆、并びに女房衆に彼の取成しを以て
遣わせば、九州鍋島の知行地のうち三ヶ所を申し請けることが出来ると有馬修理に対して偽りの報告をし、
有馬はこれを真と心得、金銀を大八方に渡した。
しかし素より偽りの謀であり、何の沙汰にも及ばなかった。

有馬修理が、大八が金銀を得て私に領した事を言上すると、この二十三日に安倍川原において
火炙りと成った。

(中略)

大八罪過の砌、大八は
「大御所に従い、長崎で唐船の糸やかれこれについての使いとして遣わされていた長谷川左兵衛(藤広)を、
有馬修理は闇討ちしようとした。」と白状した。

このため有馬修理は大久保石見守(長安)に預け置かれ、その後甲斐国郡内に遣わされた。
彼の子息である左兵衛(直純)は、この科に関係がないとして、有馬家の本領は安堵され
前々のごとく長崎に居住した。

五月七日
有馬修理(九州長崎主)は去る月より甲斐国都留郡に置かれていたが、「殺害に至るべし」と
大御所よりの命が下った。

『当代記』

岡本大八事件について

302 :人間七七四年:2020/09/01(火) 19:08:42 ID:djEvD4BS.net
直純は家康に近似していた縁で家康のひ孫を嫁に貰うけど、小西家の嫁を離縁してるんだよね
そして後年キリスト教から改宗した直純は年端もいかない異母弟たちを殺すことになるんだっけか

303 :人間七七四年:2020/09/02(水) 12:55:41.74 ID:mp1XH7OT.net
慶長七年四月二十三日
昨今雷の音が数回聞こえた。当春のいわゆる初雷である。

周防国に怪異が有った、ある民家において、一人の人物が旅程の道行きであるらしく、ここを客として
宿を借りた。
民家の台所方は膳部を用意したのだが、この人物が下人に言い伝える声は聞こえても、姿は見えなかった。

不審に思い、民家では地頭方に注進し、地頭が来てみたが、確かに言われたとおりであった。
この姿の見えぬ人物に対し地頭は「振る舞いをしてみん」として招いた所やって来た。彼は膳部、酎酒以下
常の人の如くの食事であった。然れども姿は全く見えなかった。

地頭は「これは怪物である」と考え、犬の逸物共を十疋ばかり取り寄せ、中に入れて戸を閉めた。
すると犬たちが戦慄して喚く様子が伺えた。そこで戸を開けて犬を見てみると、犬たちは殊の外
打擲された様子であった。そしてその座敷には、犬を打つ杖などが幾つも有った。
その後、この客はこう言った
「私を狐狸の類と心得るのですか?言わずともわかるでしょう。」

そして元の宿である民家に帰り、その上振る舞いの礼謝として、錫の酒器を贈った。
この酒は甚だ美酒で、さらに人が多く集まって飲んでも。この錫の酒器の中の酒は盡きなかったと云々。

『当代記』

結局どうなったのか良くわからない慶長七年の透明人事件

304 :人間七七四年:2020/09/02(水) 15:42:38.50 ID:GXwxnttv.net
タイムスクープハンターだろ

305 :人間七七四年:2020/09/02(水) 21:52:47 ID:EkTrbIWX.net
見聞談叢より 島原の乱について

天草四郎が大将になったのは二十三歳の時だったと聞く。十九歳まで道春先生の学校で
学び、孔子の門人の子路を慕って四郎と名乗ったという。死んだときはまだ角前髪だっ
たとのこと。四郎は幻術を学んでいて、伊豆守様へ大きな菓子折りを差し上げた。
開けてみると蒸したての湯気をあげている饅頭だった。伊豆守様は「彼がよこしたもの
は不信である」と仰り、周囲の者たちに「一口も食べてはならぬ。捨てさせなさい」と
厳しく命じ谷に捨てさせた。翌日部下に見に行かせると、馬沓であったということだ。
私の外祖母妙清孺人は寛永三年に生まれ、島原落城の時八歳、享保九年甲申九十九歳
にて亡くなった。天草のことは平生よりお話なされ、落城の日の西の矢倉から撃つ
石火矢の音は今も耳に残っていると言っていた。立ち退く時に崑崙奴(くろぼう)が
大勢船端へ水を汲みに行くのを恐ろしく思ったとも話していた。その外の話は些細な
ことばかりだった。

崑崙奴はアフリカ系ではなく南アジア系でしょうかね。何で大勢いたんだろう。

306 :人間七七四年:2020/09/02(水) 21:55:37 ID:nhGZs0se.net
『老人雑話』から2話。豪放磊落な人と秀吉の底意地?の悪い話

織田信長の家臣、市橋下総守(長勝)は「放狂の者」だった。(名門である)若狭の武田家より信長に使いがあったとき、(武田家の使いは)広間で威儀正しく控えていた。
市橋が広間を覗いたところ、いかにもすました有様だったので、「見たくもなき奴也」と思った。
そこで使者の前に出て、寝転んで足を使者に向け、手で陰嚢をたたき、「御使者、これほどの(大きな)餅をどれほど食えるか?」と言い放った。
信長は後で聞いて笑いが止まらなかったという


秀吉が小田原の役のとき、関東の地図を見ていて、家康が近侍していた。
このとき、真田昌幸(原文では「阿波守」)が末席にいた。
秀吉は「昌幸、こっちに来て地図を見ろ。おまえは中山道の先手に申しつける」といった。
昌幸は信之の父で、家康と意趣があって仲が悪かった。
その後、秀吉は昌幸を近くに呼んで、「おまえは家康に礼に参じて仲をよくしなさい。長いものには巻かれよ」といった。
(さらに)「長い距離を出陣中で不如意だろう」と袷20枚を進物として与え、富田一白を供に添えた。
家康も「太閤のおっしゃることならば」と仕方なく対面した。
その後に家康が一白に会っていうには「先日(昌幸との対面)のことは仕方ない。今度は石川数正がこのように面会してこぬように太閤様に取りなしを頼む」。
石川とも大いに意趣があって、仲が悪かった。しかし、石川も秀吉は小田原の陣中で家康へ礼に参らせたという

そりゃ、東照宮はどっちとも会いたくないですよね、まして石川数正は。秀吉の配慮なのか、嫌がらせなのか?

307 :人間七七四年:2020/09/03(木) 01:32:03 ID:tdvnlGkX.net
>>305
孔子の門人に憧れる人が幻術学ぶのはおかしな話だし松平信綱に饅頭送るタイミングがあったとも思えないし、書いてる人かババアかどっちかが吹かし野郎っぽいな

308 :人間七七四年:2020/09/03(木) 07:37:12 ID:W3DuIg7R.net
>>305
伴天連の妖術じゃ!宣教師の仕業じゃ!

309 :人間七七四年:2020/09/03(木) 12:21:00 ID:p0TEWFX2.net
馬沓じゃなくて馬糞の間違いだろう。九州では食糞文化があるからな。さぞ伊豆守は驚いたことであろう。

310 :人間七七四年:2020/09/05(土) 12:23:32 ID:jvfoie1z.net
慶長十七年
美濃国岩佐という所の近所の百姓に、一人の娘が有った。この時、歳十六ばかりと云う。

この頃、この女子の口より小蛇出て座中に徘徊し、また口に入った。
かの小蛇が口から出ている間、女子は感情がなかった。

このような事について、人々はみな恐ろしいことだと噂し合ったため、彼女を父が害したと云々。
稀代の不思議である。

『当代記』

311 :人間七七四年:2020/09/05(土) 16:47:09.74 ID:8QUD/mnd.net
今昔物語集にもちょっと似たような話があったような

そっちだと蛇が若い女に巻きついてそのまままぐわって
女は蛇をあそこに入れたまま放心状態
医者が蛇の苦手なものを灰汁に混ぜて女の性器に入れると
蛇が抜け出て、ついでに蛇の子も何匹か這い出てきた
女は意識を取り戻し、蛇と蛇の子は殺されたって話

312 :人間七七四年:2020/09/05(土) 17:56:04 ID:2Uy7OmHs.net
ヘビーな話だ

313 :人間七七四年:2020/09/05(土) 20:43:35 ID:8+OS0gh6.net
試し腹の因習を指してるね

314 :人間七七四年:2020/09/06(日) 12:56:25 ID:FO9kuEU3.net
>>312
橋守を命ず

315 :人間七七四年:2020/09/06(日) 13:40:20.72 ID:J6DlKxxS.net
慶長十七年、江戸に於いて徒者たちが集まり、人を斬るという事が絶えなかった。
六月二十八日、柴山孫八(上口奉公の人也)が、そういった者共の一人を成敗した所、
彼の党類がその柴山の所にも奉公しており、「我が類を斬った」として、主人である
孫八を斬り殺した。

江戸中にもこういった徒者が、三百ほど有ると云われた。諸国で奉公しているこの類の者たちは、
合計で三千人とも云われた。

このような中、江戸中で穿鑿が行われ、九十人ほどが搦め捕られ、牢に入れられた。
かの柴山孫八を斬った者は、彼の小者であったのを取り立て、侍にして懇切にしていたのに、
その重恩を忘れ主の頭を斬るなど、是非に及ばぬ次第である。

かの者を生け捕り、類を尋ねた所、大将分は大鳥居一兵衛、大風嵐の介、大橋すりの介、
風吹はちり右衛門、天狗郷右衛門、などという名であった。
その白状に任せて捜索し、悉く搦め捕って成敗が行われた。

そうして京都に下知があり、大阪、堺、その他の国々に於いてかの一類を成敗有るべしとの事であった。
しかしこれによって、この頃無縁の者たちに対し宿を貸さなくなり、旅人はこのため迷惑した。

江戸の大将分であった大鳥居一兵衛は相撲を能く取り、兵法も能く使ったため、彼が若衆かぶきとは
知らずに近づいてきた者たちに、罪科を行わせ国々に遣わしたという。

『当代記』

316 :人間七七四年:2020/09/06(日) 20:09:09.72 ID:6ORzFz43.net
>>305の補足
妙清孺人自身のエピソードを省略したせいで分かりづらくなった気がするので、要約します。

妙清孺人のは筧九右衛と兄勘之丞は島原落城の際に討ち死、妾腹の一歳の弟は母が天草近郊
の人だったので祖父母のもとに落ち延びた。後年、この弟が仁斎のもとを訪ねて妙清孺人と対面した。
妙清孺人が縫って弟に与えた家紋付きの守り袋が証拠となって弟と分かり、双方涙にくれた。

妙清は船で原城を脱出し、その船に多くの崑崙奴が乗っているのを見たということのようです。
四郎の幻術は誰から聞いた話かはっきりしません。

317 :人間七七四年:2020/09/07(月) 07:32:36 ID:hhPAshpa.net
島原の乱は外人が裏で支援してたって説もある(他国でおなじみの信者増やして内乱戦法)
その実行部隊とか?

318 :人間七七四年:2020/09/07(月) 17:50:51 ID:rd8d7m4m.net
管理人氏が明朝での倭寇の日本刀対策法をツイートしてたの見かけたからちょっとこっちに書き込むけどさ
対倭寇戦術としての日本刀対策って単体の武術じゃなくて、諸兵科複合しての部隊運用前提なんだね
やはり現場の軍人だから合理的だなあと

これを援用した文禄慶長の役での朝鮮軍も
ただし20世紀に入ってこれが剣道韓国起源説へ・・


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/New_mandarin_duck_formation.jpg
狼筅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%BC%E7%AD%85
武芸諸譜
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%8A%B8%E8%AB%B8%E8%AD%9C

319 :人間七七四年:2020/09/07(月) 20:07:06 ID:AT52Up7c.net
ジャップの祖先はチョンなんだから強ち間違ってないよw

320 :人間七七四年:2020/09/07(月) 21:24:02 ID:mwGtxYvV.net
はいはいお薬飲んで寝ましょうねー

321 :人間七七四年:2020/09/07(月) 21:53:58 ID:XcrRwHax.net
>『懲?録』によれば1593年夏、痔疾療養中の柳成龍を明将駱尚志が見舞い、中国兵術の習得を勧めた。

ところでリンク先の武芸諸譜に、李氏朝鮮が戚継光の戦術を取り入れたきっかけが書いてあるけど
なんで痔疾なのかというと、惨敗した事態収拾のために慣れない馬に乗って
各地を駆け回ったからなんですな
派閥の論理で日本をなめくさってた結果だから自業自得ではあるのだけれど

現代も自転車やバイクで痔になるのだろうか


なお専門の朝鮮兵の馬術は日本側記録で、あいつらすげーと称賛しかされてません

322 :人間七七四年:2020/09/08(火) 01:11:02 ID:wsCVZqJm.net
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。

そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。

然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。

十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。

これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。

同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。

同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。

今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。

『当代記』

当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事

323 :人間七七四年:2020/09/08(火) 02:54:53.56 ID:GgX0/n37.net
アフィ太郎、背乗りがバレて顔真っ赤www

324 :人間七七四年:2020/09/08(火) 19:08:17 ID:WhV/K8PS.net
>>321
自転車は普通にペダルに体重かかるし、バイクもちゃんと乗ってればステップに結構体重かかるから大丈夫

325 :人間七七四年:2020/09/09(水) 03:29:02.29 ID:LHlzdBYE.net
必死になって祖国の武術を披露してる背乗りチョンがいるな
望郷の念に駆られてるのかい

326 :人間七七四年:2020/09/09(水) 12:31:49 ID:J0jCWxq1.net
慶長十七年九月
この頃、南都東大寺の衆徒三人が搦め捕られ、この他一人同宿の者、以上四人が搦め捕られた。
何故かといえば、六、七年前、彼らは勅封蔵(正倉院)に忍び入り、敷板を切り抜き、宝物の内
金作の鶏、同じく盂を捜し取って、折々京都へ持って上がり、金として両替し私用に使った。

今年、かの盂をそのままにて両替することを両替商に相談した所、その亭主はこの盂を見ると、
「これは尋常の物ではない、殊に昔の年号が有り、きっとこれは勅物、もしくは御物では無いだろうか」
と不審に思い、この旨をかの僧に申した。

僧は難儀に及び、往々この事が亭主の口より漏れてしまうと思い、別宿にて亭主に振る舞いをし、
そこで鴆毒を摂取させ、亭主はたちまち死に果てた。

この亭主の妻女は、すぐに板倉伊賀守(勝重)の所へ行この旨を言上した。伊賀守は奈良代官に届けたため、
かの僧三人、并びに同宿一人が搦め捕られ京都に上らされた。
伊賀守は彼らに対し事の内容を直接に尋問したところ、ありのままに白状した。

そして彼らの身柄は南都へ下し置かれ、またこの事件については東国(駿府、江戸)に報告された。
捕縛された者たちは、来年二月、薪の能見物に集まる貴賤にその姿を晒した上で成敗される、などと
風聞されている。また猿澤の池傍に牢が構えられ、彼らはそこに入れられ、これを貴賤が見物している
という。

『当代記』

327 :人間七七四年:2020/09/09(水) 12:35:15 ID:LHlzdBYE.net
盗人倭猿に相応しい牢屋だな

328 :人間七七四年:2020/09/10(木) 12:52:42.94 ID:6re4dyIE.net
慶長十九年四月
この近年、大御所近習の女房衆が駿河に於いて金銀を貸し付ける商売をしており、この使いは
神子(巫女)であったが、甲斐甲斐しく才覚して、本利を相調え毎回献上していた。

去る頃、池田備後(荒木久左衛門子)も借用していたが、この借銀を神子に催促されたため、
備後の用人(若衆立て)が、中に銀が入っている由を含んで皮袋を渡した。
これはそれまでも度々の事であったので、符を見切るまでもなく請取、両替町に出て商人に渡す時
これを見ると、その中には石が多く詰められていたのである。

神子は大いに驚き、皮袋を持ち帰って先の備後の小姓(用人)に申した所、彼は
「全くそのようなことは知らない。」と申し、神子のやったことだとした。
この時神子は「汝は私を媒として、備後の妻を犯したではないか!」と申した。
近年にない陰謀の露呈であり、すぐにかの者を押し籠めた。

この事は大御所にも聞こえ給わったが、かようの儀は町奉行である彦坂久兵衛に相図るべしと言われた。

池田備後の借りた金銀は過分であり、返済は難しく、その上外聞も失った以上、彼の身上は
如何成るかと噂された。この借銀は千貫目にまで膨れ上がっていたという。
また備後に限らず歴々の衆も借用しており、今速やかに返済するのは難しいと云々。

『当代記』

329 :人間七七四年:2020/09/10(木) 14:29:47 ID:vSQ/4NGC.net
長すぎる。二行でまとめてくれ

330 :人間七七四年:2020/09/10(木) 15:19:57.00 ID:xTSgtrAh.net
借金を部下に返させたら銀の換わりに石詰め込まれてて抗議され、部下がしらばっくれたら借金取りに妻NTR(部下が上司の)バラされ笑い者、家康もあきれ顔

331 :人間七七四年:2020/09/11(金) 12:45:22.57 ID:vIsYKwWt.net
慶長十九年九月
この頃、伊勢太神宮では暮に及ぶと神託があり『むくり(蒙古)と合戦に及ぶことで、神風が烈しく吹く』と、
男女を厭わず、ほぼ毎日神託があった。
伊勢神宮のある山田町中で、火を立てこの旨を申していた所、半時ほど後、海上が燃え上がったように成り、
激しく鳴動し、その後、海面は静まり、神が還宮したかと覚えれば、また前のように神託があったという。

彼の国中では現在躍りが止まず、古老の者たちは「かかる奇特、不審なる儀は前代未聞である」と
云っているという。もはやこの頃では、京、大和、近江、美濃でも躍りをいたすという。
この他にも奇特不思議なることが幾らもあると云々。

『当代記』

332 :人間七七四年:2020/09/11(金) 13:57:51.20 ID:vkwa+PR0.net
朝鮮の神々みたいだな

333 :人間七七四年:2020/09/11(金) 14:12:43.30 ID:eg0n2m6L.net
なんか臭いのがいついてるな

334 :人間七七四年:2020/09/11(金) 15:12:39.94 ID:azkxlMcG.net
朝鮮ならこくり

335 :人間七七四年:2020/09/11(金) 15:50:38.53 ID:8ErMEWtN.net
>>333
臭いの元はお前の口臭や

336 :人間七七四年:2020/09/11(金) 18:09:25.35 ID:qmb5VLHS.net
>>28
求めるだけの無能

337 :人間七七四年:2020/09/11(金) 20:13:59.38 ID:8ZCL0oK7.net
>>331
昔から踊ってたのか

338 :人間七七四年:2020/09/11(金) 23:59:40.62 ID:gy3Glw8l.net
>>328
荒木久左衛門(池田知正 1555-1608)の子じゃなくて、弟の光重だな
この件が原因で改易されて、大坂の陣で復帰を目指すも果たせず病死

339 :人間七七四年:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F.net
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

『当代記』

大阪冬の陣直前の様相について

340 :人間七七四年:2020/09/13(日) 12:56:53.07 ID:ek8NO7bt.net
慶長十九年十月二十八日、(大坂冬の陣の勃発後)、大坂城中より脱出してきた者が二条城に召され、
城内の様子を尋ねられた。

彼の者の言上によると、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着て、自ら番所改めを行われており、
これに従う女性三、四人も武具を着ているという。
そして大阪籠城の勢は三万あまりという事である。(但し雑兵を含む)
兵糧、薪、塩、味噌などは形のごとく貯められているという。

『当代記』

341 :人間七七四年:2020/09/20(日) 12:03:46.31 ID:u8VnV0o8.net
慶長十九年十一月二十五日

(大阪冬の陣の最中)城中の下臈の者が、浅野但馬守(長晟)の手に走り入った。
この者を大御所(徳川家康)が御前に召され、参上すると彼に城中の様子を問われた。
かの者は申して曰く

「藤堂和泉守(高虎)、浅野但馬守以下、各々秀頼に音信を致している。」

これに対し家康は「偽を申している。」として、彼の額に『秀頼』と焼き印をして城中に追い返した。

『当代記』

342 :人間七七四年:2020/09/20(日) 19:16:06.23 ID:diXrcHSl.net
秀頼印の焼印が用意されて居るのか、それとも即日納品可能なはんこショップみたいなのがいるのか

343 :人間七七四年:2020/09/20(日) 20:16:30.27 ID:Kg/PX/Vu.net
源頼政もあきれ顔

344 :人間七七四年:2020/09/21(月) 23:53:24.80 ID:eoHLTwwz.net
秀と頼の印を持ってる人を陣中で探し回る

345 :人間七七四年:2020/09/22(火) 00:10:10.99 ID:jO9OfiI/.net
短刀の先熱して書いたのかも

346 :人間七七四年:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I.net
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

『駿府記』

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。

347 :人間七七四年:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg.net
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 :人間七七四年:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+.net
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 :人間七七四年:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a.net
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

350 :人間七七四年:2020/09/23(水) 11:49:54.04 ID:23yo5Oij.net
アフィカスチョン太郎も国外追放されたらいいのに

351 :人間七七四年:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK.net
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

『駿府記』

大阪冬の陣の勃発について。

352 :人間七七四年:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu.net
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

353 :1/2:2020/09/25(金) 00:44:34.27 ID:C8PZ88rV.net
(前略。慶長十九年二月二十三日、片桐且元が登城しないことに対し、且元から理由を聞いてきた
浅井一政が大阪城に戻り)

御城に出て、小々姓を以て「御用が有るので、奥へ入れて下さい。」と申し上げたが、何とも御意が無く、
また重ねて申し上げると、秀頼公は既に座を立っておられ、この時我等は装束の間の縁に居たのだが、
帝鑑の間へ入るように言われ、我等は召し連れられ入った。この時あいは殿(饗庭局カ)に申して
「ここに誰もお入りにならないで下さい。あいは殿もそこに居られるべきでしょうか。」と申して、
その後秀頼に申し上げると、
「不慮の事が出来したとは、何事か?」と仰せになった

「市正(片桐且元)を成敗すると聞こえたため、彼は今日罷り出ず、屋敷に立てこもりました。」と申した所
「天道も照覧あれ、俺は知らない!(天道も照覧あれ、おれハ不知)との御意であった。
そして「ではどうしたら良いとお前は思うか」と仰せになられたので、
「市正の心中について八右衛門に尋ねた所、市正は毛頭二心あるというような事は有りません。
周辺で悪しく御耳に立てられたものでは無いでしょうか。」と申し、「また市正からも承りましたが、
彼は人質を出すと申しております。これにて彼の心中も知れると思います。御手廻の衆を少々召し連れ、
市正の屋敷に行かれ、御頼まれるのが然るべしと考えます。
昔織田信長様のおとな(重臣)が謀反をされたとき、このようにされたと承っております。その上市正は
人質を出すと申しております。この上お疑いに成るような事では無いと考えます。」

そう申し上げると、暫くご思案されて
「しかしながら、市正の心中は知れぬ事である。またどうしたら良いと思うか?」
「この上は、只今御誓文によってその旨を書いて遣わし、市正の心中をお聞きになるべきです。」
「尤もである、であれば御書を遣わそう。」

そう仰せに成っている間に、御袋(淀殿)より追々に使いにて「奥へ入られるように。」と、お使いに
宮内卿、右京太夫が参った、そこで秀頼は帝鑑の間の奥と表の間の廊下に御出になられると。市正殿の
屋敷へ、下屋敷に引きも切らず人数が籠められている様子が目の下に見られた。

御書の内容について廊下にて我等と御相談遊ばし、白い文箱に入れられた。符は我等が付けた。
これを土肥少五郎に持たせ遣わした。返事を待って廊下に入られると、奥より
「心もとない。先ず奥に入られるように」と頻りにお使いがあった。我等も申し上げにくい
事であったが「このようなことは女房衆の存ずることでは有りません」(かやうの事ハ女房衆の存事
にてハ無之候)と申した所、秀頼は使いの者を尽くお叱りに成ったため、二度と使いは参らなかった。

354 :2/2:2020/09/25(金) 00:47:05.98 ID:C8PZ88rV.net
(中略。その後再び浅井一政らが且元の元に行き、且元邸に籠もっている軍勢と織田有楽邸に籠もっている
軍勢双方を撤退させることで同意したが)

市正殿の元に参ると、居間より奥、南の方の座敷に連れてお入りに成り、二心無き段々を仰せ聞いた様を
承り、その上で甲斐守と私の両人は御城へ参ると、焚き火の間の中の柱に秀頼はもたれて入られており、
大蔵卿、正永がその左の方に伺候していた。奥と表の間には菊の屏風が立って、御袋が入られ、
その返事を聞かれた。

「知っての通り、甲州(速水守久)は無口であるので、お主がまずあらましを申し上げ、その上で
様子を我等に詳しく申し上げるように。」
そう言われたため、私が市正殿の申したことを残らす申し上げた。そこで正永が脇より申した

「市正殿が屋敷に人数をお集めに成っているのは何事か」
私は答えた
「市正を御成敗有るという事を、彼の家来たちが聞きつけたため籠もっているのだと思われます。」
この事についてこの場では、特段のあしらいはなかった。秀頼は奥に入られたあと、槇島玄蕃を召され
「市正の心中を聞くことが出来、御満足であった」との事で、召して居られた呉服を我等だけに
下された。

八右、多羅尾半左衛門は芭蕉の間に参り、甲州、私を呼んで「只今御両人へ市正は申し上げた通り、
『御同心に於いては、今夜の内に有楽の屋敷に籠められている御人数を退去されますように。
市正屋敷に籠もっている者共も皆追い出します。この通り、御両人様(秀頼・淀殿)へ御意を得られます
ように。』と市正が申しております。この通り、秀頼が奥に居られるので、使いを以て申し上げられますように。」

ところがこの事を秀頼の耳に入れず、御袋より返事があり
「まず市正の人数を退去させ、その後有楽の所の人数を退去させる。」と仰せになった。
これを聞いた甲州は頭をかきながら「こんな事では何も成らぬ」と申した。
私は「『畏まりました』と申しておいて、同時に退去させれば良い。」と答えた。
「尤もである。ならばその通りに奥へ申し、市正にも返事をしよう。」ということに相済み、
また市正殿へは、甲州と私が検使に参り、有楽へは槇島玄蕃、永翁が参った。
これは二十三日夜のことであった。

『浅井一政自記』

片桐且元をめぐる大坂城の混乱の記録。これに対する淀殿周辺の介入に豊臣家中は相当苛立っていたようで

355 :人間七七四年:2020/09/25(金) 02:14:27.61 ID:M9a/G0h0.net
恐らく秀頼幼少の際は淀殿が家中差配をしてて、秀頼成人後そこの指示系統がややこしくなってる感じかな
そんだけ秀頼が頼りないと認識されていたか淀殿が出しゃばりすぎか

どうしたらいいと思う?って聞きすぎじゃねーかな秀頼、供廻りつけて直接聞きに行ったら?って提案スルーするし、略された所でもやたらどうしたらいいと思う連発してるんだっけ?
なんというか頼りなさげだなぁ、他家中でもこういう時こんなもんなのかね?

356 :人間七七四年:2020/09/25(金) 08:56:19.58 ID:I+5YGX1a.net
清須会議みたいにドラマ化してほしいな
大坂の陣省略じゃ盛り上がりに欠けるからだめか

357 :人間七七四年:2020/09/25(金) 18:14:59.22 ID:JRSa1Yrd.net
主役は大野治長にやってもらって六文銭の人をこき下ろしバカ息子たちの勇姿を滑稽に演じてほしいな

358 :人間七七四年:2020/09/25(金) 23:05:33.83 ID:6rd+XxC1.net
大相撲で今場所、優勝争いをしている若隆景は毛利3兄弟から名前をつけたらしいね。兄弟3人で長男の若隆元は幕下、次男の若元春は十両、三男若隆景は幕内。こんなところまで毛利三兄弟に似なくてもいいのにね。

359 :人間七七四年:2020/09/26(土) 08:00:16.16 ID:NJxc+AB7.net
どこが似てるかわからんw

360 :人間七七四年:2020/09/26(土) 08:53:32.87 ID:f+7AyxxJ.net
亀三兄弟も改名したらいいのに

361 :人間七七四年:2020/09/27(日) 19:02:02.01 ID:63wy7W1Q.net
日本戦史 朝鮮役(経過表・附表附図)参謀本部編 偕行社(大正13)

天正19年立花統虎(宗茂)・高橋統増(立花直次)軍役表

秀吉より浅野長吉をして立花兄弟に命じたもの、統虎8万国・統増2万国に対する軍役である
立花2400高橋600の軍役であるが両家合計

将士
騎士150 
  馬卒300(非戦闘員)
歩士150
  挟箱持150(非戦闘員)

兵卒
鉄砲足軽200
  小者200(非戦闘員)
弓足軽100
  小者100(非戦闘員)
槍足軽500
昇足軽100
  小者200(非戦闘員)
徒差物足軽200

輸卒
手明夫(予備輸卒)650(非戦闘員)

戦闘員1400
非戦闘員1600

計3000

362 :人間七七四年:2020/09/27(日) 19:03:06.51 ID:63wy7W1Q.net
兵力の実数で輸送部隊の配分まで書いてあるのはあんまなかったんでちょっと転記してみました
日本戦史 朝鮮役は現在文庫版も出てますが、要約版なので一部図表が省略されています
国会図書館デジタル版を参照ください
でも詳細は別ページって書いてあるのにそのページの画像が抜けてるんですよ国会図書館さん・・

363 :人間七七四年:2020/09/27(日) 19:06:12.71 ID:63wy7W1Q.net
同じく

文禄元年(1593)五島純玄隊編成表
五島氏1万5千石のうち1万石での兵賦
軍奉行は参謀役、用人は経理役
小人は将士などの従卒・馬卒、下夫は輸卒

将士
侍大将1(馬1)
奉行(軍・旗・鉄砲・弓・長柄)5(馬5)
使番3(馬3)
用人・大目付2(馬2)
騎士11(馬11)
医師・祐筆・僧侶5(馬5)
歩武者40

兵卒
鉄砲足軽
弓足軽
長柄足軽
旗手
計120

雑卒
小人38
下夫280
船頭・水夫200

計705
馬27

364 :人間七七四年:2020/09/27(日) 21:29:54.49 ID:qEYXjif2.net
>>363
戦う人が少な過ぎるって思うけどこんなもんなんだろうな

365 :人間七七四年:2020/09/28(月) 08:20:28.11 ID:sqc6Mded.net
>>363
1593年のせいか、投石部隊はいないんだな、もしくは刀みたいな予備武器扱いとか?

366 :人間七七四年:2020/09/28(月) 16:59:20.13 ID:V8D2h7iY.net
時期としては朝鮮の役序盤だから、末期は鉄砲の比率がどれくらい高まったものなんかな

それ以前に末期だと戦力を輸卒に振り分けられる余裕があったんだろうか

367 :人間七七四年:2020/09/28(月) 17:10:20.65 ID:oHCG034a.net
非戦闘員といっても刀振り回す事くらいは出来たと思うし単に身分制度のせいで下っ端の者が請負ってた仕事だったんだろ、知らんけど

368 :人間七七四年:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW.net
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。

369 :人間七七四年:2020/09/28(月) 20:45:50.71 ID:Ad7TTFPb.net
織田家の丹後侵攻と慶長の役を生き延びた砲術家が「実戦に弱い・砲術も役たたず」と
評されるなら、実戦経験って一体何なんだろうな。
ボディーアーマーとタクティカルベストを着てたクリス・カイルはアメリカの英雄で、
甲冑を二領着たらヘタレとか意味がわからねえ。

370 :人間七七四年:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO.net
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 :人間七七四年:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e.net
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 :人間七七四年:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c.net
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

373 :人間七七四年:2020/09/29(火) 17:23:21.63 ID:SwKC5vvu.net
日本戦史 小田原役 参謀本部編 元真社(大正3)

天正17年(1589)12月9日、北条氏直の動員令による編成の一部である

物主は領地の多寡に応じて賦役を負担し部隊長となる
旗手は1丈5尺の大旗を保持、指物手は物主の背識を保持、持槍手は物主の持槍を保持、
馬廻歩卒は物主の左右に従う、雑卒は副馬の馬卒及び雑用
馬数は物主と騎士に同じ
銃弓槍の数は兵卒の数に同じだが、物主と騎士はもちろん槍を持っている

145人賦
物主1 騎士26(士分27)弓卒20 銃卒20 槍卒40(兵卒80)(戦闘員107)
旗手10 指物手1 持槍手10 馬廻歩卒10 雑卒7(非戦闘員38)

30人賦
物主1 騎士6(士分7)弓卒2 銃卒2 槍卒10(兵卒14)(戦闘員21)
旗手2 指物手1 持槍手2 馬廻歩卒4 (非戦闘員9)

20人賦
物主1 騎士3(士分4)弓卒2 銃卒2 槍卒5(兵卒9)(戦闘員13)
旗手1 指物手1 持槍手2 馬廻歩卒3 (非戦闘員7)

6人賦
物主1(士分1)銃卒1 槍卒2(兵卒3)(戦闘員4)
旗手1 指物手1(非戦闘員2)

5人賦
物主1(士分1)槍卒2(兵卒2)(戦闘員3)
旗手1 指物手1(非戦闘員2)

2人賦
物主1(士分1)槍卒1(兵卒1)(戦闘員2)

374 :人間七七四年:2020/09/29(火) 17:27:45.33 ID:SwKC5vvu.net
日本戦史は国会図書館デジタル版で閲覧できます
スマホでもOKだからまあ見てみましょうよ

というか補伝という逸話集が山ほど大量にあって、このスレと近しいとこがあんですね
補伝も出典先が明記されております

375 :人間七七四年:2020/09/30(水) 10:16:45.35 ID:OiEwxR5N.net
参謀本部って暇な部署だったんだね、これじゃあ負けるのも無理ないわー

376 :人間七七四年:2020/09/30(水) 10:24:41.51 ID:6FH3bi6r.net
川上操六に怒られてこいw

377 :人間七七四年:2020/09/30(水) 12:23:07.85 ID:Z4+mIi5b.net
司馬信者きもい

378 :人間七七四年:2020/09/30(水) 13:07:20.15 ID:y9xqxqNT.net
日本においては、諸人が日本全国の首である都に居住し、公方様と称する至高の君に服従すること、
(諸記録によれば)約四百年であるが(頼朝開幕より三百八十二年)、本来これに服従していた諸侯が
次第に興隆し、六十六ヶ国に別れるに至った。

現在、公方様はただ威厳の尊号を有するのみで、実力乏しく、他の諸王は少しもその優越を認めず、
またこれを尊敬せず、諸侯は欲をほしいままにして各地の諸侯を服従させ、その国を奪おうとし、
このために戦争が絶えることがなかった。日本に福音の教の平和を植え付ける事への、最大の妨害は
これである。

都には、宗旨の尊位にある他の君がある(天皇)。日本人はこれを日本の頭として、殆ど神の如く尊崇している。

『一五六五年二月二十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(耶蘇会士日本通信)

足利義輝の時代の、室町将軍に対する認識について。

379 :人間七七四年:2020/10/01(木) 00:03:29.31 ID:A8tUaSNv.net
『多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

天正16年12月7日、(吉川)平介という人、大納言殿(豊臣秀長)より紀伊国の大将として雑賀に城をこしらえ、富貴に暮らしていた。
「熊野山の木を売るべし」と命じられ、2万本を選んで切り出し、大坂へ輸送した。そして、売り上げを毎月、過分に「上之」。
関白はこれを聞き及び、「曲事である」と召し捕らえ、おととい5日、西大寺で誅殺させた。
「主には一円、無過事也」。秀長は天下の面目を失った。
跡には金子700枚を持ち、「上之」という。
「女子供は不苦云々」、不情不便なことであった。
天正17年1月5日、秀長は昨冬、熊野の木を売りつけ、関白の御意に合わなかった。正月のお見舞いでもお目見えがかなわず、仕方なく帰ってきたので寺々への諸礼がなかったそうだ。

※とにかく意味の取りにくい記事なんですが、いろいろと解釈できます。
浅学非才ゆえ、この有名な事件にほかの原典があるのかなど知らないのですが。
@(これが定説?)平介が勝手に着服した。その額は金子700枚に及び、その分をあとになって秀長が太閤へ献上した。
A金に汚いことで知られる(諸大名に高い値段で兵糧を売ろうとしたり)秀長が平介に命じ、大仏殿建設で高騰していた貴重な木材を普請用に提供せず、売り払った。(1月5日記事には平介のへの字も出ていない)
Bこれはかなり無理な解釈ですが、秀吉が秀長に命じ、熊野の木を売らせた。その代金のうち、かなりを平介が秀長に献上していた。太閤はそれを知って立腹した。
いずれにせよ、私の誤訳や勘違いがあると思うので、ご参考までに。

ちなみに、この記事の前後は聚楽第への落書きに対する処分であったり、秀吉の苛烈な言動がいろいろと記されています。
9月3日条では、
先般、関白の大事にしていた刀が盗まれ、ついに行方が知れなかった。
これによって男女があまた磔にされた。浅野弾正の甥も腹を切り、「諸方以外震動」。ひときわ機嫌が悪い様子で、「狂乱ノ始也云々」。頼朝の守り刀、一文字で無類の重宝だったという。ありかは未だに分かっていないそうだ。

と記されています。平介事件も秀吉が権力者としておかしくなりだしていたことを念頭に置いて考えるとおもしろいかもしれません。

380 :人間七七四年:2020/10/01(木) 00:16:01.32 ID:SryfC8MZ.net
よく秀長が長生きだったら朝鮮出兵や秀次、利休の切腹は無かった説があるけど
ぎりぎり名補佐役の面目が立つ時期に死んだだけで後2〜3年生きていたら粛清されていたかもな

381 :人間七七四年:2020/10/01(木) 00:37:12.33 ID:nE64sfKR.net
尼僧強姦するようなクズだからな
肉棒鋸引きで処刑されてたろ

382 :人間七七四年:2020/10/01(木) 00:56:20.22 ID:nLSNZYeT.net
秀吉自身の方針の混乱は
秀長・大政所・鶴松の死、秀次養子縁組と秀頼誕生が複雑に絡み合ってるからなんとも言えないかなぁ
少なくとも大政所が生きてる限り秀長の粛清はできないと思う

383 :人間七七四年:2020/10/01(木) 08:42:33.98 ID:pyId+6bq.net
大政所自体は諌めるだろうけど、それで秀吉がやめるかなぁ
正直秀長の当時の評判って悪いし

384 :人間七七四年:2020/10/01(木) 19:28:31.45 ID:SryfC8MZ.net
かーちゃんが生きていれば命は大丈夫だと思うけど朝鮮出兵の総責任者かな、大和紀伊召し上げ朝鮮半島切り取り次第とか言われそう

385 :人間七七四年:2020/10/01(木) 19:33:34.48 ID:mN8KDRpT.net
戦闘員が大量に余ってるんだから外征しなきゃ内乱になるだろ
そもそも唐入りが悪かったというのは結果論で、中華周辺異民族が中原目指すのは普通のことだし

386 :人間七七四年:2020/10/01(木) 21:05:28.44 ID:B1l19ekP.net
戦闘員でなぜか景勝の母親が浮かんだ

387 :人間七七四年:2020/10/01(木) 21:57:09.03 ID:r9WCf6jv.net
それ仙桃院

388 :人間七七四年:2020/10/01(木) 22:49:30.15 ID:knvDGzGe.net
『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ@
(有名な話もありますが…)

・大坂の陣に燃え、意気盛んな家康
(慶長19年)11月15日、権現様(家康)は京をたって、大和路を進んだ。秀忠も同日に(京を)出立し、本道を進んだ。
家康は木津に至って「茶釜の湯で湯漬けを出しなさい」と命じた。
すると本多正純は「御膳で食べるのがよきかと」と進言したところ、「『タワケ』なことを。なぜ御膳を食べろなどというのか」と湯漬けを立って食べた。
「奈良へ出ろ」と命じ、そのまま立っていた。いずれの者もここで一泊すると思っていたが、ふと出立したので「やうやう」30騎ばかりしかお供衆はいなかった。
家康の旗印は翌日追いついた。(御旗が追いついた日は)雨が降っていたので「奈良に逗留する」と話していたが、にわかに出発し、宝蔵寺に宿泊。
翌17日に住吉へ着陣した。

・支離滅裂な家康
茶臼山の普請ができていなかったので、住吉に陣を置いていたが、ようやくできあがり、12月4日に移るはずだった。
ところが、その日は霧が深かったので6日に陣を移した。
このときの霧で井伊直孝と藤堂高虎は大坂城に乗りいるはずだったが、乗り込み損なった。
秀忠は立腹したが、家康はご機嫌に話をしていた。

・憎きやつじゃ
(家康は)「鬨の声を1日に2度、竹束の裏から揚げよ。夜の九つ(午前0時頃)に揚げよ」と命じたが、いまだ空が明るいうちに鬨の声を揚げてしまった。
城内からも鬨の声が揚がり、同時にたいまつを投げつけてきたので「火事の様にみえ」た。
(家康は)機嫌が悪くなり、「どうも城方に内通している者がいるようだ。『にくきやつしや』」と言った。
案のごとく、秀忠使い番の青山石見が城方へ「帰忠」すると内通していたことが露見し、陣のあとに成敗した。
鬨の声は夜の八つに揚げ、城からも鬨の声に合わせて鉄砲を撃ちかけた。

・言行不一致な家康
(夏の陣で)秀忠は4月22、23日ころだろうか、夜を日に継いで上洛し、道中では上杉景勝や佐竹義宣、伊達政宗なども追い抜いた。
家康は機嫌が悪くなり、2日間にわたって秀忠と対面せず、「『たわけなる事じや。軍勢を跡におゐて主一人来ては何の役に立申か』」との上意だった。
秀忠は関ヶ原の時、真田に隙をとり、家康に面会できなかったことを無念に思っていた。
今回、家康が上洛したので、「私が行くまで待っていてください」と秀忠はお願いし、心得ていたが、「敵が出てきては待てない」とも。
これに秀忠は慌て、急いだのだという。
※半年前に自分は御旗衆までまいたことを忘れている権現様

389 :人間七七四年:2020/10/02(金) 23:21:59.28 ID:CmvOqubw.net
慶長二十年五月七日
(大阪方は)敵も未だかからぬ内に諸崩れした。この間、私は御使に参り、又敵と手合わせを
していた。しかし秀頼の生害の事が心もとなく思って御城に戻ったのだが、城中は人少なくなっていた。

秀頼は奥と表の間にお入りになり、お側には修理(大野治長)一人、小々姓たちが少々見えた。
私は天王寺表の様子を見てきたこと、また味方敗軍の様子を申し上げ
「さて御生害は何方にて遊ばされますか。」と申すと、「殿守を用意するように」と仰せになった。
そして修理も御供して奥へと参った。私も御供して奥へ参り「鉄砲の薬はどこにありますか」と聞くと、
「たけへ(武部ヵ)助十郎に問え」との事だったので、助十郎に聞いて、鉄砲薬を二人で持って殿守に
上がり、御生害の場所に畳を重ねて敷いて、薬をそこに置いた。そうしている所に頓阿弥が樽を持って参り、
御意が有ると申した。

私は下に下り、秀頼の御前に参って「殿守を用意しました。」と申し上、火縄に火を付けて持ち、
殿守へと御供した。
ところがその後に修理が参り、偽を申して秀頼を止めた。私は「このような時に(切腹を)延ばせば
恥をかくものである。合戦が盛り返したというのは偽です。もはや千畳敷にも火がかかっています。」
と申したが、甲州(速水守久)と修理がたって申して、下の矢倉へと御供した。これは秀頼の名に
傷のつかぬようにしたいという一念であった。

御袋(淀殿)は既に先に下って居られた。秀頼は月見の矢倉の下から外の様子を覗かれた。
市正殿(片桐且元)の屋敷に参る坂の通りに敵が既に侵入しているのが見えた。そこにて内蔵助(渡辺糺)は
切腹した。渡辺長左衛門が介錯したはずである。この屋敷に私が煙にむせて内に入った時、正栄尼(渡辺糺母)は
「介錯してくれるように」と申したため、介錯をした。御ちゃあ、あい、この比丘尼の三人を介錯した。
これは手柄に成るような話ではないが、この時は皆うろたえ、物を申す者も無かった。

秀頼が矢倉に出られると、皆興の冷めたような様子であった。夜に入り、ひき事など長々と申した。
私は「慮外ながら、御手本を仕ります」と言って、脇差を抜いて切腹をしようとした所に、
津川左近(近治)、毛利長門(勝長ヵ)などが来て、私を外に引き出して連れて出た。

八日の朝、「常高院殿(初)に使いに参るように」と仰せになった。私は色々とお断りしたのであるが、
「誰に行くように申しても、敵の中へ出ると申す者がいないので、御頼りになっているのだ。」と
事を尽くして仰せに成られたために、青屋口の京極殿(忠高)陣所へ向かった。

ところがそこに参ると「常高院様は昨日田中まで退かれた。」と、井ノ口左京(高宗)が申した。
矢倉まで左京殿に文を持たせて遣わした所、「どこまでであっても参って、常高院殿に会って
使いの内容を申すように」との事で、私は井ノ口左京の馬に乗って、森口の先の田中に、やがて到着した、
そこで常高院殿に様子を申した所、「若狭殿(京極忠高)に合った上で返事を申す。」と仰せになり、
青屋口まで御出になった。

私はこれに供して返事を承り、水の手まで参った所で、井伊掃部殿(直孝)の手の者に遮られた。
種々にかり事を申したが「京極殿より切手(通行証)を取って来れば入れる。」との事で、是非に及ばす、
切手を取りに帰ったものの、京極殿の方では「切手を出すことは出来ない」という事に極まり、
是非に及ばす、井ノ口左京を頼って「市正殿(且元)を陣屋に訪ねて来てほしい。市正殿を頼って
御城に参る。」と懇願すると、彼は方々へ人を尋ねに使わしてくれたのだが、その使いの帰らない内に、
秀頼の入った矢倉から火が出て、切腹したということであった。

御存知の如く、私は追腹を切るような奉公人では無いので、是非無く左京に送られて京に退いた。

『浅井一政自記』

浅井一政が見た、大阪落城と秀頼の切腹までの顛末

390 :人間七七四年:2020/10/02(金) 23:53:51.31 ID:0H9cOJuf.net
腹切るまでうだうだしてんなー
普通なら城兵と民草のために落城する前に腹切って助命乞うもが筋だろうに

391 :人間七七四年:2020/10/03(土) 19:53:51.64 ID:9px6F5Zw.net
こう言うところは所詮、百姓。
武士ではないな。

392 :人間七七四年:2020/10/04(日) 01:22:02.80 ID:+1bfZW6G.net
沖縄で民草に自決を促しながら自分だけ逃げ惑う軍人みたいだね

393 :人間七七四年:2020/10/04(日) 08:10:01.89 ID:k3y8KoN8.net
まだそんなデマ信じてるんだ

394 :人間七七四年:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV.net
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

『駿府記』

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

395 :人間七七四年:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw.net
大野道犬は2度死ぬ

396 :人間七七四年:2020/10/04(日) 21:41:40.84 ID:0ft47eL7.net
>>393
大本営発表が1番正確だよな!

397 :人間七七四年:2020/10/04(日) 23:18:52.57 ID:I2yHnBnf.net
『諸士軍談』より老いた家康A
※『』内は原文です

・ぬるい攻め
6日には(家康が)「軍法を守りすぎでぬるい」と中山勘解由を使い番として本多忠政の元に派遣した。
(中山が)「『なせにかからぬ』」というと、(本多は)「軍法に背く」。
中山は「さてさて、その方は忠勝の子ではないのか?。どこに軍法の入り込む余地があるのだ?」
別所孫治は馬を乗り回し、「『やれかかれ、やれかかれ』。かようの時に懸からぬということがあるか。敵の手強いところに懸かってこそ侍ではないか。筑紫合戦のとき、尾藤甚右衛門は懸かるべきときに軍法を守りすぎ、攻めかからなかった。これを未練がましいと太閤は勘当された」。こう申した。
孫治は「馬1匹われ1人だけ(だから無理だ)と思っていては役に立たぬ」と言い放ち、馬を乗り回して味方を前進させようとしたが、一向に攻めかからなかったそうだ。
家康は「6日に岡山まで進軍して攻めかかったら6日に城は落ちたのに、あまりにぬるいので城が落ちなかった」と「しかり」つけた。

・「親を殺して何の役に立つのか」
6日の晩、家康は秀忠に近藤石見を使いにやり、「日が暮れてもかまわず、1日中、平押しに押し寄せろ」と命じた。
家康は干し田から行列もつくらず平押しに押し寄せ、秀忠の備えの後ろまで追いついた。
「やれ、おれの後ろについて攻めに攻めまくれ」と家康は秀忠の備えを割って前進しようとした。
秀忠の小姓組番頭、成瀬豊前は「大御所様は格別だが、お供の衆は通さない」と申したが、家康はかまわずに押し通った。
本多正純は「『親を殺して何の役に立か』」といってお供の衆も通した。
秀忠の備え(の中心部)は割らず、少し道を空け、横道を(家康勢は)押し通った。

・ぬるい攻めとの矛盾
家康がいうには「何度、軍法を話しても覚えられるものではない。ただただ、合戦は勢い次第である。それならば、秀頼と組み合い、上になった方が勝ちである」。これよりほかに軍法を申しつけることはなかった。

・無差別通り魔事件
大坂の陣の前には怪事はなかったが、駿府で女が髪を切られる事案が発生した。無差別に11人切られたという。
(世間では)「大久保長安のところにいた欠所女(死後、お家断絶)の犯行か」と噂されている内に、よき上臈まで切られたので家康に報告すると、「『おれか髪を切るまい切るまい。おれか髪か立(断つ)ものハ有之まし』」との上意だった。

398 :人間七七四年:2020/10/05(月) 12:46:21.41 ID:X2O9MJfU.net
軍法守れば怒られて、守らず突進すれば抜け駆けと責め立てられる
難儀な商売だな

399 :人間七七四年:2020/10/05(月) 15:57:42.58 ID:2ECRWgfm.net
中山勘解由は第二次上田合戦で軍法破って抜け駆けして逼塞させられていて、
上田城攻め従軍していた忠政にはよくよくご存知の人物
別所孫次郎は兄の信範が秀頼に仕えて大坂城内におり、
是が非でも戦って見せねばならない立場

「軍法破っても突っかけろよ」って督戦役としてもってこい
こんな負い目のある奴らに来られても忠政も困るわな

400 :人間七七四年:2020/10/05(月) 20:52:48.79 ID:gFjyZTi6.net
豊臣家滅ぼす戦いで太閤の例出されてもな

401 :人間七七四年:2020/10/06(火) 14:35:13.96 ID:3Muezd83.net
いくさの世はもう終わり
最後にもう踏ん張りして加増を求める者と、そうでない者との温度差ってやつよ

402 :人間七七四年:2020/10/07(水) 23:48:58.33 ID:GcERk3uE.net
『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録

・本多広孝、永禄6年東三河の戦い(首50余を挙げる)
広孝家人、雑兵30人討ち死に
・同、永禄12年今川氏真による掛川籠城戦(首8を挙げる)
畔柳又八が討ち死に
・元亀元年姉川の戦い(広孝は鑓で突かれたが、具足に当たって肌に傷はなし)
家人、長坂次郎太郎、尾崎彦五郎が討ち死に
・天正元年、遠州森の戦い(殿として武田軍と応戦)
家人、雑兵32人討ち死に
・本多康重、天正3年長篠の戦い
(鳶の巣砦攻防で)3人討ち取るも、自身は手傷を2カ所に負い、左のまたに当たった鉄砲玉は死ぬまでとどまることに
・天正6年遠州諏訪原城の戦い
敵の鉄砲が当たったが、さして痛くはなく、じきに平癒した
・天正12年長久手の戦い(羽柴秀次、堀秀政勢と交戦。敵を組み討つも手傷7カ所を負う)
家人、大久保久右衛門、平井善五郎、長坂外記はじめ計36人戦死
・康紀、元和元年大坂夏の陣(鉄砲が兜の真ん中に当たり、鉄砲玉がひしげたが無傷だった)
長坂勘三郎、阿部半左衛門、9人が手負い、そのほか足軽少々が討ち死に

403 :人間七七四年:2020/10/09(金) 00:25:35.05 ID:eFHnGJal.net
又(日本には)、生きながら葬る方法がある。甚だ信仰深くして、阿弥陀の栄光に入らんと欲する者が
これを行うのを常とする。イルマン・ルイス・ダルメイダ及び私が本年、都に向かっていた時、
伊予と称する国の内。豊後より四十レグワの町、堀江と称する所に着いた時。我々の到着の六、七日前、
悪魔の如き犠牲を捧げたことを聞いた。

その方法は次の如くであり、当地方に於いては常に行われることである。
六人の男子と二人の婦人が一団となり、数日前より町を巡って喜捨を求め、これを集めた後、
友人、及び親類に別れを告げて、

「彼らの期待する阿弥陀の栄光に入ることを長く猶予することは出来ない、速やかに行ってこれを求めんとす。」

と云い、甚だ良き服を着て、喜捨の金を袖に入れ、多数の人に送られて海岸に至り、一艘の新造船に乗り、
頸、腕、腰、脚、および足に大きな石を結び、再び海岸の諸人に別れを告げると、これら諸人は多く
涙を流して涕泣し、その幸福に入ることを心中大いに羨望する様子を見せた。

彼らは海上に漕ぎ出て、親類、友人は船に乗ってこれに従い、再び彼らと決別する。
海岸を離れて、小銃の着弾距離の三、四倍の所にて、一人ずつ深き海、寧ろ地獄に投身する。
追随する人々は、直ぐに乗る人の居なく成った船に火を付ける。これに乗って航海する価値有る者が
無い為である。

その海岸に接して、記念の小堂を建て、小さな棒に紙の小旗を付けて屋上に立て、各人の為に一本の柱を建てる。
これの多くの文字を記し、小松を植え、堂内にはサント(神仏)を賛美する詩歌にて満ち、多数の人が
毎夜家を出て、この悪魔の殉教者八人の為に建てたこの堂に赴き、この地の住民は毎日行ってこれを拝するのを
常とする。

イルマン・ルイス・ダルメイダ、及び私が、この町に住むキリシタンの武士の娘に洗礼を授けるためその家に
赴こうとし、この堂を通過した時、四、五人の老女が殉教者に祈るために堂に来ており、その手に数珠を持ち
内より出たが、我々が頭を下げて敬意を表さないのを見て、或いは我等の無知を笑い、或いは聖徒を軽蔑し
侮蔑したことを責めるように、恐ろしい顔をした。

海に投じた者の中に、手に長い鎌を携えた者があった。これは通路を防ぐ密林の木を切るためなのだという。
また、自ら海に投ぜず、船に大きな孔を作り、栓をして、海上でこれを抜いて船とともに海底に沈むことも有る。

『一五六五年二月二十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

404 :人間七七四年:2020/10/09(金) 00:47:19.45 ID:dtEnwOKt.net
補陀落渡海かと思ったけど
補陀落だと観音菩薩の治める南方の浄土を目指すから
阿弥陀の治める西方浄土に向かう場合は使っていいのだろうか

405 :人間七七四年:2020/10/12(月) 15:19:10.79 ID:pymLXmiy.net
(正月の将軍・足利義輝への)訪問を終えて、翌日パードレ・ガスパル・ピレラは、公方様に次ぐ
第二の人である三好殿(長慶)を訪問するため、都から八レグワの距離にある、飯盛と称する城に向けて
出発した。同所には三好殿の家来にして、キリシタンである武士、及び兵士約二百人が在る。
パードレはまた、彼らの懺悔を聴く必要があった。
彼らは、当地に在るキリシタンの中で最も立派な者達で、皆熱心にデウスの事を聴きこれを悟ることを
希望していた。

イルマン・ルイス・ダルメイダは堺から同所に来てパードレに会し、両人共に三好殿を訪問した。
同所に於いて起こったこと、并びに彼の地のキリシタンの大身達の善行は、イルマンがこれを詳報する
だろう。

パードレは彼らの懺悔を聴いた後、奈良と称する弾正殿(松永久秀)の居城に赴き、これを訪問するため
出発した。弾正殿は我等が有する最良の友にして、また当諸国中最も勢力の在る領主である。
彼の家臣である武士の中にもキリシタンがあり、その中に昨年通知した二人があり、その僕、および
家族とともにパードレに懺悔をなすのだ。

パードレは同所より更に他の地を見舞う予定で、四旬節の中頃には、当地に来て都のキリシタンたちの
懺悔を聴き、聖餐を授けるだろう。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

宣教師の三好長慶訪問について。後にキリシタンの敵として強く非難する松永久秀も、この頃は
「最良の友」だったのですね。

406 :人間七七四年:2020/10/13(火) 21:37:02.70 ID:l9XEokaT.net
利用価値が無くなると悪魔扱い。
伍長閣下も利用されるだけ利用されて悪魔扱い。

407 :人間七七四年:2020/10/14(水) 15:27:20.15 ID:fVPTpVlb.net
翌日、即ち一昨日、聖三位一体の日曜日の朝、三好殿(フロイスは長慶としているが義継)は騎馬の士約七十を
率い、偽って(京都)市外約七十レグワの寺院(清水観世寺)に遊ぶとして、少しばかり市外に出た後忽ち
引き返して、公方(足利義輝)の宮城に向かった。朝のことであり公方様の邸に在った者は二百人に過ぎなかった。
しかも多くは都の主だった大身であったが、直ぐに三好勢一万二千人に囲まれ、三好殿は宮城の堀に架けた
一の橋に至る一門に向かい、他二人の領主(松永久通、三好長逸か)は他の門に向かった。

城内にては、このような意外の叛逆を予想せず、門は悉く開かれていたため、銃手の大集団が侵入し、
公方様に対し、書付を呈したいと欲した故に、こちらに来てこれを受け取るようにと述べた。

前に報告したように、我々の教会に招待したこともあり、また公方様の昵近者にて我々を公方様に紹介した
老人(進士晴舎)が出て書付を受け取り、直ぐに読んだ所、第一に、公方様がその妻(側室)、即ち同老人の
娘を殺し、又他の多数の大身達を殺す事で。それが行われれば平穏に退出する、と云うことであった。
老人はこれに欺瞞を見て、書付を地に投げ捨て、主君である国王に対し、この如き叛逆を起こす者の、畏れ無く
恥無きを大いに責め、既にこのような状況であれば、彼自ら腹を切るべしと云った。

諸侯が敵に抵抗すること能わざる時は、短剣を取っておのれの腹を切るのが日本一般の最も古い習慣にして、
君臣共にこれを行う。

老人は内に入り、公方様の前に於いて自殺した。そして我等の親友であるその子(進士主馬允)が邸より出て
三好勢と暫く戦ったが、間もなくこれは殺され、外より邸に向かって激しく銃が放たれた。
この時公方様の武士四人が門前に来て、門を敲いて開くように求めたが、内より今これを開く事は出来ないと
答えられると、彼らは短剣を抜いて腹を切って死んだ。

暴君らの悪心は益々増長し、この上彼らの希望を延期することは出来ないと、宮殿に火を放つよう命じた。
公方様は外に出ようと欲し、その母と抱き合った。彼女は我等が大いなる歓待を受けた老婦人である。
公方様は火災、及び必要に迫られ、部下とともに戦を始め、腹に一鑓、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死んだ。

公方様の兄弟である、二十歳の青年の坊主(周ロ)はその母とももに家に在ったが、(三好勢は)直ぐに
これを殺し、母を捕らえた。彼女の命を助けるべしと云う者、またこれを殺すべきという者があったが、多くの
刀傷を与え、子の側においてこれを殺した。

大身達の娘である宮中の婦人たちは、焼失した宮殿より出てきた所を、兵士たちはこれを斬り始めた。
十五人、乃至二十人が武器を恐れて宮殿の一の家に入ったが、その後火を逃れることが出来ず悉く焼死した。
また数人、外に出た者があったが、兵士たちはその衣服を奪った。その中に王妃(近衛稙家娘)が在ったと
云われるも未だ発見できず、今、刑に処するためこれを捜索し、その居る家を告げる者には巨額の金銭を与え、
またその髪を取って(捕縛して)彼らの前に連れてきた者には一層巨額の金銭を約束した。

公方様の娘二人が、兵士の足下に捨てられていたが、一人のキリシタンがこれを見つけて、救って屋内に
収容することを請うた。
十三、四歳の少年武士は、公方様の面前にて戦を始めたが、叛逆者たちは生きながらこれを捕え、殺さない
ようにと努力した。少年は公方様が死んだのを見て、生存するのは大いなる不名誉と考え、手中の剣を捨て、
短剣を取って少しばかり喉を切り、次に腹に当ててその上に伏した。
最も愛する者よ、これによってこの国民の、生命を惜しまない事がいかに甚だしいかを見るべし。

『一五六五年六月十九日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

永禄の変についてのフロイスの報告。これを素直に読むと、進士晴舎の切腹に激昂した息子の主馬允が
取り囲んでいた三好勢に戦闘を仕掛け、それに三好勢も反撃して戦闘が拡大した感じですね。

408 :人間七七四年:2020/10/14(水) 15:39:12.60 ID:W9XfORRk.net
長慶の死亡の秘匿の保持されっぷりはなんなんだろうね
信玄とか秒でばれてるのに

409 :人間七七四年:2020/10/14(水) 16:17:46.24 ID:blxpQOBl.net
想像だけど、長く臥せていたから死の前後であまり変化がなかったんじゃないかと
信玄なんかは勝ってたのがいきなり撤退してこれからは勝頼が〜だもの

410 :人間七七四年:2020/10/14(水) 17:31:21.23 ID:KvZqtLJB.net
長慶は晩年がアレなんで、政治的には死んでも大した影響が出ていなかったので隠せたのかもしれない。

411 :人間七七四年:2020/10/14(水) 21:32:09.73 ID:BSt5bEQ4.net
やはり明智は紳士の一族かの。
この変で名前を変えて生きることになったとか。

412 :人間七七四年:2020/10/15(木) 03:01:08.37 ID:yjX3tvEQ.net
上皇に矢を射かけるような一族が紳士か

413 :人間七七四年:2020/10/15(木) 12:06:51.50 ID:OISf/0Pd.net
バカに言っても右から左だな

414 :人間七七四年:2020/10/15(木) 18:14:31.78 ID:aTZAbvYw.net
弾正殿(松永久秀)と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)は、不法にも日本全国の君なる公方様(足利義輝)を
その母、妻子、兄弟、親戚その他と共に殺した後、その残酷なる心はこれに満足せず、都に於いて多数の家屋を
破壊し、日殺される者、追放される者を出した。

彼は上に立つ者無く、又悪魔に従っているが故に、このように残忍の行為を為し、また悪行を完備するために
都に在って我等が主デウスの教えを説くパードレ等を重刑に処すべき者と認め、或いは殺し、又は他の刑罰に
処し、都より公に追放し、デウスの教えが日本全国に於いて憎悪され、知らない者であってもこれを嫌忌するに
至らしめると云い、実行したことは、尊師もこの事を詳報したパードレ・ルイス・フロイスの書簡によって
見られているでしょう。

翌日、彼が都を出た後、都中に公布して、『テンジクジン(天竺人)』即ち我々が都に於いてデウスの教えを
説いた事によって追放し、会堂は没収した。また我等は永久に追放すべき者であり、何人も決し庇護すべからず
と告げ、また堺に於いても我等を追放することを命じた。これに関連して様々なことが起こったが、
長くなり書簡に認めることが出来ない、
尊師が当地方からの通信によって、喜ぶこと無く、不満と悲哀を感じて一層の功徳を積まれんため、
我等の主デウスがこのような事態を許し給わっているのだと思われる。神の御慈悲は賛美すべきかな。

私はヨブが「神より福祉を受けるならば、災禍をも又受けざるを得んや」(旧約聖書ヨブ記第二章十節)
と云えるのを思い起こした。何事も主が命じ給い、又は許し給う事なのだから、一切御手に任せ、
探知すべきではない主の秘密を批判すべきに非ず。

『 一五六五年八月二日附、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰』

都よりのキリシタン追放について。基本的には久秀と息子久通を混同して認識している感じですかね

415 :人間七七四年:2020/10/15(木) 18:58:39.37 ID:bhxO4EPI.net
親子で方針食い違いしてるとか中々外からじゃ気づきにくそうだよね
久秀研究は進んでるけど久秀とちょくちょく意見を異にしてるっぽい久通も今後どんどん研究進むんかねー

416 :人間七七四年:2020/10/15(木) 19:11:44.77 ID:AfKFZNgh.net
松永のキリシタン政策は内裏の意向だったはずだし、所領が奈良で寺社勢力との関係からキリシタンにいい顔しなくなったのは仕方のないこと
全ては弟が討死した事が大きい

417 :人間七七四年:2020/10/16(金) 22:28:43.99 ID:O+cHCO8f.net
永禄八年六月九日

光源院殿(足利義輝)の葬礼が等持寺に於いて、寅刻(午前四時)より、夜明けに及ぶまで行われたという。
しかし、前々には悉く参っていた昵懇の公家たちは、今日、一人も参らなかった。また五山十刹、諸宗などによる
読経も悉く無かったという。ご子孫がなかった故であろうか。
葬礼に在ったのは、相国寺衆、奉公衆、奉行衆ばかりであったそうだ。

『言継卿記』

言継卿記より、足利義輝の葬儀について。三好に睨まれるという恐れもあったのでしょうが、薄情なものですね。

418 :人間七七四年:2020/10/17(土) 00:32:01.78 ID:Nku6hMSe.net
山科卿も伝聞ってことは行ってないのか

419 :人間七七四年:2020/10/17(土) 00:41:15.72 ID:B76PdEkK.net
言継は義輝の昵近公家じゃないしね。

420 :人間七七四年:2020/10/17(土) 01:51:51.31 ID:ed/YEY0g.net
暗殺した連中に葬儀されてたら誰もこんわと思ってたけど、それは政元だったかな?

421 :人間七七四年:2020/10/18(日) 06:27:51.42 ID:n34p4+fZ.net
我等の主にして救主なるキリストの恩寵と永久の愛、我等の心中に常住せんことを。アーメン。

公方様(足利義輝)死後の事件の顛末と、悪魔がその僕により、我等の主にして救主なる耶蘇基督の教えを
都より全然駆逐せんと努めし事に付き、私はすでに多く通信した。弾正殿(松永久秀)およびその子(久通)の
悪心はこの目的を達せん為益々増長し、両人の残忍暴虐は停止する所無く、彼らの部下すら不思議とし驚嘆する
所であった。

これに加えるに、他の諸宗派よりも欲深く、罪悪甚だしい法華宗の坊主は、最も我等並びにデウスの教えを
憎み、弾正殿及びその子はその宗派に属し、同派は今繁昌しているのを以て、彼らは数日前、その僧院に於いて
規則を定め、同派の坊主、保の他何人も天竺人、即ち我等と語るべからず、又議論すべからず、もしこれを為す
時は破門すべきことを発表した。この原因は、多数の俗人が同派の坊主たちに随伴して、我が住院に来たり、
パードレと議論したのを見たが、坊主たちは四語を以て論破され、答弁することが出来なかった為に、
多くの俗人たちは我等の主デウスの教えを聴きキリシタンと成り、坊主を捨てた事にあった。

これによって我等に対する彼らの憎悪は極度に達したが、弾正殿は我等が、彼が殺した公方様、三好殿(長慶)、
及び自己の、当国居住の免許状を有するを以て我等を追放すべき理由を発見することが出来ず、また多数の
法華宗の武士が我等を滅ぼそうと請うていたが、これを公に行うことも出来ず、そこで、日本全国の君にして
偶像のごとく家に在り、外に出ること少なくして少しも兵力を有せず、弾正殿より扶持を受ける王(天皇)を
扇動して我等を追放せしめんとした。

我等はまた、法華宗の坊主たちが公方様の妻を殺した兵士に賄賂を与え、我等の住院に侵入させ、我等を
刺殺させようとしていると聞いた。我等の許には人無きが故に、いかなる兵士も、昼夜何時にてもこれを行う
事容易である。この事はキリシタンの在る多数の城に伝わったことで、各所よりパードレの許に使いを遣わし、
「キリシタンとしては世の中にこのような不公正が行われるとは信じられない。しかし、もしこのような事が
あるのなら、我等は生命を賭してデウスの名誉のため事に当たる覚悟を成す」と伝えた。

(中略)

月曜日の朝、都の主だった執政三人中の一人、名をフイウンガドノ(日向殿:三好日向守長逸)と云い、
異教徒であるが生来善良で、我等の親友なる人である。彼はキリシタンである家臣を遣わして私に告げ、
都より我等を追い出すことが無いように極力尽くしたが、弾正殿が張本人であるので何らの効果が無い故に、
私に堺、又はパードレ・ガスパル・ビレラの滞在する地に赴くように。彼はこの時に途中危害を加えられる
事が無いように、兵士を派遣して私と同行させる、と云い、私に二通の書付を送付した。
一つは、私が所持する品物は、いかなる家においてもこれを没収し、またはこれに触ってはならない、と命じ、
また一つは、途中において税を徴収することを禁じた物であった。これらの税は甚だ高いものなのである。

又、私を堺、或いはパードレの滞在する地に運ぶため、船二艘を無償で提供し、翌朝には弾正殿、三好殿及び
彼はその城に還る事になっているので、もしこのまま滞在しては危険があることを以て急ぐべし、と伝えた。
また三好殿の後見の如き職に在る人、途中無事に通過すべき書付を私に送った。また都のキリシタンたちに
書簡を送り、キリシタンたるが故に、何ら危害を加えるようなことは無い故に、恐るるべからずと伝えた。

右両人の伝言に従い、私は翌火曜日、即ち7月末日まで留まって出発することに決した。

『一五六五年八月三日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護の記事

422 :人間七七四年:2020/10/19(月) 13:29:43.01 ID:dubGELOS.net
永禄八年六月十五日

大和(大和三位入道宗恕家乗)と、武家(将軍家)の御小袖(足利尊氏が着用し、将軍家伝来の白威の大鎧)の
間での、鳴動について雑談した。

普広院殿(足利義教)が殺された時、兼日鳴動した。慈照院(足利義政)の御代にも鳴動し、そのため
御座所を改めた所、常の御座所は悉く転倒したという。
そして今度(永禄の変)でも鳴動し、また後日に重ねて、一日に三度鳴動したという。であるのに、
(足利義輝は)御用心がまったく無く、故に御運が盡きたのだろう。

『言継卿記』

「御小袖」鳴動について

423 :人間七七四年:2020/10/20(火) 14:42:26.52 ID:WJP5InwS.net
二条御所の防衛強化したり
フロイス日本史だと、
前日に京都脱出しようとして説得されて思いとどまってるなど
間違いなく危機感があったようだけどね

424 :人間七七四年:2020/10/20(火) 15:27:53.81 ID:klQ4c8bJ.net
長慶の死亡を知らないのにどうして危機感を覚えたんだろ
なんか最近三好勢の当たりが強いみたいなのがあったのかな

425 :人間七七四年:2020/10/20(火) 16:37:24.59 ID:96wZP2Xj.net
どうみてもウンコですwクソ食いジャップぅ〜www
https://i.imgur.com/6bYIuLM.jpg

426 :人間七七四年:2020/10/22(木) 09:01:05.30 ID:OBGyjGJY.net
美濃の地酒はトンスル

427 :人間七七四年:2020/10/22(木) 16:34:47.88 ID:SwsABL4o.net
畑にうんこ撒いてうんこ収穫してたのには通信使もたまげただろうな

428 :人間七七四年:2020/10/24(土) 15:11:34.23 ID:fcrr8HEw.net
私は神の御意により、一、二コント(万)の兵を有する強勢なる大王の力により、新公方(足利義栄)が
都を領することを期待している。
この人はシノワラドノ(篠原長房)と称し、貧欲、その他悪徳無く、デウスの事を数回聞いたことが有る。
彼は我等を庇護することを希望している。

その国(阿波)に一人のキリシタンがあり、パードレが都に於いて洗礼を授けた者で、高貴にして勢力があり、
王の寵愛する者である。我等はこの人の尽力によって阿波の国王(三好長治)の免許状を得て都に帰ることを、
我等が主デウスに於いて期待している。何故ならば、北方の諸侯は、今悉く彼に服している故である。

但し都は(前に述べた如く)目下擾乱し、戦争のため不安にして、同地には頭が無く、これを治めるべき君
無きが故に、同所に滞在する事は著しい危険がある。公方様を得、戦争が止んだ時に、更に請願すべきである。
我等の主の愛により、これら一切の必要に付き、兄弟の捧物、および祈祷において祈れ。

暴君弾正殿(松永久秀)は前に述べた如く。都に於いて我等を殺すことを命じ、叛逆によって公方様を
殺した後、彼の勧告によって我等は同所より追放されたが、その後、我等の主デウスは正しき判官なるが故に、
戦争及びその兄弟、并びに家臣の死去(弟・松永長頼らの討ち死にの事であろう)、財産の大いなる損失により、
大いに彼を苦しめ迫害し給わった。

『一五六六年六月三十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

京都追放後、阿波三好家などの足利義栄派に期待をかけるフロイスの書状

429 :人間七七四年:2020/10/24(土) 23:49:21.44 ID:fcrr8HEw.net
前に述べたように、三箇に於いてキリシタンと成った者の中に、17、8歳の青年の武士が在った(革島ジョアン)。
三人の執政(三好三人衆)の一人(三好宗渭)の親戚であり、彼はその父の残した収入、毎年四、五千クルザドに
上がりしものを、己に交付するよう懇願していたが、デウスのことを良く解しており、至る所で異教徒と、その宗旨の
欺瞞について議論していた。

彼はシノワラドノ(篠原長房)、及び三人の執政の居るコイミズ(越水城)と称する城に在り、他の青年武士らと
遊山のため、異教徒より大いに尊崇されている寺院に至った時、同行者は彼を侮辱し、「キリシタンと成った事で
神々の罰を恐れないのか」と言った所、彼は
「どうして死せる人、及び木石の像を恐れることが有るだろうか」
と答えた。しかしこの事についてしきりに攻められたため、この青年のキリシタンは、受洗後一ヶ月に及ばない
こともあり、大いに怒り、これによって「木石の恐るべからざるを見るべし!」と言い、偶像に近づき
大いなる不敬を行った。

この事は国内各地に伝わり、前代未聞の甚だしき不敬であるとされ、執政の耳にも達したため、我々を好まず、
これよりもずっと小さな機会であっても我々への攻撃のため利用しようとしていた(反キリシタンの)者達は、
青年を呼び出し、「パードレがあのようなことを成すことを勧誘し、又は指示したのか。或いは。キリシタンは
あのような事を常に行うのか。」と尋ねたが、青年は答えて「パードレは自分の成したことを知らず、また
之を進めたこともない。」と述べ、「同伴者の甚だしき糾問によって、自分の発意を以て之を行った。
もしこの事が罰に当たるのなら、自分はすぐにそれを受けるだろう」と答えた。

キリシタンの甚だしき敵である、三人の執政の中の一人(岩成友通か)はこれに対し、「もし己の従兄弟にして
外二人の執政の親戚でなければ、直ぐに十字架にかけることを命ずるべきだが、自身の好意、および親戚関係
により除外し、希望していた収入を与えないことまでとする。」と云った。
これによって青年は三箇に向かい、サンチョ(三箇頼照)は食を与えてこれを支持した。

執政たちはこの機会に於いて、デウスの教え、及びキリシタンに対する多くの悪言を述べた、
シノワラドノもまた、偶像に対する罪を憤ったが、温和なる言葉を以て彼等に説き、また私がこの事に
関係ないことを知らしめ、その後、約十五日を経て、都の公家に書簡を送り、私が都への復帰の許可を
内裏に求めることを懇請し、また三人の執政をして、彼の書簡により庇護の書簡を認めることを請うた所、
彼等は甚だ之を好まなかったが、その希望に応じた。

二人のキリシタンがこれらの書簡を携えて都に到ったが、悪魔は又、他の妨害を加えた。即ち書簡の宛名に
誤りがあったのだ。そのためキリシタンの一人は之を訂正するため十二、又は十五レグワの道を引き返す
必要が生じた。しかしデウスの御慈悲により、この事は困難な事態にならなかった。シノワラドノの宮廷の
武士が大いにこの事に尽力し、即日訂正、押印したため、キリシタンは直ぐに之を携えて都に着いた。

悪魔がこの上妨害を加えることは無いと思われたが、公家が我等に返答を与える前に、三好殿(義継)および
弾正殿(松永久秀)が堺を出て、四、五千人を率いて都の国を占領しようとした。彼等はシノワラドノ、及び
三人の執政の敵であり、戦闘のため公然大軍を集めた故に、公家は戦の結果を見るまで、回答を中止した。

『一五六七年七月八日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

革島ジョアン不敬事件の顛末

430 :人間七七四年:2020/10/25(日) 17:37:51.31 ID:JXIzxPdf.net
ジャップの頭の悪さは異常😂😂😂

431 :人間七七四年:2020/10/27(火) 22:08:30.83 ID:AXIGWCDj.net
永禄十二年
一月四日
南方より敵(三好三人衆)が出張し、塩小路まで出てきたという。東岩倉の山本は敵になったという。
勝軍の城が焼かれ、その他田中、粟田口、角社一間、法性寺など、多く焼かれた。ぬかの小路は殆ど焼かれた。
京中は以ての外の騒動と成っている。

五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(宗渭)、石成主税助(友道)以下、今日悉く本圀寺に取り詰め
これを攻め、午の刻(正午頃)に合戦、寺の外は焼かれ、中堂寺、不動堂、竹田などが放火された。
武家(足利義昭)の御足軽衆以下二十余名が討ち死にしたという。攻め手の衆も、死人手負いが数多あるという。

六日
内侍所の簀子より遠見をした。南方は所々放火され、四、五百ほどの人数が如意寺の嶽を越え、志賀は
少々放火されている。晩頭に帰る。南方(三好三人衆勢)の事について聞くと、方々で彼等は敗北したと言っている。

三好日向守以下は七條に向かったが、これに西より池田、伊丹衆、北より奉公衆、南より三好左京大夫(義継)が
彼等と戦い、三好義継が鑓を入れ、三方より斬りかかったため、三人衆以下は申の刻(午後四時頃)敗軍し、
多くが討ち死にしたという。その後黄昏に及んだため、殊更の事は無かった。

七日
七條において、昨日討ち死にした衆は千余人という。ただし彼等の名字や特徴は解らないという。
石成主税助は北野の松梅院に逃げ入ったという。そこに各々討ち入り、松梅院は破却されたという。
久我入道愚庵(晴通)によると、細川兵部大輔(藤孝)、池田筑後守(勝正)の姿が見えないという。
三好日向入道以下は、各々八幡へ落ちていったという。

九日
耆波宮内大輔が礼に来て、盃を勧めた。三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後守等は西岡の
勝隆寺へ、昨夜入ったと言うことを雑談した。

十日
美濃より織田弾正忠(信長)上洛、松永弾正少弼(久秀)も同道したという

(言継卿記)

言継卿記より、本圀寺の変について

432 :人間七七四年:2020/10/28(水) 22:11:22.91 ID:T0SBhEYQ.net
永禄十三年
五月二十二日
摂州、江州等よりの注進があった。六角入道(承禎)、同右衛門督(義治)らが、一昨日に甲賀の
石部城に出てきたという、その軍勢は二万ばかりという。
そして織田弾正忠(信長)が、甲津畑において、鉄砲四丁にて山中から撃たれたという。
ただし当たらず、笠の柄が打ち折れたという。言葉にも出来ない(不可説不可説)。

(言継卿記)

杉谷善住坊による信長狙撃事件についての、言継卿記の記事

433 :人間七七四年:2020/10/30(金) 00:12:55.21 ID:S2VucTA+.net
私は、我等が主デウスが現世に於いても、その裁判によって悪人に悪事の報いを與え給う大いなる摂理を
賛美すべき他の一事を尊師に告ぐべし。

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは、釈迦を尊信する法華宗と称するもので、その坊主は
福音の教え(キリスト教)の最大の敵にして、排斥者である。
その寺院の中に、ロチオ(六条本圀寺)と称し、甚だ富み、恐るべき罪を犯す者達が有る。

この寺院は尊師も既にご存知のように、弾正殿(松永久秀)が公方様(足利義輝)を殺した時、これに
千五百クルサドを贈り、ガスパル・ビレラ、及び私を殺すよう命ずることを請うたという多くの証拠がある。
しかし我等の所持していた免許状により、この事は不可能だったので、せめて我等を都より追放し、会堂を
奪うことを求め、これを実行した。我等が都を出る時、同寺の坊主は悉く来て、我等の追放を喜び、おおいに嘲笑した。
その後、寺院の側に、ギナイ(寺内)を造った。即ち美麗なる別荘にして、自由にその悪事を行い、
またこの世の富を増加する為である。

我等の主デウスがキリシタンの敵であることにより、ソータイ(霜台:弾正の唐名、松永久秀)に與え給いし
第一の罰は、約二年半、彼を敵の攻囲中に置いたことであり、第二は公方様(足利義昭)の赦免を得、
尾張の王(信長)の寵を受ける為に、一万クルザド余の最も良き品物を贈ったことである。
第三は、その世俗の権力を、十の内八を失い、今彼を重んずる者は居なくなるに至った事である。

ロチオの寺院の坊主たちは、尾張の王がこの公方様(義昭)を、その兄弟の位に復せん事を知り、遥か以前より
越前及び尾張の国に至り、公方様、及び上総殿より特許状(禁制)を得、軍隊が都に入る時、その寺院は何ら
害を被らず、またこれを宿舎としないよう計った。このために一万クルザドを消費した。
彼等は大いに安堵して喜び、その寺院に帰ったが、公方様(義輝)と共に、その母を殺した時、彼女の家が
甚だ佳い為、坊主たちは弾正殿の寵により、これを破壊して持ち出した事を聞いたと見え、
公方様(義昭)は都に入った時、その報いとして、部下を同寺に宿泊せしめた。
彼等はこのような大いなる圧迫を加えられないよう願ったが、彼(義昭)はこれを嘲笑した。

カンニシュ(三人衆)等が、公方様の滞在した寺院を囲もうとした時、第一に行ったのは、彼等の造った
新しいギナイを焼き、一軒も残さなかった事である。然れども、未だ坊主には、このような不幸によって
気づくものが無かった故に、彼等の艱難と不安はこれによって終わると考えていたが、その後、信長は
(二条城の)石材工事は既に終わったが、もし公方様の宮殿を新たに建設する時は、非常に遅延し、
公方様がまた、速やかに城に入ることが出来ないと思い、何ら躊躇すること無く、同寺の美麗なる座敷、
その他の部屋を破壊し、悉く屏風(画いた布の折り畳むもの)及び、甚だ良き絵画を出させ、直ぐにこれを
公方様の城を飾る為に用いた。

坊主等一同は弾正殿の元に赴いて、彼等のために信長に取りなすことを請うたが、王の一度定めたことを
変更する事は出来ない故に、これを為すことは能わざると答えた。
市の法華宗徒約千五百人が会合し、「殿下の望みに任せ、金銀如何程にても出し、日本全国に有名たる
かの寺院に対し、このような屈辱を加えることを中止するよう信長に請願してほしい」として、
内裏、及び公方様の元に赴いたが、何等の功無くして、悉く破壊され、坊主たちは涕泣した。

先に伝えたキリシタンは、公方様の家臣である故に、上記の座敷の甚だ良い道具を、我等も滞在する
当家に持ち来た。
傲慢なる悪魔の堂は、このような不幸に遭遇したが、我等の主がその霊魂に幸福を与え給わん事を。
(一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

434 :人間七七四年:2020/11/01(日) 14:00:31.50 ID:YBnQkKyS.net
(秀吉の四国征伐で)阿波一宮に押し詰めた時、私(渡辺了)は法度に背き、鉄砲の者の中に混じり、
城方の出丸一つが取り固められておらず、その様子も敵は気がついていなかったので、この方より割り込み、
取り固めてこれに付き、ついに出丸二つが自焼し、この勢は本丸へと撤退しました。

このような仕方を仕ったため、我が方にも負傷者が多数出ましたが、戦闘自体は残る所無く成功したので、
私は法度(による処罰)をも逃れました。

私のその時分の主人は次殿(羽柴秀勝)で、歳は二十四、指物は鳥毛の棒でありました。
この仕方は銘々所々にて存じている面々が今も多くいるので、御不審あらば、証人を連れて申させます。
大したことではありませんが、書き付けておきます。

(渡邊勘兵衛武功覚書)

軍法に違反しても成功すればOKって所は有ったんですね

435 :人間七七四年:2020/11/01(日) 21:08:11.98 ID:gfNQ0oXe.net
西股総生「戦国の軍隊」の冒頭で
渡辺勘兵衛武功覚書の山中城攻めの際の突撃シーンが紹介されていたけど
毎回一番乗りを志してよく死ななかったもんだと思う

436 :人間七七四年:2020/11/02(月) 00:45:04.54 ID:rKBagEyL.net
狙撃できる技能を持った奴なんて、そうそう居ないからな

437 :人間七七四年:2020/11/03(火) 07:33:29.49 ID:ZgCFUtL8.net
まるで帝国陸軍だわな。
処罰出来ないなら戦死させてしまえと言う。

シンガポールの若林中尉はガダルカナルまで送られたぞ。

438 :人間七七四年:2020/11/03(火) 09:52:08.37 ID:Nb7NrXCM.net
我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。
有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。

439 :人間七七四年:2020/11/03(火) 16:37:46.78 ID:0vCwYBzP.net
斎藤山城守(道三)は男子三人を設けた。長男は義龍と申した。
ある時、山城守が他行にて城を空けた所、義龍はその母に向かってこのようにうに言った
「山城守殿は美濃一国を従え信長を聟に取るほどの威勢がありますが、筋目のない侍であるように承ります。
武士は氏を威勢に仕るものであるのに、口惜しいことです。」

これを聞くと母は涙を抑え、
「幼き心にそのように口惜しく思われたか。然しながら、その方には並びなき系図があります。
密かにめのとにお尋ねなさるように。」
と言って、またさめざめと泣いた。

義龍は不思議に思い、めのとに密かに尋ねると、めのとは承って「声が高いです」と、
小声になって申した事には
「御父山城守殿は筋無き都の笠張りと承ります。或夜の夢のお告げにより、大殿様(土岐頼芸)に
奉公され、日々立身され、御家老まで上られ、終に大殿様を亡ぼし御台様を奪い取り、国を横領成されました。
古は大桑と申す所に御在城あったのですが、城内が狭いということで。この稲葉山に城を構えました。

若君はその時、御母君の腹中におられました。つまり土岐の御筋目なのです。
どうか他の人に漏らさないで下さい。御舎弟御両人は山城守殿のご子息です。」

そう悉く語ると、義龍は無念に思い、後見である日根野彌右衛門(弘就)と云う者を語らい、
「山城守殿は我が親の敵である。どうか打ち取り、我が無念を晴らしてほしい。」と、涙とともに
申した所、彌右衛門承り、

「この儀は私にお任せ下さい。先ず家中残らず、下々まで御情けをかけられ、『若君ほどの殿はあるまじ』と
一家中に思い入れさせ、その時に至れば、私に考えがあります。ですのでその時までは顔色にもその気持を
出してはなりません。」と、よくよく諌め、そのため義龍は家中に残らず御情けをかけられたので、今では
『この君の御事ならば御馬の先に立ち、御命に代わらんものを』よ思わぬものは居なかった。

ある時、山城守殿鷹野に出たが、彌右衛門じゃ「時こそ至れ」と、若君を語らい御舎弟両人を、御振舞として
呼び出し、義龍、彌右衛門は手づから膳を据え、折を伺って兄弟の首を、水もたまらず打ち落とした。

それより大手を固めて門を閉め、矢倉矢倉に弓鉄砲を仕掛け、用心厳しく構えたため、山城守殿は鷹野より
俄に取って返して合戦に及んだものの、一家中一味の上は是非もなく討ち死にした。誠に、栄華盛ん也と雖も
主を殺せし天罰が無くなるわけではなく、幾程もなくして、あえなき死をしたのである。

その後日、日野彌右衛門は備中守と成った。義龍は政道正しくあったので、信長公の下手に立つことは
無かった。しかし龍興の代に至り、おごり強く政道正しからざるによって、信長のために終に滅ぼされた。

(堂洞軍記)

いわゆる、斎藤義龍が土岐頼芸のご落胤である、というお話のソースですね。

440 :人間七七四年:2020/11/04(水) 11:44:58.15 ID:jCrSrMeR.net
道三の専制君主制を打ち倒す名分が必要だっただけ
義龍が有能だったとしても結局は宿老制を敷いて傀儡止まり

441 :人間七七四年:2020/11/06(金) 22:14:38.37 ID:rhgHbNk/.net
戦国時代のブラック大名は間違いなく
上杉謙信だよな。殿様が宗教にどハマリ
関東管領縛りで戦続きでも領地増えない&サービス残業求められる。キツイわ

442 :人間七七四年:2020/11/07(土) 01:33:07.75 ID:8XHZA6XM.net
滅ばない前提だとどこが一番いいのかな
百姓なら北条、商人なら織田として武士は・・分国法がちゃんとしてる今川?

443 :人間七七四年:2020/11/07(土) 01:41:21.26 ID:fCwnJg7j.net
はじめに永禄・元亀年間の畿内情勢を考察する際、必ずといってよいほど登場する人物が日乗である。
日乗の活躍する時期は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄一一年から、義昭を追放する天正元年頃までである。その間、禁裏修理奉行や毛利への使者として活躍している。
また、信長は義昭との関係が悪化すると、永禄一三年に条書を発して義昭を詰問しているが、その宛所に日乗の名が登場する。
この条書は極めて重要な文書であるだけに、当時日乗がいかに重用されていたかが読み取れるだろう。このことは、同時期の畿内キリシタン史にも当てはまる。
永禄八年に伴天連追放の女房奉書が出され、イエズス会宣教師は京都退去を余儀なくされた。
永禄一二年、和田惟政の仲介によって京都復帰が実現したものの、以後も反キリシタン一派による執拗な妨害を受けている。その中心人物が日乗であった。
日乗は信長の面前でフロイスと宗論を行い、また信長や義昭に宣教師の追放を進言した。結局両者からはその許可は得られなかったが、天皇からは伴天連追放の綸旨を獲得している。
この事柄をとってみても、永禄一二年頃の畿内キリシタン史を考える際、日乗抜きで語ることはできないのである。


しくじり日乗上人の巻

〇元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰
和田殿が信長からの勘当が解けてから五、六日後、彼に対して虚偽の訴えを行った、かの仏僧日乗は神の正当なる裁きにより、他の人々から彼が犯した重大な罪について訴えられました。
信長はこれを知って激怒し、多くの領主の前で彼を罵った後、足蹴にして追い出すよう命じました。彼は青ざめ、すぐさまその場から立ち去りました。
彼はそれまで有していた役職を奪われ、その後、縁故や懇願により、また、特に内裏の宮殿を再建するため彼に託した多額の金銭に関する報告がない間は、彼が逃げないように、信長は彼に対して素知らぬふりをしました。
彼は今も宮廷内におりますが、気にも留められておりません。

〇『言継卿記』永禄一三年三月二一日条
禁中御作事見舞了、日乗上人信長之勘気之由風聞有之如何、尚可尋之

公家衆の中でもとりわけ日乗と昵懇の仲であった山科言継は、日乗が信長から処罰されるかどうか気に掛けている。
「風聞有之」の文言が、信長が多くの家臣等の面前で日乗を叱責したというフロイスの記事に信憑性を持たせる。

天正元年に入って間もない頃は、義昭への使者として活躍するが、義昭追放後は毛利への使者や丹波国山国荘の入部に日乗の名が登場するに留まる。

※信長の寵を失って失脚したというのは誤りである。

444 :人間七七四年:2020/11/07(土) 01:41:50.04 ID:fCwnJg7j.net
上人じゃなくなるの巻

〇『御湯殿上日記』天正三年三月二五日条
信長より日乗きようてうをしよくするほとに、てんさいといふへきと申入候

〇『宣教卿記』同日条
廿五日子天晴一、信長三大・勧大へ日乗上人ト云義イハレヌヨシ在之、各儀アラタメテ典済可然之由信長被申也、各尤之由申也、
使者始祐閑、後ニハ明知・五郎左衛門・塙九・祐閑四人 ニテ 三大へ被申也

※三大は三条西実枝、勧大は勧修寺晴右

〇『言経卿記』天正四年正月五日条
「典斎 日乗事也、」

〇『宣教卿記』天正三年三月二八日条
廿八日卯雨下、従七時分大雨也、一、二条殿へ御樽進上スル也、幡磨ノタチノムスメヲサゴノ御方、前ハ公方ノ上臈也、
今度信長ムスメ ニシテ、 二条殿御方御所へ進上也、警固ノ衆村井民部・日乗御供也、三献参也、御はいせんスル也、夜也

関白二条晴良の息昭実の嫁娶の記事である。 「ヲサゴノ御方」が信長の養女として嫁ぐことになり、その嫁入の警固として村井貞勝と日乗の名が挙げられている。

天正三年三月二五日に日乗は信長から「典済」と改めるように指示される。
三月二五日まで表記のほとんどが「日乗上人」とあり、「上人」という文言が必ずといってよいほど記されていた。しかし、それ以降は「上人」が全く用いられてない。
その後「朝山三位法印日乗」「典 三位法印 斎日乗」(『言継卿記』)・「日乗三位」(『宣教卿記』)と書かれている。
『宣教卿記』天正三年七月二〇日条の「日乗三位」が初見であるが、いつ三位法印となったかは不明である。
天正三年七月三日に信長が正親町天皇の官位昇叙の勧めを辞退し、家臣の任官を奏請しているので、このときに賜ったか?
※松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵が二位法印


いつの間にか死んでたの巻

〇天正六年三月二日付、オルガンティーノ書翰
都地方のキリシタン教界の諸事はよく進展しており、今年約二千人をキリシタンにしました。すでにキリシタンとなった者は大いに利益を得ております。
コンスタンチィノや他のキリシタン達が強くせがむため、私は今尾張国に向かう道中にあります。私はかの国のキリシタンが利益を得ることを主(なるデウス)に期待しております。
もし美濃国で説教する機会があれば、私達は必ず主の御名において網を投じるでしょう。尊師フロイスが信長の前で宗論を行った日乗上人は先日死去しました 。

※『朝山家系図』によると没年月日は天正五年九月一五日となっている。


総括
元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰の日乗追放として理解されてきた記事は、後半部分にその後も禁裏に出入りしていることが記されており、信長から追放されたのではなかった。
日乗が信長のもとから追放されたかのように記されているのは、フロイスが日乗に敵意をもっていたからであり、フロイスの誇張癖の範疇と捉えるべきである。

445 :人間七七四年:2020/11/07(土) 17:17:59.84 ID:y38pgAVu.net
我等は当面の難破を逃れ、少しく静穏であることを得たが、それから一ヶ月を経ずに突然、更に激烈な
暴風が起こった。
即ち、信長が都に来た時、彼のために亡ぼされた二人の王(朝倉義景・浅井長政)が急遽軍隊を集め、
その国に帰るに先立って、これを殺さんと図ったのである。

信長は既に軍兵を帰らして、当地にはただ一万三千人を留めていたが、彼はこの事を聞くと、即夜出発し、
翌日(九月二十四日)未明、当地より4レグワにして、坂本と称し、コーチンより少し小さな町に於いて
彼等を待ち受けた。

敵は六万にして、皆甚だ良き金の武具を着し、甚だ高き山に上った。同所には五百の僧院より成る、比叡の山の
大学が在った。
彼等の軍隊は山中に、信長は山麓に在って、既に一ヶ月を経過した。
寒気、風雪、霰雹甚だしく、風も又寒冷であり、ただ寒気の為に死す者、双方甚だ多かった。

敵は都の周囲、多数の村落を焼き、市内の混乱、不安甚だしく、一ヶ月以上、最後の審判の様相を呈していた。
何故ならば、勝利が何れに帰すべきか知ることを得ず、信長が敗戦すれば、直ぐにこの市(京都)は焼かれ、
的に蹂躙されるために、市民は、或いは山上に穴を掘り、或いは街路に逆茂木を設け、また家財を隠匿し、
或いは妻子を市外に出した。

而も、市を出れば直ぐに盗賊に襲われ、又は敵に殺された。
夜警、叫喚、警鐘、突撃、等、実に憐れなることばかりであった。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

いわゆる志賀の陣の様子について。

446 :人間七七四年:2020/11/08(日) 17:47:29.53 ID:GYyWhxaL.net
然るに今より八日、又は十日前、日本人イルマンのロレンソが堺より一書を送り、同地に於いて
起こっていることを通知したが、その中に、次の記事があった。

三好殿の書記官コスモが、我等の旅宿の主人ローケと語って伝えた事によると、篠原殿(長房)の重臣の
一人であるキリシタンの語った所に依れば、過日、阿波の大身及び主だった人々が集まって会議した時、
話し合いはパードレのことに及び、
『これらパードレの居住する国には、戦争、叛逆、不和、その他の不幸が起こるのみ成らず、
彼等を庇護する領主及び大身は、必ず名誉、地位、収入及び生命を失うが故に、今回自分たちが
勝利を得れば、即時都よりパードレを追放するを可とする。』
と云ったという。

これは堺の異教徒にして、阿波の大身たちに就いて、パードレ及びキリシタンの迫害のため
努力すること、我等の敵であるかの坊主(朝山日乗)が信長に就いて尽力したことに劣らない、
ベンジャノソウゼの成した所である。もし我等の罪により、彼等が勝利を得れば、彼等に劣らず、
我々に憎悪を抱く大阪の坊主と同一であるから、我等を都よ追放すること疑いない。

このような状況であるが、尊師は我等が、デウスの教えの敵に貶められて、豊後に帰るだろうと
想定すべきではない。何故ならそのような行為は、キリシタンにとっての失望となり、教化の障害とも
成るからである。

信長がもし存命したならば、たとえ都より遠き地に在っても、我等は信長領の内地に侵入して、美濃の国に
至るだろう。そしてもし信長の庇護を受ければ、その領内に帰依する者もあるだろう。
さらにデウスが再び彼に勝利を与え、都に帰ることを許し給う時は、我等が復帰するのも容易だからである。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

志賀の陣で信長が追いつめられていた頃、阿波三好家(?)で、京に復帰したらキリシタンを追放する、と言う
話があったらしいという内容

447 :人間七七四年:2020/11/09(月) 12:33:28.35 ID:6xo3ofEz.net
天皇は一貫として伴天連追放の姿勢だったし、公家と仲のいい日乗は信長に重用されて安土宗論後でも発言力があった
伴天連追放に関しては信長と幕府の義昭(義輝は庇護)は取り合おうとはしなかったので朝廷に働きかけて綸旨を得るに至る

448 :人間七七四年:2020/11/09(月) 17:52:08.59 ID:HT6AaZxm.net
良い機会なので、堺の僧院の長老である一人のキリシタンで、徳高き祈祷の人にして、また文学に長じた者が、
今朝、生誕祭が終わった後、私に語った所を尊師に告げる。

彼は昨日、法華宗の坊主の一人を訪問した、同宗派は不行跡甚だしきものなるが故に、最も我等キリシタンを
憎んでいるが、その坊主は彼に対し、次のように述べた

「我等はキリシタンでない故に幸福にして、我等の運命は仕合わせである。
私は、汝のように疑わしく、確実ではない教えに従うことを悲しみ、かつ遺憾とし、また最後に、
キリシタンと成ったために多くの艱難を嘗めて、獲得した学問及び所領を失う事を憐れむ、

釈迦の慈悲は広大無限であり、一人の犯す罪がいかに重く、また恐るべきものであっても、釈迦の功徳に依って
悉くこれを赦され、地獄に在る者、自らは救われることを欲さなくても、釈迦はその慈悲により、彼を苦悩より
救って幸福なる者と成すのみならず、鳥類、動物、及び四大(地水火風)より生じた物は、一物も残らず
悉くホトケ、即ちサントと成るべし。

故に我等は、現世に於いては思いのままに生活し、少しも懲罰、又は未来の裁判を恐れることはない。
何故ならば我等は、釈迦に依って救われているからである。

キリシタンはこれに答えて云った
「我等こそ、実に汝等の死滅と、悪魔が計略を用いて汝等を欺く事を憐れむ者であり、汝は司祭にして
学者であるのに、自由の生活は汝を誘って罪悪を犯させるものであると知らないのはどういうことか?
しかして、これを汝に勧める者は、諸悪の本源に非ずや?

又、汝の宗旨が笑うべきものであることを悟らせるために問おうと思うのだが、釈迦は動物及び生物を浄化して
その栄光(極楽)に入らしめんとする事について、これら動物は、天性を失うものではない。故に犬は猫と
闘おうとし、猫は鼠を捕えようとするような習慣、及び本来の傾向を忘れるとは思えない。
故に、釈迦の栄光(極楽)の中で、猫が獲物を追い、犬は猫と闘い、一つの動物が他の動物と争うのを
観るのだろうか?
もし、寄生虫が人間の肉によって生存する必要があるのなら、我等が現世での労苦の終極に於いて、
このように不幸な場所に至るというのは、頗る不快な事であると思わないのか」

そう云った所、坊主は
「釈迦の神聖なる事を、そのように物質的に考えるべきではない」と云い、欺瞞の中に生存することを
解する者の如く笑って去った。

尊師、我等の主に祈り、この国民をして理解の眼を開き、一切の幸福の源となる光明と、誤り無き
真理を認めさせ給わんことを。

『一五七一年三月十日附、都發、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

法華宗の僧とキリシタンの論争

449 :人間七七四年:2020/11/09(月) 18:28:03.99 ID:0a51Tor+.net
宗教論争は屁理屈合戦みたいになるんだよな

450 :人間七七四年:2020/11/09(月) 18:51:33.31 ID:lzE3/m4f.net
カルヴァン派「予定説がどーたら」
フランシスコ会「動物に説法した開祖アッシジのフランチェスコがどーたら」

451 :人間七七四年:2020/11/12(木) 16:04:36.47 ID:7iTRDrjx.net
永禄十三年(元亀元年)四月二十日
早朝、弾正忠(織田)信長の出陣を見物する。一条から東に、坂本に下った。三万ばかりの軍勢であった。
両三日以内に若狭へ罷り越すという。
三好左京大夫(義継)はこれを送り、松永山城守(久秀)は共に下った。摂津の池田筑後守(勝正)は
三千ばかりの人数でこれに従った。
公家より、飛鳥井中将、日野等もこれに従った。今日は鰐まで行くのだという。
貴賤男女僧俗が見物をした。

二十三日
今日改元これ有り(永禄→元亀)。方々より借用の遣いがあった。
高辻よりは石帯、持明院・同、四辻相公羽林袍太刀、坊城沓、勧修寺辯大帷、等である

二十七日
一昨日、越前国に於いて合戦があったという。信長衆千人余り討ち死にしたという。
不確実な注進であり、詳しいことはわからない。

二十八日
禁裏に於いて御三間五常楽急百返、八幡御法楽があった。信長のための御祈祷であろうか。
十六反であり、次に太平楽急二反があった。

二十九日
越前の事について、毎日様々な沙汰が有るため、弾正忠宿舎へ行き、留守の衆である島田但馬守、
佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆等と雑談した。福角、森伝兵衛(可隆・森可成長男)、毛利河内守(秀頼)
等の討ち死には必死だという。

信長より自筆の書状が届き、金之崎(金ヶ崎)の城を開城させるため、作事、番匠、鍛冶、をか引き等
七十人ばかりを下すよう言ってきたという。

近江に六角が出兵し、方々を放火したという。そして北郡の浅井(長政)はこれと申し合わせ、信長に別心
したという。これによって越前から美濃への通路は封鎖されたという。ただし越前から若狭の西路は
往還できるという。

武家(義昭)の奉公衆である松井七郎は越前に於いて負傷したという。

弾正忠信長が、亥の刻(午後十時頃)帰陣したという。

(言継卿記)

金ヶ崎の戦いについての京での様子。浅井の寝返りが、朝倉ではなく六角と連動したものと捉えられていたのですね。

452 :人間七七四年:2020/11/12(木) 17:30:38.36 ID:3GjHpviy.net
京極の臣下→独立→朝倉に攻められる→六角に半臣従→信長と同名結んで独立→なかば信長の臣下で、信長政権的には名目上京極の臣下→朝倉・六角と同名結んで独立→滅亡という具合だから、
浅井のどこが義理堅い大名なのかを小一時間…

453 :人間七七四年:2020/11/13(金) 07:06:55.90 ID:H2xv1P5t.net
しれっと捏造してやがるw

454 :人間七七四年:2020/11/18(水) 12:26:44.98 ID:xNkLK5+R.net
里村紹巴法橋は、奈良の住人であったが、ある時
「人は三十歳のうちに名を発せられなければ、立身はならぬものである、
つくづくと世の有様を見るに、連歌師はやすき道と見えて、職人町人も
貴人の御座に連なっている。
もしそれが出来なけれな、百万遍の長老の挙状を取って関東に下り、
大岩寺にて談義を説き習い、世を渡るべし。」

と、ただ連歌と仏門の両道に定め上洛し、昌叱(紹巴の娘婿)である里村昌休を頼み、
連歌稽古をしたが、度々退屈して、弊をうちかたげ関東に下ると言っていた。
しかし小川の連歌師共と様々に交流している間に、徐々に人に知られるようになり、
称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聴き、三好(長慶)殿の仰せにて、宗養(戦国期連歌界の第一人者)と
両吟を仕り、辛労の功つもって冥があったのか、その内に宗養も失せ、紹巴は天下の上手と呼ばれた。

彼は、古今は近衛殿より御相伝があった。称名院殿は、「彼は乞食の容である」として、
おゆるし無かった。称名院殿は惣別人を選んで道を伝えられた、

(戴恩記)

里村紹巴について

455 :人間七七四年:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj.net
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

(老人雑話)

456 :人間七七四年:2020/11/22(日) 08:46:20.95 ID:w1GyK+vu.net
チンパンの浅知恵

457 :人間七七四年:2020/11/22(日) 09:33:32.00 ID:fQlEfJSd.net
青幇ってまだ残ってるよね
他国とはいえ、よく蔑称として使う気になったもんだ

458 :人間七七四年:2020/11/22(日) 13:39:25.81 ID:StDhz9Oi.net
wikipediaうるまの島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%AE%E5%B3%B6


里村紹巴といえば何気なく大きな影響を一つ

「うるま」は沖縄の雅称として知られ、沖縄本島南部にうるま市も存在し、その語源は沖縄方言の「珊瑚の島(うる(珊瑚)ま(島))」と言われています

ところが実際は韓国語にその起源があり、1004年に因幡に漂着した朝鮮半島の鬱陵島(ウルルン島)島民が話題になったことが語源のようです

・うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける
(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)
・おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らず顔なる(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)

その当時に藤原公任が詠んだこの歌で「うるま」が有名になり、更に辺境の島の代名詞となって、後に本土を訪れた琉球国の人々を指す言葉と化してしまったらしい

これを前提にしたうえで『狭衣物語』の注釈書に、紹巴が「琉球をうるまの島と云と也」と書いてしまったことで定着したとされています


ただ、沖縄県民自身が「うるま」を自称しはじめたのは明治以降のことのようですね
本土の文人たちがうるまうるまと言うから自認するようになったらしい
うるま沖縄方言説も近い言葉を当てはめてなんとか作ったもののようで


個人の記述がついに地方自治体名にまでなった一例と言えるだろうか?

459 :人間七七四年:2020/11/22(日) 15:15:05.29 ID:AyJDst3j.net
9月朔日より3日に至り、信長は志村・小川・金ヶ森三城を攻落し、猛威に乗じて12日には大軍を勢揃いして
比叡山にぞ向かいける。これは延暦寺の衆徒が朝倉・浅井に一味して信長を討ち滅ぼさんと謀り、朝倉・浅井の
方へ軍糧まで運んだが故に、信長の憤りは大方ならず、急に攻め立てたられたのである。

山門の大衆は昔より猛威を張って、王命をも武威をも物の数とせざる習いであったため、法衣の上に甲冑を着し、
念珠を離すまじき手には太刀・長刀を引っさげて、坂下に下り立ち散々に切り立てれば、織田勢はこれに追い崩
され坂より下に追い落された。されども寄手は大勢なので新手を入れ替えて、踏み越え踏み越え攻め戦う。

その間に信長は忍の兵を山上に紛れ入らせ、堂社仏閣僧坊ことごとくに火を放たせた。折しも魔風吹き散り峰々
谷々院々坊々を黒煙が覆い火炎一円に蔓延れば、山法師どもは心は弥猛にはやれども、後ろからは猛火に責めら
れ、前からは敵に囲まれて逃げ出る道はなし。寄手の大軍は時を得て切り伏せ薙ぎ伏せ、たまたま逃れた者は縲
絏の恥を受け、法師児童おしなべて助かる者は稀だったのである。

今年今日はいかなる日であろうか。元亀2年(1571)9月12日、その昔、桓武天皇が伝教大師と御心を合
わせて草創し給いし王城鎮護の零場、根本中堂、文珠楼、日吉山王二十一社、およそ山上の三塔院々、経蔵、仏
宇、神社、一宇も残らず焦土となる。浅ましかりける事どもなり。

この時、金剛相模という悪僧は強弓の手練れであったが、如意ヶ嶽から2度まで信長を狙い射た。されども当た
らず。信長は山門を焼滅し、山麓に新城を構造して明智十兵衛光秀に守らせ、信長は岐阜へ帰陣せられける。

――『改正三河後風土記(武徳編年集成・織田真記)』


この時、信長公は東坂本の大鳥居をまっすぐに攻め上らせ給うと、山門の中衆、金剛相模という法師は無双の大
力強弓で、如意嵩から狙いすまして大きな矢をひょうと放つ。その矢は信長公の召されたる御馬の太腹に当たり、
馬はただ一矢に倒れてそのまま死に入った。

信長公はそれから大鳥居の石の上に腰掛けて居直り給い、諸方の焼けるのを御覧になっているところを、相模は
また二の矢を放った。その矢は信長公の腰掛けなさる石に当たり、たちまち砕けた。それより近習の軍兵どもは
鶴瓶打ちに鉄砲を揃え如意嵩へ撃ちかければ、相模はそれよりその場を落ち失せて行方知れずになったのである。

流石の精兵強弓なれども信長公の御運強く、2つの矢を射損じた。その矢の根は1尺2寸。後には京都大仏伝の
宝蔵に伝わり、籠め置かれた。信長公の腰掛石も坂本の大鳥居に近頃まで残った。

――『織田軍記(総見記)』

460 :人間七七四年:2020/11/23(月) 13:00:14.80 ID:ZmTOtX/e.net
日向守明智(光秀)云わく、佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う。
土民百姓はかはゆきこと也、と。
名言也

(老人雑話)

有名な話ですが、出典は老人雑話だったのですね

461 :人間七七四年:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj.net
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

『言継卿記』

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。

462 :人間七七四年:2020/11/25(水) 17:32:44.77 ID:3sAfSzkT.net
どこが勤皇の人なんだよ、野心家じゃん

463 :人間七七四年:2020/11/26(木) 16:47:46.99 ID:Jq8EZIPS.net
みなみな無になってしまったのに

前田利家の次男・利政は関ヶ原合戦の折に改易され、その後は京に隠棲した。
一時は本多佐渡から兄の利長に「(利政を)国の端にでも置くように」と家康の仰せがあったと伝えられ
母のまつ(芳春院)も利政の放免を喜んでいたが、実現することはなかった。
年次不詳だが、利政の処遇についてまつが嘆く書状が残されている。(前田土佐守家資料館蔵)


本当に度々人を遣わして下さるので嬉しく思っています。孫四郎(利政)のことは
初めはするするとしたお返事を(家康が)申されたのですが、今は色々なことがあり
勢いがありません。側で人がどれだけ力を入れても許されなかったので、好機は済んだのでしょう。
大御所さま(家康)は御口が上手いので、(自分の)死んだ後のことまで申されるそうですが
太閤さま(秀吉)が日本の衆に政治をさせ、どれほどの多くのことを仰せられていても
みなみな無になってしまったのに、おかしなことだと思います。
こんなことを申すのは、我が身の因果の程(報い)を感じるようになり、仏心にも見放されたと
思っているからです。九月より喉のあたりが腫れてきて、胸も痛く”けんかん”の薬を飲みました。
合間合間に飲んでいるからか、腫れてはいますが物はよく食べることが出来ているので、安心して下さい。
めでたくかしく

十月六日 より
おちよ御返事 参 ちま はう(芳)
申給へ

464 :人間七七四年:2020/11/26(木) 19:08:52.41 ID:ydaJNGMI.net
親子共にケチだから分家つくるの嫌がったのかね?

465 :人間七七四年:2020/11/27(金) 00:59:50.04 ID:Z34yHn6S.net
佐々木六角四郎(高頼ヵ)が、(足利)義澄将軍に御味方することを申し上げて在京すると聞かれ、
将軍よりご褒美が有り、また細川九郎澄之も、万事を相談し、頼みに思っていた。

この四郎の被官に、甲賀山家の、強盗のようなことをしている者で、三雲という者があった。
彼は、細川澄之と対立する細川澄元を討って参らすと申し、いくばくかの鳥目まで早くも請取っており、
心安く思われている所に、六角四郎は都を出奔して、七月二五日の白昼に逃げ落ち下った。
それより京都は以ての外に騒動して、女童などは逃げ惑い、貨財雑具を持ち運び、身を隠す場所を
尋ねる有様は、中々表現する言葉も無かった。

その頃、六角四郎のこのような行動を憎しと思うものがやったのか

 高綱が つらまでよごす四郎かな たらすばかりか銭も盗みて

という落書が立った。実に保元の古の乱の時、安芸判官平基盛承りて、法性院大路を堅めた所に、
大和国の住人、宇野七郎親治が上がってくるのを、綸旨に依って上がるのかと問われた時、如何せんと
思ったが、仮にも武士が偽りを言うのは家の傷、後代の名折れと思い、院宣に従って上るのだと、
真っ直ぐに名乗って討ち死にしたというのに、それから変わってしまったものだと、京童達は笑った。

(細川大心院記)

466 :人間七七四年:2020/11/28(土) 13:33:04.26 ID:mBxLLQga.net
(細川政元暗殺(細川殿の変)後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって
討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。)

さて、京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、
万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、
検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、
地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのが
ただこの頃の反復である。

両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、
香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは
毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の
滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。
そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように
成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。

以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の
堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ
堀を掘った。

城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、
落書が書かれた

 きこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり
 京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほり
 さりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれ

この返事と思しいもので

 なからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん
 何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん
 花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん

この他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。

(細川大心院記)

467 :人間七七四年:2020/11/29(日) 21:35:00.62 ID:w2E/PteA.net
徳川秀忠の追善供養に対する違和感


将軍・秀忠が亡くなった際、譜代衆を始め国持大名の中でも追善供養をする動きがあった。
ただ家康が亡くなった際は追善供養をしていなかったこともあり、細川忠利は父・忠興に
追善供養を申しつけられるまで指図を待つことを伝えている。【細川忠利文書 四九〇号】

以下はその後の続報を意訳して抜粋。【細川忠利文書 四九八号】

一、相國様(秀忠)の御弔に、右衛門佐(黒田忠之)・松阿波守(蜂須賀忠英)・浅但州(浅野長晟)
  なども千部経を修したことについて、森作州(森忠政)が申されたので、残らず左様に
  (申し付けられるのならば)どうするべきかと話しました。(忠政は)
  「このほかははっきりと存じませんが、私は不要と強く思っていたので申し付けられませんでした。
   三斎様(細川忠興)も(不要だと思っているので)仰せつけられないでしょう」
  とのことでした。
  
――『細川家史料』

468 :人間七七四年:2020/12/01(火) 12:01:01.12 ID:YV3sJxZy.net
武田方に於いては、信長・家康が両旗にて長篠に後詰することを勝頼が聞き家老中を呼び、明日の軍評議が
あった。勝頼はここで、このように仰せになった
「明日は我々より押し懸けて、一戦を仕るべし。」
これに馬場美濃、内藤、山縣らは目を見合わせ、申し上げた。

「明日の御合戦については、御尤とは申し上げられません。何故ならば、敵は両旗にて殊に大軍です。
その上、我々は他国に踏み越えており、一つとして味方勝利を見つけられません。
今度、ここでおくれを取れば、弓矢の御損多く有るでしょう。ですので今回は馬を返されるべきです。
そうすれば、信長・家康の両人も馬を返すでしょうし、その上で又少しの間を置いて勢を出されれば、
信長も手前の上方の用などが有るので、度々はこちらに出陣することは出来ないでしょう。
その時は、長篠は思し召しのままに御手に入ります。」

勝頼はこれに「武田の家に、合戦を回避して、敵に後ろを見せたことはない。その上信長・家康が
大軍で我らを追撃してくれば、家の疵でも有り、また敵に勢いを付けることにも成る。」と仰せになった。
これに対して馬場は申し上げた
「我らを追撃して押し入るのならば、猶以て願うところです。彼等を信州伊那に引き入れて防戦をすれば、
地元での戦いでも有り、勝利疑い有りません。」

しかし勝頼は、全くお聞き入れにならなかった。そこで馬場、山縣、内藤が申し上げた
「そういう事でしたら、明日、長篠城を力攻めにすれば、人数千ばかりは損ずるでしょうが、即時に攻め落とす
事ができるでしょう。そして門城の掃除をし、屋形様を入れ置き、我らはその前の山に出張って防戦を仕ります。
そのようにしては如何でしょうか?」

勝頼はこれに「武田の家にて籠城を仕ったことこれ無し。今私は籠城など思いも寄らない。」と仰せになった。

そこで内藤が申し上げた
「それでしたら、長篠には押さえに二千を置き、屋形様はこの上の山に御陣城をお構えになり、先手の者共は、
あの山に備え、敵を引き受け合戦仕るべし。」

しかし勝頼は「我々から押しかけ合戦有れば、勝利すると思っている。異なことを申す。」と仰せになられた。
この時、長坂長閑斎が申した。「憚りながら、私もそのように存じます。法性院様(信玄)の時分であれば、
何れもこのような反論を申さなかったでしょう。」

これを聞いて内藤は立腹し、長坂と口論に及んだ。これに勝頼は「いやいや、口論はいらない。
旗楯無も上覧、明日の合戦は回避しない!」と仰せに成った。
そこで家老衆も、この誓言の上は料簡を申し上げること出来ず、「下々へも、明日の合戦を申し触れます」と、
その場を立った。
この時、馬場は長坂長閑斎に申した
「御異見申すが、我々は明日の合戦で討ち死に仕る。各々は、我々の討ち死にを見てから甲州に帰り、その事を
物語されるように。」

そして罷り立ち、皆々との別れ際に
「さてさて、法性院様御在世の時は、あはれ討ち死にを仕って御奉公したいと心がけていたのだが、終に
討ち死には出来ず、今まで存命してしまった。
そして、当屋形様には『是非死に候へ』と思し召されているのに、命が惜しいとは。大将の心入とは
このように有るものか。」と、からからと笑って立ち別れた。

(長篠合戰物語)

長篠の戦い前日の、武田方での軍議について

469 :人間七七四年:2020/12/02(水) 14:05:18.04 ID:LrkvWOEY.net
蘆名盛氏、太鼓方の出向延長を伊達輝宗へ要請

〜前略〜
然らば加納弥兵衛去年より逗留し申し候
内々に御当方へお届けの為、近日罷り立つべくの由申し候
然しと雖も、盛隆太鼓の稽古一向に罷りならざりし候
当春中より秋まで徒に数日を送り候
当冬中に稽古致す為、来春二、三月の時分きっときっとと返す返すも申すべく候間、お暇給わり候わば祝着たるべく候
盛隆稽古し申し候間、斯くの如く申し候
謹言恐々

(天正四年か)九月十三日 蘆名止々斎 花押
米沢(伊達輝宗) 江
(東大史料編纂所 編 大日本古文書)

超訳
去年からお借りしてた能の太鼓方の加納弥兵衛、そろそろ送り届けないといけないのですが息子がダラダラしてちっとも稽古できませんで
本来なら二、三月には絶対の絶対にお帰ししますと何度も何度もお約束しなくてはいけないのですけれど
来春まで猶予して頂けたら喜ばしいことでございます
息子も稽古し出しましたので、このようにお願いします

丁寧に借りパク宣言するむりうじ公であったとさ
輝宗の立場がちょっと悪い話

470 :人間七七四年:2020/12/03(木) 12:44:44.22 ID:rvcPObyw.net
一、喧嘩に及ぶ輩は、その理非を論ぜず両方ともに死罪が行われる。また相手が喧嘩をけしかけてきても
  堪忍し、それによって疵を受けた場合、それ自体は武士にとって非儀ではあるが、当座の穏便の働きは、
  その人物にとって、罪を免じられる利運と成る。
  かつ又、与力の輩が喧嘩の場において疵を蒙り、又は死んだとしても、相手に対して訴訟することは
  出来ないと、先年既に定めている。
  喧嘩をした人物の成敗は、とりあえずはその当人一人の所罪であるのだから、妻子、家内等に罪をかける
  べきではない。但し当人がその場から逃走した場合は、妻子もその咎にかかるべきであるが、その場合も
  死罪まで申し付けるべきではない。

一、喧嘩の双方の相手の方人より様々に申し立て、その張本人が分明に成らないことが有る。その時は、
  その現場において喧嘩をとりもち走り回り、あまつさえ疵を被った者を、張本人として成敗に及ぶ
  べきである。
  また、その処分の後から実際の張本人が露呈した場合は、その主人の覚悟によって処分しなければならない。

一、被官人による喧嘩、並びに盗賊の咎がその主人に及ばないのは勿論であるが、それらの罪状の仔細が
  明らかではなく、その仔細を尋ねると称してそのまま置いている内に、その者が逃亡した場合は
  その主人の所領一ヶ所を没収し、またその所領を持たない場合は罪過に処す。

一、童が誤って友を殺害し、それについて意趣の無い場合は、成敗には及ばない。但し十五歳以上の者は
  罪を免れない。

(今川仮名目録)

今川仮名目録の、喧嘩両成敗を始めとした喧嘩についての記述

471 :人間七七四年:2020/12/04(金) 13:17:46.33 ID:3FfByG3y.net
>>469
きっと加納が眉目秀麗なので盛隆が稽古よりも落とすことに執着していて、この度やっと稽古し始めたことを言ってるのだろうね
加納の尻を鼓に見立てて夜な夜なパンパンと励んでそうだわ

472 :人間七七四年:2020/12/04(金) 15:45:56.96 ID:xfgVEgNm.net
元和元年の秋、大膳殿(正木時茂)が国替えとして備前国に預け置かれ、九月中旬、里見忠義公は
伯耆国へ流罪と成った。これは相模殿(大久保忠隣)と同罪の故であった。
忠義公の御前は相模殿の息女であり、家老は板倉、堀江、印東、黒川であった。

この公の落去の事については、当時新家老である印東采女が出頭していた故に、譜代の諸士は悉く
不満や不平を感じならが奉公しており、また忠義自身の悪行として、彼は「非人は国の費えである」
として、悉く打ち殺した。

また相模殿と一味の事は、諸士は知らなかったのだが、その事について、忠義は、彼の威勢に馴うか
その心を見るとして、ある時は水弾き(水鉄砲)を以て諸士の頭に水を弾きその様子を見た。

このような中、新出頭の者たちが次第にはびこり、譜代の士は次第に浪人した。
また相模殿に鉄砲百挺を遣わされたこと、並びに陰謀のことが江戸に早々に知れたのは、
かの浪人達の話より広まったのだろう。

また怪しきことに、寅の年、安房の八幡宮に、里見家御先祖より納めた宝剣を申し下し、
替わりに守家の御腰物を納めた所、宮殿がおびただしく鳴動した。
卯年の夏、お城の堀に稲が一株生え出たのを、諸人群衆して見物したのは、尋常ではないことであった。
同九月、江戸に出府される時、北様に明星と言って二疋の名馬が有った。明星は辻趺して死す故に、
北様が召して御出になった。
また鬼門の方角に向かって、大厳寺という浄土宗の寺が建てられたのも不吉なことだという。

御前は江戸代万町へお越しになられ、公儀より百表づつの扶持を下された、四歳になられた姫君も御一緒であった、
後に姫君は御守りの人に預け置かれ、御前は鎌倉に引き込み、比丘尼となられた。
三の御前については、藤井より美濃へお越しになられた。上下の人々は、そのここかしこと漂白の体を
哀れと言わぬ人も無かった。

忠義公は元和八年六月一九日、二九歳にて逝去された。

『里見九代記』

里見忠義の改易について

473 :人間七七四年:2020/12/05(土) 13:10:00.81 ID:HOdkqwdh.net
里見と北條は、肝付と島津の関係にちょっと似てる

474 :人間七七四年:2020/12/06(日) 14:46:58.26 ID:HNbS3gTH.net
伯耆守殿(酒井康治)の弟に、僧となって一位と呼ばれた悪僧があった。
彼は生まれつき悪であり、善心の弁を知らぬ曲者であった故に、『一子出家すれば九族天に生ずる』の儀を
思し召され、坊主に成られたのである。

天正十八年正月二十三日、宮谷本國寺の日典上人が土気へ振舞に御出でになられた時、その昼に一位殿は
本國寺に参り
「愚僧こそ、今日よりこの寺の住僧である。皆々その事心得るべし!」
そう申すとすぐに磬台に登った。

寺檀は大いに驚き、早速土気へ申し上げると、殿様(酒井康治)は以ての外のご立腹で、早速対処するとの
事であったが、日典上人は先ず、畑ヶ中村にご住居になった事で、殿様のご立腹もいよいよ増し、
御役人に申し付け追い払わせられた。

この処置に一位殿も立腹されたが、力及ばぬ故に、すぐに房州に赴き、里見殿の元に罷り出て、
「土気の城を愚僧に給わるのであれば、兄伯耆守を討ち取り、首を御前に備え申さん。」
と、委細に披露した。

しかしその内に病に取り付かれ、長南まで来た所で相果てた。煩いは骨が痛む病気であったという。
浅ましいものである。例え仏道修行の心までは無くても、どうして方を猥りにし、その上恩愛の兄を
討とうなどと計ったのか。

経にも百千歳の間、百羅漢の供養をしても、一日の出家の功徳には及ばず、たとえば、人が有って
七宝の塔を建て、その高さ三十三天に至っても、一日の出家の功徳には猶及びがたしと見える。
このような無道の心を以て莫大の功徳を得られるだどうか、覚束ないことだ。

日典上人は翌年の正月まで畑ヶ中村に御座して帰寺遊ばされた。
私(著者)もこの件の解決について随分と骨を折り申した故に、このように書き置くのである。

『土氣古城再興傳來記』

475 :人間七七四年:2020/12/07(月) 16:44:25.42 ID:BqGHKMK4.net
山陰騒動多かりければ、京都より、尼子・毛利の和睦の勅使として、三宝院僧正義堯が派遣された。
しかし両軍、累年の遺恨が募る上は勅意を容れず、月日を移していた所、尼子右衛門督晴久が逝去したが、
その跡を子息の三郎四郎義久が継いで、なおも合戦は止まなかった。

このような所に、晴久(義久の間違いか)は内々に、備後の住人である和智又九郎豊郷(誠春)と
親しみ深く、彼と策を用い、永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した。

これによって陸奥守羽林(毛利元就)は憤激し安からず、怨敵への憤りはいよいよ増し、
勅使も空しく帰っていった。

『雲州軍話首』

毛利隆元毒殺説ですね

476 :人間七七四年:2020/12/08(火) 17:18:06.63 ID:VXO61z9T.net
『史籍集覧』の第百八十六に「雲州軍話首」とあるが、冒頭には「雲州軍話の首(序)」と書いてあるだけなので
書名は「雲州軍話」が正しい。総目解題でも「雲州軍話」。
著者は南宗軒多々良一龍(後太平記作者)、尼子視点で書かれたとのこと。

477 :人間七七四年:2020/12/09(水) 16:43:21.92 ID:ijx6Yt/R.net
大阪冬の陣の籠城の時、城内より石火矢を撃っていたが、これは修理(大野治長)屋敷より撃っていた。

ある時、この石火矢の火が脇に移り、修理屋敷は四ツ時分(午後10時頃)火事を出した。
それ以降、板葺きの屋根は何れも土塗りにいたした。

大阪城から石火矢を撃っていたのは難波六太夫という者で、秀頼公の所有する石火矢の中に、日本丸と申す
筒があったのを、車に仕掛けて撃っていた。しかし後に、修理屋敷に火事が出た故に、その後撃たなかった。

(長澤聞書)

大阪冬の陣、大阪方の石火矢について。

478 :人間七七四年:2020/12/09(水) 18:06:39.39 ID:NqDtQxu4.net
桃太郎の鬼退治のお話

慶世村恒任『宮古史伝』より

沖縄県宮古島の豪族、仲宗根豊見親玄雅、通称は空広(豊見親は豪族の称号)は沖縄本島の琉球国中山王
(この時期は尚真)に貢納し、その威勢を借りて先島諸島全域を影響圏にすることを目論んでいた

1500年のオヤケアカハチの乱で、王府軍に加勢してアカハチを滅ぼし、実質的に石垣島も影響下に置く
最後に残った与那国島も、時期は諸説あるものの1522年に与那国首長が王府に従わないことを口実に
征討の軍勢を挙げた

宮古島独特の古謡「アヤゴ」には15、16世紀の叙事詩が含まれる
そのうちの「仲宗根豊見親八重山入りのアヤゴ(仲宗根豊見親与那国攻入のアヤゴ)」では与那国攻めに
参戦する島内外の傘下豪族二十数名の名が挙げられ、その中にこういう名がある

大川盛与那覇のむゝたら(桃多良)

前置きが長くなりましたが、「たら(たらー)」は沖縄訛りで太郎なので、桃太郎なんですね
少なくとも15世紀までに宮古島まで桃太郎説話が伝来し、それにあやかって名付けられたと考察されています
そして攻め入る先の与那国の首長は鬼虎という名でした

この与那国征服(鬼虎征伐)は仲宗根豊見親が宝刀治金丸で鬼虎を討ち取って決着し、先島諸島全域が
その影響下に入るが、その死後すぐに息子たちは沖縄本島に実権を奪われて琉球国の完全支配が確立

鬼虎の娘は仲宗根豊見親の息子の嫁にするとの甘言で連れ出されるが、実際は水汲みの下女として
扱き使われ、悲観して世を去ったという

鬼虎征伐のお話は、多良間島の多良間八月踊り(国の重要無形民俗文化財)で「忠臣仲宗根豊見親組」の
題名で今でも演じ続けられています
http://www.vill.tarama.okinawa.jp/?cat=60
http://www.cosmos.ne.jp/~miyako-m/htm/kagisuma/kagi2005/kagi_050911/kagi_050911.htm

仲宗根豊見親、アカハチ、鬼虎はそれぞれの島で地元の英雄扱いや再評価されているので、沖縄本島視点の
琉球王国史観とはまた違ったものがありますね

※なお、桃太郎さん自身は下っ端らしく、名前だけで出番が終わりです

479 :人間七七四年:2020/12/09(水) 18:07:13.19 ID:NqDtQxu4.net
この話は過去ログの「宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す」、「戦国時代の空手マスターの話」とつながります

480 :人間七七四年:2020/12/09(水) 22:39:24.28 ID:oL1m021D.net
>>478
桃太郎こと桃多良は、18世紀に編纂された「根馬氏系図」において、仲宗根豊見親の父の従兄弟という間柄。
親戚のおじさんだから、三下扱いは少しかわいそうなw

ただし、1522年には結構な高齢と見受けられる仲宗根豊見親の、更に叔父世代が出陣できたかは少々疑問。
ま、伝承自体の信憑性と、後世の系図なので。

481 :人間七七四年:2020/12/10(木) 02:05:05.67 ID:bcPmQbhp.net
大阪冬の陣で、八町目に有った真田ヵ丸と申す出丸は、長宗我部と真田が
半分に割って持っていたのであるが、世間は真田一人の出丸のように風聞している。

(長澤聞書)

今でもそうだな

482 :人間七七四年:2020/12/10(木) 11:19:31.97 ID:rQHSFasw.net
長宗我部は長いから
短い真田でいいや
ってことだったり

483 :人間七七四年:2020/12/10(木) 12:00:01.72 ID:ftgw8pnx.net
長宗我部は祖先が支那人だからなあ、差別によって不当にも歴史の表舞台から消された一族なんだよ

484 :人間七七四年:2020/12/10(木) 17:15:20.90 ID:WqAn93fS.net
長宗我部は名前が当時的に呼びづらいか認識しづらいで公家の日記でめっちゃ読み間違いされてなかったっけ

ちょうすがめ・・?ちゃうすかめ・・・?もういいわ!真田丸!
ってなったかもしれない

485 :人間七七四年:2020/12/11(金) 10:53:10.36 ID:/kF1nQi2.net
罪人の流刑地だし言語能力が劣ってて方言というか薩摩みたいに違う言語で話してそう

486 :人間七七四年:2020/12/11(金) 11:52:21.43 ID:vO2UnWC2.net
>>480
昔の文書は往々にして世代の取り違えあるんでしょ

487 :人間七七四年:2020/12/11(金) 16:03:56.52 ID:gLIIhIx6.net
源君(徳川家康)が秀頼卿を二条城にて饗したいとはかられた事に対し、母公である淀殿は危ぶみ怖れて、その時の
軍配者である白井龍伯が、占いに長じた者であったので、この龍伯に吉凶を見させた。

龍伯は七日間潔斎して、香を炊いてその煙気を見る事三度ながら、その三度共に『大凶』となった。
その趣を書いて片桐市正(且元)に知らせると、市正じゃ彼を私宅に呼んで、その故を聞いた。
龍伯は
「大凶であり、(二条城に)赴けば必ず害に遭うでしょう」と言った。
これに対して且元は

「私は煙気の事は解らない。ではあるが、もし秀頼公が赴かなければ、兵乱が起こるだろう。そして赴くことは
難しいことではない。これを以て見る時、勘文を書き換えて、『吉也』とせよ。」と言った。

これに龍伯は聞こうとしなかったが、且元が強いて「その咎は私が引き受ける」と言ったため、
已むを得ずして『吉也』と書き換えた。しかし「不慮の事が有れば如何せん」と憂うのを、市正は笑って
「秀頼公が害に遭い給えば、私も共に死ぬだろう。その上は、一体誰がお主に罪を問うのか。」と云った。

龍伯が淀殿・秀頼母子に勘文を奉ると、淀殿は大いに喜んで、秀頼卿を二条城に赴かせた。
そして無事に帰城されると、淀殿は龍伯を賞して、白銀百枚を給わった。またその他にもかれこれより金銀多く贈られた。
龍伯は市正の宅に行き
「今、このように多くの金銀を得たのは、貴公のおかげです。」
と拝謝した。そしてそれより気を見る術を止めて、閑居した。

或る人曰く、軍者の諸家は日取りを見る法を盛んに行うが、総じて見ると、ひと月のうち、その中の吉を取れば
悉く吉日と成り、凶を取れば悉く凶となる。しかしこれによって「元来吉凶無し」と言ってしまうと、物を破る
誤りを生ずる。また一方で「吉凶有り」と言えば事に惑う患が深い。故に、見る者をして独り悟らしむのである。

(若州聞書)

488 :人間七七四年:2020/12/11(金) 16:43:37.14 ID:jwmD+r7O.net
今孔明といわれた白井の一族かと思ったら分家の方だったか

489 :人間七七四年:2020/12/11(金) 21:52:30.83 ID:rjo41BEo.net
たとえば「若州聞書」は小浜藩家臣鳥居氏に伝来した文書・・というような説明があれば、
どういう経緯で伝わったものか面白そうなもんだけど
そういうことを付け加えるつもりは全くないようなのよね

490 :人間七七四年:2020/12/12(土) 10:13:20.65 ID:nKHZzrpm.net
立花家史料館@TachibanaMuseum
https://twitter.com/TachibanaMuseum/status/1337278690502164482
本年コロナ禍の影響を受け、立花財団は存続の危機にあります。職員一同力を尽くして参りましたが、
次年度解散の恐れも出て参りました。初代戸次道雪から立花宗茂以降連綿と繋いできた立花家3万点の
歴史を柳川の地で守り続けるため、皆様のご支援そして拡散をお願いいたします



管理人氏のツイートで目に入ったがマジ洒落にならん・・
GOTO批判を横目に見てるだけのお気楽な立場でいたいとこだけど、どっちにしろ最適解がないしなあ
(deleted an unsolicited ad)

491 :人間七七四年:2020/12/12(土) 10:25:05.53 ID:4e9p7RQQ.net
これは困ったことになりすぎだ

492 :人間七七四年:2020/12/12(土) 13:11:42.51 ID:6Hqiam/6.net
最悪柳川市に寄託すればいい

493 :人間七七四年:2020/12/12(土) 13:16:22.43 ID:vxqNN8m/.net
借金に困ってるならなんでさっさと自己破産しないの?
バカなの?
って発想よな

494 :人間七七四年:2020/12/12(土) 13:43:28.29 ID:p5z35RZE.net
他人の褌で稼いでるアフィカスが寄付しろよ

495 :人間七七四年:2020/12/12(土) 14:26:39.24 ID:wnMj8rFt.net
>>494
自殺まだ?

496 :人間七七四年:2020/12/12(土) 15:55:30.63 ID:utuFYwSn.net
ミイラについて、交趾(コウチ)と暹羅(シャム)の間に、三百里ばかりの砂原があり、この場所の往来は
松木丸太船に乗り六尺ばかりの小帆をかけ、身は蓑を着用する。何故ならば風烈しく、砂を吹きかける故である。
そこで目だけを出して、かの砂原を風にて走るのである。

その折、砂原に人の死骸の、幾年か経たものを見つけて、熊手のようなものが兼ねて用意してあり、これを
打ち懸けて引きずって帰る。このような死体は、肌は干し固まっていても、着用している木綿はそのまま朽ちず、
故にこれをミイラ(木乃伊)と云い、これは不慮に求め得たものであって、故に本来ミイラは至って大切なもので、
かの地でも秘蔵している。その上、人の形で死んでも小さくなり、さらに干し固まる故に、多くは無く、
毎年発見されるというようなものではない。かの砂原を往来する時に、たまたま見つけて求め得るのだ。

時として日本に渡ってくるミイラは、過半、拵え物である。これは火屋(火葬場)の柱に年々溜まった
人の油を取って、松脂の古いものを使って煉合するのである。しかし人油故に、これにも功が有る。

(渡辺幸庵対話)

百三十歳まで生きたという渡辺幸庵の、ミイラについての証言

497 :人間七七四年:2020/12/12(土) 16:21:24.81 ID:p5z35RZE.net
>>495
お前が自殺しろよ、世の中になんも貢献してないだろ
死んで初めて貢献できるなんてゴミクズの鑑じゃんか

498 :人間七七四年:2020/12/12(土) 21:27:28.96 ID:WC7TjCkO.net
ベトナムとタイの間(ラオス?)に砂漠?

499 :人間七七四年:2020/12/12(土) 23:49:04.11 ID:fXJEP1hF.net
>>493
自己破産したら、価値のあるものは全部競売にかけられて、貴重な資料が全国、運が悪けりゃ全世界に散逸して二度とみられなくなるってわからないの?
馬鹿なの? 死ぬの?

500 :人間七七四年:2020/12/12(土) 23:51:38.91 ID:fXJEP1hF.net
>>492
財団が借金で破綻した場合、破綻前に価値のあるものを市に寄託するのは債権者へ損害を与える行為としてより消される可能性が高いよ、
借金と資料とセットで市が引き受けるならできるだろうけど。

501 :人間七七四年:2020/12/12(土) 23:52:36.92 ID:lxzWGTdc.net
ホーチミンから北東に200km強行ったムイネーというところに砂漠というか砂丘があるらしい
近年は観光地として脚光を浴びていたとか

502 :人間七七四年:2020/12/13(日) 00:46:18.97 ID:kgtuPjPM.net
建付け君今度は悪い話スレに出るようになったのか
残念だけどどれだけアフィカス連呼しても君が無職なのは変わらんからな
月曜からは地道にハロワ行けよな

503 :人間七七四年:2020/12/13(日) 07:31:03.87 ID:3Qg8vxhD.net
>>499
直前レスへの皮肉ってわかる?
国語ってむずかしいでちゅね

504 :人間七七四年:2020/12/13(日) 08:09:06.35 ID:r6bdNegm.net
アフィカス太郎今度は悪い話スレにも出るようになったのか
残念だけどどれだけ無職連呼しても君自身が無職なのは変わらんからな
月曜からは地道にハロワ行くかさっさと自殺しろよ

505 :人間七七四年:2020/12/14(月) 11:51:09.54 ID:XY+mwcMT.net
ハロワ行ったか?じゃなきゃ自殺しろよアフィカス

506 :人間七七四年:2020/12/17(木) 16:29:20.77 ID:jVMIKhyQ.net
山科言継の愛人・左衛門督の死


山科言継の長女・阿茶は禁裏女官であった愛人・左衛門督との娘で幼い頃から出家していた。
公卿と禁裏の女官が愛人関係になるのは当時よくあったことで、言継の母も禁裏の下級女官であった。
左衛門督と阿茶はお互い連絡を取りつつも、離れたところで暮らしていたが
左衛門督は元・禁裏女官という経歴を活かして、越前朝倉氏に侍女として奉公するようになっていた。
阿茶はのちに還俗し越前の松尾兵部丞の後妻になっているが、この松尾兵部は「朝倉兵部」とも号する
越前朝倉氏の庶流で、左衛門督が娘と近くで暮らすために縁組を世話した可能性があるという。
【参考論文・山科言継をめぐる三人の女性 : 実母・愛人・長女】

その後、母子は言継に対し自身の現況を言継とやり取りし、左衛門督は朝倉義景に気に入られて
民部卿と官途名が変わったことなども報じられていたが 『言継卿記(紙背文書)』
信長の越前侵攻で状況が一変した。言経卿記の紙背文書にある阿茶からの書状によると

「……われらかもじ(母)も、こそ(去年)のふなか殿御いて候ときにけ候とて、あしかよわく候て
 とをくへはゑにけ(逃げ)候はす候、みち(途)にて御すき(過ぎ)させ給候……」

足が弱いせいで逃げられず、織田軍の一向一揆壊滅戦に巻き込まれて亡くなったことが伝えられた。
幸いにして、阿茶の夫の松尾兵部は織田氏の麾下に属し加賀国にいたため難は逃れたそうだが
この書状を読んだ言継の胸中はいかほどだったろうか。

507 :人間七七四年:2020/12/18(金) 11:20:40.15 ID:QtMYQSwx.net
夫も死ねば娘とハメハメできたのに

508 :人間七七四年:2020/12/18(金) 22:06:27.21 ID:Z7QWz4kr.net
大和国は京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、国侍が相互に自立の
志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。

さて、織田信長公が上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。順系と松永については後に記す。

その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、

『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。それより二条の屋形に取り詰め
信忠公も御生害遊ばされた。しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』

との内容を申してきた。順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」との旨を申し上げた。しかしここで、松倉右近(重信)
がこう申した

「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」

そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、案の定
秀吉公が中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、順慶は使者を遣わし、明智に対して
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、お頼みに成るとの御返答であった。

そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
順慶は、秀吉公に味方は仕ったが、勝負を見合わせた事について、秀吉公も無二の志とは思し召されて
いるものの、この時のことの故であろうか

筒井順慶は、信長公の時に、「相替わらぬ大和の大将である」と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を
給わり御越になった。そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は何れも秀長の家来として成り置かれた。

『大和軍記』

509 :人間七七四年:2020/12/25(金) 15:58:29.84 ID:I0dSoLUQ.net
慶長七年、島津忠恒は上洛し関ヶ原での事を謝罪、家康は島津を本領安堵とした。
そして御暇を下され帰国の時、島津家との取次である山口勘兵衛(直友)に対し、このような内談をした

「備前中納言(宇喜多)秀家は、関ヶ原の敗北以後、薩摩に逃げ下り我らを頼って来た故に黙し難く、
領地の端に押し籠めています。どうか彼の一命を御助けに成るよう、次回にも御訴訟申し上げたいの
ですが、いかが仕るべきでしょうか。」
これに対し勘兵衛は「これについては本多佐渡守(正信)と内談し、重ねて申し越します。」と申した。

その後、勘兵衛の与力である和久甚兵衛が差し下され、『秀家を直ぐに差し上がらせるように。訴訟に
ついては本多佐渡守が取り持つ。』との旨を忠恒方に申し越した。
これにより、家臣の桂太郎兵衛という者に警護致させ、正興寺文之と申す出家を相添えて、秀家を
差し上らせた。慶長八年、八月六日に薩摩を発足し、同月二十七日、伏見に到着し、山口勘兵衛の
所まで案内した。

その頃、本多佐渡守は関東に下っていたが、本多上野介(正純)まで勘兵衛より連絡すると、
上野介より上聞に達し、
『秀家については、叛逆の棟梁であり本来は助け置くべき者ではないが、島津家よりの訴訟
黙し難く思し召され、死罪を宥し、駿州久能に召しおくべき』旨の上意があった。
これにより、忠恒より、一族の島津摂津忠政を以て御礼申し上げた。

その後秀家については、八丈島に流罪になったと承っている。

(島津家譜)

宇喜多秀家の身柄受け渡しについて

510 :人間七七四年:2020/12/26(土) 14:02:32.02 ID:JQ/PrDbx.net
関東の馬のようではなく、弱くて異なるもの


寛永15年(1638)、九州中の牛が病気で死ぬということがあった。【細川家史料 細川忠利文書四八二九号】
当時の忠利には知る由もなかったが、これは牛疫で西日本で五十万頭以上が死ぬ大流行であったとされる。
同時期に朝鮮半島でも牛疫が流行っており、病気の牛が漂着したのではないかと推測されている。
九州の牛死について詳しく述べている部分を抜粋して意訳。

一、九州の牛死についてですが、(どうせ牛が死んでしまうので)みな一人として世話をしようとせず
  少しも忙しくありません。また牛の薬が来ましたが、薬を飲ませるべき牛もいません。
  そうとはいえ、在所によっては一匹や二匹ずつ牛は残っているそうです。只今は馬に田畑を
  耕させていますが、(九州の馬は)関東の馬のようではなく、弱くて異なるもののようです。
  牛が二万三万も死ぬことはなかったので、(牛を家臣に用意するよう)申し付けることも出来ず
  (自分で)買うことも出来ません。上様(家光)にもどうしようもないことでしょう。
  薩摩の馬を買ったのですが、あちこちで(牛が死んでいるので)、乗る為の馬より高くなっていました。
  これも役には立たなかったので、熊本(城)の普請は止めて下々に知行をやって百姓を助けさせています。
  来年はいかほど(田畑が)荒れるか分かりません。苦々しい九州の様子です。

――『細川家史料 細川忠利文書 五〇二〇号』

511 :人間七七四年:2020/12/27(日) 16:54:25.91 ID:E1J1ggJF.net
琉球国は島津家久(忠恒)十代の祖、陸奥守忠国に、普広院殿(足利義教)より拝領され、
永享年中より薩摩に従っていたのだが、近年それを懈怠いたし、殊更、島津家より権現様(徳川家康)
への御礼を申し上げる旨を申し付けたのだが、了承に至らなかった。そのため軍勢を差し向けて
退治するという旨を、山口勘兵衛直友を通じて言上いたした所、たちまち御免頂いたため、
慶長十四年三月上旬、家久は家老の樺山権左衛門久高、平田太郎左衛門増宗に申し付け、
軍勢三千、兵船百余艘を差し渡らせた。家久も山川と申す湊まで出馬し、下知をした。

権左衛門、と太郎さえもんは先ず大島に手を付け、徳島へと参ったが、島の者共がこれを
防ごうとしたため、数百人を討ち取った。そのため永良部島は異議なく従った。

それより琉球の地に押し掛かり、四月一日、海陸より、国王の居城である首里という城に
取り掛かった。そして国王の尚寧が降参仕ったため、早舟を以てこの事を家久に申し越した。
これを使者を以て言上した所、権現様、台徳院殿様(秀忠)は御感斜め成らず、感状を下され
琉球国を永く家久に下すという旨を仰せに成られた。龍伯(義久)、惟新(義弘)にも同前に
御感状を頂戴した。

権左衛門、太郎左衛門は、尚寧を連行して、五月五日、薩摩に帰着いたした。

(島津家譜)

琉球出兵について

512 :人間七七四年:2020/12/28(月) 17:08:37.03 ID:haa7VbwK.net
慶長十九年、大阪御陣の前、豊臣秀頼より高屋七兵衛と申す者が薩摩に差し下され、
島津家久(忠恒)に味方を頼むとの内容の、九月二十三日の日付の書状と、
長銘正宗の脇差を相添えて到来したが、家久はこの書札と、それに「同心仕らず」とした
返書の文案を添えて、京の板倉伊賀守勝重まで差し上げ、家康、秀忠が御出陣なさる場合は
必ず馳せ参ると、伺い申した所、その返事に

「軍勢を相催しての上洛は、状況次第で致すべきです。たとえ両御所が出馬されたとしても、
下知が有る迄罷り上がってはいけません。」

と、伊賀守は申し越して来たため、家久は軍勢を揃えた上で一報を待った。

その後、秀頼より北川勝左衛門と申す者を差し下し、書札を以て、是非に頼み入るという旨を
申し来たが、家久は
「前の返事で申し遣わした通り、同心仕らず。重ねて使札を送ってこないように。」
と申し返した所、秀頼よりまた、武井理兵衛と申す者を差し下して来たため、家久は
この理兵衛を絡め捕り、秀頼よりの書状を添えて、山口駿河守直友方まで差し上げた。

(島津家譜)

513 :人間七七四年:2020/12/29(火) 03:46:34.61 ID:QStWjYLB.net
で好みブイさん、首はどうなったんだろう。

514 :人間七七四年:2020/12/29(火) 09:27:32.78 ID:ibLnzMuB.net
自殺しろよ

515 :人間七七四年:2020/12/29(火) 15:11:47.50 ID:udP4YAK5.net
元和元年の夏、秀頼が又叛逆(大阪夏の陣)をした事について、本多上野介(正純)より書状が
差し越され、『軍勢を催し、一報があり次第まかり登るべし』という内容を申し来たため、
その一報を待っていた所、上野介、駿河守(山口直友)より、卯月(四月)二十日の書状で
『五月の初めに到来するよう、早々に出陣するように』と申し越したため、
五月五日、島津家久(忠恒)は一万三千の軍勢を召し連ね、鹿児島を発し、領内の京泊という所から
出船し、肥前平戸に舟をかけた所で、駿河守方より、五月九日付の書状で、

『去る七日、大阪落城致したので、軍勢は残し置いて、手廻りばかりにて早々に罷り出るように』

と申し越した旨が、同十九日に到来した。そこで兵船を平戸より返し、家久は手廻りばかりにて
罷り上がり。六月二日、尼崎に着船致し、伏見に於いて権現様(徳川家康)に御目見得仕った。
行平の御太刀、正宗の御脇差、御馬ニ疋を拝領仕った。

同月二十七日、二条城に於いて舞楽を仰せ付けられた。七月朔日、御能が有り、同八日、
伏見の御城に於いて御能が仰せ付けられた。何れも家久は召し出され、見物を仰せ付けられた。
有り難き上意共であった。

(島津家譜)

大阪夏の陣における、島津の遅参について

516 :人間七七四年:2020/12/29(火) 16:11:07.65 ID:IlJRnCay.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5369.html
この逸話では島津義弘が天文を見ながら「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る
自分が城中にいれば」
と嘆いてるけど、とてもそんな様子じゃないな

517 :人間七七四年:2020/12/31(木) 06:59:30.25 ID:hcA9RNg7.net
この一万二千が関ヶ原に有らばと思うと。

たぶん、会津征伐の先陣で東軍だろうけど。

518 :人間七七四年:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ.net
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」

弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」

そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。

その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。

その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと

「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」

そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」

こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。

その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。

この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。

(備前老人物語)

519 :人間七七四年:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf.net
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね

左馬之助ってどっから来たんだろ

520 :人間七七四年:2021/01/04(月) 15:55:09.68 ID:fnVE6c2t.net
蒲生氏郷が病に伏せられた時、利休が見舞いに来た。この人は氏郷の茶の湯の師であったので、
寝床に迎え入れて対面した。

利休は病の有様を見て、
「御患いの御養生は、未だ半ばと見えます。あなたは第一には。御年も若く、文武の二道の御大将であり、
日本において一人二人というほどの御大名であり、どれもこれも大切な事共です。
慮外ながら、あなたは御保養を疎かにしているように存じます。どうかご油断なさりませんように。」

そう言うと、氏郷は

「かきりあれは ふかねと花はちる物を 心みしかき春の山風」

と詠まれた。これに利休は涙を流し「殊勝千万の御事かな。」と言うと、しばらく言葉もなかったが、
やがて「さようには候へども」と言いながら、涙を抑えて

「ふるとみは つもらぬさきに はらへかし 雪にはおれぬ青柳の枝」
(あなたは、雪が降ってきても積もる前にそれを払い返し、雪の重みに折れることのない青柳ではありませんか)

と言って、その後物語一つ二つして立ち帰った。

(備前老人物語)

これは実際には、氏郷と、利休の養子である千少庵の間の逸話のようですね。

521 :人間七七四年:2021/01/09(土) 16:07:13.94 ID:bulrWr5U.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10773.html
中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

↑細川忠興と伊達政宗が朝鮮で見つけた王羲之の孝経の書を切断して2人で分け合った逸話が昔出ていたけど、
細川忠興が雪舟の画を分割した話もあった。

山口県立美術館所蔵の雪舟「倣高克恭山水図巻」の木下俊長(木下延俊の孫)添状によれば
木下延俊が義兄の細川忠興に招かれた時、画工の長谷川某がこの雪舟の掛け軸を持ってきた。
某「困窮しているためどうか買ってほしい」
忠興「長いから短くして木下殿と分けよう。
それぞれ足りない部分は長谷川が模写して、お互い真筆と模写一つずつ持つことにしよう」
というわけで細川家、木下家で雪舟の真筆を分け合うことになったとか。
(細川家の方はその後、明暦の大火で焼けてしまったらしい)

522 :人間七七四年:2021/01/11(月) 04:08:08.75 ID:QqlGwnxc.net
水野勝成さん以外の
水野一族の人って本当に運が悪いな
正直言って畳の上で死ねたのは勝成さんぐらいで
みんな暗殺されるか戦死か所業が悪くて切腹とか
非業の死を遂げてるな
しかも水野一族だけでなく縁戚の松平一族や久松一族もほとんど非業な死を遂げてる。
まぁ戦国時代だから仕方ないけど異常過ぎるわ

523 :人間七七四年:2021/01/11(月) 12:34:05.76 ID:OYdq351k.net
平塚因幡守(為広)の、関ヶ原での討死の様子を人が語った所によると、関ヶ原の合戦で、味方敗軍に
及んだ時、因幡守は馬を脇に引き退け、自害するような様子に見えた所に敵が来て、

「筑前中納言(小早川秀秋)の小姓、横田小半助!」

と名乗り、歩行にて馬上の因州を一鑓突いた、しかし因幡守は、突かれながら自身の十文字の鑓にて
横田を一打ち二打ち打って、「せがれ(若造)め!」と罵ると、小半助は鑓を引き抜き、又掴みかかろうと
した所に、因州は素早く馬より飛び降り、馬を盾にして小半助と戦い、終に小半助を突き伏せ、
若党に首を取らせ、「この首せがれながら志の者と見えた故に討ち取った。互いにこれが暇乞いである。」と、
大谷刑部少輔(吉継)へ言い遣わした。

その後、因州は殊の外に疲れて、田の畦に腰を掛けて息をつき、自害しようとしていた所に、
山内対馬守(一豊)殿の侍、柏井太郎兵衛(樫井太兵衛)と言う者が馳せ来て鑓にて突いた。

この時、因州は自分の鑓を投げ突きにし、「汝が宝にせよ。」と言って、その場を去らずに討ち死にした。
もし小半助が、一度突いた鑓を抜かなければ、彼が利を得ただろうと言われた。

(備前老人物語)

524 :人間七七四年:2021/01/11(月) 19:21:09.41 ID:SZMnZVxW.net
吉川元長、弟・経言の現状について苦言する


かつて吉川経言(のちの広家)には、尼子旧臣の小笠原長旌の婿養子になる縁談があったが
両家の間で話をし輝元に相談するところで、輝元の強い反対に遭い破談になったことがあった。
特に経言は破談になると外聞が悪いので、嫁取りだけはしたいと元長を通し輝元に伝えたが
輝元は「経言のせいで三家が滅ぶ」「(元春が)経言を操って養子入りを強行しようとしている」などと
聞く耳を全く持たず、最終的には「(養子入りを止めるために)この命を賭ける」という反応だった。
元々、小笠原氏は経言の弟の松寿丸を養子にしようとしていたが松寿丸が亡くなってしまったため
代わりに経言を貰いたいとの話であったので、元春・経言親子はあまりのことに驚き沈黙した。

以下は騒動から二年後、経言が秀吉への人質として送られる際の兄・元長の起請文。
宛先は隆景と毛利家重臣の福原氏。例によって長い書状なので、大意だけ意訳。

〜〜〜〜〜
(輝元は小笠原家と吉川家には筋目がないと言われましたが)長雄(長旌の父)の妻は新庄(吉川家)の出です。
(元就夫人の妙玖も吉川家の出なので)つまり元春は(長雄の妻から見て)伯母の子にあたる訳です。
小笠原家に実子が出来ないから(吉川家が)改易する話ならともかく、養子入りさせて残そうとしているのに
非難されるのはよく分かりません。朋輩衆の養子契約はよくあることです。隆景は小早川家を継いでいますが
これは小早川興景の妻が毛利の出であるからですし、元春は吉川興経の養子になって吉川家を継いでいます。

経言の養子入りは小笠原の家中から出た話ですが、そうとは言えあの家の意見が一致しておらず
元春や私が道理に外れたことをしたと申し上げる者がおり、嘲りを受けることになったのは仕方ありません。
しかし御当家(毛利家)の御意を違えて、我ら一類の進退を失うような問題になるのは理解できません。
どこにでも養子や養父はいるのに、私や元春に対して(輝元の)なさりようはどうなのでしょうか。

御当家に対して隆景・元春が奔走するのは当たり前です。とは言え元春が(自分の家の都合を差し置いて)
日頼様(元就)の戦に今日に至るまで気遣いしてきたのは、皆々ご存知のはずです。
私の兄弟の一人でも引き立てていただければ、少ない分限で長年日夜を問わず苦労してきたことを
(輝元が)分かって下さったのだと(元春は)ありがたく思ったでしょう。
国衆の次男・三男でさえ過分の扶助を与えられています。取り立てての扶助は要りませんが
養子契約をしてよいか申し上げることも出来ないほど、万事遠慮しないといけないのでしたら
扶助して頂くことは無理ですね。

このことはすぐに言うべきでしたが、いまこのときになって言うのは、経言が上国するので
私の内心を明かしておきたいと思ったのと、経言が不憫だと申したいからです。
元春と経言はあの家(小笠原家)のことについてもう申し上げないと(輝元に)約束しました。
経言が上国するのに難渋したくないからですが、私はそんな約束はしていないし
遠慮ばかりして後悔したくないので、心中のことを残らず申し置くことにします。

今度の上国命令についてですが、経言は外聞を失ってしまったので今後出仕出来ない覚悟でいました。
そこに(人質として上国し)御用に立つようにとの命令がありましたので、(その覚悟を)忘れないように
(経言は命令を)お受けしました。今後経言が帰ってこられるか分からないので、(経言の)進退のことを
私は申すべきではないかもしれませんが、このような進退になってしまった経言が
その身をなげうとうとしているのが、不憫でならないのです。

ですから申します。元綱(小早川秀包)にはあれこれと扶助していますが、経言とどう違うのですか。
二人一緒に上国するのですから、(経言)一人で高名をするように申す訳ではないのですが
人質になる身上ですので、公私ともに心残りのないように上国したいと思っているようです。
私と元春も同じ気持ちです。

経言は(進退を失ってしまったので)元春の老後の話し相手にでもしようと思っていたのですが
(輝元の)御気遣いで御用に立てることになったので、人質として差し出すことにしました。
このような元春と私の心底を思いやって、(輝元に)口添えしてもらえないでしょうか。

そもそも経言の進退について今申すのがおかしいと言われるのなら、その旨を元春・経言に
申し聞かせます。たとえ経言に御憐憫の目を向けていただけなくても、我々父子の御当家に対する
奉公は変わらないということを、内々に申し分を伝えたくこのようにしました。

――『吉川家文書 一二四七号』

525 :人間七七四年:2021/01/14(木) 15:34:24.13 ID:+EdODEIp.net
確かに経言のせいで三家が滅びそうになったね

526 :人間七七四年:2021/01/15(金) 20:12:44.52 ID:QrXZWoJ1.net
薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

以下は秀吉が吉川元長に対し薄諸光が"文書偽造"をしたことをしらせる書状である。

わざわざ申し遣わします。薄という公家が諸国の牛に役銭をかけて取っていますが、秀吉は知りません。
間違いなく謀判で、言語道断の曲事です。あなたの国でも様々な所で徴収している者がいるでしょうから
この役銭を取っている者は公家でも門跡でも糾明し、全て捕らえて送るように。油断なく尋ね探して
絶対捕らえて下さい。そのために書きました。
(天正十三年)九月十八日  (秀吉朱印)
        吉川治部少輔(元長)とのへ

――『秀吉文書集 一六三三号』

薄諸光は山科言継の次男で薄以緒の婿養子となった人物で、薄家は伝統的に牛公事の権益を持つ公家である。
つまり実際は偽造文書ではないのだが、『言継卿記』によると永禄年間には山城・丹波・丹後の三国のみしか
役銭の徴収は出来ない状態であった。諸光は原状を回復しようとしただけであったのだ。

ところが織田政権は基本的に”当知行主義”を掲げて、国衆・寺社の争論を解決してきており、秀吉も
一月前には前田玄以に公家などにあてて”当知行主義”の方針を伝えている。(『曇華院文書』)

十月二日、諸光は牛公事のことで諸国の村々を混乱させた罪に問われて幽閉され(『兼見卿記』)
三日後の十月五日に妻と共に自害した。(『多聞院日記』)享年39。
『系図纂要』には「武命によって横死した」と記されている。

527 :人間七七四年:2021/01/16(土) 22:56:47.14 ID:Tf34aXcW.net
シピオネ・アマティ・ロマーノ「伊達政宗遣欧使節記」
第二章 奥州(Voxu)国王の来歴/その古さと高貴さ

当時の奥州Voxu王国は、正統かつ最も古い王である内裏Dairiから派遣された副王Vice Reたちによって統治されていた。
なかでも秀衡Findefiraは近衛殿Conoyendonoという由緒正しい公家Cungisの家系であり、他の副王たちが叛乱を起こした際、武力により鎮圧し奥州王国全体の専制君主となった。
22年後、謀反人を滅ぼし頼朝Yoritomoが皇帝に任命された。
頼朝の弟である牛若殿Vxivacandonoは秀衡により息子のように遇されていた。
死に際して秀衡は息子たちに牛若殿と仲良くするようにと遺言したが、息子たちは牛若殿を殺してしまった。
しかし頼朝により秀衡の息子たちは殺害された。
頼朝の死後、近衛殿は彼の家系に奥州の権益を保持させようと、一族である山陰中将Iamacanque Ciuscioを派遣し奥州を統治させた。
三百年後、父親の代で領土の大半を失ったため、時の領主は父親の臆病さに嫌気がさし、苗字を高貴さと勇敢さを意味する伊達Jdateに改姓した。

伊藤喜良「伊達一族の中世」によれば、当時の伊達家は
自身の家計を秀衡や近衛家と積極的に結びつけようとしていたとか

528 :人間七七四年:2021/01/20(水) 22:05:36.58 ID:8biGem2Q.net
祖母の家の家伝、というか祖母が父から聞いた話として私が聞いた話なので誰の話とも言い難いんだけど
強いていうなら毛利輝元の悪い話として。

祖母の先祖は毛利家の家臣だった(直臣なのか陪臣なのかは知らん)。関ヶ原後の大減封のあおりを食ってリストラ、帰農したという。
これは関ヶ原の少し前の話。
時は上杉征伐をするぞとかなんとかいっていた頃。ある日(祖母曰く)御家老様(実名不詳)に呼ばれて密命をもらった。
これより先、東海道で大きい戦があるので忍びの里(伊賀か甲賀かどうかも不明)に趣き協力を取り付けてまいれ、と。
ご先祖様は言われた通りに交渉し、話がまとまりそうだった。だが思ったより早くいわゆる東軍が戻ってきたのでお話は破談となり、そのままご先祖様も本国に戻ってきた。
くじ引き解雇だかそれとも口封じの指名解雇だったのか知らないけど、とにかくご先祖様は帰農し山口県で農民として以後暮らした。

まあそこまでだったら信憑性のない話で終わりそうなものだが、証拠が一つ残った。
忍者と交渉したとかいうご先祖様本人のお墓である。
山口に移住し帰農したせいで先祖代々の墓はそのご先祖様のものが一番古い。
そいつがでかい。宝篋印塔だか五輪塔だかとにかくそういう形式で、写真を見る限り3〜4mはあった。
(農民の墓って普通そんなにでかいか?そこまで大きいのはあまり見ない)
家伝に曰く「御家老様が先祖様を気に入り、慰労の意味で墓を作るにあたり特別な許可で"立派に作って良い"、と言われてこの大きさで作った」

少年期はふーんで聞き流していたんだけど、冷静に考えると毛利輝元さん、上杉征伐の前の段階でしれっと工作に動き出してますよね?
家伝が正確なら、という但書きつきだけど、輝元さんがかなり主体的に動いていて、かつなんの成果も出せず失敗したので悪い話

529 :人間七七四年:2021/01/20(水) 22:17:53.65 ID:8biGem2Q.net
>>528
ちなみに富農ではない。普通の農民だったんだな、というサイズの墓が立派な塔の周囲にあって
一本の大樹を囲う低木のような感じの「一族の墓」になっている

530 :人間七七四年:2021/01/21(木) 08:32:34.92 ID:vFZTQxQ0.net
ちゃんと下準備してるいい話じゃね?いいというか当たり前か

531 :人間七七四年:2021/01/21(木) 09:13:38.55 ID:t6NWs7gs.net
輝元が関ケ原で色々策動し、周囲に責任なすりつけたことは最近知られるようになってきたねい。
しかも輝元、懲りずに大坂の陣でもやっていたし。

532 :人間七七四年:2021/01/21(木) 10:58:02.90 ID:Jt3OtLfO.net
策を練るのは好きでも実行力がないのか

533 :人間七七四年:2021/01/21(木) 15:56:31.79 ID:9uv8cocC.net
>>528
嘘松

534 :人間七七四年:2021/01/22(金) 19:51:19.24 ID:lkKTibJZ.net
>>533
どうした?毛利家中の方か?

535 :人間七七四年:2021/01/22(金) 21:12:45.74 ID:lHm6zOAQ.net
あるいは三成の怨霊か

536 :人間七七四年:2021/01/22(金) 21:31:17.79 ID:5jChY7Bo.net
天正の頃、小田原に於いて岩崎嘉左衛門、片井六郎兵衛という者、戯言を言っている内に感情的になり、
諍いとなった。この時、嘉左衛門には髭が無く、六郎兵衛が「あの髭無し!」と悪口した所、両人は即座に
刺し違えて死んだ。

これほどに、男たる者にとって、髭無しと言われるのは、臆病と言われるほどの恥辱であると
考えられていたのである。故に髭の無い男は、「あはれ、髭生えるものならこの身に変えても
毛髭を生やせさせばや」と願っていたものである。

ここ十四、五年このかた、頭に毛のないのを「年寄りのきんかつぶり(金柑頭)、蠅すべり」
などと仇名を言って若い人たちは笑う。
そして髭の生えた面は「鈍なる面、蝦夷ヶ島の人によく似ている」などと言い習わし、
上下の髭を残さず毛抜にて抜き捨てる。
そのようであるので、笠を着けて頭を包んだ人を見ると。法師とも男女とも見分け難い。

そういった世の中であるが、昔に帰ることも有るもので、異相なる人が有り、髪の毛を抜き、
髭をはやしており、これに人々はみな「髭生えて、昔男の業平」と云った。

『慶長見聞集』

537 :人間七七四年:2021/01/23(土) 11:38:11.52 ID:+u5/bON7.net
https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/442313.html
2023年 大河ドラマ「どうする家康」主演は松本潤さん!

今、最も期待される脚本家のひとり・古沢良太が、新たな視点で、誰もが知る歴史上の有名人・徳川家康の生涯を描く。

ひとりの弱き少年が、乱世を終わらせた奇跡と希望の物語





https://twitter.com/kunozan_toshogu/status/1352174799603159042
国宝 久能山東照宮 公式@kunozan_toshogu

番組名だとしても #どうする家康 と言うのは憚られるので、#如何される家康公 とか #如何なさいますか家康公 とか、何かしっくりくる表現はないものかなぁと思案に暮れる担当者です考えている顔

午後5:42 ・ 2021年1月21日
(deleted an unsolicited ad)

538 :人間七七四年:2021/01/23(土) 12:59:21.53 ID:n4uDoOl3.net
「プレジール福島」1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務 昭和62年うまれ)は怖い住民。井本寛(いもとかん)の壁ドンが横行、住んだら絶対ダメ!そんなマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、トランクルームとしても役立たない下水臭いマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、安かろう悪かろうがモットーの商都が運営する賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27),
夜中笑い出す怖い入居者が多数入居中、鉄筋つくりなので響く騒音、そして嫌がらせの横行。
性器ヘルペスの異常性癖者が1002号室の井本寛(近畿日本コンサルタンツ勤務)の賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、、
賃料を下げても空室率が上昇中、貧乏人とトラブルメーカーの井本寛をはじめとするクズのたまり場の「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、下水臭い室内は商都のメンテナンス不足の証拠,
入居時に前の入居者の陰毛が散乱した状態で引き渡す清掃料金ぼったくりの商都が運営する「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、住んだら絶対ダメ!「プレジール福島」(福島区福島1−3−27) ,空室率上昇中!「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 井本廉 井本もも 井本梅香(杉並区成田東1-11-6-102) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛の持病 性器ヘルペス ソープで感染 井本寛(いもとかん)のペニスに毎日大江橋クリニックで処方された軟膏を塗る生活
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 柳 恒太郎(豊中市北緑2−1−18−1115) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 船越 明生(門真市上島町6−12) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 東 利則(茨木市小川町9−211) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 田岡 亜弥(横浜市都筑区牛久保東1−26−43) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 西口 昌宏(岸和田市八幡町10−15) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 飯尾 義弘(神戸市灘区八幡町4-9-27) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 葉山 大樹 葉山 真里 葉山 結里奈(東成区深江北3−15−14) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 立花 直輝 立花 智美 立花 和美 (住吉区山之内1−17−13) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か?? 11

539 :人間七七四年:2021/01/23(土) 23:03:52.40 ID:65ZMaUsf.net
>>536
              彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また髪の話してる
             (   )::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

540 :人間七七四年:2021/01/24(日) 11:49:37.83 ID:lxwHAmf+.net
さても命は捨てえざる者也

北条氏が小田原合戦で敗戦し氏政・氏照が切腹したのは、天正18年7月11日のことであった。
その翌日には氏直の高野山行きが決定し、北条家臣団の他家への再仕官がすすめられたあと
残った一門衆・家臣の上下合わせて三百ほどの氏直一行が、小田原から出発したのは21日のことであった。

先行していた氏規が8月7日に大和の興福寺に着いたときの様子を、多聞院英俊は
「哀れなる在り様也、さても命は捨てえざる者也、恥をさらし此くの如し、あさましあさまし」
と評しており、切腹しなかったことへの風当たりは強かったようだ。

翌年の2月7日には氏直赦免の内意が秀吉から家康へ伝えられ、氏直は堺に移ったあと大坂に移動した。
家康の陸奥九戸一揆出陣のため、一時的に交渉は滞ったが8月19日に大名として復帰している。
復帰した氏直は借財の整理をすすめていたが、10月29日までに疱瘡を患い11月4日に死去した。享年30。

541 :人間七七四年:2021/02/01(月) 16:37:00.04 ID:s06oUcHl.net
関ヶ原の合戦の前に、石田治部少輔(三成)は、一騎駆にて佐和山より大阪に馳来たり、
増田右衛門尉(長盛)に参会し、密に談ずるべき事ありとして、数寄屋に入って物語をした。

初めは何事を語っていたのか、やがて三成は
「せめてこの上は五畿内の諸浪人共を集め、無二無三の合戦を行わねば叶いがたし、いかが考えるか。」
と言った。

これに右衛門尉は
「尤も然るべき事であるが、それではこちらから企んだような事となる。とにかく時節が至るのを
待って、天道に任せることこそ然るべきである。」
と応えた。

治部少輔は微笑して言った
「太閤様の患いが御快気されていた時、貴殿や我らたちを召され、『汝らに百万石づつ下そう。
何故ならば、私は今度の病気中に様々なことを考えた。汝らを大名にしておけば、万事心安かるべしと
思ったのだ。』と仰せになった。

その時皆々目を合わせ、『さても有難き仰せかな。何と申すべき言葉もありません。ですが、
人の口も有ること故、重ねてこそ仰せをば奉ります。』と、その時はたって辞した。その事を
思うに、返らぬことでは有るが、くやしき事である。あの時百万石を領していれば、現在、
何の不足があっただろうか。とにもかくにも、私は人数を持っていない以上、思うに益なし。
口惜しき次第である。」

そのように語ったとのことだ。

このような大事の事を、一体誰が聞き伝えたのだろうか。しかし私は確かに、人が語っているのを聞いた。
不審なることである。

(備前老人物語)

542 :人間七七四年:2021/02/05(金) 14:12:06.78 ID:LioMPBtl.net
池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話


・池田家が姫路城から出た後も、天守閣の五重目に池田輝政の具足や武具が残されていた。
 ところが酒井忠道が、天守閣で怪異に遭ったという理由で神社(刑部神社?)を作ってしまった。
 本当は輝政の甲冑が邪魔なので、しまうための口実が欲しかっただけだろう。

・土人(姫路の民衆)は池田輝政が作った姫路城の堀を「三左衛門殿堀」と呼ぶ。
 池田治政の室は酒井忠恭の娘だが、輿入れしたときに三左衛門堀と呼んでいたらしい。
 土人でさえ"殿"を付けているのに……。

――『思ひ出草』

酒井忠道も忠恭の娘も冠山と同時代の人物だがよっぽど印象が悪かったらしい。

543 :人間七七四年:2021/02/05(金) 14:25:47.88 ID:P3bpF9A9.net
やっぱり転封の時の引き継ぎって揉めるんだな
酒井雅楽頭家は井伊と並ぶ大老を出せる家で表立って文句は言えんだろうし痛し痒し

544 :人間七七四年:2021/02/05(金) 18:28:53.75 ID:l/ixw+YE.net
>>542
まんが日本昔ばなしでもやってたね
天守の怪談

545 :人間七七四年:2021/02/05(金) 20:54:55.53 ID:ZxrGO+IB.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-193.html
鍋島直茂と佐賀城の幽霊 ・悪い話
こっちの刑部姫はちょっとかわいいのに

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11015.html
池田輝政への呪い
こっちはおそろしい

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
ついでに妹の猪苗代の亀姫

546 :人間七七四年:2021/02/07(日) 12:33:41.25 ID:yYnETLgR.net
>>543
検地帳を燃やしたり青田刈りする気狂いもいるしな

547 :人間七七四年:2021/02/07(日) 12:51:19.31 ID:Fns5OabQ.net
>>546
地主とのトラブルが一番ヤバいもんな

548 :人間七七四年:2021/02/07(日) 15:25:36.33 ID:5gFfphl4.net
これは吉田又左衛門が語ったことなのだが、佃又左衛門には武道の心懸けがあり、度々の用に立った
侍であった。その佃の物語に、

「総じて主君が言ってくる事で、無理なことを言ってきたとしても、さしあたりの申し訳をするのは、
事にもよるが、基本的に固く慎むべきである。

私が蒲生氏郷に仕えていた時、奥州において敵の城中に押し寄せ、陣取りをしたのだが、そこに大将で
ある氏郷自ら忍んで、夜な夜な陣中を巡り、勤めるを勇め怠るを戒められた。

ある時、敵が夜討ちに出た。私は真っ先にそれと渡り合い、氏郷の見ている所で、鑓にて競り合い、
終に敵を追い払った。

翌日、軍功の評価の時、氏郷はこう言われた
「佃は常々の心がけに違わず、先駆けしたこと大功である。さりながら、少し狼狽えていたと見えた。
鑓の鞘を外さずに突き合いをしていた。」

私は承って、「誠に夜討ち厳しく、鑓の鞘を外したのか外さなかったのかもわきまえ難き状況でしたが、
奇特にご覧になられたものです。」と申し上げた。

氏郷は「汝は正直なる者かな。世の常の者なら、今のようには申さないだろう。誠の武士である。」
と褒美された。」

思うに、合戦という時に臨んで、鑓の鞘を外さないという事はありえないのだが、主君の言葉が
違えないため、自身の身を顧みないという気持ちが、常にその心内にあったため、こういった事態に
臨んで外に顕したのだと見える。尤も殊勝な事である。

(備前老人物語)

つまり蒲生氏郷の勘違いをうまくフォローしました、という話ですね。

549 :人間七七四年:2021/02/07(日) 16:48:57.43 ID:nyQaOx/U.net
6月朔日の夜、惟任日向守光秀は丹州亀山の城で反逆を企て、家臣の明智左馬助(秀満)、同次右衛門尉(光
忠)、藤田伝五(行政)、斎藤内蔵助(利光)、溝尾庄兵衛(茂朝)らを呼び寄せ、密かに閑所に請じて曰く
「各々、予がために一命を申し受けるべし。もし同心なくば予の首を刎ねられよ」と云々。

各々、黙口するところで左馬助が進んで曰く「臣らは主君のため、大事に当たってどうして猶予しましょうか。
某におきましては、まず畏まり入り候」と言った。残って四臣も皆これに同ず。

時に光秀言葉を設けて曰く「予が大悦これに過ぎず。さても伴の趣旨は予が身の上において大臣家(織田信長)
の勘気を蒙り、誅伐に及ぶであろう事数多これあり。つまるところ、こちらから謀叛を起こし、いま大臣家の
無勢の在京を幸いとして、かの公に御事あらしめ予天下の主とならん。これすなわち止む事を得ざるの時なり。
各々、いよいよ同心においては、霊社の誓書を記されよ」と云々。

五臣すなわち誓書をしたため、この旨相違すべからざる由をひたすらに請け負い、人質を献じた。しかれば、
今夜光秀は多勢を率い、中国出勢の行装を大臣家へ御目に掛けるため上洛との由を披露せしめ、亀山より中国
への道筋三草越より取って返し、東面に馬を向けて大江山を打ち越え、左へ下って桂川を渡り越え、今夜暁方、
諸勢は本能寺へ参陣し、かの寺を取り巻いた。

同月2日明け方、光秀の総人数は弓鉄砲をしきりに放ち鬨をあげて本能寺を攻めた。大臣家を始め御小姓供廻
の面々まで、ただ当座の喧嘩による下々の騒動だろうと思い「各々御前近くで緩怠の働きとは、すこぶる慮外」
との由を仰せ出されたところ、次第に弾矢がしきりに来る。「さては謀叛か。誰だ」と仰せのところで森蘭丸
が門外を見帰り、惟任謀叛の由を申す。

大臣家は慌てることなく、不慮の大変是非に及ばざるの由で、自身矢を放って数多の敵を射殺し給う。

(中略。信長の近習たちが討死)

この時まで大臣家は未だ殿中において御弓を射給うところで、たちまち弦が切れてしまった。時に御弓を投げ
られ、自身また槍をひっさげて度々敵を突き払われた。しかるところで右の肘を槍で突かれ、御手重く進退叶
わず。これによって殿内へ入らせ給う。

その時まで女中は未だ御側に侍り、「女は苦しからず。早々に罷り出て一命助かり候へ」との由を3度仰せ下
され、すでに御殿に火がかかり来る時に奥深く御入りになり、内からも御納所口を引き立てられ、御切腹これ
あり。これは御姿を隠されるためだろうか。

その時、女房どもが取り巻いていて御最後の様体を見届け奉るという。また一説に御殿焼失の後、御死骸を探
し求めるといえども、ついに探し出せず、それかと疑う程の人もなかった。御自害か御討死か、人ついにこれ
を知らず。いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命。御歳49歳なり。

――『総見記』

550 :人間七七四年:2021/02/07(日) 18:38:20.19 ID:bjp1HABi.net
このころすでに「森蘭丸」表記?
後世に「森乱」から変えられたかもしれないけど

551 :人間七七四年:2021/02/08(月) 10:35:59.15 ID:bG7yJPbV.net
早稲田が公開してる総見記(織田軍記)だと乱丸表記だな

552 :人間七七四年:2021/02/08(月) 10:56:05.88 ID:Kkt8Meo6.net
アフィカスの捏造ここに極まれり

553 :人間七七四年:2021/02/11(木) 15:23:52.39 ID:YM5HVdd6.net
龍造寺の鍋島がしたようなこと ―毛利秀元―


関ヶ原合戦後の吉川広家は、家康・秀忠から当主親族の証人(人質)を置かないことを許されていた。
ところが元和三年の人質改めの際、当主・毛利秀就は吉川家に対して急に人質を出すように迫った。
秀就は同じく証人を免除されている重臣の福原から、事前に証人のことについて知らされていたものの
「福原が何か騒いでいる」(『吉川家文書 一三一九号』)と思って聞いておらず、仰天したらしい。
一方、そういう事情を知らない広家は、この命令が毛利秀元の陰謀によるものだと思ったらしい。
息子の広正へどう心がければいいか、書状を送っている。以下長いので要点だけ意訳。

申しにくいことですがあなたのために書きます。返事のときにこちらへ返して下さい。

一、むこう(秀元)は、私達や福原・児玉・益田の一類に対し、公儀や長門様(秀就)に申し妨げて
  公界に出づらくさせて、後々どうにでもなるように図っています。
一、吉見広長の帰参は、私が数年榎本元吉に申し上げても成らなかったのに、秀元が申したら
  (輝元は)対面して、扶持米をやられたそうです。
一、御家の家臣の面目を潰して、公儀のことを自分一人でやって肩を並べる者がいないようにして
  公儀や内儀のことを自分のしたいようにするつもりです。
一、人々は「龍造寺の鍋島がしたようなこと」で、よそではありえないことだと囁いています。
一、あの人(秀元)は黒田長政のことをどう申し妨げたのか、近年は不通になっているそうです。
  (長政は)殿様(輝元)や私にこのことを申されました。
一、あなたが直接公儀にすがれないようにしてくるでしょう。そうなればいくら殿様が頑丈で
  いらっしゃっても明日を知らぬ身なのですから、ゆくゆくは大事になります。
  大夫殿(福島正則)が隣国なので、何かがあれば讒言してくることもあるかもしれません。
  このことをこれから破滅のもとだと思って、油断なく心遣いして下さい。
一、あの人は人質を出させることで、あなたを宍戸殿や山城殿同然にしようとしているのです。
一、私は若いときから病み疲れて正体をなくし、くたびれてしまいました。あなたが御家や身上のため
  外聞を失わないように気遣ってくれれば、どんな孝行をされるよりずっとありがたいことなのです。
一、右のことはあなたの心に合わず思うこともあるでしょうから、ちゃんと話しましょう。
一、そちらでは乳母をはじめどんな人にも、このことを話さないように。用心して下さい。

これは大事の書物なので、そう心得て扱うこと。
      以上
(元和三年)九月三日    廣家(花押)
左介殿(広正)    参

――『吉川家文書 一三一三号』

結局吉川家は、広正を秀就付きにして江戸で奉公させることで対処した。

554 :人間七七四年:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X.net
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。

555 :人間七七四年:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR.net
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 :人間七七四年:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C.net
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする

557 :人間七七四年:2021/02/12(金) 21:33:14.78 ID:hMmMh+W+.net
>>550
通俗日本全史版だと蘭丸でした

558 :人間七七四年:2021/02/13(土) 14:39:43.92 ID:AS76j+Ni.net
相模、安房、上総、下総、武蔵、この五ヶ国の内に巨大な入海が有る(江戸湾(東京湾))。
諸国の海を廻る大魚どもも、この入り江を良き棲家と知って集うのだが、関東の海士(漁師)は
取ることを知らず、磯辺の魚を、小網や、釣り糸を垂れて取るばかりであった。

そのような所に、江戸が繁盛すると、西国の海士が尽く関東に来て、この魚が豊かな状況を見て
願うに幸いかなと、『地獄網』という大網を作り、網の両端に、二人して持つほどの石を二つ
くくり付け、これを「千貫石」と名付け、二筋縄を付け、長さ三尺ほど、幅二、三寸の木を、
「ふり」と名付けて、大網の所々に千も二千も付ける。この「ふり」という木は、魚の目には
光るのだという。

早舟一艘に、水夫六人づつ、計七艘に取り乗り、大海に出て網をかけ、両方に三艘づつ引き別れて
大網を引く。残りの一艘は「ことり舟」と名付け、網本に在って左右の網の差し引きをする
この網の内にある大魚小魚、一つも外に漏れる事はない。海底の鱗屑までも、尽く引き上げる。

さてまた、海底に有る貝を捕ろうとして、網を海へ下ろし、大網を引きずって、舟の内に
巻き車を仕付け、碇を打って網を引くと、砂から三尺底にある諸々の貝どもを、熊手にて
引き落とす。
このような漁は天地開闢以来、関東では見たことも聞いたこともない。こうして海底の大魚、
砂底の貝を取り上げる。

去るほどに四時(約8時間)を待つと、波の上、砂の上に魚貝どもが現れる。
現代では時節に関係なく常に服すことが出来るので、江戸に於いて初魚・初貝という沙汰は
無くなっている。

しかし、早くも二十四、五年このかた、この地獄網によって魚が取り尽くされ、現在では
かつての十の内一つの水揚げも無い。
『数罟?池に入らずんば、魚鼈勝げて食ふべからず』(目の細かい網を持って沼や池に入らないようにすれば、
魚やすっぽんは食べきれないほど多く取れるようになる)とは孟子の言葉である。
また淮南子に『流れを絶って漁る時は、明年に魚なし』(川の流れをせき止めて漁をすれば。明年その川に
魚は居なく成るだろう)と云っているのも思い出され、情けなく思う。

『慶長見聞集』

559 :人間七七四年:2021/02/13(土) 18:31:32.80 ID:HMWqVjZ5.net
大量に獲って干物にしたとしても当時の技術じゃ日持ちしないで腐らせると思うんだけどどうなんだろう

560 :人間七七四年:2021/02/13(土) 19:23:10.22 ID:bbQF20gc.net
屎尿で発酵させろよ

561 :人間七七四年:2021/02/13(土) 20:02:32.71 ID:FobRFmJh.net
それはどっか他所の大陸の半島でやっとくれ。
日本は湿度が高くて腐敗の方が速めだから、魚も糞尿共にすぐ雑菌殖えるんで無理。

562 :人間七七四年:2021/02/13(土) 21:17:18.61 ID:UEW2i6Ja.net
発酵なら弥生の頃からなれ寿司があるやん?
まあ、獣肉でも作っていたみたいだけど

冷蔵庫が世に出るまでは赤身の魚といえばマカジキをさしていたみたいだね
いまでは料亭以外にあんまり出回らないみたいだけどさ

563 :人間七七四年:2021/02/13(土) 21:50:15.04 ID:EU1z4w3O.net
真水でも生きると言う理由で鯛も昔はチヌで代用してたもんな

564 :人間七七四年:2021/02/13(土) 23:35:45.45 ID:KTs3nUQV.net
ジャップ沈没でワロタ

565 :人間七七四年:2021/02/14(日) 10:48:39.79 ID:WC4+3ZPC.net
『慶長見聞集』の成立が1615年ころか
徳川氏入部以来の二十数年でってのもすごい
在地関東の小網や、釣り糸を垂れる海士の証言体感からだろうからね

566 :人間七七四年:2021/02/14(日) 11:04:01.39 ID:iwqvlRpR.net
大阪の佃の漁師を家康が呼び寄せてるけど、その漁師たちか

567 :人間七七四年:2021/02/14(日) 12:32:12.47 ID:8f0h2Ol5.net
ジャップの溺死マダー?

568 :人間七七四年:2021/02/14(日) 13:29:19.07 ID:NTR/whQU.net
江戸が繁盛するにつれて魚が徳川の徳を慕って江戸湾に集まってきた
と書いてる江戸時代の書物があるそうな

単に生活排水で富栄養化したからだけど

569 :人間七七四年:2021/02/14(日) 14:16:05.61 ID:ujYigo7R.net
江戸の都市部は汲み取りやって農家に売っているぶん、水質汚濁はまだマシだったのかな?
同時代の欧州諸都市だと下手すりゃ窓から捨ててるだけだったし、
かなりよくて下水道があっても、そこから川にただ垂れ流していただけだったものなぁ…

570 :人間七七四年:2021/02/14(日) 14:17:24.80 ID:ujYigo7R.net
ただ、現代でも雨が降ったら下水が垂れ流しになるのは、オリンピックのトライアスロン競技会場問題で広く知られるようになったね…

571 :人間七七四年:2021/02/14(日) 17:26:18.99 ID:8f0h2Ol5.net
ジャップのハラキリで中から寄生虫がドバドバ出てきた話って海外じゃ有名w

572 :人間七七四年:2021/02/15(月) 15:03:33.25 ID:oQ5GrH8b.net
>>568
エーゲ海が美しいのはギリシャ文明が結局は大国になれなかった証明なんだってな

573 :人間七七四年:2021/02/16(火) 15:46:41.77 ID:2T8xyAzp.net
小田原北条家の時代、関東では弓矢有って毎日戦い止むことがなかった。
その頃、鰹は「勝負に勝つ魚」といって、古き文にも記され、先例ありとして、侍衆の門出の
酒肴には、鰹を専ら用いられた。

一方でシビ(魚編に黄、キハダマグロ)は、味よろしからずとして、地下の者も食わず、侍衆は見ようとも
しなかった。
その上「シビ」という言葉の響きが、「死日」と聞こえて不吉であるとして、祝儀などでは用いなかった。

そのようであったので、漁師はシビを釣ると、塩引きにして束ねて置いていたが、この魚は肉が深いため、
やがて虫が湧き出た。その虫は自らの肉を食い、肉を食い尽くして後は死に、かたまってまた元の肉となった。
異臭があたりを深く漂った。

このシビという魚を、信濃、上野、下野の山国に、商人は持っていって売買した。これらの国の人、
これを他にないほど賞翫する。

されば、シビ釣ると古歌に多く詠まれている。藤江の浦。藤井の浦。紀の海で詠ぜられる。
これらの国の浦里(漁村)の人たちも、シビ賞翫と知られている。

『慶長見聞集』

574 :人間七七四年:2021/02/16(火) 23:02:29.59 ID:pniDL8WI.net
キハダのほうがカツオより美味いと思うんだが昔の人は嫌ってたのか

575 :人間七七四年:2021/02/16(火) 23:14:25.03 ID:rWIT8iyq.net
キハダの方が腐りやすいのかな

576 :人間七七四年:2021/02/16(火) 23:42:55.16 ID:hXuW2umK.net
マグロとか脂の多い魚は足が速い
だから冷蔵技術が発達するまではマカジキとか脂で食わせる必要の無い魚やアンモニアが多くて腐りにくいサメなんかが貴重だったりしたそうな

577 :人間七七四年:2021/02/17(水) 00:41:05.11 ID:JH33SJMl.net
>>576
あと、生きたまま運べる鱧

578 :人間七七四年:2021/02/17(水) 01:29:24.38 ID:lypbqfLi.net
江戸で重宝された初ガツオも脂のノリが薄くてさっぱりしてるが、その分腐りにくいからこの時期が旬とされたわけかー

キハダもカツオも同じサバ科だけど、回遊する場所の違いで脂のノリが違うのかな

579 :人間七七四年:2021/02/17(水) 09:29:46.28 ID:rSDJG5sJ.net
今でも山梨や群馬ってマグロ消費量が多いんだよな

580 :人間七七四年:2021/02/17(水) 12:48:05.09 ID:906KN6IU.net
>>573
長野みたいに虫食いの地域にとっては寄生虫まみれの塩魚なんてご馳走だったんだろうな

581 :人間七七四年:2021/02/17(水) 13:25:51.63 ID:cYqeUen6.net
>>580
毛野国を除いたのは意図的?

582 :人間七七四年:2021/02/17(水) 14:49:42.45 ID:D4wzSLie.net
相手しちゃいけません

583 :人間七七四年:2021/02/17(水) 16:09:16.39 ID:gjDtLO3h.net
畑にウンコ撒いて腹に虫飼ってたって何ていう罰ゲームなの?

584 :人間七七四年:2021/02/18(木) 00:28:33.19 ID:dAvrlu3W.net
北条五代の軍記物「豆相記」冒頭

北条家中興、伊豆の早雲、俗名は伊勢新九郎氏盛、後に長氏と改む。
姓は平氏は北条、いわゆる桓武天皇第五王子、葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の曾裔なり。
元弘三年五月二十二日、相模入道高時自殺の時(新田義貞による鎌倉幕府滅亡時)、高時の舎弟四郎左近大夫入道の謀にて
諏訪三郎盛高(諏訪頼重と同一人物説あり)、高時の次男亀寿丸を誘いて、
負うて甲冑の上に戴き、ひそかに扇谷を出て信州に犇く。
諏訪の祝(ほうり)に依劉して三軍の師を申し起こし、相模二郎時行と号す(中先代の乱)。
その後、吉野の先帝(後醍醐天皇)の勅許を奉りて、奥州国司(北畠顕家)に従いて上洛す。
(顕家が戦死した)阿倍野の役の後は先帝に従う。
(「佐野本系図」によれば時行も摂津国阿倍野合戦に参加していたとされる)
延元二年九月、結城入道(宗広)の謀で、先帝の第八王子(第七皇子の後村上天皇?)関東下向時、時行扈従す。
兵船五百余艘、伊勢国大湊より出て船渡海の時、遠州天龍灘に於いて逆風に遇い、伊勢国に吹きよせらる。
故に宮は吉野に還行するも、時行は勢州に寓居す。
兵人散じ、力尽きて義旌を挙ぐるあたわず。
ついに微服潜行し隠居し呑炭漆身(予穣が主君・智伯君の仇を討つために姿を変えた故事)の風で名字を改め、伊勢次郎時行と号す。
時行行氏を生み、行氏時盛を生み、時盛行長を生み、行長氏盛を生み、氏盛にいたるまでいまだ伊勢氏を改めず。
伊勢新九郎と号する所以なり。行年七十にて出家し、法名を早雲寺宗瑞と号す。

後北条氏を執権北条氏の末裔にしたいもんだから、高時の遺児で中先代の乱を起こした北条時行が南朝帰順後、
後村上天皇(義良親王)と一緒に暴風にあい、伊勢に漂着し隠居して伊勢氏を名乗った、という設定にしたようだ。
実際、時行は伊勢で暴風に遭い一時消息不明になったようだけど
その二年後には信濃で諏訪頼継(頼重の孫)と一緒に小笠原貞宗相手に戦い、
その後も新田義宗(義貞の息子)らと協同して鎌倉を奪還しているのだけど。

585 :人間七七四年:2021/02/18(木) 00:38:08.65 ID:S0L8loM5.net
後北条氏は女系説と言うのがあったな
執権北条氏の末裔から嫁を取ったからなんだで

586 :人間七七四年:2021/02/18(木) 06:56:00.71 ID:ODEcPW8f.net
そんな旧南朝方で地下人設定の伊勢氏だが
幕府の名門今川氏の縁戚って史実も堅持してるな
豆相記に真面目な校閲がいたら怒られる話の展開

587 :人間七七四年:2021/02/18(木) 12:21:15.38 ID:ut9ycPXj.net
相撲でマメ取りした話か

588 :人間七七四年:2021/02/18(木) 17:20:51.34 ID:dAvrlu3W.net
いっしょに難破した宗良親王が遠州に漂着した後、井伊谷に滞在している一、二年間に
井伊道政の娘との間に尹良親王を産ませたとされてるから
(「参考太平記」だと時行も宗良親王とともに井伊谷にいたとされる)
時行も伊勢滞在の間に産ませたとすればいいのに
1333年夏の鎌倉幕府滅亡時点で兄の邦時(8歳6ヶ月)より年下のため、年齢的には少し厳しい気もするが

589 :人間七七四年:2021/02/19(金) 10:43:54.13 ID:BBbixgPB.net
まあそれ言い出したら徳川なんかも明らかにウソ系譜だし

590 :人間七七四年:2021/02/20(土) 12:32:35.88 ID:w3vXrchw.net
>>575
原文にも肉が深いって書いてあるけど、分厚いから芯まで塩気が通らないんだろう
結果的に身が傷むよね

591 :人間七七四年:2021/02/20(土) 17:22:09.09 ID:0XyPLAi2.net
近年聞いたことである。
鈴木宗順という京の人が、江戸に下ってこのように云った

「関東は、聞いていたよりも、見ればいよいよ下国にて、よろず賤しい。
人は頑なに言葉が訛って、『なでう事なき』『よろこぼひて』などと片言ばかりを
云っているため、内容が聞きづらい。

拾遺和歌集に『東にて養われたる人の子は、舌だみてころ物は云いけれ』と詠ぜられている。
さてまた、宗碩が『片つ田舎は問はるるも憂し』と発句をしたところ、『何とかはだみたる聲の答へせん』と
宗長が付けた。宗長は生国関東の人(生国は駿河国島田とされる)なればなり。
『都人、問ふもはずかし舌だみて うきことわりを何と答へん』と詠んだのもげに理である。
とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ。

これにつけても我が住み慣れし九重の都、さすが面白き境地である。人王五十代桓武天皇の御宇、
(延暦)十三年甲戌十月二十一日に、山城国愛宕郡に都を遷された、男女の育ち、尋常に、言葉
優しく有りけり。」


関東衆はこれを聞いて

「愚かなる都人の云うことである。国に入っては俗を問い、門に入っては諱を問う。これ皆定まった
礼である。知らぬ国に入り、その国の言葉を知らないのに、それを問わないのは道理に合わない。

孔子は生まれながら物を知る智者であった。その孔子も大廟に入って、祭りに與った時には、事々に
人に問うたとか。舜も大智の聖人にてましますけれども、よろすに物を人に聞かれた。
知っている上にも問うのが、智者の心である。

そして関東の諸侍は、昔から今に至るまで、仁義礼智信を専らとして、文武の二道を嗜まれた。
民百姓に至るまで、筆道を学び、文字に当たらない言葉は、あからさまにも唱えない。

この宗順は、文字般若(般若の道理と智慧とを、文字によって示したもの)に暗ければ、義般若にも
暗く、却って他を難じている。
文字は貫道の器である。器なくして善くこの道に達するという事が、どうして出来るだろうか。

されば伊勢物語に『よろこぼひて』と書かれているのは『喜びて』の事であり、『なでう事なき』とは
『させる事なき』という事である。
『べい』は『可(べし)』の字である。言葉のつながりによって『べし』とも『べら』とも云う。
古今集に『秋の夜の 月の光の清ければ 暗部の山も越えぬ「べら」なり』と詠まれている。

その上、『知って問うは礼なり』と、古人も申されている。ましてや知らずして他を難ずるのは
まさしく道理に合わない。」

と云った。

『慶長見聞集』

関東の訛りについてのやりとり

592 :人間七七四年:2021/02/20(土) 17:44:58.68 ID:tJgxCgXM.net
「豆相記」の小田原城攻めの場面

長享の乱で争ったあと、山内上杉氏が扇谷上杉氏と和睦した際
「もともと両上杉が不和になったのは、自分のところの家老の長尾伊玄(景春)とそちらの宿老の太田道灌が互いに奢侈を極め、威を争ったためである。
こちらは景春を殺すのでそちらも道灌を殺してくれ」
と扇谷上杉に言ったため、
扇谷上杉はその言葉に乗せられて太田道灌を殺してしまった。
しかしこれは山内上杉の計略であり、山内が景春を殺すことはなかった。
こうして両上杉の和睦が破れた。
これを聞いた氏盛(早雲)は箱根山に材木を取ると偽り、日中に大嶋の牛を山の頂上に上らせて
夜になると牛の角に柴薪をつけ、火をつけ、壮士によって浜辺へと追わせた。
千万の勇士が鐘と太鼓を鳴らしながら攻めてくるようであり、まさに田単の火牛計そのままであった。
小田原城守の大森氏は大いに驚き、撃退するために兵卒を海辺にむかわせると
氏盛は反対側の山の方から自ら兵を率い、大森を襲ったため、大森は益々あわて、兵は潰えてしまった。
こうして早雲は小田原城を奪った。

敵陣に突撃させた田単とは違って、陽動に使っただけだから
ハンニバルのカリクラ峠での火牛計の方が近いかもしれない

593 :人間七七四年:2021/02/21(日) 11:16:10.28 ID:7YYpf+Ni.net
先日の強い地震で仙台市博物館は、臨時休業いたしております。
展示物に大きな損害は今のところないらしいですが・・

九州の立花家史料館のようにクラウドファウンディングしているわけじゃありませんけれど、
いずれ再開しましたら皆様ご来館で応援願います。


まあ宣言解除とワクチン接種が進まないと県外の方はなかなか難しいかと思いますが。



https://twitter.com/sendai_shihaku/status/1360713147133296640

仙台市博物館@sendai_shihaku
【緊急休館のお知らせ】
仙台市博物館は、2月13日(土)深夜に発生した地震による
館内緊急点検のため、
本日14日より当面の間、臨時休館いたします。

今後の見通しについては、博物館ホームページでご確認ください。
https://city.sendai.jp/museum/

ご迷惑をおかけして申し訳ございません。
午前7:11 ・ 2021年2月14日
(deleted an unsolicited ad)

594 :人間七七四年:2021/02/21(日) 17:35:22.72 ID:jMSoTC5v.net
大阪冬の陣の時、寄手は西南北東、大方軍勢が揃った所に、城中より大小の鉄砲を、つるべ放ちに
事も夥しく撃ち出した。

これに諸方の寄手は色めきあったが、このような所に古田大膳(重治)殿の家中にて、高禄を受け
日頃は用に立つ人と聞こえている老武者が、鉄砲の音に驚き、
「大将に御物具まいらせよ!各々覚悟せよ!」
と勧めたため、物に慣れない若者たちは、「すわ、敵が出てくるのか!?馬よ、物具よ!」と
罵りひしめき、上を下へと騒ぎ立てた、

このような所に、先手の組頭である森次郎兵衛、原十兵衛の二人が馳せ来た。
「これは何事に騒いでいるのか!?狼狽えたことを申して、大将をも驚かし参らす事、
沙汰の限りである!
あの鉄砲は狭間くばりといって、城攻めの時の大法である。この事を大将に申されよ。
何れも心安くして、静まり候へ!」

そう言い捨てて、それぞれの持ち口に帰っていった。

この森次郎兵衛は戦場において、度々の高名があった中にも、三木城攻めの時、太閤、その時は
羽柴筑前守殿と云って、付城をなされたが、敵の別所方より押し返して来た所に、次郎兵衛が
走り出て、門を支えさせ、合い鑓を合わせて追い払った。その振る舞いが比類無かったため、
筑前守殿より召され、陣羽織を手づから給わった。

また原十兵衛ば稲葉一鉄に仕えていた時の手柄、また八王子にて度々比類なき働きが有った。
後には森内記(長継)殿に仕えたという。

(備前老人物語)

595 :人間七七四年:2021/02/21(日) 19:56:15.88 ID:BU1O1dzI.net
織田信孝「昔より 主を討つ身の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1613880067/1

596 :人間七七四年:2021/02/21(日) 21:03:28.61 ID:2J0HV+7D.net
秀吉にとって主家ではあっても信孝自体は別に主じゃないよね
ってかバカ兄弟がもう少しでも賢ければ清洲会議なんて織田の恥さらしやらなくて済んだのに

597 :人間七七四年:2021/02/22(月) 12:17:28.46 ID:oEv6m6LM.net
>>596
少なくとも信長の下で奉行やったり伴天連に高評価を受けてる信孝はお前より賢いと思うよ

598 :人間七七四年:2021/02/22(月) 13:37:12.66 ID:kzeiqIs7.net
>>593
他のところはどうなん?

行ければいいけどそもそも旅行がねえ

599 :人間七七四年:2021/02/22(月) 16:19:09.58 ID:fuLE/6ii.net
古田織部殿が茶湯宗匠の頃、彼が気に入っていた大工で、喜右衛門という者があった。
その頃茶湯を心がける人々は、織部を崇敬する余り、喜右衛門とも親密になった。
ある人が谷出羽守(衛友)殿を上客として、相伴衆二、三人の内に、かの大工・喜右衛門を
加えられた。

その朝に臨み、出羽守殿が入来あると、喜右衛門が路地に出迎え、「今朝の御相伴に、早々より
参り候」と申した所、出羽守殿は気色変わり、

「先ず、茶湯の置合違たり!」

と、立ち返ろうとしたのを、相伴の衆が色々に取り持ったため、異事は無かった。
その頃、この事については様々に批評された。

(備前老人物語)

600 :人間七七四年:2021/02/23(火) 14:14:56.86 ID:ciKhsDbE.net
古田織部殿の茶湯が盛りであった頃は、遠国よりも多くの人が伏見へ登り逗留して、
織部殿の手透きを伺って茶湯を所望していた。

織部殿の殊に気に合った塗師の道恵という者、都に住んでいたが、織部殿の余勢によって、
茶湯も家業も上手であると、京都の人々は褒めそやし、自身も運も良さを自慢していた。

その頃、田舎に住んでいる士が四、五人打ち連れて伏見へ赴く途中、道恵の家の側を通り、
そこで案内を通してこのように伝えた

「我々は伏見へ赴く者たちなのだが、織部殿の所にも折々出入りさせて頂き、そちらのこと、
かねてより承っている。このような折から幸いに思い、寄って御茶を所望仕りたい。」

これに道恵は喜び
「丁度釜の湯も湧いています。よく我が家を訪ねてくれました。」と、露地の戸を開き招待した。
互いに挨拶事が終わると、茶請けとして煎海鼠、串鮑、蒲鉾の煮染めた物を出し、茶を点て仕廻し、
時宜を述べて各々立ち帰った。

道すがら、道恵の作意について彼らの褒貶はまちまちであったが、その中で千田主水が難じたのは
「今日の茶請けは潔くなかった。不時の作意も無く、ただ残り物の類を出されたようで、気分が
良くない。道恵の茶湯には奥ゆかしさがない。」

そう言うと、聞いた人は皆是に同意した。
このような事は茶湯に限らず、時により人により、よくよく遠慮があるべき事である。

(備前老人物語)

601 :人間七七四年:2021/02/23(火) 16:39:36.11 ID:l3tNfJO0.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3557.html
千利休と親しい侘茶人

蒲鉾そのまま出すと前もって来ることを知ってたな
と言われるし
煮染めにすると残り物みたいだと言われるし

602 :人間七七四年:2021/02/23(火) 21:21:11.16 ID:vk/HjP/K.net
こうして、京都市街の住民は不意の来客、ことに好まざる相手に対してはぶぶ漬けを出す様になったと言う。
(民明書房刊『日本全国県民性起源』より)

603 :人間七七四年:2021/02/24(水) 02:29:56.99 ID:V3nsBZyC.net
ジャップの食糞文化を垣間見た
https://livedoor.blogimg.jp/worldfusigi/imgs/4/d/4d07c0ea.jpg

604 :人間七七四年:2021/02/24(水) 18:55:29.04 ID:f7Vz/0wo.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1120.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

天王山の戦いの陣中で神官、僧侶、医者、御用達の町人が光秀のご機嫌伺いをしている中
烏丸二条下るの町人、塩瀬三右衛門が饅頭などの菓子を持参した。
光秀がその中から粽を取り出し、食べようとしたところ
鬨の声が聞こえたため、包み葉も解かずそのまま食べてしまった。
そばにいた人々は「さては光秀といえども心臆して狼狽したか」と囁いたが
他のものは「いやいや名将は軍のことをのみ考え寝食を忘れてるのであり、
包み葉を解かなかったのも軍を気にかけている名将としての証である」
と評したという

605 :人間七七四年:2021/02/24(水) 19:31:08.70 ID:f7Vz/0wo.net
「太閤真顕記」では塩瀬三右衛門が烏丸二条下ルの町人となっていましたが
塩瀬家が饅頭屋を営んでいたことから名前がつけられた
饅頭屋町の住所は烏丸三条通り下ルなので、三条が正しいみたいです

606 :人間七七四年:2021/02/24(水) 22:21:29.18 ID:zZEQm/8U.net
明智ちまき
https://i.imgur.com/mbDJqXv.jpg

607 :人間七七四年:2021/02/25(木) 11:18:27.80 ID:vxvxZf9F.net
京都の上る・下るは良くわからんから調べてみたが
この場合は烏丸通りと二条通りの交差点(四辻?)を
南に行った所でいいのかな?

608 :人間七七四年:2021/02/25(木) 13:11:43.82 ID:9+K9E1ef.net
厳密に言えば玄関がどこの通りに面して、どの交差点から近いかだな
烏丸通りと二条通りの交差点を南下すれば最短で塩瀬家に入れる

609 :人間七七四年:2021/02/25(木) 14:53:29.62 ID:vstcWqSj.net
https://dotup.org/uploda/dotup.org2396640.jpg
このように烏丸通りと三条通りの交差点の南に
「饅頭屋町」は今も位置している

610 :人間七七四年:2021/02/25(木) 15:42:55.43 ID:ZrxBC2YJ.net
ジャップほんと大好きだな
食糞アピールは国内だけにしとけよ
https://shopping.c.yimg.jp/lib/top1-price/20200731-unti_1.jpg

611 :人間七七四年:2021/02/25(木) 16:55:00.29 ID:J/vuJaWh.net
慶長六年九月十五日の昼過ぎて、家康公は表に出御された。御機嫌良く、色々様々の御咄があった。
堀尾帯刀(吉晴)、大島雲八入道、猪子内匠、船越五郎右衛門が御前にあり、船越がこう申し上げた
「去年の今日、御合戦(関ヶ原の戦い)の日もあめが降りましたが、今日も雨降りです。」
これに家康公は御機嫌良く、お笑いに成った。

猪子内匠が申し上げた
「田中(吉政)の人衆は敵に遭い、三町余り敗軍しましたが、誰かが『返し候へ!』と下知した
ようにも見えなかったのに、引き返し敵を追い崩しました。田中の軍勢の働きは、見事でございました。」
そう申した所、家康公は仰せに成った

「あの時田中勢の間近くに、金森法印(長近)が吹貫を立て備えを成していた。しかしこれを敵と心得て
田中勢は馬を寄せなかった。法印の手勢と知っていれば、先へ押し出し、法印の居た所に馬を寄せて
いただろう。そうであったなら、敵を一人も洩らすこと無かったのに、法印の備えを知らなかった故に、
そのように苦戦したのである。」

総じて、家康公は弓矢の御咄などは、あえてなさらぬ人であった。相手によって、弓矢噺となった場合も、
脇からその事について存じている者が話し出すとそれにまかせ、御咄も止められた。
それを御小姓衆は、「上様は毛嫌いを遊ばされている。」と言っていた。
鶏を合わせた時、向かいの鶏を見て一方の鶏が退く場合、その事を下々では(相手の毛並みによって
好き嫌いをする、という事から)『毛嫌い』(これという理由もなく、わけもなく嫌うこと)と申していた。

『慶長年中卜齋記』

612 :人間七七四年:2021/02/26(金) 22:31:54.11 ID:Ueuzfx8t.net
ネットSNSで少しばかり話題のこれ、なろう系中世欧州風異世界とはこのようなものであったかと思い知った所存


ネットフリックス
エイジ・オブ・サムライ: 天下統一への戦い
2021 | | 1シーズン | 軍隊・戦争を描いたドキュメンタリー
群雄割拠の戦国時代にあった16世紀の日本。武将たちが権力争いと領土侵攻を繰り広げた波乱の時代が、
迫力あふれる再現ドラマと専門家の解説でよみがえる。

出演:羽田昌義、小坂正三、伊藤英明

613 :人間七七四年:2021/02/26(金) 22:33:08.30 ID:Ueuzfx8t.net
URLが貼り付けられないので、検索の上オフィシャルトレーラーその他をご覧いただきたい

614 :人間七七四年:2021/02/26(金) 22:44:47.49 ID:Ueuzfx8t.net
海外視聴者には、Wikipediaと同じでかなり正確とか、三傑の描写も迫真とか、史実に沿った丁寧なつくりとか評判のご様子

615 :人間七七四年:2021/02/27(土) 06:55:21.22 ID:antPjE61.net
シーモンキーの人か、皮肉入ってるな

616 :人間七七四年:2021/02/27(土) 09:23:08.46 ID:gnoqrqhI.net
>>6-10の世界観ねw

617 :人間七七四年:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu.net
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

(備前老人物語)

618 :人間七七四年:2021/03/05(金) 15:44:26.80 ID:7aTXAXEA.net
江戸城西丸御殿の普請奉行は佐久間将監(実勝)であった。
普請が大方出来た頃、大猷院様(徳川家光)が御覧のために出御あり、将監も御供の中にあった。
そこにどういうわけか、大久保彦左衛門(忠教)が居合い、大猷院様より「普請を見よ」と
仰せ下された。これに彦左衛門「誠に結構なる御普請の次第に候。」と申した後に、将監の方を見て

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るという。ここは、その方の家の如くに御殿の普請も申し付けたのか?
勿論、この城にとって必要のない事ではあるのだろうが、合戦のための作法は、少しは有るべきである。

この鴨居などは兜の立物、又は鑓などを張り上げ申すこと成りかねる。また雪隠なども見たが、身一つ
ですら入りかねる。忙しき時は具足を着ながら脇差指し、肱をいからせても入るものである。
それぞれ、確かに有る習いなるぞ。」

そう、容赦もなく言うと、上様はどう思し召されたのか、何の御返事も無くそろそろと奥へ
行ってしまわれたという。

この話を誰が聞き伝えたのだろうか。世の中では、人が語ることを聞き伝えている。

(備前老人物語)

619 :人間七七四年:2021/03/06(土) 16:42:02.44 ID:3DU6FgfK.net
大久保彦左衛門(忠教)が、堀田加賀守(正盛)殿の元にに見廻りとして行き、様々古今の物語をした。
或いは武道について、或いは三河においての人の武功の事などを語った。

加賀守殿、その時彦左衛門に
「聞き候へ。今、昔のように合戦など有るなら、むしろ昔より現代の方が、心ばせの有る人もいくらも
有るだろう。あまりに昔と言っても、現代と大して変わるところはあるまい。すこし話を盛って
おられるのではないだろうか。」

このように言われ、彦左衛門はすこし気に当てられたのか
「たしかに、左様にこそあるべきです。却って昔より今の人の心のほうが猛々しいとも見えます。
さりながら、現代であっても心がけ次第でしょう。貴殿の親父である勘左衛門(正吉)殿は六十余りまで、
別に御心がけを設けられず、イナゴの首一つ取られたという事も聞きません。されば、昔といっても
心がけの無い者は、十人並みと思し召されよ。」と言った。

加賀守殿気色変わり、その座にあった人々は「彦左はおかしき事を申すものかな。」などと、
なんのかのと言いつつ、挨拶をして座は空いていったという。
誰が云うともなく、この事は語り伝えられた。

彦左殿は後先もなく物を言う人であるそうなので、さもあるのだろう。

(備前老人物語)

620 :人間七七四年:2021/03/09(火) 16:25:26.53 ID:rJk2FzJg.net
大阪夏の陣に於いて、石川主殿(忠総)の部隊が回収した名作の吉光の刀を、京都において
権現様(徳川家康)に献上した所、殊の外の御機嫌にて

「この刀は秀頼より明石掃部(全登)に授けられたものである。これを持った者を討ち取った時、
どのような様子であったのか」

とお尋ねに成ったため、この吉光の刀を取ってきた権太夫という者が急ぎ京都に召された。
しかし御問について「(明石掃部という人物は)見知り申さず候」との事であったので、その通りに
申し上げた。

その後、五、七年も過ぎた頃、台徳院様(徳川秀忠)の御咄に
「大阪で回収された吉光の刀は、明石掃部が所持していたものであった。その後、明石掃部の行方は
解らぬままであり、である以上、その時討ち果たされた者の中に有ったと考えるべきであるのだろうが、
あの刀を回収した主殿頭の者共は三河筋の者達で、上方の侍を見知らぬ故に、惣首数の内に押し込めて
しまったのだろう。」との上意であった。

『冬夏難波深秘?』

621 :人間七七四年:2021/03/10(水) 15:49:22.20 ID:QP7IHgBS.net
関ヶ原の時分、大阪城内では片桐市正(且元)・主膳(貞隆)を討ち果たそうとする企みがあったが、
両人はそれを覚悟し用心していたために、その身、恙無かった。

関ヶ原合戦の結果が知らされると、大阪より飛脚を以て大御所様(徳川家康)に市正・主膳は言上した
「関ヶ原、御利運という事で、早速大阪へ、御馬を入れて下さい。我ら兄弟が太閤様の御遺言を守って
大阪に罷り在った以上、御親様(淀殿)は違乱について関係ありません。」

その旨を申し上げると、大御所様は前々より相違なく、心中もご満足され、関ヶ原より直に大阪へ
向かわれた。尼崎の又右衛門家は古よりの御宿であったので、先ずそこに御着座され、市正・主膳も
お迎えに罷り出た。

権現様(家康)の御意に
「この家は町中であり、如何かと思う。主膳正は太閤様の仰せ渡しにより、内々の取次をもしている者で
あるので、兄弟とは申しながら、主膳にはよしみがある。狭くても苦からず、主膳の所を宿としよう。」
との事で、そのままそのようになった。この時、杉浦内蔵允なども御供であり、彼のことはよく
覚えていたので物語をした。この事は証拠として正しくあったことなので、書き付けておく。

翌日、秀頼公へご対面遊ばされ、直ぐに西の丸に大御所様が御座なされた。その時、片桐兄弟は
申し上げた
「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、御朱印を出される事然るべしと考えます。」
との旨を申し上げると、「尤もである」との御意で、即ち秀頼公の細工人である右京と申す者に申し付け、
主膳の所で御朱印を掘らせた。

大御所様が江戸に還御の時分に仰せ付けられ、大阪城中門々の番について、大御所様のお指図を以て
片桐兄弟の者達により所々を相堅めた。これは大阪一乱の砌まで、市正・主膳が大阪に在った内は、
その通りに相違なく勤められた。

(片桐家秘記)

関ヶ原後の片桐兄弟と家康について

622 :人間七七四年:2021/03/11(木) 01:18:26.28 ID:by81p93d.net
> 「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、御朱印を出される事然るべしと考えます。」

これってどういう意味?

623 :人間七七四年:2021/03/14(日) 16:23:09.80 ID:pdfyli6S.net
東照宮(徳川家康)の北の方関口氏は、御父を刑部少輔親永と云う。御母は今川治部大輔義元朝臣の妹である。

東照宮が未だ駿河の国府に居られた時、義元のはからいにて弘治二年の春に婚姻なされた。
永禄三年、義元朝臣が尾張の桶狭間にて討たれると、東照宮は御料である三河の岡崎に帰られたが、
北の方は尚駿河に留められていたのだが、同六年の春、岡崎に迎え参らした。彼女については、
「駿河の御前」とも「築山殿」(三河国築山という所に住せ給いし故)とも呼ばれた。
この築山殿との間には。三郎信康君と亀姫君をもうけられた。

天正七年の八月、故あって野中三五郎重政承って。小籔村という所にて、北の方を失い奉る。
清池院として、遠江国敷知郡富塚西来院に送り参らせた。
さて、三郎殿もこの頃御生害あった。
亀姫君は奥平九八郎信昌に賜り、加納殿と申した。
(西来院領は、始めは十石であったが、延宝六年(1678)四月朔日、この年の八月が百回の遠忌に
当たることにより、寺領が加増され合わせて三十石となった。
この頃までは西光院と申していたのを、この時から清池院と改められたという。
大樹寺においては今も西光院と申し伝えられているという。)

(以貴小伝)

家康の最初の正妻、築山殿について

624 :人間七七四年:2021/03/15(月) 14:43:03.76 ID:dvp4Eblt.net
(徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。

一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。

また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。

結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。

彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。

(以貴小伝)

625 :人間七七四年:2021/03/15(月) 16:33:02.23 ID:LvWLthnf.net
芋川親正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E5%B7%9D%E8%A6%AA%E6%AD%A3

芋川氏は北信の国人領主として武田信玄配下であり、武田滅亡後は例のあの人に散々な目にあわされてから
上杉家に再仕官し、同家では代々重臣として続きました。
江戸後期の名君、上杉鷹山の改革に重臣団が叛意を示した一大事件「七家騒動」にも、芋川氏は
その名があります。


山梨県立博物館で開催中の特別展「武田信玄の生涯」では、18世紀末くらいに上杉家米沢藩で描かれた
米沢本川中島合戦図屏風も出展されているそうですね。

そこでは上杉武田両軍の武将たちが名前入りで描かれています。

さて芋川さんは・・・上杉方にいるじゃありませんか。

まあ代々の重臣が敵方じゃ色々と都合ってものがありすまよね、という太平の世のお話なのでした。

なお上杉家としては、信玄七男の子孫の米沢武田家が準一門格の高家衆で続いているように、旧武田
ということで何か問題があったわけではありません。



米沢市上杉博物館特別展「戦う上杉氏」図録解説などより

626 :人間七七四年:2021/03/15(月) 17:05:26.98 ID:30ThNIma.net
イモ侍に相応しい列伝

627 :人間七七四年:2021/03/15(月) 17:32:29.96 ID:MB/fOTRf.net
森長可やべー

628 :人間七七四年:2021/03/15(月) 19:07:30.34 ID:j2UHIErE.net
そういえば前に東国太平記に載っている、松川の戦いの箇所を読んでたら
「芋川縫殿助」が「百川縫殿助」と書かれていたっけ

629 :人間七七四年:2021/03/15(月) 19:37:45.07 ID:vfoaYdq4.net
五百川(いもかわ)と書かれることもあるからね

630 :人間七七四年:2021/03/16(火) 16:35:55.93 ID:hXgy7t7u.net
(徳川家康の側室である)阿茶局は筋目定かならず。
ある説に、遠江国金谷村という所の、賤しき者の妻であったという(八と呼ばれていたという)

この所の代官某が、阿茶局が見目よき女性であったので心に懸けて、我が者にせんと思い、
彼女の夫に非法をかぶせて殺し、阿茶を奪い取ろうとした。

しかし阿茶はこれに従わず、三つになる娘を抱いて密かに逃れ出て、浜松の城に走り入り、
御前に参って訴え嘆くと、やがて代官が召され糾明され、罪科が行われた。
そして阿茶は身内に召し置かれ、使わせ給わったという、

彼女は(家康の)第六の御子辰千代殿、第七の御子松千代殿をお産みになった。しかし松千代殿は
夭折された(一説には双子であったという)。

辰千代殿は成長され、上総介忠輝卿と申された。四位の少将にて越後国高田を賜った(七十五万石、
或いは五十五万石という)。

これより先、花井庄九郎という者が介殿の御心にかない、出頭して後には御家老の数に入れられ、
受領して遠江守となった。彼は阿茶局の娘を娶され、権勢肩を並べる者も無かった。
その子である主水正義雄も近くで仕えた。しかし元和元年、介殿が罪を被られた時、主水も
誅せられた。
その子で左京亮義虎と言う者は、介殿の御娘と結婚し、配所までも従って仕えたという。

阿茶局は東照宮(徳川家康)が隠れ給いし後、朝覚院殿と云った。
元和七年六月十二日に亡くなられた。小石川吉永の宗慶寺に葬られた。また伝通院にも印が立てられた。

(以貴小伝)

阿茶局について

631 :人間七七四年:2021/03/16(火) 16:48:12.32 ID:QbGWLllc.net
茶阿なのか阿茶なのか

632 :人間七七四年:2021/03/16(火) 17:06:30.67 ID:IaycZrii.net
隆慶一郎で知った

633 :人間七七四年:2021/03/16(火) 18:43:45.10 ID:amlqTBiN.net
阿茶と茶阿を間違ってるのか

634 :人間七七四年:2021/03/17(水) 15:27:16.10 ID:aThDU7wJ.net
すいません、投稿者ですが>>630 は仰るとおり阿茶ではなく茶阿局ですね。間違えました。訂正します。

635 :人間七七四年:2021/03/18(木) 13:24:07.87 ID:ZP2iBWLJ.net
たむけんか

636 :人間七七四年:2021/03/18(木) 16:11:11.49 ID:Ue32GW3Y.net
あちゃあ

637 :人間七七四年:2021/03/18(木) 20:57:20.61 ID:lba+Hk64.net
うわぁ・・・

638 :人間七七四年:2021/03/19(金) 15:20:18.90 ID:561gD9iY.net
今度の島原での切支丹(一揆)が起こった次第について、杢右衛門、善右衛門、宗意、
源右衛門、山善右衛門と申す者達、二十六年以前より、天草の内、大矢野、千束島と申す所に
数年山居していた所に、(寛永)十二年丑の六月中の時分より、かの五人の者申し廻して、
天草の内、かうつら(上津羅ヵ)と申す所に住居した。

伴天連は二十六年以前に、御公儀の御拂によって異国へと遣わされたが、その時伴天連は書物を以て
申し遣わした。そこには

『当年より二十六年目に当たって、必ず善人が一人生まれ出るだろう。その子は幼い頃から、諸学を極め、
天に印を現すだろう。木に饅頭が成り、野山に白旗立ち、諸人の頭にくるすら立つだろう。
東西に雲の焼けが必ず有るだろう。諸人の住居、皆々焼け果てるだろう。野も山も焼け、生きていけなく
なるだろから、書き置く。』

と申してあった。

天草に在った大矢野四郎という者を、この書物と引き合わせて考えてみた所、かの書物の通り
違わないとの事で、「さてはこれが天使であろう。」と諸人に対し、先の五人の者達が触れ廻り、
尊ばせた。この四郎は、生年十六歳であった。

切支丹(一揆)が起こった時分は、丑の十月十五日頃、天地が動くほどの不思議なることが出来た。
その時、「皆々驚いてはいけない」と、あの五人の者共が申し聞かせた。その人々は、かの五人が申す如く、
丑の十月一五日の夜に入り、俄に切支丹に立ち返り、村々にて頭だつ者達と談合し、脇々の者共もすすめ、
人数を催促し、島原所々の代官、並びに他宗の出家、切支丹に成らぬ者共を残らず斬り、
在々所々に引き籠もった。

『天草土賊城中話』

島原の乱の始まりについて

639 :人間七七四年:2021/03/20(土) 17:31:49.71 ID:F/WYy8iT.net
武蔵坊弁慶借状之事

昔慈照院殿(足利義政)が在世の頃、様々の道具、古き筆簡など、もろこし、わが朝の名人を尽くして
高覧あった。これによって将軍家に拝謁する人々は皆、珍しき筆跡を各々参らせられた。
或いは宸翰の類、その他掛け物など、あたかも山の如くに集まった。
その品々は、申すに違わず類なき見ものであったと言い伝えられている。

その中に、武蔵坊弁慶が手跡として、文が二十通ばかり、あなたこなたより集まった。
そこに書かれた言葉は、皆借用状であった。
或いは「痩せたる馬一疋御借し候へ」、或いは「砂金すこし預け給え」、或いは「絹一反、粮米一表
貸し給え」と、些細なものまで借りようとした文どもであった。
これは第一の見ものであるとして、上下喜悦して笑いあったという。

これに対して、将軍が仰せに成ったことには
「わずかに現代に残った文どもさえ、かくの如くの借用状である。弁慶が在世の頃には、一体どれほどの
ものを借りていたのだろうかと思うと、大変面白い。
そしてこの文を見れば、彼が無欲の者であったという事も明らかである。一日の蓄えが有っても、明日はまた
人の労志によって日を暮らしていたのだろう。このようであるのだから、定めてその借り物を返弁する事も
無かったのではないだろうか。

つまるところ、蓄財するつもりのない者という所が顕れていて、殊勝である。」
と、大樹(義政)も語感あったという。

現在の僧俗も弁慶のように振る舞うならば、人に疎まれることも無いだろう。
また、弁慶の姿が恐ろしく醜く絵に書かれるが、これは大いなる僻事と見えたり。
右の反故の中に、弁慶を「美僧なり」という事、数多その当時の僧共の文がある。
各別千万の事である。

(塵塚物語)

足利義政の収拾した文書の中に有ったという、弁慶の借用状について

640 :人間七七四年:2021/03/20(土) 21:19:51.03 ID:F/WYy8iT.net
洛東の高山を如意ヶ嶽という。ここには昔、如意輪堂があって美々しき盛りであったと云われる、
この山に瀧があり、急雨五月の頃、京よりこの山を望むと瀑布がありありと見えて、いみじき壮景であった。

昔、当寺繁盛の折から、この瀑布の傍らに楼門があった。これすなわち三井寺の境地にして、
西方の門であった。そのためこれを号して「楼門の瀧」と言った。
往古、三井寺に役する者は、この道を往還したと云い伝わる。京よりかの寺に行く時は外の街道より
険難であるのだが、非常に近道になるのでそうなったという。

この山に有った城郭は(足利義晴が築城した中尾城の事か)、去る頃公方がいみじく執し給ったのだが、
その後不吉の聞こえ有りと云って廃荒した。
また、このあたりに昔、平氏の世に、俊寛僧都、平判官康頼その他の人々が、後白河院にすすめ奉って
平氏を滅ぼすべしとの相談の有った山荘の跡地であるといって、その礎石がある。
総じてこの一山には古の様々な寺院山荘があって、軒を並べたいみじき場所では有るが、廃亡は
時の運命でも有るのでせんかたなし。

さて、去る頃、ここの城が盛んであった折から、不思議の化物があって、人を入り絶えさせたと云い伝う。
奥の矢倉の下に勤め守る侍共、雨天の物寂しい折から、碁、双六などを持ち出して遊び戯れている時、
明かり障子の破れた所より、面の広さ三尺(約九十センチ)ばかりにして、三目、両口の鬼形のもの、
内をきっと見入った。これに戯れていた人々は興を冷まし、身の毛も立てて恐怖した。
既に夜更けであったのに、虚空より、鏑矢、太刀の音など聞こえて、化生の者まなこに遮り、恐ろしい山であると
云々。

この事は、常徳院殿(足利義尚)御家来の某という者が、最近まで長命していて、修学院の傍に
牢浪として閑居していたのだが、彼が詳しく語られた。

(塵塚物語)

641 :人間七七四年:2021/03/21(日) 21:00:20.96 ID:7pdrtdIZ.net
http://pbs.twimg.com/media/Ew6-p1IUYAcTaPv.jpg
http://pbs.twimg.com/media/Ew6-p1IVkAc-d-n.jpg
http://pbs.twimg.com/media/Ew6-p1JUUAQ8XrN.jpg
http://pbs.twimg.com/media/Ew6-p1JVgAEw91y.jpg

642 :人間七七四年:2021/03/21(日) 22:25:08.33 ID:NKqfY+B2.net
ひたすら史籍集覧からの引用もいいんだけどもうちょっとテーマがほしい

643 :人間七七四年:2021/03/25(木) 13:52:15.72 ID:aTzJ8sRQ.net
聞きしはむかし、伊勢新九郎氏茂という侍が遠国より来て、伊豆国を切り取ったという事が
言い伝わっているのであるが、多説あって何れが正しいのか知り難い。

新九郎は京都より駿河に下り、今川氏親を頼み、牢人分であったが、武略の侍と船にて渡海し、
伊豆国を切り取ったよしを、老人が物語した。しかしこの説は覚束ない。

どういう事かと言えば、例えば私が江戸に在って、近辺の町人の噂話などを今日聞き、あくる日に
その実否を問うと、虚言ばかり多い事がわかる。江戸中の事ですらそうなのである。その上年月を過ぎ、
境を隔てている事について、言いたいように語るのは、世の常の習いであり、しかしそれを聞く人は誠と思い、
筆にて記し置くために、後世の人はこれを治定としてしまう。
兎にも角にもそら事の多き世なのである。

だからといって、今更世の噂を云うわけではない。右の新九郎は、名を得た達人であり、古き文に
一言づつ、数多に書き残されているのを愚老が近年見つけ出し、その趣きを、私は記すのである。

(北条五代記)

北条五代記の冒頭部分

644 :人間七七四年:2021/03/27(土) 15:34:52.41 ID:YYglUKru.net
(小田原の陣の後)秀吉公は江戸表より岩築と押し通り、野州の地に打ち出て、宇都宮に暫く逗留された。
この時、北畠内大臣(織田)信雄は、この度の一挙にさしたる軍功もなく、韮山の一城さえ攻め落とすことが
出来ず、剰え小田原の城中と内通の仔細があるという話が、殿下(秀吉)の元にも聞こえ、これらによって
『武の器に堪えず、柔弱である。』と、尾張国及び北伊勢五郡の所領を除かれ、これを近江中納言秀次へ
賜り、信雄へは鳥山城へ押し籠め、剃髪するように命じられた。信雄は力及ばず、入道して徳源院常真と称した。
その後、羽州仙乏領秋田に遠流に処せられた。

翌年八月、秀吉公の子、棄君(豊臣鶴松)の誕生が有り、その大赦に遇って勢州朝熊山に来て寓居されて
いたのを、また豫州へと遷されたが、文禄元年、三韓征伐として殿下が肥前国名護屋に動座の時、付き従うよう
言われ、その砌に息男の宰相秀雄に、越前国において五万石を宛行われた。

(関八州古戦録)

織田信雄の改易とその後の顛末について

645 :人間七七四年:2021/03/28(日) 11:49:07.61 ID:cF/gG/Ss.net
鳥山城ではなく烏山城では

646 :人間七七四年:2021/03/28(日) 13:37:51.94 ID:6RBK85DI.net
天正元年、織田信長との江北の戦に朝倉が敗れると(刀根坂の戦い)、信長の兵、撤退する朝倉軍を
追撃すること急であった。
朝倉の侍大将である山崎長門守(吉家)、託美越前守は柳ヶ瀬にて踏みとどまり支えると、
これに励まされて返し合わせて、討ち死する者も多かった。
山崎も大軍の中に駆け入って討たれた。

託美越前守はは矢立の硯を取り出し、師を一首書いて落ち行く者に頼んで、故郷に届けさせた。

 萬恨千悲有驀然、唯識今夜入黄泉、故園更莫灑愁涙、屍暴戦場唯是天
(萬恨千悲は急に起こるものだ、私はただ、今夜黄泉へ入ることを知っている、
 故郷の人々よ、嘆き涙を流さないでほしい、屍を戦場に曝すのも、ただこれは天の定めた運命だからである)

かくて散々に戦って討ち死にした。その間に朝倉義景は逃れ、越府(一乗谷)へ引き取った。

(常山紀談)

647 :人間七七四年:2021/03/30(火) 11:33:41.82 ID:nmrxIzeE.net
師を一首 は原文ママ?

648 :人間七七四年:2021/03/30(火) 17:42:46.03 ID:N0+W4jyb.net
明智光秀は天正七年六月、修験者を遣わして丹波の守護、波多野右衛門太夫秀治の元に、光秀の母を
人質に出したため、秀治はその弟である遠江守秀尚と共に本目の城に来たのを、酒盛りをして饗し、
兵を伏せ置きて兄弟を始め従者十一人を生け捕りにして安土に遣わした。秀治は伏兵と散々に戦い、
この時傷を蒙り途中にて死した。信長は秀尚以下を安土にて磔とした。
丹波に残った者達は、明智の母を磔にした。
そして明智は終に赤井等を攻め従え、丹波を信長より賜った。

また信長、ある時酒宴して七盃入の盃を以て光秀にそれを呑むことを強いた。
光秀は「思いもよらず」と辞し申しと、信長は脇差を抜き
「この白刃を呑むべきか、酒を呑むべきか」
と怒ったため、光秀は酒を呑んだ。

その後、稲葉伊予守(良通)の家人を、明智が多くの禄を与えて呼び出したが、これに対し稲葉は
返還するように求めたが戻さず、信長からも「戻せ」と下知されたにもかかわらず従わなかった。
信長は怒り、明智の髪を掴んで引き伏せて責められた、この時光秀は
「国を賜り候へども、身の為に致すような事はせず、士を養うを第一としているのです。」
との内容を答えると、信長は怒りながらも追求を止めた。

東照宮(徳川家康)御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜられた、種々饗礼を設けたが、信長が
鷹野の時、立ち寄って見て、肉の臭くなっていると草鞋にて踏み散らした。
光秀が又新たに用意している所に、備中に出陣せよと下知された。
これに光秀は忍びかねて、信長に叛いたのだという

であれば、信長の暴なること元より論を待たない。
光秀は土地を攻略するために老母を人質として殺すという不孝を、信長は賞した。
君臣共に悪逆を共有している。終わりを良くせざること、理である。

(常山紀談)

649 :人間七七四年:2021/04/01(木) 16:55:24.02 ID:orCSFoA9.net
慶長四年九月七日、家康公は大阪の秀頼に、九月九日の重陽の礼に伏見より御下りになられた。
大阪における宿舎は備前島であった。

家康公が九日に御出仕の所を討ち取るという企みがあり、打手の太刀取りは土方河内守(雄久)と
決定しており、これに大野修理(治長)、その他番頭共が加担しているとの沙汰があった。
これは増田右衛門尉(長盛)が内々に申し上げた内容である。

御出仕しても討たれることの無いように、伏見に召し置いてあった人数を召し連れ下る、との御意にて、
平岩主計頭(親吉)が伏見の御城へと罷り下った。
御留守には三河守殿があり、騒動のために、城中には西の丸に鑓二百本、鉄砲二百人、大手に高屋左近、
舟入の方口に水谷右京、松の丸には物頭衆、舟入にも物頭を遣わし、即座に城を堅めた。
馬は三疋のうち、一疋は鞍を置き、一疋は鞍を置き泥障(あおり)をささず、一疋は轡ばかりの
裸背であった。

大阪においては、備前島の御座所は如何と申し、増田右衛門尉の屋敷に仮に移られ、十二日が過ぎて
大阪城中に石田木工頭(正澄)が家を立ち退き、その身は堺へ参った(元来堺奉行)。
木工頭は一万石の身上であったが、当座御座あるには狭くはなかった。

程なく、二十日ばかりの内に、政所(高台院)が「木工頭家は用心も如何か」として、大阪から京に
御上がりになった。政所御家は禁中の南、秀吉公が京へ御上る時の御家であった。
誰も申さないが、政所のお計らいであり、家康公は政所の御座所へお移りになった。
西の丸と申す曲輪であった。
木工頭家には平岩主計頭が移った。

(慶長年中卜齋記)

慶長四年九月の、家康暗殺未遂事件について

650 :人間七七四年:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE.net
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

(慶長年中卜齋記)

宇喜田騒動とその後の波紋について

651 :人間七七四年:2021/04/02(金) 22:26:04.16 ID:r5meznFq.net
来月はこどもの日だなぁとカレンダー見つつ思ったんだが
黒田親子の関ヶ原の左手エピソードが仮に実現したとして、家康を潰して黒田が天下を取っていたら
今ごろ人形店の五月人形コーナーには長政の一ノ谷兜が並び、男の子がいるご家庭では如水の赤合子兜が
飾られるようになっていたんだろうか

652 :人間七七四年:2021/04/02(金) 22:30:06.46 ID:QGTUKS1E.net
後藤又兵衛「させぬぞ」

653 :人間七七四年:2021/04/02(金) 23:00:32.25 ID:bOLIpJL6.net
福島正則「返してもらおうか」

654 :人間七七四年:2021/04/03(土) 10:57:59.62 ID:7ysYaPU8.net
母里友信「日本号も頂きますね。」

655 :人間七七四年:2021/04/03(土) 11:29:54.08 ID:UYfM+Z2R.net
この前五月人形見る機会があったけどたまたまあった黒田長政は水牛兜だったな

656 :人間七七四年:2021/04/04(日) 14:27:56.52 ID:gauDwLhU.net
(関ヶ原の合戦の時)堀尾信濃守(忠氏)は大垣の押さえに置かれていたのだが、御合戦と聞いて
関ヶ原へ駆けつけた。彼は旗を二つに分け、夫に馬上の者を添えて、大方の早道程に急いだ。
馬上の者が三百ばかりもあっただろうか。

小雨が降り、霧は深く、人馬の息は煙のようで、旗は少し見えたが、馬上の物の具、指物は全く
見えず、轡の音、馬の足音ばかり聞こえた。
旗は黒地の折掛に、上に白い分胴があった。

鑓鉄砲、弓持ちといった歩行の者達は殆ど見えず、御本陣へ遠々と備えを立てた。

信濃守が参った時には、合戦は既に過ぎていた。

(慶長年中卜齋記)

657 :人間七七四年:2021/04/06(火) 13:44:38.70 ID:jCsjrP9j.net
関ヶ原の合戦後の九月十九日、行軍のさなか、何方の人であろうか、見た目は然るべき武者で、兜は着けず、
黒き具足で鹿毛の馬に乗り、金箔を押した才槌の指物にて、御先に参る衆と前後うち交わり通った。

先へ参る衆は、「先手の大名衆の使番だろうか。」と心を付ける人も無かったが、家康公は乗物の内から、
その間が二十町(約2000メートル)も有ったのだが、金色の才槌が光るのを御覧になり、
「あの者を改めるように」との御意あり、よってこの者を改めた所、彼は西軍方の落人であった。
「成敗するように。」との御意にて、道の側にて討ち捨てた。

(慶長年中卜齋記)

658 :人間七七四年:2021/04/09(金) 00:19:29.44 ID:q+equUKG.net
家康「あの武者なんかおかしくない?」
モブ「あれを見抜くなんて神君はやっぱりすげえ!」
家康「俺また何かやっちゃいました?」

659 :人間七七四年:2021/04/10(土) 20:55:27.87 ID:028L8sFM.net
伏見の島津屋敷に於いて、伊集院幸侃(忠棟)を島津中将(忠恒)が茶湯に呼び、そこで成敗した。
(慶長四年三月九日)

俄のことであり家康公も殊の外ご不審遊ばした。伊集院幸侃の息子たち五人は、薩摩に於いて領分に
立て籠もったが、家康公はこの扱い(和解)のため、山口官兵衛(直友)を二度、伊奈図書(昭綱)を
一度薩摩へ遣わした。その時、治部少(石田三成)と争いになった。落着については薩摩の者が
存じている。(伊集院成敗は、根本は治部の計らいであると後に人々言い合った)

家康公は、兵庫頭(島津義弘)に殊の外御懇情であり、彼に借金がある旨を聞かれると、それを
完済するように、その借金七百枚を遣わした。

慶長五年、家康公が会津征伐のため大阪をお立ちになる頃、伏見城松の丸を兵庫頭に御預けになるのでは、
との沙汰があったが、御預けは無く、若狭少将(木下勝俊)殿へお預けに成った。少将殿は
武田万千代(家康息:武田信吉)殿の舅であった。そして伏見の城は難しい沙汰(西軍による攻撃)
出来て、少将殿は松の丸を明けて若狭国へ引き退かれた。

乱後に万千代殿御内がどのように成ったのかは詳しく知らない。

(慶長年中卜齋記)

660 :人間七七四年:2021/04/11(日) 19:03:33.83 ID:RmcfdalD.net
呉座や亀田の著書を絶賛して井澤や八幡を罵倒する向きの方々は
沖縄の上里の著作にも慎重になった方がいいぞ

661 :人間七七四年:2021/04/11(日) 19:48:35.20 ID:Wib0s9ol.net
民主党に村を焼かれたひとは保留としとこう

662 :人間七七四年:2021/04/12(月) 08:30:44.87 ID:TteRMGS+.net
武田信吉の妻って消息不明なんだ
夫が早死にして実家も落ちぶれると女の人は大変だね

ところでどのへんが悪い話なのかわからなかったので、どなたか解説していただけないでしょうか?

663 :人間七七四年:2021/04/15(木) 05:42:39.04 ID:XA8Tx6K8.net
税理士の勉強はした事がないが、所得税法や法人税法はかなりの難関で、酒税法や消費税法はそこそこの難易度なんでしたっけ。
相当難しい資格の一つだと思いますよ。医師国家試験よりは少なくとも難しいはずです。一回で全科目合格できる人はたぶんいないレベルでしょうから。
ただ、医学部に学費を支払える難易度まで加味すれば、医師国家試験の方が上になるでしょう。
現実的には、医師国家試験は経済的に恵まれた家庭の子でないと、スタートラインに立てないことが、最大のハードルです。

664 :人間七七四年:2021/04/18(日) 01:15:41.14 ID:MVa/nSU9.net
加藤清正は常々不養生であったという。加藤左馬助(嘉明)が彼に申した
「足下は常々不養生である。養生に油断せず、長命するように。」
さて、左馬助が退参した後、清正は側に居た人に云った

「私は不養生をして早く死ぬべく覚悟をしている。何故かと言えば、存命している間に
乱世に及び、家康公が秀頼公と御合戦有れば、恩主故、秀頼公の御方を仕る事が当然である。
しかし秀頼公の御軍が、どうして家康公に対し得るだろうか。だからといって家康公に
随い奉るのは不義である。

私が早死し、我が子の代になっていれば。ともかくも家康公に随い奉ってもその咎は軽い。
これは我家相続の方便である。」

と伝わる。『清正記』という書にもそのように有る。また左馬助は長命を願い存命して、
二心有って家康公に奉仕すると云々。

清正の覚悟は忠義ではない。左馬助については評するにも及ばない。
両人供勇将であると雖も、惜しいかな道徳の志がない。

このように池田光政様は仰せに成った。

「列公間話」

665 :人間七七四年:2021/04/18(日) 10:49:40.16 ID:SUJSDCEt.net
どうしろと?

666 :人間七七四年:2021/04/18(日) 11:02:25.59 ID:zeGAD6FL.net
1609年生まれが偉そうに

667 :人間七七四年:2021/04/18(日) 14:26:22.66 ID:/9AHysH2.net
池田光政は何が言いたかったんだ

668 :人間七七四年:2021/04/18(日) 16:44:24.80 ID:7MqbF1gq.net
清正 主君・秀頼に従って滅亡したくないから早く死にたい
嘉明 家康に従って主君・秀頼を滅ぼすため長生きしたい

池田光政の政治思想や、日本における陽明学の受容に詳しいわけじゃないから自信ないけど
清正は「するべきこと(=秀頼のために戦う)」を分かっているのに実践しようとしない、それは忠義とはいえない
嘉明は旧恩ある豊臣家を滅ぼす助けをしようというのはそもそも言語道断
そんな感じじゃないか

669 :人間七七四年:2021/04/18(日) 19:24:16.68 ID:7lxIuqFT.net
清正にしろ嘉明にしろ確かにこの時の選択は胸を張れる物ではないかもしれない
とはいえ同世代の秀頼に付いて死んでいった奴らに言われるならまだしも
後世の3代目くらいの連中にアレコレ言われる筋合いなど無いわ!って所だろうなぁ
ご先祖の池田輝政もそんなご立派な人ですか?と…

670 :人間七七四年:2021/04/19(月) 08:07:57.98 ID:rWRFhlUH.net
清正なんて梅毒なんだから抗菌薬ない時代はどうにもならんでしょ
一応マラリアにかかってトレポネーマ煮てそのあとキニーネでマラリア治すという治療法あったけど日本には来てないな

671 :人間七七四年:2021/04/19(月) 11:14:17.68 ID:vZuIYbTq.net
和恵の紙、豊徳融和に尽力してたよな
心労が祟って死んだようなものだろ

672 :人間七七四年:2021/04/20(火) 14:14:29.64 ID:O4Ie7grK.net
古田織部について、彼は家康公の御意に入り、御懇意であった。
茶湯の者で、その上古田は度々功名があったのだが、世上に於いては茶湯のことばかり
沙汰され、武名を語られることは少なかった。これは茶湯が害と成ったのである。

家康公が、御庭の物数寄を古田に致させた所で、円座を御手自ら古田のために敷いたという。
これによって、諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府にて、(池田)輝政様を始め諸大名が、御館に於いて、列座して料理を食していた半ば、
古田が表れ来ると、皆座を立って膳の前に座らなかった。
その時、「茶道がありますので数寄屋を見られるように。」
と、連れ立って数寄屋を見せ、脇道より帰されたという。

古田について、上記のように諸人崇敬したのだが、冥加尽きて逆心したのだという。

「烈公間話」

673 :人間七七四年:2021/04/20(火) 20:02:10.55 ID:TwkJeAQs.net
Loginの戦国コーナーで大名達から茶関係で師のように敬われ過ぎて勘違いしたってコラムあったなあ

674 :人間七七四年:2021/04/23(金) 15:30:44.96 ID:dXmDSpBq.net
古田織部が家康公より逆心の咎めを受けた時、

「申し分を仕れば助かることも有るだろうが、この上において申し分をするのは見苦しい。」

と言って、申し分する事なく切腹した。
これについて、当時の数寄者達は感じ入ったと言うが、本当に身に誤りが無かったのであれば、
申し分をしたであろう。彼が切腹したのは、実際に逆心があった故ではないだろうか。
それは大阪城内への内通の罪であるという。

「烈公間話」

675 :人間七七四年:2021/04/24(土) 14:00:18.56 ID:tRl/2qaJ.net
本郷和人がまたいつもの調子で適当な話を、今度は上杉景勝でというの
及至政彦が苦言を呈したそうだが

あんたのパトロンの伊東潤は普段は歴史的事実を重視すると宣言してるのが
極端なアンチ景勝で特段に侮蔑した小説書いた上で、批判されるとあくまで小説と開き直ってたし
それに資料提供してたのあんたじゃんと

676 :人間七七四年:2021/04/24(土) 18:35:59.79 ID:TZYeH1lC.net
本郷は若いころに書いた本の後書きで、こんなに有能な俺が偉くなれないのは上でのさばってる連中がいるからで、
それは突き詰めると天皇制が悪い、ってなことを書いてたのを覚えているよw
今では立派な権威主義者の一員かな。

677 :人間七七四年:2021/04/24(土) 18:39:17.68 ID:TZYeH1lC.net
ただ、本郷と同じくNHKでおなじみの磯田も、二人とも元号制定で、令和の令は命令の令と口をそろえてたよな。

678 :人間七七四年:2021/04/24(土) 21:44:46.03 ID:/UKrG+tA.net
今度は平山が非常事態宣言の飲酒規制破りを称賛ツイートか

バカはSNSやってんじゃないよというか
SNSやるからバカになるのか

679 :人間七七四年:2021/04/25(日) 00:12:24.47 ID:uxsSajyz.net
ここはお前が人の陰口を書くスレじゃねえ。
ツイッターで直接本人に言え。
そんな度胸もないのだろうが。

680 :人間七七四年:2021/04/25(日) 09:10:24.42 ID:hPpkctoM.net
いや呉座氏の顛末とか考えると5ちゃんでクダまくのが理性的で賢明だと思うよ

681 :人間七七四年:2021/04/25(日) 09:38:11.91 ID:59gDZ8cO.net
呉座氏に何があったん?

682 :人間七七四年:2021/04/25(日) 09:58:40.43 ID:hPpkctoM.net
女性蔑視投稿で炎上の呉座勇一氏 知人は「彼は食事中もスマホを手放さないSNS中毒」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e55b62eb9b9e337c47f321b858c08c2c4a8ce8c5


先日、こういう一件があったんですよ
女性活動家のポイント稼ぎに利用されたようなとこもあると思いますが
その隙と口実を与えたのは呉座氏の責任

683 :人間七七四年:2021/04/25(日) 10:36:58.53 ID:ASYjuMyC.net
そもそもここはそういうものを書き込むスレッドじゃねえ。
逸話書かないなら出ていけ

684 :人間七七四年:2021/04/25(日) 11:01:47.51 ID:hPpkctoM.net
おお怖い怖い
早く逸話を書きましょうね

685 :人間七七四年:2021/04/25(日) 23:29:35.67 ID:TIXyTC0r.net
難波戦記によると、御宿越前(勘兵衛)は、(大阪夏の陣、天王寺・岡山の戦いで)討ち死にした時、
殊に強く戦ったため、白糸の具足が血に染まり、赤糸に見えたという。

これについて、池田光政様に、先の松平出羽守殿(松平直政カ)が物語されたことによれば、
御宿は元来、左手の指が欠損しており(元来左手無手棒ニテ候)、その最期の時は、赤糸の具足を着し、
指の欠損したまま、鑓を持って居たのを、越前(松平)家の何某がこれを能く見知っていたため、
そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前家の手勢の事を詳しくご存知のはずであり、であれば、これが本説であるのだろう。
御宿は指が欠損していた故に、強く戦える状態では元来無かったのである。

「烈公間話」

686 :人間七七四年:2021/04/26(月) 10:50:42.87 ID:Omwm547S.net
出羽守「元来の渡辺勘兵衛の左指デワー」

687 :人間七七四年:2021/04/26(月) 17:15:15.59 ID:rhtGunLN.net
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
出羽守のポリコレ棒をくらえ!

688 :人間七七四年:2021/04/26(月) 18:36:23.46 ID:PQIaL2a9.net
小指切れてたら槍握るの大変だろなあ
ましてや親指だったら不可能でしょ

689 :人間七七四年:2021/04/29(木) 14:39:47.50 ID:f09WRf9y.net
庚午(1630年)十二月に書写、丁巳(1617)年、池田光政様が御咄遊ばした。

秀吉公の御卒去は深く秘密とされたが、この時石田治部(三成方)より八十島と申す者が
使いとして、東照宮(家康)へ内密に申して曰く

「只今秀吉公御死去」

と申し上げた。

その後、秀吉公の御使者より東照宮に、蜜漬けが届けられた。
そしてその後、浅野弾正(長政)が御使として、御肴を持参して参られるということを
東照宮に申し上げた。

普段であれば、御使者が参った時は袴、肩衣を召して御馳走遊ばされていたのだが、
この時東照宮は以ての外の御様体にて、「弾正これへ」と召した。
弾正参り、御口上を申し上げた。
神君はややあって、以ての外の御機嫌にて

「今まで、死したる人の方より、使者を以て音信が有るという事は承ったことがない。
先程来た蜜漬けにも大毒満々たる故、この庭のふみ石にて打ち破って置いた。」と仰せになった。

弾正は
「そのようなことは有りません!」と色々弁明を申し上げた。
神君は
「治部方より御死去の日、注進があり、委細聞いたのだ。」と仰せに成られた。
浅野は申した

「石田を始め、堅く誓紙を取り交わしたというのに、彼が約束を変じた故に面目を失いました。
この申し分が実際の所であり、重ねて御奉公申し上げるでしょう。」
と申した。

その心の故に、関ヶ原にて御味方仕ったのである。

「烈公間話」

690 :人間七七四年:2021/04/30(金) 14:31:25.20 ID:s9vSCkNd.net
ある年の十月、物語されたことである。
池田輝政様が姫路に於いて右京殿(池田政綱)の屋敷にお越しになり、その日より御気色悪しく、
御城へと帰られたが、この時鳥が多く飛び来て、御駕籠に当たったという。これは春の事であった。

まもなく御快気され、江府(江戸)へ御参勤成された。同八月頃に御帰国、翌慶長十八年に、
また御気色が悪化し、その時、座敷の書院、床の障子にまた、鳥が数多飛んで来て当たったという。

まもなく、逝去された。これは加藤九左衛門が覚えており、光政様に物語申し上げた内容である。
輝政様の逝去は、慶長十八年正月二十五日、享年五十歳であった。

「烈公間話」

691 :人間七七四年:2021/05/01(土) 08:27:11.36 ID:yZrxDgdY.net
>>689
老人に甘いものは毒、もう糖尿病なんてあったのか

692 :人間七七四年:2021/05/01(土) 10:36:30.64 ID:xYlT6RcQ.net
>>691
米を大量に喰うから糖尿病(飲水病だっけ?)はあったけどこの文の趣旨はそれじゃない

693 :人間七七四年:2021/05/01(土) 21:01:22.25 ID:ADexeFwu.net
弱った輝政を見て喰ろてやるチャンスだと思ったんやな

694 :人間七七四年:2021/05/01(土) 22:34:39.93 ID:IR0t3pqK.net
大隅守殿(九鬼嘉隆)、左馬之助殿(加藤嘉明)、のお二人は中書(脇坂安治)が戦功を立てたことを聞き
同じく六日(文禄元年七月)に釜山浦から例の瀬戸口(見乃梁海峡)に行き八日には安高麗(安骨浦)烏島
という港に入った。ところが九日の辰の刻から敵の大船五十八隻と小船五十隻ばかりが攻めてきた。
大船のうち三隻はめくら船で鉄で覆われており石火矢・棒火矢・大狩俣などを放って酉の刻まで入れ代わり立ち代わり
攻撃をかけてきて、櫓から廊下、足隠しの要害などまですっかり打ち破られてしまった。石火矢というのは
長さ五尺六寸の堅木で筈元を鉄張りにし矢羽根も三方を鉄で取り付け、先には大狩俣がついており、手は
一尺二、三寸にも及ぶ広さであった。また棒火矢は先を鉄で丸く頑丈に貼ってある。この矢で五間、三間という
近い距離まで近づいて攻めかけるのである。日本丸の櫓で大隅守殿が鉄砲を撃っていたが石火矢が一つも
当たらなかったのは不思議である。

『高麗船戦記』(著者・年代不明)

695 :人間七七四年:2021/05/01(土) 22:36:59.06 ID:IR0t3pqK.net
その日、軍大将は渡辺数馬、越後隼人、浜島豊後、和貝豊前であった。これらを先頭に日本丸を飾り、三階に櫓を
上げさせ錦の幕を三重に垂れさせ、上に蓬莱山(三方に縁起物を盛った飾り)を飾り、山の上に伊勢神宮のお祓いを納め
木々の梢に縄網を三重に張り手ごろな小船を多数繰り出し貝を吹いて唐人の方に押し寄せた。
その有様は蓬莱山もかくものかと思わせるほど。唐人方もこれを見て残らず打ち取れとばかりに石火矢、鉄砲などを
遠くから撃ちかけてくる。ところが棒火矢が飛んでくれば用意の綱で海中にはたき落とすので船に当たらない。
近くから半弓で射ても三重の幕の二重までは通るが最後の一枚で受け止めてしまう。近距離まで迫って石火矢を
放った時は日本丸の中柵三尺四方を打ち破ったが、かねて用意の大工たちにいいつけ即座に修理して海水を止め
日本丸は揺るぎもしなかった。

『志摩軍記』(著者不明・江戸中期)

以上は『日本の戦記 朝鮮の役』(参謀本部編・徳間文庫抄本版)逸話集より
国会図書館ウェブサイトデジタルアーカイブでも戦前版を閲覧可能


まとめサイトの関連する過去記事としては「「閑山島海戦」の敗戦」
こちらは脇坂家の視点での海戦記録ですね

696 :人間七七四年:2021/05/01(土) 22:44:56.03 ID:IR0t3pqK.net
日本軍は釜山、東莱を落とし長躯進撃した。公(李舜臣)は兵を移してこれを討とうとしたが配下の諸兵が
持ち場を離れできなかった。
公は「今は死んでも賊を討たねばならぬとき。諸堡の兵を集め出発する」と言ったが、たまたま
慶尚右水使の元均が援兵を乞うてきたので、早速兵を率いて玉浦に行き、万戸の李雲竜、禹到積らを
先鋒として日本船三十を破って固城に到着した。
しかし漢城は落ち国王も落ちのびたと聞くと、西に向かって落涙して水師営に帰った。また元均が
兵を請うたので、露梁に向かい十三隻の日本船を破り、追撃して泗川に行った。肩に弾丸が当たっていたが
一日中、弓をもって指揮していたので気づかなかった。六月にまた唐裏で戦った。日本軍は層楼の船に
乗ってきたが片箭で金冠、錦袍の大将を倒し、賊軍は壊滅した。賊船は続いてやってきたが、
公は分捕った日本船を船隊の前に並べ、賊が近づいたところで火をつけた。火薬が爆発炎上し
賊は大敗して逃げ去った。ここに全羅右水使の李億祺も合流。固城の戦いでは今度も層楼の大将を撃ち殺し、
三十余隻の日本船を破った。賊は陸に上がって逃走し、公は李億祺と共に営に帰還した。
賊は湖南(全羅道)に向かい、公も固城に兵を進め、賊船は大勢で攻めてきたので退却しながら閑山島沖に
誘い出して七十余隻を打ち破った。賊将平秀家は逃走して死者数万を出し日本兵は恐れ震えた。

697 :人間七七四年:2021/05/01(土) 22:53:13.73 ID:IR0t3pqK.net
公は陣中で昼夜を問わず厳重に警戒し兜を脱いで寝たことがなかった。ある名月の夜、
公は起きだして酒を飲み、諸将を呼び出して「敵の策は相手を欺く手が多い。月のない夜は我を襲い、
月明かりの夜も攻めてくる。警備せざるべからず」と錨を上げるよう命じた。そこへ偵察から
賊船の報が来たのである。賊船は暗闇から現れ出で、公の船が大砲を撃って突進すると他船も続いた。
賊はこれを知って引き揚げていった。このことから諸将は公を神のごとく思ったのである。
公は釜山に進んで賊の根拠を攻めようとしたが、賊は砦を作り高所に上がってしまったので
空船百余隻を焼いて帰還した。

李忠武神道碑(1793年、当時の国王正祖の顕彰事業による建立)

元均は、17世紀中は李舜臣と共にとにかくまあ頑張ったよねと評価されていたが、この顕彰事業で
英雄の足を引っ張った無能な悪役視が確定、現代韓国まで続く

698 :人間七七四年:2021/05/02(日) 09:44:57.95 ID:vbE5RgE2.net
>>696
唐裏は唐浦でした

699 :人間七七四年:2021/05/02(日) 11:12:55.17 ID:BfgWGv2P.net
>>694-695
韓国時代劇や映画では、日本船をボコボコに撃破した無敵の亀甲船の主砲は、
金属弾丸式の大砲というのが定番
でも実際のところの「火砲」はロケット花火式というところですかね?

宇田川武久の「東アジア兵器交流史の研究」では、朝鮮に中国から金属弾丸式
火砲が伝来したのが16世紀半ばとあった

700 :人間七七四年:2021/05/02(日) 21:39:22.66 ID:tcpcgI0g.net
戦船を創作した。大きさは板屋船(日本の安宅船に比される戦船)ほどで上部は板で覆っている。
その上に十字型に細い通路があり人はそこを通る。ほかのところは刀錐を突き立ててあり
足の踏み場もない。船の前方には龍頭を作り口を銃眼とした。また後部には亀尾を作りその下に
銃眼を作った。両舷には各々六個の銃眼がある。船の形は亀形をなし、そのために亀船という。
海戦の時には錐刀の上に茅を編んだ筵をかぶせて先鋒とする。敵が船に登ろうとしてもこの刀錐の
罠にかかって斃れる。またこの船を取り囲もうとすればただちに前後左右から一斉に銃を
打ち出すのである。したがって敵が雲霞のごとく攻め寄せようともこの船の進退は自由、
向かうところ敵はない。幾多の海戦はこの船をもって常に勝利をおさめてきたのだ。

『李忠武行録(李舜臣行録)』(甥で部下の李芬によるものとされる)
『日本の戦史 朝鮮の役』より

文中にあるように朝鮮での本来のこの船の名は亀船で、明治以降日本側研究者が亀甲船と
呼んだのが向こうでの正式名称になってしまっているのだとか
そして龍頭には固定で強力な大砲が備え付けられているのが韓国時代劇定番ですが、
素直に文章読むと銃眼はあくまでも銃眼としてしか扱われてなさそうですね


日本船は木材資源が豊富なので比較的柔らかい杉材を多用したのが戦闘で仇になり、
資源が貧弱な朝鮮は松脂も含めて加工しにくいが比較的堅い松材で船を作ったのが
有利に働いたという説もあります

701 :人間七七四年:2021/05/03(月) 18:04:44.22 ID:qeDnAVp8.net
>>694
高麗船戦記は不明な点もありますが、当時その場で参戦していた
外岡甚左衛門の晩年の回想録というものです

702 :人間七七四年:2021/05/05(水) 06:37:07.38 ID:NNwVhzS7.net
>>700
銃眼からの銃撃と言えば対艦攻撃にはショボい感じですが
銃というのは○○銃塔という口径50〜100ミリ程度の各種小型砲です
将軍箭(棒火矢)か鳥卵弾(散弾)を射出

703 :人間七七四年:2021/05/05(水) 10:09:03.11 ID:yttfMbm+.net
それと>>696の賊将平秀家というのは、まとめサイトの「1599年北京、「戦勝」式典」を思い出しますな

当事国の朝鮮でも、後世には敵将の情報もそういう体裁になってしまっていたのか

704 :人間七七四年:2021/05/05(水) 15:56:59.97 ID:EaH3ck5c.net
長久手合戦にて、池田勝入公(恒興)が御討死に成ったと輝政公がお聞きに成り、敵陣へ
駆け込もうと成されたのを、伴道雲(大膳父ナリ)が御馬口に取り付き

「大殿様は御討死されてはおりません、御退きに成られたのを、私は見ました!
こちらの方にお越しになってください!」

と申し、無理に御馬を引き退かせた。

「烈公間話」

705 :人間七七四年:2021/05/06(木) 10:27:33.03 ID:saBtFYXk.net
物知らずで申し訳ないんだけと、池田さんとこの大膳とはどなた?

706 :人間七七四年:2021/05/06(木) 11:11:11.57 ID:y9wa6Qwj.net
番(ばん)大膳景次
この逸話の番藤左(右?)衛門は輝政に助けたことを恨まれて恩賞をもらえなかったけど、
輝正の息子の利孝隆の代で恩賞を貰ったとか

707 :人間七七四年:2021/05/07(金) 15:33:36.81 ID:c8NMKRSI.net
長久手の戦いの時、(信雄・家康方の)岩崎城には丹羽勘助(丹羽式部先祖)が取り籠もっていた、
しかし勘助は出陣しており、留守としてその舎弟・次郎助が在った。

池田信輝(恒興)公はこの岩崎城を攻め落とし、城中の人兵を斬り滅ぼした。次郎助は土肥飛騨が
討ち取った。

「ここにて一端、御備えを据えるべきです。」と、池田家の御家老共はたって申し上げたが、
恒興公は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい。」と思し召し、お急ぎの故、先行させた先手は
矢作の橋の際まで行き着いていたという。しかしこの時、跡より鉄砲の音聞こえたため引き換えされたが、
すぐに恒興公は討死なされたという。

「烈公間話」

708 :人間七七四年:2021/05/08(土) 23:32:21.87 ID:8ZD01rvz.net
この日(文禄元年十一月十七日)もあらまし漢城を見物した。大門の様子は五尺ほどの切石で
組み上げ、高さ三間、上に二階があり組物ゑどりの見事さは言葉に尽くせないほどだ。
門口は、丸くまた周囲五抱えほどの鐘がある。このような門が七つあって外郭十三里。峰から谷まで
全て石垣と築地でめぐらしてあり、いずれも切石が使ってある。その手際の見事さは例えようもない。
また内裏は王が退かれるとき自ら放火したそうで、その見事さは見ることができなかった。
しかし門が残っていた。六間ほどの広さで上に二階造りの立派な座敷がある。また門柱、戸辺には
鉄が貼り付けてあった。どれも素晴らしい絵模様がついている。鳳凰と白鷺、牡丹と白鶴である。
天井には龍が身をくねらせて寝ている。生きて動くように見え、恐ろしいほど。門の上に五抱えほどの
大鐘が吊られ、大太鼓もある。池には島がある。島の大きなものには石の柱で屋形が作ってあるように
見えるが、柱だけが残っている。その島には広さ三間ほどの石の反橋があり、欄干も石でできている。
池には二十人くらい乗れそうな船が二隻浮かんでいる。また掘があり、堀端には象、獅子、その他
唐の動物が石で彫り付けてある。大きな切石に鉄の輪が打ち付けてある。王の御代に象を繋いだのだと
唐人は言っていた。どれも日本の都に聚楽を添えたほどだと大谷刑部少輔殿が仰せられたそうである。
『吉見家朝鮮陣日記』(毛利家の吉見元頼が配下の下瀬頼直に記録させた日誌)

「日本戦記 朝鮮役」より

709 :人間七七四年:2021/05/08(土) 23:39:34.04 ID:8ZD01rvz.net
唐人の武具は馬上のものは半弓であり、足軽は五尺ほどの棒を振り回すのである。なかには長さ二間ほどの竹に
熊手がある。これは城がかりの道具である。鉄砲、台無(仏郎機砲か)はいうまでもなし。
出で立ちは漢南(華南兵)は総じて赤し。甲は白みがき。兀良哈(遼東兵)は総じて黒く、
朝鮮人は総じて白なり。いずれも三色のいでたちなり。
城攻め(蔚山)の次第は朝は六つ刻あたりから晩は五つ刻までであった。
『上山助右衛門高麗陣覚書』(毛利家臣の記録)


※白磨き(日本甲冑のように塗装しない白銀色。甲冑用語としてもいわゆる西洋甲冑と同じ色合いをこう呼びます。)

710 :人間七七四年:2021/05/09(日) 07:31:06.32 ID:jb5zflgC.net
どこが悪い話?

711 :人間七七四年:2021/05/11(火) 15:42:42.15 ID:mvGajSim.net
ある時、信長公より御成敗人(信長ノ舎弟、武蔵(織田信勝)ト云)をする事を仰せ仕ったものの、
手討ちに失敗し(三人に仰せ付けたが、討ち損じたという)、かの者が逃げた所を、廊下において
勝入様(池田恒興)が刺殺された。

その後、御家来共に物語された
「脇差はどうであっても重いものを用いるべきだ。先の手討ちの時、薄い脇差を差していたため、
ヒハヒハして(原文ママ、ヒラヒラか)難儀をしたのだ。」
そのように言われ、その後新身を大道(刀工、陸奥守大道か)に、重ね厚く、大平に御打たせ、それを
御陣刀に用いられた。これは御討死の時まで御指しになられ、今は永井家に伝わっている。

「烈公間話」

712 :人間七七四年:2021/05/13(木) 16:20:17.66 ID:HSTG9AXZ.net
生駒左近(光政様ノ家士也)はかつて、織田常真(信雄)に小々姓として仕えていた時、
信雄は何かの用があって左近に、「ここより内に人を入れてはならない。」と申し付けた。
そこで左近がその口で番をしていると、信雄家中で出頭の者がそこを通ろうとしたため、
先に信雄より申し付けられた事を申して止めたが、それを聞かず通ろうとしたため、
左近は彼を斬り殺した。その後、若輩では有るが理に当たるとして、褒美が与えられた。

彼は人体静かにして、公儀つき(上の覚え)も良く、それ故か武州様(池田利隆)より、
光政様の御守として付けられた。しかも、少し私曲があり、その故か、その頃生駒家が断絶
しそうになっており、当主の死も間近であるということで、左近がそれを相続するよう
仰せになられた。庚申(1680年)十一月十九日、備前西の丸御内所にて御物語された。

「烈公間話」

713 :人間七七四年:2021/05/13(木) 20:36:37.12 ID:dgiYnJqW.net
良い話悪い話スレ共に烈公間話から既出の話が続くね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12115.html

既出の内容と比べると、この内容だと分かりにくいのでもうちょっと分かりやすく書いて頂けるとありがたいが。

714 :人間七七四年:2021/05/13(木) 21:58:07.62 ID:xUZEL/2F.net
尻兄弟を斬ったのか

715 :人間七七四年:2021/05/14(金) 01:15:35.91 ID:mTE2p1tD.net
浅野紀伊守殿(幸長)は、池田輝政公の妹聟であったが、御仲は宜しく無かった。
輝政公は紀伊守殿が利口すぎるとして、気が合わなかった。

尾張の名古屋御城御普請の頃であった。紀伊守殿が参勤で江戸へ下るという時、何某という
口上宜しき者を使者として輝政公へ差し寄越され

「今、名古屋では御普請が行われています。これについて駿府や江戸において御尋ねもあるでしょうから、
参勤の途中に立ち寄って御普請の様子を見及ぶのが然るべしと考えます。
輝政公も参勤の途中にお立ち寄りに成られませんか。」

と申し越された。
輝政公は同心に思し召さず、かの使者を召し出されて言った

「浅野殿は、尾張殿(徳川義直)御筋目でもあり、御心の付く事、一段尤もであります。
私も立ち寄れば、首尾よく有るのでしょうが、私はあなたが見及んだ後重ねて、普請についての事に
何か気が付くには、知恵がなく成り難いでしょう。
あなたに続いての分別を、今回仕っても詮無きことであるので、立ち寄りません。」

と、拗ねた御返答をした(ス子タル御返答也)

「このような拗ねた返答はあんまりだ!」(カヤウノス子タル御返答餘リ也)と、
浅野殿は立腹したという。

延宝七己未(1677)九月、江戸に於いての御物語である。

「烈公間話」

716 :人間七七四年:2021/05/14(金) 06:25:27.63 ID:Ra1/CEvj.net
既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11184.html?sp

717 :人間七七四年:2021/05/16(日) 14:55:22.08 ID:MgIOmEd7.net
>>706
ありがとうございます

718 :人間七七四年:2021/05/16(日) 16:24:47.63 ID:o0DuMVtq.net
高麗亡国すべき瑞相の事

朝鮮国にて、東束という所の住人で、(朝鮮の役で)日本に捕虜として送られ、後に剃髪して
医師となった人が有った、文才有る人であったが、彼曰く

「いずれも高麗滅びること、時節到来と見えたり。全て人の業ではない。
その仔細は、この三年前に表示があった。

釜山浦より三里ばかり奥に、仙庵という山があり、この山に向かって、日本よりカラスが大量に
渡ってきた。空も見えぬほどに群がり、この現象は十四,五日の間引き続いた。
これは怪しく珍しき事であると、人々明け暮れにこれを見ていたが、これに対し、高麗のカラスが
雲霞のごとく群がって、この仙庵を襲撃し、日本のカラスと凄まじい食い合いをした。

これらは死期を知るが如くに戦った。或いは眼を突き潰され、胃袋を蹴り込まれ、或いは羽ふしを折られ、
蹴爪を損し、そうして死ぬカラスは、幾千万と数が知れなかった。
これを人々が寄って見た所、死んだカラスは皆々、朝鮮国のカラスであった。
カラスたちは十日ばかり戦った果てに、辰巳を指して皆々落ちていった。

諸人大いに怪しみて、この事を帝に奏聞した。そこで高位の大臣たちが集まって詮議あり、
とにかく博士に考えさせよとして、相応の人を召して占わせた。
それから暫くあって曰く、

「占文を考えるに、そもそも諸鳥が多いと言えども、カラスは日を司る鳥で、また扶桑国を日の本と
書きます。であれば、高域(高麗)を滅ぼさんと志すによって、先ずカラスが渡って、高麗国の武勇を
確認したのでしょう。今後、遅くとも五年、近ければ三年の内に干戈動揺の巷となるべきこと、占文の
表歴に顕れました。御慎み軽からざるよし。」

と奏聞すると、帝を始め奉り、左右の大臣「であれば、釜山浦に要害を拵えるべし。」とて、
大石を寄せ石垣を丈夫に取って、築地を突き矢倉をあげ、攻具を備え、水際の方に牛馬の尾の毛を取って
大綱に打たせ、乱杭に流しかけて、夜昼この港を守らせた。
さて又、鳳城の普請をすべしとて、人数を寄せて要害いみじく拵えた。

その他、所々のつまり、つまりをも普請を仰せ付けられて、かねてこういった用意をされていたにも
かかわらず、時節の滅ぼす所であったので、手立て、用心も当たらず、さしもの遠く久しく豊かで
めでたかりし(朝鮮)八州も、日本のために滅ぼされて、親類妻子散り散りに成りはてた。
旧里を思い出すと血の涙も出る思いで、肝に銘じて悲しいことだ。」

と、語った。

『義残後覚』

719 :人間七七四年:2021/05/16(日) 16:27:20.73 ID:3Js1RWNV.net
今川氏真公の士大将・小原肥前守(鎮実)が参州吉田の城を守っていたのを、権現様は御攻め
遊ばされ、御人数を二連木・加須塚などの要害へ遣わされた。すると小原肥前守はこれを見て
吉田川の辺り下地と申す所へ打ち出て防戦仕った。

その時、忠勝様(本多忠勝)は一番に御掛かりなされ、牧宗治郎と槍を御合わせなさり、比類
なき御働きであった。

時に蜂屋半之丞(貞次)が申されたのは、「毎度一番槍を突くところで、この度本多に越され
二番槍では詮なし!」と、槍を捨て刀を抜いてかけ入り、敵を幾人切り伏せなさった。

その時、敵方より河井正徳と申す剛の者が鉄砲を持って蜂屋を狙い撃った。あやまたず眉間に
当たり、蜂屋は討死致された。

――『忠勝公御武功其外聞書』

720 :人間七七四年:2021/05/16(日) 18:00:02.67 ID:P/x14cNk.net
美味しいとこだけ持っていくカスって昔から居たんだね

721 :人間七七四年:2021/05/16(日) 21:55:48.69 ID:Qd68O4B2.net
>>720
>>719の話のことだったら何処にカスが居るのか?と。
騙し討ちならともかく、日本各地の戦場に弓矢どころか鉄砲が普及してるこの時代に、スナイパーにやられたことを卑怯だの力スだのなんて言ってたらシモヘイヘやベトナムゲリラ兵はどうなるのかと。

722 :人間七七四年:2021/05/16(日) 23:11:54.09 ID:XILAtUGd.net
小原の悪いところはこれじゃないからなぁ

723 :人間七七四年:2021/05/17(月) 00:02:52.81 ID:OeKrAtqm.net
>>721
第二次大戦以降も狙撃兵は敵からは憎悪されて
味方からも忌避される存在だったけどな

724 :人間七七四年:2021/05/17(月) 04:56:39.66 ID:Ap+cpwvI.net
>>723
命と領土をガチで取り合ってる戦場でそんな甘っちょろいこと言われてもな。
寝言は地獄でどうぞとしか

725 :人間七七四年:2021/05/17(月) 05:20:15.60 ID:Ap+cpwvI.net
もう一つ言わせて貰うと、射程距離短い火縄銃時代の狙撃と近現代の狙撃を一緒くたに語るのもどうかとは思う。遠くから攻撃してくる弓兵も卑怯なのか?って話にもなるし。

本多忠勝に負けたくないと更なる武功を求めて前に出て奮戦した蜂屋さん。
乱戦の中、前線で味方に仇なす敵の猛者を銃で討ち取った河井さん。
互いにやるべき事やった結果だし、出典元でも河井を剛の者と評価はすれど、卑怯者なんて評価はしてないのでは?

726 :人間七七四年:2021/05/17(月) 09:03:33.43 ID:XQuYmwNe.net
>>719
常山紀談版だと、ほぼ同じ内容で本多忠勝と牧宗治郎に出遅れて一番槍を取られた蜂屋が他の士に遅れを指摘されたことに腹を立て、
本多忠勝に一番槍取られたなら一番太刀を取ると言って槍を捨て、敵前衛に斬り込んで2人を倒し、銃を構えた河井正徳を見つけてそこに向けて刀を持って突進された所を撃たれて立ち上がって退いたが亡くなったと言う風に描写されている。

で、蜂屋の母が息子の死に様を聞いて無様でない死に様に安堵したとある。

少なくともこの逸話に美味しいとこだけ持ってくカスは居ないと思うな。

727 :人間七七四年:2021/05/17(月) 12:24:41.53 ID:DVsEXiw2.net
河井正徳も名前が残るだけあってなかなかの剛の者。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4308.html

728 :人間七七四年:2021/05/17(月) 12:50:05.19 ID:r5e3KAQv.net
(小牧・長久手の戦い、白山林の戦いの時)

武蔵守様(森長可)が岩崎の城を御攻めの時は秀次公(豊臣秀次)は総軍の
後ろにおられた故、白山林と申す所で弁当を使い、諸勢たむろ仕るところへ
榊原式部大輔殿(康政)の人数が猪の越海道へ押し来たり、これを見付けて
そのまま見崩れ仕った。

その節、秀次公先手の士大将・田中久兵衛(吉政)と申す者は、堀久太郎殿
(秀政)の陣へ乗り来たり、敵が出たと注進した。

すると久太郎殿が申されたのは「其の方は一手の組頭、人数をかけ引きする
役人だ。敵が出たと注進に来る人にあらず。きっと敗軍して逃げて来たのだ
ろう!」と大いに叱られ、そのまま人数を引き返し、備を立て置かれた。

――『忠勝公御武功其外聞書』

729 :人間七七四年:2021/05/17(月) 13:09:27.50 ID:YUH6x6+h.net
>>726
むしろ、みんなやるべき仕事やった感があって、悪い話ですらないかも

730 :人間七七四年:2021/05/17(月) 17:30:50.65 ID:qIdLOoIG.net
ツイッターネタ転載

https://www.nhk-ondemand.jp/program/P202100247100000/
Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助
織田信長に仕えた黒人侍、弥助(やすけ)。イエズス会の宣教師に同行していた弥助を信長が気に入り、
家臣に取り立てたのだという。2人の主従関係は「本能寺の変」によりわずか1年3か月で終わったが、
その前後の弥助の足取りはこれまでなぞに包まれてきた。しかし近年の研究により、アフリカからアジア、
日本へ到る弥助の人生が次第に明らかに。ハリウッドで映画化も進むなど、今世界中から注目を集める、
弥助の生きざまに迫る。


番組内容:弥助は本能寺の後、九州で有馬家の砲兵隊長になり、更に後加藤清正に仕えて妻子もいた・・・


弥助の番組見た感想
南蛮の華―岡美穂子の研究ブログ―
https://mdesousa.exblog.jp/29523890/
まぁ、やっぱりテレビの仕事には、割り切りが必要だなと思うわけで。アカデミアでは許容されない
歴史叙述の方が、概して一般にはウケる、という現実を、アカデミアの研究者がどう乗り越えていくのか、
という切実な問題を日々考えるべき責務を思い出す契機にもなるということ。一般の歴史認識と
歴史学の常識は乖離してても良い、とは思いたくないから。そして歴史学界の常識が、本当に正しいか、
なんていうのは分からない。去年のNスぺの戦国の時も、この説は使わない方が良い、この史料は
こういう別の意図で書かれたので、そこには結び付けられない等々指摘したのですが、結局正体不明
(肩書詐称)の外国人にそれを語らせて話を繋げ、一般の人に相当間違った認識を植え付け、その上
許可なく私の名前を最後に入れてた(私が監修したと勘違いする人がおるやもしれん)、という点で、
激オコなんですわ。


加藤清正関連の史料(現在群馬県に所在)に出てくる「くろぼう」は「又大夫」という名前の人で、
沖田畷の戦いに出てくるカフルも弥助のはずはない根拠を主張しましたが、聞き入れられませんでした。
その場ではディレクターさんも、「そうですよねぇ」とか言ってたのに。あそこだけ史料の解説を
しなかったのは、すれば「違う名前書いてあるやん」と全国の古文書読める人からツッコミが来る
からなのだろう。そのクロボウは「家臣」というより、清正がマニラに送ろうとした船の傭船契約での
船長なので、「家臣」といえるかは?逆に日本=マニラ間の航路をBLACKの船長が和船率いてやってる方が、
「弥助」より個人的には興味深い。

731 :人間七七四年:2021/05/17(月) 19:25:42.65 ID:qDWBXlXc.net
>>730
NHKをコピペするとか正気か

732 :人間七七四年:2021/05/17(月) 21:34:17.77 ID:gNWyYtVL.net
>>730
前スレの90あたりで弥助を主人公にした大半が創作のハリウッド映画で
日本史が黒人至上主義の黒人美化のダシにされるって話題があったが
NHKはドキュメンタリーの体で日本史を黒人美化の材料にするのか…

733 :人間七七四年:2021/05/17(月) 21:49:47.45 ID:OeKrAtqm.net
>>724
イキり陰キャってホント戦場の話とか威勢よく語るな
殺さなきゃ殺される戦場とはいえ人を傷害する事に如何にストレスを感じるか
なんて事例はいろいろあるというのに
普段から鬱屈して人を傷害する妄想を抱いてるから
戦場で甘っちょろいこととかイキっちゃうんだろうな

734 :人間七七四年:2021/05/18(火) 00:39:44.50 ID:wqf7SaUG.net
黒人美化云々っていうより、NHKの歴史系番組の宿痾の話でしょ
名前をいいように使われるとか
アカデミズム側としては腹に据えかねる事もあるという

735 :人間七七四年:2021/05/18(火) 01:32:33.17 ID:X21xPJIL.net
あの当時の日本には弥助しか大砲を操作できる黒人はいない
有馬軍にいたのは弥助!

くろほうって加藤清正の文書に出てくる!
つまり弥助

すげーガバ理論展開だったしな、この人が怒るのも解る

736 :人間七七四年:2021/05/18(火) 04:42:49.58 ID:bksWdgh2.net
>>733
自己紹介乙

737 :人間七七四年:2021/05/18(火) 06:26:31.24 ID:qc3v7wo0.net
それよりもその先生の、日本船の船長に黒人がいたらしいってのの方が
はるかに面白そうだよな

738 :人間七七四年:2021/05/18(火) 10:03:05.55 ID:wWvzNbCr.net
>>737
わかる
これもっと掘って欲しい

739 :人間七七四年:2021/05/18(火) 14:58:44.29 ID:98EFAnXt.net
Netflixでヤスケやってるからじゃねーの?
ちょっと鬼武者ちっくな内容のやつ
天正伊賀の乱の顛末には震えたわ

740 :人間七七四年:2021/05/20(木) 00:06:40.33 ID:4aKls0Vm.net
柴田修理允(勝家)、丹羽吾郎左衛門(長秀)が、六,七千の軍勢を以て江州安(野洲)の郡へ
押し込み、散々に町中を放火して攻め入った所に、佐々木(六角)勢、一万ばかりが馳せ向かって
攻めた戦い、日を経て対陣した。

この時、(六角方の)杉坂いく兵衛という人は後に残っていたが、前線の様子が心もたなく思い、
見廻りに行こうと思ったが、せめて人数五百ばかりも連れなくては、一方の堅めにもならないと
思ったものの、手勢は二百ほどしか無く、そこで、比叡山へ行き、玄妙院の法印に会って申した

「今度、野洲郡の加勢に誰々が馳せ向かったのですが、勝負の決着がいまだ付かない事を承り、
そのため心許なく存じています。そこでそれがしは見舞いに参らんと存ずるに、せめて手勢五百も
無ければ、その甲斐がありません。日頃より仏法のことについては貴僧を頼んでおります。そこで
山の百姓共に、古具足、錆鑓にても持たせて、三百人を合力して頂きたいのです。
その返謝には、あなたが頼もしき僧であると人々に披露して、大分の寺領を付けさせるでしょう。」

このように曰われた。法印は聞いて
「たしかに、このような時に援助すれば、侍は肝要の用に立ったとして、一廉、その印が付く
ものである。」と思われ、やがて法印の指示により若大衆が談合して、どこどこの百姓が幾人、
どこどこの百姓何十人、などと組み合わせて、古き腹巻、鉢巻などをさせて、錆脇差をにわかに
錆を落とさせ、また竹の柄をすげる、などする者もあり、又樫の棒を拵えて担ぐ者もあり、
思い思いに出で立て、三百余人の加勢と成した。

杉坂は悦び、五百の人数にて野洲川を目指して急ぎ、ようやく一里ほどまで近づき様子を見ると、
はや合戦が始まっており、鬨の声、矢叫び、弓鉄砲の音、人馬の声、それらが天地を覆すかと
覚えるほど、夥しく聞こえた。これに三百の加勢達は、百姓ばらの事であれば、これを聞いて
引き震え、胸騒ぎして、面々の言い様は

「知行所領を取られるのは寺の得であり、我々には一合の役にも立たない。
(知行所領を取給へは寺のとくなり、われはら一合のやくにもたたす)
このような弓鉄砲の大事の所に行っては、一矢にて死ぬのは必定である。
我らは嫌だ、彼らはどのように思うか(われらハいやぞ、かれらハなにとおもふぞ)」

などと言う程に、一人抜け二人抜け、後にはガラガラ(くわらくわら)と逃げ崩れて、
止まれと行っても聞かなかった。法印も杉坂も呆れ果てたという。

『義残後覚』

741 :人間七七四年:2021/05/20(木) 05:53:12.79 ID:EQFi7qXY.net
>>740
8年前に出てた。

742 :人間七七四年:2021/05/20(木) 06:16:08.41 ID:EQFi7qXY.net
0514 人間七七四年 2013/05/03 20:30:22
柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀らが、6,7千の軍勢で近江国野洲郡に侵入し、散々に町中を放火した所、
佐々木(六角)勢1万ばかりが馳せ向かい攻めかかったが、そのまま日を経て、川を挟んで
両軍対峙の形となった。

この時、六角方の杉坂いく兵衛という者は後方に残っていたのだが、戦況が心許なく思い
前線に見廻りに行きたいと考えていたのだが、それにはせめて、人数5百ばかりも連れていかねば
一方の固めにもならないと思うものの、その時は手勢2百ほどしか無く、このため比叡山へ行き
玄妙院の法印に会ってこのように言った

「今度の野洲郡での合戦に、多くの者達が馳せ向かいましたが、織田方を成敗したという知らせは
未だ承わらず、心許なく思っており、そのため私は陣中に見舞に参りたいと考えています。
しかしそのためには、せめて手勢5百も連れていかねば意味が有りません。

そこで、貴僧にお頼みしたいのは、この比叡山の百姓たちに古具足や錆鑓などを持たせて、3百人ほどを
合力していただきたいということなのです。
そのようにして頂ければ私はその謝礼として、あなたが頼もしき僧であると人々に披露し、
多くの寺領が付くよう宣伝しましょう!」

この頼みを法印は聞いて、『たしかに、こういう時に援助をすれば、侍の働きの役に立ったといって、
一層その栄誉が得られるだろう』と思い、それから若大衆や檀家と相談して、彼らの配下の百姓のうち、
誰の百姓を何十人などと組み合わせていき、そして古い腹巻を巻かせ、彼らの脇差からにわかにサビを
落とさせ、竹の柄を付けたり樫の棒を拵えてかづく者もあり、思い思いの軍装をした3百人の加勢を
提供した。

杉坂はこれに大いに喜び、5百の人数で野洲郡へと急ぎ、ようやく近くまで来て見てみると、
すでに合戦が始まっていた。

鬨の声、矢さけび、弓鉄砲の音、人馬の声、これらが天地を覆すかのように夥しい音量で
聞こえてくると、3百人の加勢は、もとより百姓であるのでこれを聞いて引き震え、胸騒ぎして
このように言い出した

「知行や所領を取っても、寺の得にはなるが、我々には一合の得にもならない。
このような弓鉄砲の飛び交う大事の場所に行っては、必ず一矢で死んでしまうだろう。
私はそんな目に合うのは嫌だ。お前たちはどう思う?」

こんな相談をしている内に、軍勢から一人抜け二人抜け、終にはガラガラと逃げ尽くして、
杉坂たちが「止まれ!止まれ!」と叫んでもまるで聞かなかった。
これには杉坂も法印も、ただ呆れ果てるより外無かったそうである。
(義殘後覺)

https://itest.5ch.net/hello/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

743 :人間七七四年:2021/05/20(木) 13:30:02.90 ID:/pV1gHPB.net
武田信玄は父・信虎を追出して自立したり、悖戻(はいれい)不義、言語道断の不孝者なりと論難されて居た。

中井積善(竹山:江戸時代中期の儒学者)の逸史には、信玄悖戻にして権謀を好むと断じ、
室鳩巣(江戸時代中期の儒学者)は、悖戻不義と罵り、水戸の安積老牛(澹泊:江戸中期の儒学者、
『水戸黄門』の渥美格之進のモデルとされる)も、信玄は不孝の人なり、終身論語を手にせざるは、
自ら愧ずるところある故なりと論じている。頼山陽(江戸後期の歴史家、『日本外史』作者)も
同じ筆法で悖戻を攻撃している。

史家みな、斯く信玄を悖戻不義と罵り、中に飯田忠彦(幕末の国学者・歴史家、『大日本野史』作者)
のみは、よく事実を調べしと見えて、野史の信玄の賛には悖戻だの不義だのとは言わず

 国人信虎の凶暴を厭ふ、信形、虎泰、飫富虎昌等今川義元と通じ信虎をして駿河へ赴かしめ
 還るを得ざらしむ。信虎如何とも能わず。

と記したは公平なる書法である。

(伝説研究・歴史之謎 )

江戸期の武田信玄への評価について

744 :人間七七四年:2021/05/21(金) 13:13:57.45 ID:5HKrj848.net
本多家の譜代の士、小野某の家の記録に云う、

(本多)忠勝様は世に名高き蜻蛉切の槍にて数十度と功名、天下にその聞こえあれど、
槍術は至ってお下手なり。ご隠居後、桑名にて家中の若侍相手に槍の試合をなさる。いつも
入身をなさるに、殊の外拙にて、まだろくろく修行も積まぬ若者にも突かるる事あり。
ある時入身を突きたまうに、槍先不器用にて一向に利かず、遂にその時も負けたまう。

林氏の物語に
『忠朝様、表書院にて槍の師匠と頻りに稽古をなされ候。そこへ忠勝様御出なされ、かの者は
いずれの者なるや、家中には見覚えぬ顔なりと仰せらる。その者平伏して居れば、傍らより
忠朝様、これは槍の指南仕り候、何某と申す者にて、信州の浪人に御座候、と申し上げる。

槍の指南なら拙者相手なるべしと仰せらるる。世に名高き忠勝様の御事故、槍の師匠も遠慮致して
御相手を致さず。「是非立ち会い候へ」とひたもの御勧めにて、「少しも遠慮なく突き候へ」と
仰せられ、御立ち会いなされたるに、最初は互角の槍と見え候ところ、忽ち忠勝様胸を突かれ、
続いて槍をはね飛ばされ、尻もちをつきたまふ。

大いにご立腹して、「ヤア誰かある、蜻蛉切をもて参れ」と呼びたまふ。師匠吃驚したり、はや
逃げ出し候事に御座候』

とあり。槍下手の本多平八郎も面白し。

また信州の保科弾正(正俊)は、世に槍弾正と呼ばれ、戦場にてはこの人の槍先に向かう者、
必ず斃れずという事なし。然るに家中の者を集めて稽古するに、いつも勝ちたる事なし。
稽古は至極拙なりと承り候と、『長谷川運平筆記』にあり。
実地の事は全く別なりと知るべし。
道場で叩き合う剣術、槍術すべて華法なれば、実地に臨んでは何に役にも立たぬものなり。

(伝説研究・歴史之謎 )

745 :人間七七四年:2021/05/21(金) 20:32:13.92 ID:ZuSEJof4.net
>>744
可児才蔵には宝蔵院流槍術を学んだばかりの頃はむしろ槍が上手く使えなくなったって言う話があったかな。
道場の教えが本当に実地では役に立たないのか合わなかったのか?何なんだろね

746 :人間七七四年:2021/05/21(金) 21:44:39.04 ID:k7YOddEN.net
稲富「稽古で下手なのに実地で上手く出来るのかな?」

747 :人間七七四年:2021/05/21(金) 21:56:18.10 ID:+qedGPpg.net
>>744
こういう話はよく聞く。
戦国武将からは外れるけど新選組の近藤勇、
道場ではどっちかてえと不器用な竹刀捌きだったそうだが実戦では滅法強かった。

748 :人間七七四年:2021/05/21(金) 22:08:34.33 ID:BMBwzAZo.net
>>745
才蔵の場合は無手勝流の時は怖いものなしでガンガン突っ込んでいけたけど
なまじある程度槍を習ったら恐怖を感じ取れるようになってびびっちゃった
って事だったような

道場の教えが実戦で役に立つとか立たないという単純な話ではなく
個人戦と集団戦では強みが違ってくるという事だろう

749 :人間七七四年:2021/05/21(金) 22:16:41.06 ID:i6H2cVOe.net
>>747
どっちかっていうと、天然理心流は柔術や他の武具術も含めた総合的な体系だからじゃねえかな。
竹刀だけに特化した剣術家と竹刀で試合したら、そら分が悪い。

総合格闘技の選手とプロボクサーを国際式ボクシングルールで試合させるようなもん

750 :人間七七四年:2021/05/21(金) 22:53:40.71 ID:By0VHP+h.net
>>749
なるほど。
良い喩えで解り易い。ありがとう。
本多忠勝の件も何かその辺のことがあるのかな。

751 :人間七七四年:2021/05/22(土) 15:59:31.94 ID:YXS2jksv.net
加藤清正が吉岡憲法に全く勝てなかったが、実戦では違うと槍甲冑を持ちだしたら、恐れ入ったように
憲法が振る舞ったって話はどこで聞いたんだっけかな

752 :人間七七四年:2021/05/22(土) 18:07:21.47 ID:VXFhhPTe.net
(小牧・長久手の戦いの時)

堀久太郎殿(秀政)はそのまま人数を引き返し、備えを立てられたところで式部大輔殿(榊原
康政)の人数が行きかかり、久太郎殿の備を見てまた見崩れ仕った。久太郎殿の人数は式部大
輔殿を追い立て来たるところで、権現様の御旗の手を見付け久太郎殿の人数もまた崩れ申した。

それより権現様は浅間山へ御上り、御備遊ばされた。阿弥陀ヶ峰には井伊兵部少輔殿(直政)
を立てられた。その様子が勝入公(池田恒興)、紀伊守様(池田元助)、武蔵守様(森長可)
へ聞こえたゆえ取って返され、井伊兵部少輔殿と武蔵守様と合戦が始まり申した。

その節、兵部殿の手先で平松重治郎・鳥居重治郎の両人、武蔵守様の手では千田主水・山田八
右衛門とが一番に槍を合わせ申す。武蔵守様の備が色々と崩れ仕ったのを、武蔵守様は手槍を
御取り、御進み出て追い払わんとなされたところ、兵部殿の手より強く鉄砲を撃った故、その
鉄砲が武蔵守様に当たり御討死なされた。

すなわちその手が崩れ申した時に、権現様の御旗本、金の扇子の御馬印が進んだのを勝入公の
人数が見付け、ことごとく敗北仕った。その折、武蔵守様の御死骸を御家来が引きかけ退いた
が、後ろから大勢が追いかけるので退くことに難儀し、その辺りに捨て置いたのを本多八蔵殿
が御首を挙げられ、ならびに刀を取り添えて権現様へ御実検に入れられた。その刀で武蔵守様
ということが知れ申したという。

それより勝入公は東の方へ退かれたのを安藤彦兵衛殿(直次)が槍付けられ、永井伝八殿(直
勝)が首を挙げられた。紀伊守様は勝入公の討死を御聞き付け、阿弥陀ヶ峰の方へ乗り付けて
御越しになったのを、また彦兵衛殿が槍を合わされ首を御取りになったという。

権現様はことごとく御勝利を得られて「参(欠字)たちの子飼いの武士ども、槍を仕り候」と
仰せられ、信雄公へ首実検に入れ申すようにと仰せ付けられた。首どもは御送り遣わされ、そ
れより早速御人数を小幡へ御引き取り遊ばされた。

――『忠勝公御武功其外聞書』

753 :人間七七四年:2021/05/22(土) 19:19:57.14 ID:ZunKXDsZ.net
ところで。
このスレも結構スレ番が進んでるから
「太閤以下大名諸将列座の面前で鬼作左が家康公を面罵した話」なんてのは既出かな?

754 :人間七七四年:2021/05/22(土) 20:22:30.66 ID:/PHcjahT.net
黒田家家臣、野口一成の槍術・いい話
の逸話でもあるけど
ゴッツイ籠手付けて左手で敵の攻撃を受け止めて
頑丈で切っ先だけ鋭い太刀で突き殺すなんて戦法
こんなの剣術的には大問題だけど
戦場じゃ有効だった訳だしな

755 :人間七七四年:2021/05/22(土) 22:12:26.33 ID:Y1tEqeiq.net
>>753
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9574.html?sp

これかな?

756 :人間七七四年:2021/05/22(土) 22:33:12.86 ID:RIuNtALQ.net
>>755
そう。これ、これ。
この話、好きなんだよなあ。
海千山千の筈の狸がどんな情けないツラをして諸将に言い訳(愚痴?)したのかとか、
或いは二人だけの時に悪口雑言罵詈讒謗を浴びせられた狸が黙っちゃうところとか、
想像すると微笑ましい。

なお、
この話は単体で嗤うに止めておきたい。
これとは別に作左の一徹な忠義っぷりの話も伝わっているが、
それと併せてこんな作左を長年そばに置いて処罰も解雇もしない君臣のあり方とか狸の懐の深さとか、
そこまで考えちゃうと単なる「いい話」になっちゃうんで注意されたい。

757 :人間七七四年:2021/05/23(日) 08:53:56.70 ID:LB7x6Tpm.net
>>756
本多作左衛門と家康の腫れ物・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-498.html?sp
本多作左衛門と「人煎り釜」・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-470.html?sp

これらを見ると、口喧しながらも主人を思う兄貴か親父みたいな家臣なんだなぁと思う。実際歳の差もそんな感じだし。

本多作左衛門と鉄火・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-463.html?sp
かと思えば、主人の命で苛烈な火起請にも耐える。
最後は秀吉の面子のためにか蟄居させられるけど、本多重次は立派な武士だと思うよ。


今の時代に居たら近付きたくはないけど。

にしても、尾張のアニキは火起請(ケジメ)が好きだなぁ…

758 :人間七七四年:2021/05/23(日) 18:12:15.58 ID:fuE1wE8z.net
>>756
おべっか使う部下よりはこういう人のほうが頼もしいんじゃないかな

759 :人間七七四年:2021/05/23(日) 18:19:34.08 ID:0+04Hpa9.net
>>758
一見勇ましいけど現代的に置き換えて
本社の社長が来てる時にこんな事ぶちまけていく奴が居たら
幾ら本人が忠義心で言ってたとしてもいい加減にしろよおまえ…ってなると思うわ

760 :人間七七四年:2021/05/23(日) 21:58:25.48 ID:xDcC9ypJ.net
>>758
黒田長政「せやな」

761 :人間七七四年:2021/05/23(日) 23:07:01.83 ID:e/DfGyyz.net
主君の正室の母親が見舞いという名目で来てるのに
宿舎の周りに薪積み上げるって
徳川の対外心象最悪にするのみならず
秀康の立場は悪くなるし、
後に秀忠人質に出す時同じことされても文句言えないわけで……

重次本人は”忠義”とやらを示せて気分がいいかもしれないが、
秀吉他との関係に細心の注意を払ってるであろう家康は堪ったもんじゃないと思うぞ

762 :人間七七四年:2021/05/23(日) 23:46:46.89 ID:0+04Hpa9.net
あの蛮行ってまかり間違って大政所と旭姫に何かあったら
秀吉からの討伐令を受けて滅亡してたよな
結果的に何事も無かったから気骨の臣みたいに扱われるけど
ちょっとした情報伝達不備で何かあったら、と考えると…
これで徳川が滅亡してたら戦国1の不忠者扱いされてたかもな

763 :人間七七四年:2021/05/24(月) 06:22:57.71 ID:ESwCAApa.net
徳川が最終的に勝ったからこそ大っぴらにできる話だよなあ

764 :人間七七四年:2021/05/24(月) 12:53:53.72 ID:1JkSQVpl.net
>>762
野戦で負けてるのに秀吉が勝てると思ってるのか?
お前はゲームでもして脳内夢想してろよ

765 :人間七七四年:2021/05/24(月) 15:45:44.51 ID:rRGfJaZw.net
>>764
横槍すまんが、作佐が秀吉実母と妹のサツガイする前提条件として、京に登った家康のサツガイがある訳だけど、家康と上洛に付き従った武将が居ない上にこの時の秀吉の勢力図や動員能力差を考えたら死兵となった三河武士や同盟国北条の支援で簡単には徳川滅亡とまではいかないまでも、ほぼ滅亡に近い状況にはなると思うよ。

まぁ臣従に来てる大大名御一行様をヌッコロとか、それこそゲームでなきゃやらんと思うけどな。

766 :人間七七四年:2021/05/24(月) 21:10:15.64 ID:hsD/pFrc.net
これやね
https://i.imgur.com/WnKtVWh.jpg

767 :人間七七四年:2021/05/24(月) 22:35:28.06 ID:ydyOgWmP.net
>>765
可哀想なゲーム脳ですね

768 :人間七七四年:2021/05/24(月) 23:00:06.99 ID:j/bqRsz9.net
>>766
猿も狸も一瞬で完全敗北。
絵にすると余計に愉快だ。

769 :人間七七四年:2021/05/24(月) 23:07:05.69 ID:WMP/L4pl.net
>>766
今川の城代が入ってたときは作左さん何してたの?って話になるな
つまりは江戸時代になって必要以上に顕彰された三河武士すごい噺

770 :人間七七四年:2021/05/24(月) 23:14:26.13 ID:j/bqRsz9.net
>>769
野暮を抜かすなよ。
ここはそういうのは百も承知で笑える話を笑って笑えない話も笑うスレだろ。

771 :人間七七四年:2021/05/24(月) 23:31:53.28 ID:WMP/L4pl.net
>>770
江戸時代に無理気味に作られたストーリーを再生産した噺を愉快がるのは勝手だが
筋の通ってない話で笑えとか、人にお前の価値観を押し付けるな

772 :人間七七四年:2021/05/24(月) 23:47:51.26 ID:j/bqRsz9.net
>>771
真性のアレだったか…。

773 :人間七七四年:2021/05/24(月) 23:59:37.97 ID:WMP/L4pl.net
早速まともにレス返せないのか
この程度でも話が難しすぎるとは出来の悪いおつむだな

774 :人間七七四年:2021/05/25(火) 00:19:57.48 ID:a0RAGxY8.net
悪い話に投下されてるし笑い話扱いじゃないと思うがなぁ

775 :人間七七四年:2021/05/25(火) 00:24:49.19 ID:a0RAGxY8.net
>人にお前の価値観を押し付けるな
ああ、ここには賛同するんで他の人がどう思おうが知らないよ
このことで絡んで来ないでね

776 :人間七七四年:2021/05/25(火) 06:53:33.10 ID:mqPhmL+O.net
>>767
ゲーム以前に現実見ましょうね

777 :人間七七四年:2021/05/25(火) 07:13:23.57 ID:Zive1ZoU.net
>>776
鏡見ろよ、池沼w

778 :人間七七四年:2021/05/25(火) 07:21:29.68 ID:40YxW5YO.net
このスレって論理的な返しが出来ない煽りだけの無能居るよね
>>777とか

779 :人間七七四年:2021/05/25(火) 11:24:56.53 ID:/QK7pAS7.net
776,778
悔しいのうwww

780 :人間七七四年:2021/05/25(火) 17:32:16.39 ID:ECGNI1f6.net
末尾Oって珍しいな

781 :人間七七四年:2021/05/26(水) 07:20:56.53 ID:fY0fPgh0.net
鬼の本多、悪い話まとめ

http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/20210526/6050014622.html

782 :人間七七四年:2021/05/29(土) 16:47:04.01 ID:868aPDef.net
越中国の住人である神保越後(筆者注:越中守長住の事か)は上杉輝虎公に度々攻められ領地を放火され、
互いに敵対してその遺恨は肺肝(心の奥底)にまで達するものであった。

ある時、神保は輝虎公への計略として、自分の家老の内、或いは外様の諸士、その他領分内の地下人で
あっても、誰に寄らず、見目形優なる若衆を探した所、東国牢人(名字、名、切れて見えず)の持つ子に
一人、誠にその容姿、優なるを選びだした。
そして神保はこの子に向かって言った

「汝を頼み、命を貰いたい。」

その時、かの少年はこのように答えた
「いかようにも、御意次第」

神保は満足して、この少年を結構に仕立てて、その上で申し含めた
「貴殿、越後に行って才覚をめぐらし、輝虎を頼み奉公を遂げ、その透きを窺って、輝虎を脇差の
一突きにて刺殺するように。もしこれが成れば、貴殿の父に越中半国を与える。」

少年はこれを聞くと、未だ十六歳であったが、いかにも機嫌よく申した
「誠に、私をこのように見つけて頂いたこと、偏に天の恵みと申すべきでしょうが、これも
弓矢の家に生まれついた道でもあります。どうにか、智略を廻らしてみます。」
と、委細を申し受け、越後国へ牢人した、

さて、その後にかの少年は越後春日山に来たりて、兎角を計ったものの、中々法度が厳しく、
一夜の宿すら借りることが出来ず、ようやく春日山の近郷、長峯という所の小寺に入り、
無為に過ごしていたのだが、ある時、輝虎公が海へ舟遊山に出られた所に、かの少年が
御蹄の前に罷り出て、「是非御奉公を」と望んだ。
輝虎公はこの少年を見られると、安田という侍に預けられ、「本国はどこの者か、父は何という者か、
所縁を委しく調べ、その首尾を以て召し使うかどうかを決める。」と宣われた。

安田承り、少年に本国、先祖を尋ねた。それについて彼はこのように答えた
「本国は関東の者でありますが、国乱れるによって信州へ牢人仕った所に、父は去る年、
こあらま合戦(天文九年の小荒間合戦ヵ)にて討死仕り、今は母一人居ります。」

また安田は問うた
「その母は現在何処に在るか」

「信州更科と申す所に居ります」

安田は委細を聞いて、直ぐに信州に飛脚を出し、事の様子を尋ねさせた所、少年の言ったような人物は
一人も無かった。そして飛脚の者は罷り帰ってそのことを報告すると、それを聞いた安田は、
再び少年に問うた。かの少年は、未だ若年の余りであろうか、これを聞いて色を変じ、それまでと
様子が一変した。

それらの事どもを一々に言上すると、輝虎公は疑念を発せられ、少年を領内から追放した。
その後上杉領国の法度はますます厳しくなり、神保は本意を遂げることが出来なかった。

(謙信家記)

783 :人間七七四年:2021/05/29(土) 17:12:10.86 ID:8JRDqXqH.net
菊門責めを期待してたのに拍子抜けだぜ

784 :人間七七四年:2021/05/29(土) 23:23:10.17 ID:At6oG/01.net
我々は今ゴジラとモスラは昔から仲良しだったという歴史の書き換えを目撃している
司馬史観とはかくなるものであったか・・

785 :人間七七四年:2021/05/30(日) 14:26:20.55 ID:ciHKv8b6.net
>>782
戦国時代って、処刑や自害強要が当然に思える相手でも「追放」が多いなと
昔から思うけど、戦でもないのに矢鱈と人を殺すものではないという観念だったのか?

786 :人間七七四年:2021/05/30(日) 18:11:39.34 ID:XYUliaXg.net
岡崎城主の本多豊後守(康紀)は、元和年中に亀蔵と申す草履取りが
奥に仕る腰元のふくと申す女と密通したのを吟味した。

岡崎六本松にて2人とも搦め置き、10日に手爪を離し、10日に指
を切り、20日に足の爪指を取り離し、2日に両眼をくり出して2人
ともに成敗した。この2人は自らの科とはいえ七代の祟りをなさんと
言った。

この後、城にあらゆるケザヽをなし、これより六供で護摩を焼くとそ
の煙の内に2人がきっと立っている姿を、ありありと諸人は見た。

その頃、豊後守家中には新参古参があった。古参は岡崎能見山に愛宕
山と勧請申し、新参は龍海院山にて愛宕山と北南に勧請申した。この
時に亡魂収まり、これより愛宕の宮を“亀蔵宮”ともいうようになった。

さてまた豊後守殿には亡目の子が1人、両手の指が無い子が1人、口
の歪んだ子が1人いた。これらは亀とふくの業と沙汰された。今も若
宮ならびに新明、その後に立った両愛宕あり。業の程こそ恐ろしけれ。

――『三河東泉記』

787 :人間七七四年:2021/05/30(日) 19:16:53.49 ID:33ZLdl02.net
今やってる大河の賢侯たちも、側近が暗殺、刑死したあとはぱっとしなくなるよね
優柔不断とか言われるのも側近の死後だったり

戦国大名もそこらへんどうなのかな?

788 :人間七七四年:2021/05/30(日) 21:28:47.27 ID:b5HSe0Zx.net
>>785
戦国時代だととにかく殺伐としてる印象だけど
一方で割合助命される件も見るにそんな好き好んで殺した訳でも無いんだろう
上の例ならまだ事前に隠密である事を察知された訳で
実害が無い上に少年だったって点も加味されてそう

789 :人間七七四年:2021/05/31(月) 15:28:14.54 ID:PkbNsYg0.net
第五度目の、最後の川中島合戦は、永禄四年九月十日であった。この次第は別巻に註する故これを略す。

総じて近年、世上において『車懸り』という手立てを、川中島合戦で上杉謙信が用られ、それは
いく廻り目にて、旗本と敵の旗本が打ち合いをする手立てであるのだという。
これについて、当家上杉方においては、遂に聞いたことがない。

尤も、家の法に車懸りという、備えの懸け方がある。これは、敵が戦地に先立って備えを立ち固めており、
我が方は行き懸かりに押しかけつつ、備えを立てようとする所を、敵が待ち受けて、我が方が
備えを立てるため軍の形が変化する所を、敵が打とうと企んでいる、という場合において、
我が方が車懸りという手立てで備えを懸ければ、その事によって、備えを立てるために変化した所に、
敵が打とうと懸かってきても、返って我が方の大利となり、遂に勝利を得るという秘術である。

されども、五度目の川中島合戦で謙信がこのような車懸りをしたという事は無い。
但し、第三度目の弘治二年三月二十六日、川中島合戦の退き口に、謙信が「車返し」という手立てにて、
武田信玄方を引き包んで打ち取り、戦に勝ったことを、聞き誤って言い伝えられているのではないだろうか。

(信州川中島合戰聞書?上杉家遺老談筆記)

寛文元年(1661)二月十三日の奥書のある、上杉家家臣、丸太左門友輔が著したとされる記録より、
車懸りの陣について

790 :人間七七四年:2021/05/31(月) 22:01:12.30 ID:EIPAA98W.net
乃至政彦説だと村上義清の上田原合戦の戦法をヒントに
第四次川中島で兵種別編成を整えた謙信が信玄の首を狙ったところ
信玄がわざと「車懸かり」と由緒ありそうな名前をつけて
上田原合戦での苦戦を想起させないようにさせただけで
上杉家では「車懸かり」という名前など徳川時代になるまで知らなかったとか書いてたっけ

791 :人間七七四年:2021/06/01(火) 15:07:35.12 ID:K4eUfYaZ.net
近年、世間に出ている記録を見るに、当家(上杉家)に於いて、嘗て聞いたこともないものが多い。
川中島合戦を、公方(足利)義輝公に注進した書状という物が有るが、みな後世の人の偽作である。

ただし、天文二十二年霜月二十八日、川中島下米宮での合戦(第一次川中島合戦)の次第を、
京都の大館伊予守(大舘晴光か)方へ書き付け送られた書状は、真の書状であり、実物が京都にある。

この内容は横田源助、武田大坊、坂垣三郎、穴山主膳、半菅善四郎、粟田讃岐守、染田三郎左衛門、
帯兼刑部、并びに駿河今川よりの加勢・朝比奈左京進、武田飛騨守などを始め、五千余騎を討ち取った、
という文言である。この書状は確かなる本物である。その他の注進状は、皆偽作と見え、信用なり難い。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

792 :人間七七四年:2021/06/01(火) 20:00:27.28 ID:fcUfUgk9.net
今川家には真範という僧の霊がついており、同家に凶事が起こるときには、必ずこの僧が現れた。
桶狭間戦の時も、今川勢が安倍川を渡るとき真範が現れ、義元の眼を遮った。
また、駿府城の城の庭のあたりで、女の声で、
「熟し柿なるみの果てぞ悲しけれ」
と泣く声がしていたそうだ。
「なるみ」は尾張鳴海のことで、義元はその近くで生涯を終えたのだった。
(嶽南史)

「世界人物逸話大事典」の「今川義元」の逸話からの孫引きだけど、この「今川義元」の項の執筆者が、
今川義元に処刑された戸部新左衛門の子孫の戸部新十郎氏というのがちょっとおもしろい

793 :人間七七四年:2021/06/01(火) 21:25:49.10 ID:2sfPirx1.net
>>792
先祖の恨みが地味に残ってるのかなw
そういや、桶狭間前に玄広恵探の霊が現れたって話もなかったか。今川に坊主の霊多すぎ

794 :人間七七四年:2021/06/02(水) 00:15:50.81 ID:Gx63uhzE.net
そんな呪いが今川家に代々あって凶事なら軍を退けばいいのに
はい嘘松

795 :人間七七四年:2021/06/02(水) 21:58:52.39 ID:ElcQNDgE.net
上杉家家臣の甘糟備後守清長(景継)は、越後上田衆の出で、槍一本の身上であったが、大剛の働きがあり、
主君覚えの者であった故に登用され、一手の大将となり、上杉景勝が会津に入部の時には、甘糟備後守は
二万三千石余りにて、伊達政宗領との境である大事の所であるからと、白石城に差し置かれた。

彼の弟の登坂式部も覚えの者であったのだが、関ヶ原御陣の時に、甘糟備後守は会津の景勝の元に
行っており、留守をしていた式部は、伊達政宗に謀られ、逆心して白石城を政宗に明け渡した。
それ故に景勝はその兄である備後守を勘当同然に致し、非常に冷遇した。

その頃、家康様より、畠山下総守(義真)に対して、『甘糟が景勝に冷遇されているというのであれば、
上杉家を立ち退くように。私が五万石にて召し出すであろう。』と仰せに成られた。そして御上洛の時、
下総守は屋敷に甘糟備後守を呼び寄せ、その事を伝えた所、彼は

「忝なく存じますが、景勝は譜代の主でありますから、その上意については罷り成りません。」

と言い切った。これに下総守も「尤も」と申され、その事はこれにて止んだ。

ところがこの事を景勝が聞きつけると、以前に弟の事で半ば勘当として悪感情をいだいていた上に、
いよいよ今度の事に、景勝は非常に不愉快になり

「私が義絶、不通の長門守(畠山下総守の事)の所に忍んで参った事、不届きである!」

と、以降言葉もかけずいよいよ疎外した。備後守死去の後は、その子たちに相続を許さず、彼らは
南部か津軽かに浪人して行ったという。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

同内容のものは既に出ていましたが出典が違いかなり詳しいので。

796 :人間七七四年:2021/06/05(土) 13:59:10.54 ID:zH0P2W0K.net
>>792
恨んでるのに凶事の警告しに来てくれる優しい坊さんで草

797 :人間七七四年:2021/06/07(月) 14:38:41.61 ID:KGNkhzBX.net
永禄七年七月五日に、宇佐美駿河守定満と、長尾越前守政景とが、信州野尻城下の池にて生害した後、
そこから時々光る物が出て来るように成り、その上に魚がいなく成ったのだという。
確かな事であるので、ここに書き記すものである。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

長尾政景溺死事件の現場、後々いろいろあったらしい。

798 :人間七七四年:2021/06/07(月) 22:14:22.49 ID:L+YEwMPm.net
>>797
             彡 ⌒ ミ
    ユッフォー>(´・ω・)               彡 ⌒ ミ
              / つ¶つ¶     デケデデッ>(・ω・`)
             / ̄ ̄ ̄ ̄\             / つ¶つ¶
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          /″   ν.    \          |) ○ ○ ○ (|
  (( (( ((  /________\       /″   ν.    \
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                              \_\__/_/

799 :人間七七四年:2021/06/10(木) 21:48:58.06 ID:YNSWxNVj.net
NHKで新潟富山県境の難所、親不知子不知の解説やってたが、あれ上杉軍はどうやって越えてたんだろう

800 :人間七七四年:2021/06/11(金) 01:58:45.03 ID:Pb+T6FLB.net
>>799
@新田式
Aモーゼ式
B船
等々の諸説あって対立している。

801 :人間七七四年:2021/06/11(金) 07:11:46.40 ID:ay6s7XXY.net
数日前のYahooニュースで埼玉県の昼間某が事件を起こしてたが
権現様に苗字をもらった井伊系昼間氏の一族なのだろうか
しかし昼間氏のwikiを見ると

>井伊家とともに武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県の一部)に移り、15代将軍徳川家康により晝間 の姓を下賜されたのが由来であるとされる。(昼間は新字体)
> ただし、9代将軍徳川家重が将軍になる以前の元文四年(1739年)2月14日と翌日15日、鷹狩りの際に、
>日光街道沿いに位置する瀬崎村(現在の埼玉県草加市)の晝間新左衛門家に立ち寄った史実がある為、家康以前から晝間の姓であった可能性がある。

どうつっこめばいいものやら

802 :人間七七四年:2021/06/12(土) 01:54:01.55 ID:mFfvZ2t0.net
佐野天徳寺が、江戸御城において、上杉弾正大弼定勝に向かってこのように語った

「あなたの御祖父である謙信公の御武勇の威勢は、兎角の言葉で表現できるものではありませんでした。
私が若き時分には、佐野は謙信公の御旗本でありました。

輝虎公が越後より上州厩橋城に御着になると、二、三日人馬を休め、それから関東筋へ打って出て、
縦横に働かれました。その、或いは五十日、或いは七十日の間は、例えば大雷があって夕立が降った
時の如く、敵も城外に打って出ること叶いませんでした。

さて、謙信公が関東での働きを終えられると、厩橋に帰城され、方々の仕置に十日余りかけられ、
その後越後に帰陣されました。

謙信公が猿ヶ京を過ぎて越後路に入ったという情報を聞くと、関東中の北条方、武田方の敵城は申すに
及ばず、上杉殿旗下の城々も安堵の思いを成し、「最早心易し」と悦びました。
逆に輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて、安心が有りませんでした。」

この座に在った酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次を始め、列座の大名、小名はこれを聞き、
感じ入られたという。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

敵が恐れるのはともかく、味方も恐れるというのはどういう状況なのだろうか。
あと佐野天徳寺は慶長六年に死去しているので、この話が実際にあったとすれば、
天徳寺の養子の佐野信吉が、義父から伝え聞いた話を語った、とかですかね。
阿部重次に至っては慶長三年生まれだし。

803 :人間七七四年:2021/06/12(土) 02:01:03.71 ID:mFfvZ2t0.net
いやそもそも上杉定勝が慶長九年生まれだわ

804 :人間七七四年:2021/06/12(土) 16:45:03.01 ID:B6TEFUdv.net
後奈良院の頃、将軍は義晴、管領は細川高国入道常桓なり。今川義元は三州、遠州、駿州を御従え、
近国に威を振るった。織田弾正(信秀)も義元公に属す(織田弾正モ属義元公)。

天文23年2月、小田原の氏康と義元が取り合い、尾州の織田弾正忠、同三郎五郎(信広)父子が
三州に出張して安祥を乗っ取ったので、吉良が働き渡利・下渡利・和田の本陣が小豆坂へ押し出す
(小豆坂の戦い)。義元は戦い、ついに西勢は負けて安祥に引き、大勢追い討ちして東勢は藤川に
引いた。年号は天文22年と書いてある。

また東勢は安祥へ明くる夜中に取り掛かり、三郎五郎を生け捕った。戸部新左衛門(政直)が詫び
言、竹千代と人替えとある。相違なり。

永禄元年、竹千代17才の御年、駿河にて御年を重ね、蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ。

永禄8年5月、義元は駿・遠・三2万4千の勢にて尾州退治せんと発向(二万四千ノ勢尾州退治セ
んと発向)、元康公24才、尾州・三州の境の泉田に陣取、桶狭にて討死。相違なり。

元康公は大高の城より品野村へ掛かり猿投山の北後へ出て、梅ヶ坪へ掛かり筈利へ打ち越し、大川
を下り岡崎へ入られた。

今川氏真は23歳で父義元は討死し、弔い合戦の心掛けもなく二浦庄を立ち花月の遊興ばかりなり。

――『三河東泉記』

805 :人間七七四年:2021/06/13(日) 12:58:26.15 ID:eUZaO4BL.net
天文19年、万松院(足利義晴)御逝去の時、光厳院公(足利義輝)御年5才ま
で守り立て、公方14代相続奉るように三好殿へ仰せあり。

三好細川修理大夫の家人で和泉境の牢人・松永弾正は平跡良くして、阿波の三好
家へ奉公に出て、後に和州南都東大寺の北の山城、多門造城を持つ。

三好修理殿は以後左京殿(三好義継か)の御乳母を松永の嫁とし、内縁故に都の
支配に弾正が威を振るったので、長臣衆と不和になる。

――『三河東泉記』

806 :人間七七四年:2021/06/13(日) 13:06:16.29 ID:Sgq1CfgC.net
15歳じゃないのか
14代については義稙を2回数えるとして

807 :人間七七四年:2021/06/14(月) 13:20:14.98 ID:gXgD925U.net
上杉弾正大弼定勝と、蒲生下総守忠郷は、無二の入魂にて、兄弟の契約をしていた。
忠郷は蒲生氏郷にとっては孫、秀行の嫡子にて。家康公の御外孫、会津六十万石の領主であった。
定勝は米沢三十二万石であり、互いにその領内の百姓まで、双方申し合わせ、境目も睦まじく往来した。
南部信濃守利直も、忠郷と殊の他に懇意であった。

仙台の伊達政宗とこの三人の衆は仲が悪かった。そのため何時でも政宗が出てくれば、
蒲生、上杉、南部の三家言い合わせ、「政宗を立ち挟んで討ち果たすべし」と、密々に堅く
言い合わせていた。

定勝、忠郷、利直の三人が同道して。上野の天海大僧正の元に夜咄に行った帰り、三人ながら
馬を乗り連ねられた。その途中にて南部殿の馬が荒々しく勇んだ。この時南部殿は大声で忠郷、定勝に
呼びかけた

「相公(忠郷宰相)、羽林(定勝左少将)、この馬の勇んでいるのをご覧候へ!
明日にも何事かあれば、この馬に乗り、ご両人と申し合わせ、彼奴(政宗)を立ち挟んで討ち果たすべし!」
と申された。これに忠郷、定勝もからからと笑われ

「仰せらるるにも及ばぬ事なり!片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけてご覧に入れ候はん!」
と宣われた。三家中の供の輩は皆、これを聞いたという。

蒲生忠郷は寛永三年(正確には寛永四年)正月に薨ぜられたが、定勝は大変に嘆き悲しみ、
三十五日精進され、上杉家中の士卒は申すに及ばず。米沢領内は十四日の間殺生禁断となり、
追善の法事が有った。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

なんで政宗こんなに嫌われているのか

808 :人間七七四年:2021/06/14(月) 18:07:06.66 ID:gTgcpvPU.net
むしろ南部、蒲生、上杉から見て政宗を好きになれる要素があるのかと

809 :人間七七四年:2021/06/14(月) 19:11:51.94 ID:jObLku2y.net
政宗がいじめっ子で南部蒲生上杉はいじめられっ子って感じか。
しかもいじめたほうは全然覚えてなかったり身に覚えがない態を装う。

810 :人間七七四年:2021/06/14(月) 19:30:58.80 ID:gTgcpvPU.net
虐めっこっていうか迷惑な隣人というか…
現代的にいうなら騒音が煩いとかゴミ出しの時間守らないとか
人の家の庭に出入りしてくるとかそういう感じの厄介さじゃないかと

811 :人間七七四年:2021/06/14(月) 19:46:49.68 ID:JsZl/HXh.net
蒲生と南部は姻戚関係の親族だから、普通仲の悪い隣接した領地の上杉と仲いいってのが
よっぽど伊達に問題があったような

812 :人間七七四年:2021/06/15(火) 16:37:37.15 ID:cRE8Iylx.net
上杉景勝は生まれつき言葉少なく、一代の間に笑顔を見た者も無かった。常に刀・脇差を
手にかけて居られた。

ある時、景勝に常々懐いて、飼っている猿が、景勝が脱いで置いていた頭巾を取り、木の上に登ると
座って、手を揃えて、座敷の景勝に向かってうなずいたのを見ると、にっこりを笑われた。
それが近習の者達も初めて見た笑顔であったという。

彼が城下八幡小路を乗物にて通られている所に、陪臣の徒士の若党が、伊達染めの帷子にて参り懸かり、
畏まっているのを景勝は見られ、

「好き若者である。立って歩むべし。男振りを見よう。」

と宣われたため、かの者立ち上がり、二反(約四メートル)ほど歩んで、また畏まったが、
景勝は俄に機嫌が変わり、大いに怒る有様にて「あ奴を牽いてまいれ!」と、徒侍に命じ、
両手を掴ませて前に引き寄せ

「己め、景勝を嘲弄せん事奇怪である!『屋形腹筋、いやいや(大笑いの御屋形様である、いやはや)』と
いう大紋を附けていたな!」

と、抜き打ちに誅殺された。
この若党は帷子の肩に「一手鏑矢」を付け、腹に「大筋」を付け、裾に射捨てた矢を紋に附けていたのを、
見咎められたのだという。
(つまり「鏑(矢)」が(肩)に、大(筋)が(腹)に、(射)捨てた(矢)、という事)

景勝は普段より、軍陣の時は勿論、或いは上洛、或いは江戸参府の時も、籠廻りは申すに及ばず、
供の者達まで、咳払いもせず、数百人の上下が無言で、足音ばかりにて通過した。行儀の正しきこと、
世に類なかった。

富士川の船渡にて、供の者達は舟に過分に乗ったため、川の途中で舟が沈もうとした時、
景勝が怒って杖を振り上げられると、それと同時に川の中に皆々飛び込み、泳いで渡ったため
召し船は恙無かった。士卒共が景勝を恐れること、このようであった。
長旅の途中であっても、馬にかける声の他は無言であった。

大坂の陣の信貴野口にて、先手の士寄り見物として、景勝の近習非番の輩が忍んで行った跡から、
景勝が一騎にて巡見に来られたのを見て、彼らは咎められるかと恐れ、鉄砲の玉が降り注いでいる
竹束の外に出て隠れた。敵よりも景勝を恐れたのである。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

多分これはいい話として記録されているのだろうけど、極端な。

813 :人間七七四年:2021/06/19(土) 17:09:21.70 ID:si1lQCOP.net
畠山入庵(義春)室は、上杉謙信の姪である。十一、二歳の頃、謙信より殊の外愛され、
関東御陣(越山)の時は、少年の出で立ちをして、小具足の上に、長絹の直垂を着、太刀、刀を
挿させ、馬に乗って、老女三人が介添えに付いて、謙信の供として連れられたという。
この姪は、即ち畠山下総守義真の御母の事である。父は長尾政景、母は謙信妹、後には仙桃院と号された。

永禄七年の秋、信州にて、長尾政景を宇佐美駿河守定満が殺した時、それが謙信の内意であることは
粗方知られていた。それ故に、仙桃院は謙信に向かってこのように言った

「越前殿(政景)が果てられたのは、偏に戦場において御用に立ったのと同じ事です。
義景、景勝は申すに及ばず、娘二人も御見捨てあるまじ!」

そう申したために、これによって宇佐美駿河守の遺跡は強く潰され、子の民部についても、深く二代まで
勘当させられた。現在に至るまで、宇佐美駿河の事は、当家(上杉家)においては忌まれ、沙汰しない。
先祖の仇である故なり。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

814 :人間七七四年:2021/06/19(土) 17:26:14.95 ID:gB++/PQ4.net
野球の米国大リーグ大谷選手がせっかく活躍しても、肝心のチームのエンゼルスが敗北するのはよくあることで

大谷選手は〇回まで先発で好投、〇〇号ホームランの活躍。なおエンゼルスは敗戦した。

というのが定型文のようになって、なおエンゼルスが、今日も直江か・・と略されてるのが笑う

815 :人間七七四年:2021/06/19(土) 17:30:35.32 ID:J7jDc0MV.net
この節、家康公は浜松におられ、天正3年には岡崎は三郎信康公、御守は小河の城主・石川備前守(数正)、
平岩七之助(親吉)などなり。家康様の御前・築山様は菅生の築山に御屋敷あり。信康公の御屋敷は城外の
北東に当たってあり、今の久右衛門町である。この節、御前築山様が御留主にて、殊に御仲も不和なりし。

その頃、甲州より口寄せ巫女数多来たりて、家中町村を廻って口寄せした。この時、勝頼(武田勝頼)より
巫女を騙して築山殿の御内にて下女に色々取らせて取り入り、下女より中間に取り入り、後には奥上揩スち
までにいろいろの進物を致して取り入り、ついには御前様に御目見え申し上げてよく取り入り、折を見合わ
せて申し上げるには、

「もし御前様が今度勝頼と御一味なされば、(欠字)御前は天下の御台と備え天下無双に仰せられ、若殿は
若君と天下を仕り相譲るべし」と申し上げた。

その頃、西慶と申す唐人医がいて御屋敷へ節々出入りし御前様の御意に入った。これを談合して巻き込み、
大将分は大岡弥四郎(大賀弥四郎)が欠村に居り申し、松平新右衛門、江戸右衛門八、渡利村の小谷九郎左
衛門が大将にて申し合わせ、勝頼から知行の御判を取りかため申したのである。

時にその頃、(此処三字不知)城主は鳥井久兵衛で小谷もこの家来だった。朋輩に山田八蔵という者がいて、
ある時にこの者と九郎左衛門が取り分け入魂なれば「その方なども某どもと万事一味すれば、終いには欠綏
もせ申すべし」と申した。この時、山田八蔵は喜び「左様のことならば、何様にも一味仕り申すべし。ぜひ
ぜひ頼み入る」との由を誓言して申した。この時に九郎左衛門は山田八蔵を一味した。

逆心の企みは岡崎の城より南の方の吉良庄に旗百本ほどを並べて人数を見せかけて、甲州勢を城より北の足
助大樹寺口より引き入れ、城中では南表へさばき出る所を見て、北口より押し入り、城を固めて城外を放火
し、いよいよ甲州勢を入れ、三河を甲州へ取る企みであった。

この事を九郎左衛門が山田に話して同心となり、勝頼より2万石の御判を取り申したのである。

――『三河東泉記』

816 :人間七七四年:2021/06/20(日) 13:30:45.22 ID:gkgsN5cq.net
天正十二年八月、上杉景勝自ら新発田重家を攻めた、八幡表の戦いでのこと。

この時、前の琵琶島城主・宇佐美駿河守定行(定満)の子、民部少輔勝行は、
彼の父が生害し、本領没収され、浪人となり、また景勝からも勘当され、小千谷五泉あたりに
逼塞していたのであるが、いかにもして景勝より勘当を赦され、本領に還住せんと志し、
朱傘に金の短冊の指物、宿月毛の馬に乗って新発田陣へ懸かり入り、屈強の敵二騎と懸かり合わせ。
一騎は切って落とし、一騎は引き組んで討ち取り、その兜首二つを提げ、その身も馬も血だらけになって
景勝の旗本に馳せ来ると、平林内蔵助(十八歳にて小姓であった)を頼み

「御勘当御免なされ、この高名の首を御実見に入れるため、御目見えいたしたい!」

と望んだため、この事を景勝に申し上げると、景勝は気色俄に変わり、目は松明のようになって
平林をはたと睨みつけ、しかし何の言葉もなく、これには平林も頭を垂れ、重ねて申し上げる事も
出来なかった。
これに宇佐美民部も、討ち取った二つの首を捨て置き、泣く泣く立ち上がって退いた。

景勝としては「実父政景を殺した宇佐美駿河の子であるのだから、父の仇の子であるのに、どうして
勘当を赦せるだろうか。」との事であった。

これを取り次いだ平林内蔵助は長命で、当家(上杉)播磨守綱勝の傅役に付けられ、近年まで
存命しており、彼が直に物語ったものである。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)

817 :人間七七四年:2021/06/20(日) 14:38:50.43 ID:HNP/ioXZ.net
>>815の続き)

山田八蔵はつくづく思案仕るに「代々の主筋に弓を引いては子々孫々まで悪名を残し、天罰もいかがなものか」
と思い、早速岡崎に来て御目付衆を1人申し受けて渡利村の宿所に入れて座敷を隔て隠し置いた。

小谷九郎左衛門を酒に呼び「いよいよ、かため申すべき次第。日限まで御話人数もあらまし。御話候え」と申
せば、九郎左衛門が右の次第を話し申すのを、右の目付が一々書き付けて岡崎に帰り、役人に言上申したとこ
ろ驚き、早速大岡弥四郎(大賀弥四郎)の所へ押し込んで、弥四郎を生け捕り検断仕れば奥に旗を10本拵え
置いていた。

その時に欠村では柴田右森一家ども、松平新右衛門(親新吉郎右衛門と申)等が集まって、鹿がけに的を射て
いた。「この鹿だけではいかがなものか。少し酒を飲めたら良いだろうに。いざや酒を買いに遣わすべし」と
下男の小者に申し付け、岡崎へ酒を買いに行かせた。

ところが殊の外遅く待ちかねて鹿を食べ始めたところに来たため、皆々何故遅く来たとトジメければ、「今日
大岡弥四郎逆心にて、あらわれて生け捕りに付き町中は騒ぎ、家ならびに戸棚は閉じ申したため、ようやく只
今買って参りました」と話したところ、松平新右衛門はこれを聞いて少しも騒がずに鹿汁を2,3盃食い、酒
をしたたかに飲んで、互いに宿に帰った。

新右衛門は同村の百姓・助右衛門という者の所に至ると、折しも10月の事だろうか俵を編んでいた。新右衛
門様の御出と見て、俵の新しいものを馳走に敷き置くと、古いあみ笠とこぎの1つを借りて差し、浦の垣より
落ちていった。そこへ平岩七之助(親吉)方が4,50人召し連れて懸時に御急ぎのところ、助右衛門を見て
不審に思い新右衛門の屋敷へ押し寄せると宿にいなかった。

それより柴田右森は婿なのでここに押し寄せ新右衛門を出せと申された。右森は「神も私(も?)ゆめゆめ存
じ給わざるぞ」と申して大小を抜き、平岩主斗殿へ相渡すと主斗は聞き届けて帰り、言上申した。

家康公は「捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず」と仰せられたが、翌日に大樹寺の正運にて(松平新右衛
門が)切腹仕ると言上申し、家康公は御聞きになって「いかにも左様の筈だ」と仰せ出された。

渡利村の小谷九郎左衛門方へ、庄屋の仁左衛門は少し内証を聞いて不便に思い、親子で九郎左衛門を呼び濁り
酒を出し、鮗の膾を肴に出して酒を振る舞った。件の内談を申せば子は聞いて色を変え酒も肴も飲まずにいた。

九郎左衛門は少しも騒がず「さても忝き義の内証」と申して膾2皿を食うと、暇乞いと申して濁り酒を汁椀で
すっばと飲み、浦垣に退いた。その内に岡崎より百人ばかりが来て九郎左衛門の屋敷を取り巻いたが、立ち退
いて居らず空しく帰った。家内には、さすがに旗3本が雪隠の灰の中に入れ置いてあったのを見つけ出した。

大岡弥四郎は連尺町大辻のこの所にて、7日に竹鋸で引かれ、根石原で父子5人ばかりが磔に上がった。江戸
右衛門八は切腹を仰せ付けられ、腹内の子は母が逃げて新堀村と申す所の本多又左衛門の所で生まれ、自らの
婿にしたとの由を申す。

山田八蔵は柿崎5百石を褒美に下され、後に大浜上地を下された。小谷九郎左衛門は鳥井久兵衛の家老の小谷
甚左衛門の養子の者なり。この甚左衛門も鳥井殿(欠字)を貰い薩摩様にて千石を取る。子無くして絶えけり。

――『三河東泉記』

818 :人間七七四年:2021/06/21(月) 16:52:48.10 ID:LJP+gpoE.net
酒井修理太夫(忠直)殿の元に、弘文院(林)春斎が参られ、

「今度、日本通鑑(本朝通鑑)の編纂を仰せ付けられたのですが、川中島合戦について、
上杉家に尋ねた所、一冊の記録を提出されました。ところが甲陽軍鑑の内容と、上杉家相伝の
日記とでは、出来事の年号月日が違い、さらに合戦の様子も、非常に異なっています。
通鑑にはどのように書き載せるべきかと、御老中まで伺い申しました。

すると土屋但馬守(数直)殿を始め、御旗本においても信玄家来の由来ある衆が申される事には
「上杉家の記録に任せて通鑑に記せば、現在日本中に流布している甲陽軍鑑の内容が、皆偽に成って
しまうだけでなく、軍法の疵にもなってしまうかもしれない。
甲陽軍鑑を編纂したのは、現在高坂弾正だとされている。その文言までも虚言となってしまえば、
年久しく習い広めた軍学も、徒事になってしまうのだから、甲陽軍鑑が廃ってしまわないように」

との内談に付き、甲陽軍鑑の永禄四年(1561)九月十日の事跡と、上杉家の記録にある、
天文二十三年(1554)八月十八日と、弘治二年(1556)三月二十五日の夜合戦の両度を、
日本通鑑に並べて記しました。」

と、春斎は物語した。
この事は、修理殿の近習であった千賀源右衛門、宮川仁右衛門が物語した内容を、酒井殿家中の
玉置平左衛門が申し越したものである。

(川中島年月考)

史書の編纂は江戸時代でも色々大変だったようで

819 :人間七七四年:2021/06/21(月) 19:24:53.84 ID:YInIDZUS.net
天海さんが一言述べねばならなかったアレなわけですよ

820 :人間七七四年:2021/06/22(火) 15:05:34.29 ID:CX1S4mN5.net
武田典厩(信繁)は、上杉謙信と太刀打ちし、川中に切り落とされ、屍骸が川に流れたのを、
越後方の梅津宗三という者が引き上げ、典厩の首を取ったが、典厩の家人である山寺伊右衛門、
樋口宗三郎、橋爪出羽という者達三人が懸かり合い、梅津宗三を討ち取り、典厩の首を取り返した、
という説がある

また謙信と信玄の太刀打ちの時、信玄が団(軍配)にて請けられた、との説があるが、
慈眼大師(天海)がその時信玄方に居られ、山の上より直に見られ、信玄も太刀にて
謙信と勝負していたと、南麻主計に度々物語された。

畠山入庵(義春)も、その勝負を眼前に見られたといい、彼の物語に、信玄も太刀にて
謙信と勝負されたという。

慈眼大師は永正七年の生まれにて、遷化の時、百三十八歳であったと云われる。又一説には、
天文十年の生まれにて、遷化の時、百七歳であったとも云う。
百三十八歳が正しければ、初めの川中島合戦は四十五歳であり、百七歳にて遷化されたのであれば、
その合戦当時は十四歳に当たる。

(川中島年月考)

信玄と謙信の太刀打ちというと、第四次川中島合戦だけど、これが永禄四年だから、天海はともかく
畠山入庵はまだ生まれていないな(永禄六年生まれ)

821 :人間七七四年:2021/06/24(木) 13:47:00.23 ID:7F1zvHgc.net
関ケ原の御勝利後、家康公は上杉景勝公との和睦を調える事についての内談を行った折、
その上杉家を出奔した藤田能登守信吉は申し上げた

「上杉家は、越後以来代々の風儀正しく、たとえ滅亡に及ぶと雖も、弱みを見せて降参など
仕ることはありえないでしょう。
天下一統の御威光がありますから、終には滅亡するでしょう。ですが、よほど本気で懸らなければ、
すぐには滅ばないでしょう。」

この言葉により、家康公より呼びかけての御和談となった。
尤も景勝公は小身になられたが、家は絶えず、子孫長久となり、これは上杉家に対しても、
忠と申すべきであろう。

(管窺武鑑)

822 :人間七七四年:2021/06/24(木) 17:19:43.29 ID:7SGd52Fe.net
天海の年齢はどこで狂ってるんだろ。隋風時代に詐称あっても100歳こえるよね?

823 :人間七七四年:2021/06/24(木) 21:29:07.89 ID:cctjc1VX.net
>>822
年齢的に無理があるから、結構前の上条政繁みたく同一人物扱いの別人って説が出てきたりして

824 :人間七七四年:2021/06/25(金) 15:52:59.36 ID:t1CFx2Tk.net
大阪冬の陣の折、有馬玄蕃(豊氏)を初めとして、四国、九州の兵船が続々と入ると、
大阪方は尽く逃散って大阪城に入った。

大野道犬(治胤)は、足軽大将一人に、士五、六騎、足軽二十四、五人にて舟一艘に乗り、
注進舟を漕ぎ添えて、『海手の敵の数を見積もり、また見方の様子も見て注進せよ。』と
申し付けて差し越した所、両三夜の内に、早くも疲労で倦み、舟の錨を下ろして高鼾をかいて
寝ていたところを、九州衆の忍びの舟が、この様子を見て告げた。

そこで錨の綱を切り、舟を引いて川下の味方の中に引き入れ、一人も残らず斬り殺した。

(管窺武鑑)

825 :人間七七四年:2021/06/25(金) 22:38:17.39 ID:gwcOt6h9.net
初代天海(会津の方にいた普通の坊さん)

二代目天海(明智光秀に乗っ取られた)

三代目天海(光秀の子供)

ぐらいでどうか。いや、そもそも天海って学識のある天台宗の僧だから、
他人が乗っ取るのって無理だけど。
弟子が名跡を継いだ、ならワンチャン

826 :人間七七四年:2021/06/25(金) 23:10:03.79 ID:7ga47sxG.net
晩年に入れ替わったら崇伝あたりにツッコマれそうなんだよなぁ

827 :人間七七四年:2021/06/25(金) 23:35:45.10 ID:w+LPDlpx.net
表舞台で活躍してる天正末年あたりからの50数年は入れ替わりは不可能
その天正末年の時点でそれなりの佇まいや学識を有しないと経歴詐称が成立しない
(*浅草寺が全面協力してプロデュースしたなら表舞台に出てる期間は30〜40年ほどに短縮可能)

川中島の合戦の一騎打ちを見たというまず間違いのないフカシのせいで
108歳というギリありえなくもない年齢が疑わしくなってるんだよなぁ

828 :人間七七四年:2021/06/25(金) 23:41:10.74 ID:w+LPDlpx.net
浅草寺が→川越大師・浅草寺などが

829 :人間七七四年:2021/06/30(水) 21:29:58.73 ID:0dIfNDlW.net
一、崇福寺(中島)の住持・東岸和尚は、家康公帰依の僧で吉良赤羽根の城主・高橋氏の
  子なので、家康公は常に「高橋坊主」と御意なされた。

  寺院の中にテリサンゴウの法門を御聞き遊ばされ、御機嫌に預かる。

一、吉良赤羽根の城主・高橋与助と申す侍は、家康公へ逆心あって、家康公がサクノ嶋へ
  御出のところを害し奉る企みを致した。

  しかし、家康公へ告げる者あって聞こし召され、赤羽根の高橋を召し寄され磔に仰せ
  付けられた。

  その弟は禅宗坊主にて、ヒマカ(日間賀か)にあって1才の男子を抱いて、禅宗坊主
  の方へ逃げて命を助かった。

  その男子にまた二男あってその末裔がいると、村の古老の話を覚え書きした。
  
  ――『三河東泉記』

830 :人間七七四年:2021/07/03(土) 11:34:41.30 ID:+DRaKY/T.net
大阪城に於いて軍評定の時、真田左衛門(信繁)がこう申した

「旧冬の御和議は、至極残念でした。旧冬まではこちら方に心を通じる大名もあったのに、
御和議となり、惣堀まで埋め、皆悉く降参のようになりました。

大御所(家康)は名将であり、衆心を摂り、旧冬の働きも、軽き功を重くし、小さいことでも大きく
感じ給う故、上下ともにいよいよ親しみ付いていまる。

さて又、京、伏見へ発向し、膳所、大津は手勢を遣わし、瀬田の橋を焼き落とし、京、伏見を
確保してしまえば、その内に味方に通じる衆も有るはずですが、味方の密談は敵に漏れており、
この儀も成りません。

野戦をしようにも、味方は小勢であり寄り合い武者ですから、中々勝利は得難いでしょう。
御籠城なさる外に手立て有りません。

であれば、我等はいかにも怯懦の体を示し、それによって『大阪方は臆して戦いに出てこないのだ』と
敵に思わせれば、彼らに驕る心が出来ること必定です。

驕りが出来れば軍法が乱れます。その節を見て、秀頼様が大広間に御出になり、面々に御抔を下され、
御言葉に預かれば、衆心一統し、一戦を望むのは勇士の本意です。
その時、「真田次第」との御諚を承れば、私が両御所(家康・秀忠)の御陣場を見定め、彼らの不意を
突いて、又は夜戦の奇変、それがしの一身の采配にて御座あるべし!」

そう申した所、譜代衆その他、「自分こそ総大将を」と思う輩も多かったため
「真田の只今の言葉、我々を差し置いて総人数の采配は推参至極なり、耳の穢である!」
と謗る故、内輪の破れと成り、互いの権争のため評定不調となった。

(管窺武鑑)

大阪夏の陣では、みんな総大将をやりたがって方針が纏まらなかった、という話ですね。

831 :人間七七四年:2021/07/04(日) 14:36:59.87 ID:ODM89SpI.net
大野修理(治長)の弟である道賢斎(道犬斎:治胤)は、大阪夏の陣の折、和泉の堺へ
討って出て、町中は言うに及ばず、堂社まで焼き払った。
これは去る冬に、東軍(幕府軍)がこの地にて準備を整え、富の肝と言うべき場所であり、
幕府軍にとって非常に利便性が高く、「これを妨げるべし」として、このような事を行ったのである。

しかし、今回は運の極みの勝負とは言え、旧冬に残ったことこそ幸いであり、そのまま手出しせず
置いておけば、戦術に用いることも有ったであろうに、浅智の故の行いであった。

太平記評判抄に、瓜生判官保等、脇屋義治を取り立て、杣山に旗を上げた、足利高経より
打ち手を遣わす。延元元年十一月二十三日の事なり。杣山にてこれを積み、葉原新道、宅良、三尾を
初めとして四、五里四方悉く自焼したが、湯の尾という在家一箇所をわざと残して焼かず、
敵が山路八里を吹雪の中、簑笠も着けずにいたが、この在家が有るのを喜び入り込んだ所に、
その夜、爪生方より夜討して、敵を追い散らし勝利を得たとある。

軍略では敵の立場に成り味方の立場になり、幾重にも工夫あるのを良しとする。
しかしこのような思慮のない道犬であるから、大阪落城の時、死を遁れ搦め捕られ、堺の町に下され、
土民の手に渡し、磔に懸けられたのだ。
屍の上迄の恥辱である。

(管窺武鑑)

堺を焼いたことは相当恨まれたのでしょうね

832 :人間七七四年:2021/07/05(月) 23:04:03.89 ID:DXMSHMfI.net
京、伏見に両御所様(徳川家康・秀忠)が御逗留中、榊原遠江守(康勝)が病死した。(慶長20年5月27日)
子無しと報告されたが、御取り立ての家であれば、後嗣を立てるべきであるとの事になり、
遠江守の家老たちに尋ね、そのついでに、大阪夏の陣の若江表において、榊原の備えが苦戦した事について、
両御所が江戸、駿河にお帰りに成った後、権現様はお尋ねになられた。

館林の宿老である村上弥右衛門、中根善右衛門、原田権左衛門、伊藤忠兵衛を初めとして各々
申し上げたことには、

『木村長門(重成)と井伊掃部(直孝)が一戦し、二の備えである榊原の潮合はここであると見定め、
進み懸るべしと準備している所に、御検使の藤田信吉と遠江守の両人がそれを堅く制止したため、
懸らず、是非もない事でした。
御検使であり、殊に武功の藤田の意見でありましたので、能き事がきっと有るのだろうと思っていましたが、
そういう事も有りませんでした。

遠江守は年若いので、強力な敵の方に進むべきところであったのに、病者故か、藤田と心を合わせ、
虚しく時を過ごし、かねがねの心入れと相違してしまいました。

私共においては、別に言うべきことは有りません。
これによって、翌七日の御合戦の時、伊藤忠兵衛は前日戦闘をしなかったことを無念に感じ、
心を励まして討ち死に仕りました。我々も粉骨を尽くして働き、藤田の下知を用いなかったために、
遠江守の備えは宜しく前日から相違して、御所様の御感に預かりました。

さて、遠江守に子は御座いません。』

と申し上げた。

榊原遠江守は加藤清正の婿であった。しかしこの腹に子が無く、外戚の腹に男子一人あったのだが、
隠して知る人が無かったため、家老達はこの存在を押し隠した。
そして若江の戦いでの働きの御詮議を幸いに思い、咎を藤田に押し付け、

『榊原の家が絶えれば、我々は元来公儀の者であったのを、故榊原式部大輔(康政)に付かせられた
わけであるから、御旗本に召し返される事必定である。」

と内々に相談し、斯くの如く申し上げたのである。

(管窺武鑑)

833 :人間七七四年:2021/07/07(水) 15:42:50.13 ID:t+nBfVAN.net
藤田能登守(信吉)は病気によって、信州諏訪で湯治をしたいと望み、執権の方々へ暇を請い、
江戸より信州善光寺へ行きそこで越年し、春になって諏訪で入湯した。
ところが三七日(21日)の後、腫気黄疸の症状が出て、煩悶セイ仲(持続的に起こる動悸)の
症状も加わった。それ故に、京へ上り養生を加えるべしとして、中山道を経て上ったが、
同国犀川と屋護原の間、鳥居峠の麓、奈良井にて、病は重篤に至り、医術応ぜず、
元和二年七月十四日に卒した。(五十九歳)

俗名藤田能登守従四位下平信吉、法名休昌院一叟源心居士。
奈良井の禅寺にこれを葬った。

嗣子無き故、今の水戸頼房卿の下に、私(著者)夏目軍八定房の兄に、吉江藤左衛門定景という
者があり、能登守は内々に彼を養子にしたいと考えていたのであるが、その事を未だ執権(幕府重職)に
伝えない内に卒去してしまった故に認められず、能登守の西方の領地は召し上げられ、家は断絶した。

(管窺武鑑)

藤田信吉の死について。これについては自害説もあるようで。

834 :人間七七四年:2021/07/08(木) 08:25:14.38 ID:xB1I9sOM.net
>>833
>三七日(21日)
なんかかっこいいな

835 :人間七七四年:2021/07/08(木) 14:58:49.18 ID:EkMa/nQQ.net
榊原遠江守(康勝)の落胤腹の子は、平十郎(勝政)という。しかしこの存在を家老たちが
押し隠して、「子は居ない」と申した故、御旗本へ出る事も成らず、又殺すことも成らずして、
辺土に押し込めて差し置いていたのを、加藤忠広が聞いて尋ね出し、これを扶助し、公儀に対し
「召し出されるように」と運動していたが、先に榊原遠江守に子は居ないと、家老共が言上しており、
今になってその事を言い立てると、家老共の不義が顕れ、却って家のためには如何かとの事で、
延引していた所、加藤忠広は改易のため流罪となり、いよいよ首尾調わなかった。

それでも確かに遠州の実子であるとして、一門の衆が取り繕い、談合して、
「遠江守別腹の妹の子、遠江守の甥である」
と報告し、これによって公儀との交渉もまとまり、御扶持方より千俵が下しおかれた。

しかし両三年が過ぎても、そのままの待遇であったため、不足に感じ落髪して。
高野山へ入り年久しくして松平新太郎(池田)光政より、様々に申し送られ、
備前に呼ばれ、榊原香庵と申したという。

(管窺武鑑)

榊原康政の孫、勝政について

836 :人間七七四年:2021/07/10(土) 10:28:05.01 ID:BZ3fWSNL.net
伊予のマイナーな女武者の最期

木戸直周の娘である羽賀女は、父の城が落城後は羽賀屋敷で暮らし、周囲からは惣津化粧城と呼ばれた。

関ケ原の合戦では男装して従軍し、軍役を果たした彼女は應神天皇を祀って正八幡神社と称し、慶長18年には宮中より他の祭神を勧請して帝王五社大明神と称し、両社を奉祀していた。

そんな彼女の武勇を恐れた住民の中の悪者が、夜間に竹槍を繰り出して羽賀女の片目を貫いて殺害してしまう。

末期に羽賀女は、残された隻眼で仇敵を睨みつけ

「この恨みは片目の蛇となって、七生まで忘れまじ!」

と言い残して息絶えたという。

悪者は恐れて竹槍を井戸で洗い、その井戸は「飲まずの井戸」と呼ばれるようになった。

後に羽賀女は羽賀大明神として祀られ、明治42年に正八幡神社と帝王五社大明神が両社合併した時には、末社に合祀された。

837 :人間七七四年:2021/07/10(土) 12:06:20.86 ID:27w60xBS.net
徳光アナ
「ニュースの伝え方見ておりますと、オリンピックより前に大谷選手のホームラン伝えますよね。
大谷選手の活躍に関してはしきりに伝えるんですけど、じゃあ、大谷選手がいらっしゃるエンゼルスが勝ったのかな。
エンゼルスの選手5人あげろっって言ったって9人挙げられないと思います。大谷選手だけに突出して報道しておりますけど、
野球は、本来は、チーム対チームのゲームでございますんで、そういった報道が果たしていいのかなって」


四天王が6人いるくらい軽い軽い

838 :人間七七四年:2021/07/10(土) 12:29:01.25 ID:T00EBiPj.net


839 :人間七七四年:2021/07/10(土) 12:39:03.34 ID:BnWSX0d5.net
直江兼続に風評被害

840 :人間七七四年:2021/07/11(日) 10:45:58.82 ID:TuqsCJpE.net
井地峰(五十公)勘五郎といって、上杉謙信公の御座を直すほど寵愛された者があった。
三条城(新潟県三条市)主であった山吉玄蕃が死去し、後継も絶えていたため、三条城代に
植田坂戸山城主・甘糟近江守(景持)を差し置かれた。
ではあったが、謙信公御逝去の時、その御遺言に、山吉の跡を井地峰勘五郎に下さると有った。
謙信公が御逝去なされると、そのまま勘五郎は剃髪して、道誉斎と改めた。

三条城には城付の、六十二騎の与力が有った。
謙信公が御逝去されて直ぐに起こった御館の乱の騒動故に、勘五郎に山吉の跡を継がせるという話は
遅々として進まなかったが、その間に、かの勘五郎に対して新発田因幡守(重家)が恋慕し、密通した。

この事を上杉景勝公が聞かれ、両人共に不義であると思し召されたが、国の安定のためだとして、御怒りを
抑え仰せ出されなかった。しかし山吉の後を継がせるという話も、いよいよ引き延べとなった。

そのような中、新発田因幡守はかの勘五郎に申した
「山吉の跡職程度のものは、私の手柄を以て、其の方に取らせてやる。」
そう、(景勝への謀反を)語らったが、因幡守は春日山に人質に置いた自分の母を盗み出す方法が
見つからなかったため、母を捨てて夜中に春日山を立ち退き、自分の領地である蒲原郡新発田城に
立て籠もった。

そして井地峰勘五郎を井地峰城に籠め、池の端城には因幡守被官の池端鴨之助を入れ置き、
新潟、沼垂にも城を取り立て、新潟には伯父の新発田刑部左衛門、沼垂には武者善兵衛を籠め、
謀反の色を立てた。

この時、景勝公は春日山に残された新発田の母を御成敗なされなかったが。翌天正十年の秋、
信州より御帰陣し、直ぐに新発田に御発向されるために、越府御逗留の時に、新発田の母が
舌を喰い切って死んだ。
彼女は『幾程もなき命を永らえても、どんな憂き目に遭うだろうか。それに子の因幡も、母の苦しみを
見れば、猛心も弱まり、勇気の障にもなるだろう。』と考え、自害したのだという。

この事について、鉄上野守(原文ママ・上野介)は密かに景勝公の義を得て、彼女が死んだことを隠し、
「諸人への見せしめのために生首を挽くのだ」として、越府の往還の枝道において、そのように
首を切り落とした。(口伝)

(管窺武鑑)

新発田重家の乱の始まりとその母について。

841 :人間七七四年:2021/07/11(日) 16:36:50.41 ID:sJEq2hA8.net
>>836
大野芳我台(はがたい)と同一伝承?

名前、父親の諱(大野直周と木戸直周)、総津の城、
関が原に参戦、正八幡帝王神社、片目を負傷して死亡と大筋で共通点が多いし

842 :人間七七四年:2021/07/11(日) 19:04:35.80 ID:0/jdLDzM.net
鉄は「くろがね」と読みます、後に黒金とも

戦後の政治家、黒金泰美はその子孫
池田隼人の側近衆で大平、宮沢の先をいっていましたが
汚職事件で失脚、映画にもなるほど
それで例の漫画では無視されてますね

843 :人間七七四年:2021/07/11(日) 21:33:01.07 ID:0/jdLDzM.net
>>841
なるほど、まとめサイト過去記事の「四国の戦乙女の話をしよう。」ですね

844 :人間七七四年:2021/07/12(月) 20:42:03.85 ID:o6BPcFLa.net
>>841様。

 ご教授忝く。四国の神社の逸話に乗っている分では、父の苗字が木戸になっていて、羽賀台についても「武勇を恐れられた」程度で狂暴だったみたいな記述は無かったので。

 逸話集では芳賀屋敷の脇には化粧水之井と呼ばれる泉があるとか、今も付近に片目の蛇が現存すると。

845 :人間七七四年:2021/07/14(水) 15:20:34.80 ID:5gAw/g0d.net
佐々内蔵助成政は秀吉の越中征伐の結果降参し、命を助けられ、同朋衆となって二年ほどあったが、
この時秀吉公は思し召された

「昔、信長公に召し仕われた時には、私よりも上位の者であったが、今はこのようになった。
これは私の弓矢の威光故である。もはやこのように成った以上、このまま差し置いていては、
信長公の御眼力も相違していたかのようになってしまう。」

こうして九州平均の後、天正十五年六月、肥後一国を成政に賜り、陸奥守と改めて、肥後熊本に
在城した。

ところが佐々は、国の政道悪しく、諸事逆絽である故に、肥後国菊池郡の隈部親永・親泰父子が
一揆を催し、佐々を追い払おうとした。
佐々は単独でこれを鎮定する事ができず、秀吉公はこれを聞かれ、梁川城主の立花飛騨守宗茂、
その頃は左近将監と申したが、加勢を仰せ遣わされ、押し向かって勇功を顕した。
その後浅野弾正(長政)を遣わされ、一揆悉く退治有って、肥後国を加藤虎之助(清正)に賜り、
佐々は摂州尼崎まで呼び上げられ、彼の地に於いて切腹仰せ付けられた。

(管窺武鑑)

佐々成政を敗将の立場のままにしておくと信長の権威にも傷がつく、みたいな発想もあったですね。

846 :人間七七四年:2021/07/15(木) 00:53:04.43 ID:Wi+6/tQp.net
成政を肥後の統治者にするにあたっての箔付けや
周囲からの反発を抑える意味合いもあったんじゃないか?
秀吉は成政に期待して肥後を与えたようだけど
抜擢に対して名分的な物があるにこしたことはないだろうし

847 :人間七七四年:2021/07/17(土) 14:01:10.78 ID:g/7Ali2z.net
一、築山様は関口刑部殿(親永)の御息女、御娵子様は信長公の御息女(徳姫)でかねてより
  御仲も良くなかった。
  
  信康公がヨウシ(「楊枝」か)を落とさせ給いし時、御前様に御取り給われと御申しにな
  るが御返事もなくおられた。信康公は局を大いに御叱りになり、「諸事仕るに付け悪しき
  によりこの如し!」と仰せられた。

  (徳姫は)その事をふくれて、信康公の御事ナケ状を書いて信長公へ遣わした。信長公は
  驚かせ給いて、家康公の御家老へ申し来たり、御袋築山様と御一味の事が顕れて信康公は
  遠州二俣清立寺で、天山山城守が介錯して切腹なされた。

  大久保七郎右衛門(忠世)、二俣の城主平岩七之助(親吉)、この両人が検使、(その他
  に)成瀬吉蔵、服部中務などである。そのため、大久保七郎右衛門と平岩主斗両人ともこ
  の報いにて、相模守(大久保忠隣)と申して小田原にて落居、主斗は跡絶えけり。

  築山様は野中三五郎(今ハ水戸ニ有)、酒井図書(今水戸ニ有)に仰せ付けられ自殺なり。

一、小河城主の石川修理亮、子の豊前守一同に切腹を仰せ付けられ候。  

一、天正3年、参州岡崎にて大岡弥四郎(大賀弥四郎)逆心の事。

一、天正3年の秋、家康公御父子の御仲不和にならせられ、服部半蔵岡崎に仰せて岡崎を退か
  せ給う。年号相違なり。勝頼(武田勝頼)も期日を極めて足助まで来たが、この事を聞き
  付けて甲州に引く。

  三郎殿の御前は信長の御娘にて、京の本多下屋敷にて80に及び死去なり。

  ――『三河東泉記』

848 :人間七七四年:2021/07/17(土) 14:20:30.15 ID:eZj1fNgG.net
信長がこんなことで切腹させるわけないよなぁ
部下の家庭環境にまで気を配るのに格下とはいえ同盟相手にそんな命令出すはずない
秀忠が春に産まれてその秋に腹切らせてるんだから、そもそも後継者として考えてなかった信康が血統的にも邪魔になったから家康が始末したんだろ

849 :人間七七四年:2021/07/18(日) 15:58:49.02 ID:JzsDNW3T.net
若宮(岡崎投町)ならびに観音の由来。元禄6年に再興これあり。ならびに鳥居は北向に成立、
昔はこの所を根石原という。すなわち観音堂あり。

天正7年頃、岡崎三郎信康公、同御母築山殿の御生害につき、信長公家康公より御吟味あり。
御家中親子方として、家康公は信長方、信康公は勝頼方なり。

(御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也)

御家中は勝頼方へ逆心無き旨を身血にて起請文を書き申すとして、投村は当時は大塚村といい、
この観音の前で書きけり。今の東の方田の所、その頃は野であったこの所で書いた。

その後、三郎信康公、同御袋築山の亡魂による御城への色々のケザシあり。諸寺院にて御祈念
御弔があったが鎮まらなかった。この時、観音堂の森の内に若宮八幡の勧請を申し達し、御袋
様には40間北に神明を勧請申し奉ったところ、ついに収まった。

これ以後、若宮八幡とも、また起請宮ともいう。神明は岡崎城主水野監物殿の御代、正保時代
に欠山に移し奉る。

――『三河東泉記』

850 :人間七七四年:2021/07/18(日) 18:24:56.54 ID:+4HjUa3e.net
口伝として、個人のホームページに載ってた逸話を一つ。佐渡のウマ娘のお話、

天正年間、佐渡を分割統治する本間一族の中で北佐渡に強い力を持つ河原田本間氏と、島内を二分する争いを続けていた南佐渡の羽茂本間氏の当主である本間高貞には馬姫と言う娘が居たと言う。

佐渡の支配を目指す越後の上杉景勝はある日高貞にこの娘を差し出す様求めて来た。
ところが高貞はこれに対し、馬姫によく似た娘を身代わりに差し出した。

しかし景勝は送られて来た娘を馬姫の偽者と見破り、一通の書状を添えて高貞にこの娘を送り返したと言う。

「せこいマネしてんじゃねぇバカ!ウチの手の者の報告で偽者送って来たってわかってるんだ。男だったら即刻、首斬って送り返す所だけど、まだ若い女の子で可哀想だからこのまま命は取らずに送り返してやる(意訳)。」

景勝はこれを口実に天正17年6月に佐渡へ平定のための軍を発したと言う。
景勝の佐渡平定軍は先ず先遣隊が河原田本間氏の居城である河原田城を落とし、
更に景勝の渡海を機に他の本間氏の居城も次々攻略し、最後には本間高貞の羽茂城を落城させ、本間高貞・高頼は船で本土へ逃れようとするも悪天候に阻まれ、上杉軍に囚われ死罪となった。

恭順したその他の本間氏一族は命は助かったものの佐渡の所領は没収され、越後へ替地を与えられることとなり、ここに本間氏による佐渡支配は終焉を迎えた。

馬姫は実際には本間高貞の所有する名馬のことであったとする話もあるそうな。

851 :人間七七四年:2021/07/18(日) 23:34:36.53 ID:Mvlbg71K.net
馬姫想像図
https://i.imgur.com/0UUa5Qn.jpg

852 :人間七七四年:2021/07/19(月) 12:10:35.02 ID:jEUS3QY/.net
馬姫と言われるとどうしてもコイツが…
https://i.imgur.com/UPDj0Db.png

853 :人間七七四年:2021/07/19(月) 12:13:09.21 ID:btzBP/cx.net
駒姫がいるなら馬姫がいてもおかしくないのか

854 :人間七七四年:2021/07/19(月) 12:31:07.81 ID:FHcNAo04.net
犬姫もとい伏姫や鶴姫、有鹿姫なんてのもいるしね

実在の犬姫は織田信長の妹だったか。

855 :人間七七四年:2021/07/19(月) 15:56:09.23 ID:270s4FKg.net
16文キック出しそうな姫様だな

856 :人間七七四年:2021/07/19(月) 16:17:29.27 ID:FHcNAo04.net
ライバルは軒猿所属の対魔忍

857 :人間七七四年:2021/07/19(月) 22:20:16.89 ID:I4beQOOn.net
ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)

ζ*'ヮ')ζウッーウッーウマウマ


ウッーウッーウマウマ
 / ̄ ̄ヽ  へ―-へ
`/∩""リ∩ ノノ∩LLL∩
/<(゚∀゚)〉ζ<('ヮ')〉
LL(<Y>(イ   ( 召(イ
  )__)))  )ニニ)))
  しソ    しソ

858 :人間七七四年:2021/07/22(木) 13:33:32.74 ID:FdRyrWep.net
鳳来寺岩本院に住む安養坊と申す者(植村泰忠)は、家康公が甲州勢と御戦の時に
鳳来寺一山を御頼みになったが他は合点無く、安養坊1人が50人程を催し、その
身は八角の朱塗りナル子ゴロをしき腹にあてて、具足のように成して出立ち、御加
勢申し候。

その後に家康公は安養坊を召し出され、とかく還俗致されよと御盃を下された時に
達て辞退申し上げられた。

すると御小姓衆が熨斗を無利に(「無理に」か)口に入れ、この時に「畏まり入り
申す」と還俗申し上げて“二位法印”と名乗り、戦功共これあり。

(御小性(ママ)衆熨斗ヲ無利(ニ)口(ニ)入候時)

前述に初めて出馬の時、法花経八巻を旗になして、仏具を甲の立物にして出られ候。
今の上村土佐守殿の御家これなり。今においても岩本院にその子細あるとの由を申
し候。『家忠日記』五巻目にこれあり。

――『三河東泉記』

859 :人間七七四年:2021/07/22(木) 13:42:27.62 ID:KgDFoPRH.net
熨斗あわびかと思ったけど
もしかしてアイロンの方?

860 :人間七七四年:2021/07/22(木) 13:47:45.97 ID:KgDFoPRH.net
失礼、酒を飲ませて飲酒戒を破らせようとしたけどダメだったから
無理矢理あわびを食わせて食肉戒を破らせて
還俗させた、てことね

861 :人間七七四年:2021/07/22(木) 15:51:54.52 ID:MsrzUZAm.net
>>852
8に馬姫がいるのにわざわざそっちを持ってくるとか…

862 :人間七七四年:2021/07/23(金) 05:04:29.21 ID:+Yg+K9lV.net
山内忠義と鎌髭のお話

土佐藩二代藩主・山内忠義は藩主として、藩政改革に力を入れた人物であったがプライベートでは立派な鎌髭を持った酒豪でありそれ故に酷い酒癖を持った人物であったと言う。

https://i.imgur.com/wvewjNh.jpg
https://i.imgur.com/DuGvMPp.jpg
https://i.imgur.com/ZDdZDcJ.jpg
https://i.imgur.com/WRFaGsk.jpg
https://i.imgur.com/KsfGM14.jpg
https://i.imgur.com/fpCmWtM.jpg
https://i.imgur.com/mGVRbcl.jpg
https://i.imgur.com/eQR5YN6.jpg
https://i.imgur.com/7RGGDjL.jpg
https://i.imgur.com/Z3cjEGz.jpg

サルバドール・ダリの様に自身の鎌髭で遊んでいたかは定かではないが、彼は自身の鎌髭に対して絶対の自信を持ち、その髭を誇っていたと言う。

曰く…

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 俺の鎌髭、日本一ィィィイイイイ!!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

ある時、酒が入った忠義は鎌髭を蓄えた自身の家臣と遭遇した。
次の瞬間…






家臣は忠義の手によってフルボッコにされた…
  ∧_∧   ∧_∧ しゃあっ
;、(;ω((⊂=(・ω・ ) ボボボッ パンパンパン
 (っΣ⊂=⊂≡ ⊂)
 /  ) ババ(  ヽ
`(ノ ̄∪   ∪ ̄\)

またある時のこと、紀州藩邸でしこたま飲んだ忠義は帰り道で、鎌髭を蓄えた人物とすれ違った…
次の瞬間、忠義は相手の鎌髭を掴んでその場から動かなくなった… 微動だにしなくなった…

慌てた側の者達が殿!飲み直しましょう!殿の鎌髭日本一!などと持て囃したり説得したことで忠義の機嫌は直り何とか場は収まったと言う。

この他にも酒が入った山内忠義には数々の奇行エピソードがあるのだが、そのお話はまた次回…

参考文献:三百藩家臣人名事典・戦国人名事典 コンパクト版、etc

863 :人間七七四年:2021/07/23(金) 07:53:52.97 ID:tiiPFsbs.net
酒癖の悪さは土佐の平常運転ではなかったのか

864 :人間七七四年:2021/07/23(金) 15:08:57.45 ID:mQvVlntb.net
よく伊達政宗がもう少し早く生まれてたら、と言われるが
山内忠義くんも生まれるのが遅すぎたな
戦国真っ只中に生まれてたら細川忠興や森長可に並ぶ四天王の有力候補だったのにな

865 :人間七七四年:2021/07/23(金) 16:18:19.22 ID:ft+ZTD5i.net
>>864
実は戦国前半期の方が化け物級の傑物や鬼才や大馬鹿野郎が多い。
伊達政宗ごときは余計に埋没してたんじゃねえかな。

866 :人間七七四年:2021/07/23(金) 20:38:38.52 ID:vEtcmxrj.net
まぁ政宗ってもう乱世も落ち着いてきた末期に出てきたアレだから
目立ってるってのは間違いなくあるかな
DQN方面じゃなくて真面目な大名としての話でも
三傑の居ない政宗でどこまで飛躍できたかというと怪しい

867 :人間七七四年:2021/07/24(土) 08:44:41.32 ID:WFUZ0ilP.net
>>863
酒癖の悪さもあるけど、この人は自身の鎌髭に自信持ち過ぎて自分以外の鎌髭の人物を(酒入ってる時に)見たら絡みに行ってオラつくと言うクソ面倒くさい悪癖が有る…

更に体躯が6尺有った相撲好きな偉丈夫と言うから手に負えない。

・(鎌髭)ナルシスト
・酒乱
・(当時基準)ゴリラ並の体格
・大藩のお殿様

数え役満と言っても差し支えない人だと思う。
よくぞ改易されなかったもので…

868 :人間七七四年:2021/07/24(土) 08:58:15.54 ID:WFUZ0ilP.net
>>864
過去に出てる逸話見ると、お手打ちも結構されたみたいで、福島正則+細川忠興のハイブリッドDQNだと個人的には思いました。

869 :人間七七四年:2021/07/24(土) 15:01:48.78 ID:dZYeMb47.net
広忠公御死去之事

天文己酉歳3月6日に広忠公(松平広忠)25歳で御死去なされた。そういうわけで
岡崎でも頼るべき方なく、そこで一門中家老の面々は差し集まって評談を行った。

石川伯耆守、本多肥後守(忠真)、天野甚右衛門(景隆)、この3人は申して「織田
備後守(信秀)方へ申し寄せ、尾張と一味して竹千代殿(徳川家康)を相違なく岡崎
へ帰城させ、守り立て申すべきだ」と言った。

石川安芸守(清兼)、酒井雅楽介(正親)が申すには「今川義元はすでに領内3ヶ国
で4万余騎の大将なので、この力をもって本意をさせ申すべきだ」と言った。

さて上村出羽守(植村氏明)、鳥居伊賀守(忠吉)、その他の残る面々が言うには、

「尾張と一味ならば早速本意となろう。さりながら、駿河と手切れとなれば3ヶ国の
軍勢をもって取り詰められることになって、たちまち難儀に及ぶであろう。

しかしながら、戦の勝ち負けは多少にはよらず。先年の小豆坂の合戦で駿河勢は3万
余騎の着到であったが織田備後守は3千余騎をもって馳せ向かい、五分の三つは味方
が利を失った。

尾張と一味ならば早速帰城たるべし。義元が3ヶ国の軍勢を催すならば御本意は違い
申すべし」と言って、ついに評議は落着致さず。

そんなところに、広忠公御死去の由を義元卿は聞こし召し、駿府より岡崎の城へ在番
を入れられたのである。朝比奈備中守(泰能)、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守(長持)
を頭とし、義元卿の近習衆3百余騎が籠め置かれたことで、それより是非なく岡崎は
駿府を守って居り申した。

――『伊束法師物語』

870 :人間七七四年:2021/07/25(日) 18:15:49.22 ID:KBEvxZkh.net
天正7年己卯、家康公38の御歳、また山西へ麦苅り捨ての御働きをなさる。

その年、信康(松平信康)は家康公の御気に背きなさった。その子細は万事(信康の)
御心のままにして御行跡は法に過ぎたものであった。家康公の御意見をも御用いなく
御気随に行わせ給い、家老衆の諫言をなおもって御取り上げなさらなかった。

このため衆の讒言あって、勝頼(武田勝頼)と御内通あって逆心の由を申し上げられ
たことにより、家康公の御立腹は世の常ならず。

「子の身でありながら父に弓を扱う事、前代未聞の次第なり!」と岡崎の城を出し給
い、大浜へ移して堀江の城へ御越しになる。それより二股の城へ移らせ給い服部半蔵、
天方山城の両人に仰せ付けられて御生害となった。

信康が宣うには「父に弓を扱うというのは全くの偽りである。年寄どもの讒言なれば、
この上はとかく申し分には及ばず」と、2人の御女子の御事と御菩提は大樹寺を頼む
と仰せ置かれ、大久保一類とその他に御親身申す者どもの方へ御形見を送らせ給う。

念仏を御唱えになって腹を十文字に掻き切り「服部介錯申せ」と宣えば、三代相恩の
御事なれば半蔵も刀を捨て落涙する。「早く早く!」と宣うも力及ばず、遠州の住人
の天方山城が泣く泣く御介錯し奉る。惜しむべし、惜しかるべし。その年8月15日、
行年21にて生害し給うなり。

家康公も「人口の妨げによって不慮の生害」と御後悔の御言葉がたびたびあったとか。

――『岡崎記』

871 :人間七七四年:2021/07/29(木) 13:26:06.87 ID:UwDYuRbt.net
天正十七年、上杉景勝公の御簾中(武田信玄公の息女、勝頼公の妹)に、平坂対馬守を尾輿添に
仰せ付けられ、上方へ御上らせなされた。これは景勝公が宿老たちとの密談によって斯くの如く
なったのである。景勝公はこのように仰せになった

「来年太閤(秀吉、この時期は未だ関白)は小田原への発向について、我らと前田筑前守(利家)と
合流して、関東筋へ相働くべしと定められた。
秀吉について、彼は古今類なき果報明発の人である。匹夫より登場して、天下を一統した。

であるが私に対しての和睦は工夫才智を以て、私への疎意が無いようにしたのは、私が名将である
謙信公の跡を継ぎ、北条三郎(上杉景虎)を討亡して越後を治め、信州に発向しては小勢を以て
北条氏直を追い払い、川中島四郡、その他佐久、小縣にも手をかけ切り治め、或いは会津領の
所々を切りしぎ、佐渡一国恙無く平均し、去冬は羽州庄内三郡を治めた。
殊更天正十年、信長家の者共に対して上杉家の弓矢の手柄、その後、越中宮崎にての様子は、木村(吉清)が
見て帰り、それらの事によって私のことを、秀吉も手浅く見られないのだ。

であれば、私の心が振れないようにと存じられ、人質を乞おうとされないのは流石名将である。
しかし内心には、私の事を気遣いに思っているのだろう。

殊に関東への陣触れについては、猶以て心許なく、人質を乞いたいと思っては居るのだろうが、そのようでは
誠の道をすり抜けてしまうと、私に蔑まれては却って悪しくなるとして、その事を申し越されず、
正道を嗜む所を知らせ、いよいよ私には心安く思わせよう、という底意であると察する。

しかし一度和睦を結んだ以上は、私からは未来尽くすまで、心を変ずるべきではない。
武士は大小上下、共に心を変じない事を本意とするものだ。そういった所を考え知りながら、
秀吉に疑われるのは甲斐のないことだ。」

そうして家老たちと御密談を以て、御簾中を御上らせられた。
太閤はこの人質の請取を堅く御辞退されたが、景勝公のこのような思し召しにより、受け入れられたのである。

(管窺武鑑)

実際にはこの天正十七年に秀吉が「諸国の大名家は悉く聚楽へ女中衆を同道し今より在京すべきこと」と、
妻女を人質に出すよう命じたようで、景勝もその命令に従ったに過ぎないのでしょうが、家中向けには
こんなふうに「自主的にやった」と説明したのかもしれません。

872 :人間七七四年:2021/07/29(木) 23:01:59.31 ID:dIhQHoBU.net
>>871
己の行為を粉飾歪曲して喧伝するのは謙信から続く「上杉」の常套手段。
「軍神」とか「義将」とかの幻想もそうやって築き上げた。
本物の山内上杉時代には無かったことだから、これは越後長尾の田舎者体質の顕れだろう。

873 :人間七七四年:2021/07/30(金) 04:33:56.14 ID:u03GKxRD.net
武田さんお疲れ様です
と思ったけど武田は上杉とは呼ばずに長尾呼びしてたんだったか
じゃあ北条辺りのレスかな

874 :人間七七四年:2021/07/30(金) 13:28:45.19 ID:MGpttgjN.net
北条氏康は山内殿と謙信宛書状に書いてたのよ

875 :人間七七四年:2021/07/30(金) 15:45:51.63 ID:B1SsKwpE.net
信州上田の真田安房守(昌幸)は上杉景勝公の御留守中に、太閤(秀吉)家臣の大谷刑部少輔(吉継)と
内縁の筋目が有ることを以て、大谷に頼り才覚仕り、次男源次郎(信繁)を秀吉に差し上げ、
景勝公との関係を引き切った。
彼が総領である伊豆守(信之)を自分の所に差し置いていたのは、安房守は老巧であり、末を考え、
今後権現様(家康)へ進上仕るべしと思案し、よって次男を太閤に差し上げたのだという。

こう言った事であったため、太閤に対し景勝公より御断りを仰せ入れられ、源次郎の身柄を
是非お返し下されるようにと訴えたが、太閤に大谷が能く取り繕った故に、太閤より様々に
御詫言が有ったことで、事済んだ。

これ故に安房守については「表裏の士」であると、彼を咲わない者は無かった。

(管窺武鑑)

上杉も真田昌幸には相当思う所あったんだろうな。

876 :人間七七四年:2021/07/31(土) 00:16:38.32 ID:ONAz3fbO.net
>>874
それはかなり後年の越相同盟の頃で、
それまでは御互いに「長尾」「伊勢」とオトナゲナイ罵り合いを繰り返していた。

北條氏康の禅坊主相手に逆ギレとか、
上杉謙信の「佐藤ばかもの」とか、
オトナゲナイ沸点の低さがなかなか良い♪

877 :人間七七四年:2021/07/31(土) 00:20:50.95 ID:hE2IjCkN.net
>>876
大人げなくていいなw

878 :人間七七四年:2021/07/31(土) 05:41:53.95 ID:LiriPFef.net
戦国時代は権威も今よりもっと影響力あったから
呼び方一つとっても相手の権威の肯定になるような事を言うのは
実利的な面でも憚られたんだろうな
現代の視点だとこいつら……ってなるけど

879 :人間七七四年:2021/07/31(土) 15:20:33.79 ID:/kVgA5gC.net
小田原の役が始まり、関東へ向かう上杉景勝勢が途中、信州上田を押し通った時、
真田が申し付けたと見え本来、本街道は上田の町を通っているのだが、景勝の憎しみを受けている
真田であるので、定めてその下々が上田の人々に対して狼藉をすると考え、新道を本道の北の方に
造り。本道には虎落(もがり・竹を組違いに組み合わせた柵)を置いて封鎖していた。

この時、藤田信吉が先手としてここに行き当たったため、これを見て怒り言った

「真田の分際で、景勝公をこのような虎落一重二重にて防げようか!
たとえ鉄の柵を並べて籠もったとしても、我々に向かって来るのであれば、どうして踏み殺さないで
済むであろうか。しかり秀吉公が様々に詫言されたために、景勝公は真田の命を助け置かれたのだ。

そもそもこう言った機会を幸いと思い、自身は出陣していても、留守居に申し付けて我らに御馳走を
するという気概も無く、自身の臆病な心に引き合わせ、この機会に仇を討たれるのではないかと
景勝公について推察するとは。

我が方より、弓矢の習いに従って行動するのは格別である。然れば本道を避けて脇道を通るというのは
弱みとなる。」

として、真田方が拵え置いた柵木を引き倒し虎落を蹴散らして、上田城下の本道を押し通り、
一人も新道へ向かった者は無かった。

(管窺武鑑)

880 :人間七七四年:2021/07/31(土) 15:49:21.44 ID:e48q9Pkk.net
昌幸の仲介で沼田城明け渡して北条から武田に鞍替えしておいてこの言い草

881 :人間七七四年:2021/07/31(土) 16:35:21.17 ID:hE2IjCkN.net
あれ藤田って関ヶ原直前の上杉征伐のきっかけ(もちろん家康の仕込みだろうけど)作ってなかったっけ?

882 :人間七七四年:2021/07/31(土) 16:59:20.79 ID:e48q9Pkk.net
>>821のように管窺武鑑では藤田信吉は上杉家の忠臣扱い
なお信吉のもともとの姓である用土氏は藤田氏の分家なのに
管窺武鑑では、
藤田康邦が北条氏邦に藤田氏の家督を譲ったのちに用土氏と改姓し、幼い信吉を残して頓死した
つまり藤田信吉(用土新六郎)は藤田氏の嫡流である、と捏造している疑惑が

883 :人間七七四年:2021/07/31(土) 17:43:18.51 ID:77g1fQyy.net
景勝時代の史料は捏造疑惑が多いな

884 :人間七七四年:2021/07/31(土) 18:27:43.62 ID:LiriPFef.net
この資料の信憑性は置いといて
これらの逸話通りだと藤田は方々に仕えて重用される辺り有能ではあるんだろうけど
人柄的には些か難があるような

885 :人間七七四年:2021/07/31(土) 19:53:23.48 ID:a1YBs5Gx.net
景勝への悪評の元ネタである奥羽永慶軍記こそ、その信憑性ってやつが・・

886 :人間七七四年:2021/07/31(土) 22:22:40.52 ID:X1sPEbul.net
景勝が笑わない無口みたいなのはいつから出来た造形なんでしょうか

887 :人間七七四年:2021/07/31(土) 23:08:30.85 ID:e48q9Pkk.net
最近出た今福匡「東国の雄 上杉景勝」だと

天正14年に景勝が上洛したときに
前田利家が「石田三成の話だと景勝はおもくちだそうだ」
と堀秀政に知らせているのが無口に該当するようだ
(ただ初上洛に際してということも考慮する必要がある、とも書いてる)
なお書状ではけっこう饒舌

ただ笑わなかったことに関しては
景勝に男子が生まれたとき「五十二になりて(子ができるとはなあ)」と機嫌よく笑ったことが「三公外史」にあるらしい

888 :人間七七四年:2021/07/31(土) 23:35:46.53 ID:MNnlKLoy.net
本能寺前に佐竹に送った書状とかかなり雄弁で熱こもっているしな

889 :1/2:2021/08/01(日) 13:13:10.34 ID:rsFX6Ceo.net
小田原の役の時、上杉景勝の越後勢は碓氷峠を越えると、真田、蘆田ら信州衆の先に在る坂本に入った。

この時、越後勢において藤田信吉の相備えであった甘糟備後守(景継)の小荷駄の牛が放れ、
真田の陣所の馬草を食った故に、その牛を真田方へと奪い取った。
備後守はこれを聞くと、藤田に「この牛を取り返さなければならない」と相談した故に、藤田の方より。
先ずその牛を取った者の方へ使いを遣わし、

『此の方の小荷駄に付けた人夫が牛を取り放し、そちらの陣内に参ったのを捕らえ置いていると
言う事だという。こう言ったことは互いに有ることでもあり、お返しして頂きたい。』

このように藤田能登守が申したことを、夏目舎人方より申し遣わした。
ところがその者の返事に

『牛はこちらには参っていない。例え参ったとしても、そちらの作法が悪くて他陣に参った牛なのだから、
これを取っても苦しからぬ事であるのだから、返さないだろう。況やこちらには参っていない。』

と申し越したため、甘糟は「ならば無理にでも押し入って取り返すべし!」と申すのを、藤田が
これを抑えて、真田方へこれまでの経緯を申し遣わした所、執り成しの者よりの返事に
「安房守(昌幸)は散々の虫気(腹痛)にて臥せておりますので、その事については後ほど申し聞かせます。」
と申し越してきた。

このため藤田も立腹し、「牛一疋の事であるが、天下の大事である!甘糟も牛を奪われては堪忍ならず、
堪忍成らねば押し込んで取り返すべし。その時は真田は返し兼ねるであろうから、我らは真田を
踏み潰すより他無い。その所を分別できないような真田では無いはずだが、我々を浅く見てこのような
態度をとっているのだろう。この上は私が切腹に及んだとしても是非もない。押し入って取り返す!」

そして組中に触れを出したが、その内容は『物頭・物奉行の他は、刀脇差を初め刃物の携帯は無用である。
棒を持つように。』との事であった。

これは景勝公の御耳にも達し、「藤田の申し分尤もである。真田どもを一人も残さず踏み殺すように。」
と、加勢を仰せ付けられたが、「彼程度の者を殺すのに、藤田は加勢を請たのだ、などと言われるのも
如何かと思います。藤田の組中だけでやります。」と仰せられたのであるが、侍大将衆より若者共を
忍んで差し添えたという。

藤田の備え九千余り、何れも素肌(甲冑をつけない状態)になり、刃物を持たず、棒二、三本ほどを
腰に差し、手に持って真田陣へと押し寄せた。

そのような所に丁度、佐野天徳寺が景勝公見廻りとして坂本の町に参っており、真田は彼に景勝への
詫言を頼んだ。佐野天徳寺が藤田に会って申された
「真田は牛を取った本人一人を成敗すると申している。これで堪忍致されるように。」

藤田は同心申さなかったので、天徳寺は先ず真田陣へと向かう人数に、何れにも説得してその場に留めた上で、
景勝公に対面されて、直に真田よりの詫言を伝えた。これに対して景勝公は
「私が少しも関知する事では有りません。きっと藤田の覚悟なのでしょう。その事は藤田に仰せになって下さい。
関知しない事ですから、私が下知するわけにもいきません。」と仰せに成られた。

故に天徳寺はまた藤田の元へ行って申した、「景勝公さえ関知していない事なのだから、堪忍されるように。」
これに藤田は「この事のそもそもは、甘糟備後から起こった事であり、それは備後に仰せ聞かせて下さい。
私はともかくも備後次第です。」と申した。

故に甘糟の元に行って仰せられると、甘糟の返答は「私は切腹するしか無いと思い極めての事であり、
この件を起こした本人一人ばかりにての御詫言では承服出来ません。牛を取った本人の傍輩は申すに及ばず、
その主人と、また藤田方より真田方への使いの時、虫気に返事をした取次の者、これらを我が方へ渡し、
真田昌幸がここまで出て降参を仕れば、これほどに思いつめた事ではありますが、和尚様の御詫言もあり、
又合戦前でもあるのですから、堪忍いたします。」と、天にかけて誓った。

890 :2/2:2021/08/01(日) 13:14:26.83 ID:rsFX6Ceo.net
天徳寺は真田方に戻り、様々に申し繕われた事で、先の三ヶ条の内、虫気の返事は真田昌幸自身が
申したことであったので、実行することは出来ないと、天徳寺よりまたこれについて御詫言があった。
残りの二ヶ条は甘糟の望み次第に任せるとの事であったので、藤田はたって甘糟に申して、彼に
堪忍させた。

天徳寺はこの事を真田に伝え、そうしてあの牛を曳かせ、牛を取った科人、その主従八人、
そのうち本人には縄をかけ、残る七人を放囚人にして、刀脇差を差させ、真田家家臣の丸子が同道して
召し連れて参った。甘糟はこれを請け取り申すべしと望み、自分の家臣の豊野伝左衛門、五十嵐十助などという
覚えの者十人を申し付けた。藤田方よりは検使として増毛田島、夏目舎人が出た。

両人、丸子と挨拶仕る内に、縄をかけた本人を、甘糟の小者である伝吉という者に請け取らせ、
残る七人の放囚人を、甘糟の衆が請け取りに出た時、七人の者共、一度に刀を抜いて斬り掛かってきた。
あの科人の主人は、増毛、夏目、丸子が相談している所に斬り掛かった。増毛は老功であったので、
その方を見向きもしなかった。夏目組の伊藤太佐衛門が立ち会い、この者に刃向かい、脇から
かの者を組み留めた。
その他の六人の放囚人の内、三人は即刻成敗し、三人は豊野、五十嵐、上坂藤兵衛、并びに舎人組の
者共が組み留め、主人共に四人を生け捕った。
藤田旗本の神保五左衛門も、この時甘糟に色々申して請取手に出、放囚人一人を斬り留めた。
神保も含めて味方十一人、真田方放囚人七人を請け取った様子は、このようであった。

さてまた、天徳寺が同道して、真田安房守(昌幸)は半途(両陣の中間)まで降参に出た。
この場に藤田、甘糟も出て、先に生け捕っておいた五人を安房守の眼前に引き出し成敗し、
一礼して帰った。その後科人八人の首を真田陣前に獄門に梟け、札を添えた。ここには
真田方への口上として『その方の被官を仕置したため、梟首した。』と断りが書かれていた。
故にさすがの真田と雖も、これを取り捨てることは出来なかった。

(管窺武鑑)

最初は甘糟景継が怒ってるのを藤田信吉が間に入って穏便に済ませようとしたのだろうけど、
相手の態度が気に入らず余計こじれているのがまた

891 :人間七七四年:2021/08/01(日) 16:17:59.07 ID:KEXzl7pS.net
私のために争うのはモウやめて!

     AA
  /⌒▼⊂・・つ
*〜L● ( (_ω)
  UU〜UU

892 :人間七七四年:2021/08/01(日) 16:30:00.46 ID:LhTTMgH8.net
天正2年、勝頼(武田勝頼)は高天神の城へ取り掛け攻める。

家康公へ御加勢のために、信長公も遠州塩見坂まで5千余騎で出馬されたところ、
城代の小笠原与八郎(信興)が降参して城を渡し、勝頼に従う。それ故、信長公
はそれより引き返しなさった。

信長公のこの時の御憤りは浅からずして、甲州没落の後に小笠原与八郎が小田原
へ退くと信長公は氏直(北条氏直)へ再三御所望なさったので、小田原で与八郎
に切腹させ、首にて送らせなさったという。

――『岡崎記』

893 :人間七七四年:2021/08/02(月) 16:01:28.09 ID:V9FYJm3n.net
小田原の役、上州宮崎砦の戦いの時の事。上杉景勝勢のうち藤田能登守(信吉)、甘糟備後守(景継)らの
軍勢は北条方の宮崎砦を乗り崩し、敵勢を追撃した。

藤田信吉の組の夏目舎人助は組子を呼び寄せ真っ先に進むと、宮崎坂口にて敵を追い詰めた。
その敵の中に、茜の羽織を着け、味方に下知して殿をする武者があった。舎人はそこに乗り付け、
互いに馬上にて名乗りかけ、鑓を組んで突き落とし、組子の澤田作左衛門に「首を取れ!」と申すと、
作左衛門も上に乗り掛かって首を擦り落とした。とこそがその時、甘糟備後守の手明(予備兵)の者である
湯浅七右衛門が奔り来て、作左衛門を押し倒し、その首を取って逃げた。そこに舎人助が乘り付け、
湯浅の差物の絹を少し切り落とし、それを取り置いた。しして又組衆を下知し、南西方向へ追い打ちをかけた。

(中略)

湯浅七右衛門が奪い首をしたことについて、合戦後夏目舎人助は自分の組の澤田作左衛門を召して
甘糟備後守の所へ行き、申し上げた

「御内の衆が奪い首を致されましたので、その首を返して頂きたく、急度仰せ付けられますように。」

備後守はこれに
「我らの内に、そのような比興者が有るはずがない。しかしながら調べよう。その方にそれについての
証拠は有るか。」

舎人は澤田を呼び出し、「この者が取った首を、御内の者、彼は白地に黒二引の差物をしていましたが、
後から来て澤田を押し倒し首を奪いました。その証拠はここにありますので、その差物に
名札をつけてここに出して下さい。」
そう申して差物を取り寄せると、彼の差物は切り裂かれており、そこに舎人の持ってきた切れを
当てるとピタリと一致し、紛れもない事が解った、これに備後は殊の外立腹し

「このような臆病者を召し使ったのは私の不吟味である。それをそのまま置いては、諸人に悪事を
教えるようなものだ!」

と。かの者を召し出し手打ちにすると申されるとこを、舎人は制して「先ず我が方の大将である
藤田と御相談なさってください。他の備えの為でもあります。」と、奪われた首を持って帰り、
高名帳に付けた上で、藤田にこの事を申し伝えると、藤田はすぐに甘糟を招き、二人伴って御本陣へ参り
上杉景勝公に言上した。

これについて景勝公はこう仰せに成った
「武士であっても武道を知らない者は下人である。武士は本心の臓より思案工夫して分別する者である
故に、科があれば切腹をする。

下人は首元で思案する故に締まり無く、落ち着いた分別も無い。これ故に科あれば首を斬る。

女人は鼻先ばかりの智である故に、科があれば鼻切る事、古来よりの掟である。

その者は下人同然の臆病を働いた。諸人への見せしめの為にも、縄を付け陣中を引き廻し、首を斬り
獄門に懸け、札を添えて首を晒し置くように。」

と仰せ出されたために、斯くの如く仕った。

『この湯浅七右衛門と申す者、甘糟備後守被官である。今度宮崎表に於いて夏目舎人助が敵を突き落とし
組子の澤田作左衛門に首を取らせる所で、湯浅はこれを奪い取った、この事は大臆病者の働きであり、
筆にも尽くしがたい。その科により、御掟通りに申し付けた。湯浅の子々孫々は言うに及ばず、彼の
組にまで悪名が遁れられない。仍って件の如し。

 天正十八年三月十八日     奉行 甘糟備後守 』

このような札を添えて、七日の間路に晒した。これを見た加賀衆も一層、上杉家の弓矢の法を知った。

(管窺武鑑)

894 :人間七七四年:2021/08/02(月) 17:05:13.66 ID:yQ0MdQJw.net
藤田信吉大人気スレ

895 :人間七七四年:2021/08/02(月) 18:38:30.03 ID:Mu9i4P76.net
偉い殿様と武将たちに仕えて今のご家中に再就職したうちってすごい経歴でしょ?
が目的だもん

896 :人間七七四年:2021/08/03(火) 16:55:47.55 ID:xXeMvxoh.net
小田原の役、奥州仕置により関白秀吉公は日本を平均さなれ、この上は朝鮮国御征伐あって、
武威を異域に輝かし、たとえ御本意を遂げられなくても、その名は末代までの誉れであると
御奥意を持たれていた所、御嫡男である八幡太郎殿(鶴松)が天正十九年、五歳にて早世された。
御母は浅井備前守息女淀殿であった。源義家の先規を用い、八幡太郎と名付け、限りなく
御寵愛されていた中での御逝去であり、御嘆きのあまり仰せに成られた事には

「私は数年粉骨して天下を取り布いたと雖も、それを譲り与えんと思っていたその子は死した。
何を頼んで何時を期せばいいのか。漸く歳も老いた、天下は諸大名が手柄次第に治めるべし。
私は後世善所を志し、発心して送るべし。」

そう言って東福禅寺へ引き籠もられた。然れば小大上下の族、このような事は勿体無しと涙を流し、
たってこれを諌め奉った。これに対し秀吉公は仰せられた

「私は道心する事に決心したが、それが却って天下の苦しみ、悪逆の元になると万民押し並べて存ずると
これ有る上は、考え直すべし。ではあるが、我が子孫の後栄を考えずに行う事であるのだから、一事所望を
叶えてほしい。そうでなければ再びこの寺を出ない。」

と仰せになった。諸大名は何れも「御意、違背仕るまじ。」と請け負った所を聞かれた後に、
朝鮮征伐の事を仰せ出された。それ故に何れも異議に及ばず同心した。これによって御陣触れを出された。

(管窺武鑑)

秀吉が上杉謙信みたいに寺に引きこもって朝鮮出兵をみんなに飲ませた、というお話。

897 :人間七七四年:2021/08/03(火) 17:12:49.00 ID:P3JEToLn.net
平和になったらなったで戦闘しか取り柄ない兵士数万をどうするか問題が起こるからな

898 :人間七七四年:2021/08/03(火) 23:20:34.51 ID:gBJLTEFr.net
スペインの要求通り傭兵で東南アジアや中国に派遣してるだけならば良かったのにな。
山田長政的なのが雨後の筍みたいにポンポンでるだけで。

899 :人間七七四年:2021/08/04(水) 17:30:55.85 ID:IpCOkUb8.net
>>898
東南アジアの華人くらいの勢力になってたかもよ
シンガポールの日本人版がフィリピンあたりにできてたりして

900 :人間七七四年:2021/08/05(木) 06:08:09.92 ID:lm46A0ag.net
今の時代なら産業に転職もできたかも知れないけど、傭兵は難しいねぇ。

何処かの家中に仕えてるなら、統治側に回って色々なお役人になれた可能性もあるけど。
そう考えたら、家康(秀吉もか)が天下普請とかやったのは武士達に時代の変わりを告げる意味でも正しかったのかも知れない。

901 :人間七七四年:2021/08/05(木) 16:06:56.12 ID:tRQNg+FM.net
上杉景勝公は石田三成と陰謀を示し合わされた

「石田三成が上方に於いて逆謀の色を顕せば、諸国より三成と内通していた者達が打って出て、
徳川家康と取合いを始めるだろう。私はそれを聞いて兵を発し、奥羽筋を打って上方と首尾を
あわせるべきか。であれば、仙台の(伊達)政宗(筆者注・この頃は岩出山城)、出羽の最上(義光)、
越後の堀(秀治)、この三人は燐競にて大身であると雖も、三人共にこの景勝の、物の敵とは思われない。
何故ならば、

一に、堀久太郎(秀治)は昨今の若将であり、弓矢の術を知らず、家法正しからずして家中は
二、三に割れ、殊に上方風であり。押し掛けには強いが後道に弱く、領民は堀家の新仕置に飽きはて、
古主である上杉家を慕っている。
また堀家を取り立てた太閤の御厚恩を忘れて家康に従う不義の兵であるから、これを踏み潰すに
手間はいらないだろう。

二に、伊達政宗は久しき家では有るが、その父である輝宗より二代に渡って境争い、坪弓箭をも
賢く取り、政宗一身の覚悟も無類で、能き大将である。
しかし家中は前代の悪風儀に慣れ、我儘を仕る士共は、現代の新仕置を迷惑がり、それを実行しようとすと、
手荒き政宗であるとし、心で疎み身を虚しくして。家中は意志が一致していない。

また大敵であると言っても上杉家と比べれば小身である。七手組の頭が、一両備えで押し向かえば、
政宗が手を出すことは出来ないだろう。
殊に政宗の心の有り様は、弓箭の正道について誠の吟味も入れようとせず、ただその時節に任せて
敵にも成り味方にも成り、自分の家を恙無く相続する事こそ至高であるとの奥意であるから、
我が方に少しでも強みがあると判断すれば、すぐに手のひらを返し当方に頼み従うだろう。

三に、出羽の最上(義光)は数代相続の家であるが、弓箭について然りとするような誉れが無く、
身にかかる火を払うばかりにて、他国遠国へ取り掛かるような武道のこだわりも無く、
家中の者共は事毎に居丈高にばかり仕り、武功誉れの者が有っても、新参譜代筋どちらでも、
小身であれば家老や出頭人の前では頭を挙げさせぬ故に、彼らが十考えている内三、四を言ってすら、
家老や出頭人の威に押され、一言を躓いただけでも善悪の批判を受ける。

そのため言葉少なく手短に計り言おうとして、その理屈が伝わらず、四つ言ったとしてもその内三つは
みな戯言となり、残った一つの理も、相手には生聞こえとなり、それを言った人物が不合点者と
取りなされる。故に以後は控えて物も言わなくなる。或いは、いかほど能き者であっても、口が
不調法であっては面出しも成らぬ。故に下の理が上に達しない。

最上家中では新参であっても大身であれば、譜代を押しのけ上座に在り、我意を振る舞う。
元より古参にて大身であれば、心は鈍くても我儘に口をきく。
執権に於いてこのような国法なのだから、軍法も未練なものであろう。であれば、上杉家に対せば
手に立つような事はない。

三家については以上の通りであり、であれば、石田が上方にて兵を起こせば、私は奥北国を
討ち靡かせるか、でなければこの大身の三家には押さえを置いて、家康の持つ関東へ働き出れば、
常陸の佐竹を始め当方への志の衆、東国にも多いのだから、攻め上がり家康を取り挟んで
一戦を遂げれば勝利を得るだろう。」

(管窺武鑑)

上杉景勝の堀家、伊達家、最上家への評価について。

902 :人間七七四年:2021/08/05(木) 16:37:19.76 ID:WRarKSNv.net
管窺武鑑って黒歴史ノートなのか

903 :人間七七四年:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j.net
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。

904 :人間七七四年:2021/08/06(金) 22:26:39.90 ID:+JGuVzIn.net
渋川城大爆発

有名な逸話だけど、どうやらスレでの紹介自体はまだされてなかったぽいので…

伊達政宗の股肱の臣である伊達成実の右手は指の肉同士がくっついて不自由であったと言う。

生まれつきそうだった訳ではなく、ある一つの事件が原因であった。

天正13年(1585年)、佐竹をはじめとする連合軍と伊達家による人取橋の合戦から一月ほど経った12月11日夜のこと、成実はこの時前線地帯にある渋川城にて、敵勢力に備えていた。

夜も更けてきた頃(20時から22時頃とか)、灯りを持ち城内を隈なく油断なく巡回する者があった。

https://i.imgur.com/0HX6Gz2.jpg

この日の夜間警備を担当するこの男は鼠1匹見逃すまいぞ!と全ての部屋を鋭い目付きでチェックして回っていた。

そして男はある部屋に差し掛かった。武具弾薬を収めた倉庫(成実の部屋とも)である。
最も重要なこの部屋に怪しい者は居らぬか?おかしな物は無いか?男はここでも油断なく、隅から隅をチェックした。

すると何やら見覚えのない箱がある。これは怪しいぞ、と睨んだ男は箱を開いて灯りを近づけた。

箱の中にあったのは鉄砲用の口薬(ないし玉薬=火薬)であった。

なんだ、怪しいものではないでないか、紛らわしい… 男がホッと一息ついた次の瞬間…

https://i.imgur.com/ooaTDHD.jpg

男は手に持っていた灯りをうっかり箱の中に落としてしまった…

刹那、大音声と共に武器庫は弾け飛び、城は業火に包まれた。
成実もこの時、右手に大きな火傷を負う羽目となり治癒後にその右手の指は癒着してしまい、野口英世の少年時代の様な不自由な右手になってしまったと言う。

しかし、成実はその後も数々の戦いで指揮官として武功を上げ、一時は伊達家を出奔するものの他家からも高く評価される武将となるのである。

『政宗記』『新奥羽永慶軍記』より

905 :人間七七四年:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw.net
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ

906 :人間七七四年:2021/08/07(土) 21:40:38.20 ID:D3z83WQe.net
https://i.imgur.com/bhKgAUN.jpg


前置詞のピクトグラム
https://i.imgur.com/FAuiy64.jpg

907 :人間七七四年:2021/08/09(月) 00:05:46.04 ID:0Q6lNaf4.net
有田の夜泣き石

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は紀州征伐を開始。上方勢はあっという間に根来寺・粉河寺・雑賀荘を制圧し、続いて紀南の攻略に乗り出した。

秀吉の弟、羽柴秀長が率いる軍は紀伊の守護格である畠山政尚・貞政父子の本拠地、有田郡に攻め入ると箕島にてその動きを止めた。

秀長は畠山麾下の宮崎定秋(またはその長子定之)とその一族が籠る宮崎城には定秋の末娘で霞姫と言う美しい姫がいる事を聞き及び、その姫を差し出すことで城攻めを止めると使者を送って来た。

しかし霞姫はこの時、宮崎城に身を寄せていた殿本帯刀輝綱と言う若者と相思の仲であり、定秋もその仲を認めていた。姫を差し出し和議を結ぶか否か、一族は揉めた。

そんな中、我が娘の幸せを願う霞姫の母、湊御前は自らの近習を付け、霞姫と輝綱を密かに城から逃したのである。

908 :人間七七四年:2021/08/09(月) 00:07:04.69 ID:0Q6lNaf4.net
これを知って激怒した秀長は攻撃を開始し、宮崎一族も明神峯に打って出て迎え撃つも大軍の前になす術なく宮崎一族は敗北。
宮崎定之は大崎港へ逃れ、そこから船で毛利家を頼って落ち延びたものの、城は灰燼と帰した。

城から姿を消した霞姫と殿本帯刀、近習の行方はようとして分からなかったが宮崎城の落城から一年後、かつて城のあった場所の対岸にある大きな石に乳飲み子を抱いた女性が現れると、乳飲み子を岩の上に残して身投げしたと言う。

哀れに思った付近の人々が乳飲み子を拾い、ある人物がその子を育てることにしたが、その子の顔は誰言うともなく霞姫に似ていると口にしたと言う。また、その子が夜泣きするたびにこの岩に連れて来ると不思議と泣き止んだとも言われ、この岩は霞姫の夜泣き石と言われる様になった。

「有田市誌」「宮崎落城記」より

参考サイト
生石高原の麓から
https://oishikogennofumotokara.hate
nablog.com/entry/2020/05/30/211858
日本伝承大鑑
https://japanmystery.com/wakayama/aritayonaki.html
紀州 民話の旅
http://www.nnc.or.jp/~makoto-s/minwa/4001.htm

余談
上記参考サイト「生石高原の麓から」によると有田市誌では、羽柴秀長は紀州征伐の数年前から霞姫を狙って石田三成を通じて霞姫を側室に迎えることを所望しており、霞姫が城から出されたのは上方勢が攻め寄せる一年から二年ほど前のことであるとされ、その後に宮崎定秋と湊御前は亡くなり宮崎定之に代替わりし、紀州征伐が起こり宮崎城は秀長に滅ぼされたとされている。
今回は上記参考サイトに習い、羽柴秀長は有田来襲時に霞姫の存在を知った方向に話を寄せています。
また、有田の夜泣き石にはもう一つ由来の話があるけど、そちらは戦国期の話ではないため割愛します。

909 :人間七七四年:2021/08/09(月) 00:08:23.89 ID:0Q6lNaf4.net
>>908追記
参考サイト生石高原の麓からのURLが投稿規制に引っ掛かったので改行して投稿しております。

910 :人間七七四年:2021/08/09(月) 08:36:45.19 ID:YmVLG1UH.net
https://i.imgur.com/9myXvc3.png

https://i.imgur.com/l0hrqYu.png

https://i.imgur.com/lBlXvkA.png

https://i.imgur.com/8gipjic.png

https://i.imgur.com/UFUdUaw.png

https://i.imgur.com/wZlgSBh.png

https://i.imgur.com/VmgIuhM.png

https://i.imgur.com/XNXrmr9.png

https://i.imgur.com/uz7vJR5.png

https://i.imgur.com/rJm9gzS.png

https://i.imgur.com/TkTPgPb.png

911 :人間七七四年:2021/08/10(火) 22:19:08.27 ID:gR0YpzfG.net
核割れの梅と血曳き石

少弐政資の辞世が好き
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6199.html

この話題にて、少弐政資の最期と辞世の句については既に出ているので有るが、

花ぞ散る 思えば風のとがならず
時至りぬる 春の夕暮れ

この句を詠み腹を切る直前、少弐政資は専称寺(佐賀県多久市)境内にて腰に着けた袋から梅干を取り出し、果肉を喰らうと種を歯で嚙み割り実を手に取ると地面に叩きつけ、その梅の実に向かって声を掛けた。

汝非情なるも末代我が験となりて本意を遂ぐべくばこの枝萌え出よかし

そして、境内の平たい石に腰掛け上記の辞世の句を詠むと腹を切って少弐政資は果てたと言う。

政資が投げた梅は翌年春に芽吹き、年々成長すると毎年の初夏には青い実がなるに至った。
しかし、その実は不思議と最初から実が割れている物が混じっており、地元の人はこの梅を核割れの梅や種割れの梅と呼ぶ様になったと言う。

また、政資が腰掛けて腹を切った石は血曳き石と呼ばれ、どちらとも専称寺の境内に今も残っている。



専称寺ホームページ
http://www.senshoji.jp/senshoji/intro/intro_keidai.html

https://i.imgur.com/NMQeXoV.jpg

912 :人間七七四年:2021/08/10(火) 23:29:43.80 ID:nqnQ/Y8t.net
>>911
「専称寺」って云うから
ほう、沖田の墓の在る寺か、と思ったら同名異寺だった…。

913 :人間七七四年:2021/08/11(水) 00:05:10.86 ID:UlG7v57h.net
>>912
(佐賀県多久市)って書いてるじゃねーか!ダンカンこの野郎!

914 :人間七七四年:2021/08/11(水) 08:47:01.53 ID:L2wrZCrF.net
まぁ、似た様な地名や寺社仏閣の名前ってあちこちに有るよね。
専称寺もググったらあちこちに有るし。、

915 :人間七七四年:2021/08/11(水) 20:31:50.87 ID:SOgYfai7.net
住吉神社とか八幡宮はどこにでもあるな

916 :人間七七四年:2021/08/12(木) 00:09:11.21 ID:ODaFR7iz.net
神社は分社って形式だからまだわかる
寺は名前がかぶっても山の名前でまだ判別が効く

917 :人間七七四年:2021/08/12(木) 00:25:49.48 ID:7BVCcvsJ.net
まあしょうがないよね、ジンジャーだけに

918 :人間七七四年:2021/08/12(木) 00:40:14.66 ID:ItUgmlyl.net
>>917
ガマガエルが審議中の画像が良いか、
ゲジゲジが審議中の画像が良いか、
好きな方を選べ。

919 :人間七七四年:2021/08/12(木) 02:37:34.72 ID:lTFxnUYn.net
>>916
出雲大社とか厳島神社とか春日大社もブンシャカしてるイメージがあるなぁ
>>918
ネッコにしよう
https://i.imgur.com/XpwreI9.jpg

920 :人間七七四年:2021/08/12(木) 17:35:12.09 ID:fqhsEK9r.net
>>896
>>901

べらべらよく喋る景勝だな
無口って誰が言ったんだ

921 :人間七七四年:2021/08/12(木) 19:47:27.12 ID:TruHcJ9v.net
>>920
上杉景勝は一言も喋ってない。
心の声として芥川隆行のナレーションが流れてるだけだ。

922 :人間七七四年:2021/08/14(土) 11:07:37.19 ID:rWBMkbqp.net
犬坊の墓

武田信玄が侵攻する前の南信濃辺りでは当地の豪族達が争っていたが、現在の長野県阿南町辺りでは関氏と下條氏が当地の覇を競い争っていた。

関氏は和知野川から南の下郷5ケ村を所領としていたが、高冷地で実入りの少ない土地であったため、戦を重ねて大下条周辺の18ケ村を領土に加えていた。

関氏最後の当主である関新蔵盛国は驕り高ぶり、住民たちを酷使して5年間に3つの城を築き、石材を無理やり運ばせ怠ける者には薔薇の棘を打ったりと過酷な賦役を課し、
年貢を厳しく取り立て婚礼にも重税をかけ、鹿狩りと称して山中の木こりや旅人を鉄砲で撃ち殺すなどやりたい放題を重ねていた。

一族の重臣たちの言葉にも耳を貸さず好き勝手やり放題の関盛国であったが当然目下の者達の心は離れていき、
その状況を知ったライバルの下條氏は天文13年(1544年)に月見の宴を行っていた盛国の最後の居城・権現城(またの名を和知野城)に夜襲をかけた。

先述の事情から城内の者達は寄せ手に寝返る者も多く、盛国に目を掛けられていた犬坊という18歳の若者は盛国の愛刀の目釘を抜き、弓の弦を切って
自身は台所の窯の陰に隠れて盛国が来るのを待ち受け、盛国が現れたところへ槍で突いて殺し部下の坊主に城へ火をつけさせ、こうして
権現城は落ち、関氏は滅んだのである。

この功を賞され、下條氏から大小の刀と米12俵の目録を拝領して意気揚々と帰ってきた犬坊であったが突然狂いだし、どこからともなく白い斑模様の犬が目の前に姿を現したのを見て
うぁぁぁ も・・・盛国どのが練り歩いている!!

と叫んで刀を抜いてその犬に切りかかったところ、足を滑らせて転んだところに犬が飛び掛かり喉笛を嚙み千切って犬坊を殺してしまった。
人々は犬坊は恩を被った主君を裏切った報いを受けたのだと語り継いだという。

死んだ犬坊は人々によって葬られたが、そこには犬の頭を頭上に乗せた人物の像が墓碑と共に安置されている。
ちなみにこの逸話を基にして井上靖は昭和32年に『犬坊狂乱』という短編を書いている。

参考サイト
阿南町ホームページ
http://www.town.anan.nagano.jp/kanko/cat258/000375.html
日本伝承大鑑 犬坊の墓
https://japanmystery.com/nagano/inubou.html

923 :人間七七四年:2021/08/14(土) 11:15:36.69 ID:rWBMkbqp.net
余談だが似たようなお話が毛利元就に粛清された吉川興経にもある。

「対モンスター用暗殺計画」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4213.html
吉川興経の墓と犬塚
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10261.html

こちらも暗殺前に裏切り者によって愛刀の刃が潰されていたり、得意とする弓の弦が切られていたり忠誠心の強い近臣が遠ざけられていたり
結末は愛犬が主の首を持ち去って故郷へ戻って息絶えるという悲劇的な話だけど、犬(家臣のことという考察も)が関わっていたりすることとか話が共通しているのはたまたまなのだろうか?

924 :人間七七四年:2021/08/14(土) 11:37:57.82 ID:rWBMkbqp.net
さらに余談
吉川興経、化ける。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10263.html

吉川興経はデュラハンの様な化け物になったり、夜な夜な光って飛ぶUFOみたいな物になったりしているが、
関盛国(盛永?)は特にそういうものになって祟ったなどと伝わってはいない。
ただし、その奥方であるお万の方には夕顔という怪異譚が残っている。

925 :人間七七四年:2021/08/14(土) 13:01:03.00 ID:rWBMkbqp.net
赤い夕顔

>>922の話で落城した関盛国(永)の居城、権現城であったが盛国の奥方であるお万の方は5歳になる息子、長五郎を連れて城から落ち延び
郷里である浪合を目指して逃れようとした。
その途中、天龍村の向方のある家の傍にて長五郎が夕顔が欲しいと言ったため、お万の方は夕顔の花を摘み取り長五郎に与えたところ
その様子を見ていたこの家の家人は腹を立て親子を殴った。
殴られたお万の方は「この家の夕顔は来年赤くなる」と口にしその場を去ったが、次の年の夏から本当にそうなったためこの家では夕顔を育てなくなったという。

お万の方と長五郎はこののち、戸口(天龍村)の伊藤惣十郎を頼ったがそこで騙され殺害されたという。

同村の大河内地区にお万の方と長五郎の墓があり、その傍らには大きな柴藤が植えられておりお万様の富士と呼ばれている。
毎年10月12日には瑞光院の住職を招いて読経が行われ供養祭が開かれている。

『長野県史 民俗編 南信地方 ことばと伝承』『赤い夕顔の花(絵本 伊那谷ものがたり)』などより

参考サイト
お万様の墓と藤
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=912&seq=0
国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C2020377-000.html
らんまる攻城戦記〜兵どもが夢の跡〜
https://ranmaru99.blog.fc2
.com/blog-entry-768.html
ほか天龍村村長のブログなど

926 :人間七七四年:2021/08/14(土) 22:18:44.87 ID:rWBMkbqp.net
関氏を下した下条時氏と信氏親子はこの後、信濃守護・小笠原家の下で信濃へ侵攻してくる武田信玄に反抗するも、後に臣従して武田信玄の妹を信氏の正室に迎え、秋山信友配下の信濃先方衆として三河攻めや川中島の戦いに参加。

下条信氏は秋山信友の麾下で岩村城代を務めたものの、織田家の甲州征伐で一族の下条氏長や家臣らの謀反にあい三河にずらかり潜伏し、同地にて信氏と長子信正は死去。

天正壬午の乱で徳川家康の後援を受けた下条信氏の弟・下条頼安と信正の子・牛千代(康長)が毛利秀頼退去後の飯田城に入ったかつて甲州征伐で謀反した下条氏長を暗殺して下条の家督を継ぎ、そのまま家康に仕えたけど第二次上田合戦で下条康長は逐電し、信正の曽孫である下条氏定はのちに小倉藩の小笠原家に仕えて元鞘に戻ったと言う。

927 :人間七七四年:2021/08/14(土) 22:25:37.72 ID:qmMcYyN5.net
>>924
侍に怨霊なし、と古来謂う。
化けて出るなど覚悟が足りない。

討つ者も 討たるる者も 土器(かはらけ)よ くだけて後は もとの土くれ  −三浦道寸 辞世−

928 :人間七七四年:2021/08/14(土) 22:37:17.54 ID:i/gl0RLp.net
毛利秀頼、毛利秀秋の親子
毛利秀頼は豊臣姓羽柴名字を与えられてるから豊臣秀頼だし
息子は小早川秀秋が輝元の養子になったみたいでややこしい

929 :人間七七四年:2021/08/14(土) 22:54:35.81 ID:rWBMkbqp.net
>>927
三浦道寸の息子の義道も首だけになって小田原まで飛んでって、道端の木に引っかかって通りすがる人間が義道の首見たらタヒぬって言うメデューサかジオングみたいた逸話の持ち主やんけ

930 :人間七七四年:2021/08/14(土) 23:22:17.28 ID:rWBMkbqp.net
>>926
この、下条親子が甲州征伐で領地の南信濃を追われてから下条頼安が当主として復帰するまでの経緯。
そして、頼安が徳川家康配下となってから活躍したのち同じく徳川配下の小笠原信嶺と争った後、小笠原の娘を妻に迎えて和解したのに騙し討ちで殺害されるまでの話、

下条康長が家康の一字をもらって跡を継いだけど、家中内紛で没落していく一連の流れは酷過ぎて笑えないなぁ… 仁義なき戦いもびっくりな地場ヤクザの抗争だぁ…


下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7731.html

931 :人間七七四年:2021/08/15(日) 03:39:29.07 ID:M58v8E3I.net
>>929
将門公といい関東の人間は首だけで飛び回るのが流行ってるのか?

932 :人間七七四年:2021/08/15(日) 09:25:00.36 ID:SsJkB02U.net
>>931
https://japanmystery.com/kanagawa/igami.html

コレを読むと生前から化け物みたいな猛者ぶりなんだけど、死んだ場所の100間(182m)四方は、今なお田畑を作らず、草を刈らない。牛馬もここの草を食べると死ぬのを知っていて、他の獣も入らない

首になっても3年生きた

と言う本当に核融合で動くモビルスーツかなんかだったんじゃないの?って思いたくなる話もある。

933 :人間七七四年:2021/08/15(日) 14:51:04.45 ID:HMz7rzsh.net
>>930
あれ、まとめサイトのURLってスレに貼れないのかと思ってたら、問題なくなってたのか

934 :人間七七四年:2021/08/17(火) 20:43:21.56 ID:vL/XYhmt.net
>>922
また甲斐の犬だしヤる気を見せたら噛み殺してくるよな・・・(´・ω・`)

935 :人間七七四年:2021/08/18(水) 20:33:00.77 ID:f9XqlVy3.net
加藤清正と小野鎮幸の一局

関ヶ原の戦いの後、立花宗茂の元を辞して加藤清正に仕えた小野鎮幸が清正と将棋を指していた時のこと…

突如、隣の部屋にいた近習達が喧嘩を始めた。

近習A&B「ギャフベロハギャベバブジョハバ」

    \      ☆
             |     ☆
             ⌒ヽ   /    ボカ
    \  (´⌒  ⌒  ⌒ヾ   /
      ('⌒ 彡⌒ ミ ⌒ ::⌒ )      ボカ
     (´  ( `・ω・)      ::: ) /
  ☆─ (´⌒;:    :: 彡⌒ ミ  )
     (⌒::   ::   (・ω・´ )  )  ::⌒ )
    / (       ゝ  ヾ      ) ─

少しして清正
清「ちょっと俺、アイツらの喧嘩止めてくるわ。」
おもむろに立ち上がり席を外そうとする清正。
(実はこの時、局面は清正の敗色濃厚であった。)

これを聞いた鎮幸は

鎮「殿、主君たる者がこの程度で立ち上がられてはいけませぬ。某が何故にここに居るか。もしもここまで押し入って来る者あらば、不肖なれどこの老人めが取り押さえます故に殿は落ち着いて其処に居て下さりますように。」

静かに強く怖い顔で清正を睨んでこう言った。

清「はい…(;゚Д゚)」

喧嘩の仲裁に座を立ち、勝負を流局に持ち込もうとした清正の魂胆は見抜かれていたのである。
清正はただただ赤面して恥じ入るのみであったと言う。

ネットで拾った話にて出典元は不明ながら加藤清正と小野和泉主従の珍しく清正公がカッコ悪い話。
どなたか出典元知ってたら補足お願いします。

936 :人間七七四年:2021/08/19(木) 21:26:55.19 ID:uBu4jL7q.net
>>935は古雄逸談に有りました。

正式なタイトルは「清正臨終の譫語」
この出来事を清正は死の1日前に悔いたとされ、清正公とそのファンにはお辛い話かも知れない。

国立国会図書館デジタルコレクション(19Pにこの逸話有り)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/32?tocOpened=1

937 :人間七七四年:2021/08/20(金) 00:01:49.82 ID:ewp9KiJx.net
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/19?tocOpened=1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/20?tocOpened=1

清正赧然その軽率を悔い座に着き然れども此の時深く愧ずる処ありしと見へ将に死せんとするの前日
我も天下の勇士にして何人にも許されしに唯老いぼれ和泉に我が腹中見ぬかれし事の口惜しさよと齒切之を久しふす
良い話の清正が立花ァ千代に兵糧を差し入れて、その報告の手紙を小野鎮幸に送った逸話や鎮幸の六十の手習いの話が良い話だけに
ちょっと切ない・・・。
あくまで後世に書かれた軍記物や創作の話と思いたいなぁ。

938 :人間七七四年:2021/08/20(金) 00:19:50.34 ID:csAkJawM.net
>>937
くたばる前の日にもなって昔のことを口惜しがって止まない、てぇのがリアルだねえ。
本当の噺なんじゃねえかな。
通り一遍の薄っぺらな英雄像よりよっぽど良い。

939 :人間七七四年:2021/08/20(金) 00:34:42.10 ID:ewp9KiJx.net
>>938
個人的には加藤清正のファンでもなければ所縁の地の者でもないから特段擁護したりとか
いう気持ちは無いし、むしろ小野鎮幸みたいな人の方が好きでその行動にこそ共感するんだけれど、
加藤清正が生前に立花宗茂やァ千代を気遣った気持ちは噓ではなかったと思いたいし、家臣となった
小野鎮幸との交流も心からの物で最後にその晩節を汚すような言動は無かったと思いたいんだよねぇ・・・。

940 :人間七七四年:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU.net
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

(太祖一代軍記)

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公

941 :人間七七四年:2021/08/21(土) 23:59:33.15 ID:FYFuIsYL.net
露助「(亡命のために国後島から)泳いで参った」

942 :人間七七四年:2021/08/22(日) 09:38:05.88 ID:2Egr4wVK.net
立花宗茂、小野鎮幸から借金する

1600年9月、関ヶ原での合戦が終わり大坂城へ戻った立花宗茂(当時は親成)は毛利輝元に東軍との決戦を主張するも、輝元は既に東軍への恭順を決めておりそれを覆すことはなかった。

宗茂は人質となっていた母・宋雲院を奪取すると本領柳川を目指して進発。同じく薩摩へ撤退する島津勢と道中共にし、柳川へ辿り着く。

宗茂の帰着後の10月半ば、柳川へも東軍側の黒田、加藤に西軍から降った鍋島の三軍が攻め寄せて来る。
家康への恭順姿勢を見せるため宗茂は出陣せず小野鎮幸が大将として出陣し、殺る気満々の鍋島軍と激戦を繰り広げた末に鎮幸は銃創と矢傷で重傷を負い、立花軍は数々の犠牲を出しながらもよく持ち堪え、
最終的には家康からの宗茂と弟の直次らに対する「身上安堵之御朱印」が届いたことから黒田如水と加藤清正の説得に応じ、10月25日に降伏した。
この時、連れ帰っていた母・宋雲院を徳川への人質として再度上洛させることが決まっていたのだが、度重なる戦への出費で宗茂は手元不如意であった。

(´-ω-`)和泉ごめん、母上上洛のために銀10貫ほど貸して。国替えになっても来年の秋には返すから…

( ´-ω-`).。oO(命は助かったけど、最悪国替えだろなぁ)

開城時点ではこの様に考えていた?宗茂であったが…
   ____
   /ヽ__//
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  / 改 易 /_//
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/     //  /
 ̄ ̄ ̄ ̄/ ̄ /  /
    /  /  /
     ̄ ̄ ̄
現実(家康)はより非情であった…

  (=゚ω゚)
   ( x)
   )ノ
   (
   )

c⌒っ。ω。)っ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こうして永きに渡る立花宗茂の愉快… じゃなくて苦労一杯の浪人生活が幕を開けることとなったのである。

(参考:立花資料館所蔵 立花親成書状)
https://i.imgur.com/mXdwK7M.jpg
https://i.imgur.com/W8XgnUL.jpg

943 :人間七七四年:2021/08/22(日) 10:04:55.98 ID:2Egr4wVK.net
立花宗茂と直次の母・宋雲院

天正14年(1586年)の岩屋城の戦いでは落城後に島津の捕虜になるも救出。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い時は人質として在坂または在京の身。戦後、宗茂が奪還して柳川帰国のちまた徳川の人質として上洛。

以後、息子・宗茂の浪人時は同行してたのかどうかは不明ながらも慶長16年(1611年)に江戸で死去。

当時はこう言う人生はざらかも知れないけど、凄い激動の後半生だと思う。夫・高橋紹運を死に追いやり、自身を捕虜にした島津勢と旅路を共にした時とかどう言う心境だったやら…

高橋紹運とその許婚・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-410.html?sp

(参考:立花資料館 天叟寺所蔵宋雲院肖像)
https://i.imgur.com/CpPieZt.jpg
https://i.imgur.com/ZIocOtP.jpg

944 :人間七七四年:2021/08/22(日) 16:32:14.15 ID:fo84XfBI.net
>>942
清正や三歳様はじめ東軍側の色々な人からの取り成しもあったんだろうけど、秀吉の小田原攻めの時の大道寺政繁みたいにならなくて良かったと思う。

945 :人間七七四年:2021/08/22(日) 22:38:32.40 ID:2Egr4wVK.net
宗茂「借りた金返せねぇぞ♪はした金じゃねぇぞ♪ orz」

946 :人間七七四年:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/.net
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事につて、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

(太祖一代軍記)

永禄の変が「謙信が来る前にやっちまおう」で起こった、というお話

947 :人間七七四年:2021/08/23(月) 21:47:22.84 ID:/EbQlxIP.net
>>946
永禄八年てぇと、
上杉謙信も関東戦争の敗色が濃くなってきてる頃か(前年は里見を見殺し、翌年は臼井合戦)。
将軍からのSOSが届いてたらヤバい関東からトンズラこく良い口実と新たな稼ぎ場と、一遍で両方出来たのに惜しいことをしたな。
それにしても北信の名家、関東管領、将軍と、他人の褌で荒稼ぎするのが好きな奴…。
越後の飢民救済の為の略奪戦争なんだから越後国主の旗で堂々とやりゃあ良いのに。

948 :人間七七四年:2021/08/23(月) 23:03:48.49 ID:TN+cZjra.net
この間は江戸っ子気取りの痛い奴が湧いてたが、今度は神様気取りで過去を論評する痛い奴が湧いたか。
ていうか同一人物?

949 :人間七七四年:2021/08/23(月) 23:16:12.78 ID:JEm7eDEh.net
>>948
ここが「過去を論評する」スレじゃなくて何なんだ?

950 :人間七七四年:2021/08/23(月) 23:20:18.29 ID:rmrp8jSY.net
イキリ散らかしただけのくだらん論評なんぞ要らんがな

951 :人間七七四年:2021/08/23(月) 23:26:25.70 ID:TN+cZjra.net
調子に乗って他所様他人様に対して差別的な言葉吐いたり、独りよがりのレッテル貼りの様な書き込みしたりするのは論評なんて呼べるかね?
>>947なぞ一方通行過ぎてただのオ○ニーにしか見えんのよ。

952 :人間七七四年:2021/08/23(月) 23:53:49.19 ID:JEm7eDEh.net
>>951
んじゃ一方通行じゃないセックスの見本を示して貰おうか。

953 :人間七七四年:2021/08/24(火) 00:05:31.17 ID:kYsNSRET.net
【悲報】 id:JEm7eDEh、まじモンの基地外だった

954 :人間七七四年:2021/08/24(火) 01:40:59.88 ID:wClaZXZ0.net
そもそもあの時謙信が京にどれだけ兵力出せたんだろ
陸路じゃ無理だし本国だって捨てるわけにはいかないし、護衛じゃないガチの兵士なら500出せれば御の字じゃね?

955 :人間七七四年:2021/08/24(火) 06:09:26.67 ID:IXgKP0fT.net
江戸っ子気取りは良い話スレでは…?まぁどっちも住民同じだろうけど
それにあっちはやらかしはしたけど謝りもしたから…
謙信については>>872とかでも似た感じのレスがついてるし
アンチが居ついてるんだろうな

956 :人間七七四年:2021/08/24(火) 09:45:56.76 ID:WohMEvek.net
上杉家ねえ

アトムとほぼ全員が名付けたがってた小惑星探査機を、原子力関連だと朝日新聞が難癖つけそうだからと
名前をはやぶさに変えさせたのが上杉家当主

ガチ保守かというとテポドンについての朝鮮総聯からの解説依頼にも親切に対応してる学究肌

957 :人間七七四年:2021/08/24(火) 12:32:07.14 ID:XmU0y0gZ.net
>>947は論評と言うより個人の感情が大半を占めた誹謗中傷かな?
上杉謙信や上杉家に積もる恨みでもあるのか知らんが何か日本語も怪しいし、マジで恨の国の人だったりしてw

958 :人間七七四年:2021/08/24(火) 15:54:45.59 ID:G7GDo+f3.net
伊予国大洲の米津に、津々喜氏の居城である米津城(滝之城)という城があった。切り立った崖の上に有り、
難攻の城であったという。近辺に白滝という場所があり、そこは城主らの遊園の地であった。

しかし元亀元年(1571)秋、ここに土佐長宗我部氏の軍勢が襲来した。これに城方は懸命に抗戦した。
城主の奥方であった瑠璃姫は清流長刀の指南であり、さらに吹き矢については神業と言われるほどの
腕前であった。また彼女の娘である八重姫、九重姫は八双手裏剣の名手であり、彼女らも大いに奮戦した。

そして瑠璃姫の吹き矢に苛まれた長宗我部軍はジリジリと後退を始めた。
これを見た瑠璃姫は侍女に「もう一息です、残った吹き矢をすべてここに持ってきなさい!」
と命じた。ところがこの時、吹き矢を運んできた侍女の一人がこのように叫んでしまった
「瑠璃姫様、残りの吹き矢はこれだけ、十数本しかございません!」

この叫びは長宗我部軍の耳にも入った。彼らは吹き矢が残り少ないことを知るとたちまち勢いを
盛り返し、城は遂に落ちた。瑠璃姫らは城主の嫡男である尊雄丸を連れ、どうにか白滝の雌滝の上まで
逃げたものの、追手は迫り、瑠璃姫は「もはやこれまで」と、八重姫、九重姫を呼んで言った

「尊雄丸が敵に捕らえられる辱めを受けるのは不憫です。私はこの子とともにこの滝に身を投げます。
あなたたち姉妹は後に生き残り、我が一族の霊を慰め、冥福を祈るように。」

そして追いすがる二人の姫を振り払い、尊雄丸とともに身を投げ滝壺へと消えた。
残された二人の姉妹は母の言いつけに従って逃げ延び、後にこの地に、瑠璃姫と尊雄丸を祀る
観音堂を建立した。
これ以来、この白滝に住む者達は毎年十一月二十三日に「瑠璃姫祭り」をして、二人の霊を慰めるのだという。

伊予国大洲の伝説「女郎が淵」より

959 :人間七七四年:2021/08/24(火) 16:48:43.03 ID:yM+0MafG.net
読み方は米津(よなづ)なのか
徳島の作詞作曲家の影響で「よねづ」と呼びそうだった

960 :人間七七四年:2021/08/24(火) 20:25:10.88 ID:IXgKP0fT.net
>>958
長刀はまだ判らんでもないけど姫が吹き矢の名手って設定はどうなの?
娘に至っては手裏剣の名手だし忍びの者か何かなの?
素性が気になってしかたないんだけど
さらに吹き矢で後退する長曾我部軍ってのもなんだかな…
シチュエーションが判らないけど…竹束とか板盾とか無いんです?

961 :人間七七四年:2021/08/24(火) 21:04:22.20 ID:vkouVMX0.net
吹き矢とか手裏剣なんて戦ではさほど使えないだろうしそこら辺は後世の創作でしょうね
お話としては面白いけど

962 :人間七七四年:2021/08/24(火) 21:08:51.24 ID:02N8vyrY.net
>>960
>>958
>切り立った崖の上に有り、 難攻の城であったという。
ここだけ読めば竹束や板盾持って攻めるのは不向きだと思うけど?
実際に調べてみたけど標高は低いが攻めるには難儀しそうな山城跡に思うよ。

津々喜谷氏 るり姫(ソース?)
http://pipinohoshi.blog51.
fc2.com/blog-entry-134.html

白滝で祈る:るり姫伝説第2話
https://makild.exblog.jp/13068713/

伊予 米津城の写真集
https://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/yonazu-jyo/thumb/

963 :人間七七四年:2021/08/24(火) 21:35:02.72 ID:IXgKP0fT.net
意図が悲しいお話だというのはとてもよく判る
判るんだけど…
姫の奮戦っぷりを2番目のリンクの絵で見せられるとやはりこの…うん…
コメントは差し控えさせてもらいます

964 :人間七七四年:2021/08/24(火) 21:42:50.04 ID:IXgKP0fT.net
あと素人考えだけど
確かに写真を見るとかなり険峻な立地のように見えます
という事は城方からの飛び道具による抵抗が予想される訳で
攻城側としては防御用の道具を持ち込むのが妥当なのではないかと思います
まぁこの逸話に対してこんな事をいうのがそもそも野暮な話でしたが

965 :人間七七四年:2021/08/24(火) 21:44:30.30 ID:02N8vyrY.net
貴様ーっ白滝フロンティア会を愚弄するかーっ

きっと地元の有志が低予算で頑張ったんだ。自分達の手で作るから尊いんだ。絆が深まるんだ。

966 :人間七七四年:2021/08/24(火) 21:56:27.95 ID:QjdvG1QK.net
>>964
>攻城側としては〜

自覚していらっしゃる様だが、それは本当に野暮過ぎる。

967 :人間七七四年:2021/08/24(火) 22:02:00.31 ID:IXgKP0fT.net
>>966
最初のレスでツッコミはしたものの逸話の内容について物申すつもりはないけど
切り立った地形の城に対して竹束等を持ち込むのは不向きでは?ってレスに対して
いやだからこそ飛び道具を防ぐために持ち込むのでは?って思った訳だけど
どうなんですかね実際こういう時の一般的な判断って

968 :人間七七四年:2021/08/24(火) 22:18:16.83 ID:QjdvG1QK.net
逸話についてでなくて、現実的な話や提示された資料的側面について話や議論をしたいならそう言ってくれれば良いけど、攻城側の記録とか無いと何とも語り辛くない?
推測でしか言えないけど、攻める側の長宗我部軍だって遠路はるばる堅固な敵城と領土を取りに来てるんだから、備えをしていない訳が無いだろうしそれこそお前ら後世の人間に言われんでも解っとるわと冥府で管巻いてそうなもんだけど

969 :人間七七四年:2021/08/24(火) 22:36:10.75 ID:kYsNSRET.net
ID:IXgKP0fTさんに捧ぐ

\  知らんがな  /
 \  ∧_∧  /
お茶\(´・ω・)/空モト
飲ムガナ\ ∧ /ベルガナ
`∧_∧ <知>  ▲
(・ω・`)<ら> (・ω・`)
( つ旦O<ん>(((νν
と_)_) <が>  )ノ
―――-<な>-―――
知ランガナ<の> /⌒\
`∧_∧ <予>ム-=ニフ
(´・ω)<感>( n・ωn
(_゚T゚ <!!> (  ノ
 ゚ ゚̄/ ∨ \(_)_)
  /(⌒ー⌒)\
 / (´・ω・) \
/ クマさんもおるで \

970 :人間七七四年:2021/08/24(火) 22:55:34.81 ID:kYsNSRET.net
リアルな話をすると逸話に書かれてる1571年は長宗我部元親もまだ伊予に攻め込むどころではないし、一条氏を倒してから1578年くらいに大洲市の南の宇和郡に攻め入ってるからちょっと話に疑問符付くんだけどね。
でも、女性だって投擲術なら会得しやすそうだし中国地方や九州、同じ伊予でも戦国期に武装して戦った姫と女中達の話は有るんだから寄手が何処まで苦戦したとか誇張の有無は置いてもそう言う話が有っても良いとは思うし、その方が一々非現実的だと断じるよりも浪漫がある。

971 :人間七七四年:2021/08/24(火) 23:11:31.43 ID:kYsNSRET.net
戦う女性達のお話とか

四国の戦乙女の話をしよう。(※これは乙女というよりオーg)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8409.html

上野高徳夫人鶴姫・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-320.html?sp

女城主・圓久尼
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?m&no=6499

妙林尼・怖い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?m&no=156

大祝鶴姫(伊予大三島、実在には異議もあり)の鎧
https://i.imgur.com/Hf7iIit.jpg

972 :人間七七四年:2021/08/24(火) 23:21:51.30 ID:yM+0MafG.net
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1432.html
富田信高と謎の黒武者の正体・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2943.html
池田せんと女鉄砲武者

あとは甲斐姫あたりか

973 :人間七七四年:2021/08/24(火) 23:25:47.30 ID:kYsNSRET.net
この人も忘れてはかんわな

立花ァ千代の出陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html

974 :人間七七四年:2021/08/24(火) 23:29:21.40 ID:kYsNSRET.net
>>972
補足ありがとうございますー。(ひ○ゆき風)

975 :人間七七四年:2021/08/25(水) 12:15:04.83 ID:VTDV/GDD.net
お姫様が吹き矢を習得した可能性が絶対無いとは言い切れないけど
江戸時代以降に付け加えられた可能性の方が高いと思う
楊弓と同じく吹き矢も江戸時代にレジャー化したみたいだし
矢場女のような接待する女性もいただろうし、女性と吹き矢は
結びつけ易かったんじゃなかろうか

976 :人間七七四年:2021/08/25(水) 16:22:36.88 ID:ZCh/aGIX.net
>>971
他の姫武将はともかく、大野芳我台だけはこのイメージ
https://i.imgur.com/z3vDLT4.jpg
https://i.imgur.com/k6AeDBp.jpg
https://i.imgur.com/3g2Z77P.jpg

977 :人間七七四年:2021/08/25(水) 16:38:54.52 ID:Ke0YwgY6.net
そういうお話だと、これの逆井智姫もじゃないかなあw
鐘の重さが80〜200キロの怪力とのこと

そしてこの故事を海外研究者がイラスト化したものである
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12461.html
https://blog-imgs-141.fc2.com/i/i/w/iiwarui/575049f99c6ba2530c812df5a062aeb7.jpg

978 :人間七七四年:2021/08/26(木) 10:27:58.89 ID:ASZi8ZQ+.net
女性と鉄砲よりは親しみやすかったんだろうね

979 :人間七七四年:2021/08/26(木) 10:35:30.13 ID:0CgjVLj9.net
>>977
https://f.hatena.ne.jp/keiseiryoku/20120604001348

漫画のキャラを例えに出してまたアレだけど、ミオスタチン関連の異常を持ってた女性だったりして。

980 :人間七七四年:2021/08/26(木) 11:14:47.24 ID:kjMLQ0Zb.net
お話の真偽はともかく、別にお姫様が吹き矢やっててもおかしくはないぞ。
修行でも偉い人相手に家来が打ち込んだり投げたり、ってのは憚られがちだから
身体の接触を伴わない武芸をやることは多い。

981 :人間七七四年:2021/08/26(木) 12:29:20.69 ID:zQ1bRqzW.net
逸話としては姫の孤軍奮闘大活躍だけが前面に出過ぎてるから荒唐無稽・後世の作り話と推測されたのも仕方なくは思う(合戦時期の齟齬もあるし)。
実際には防戦する兵達に混じって戦った1人の活躍を焦点絞って記録したものと思えばおかしくはないと思うし、
旅して剣術指南してた人もいたり今より習い物の選択肢も少ない乱世の時代だから、落ち着いてる平時には姫や周りの女性達が有事に手軽に自分達を守れる方法として何かしら武技を学んだ可能性だって考えられるよね。

982 :人間七七四年:2021/08/26(木) 15:00:57.75 ID:e31HGtJg.net
天正元年二月、徳川家康公より植村與三郎を使者として、上杉謙信公に仰せ寄越された内容は、
去る冬の極月(十二月)二十二日、遠州口三方ヶ原での合戦で勝利無きに付き、武田信玄は
勝ちに乗って東三河に発向してきたため、謙信は信州へ働き、甲州までも攻め入って頂きたい、
との事であり、その書状、並びに備前守家の刀が進上された。その刀の異名は徳用と号した。
謙信よりも音物が贈答された。
信玄が三州岡崎の城に攻め詰めれば、謙信は信州より甲州へ取り掛かるという旨の約諾が有った。

その頃信玄は東三河へ攻め入り、菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正が籠もる野田城を攻め落とし、
両大将を生け捕った。しかしその砌、城方の鉄砲烈しく、信玄は大事の所に鉄砲によって負傷し
(信玄大事の所に鉄砲手を負ひ)、その疵が腫物となって気分次第に快からず、四月十二日に
三州・信州の境である浪合にて逝去した。武田はこれを秘して喪を発せず、病気であるとして
死骸を守護して、甲州勢は残らず退散した。

その夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者として、信玄が死去したと越府に注進があった。

伝に曰く、この氏政の口上を本庄清七郎取次にて披露した時、謙信は膳に向かって飲食していた。
信玄死去の情報を聞くと、箸を捨てて手を打ち、

「合戦の能き相手を失い、さてもさても力を落とした。その上信玄は世に稀なる英雄名将であった。
残り多く、情けなきことである。」

そう言って数行の落涙をしたという。

(太祖一代軍記)

武田信玄の死去について。ここでは野田城攻めの時銃創を受けたため、という説なのですね。

983 :人間七七四年:2021/08/26(木) 17:58:22.35 ID:j/dhOPJq.net
天正元年六月の長尾憲景宛書状では
信玄が死んだため、信長・家康は駿河に進むだろうし
関東平定も実現の見通しがつき、越中も思うがままになってきたと
喜んでいるそうだが

984 :人間七七四年:2021/08/26(木) 21:47:04.64 ID:EKAhKpsG.net
長年の宿敵と踏んでたし人柄的にも信玄って謙信が嫌いそうなタイプだし
訃報を聞いた時は喜んだってのが事実じゃないかとも思う
でも信玄ほど歯ごたえがあって正面から闘ってくれる相手もいないから
後々になって信玄の死を惜しんだとかはありそう

985 :人間七七四年:2021/08/27(金) 15:55:22.08 ID:2w20CCI8.net
天正二年三月、上杉謙信公に対し、織田信長公より両使を以て、洛中洛外の図の屏風一双、
源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳の筆にて、極彩色であり、これを謙信に進上した。
殊の外の懇志であった。

然れども謙信は、信長が色々な手立てを以て上杉領内に手遣いがあることに対し、書礼を遣わし、
信長が表裏ある事を責めて、手切れの旨を申し遣わした。
これに信長は、何者かの讒言によってこのようなことになったのだと様々に陳謝したが、謙信は
用いなかった。

(太祖一代軍記)

洛中洛外図屏風(上杉本)についてのお話

986 :人間七七四年:2021/08/28(土) 10:07:39.68 ID:c9ZQ43xS.net
ジタジタ峠

またはジダジダ峠。ジタジタというと鹿児島弁でじめじめ。じとじと。湿気のあるさま。を指すというが今回は
南信濃のお話。

天文11年(1542年)に諏訪頼重が武田信玄に滅ぼされたのち、武田家の軍門に下って従属した下伊那郡の
諸領主であったが天文22年(1553年)に村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けて長尾景虎が川中島へ攻め入ったことで
信濃先方衆として当地の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

天文23年(1554年)4月、秋山信友は川中島から戻って知久氏らの説得にあたったものの使者が斬られるに至り遂に
武田と知久氏・座光寺氏らによる戦いとなった。秋山信友率いる三千の武田軍は鈴岡城の小笠原信定を破り、
知久氏もよく戦ったものの頼元の嫡男・頼康が討ち取られ、居城の神ノ峰城へ籠城することとなる。

この時、神ノ峰城の攻略を任されたのは山本勘助であった。勘助は神ノ峰城と玉川を挟んだ対岸の峠に立って城の様子を
伺った。
( ゚Дメ)「この城を力攻めするのは良くないなぁ」
( ゚Д゚)「そうっすね」

( ゚Дメ)「水を断って城内を干上がらせるために城から玉川へ降りてくる道に兵を伏せ、城兵が水を汲みに来たら討ち取るのだ」
( ゚Д゚)「そうっすね」

それから5〜6日、何事もなく日々が過ぎるのみだった。

( ゚Дメ)「城の奴らは全く川に出て来ないのか?」
( ゚Д゚)「そうっすね」         

( ゚Дメ)「どういうことだ?」
( ゚Д゚)「知らんがな」

奇異に思い峠に立って城の様子を伺う勘助であったが、その時峠から見える神ノ峰城の出丸にある篝岩では城兵が集まって馬を洗う姿が勘助の目に映った。
城兵達は勘助が玉川に兵を置いていることはお見通しだったのである。また、この時馬を洗っているように見せたのは白米を流してその様に見せかけていたのであるが・・・

     (`Дメ ∩ < う わ ぁ あ あ あ あ あ ん!!!城内水いっぱい有るじゃねーか!時間無駄にしちゃったー!!!
     ⊂   (
       ヽ∩ つ  ジタジタ
         〃〃

と、勘助はジダジダ(地団駄)を踏んで悔しがり、そこにはそれ以降草木が生えなくなったという。
このためこの場所をジダジダ峠と呼ぶようになった。

参考サイト
飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html
南信州お散歩日和
https://blog.nagano-ken.jp/shimoina/culture/50.html
城の記2.0 ジタジタ峠(当地の看板の文書あり)
https://blog.goo.ne.jp/yuukatan/e/ee59adb20120c70bdae3e30c6ce372fd

山本勘助の神ノ峰城攻略についてはまたその内・・・
今宵はこれまでにしとうございます。

987 :人間七七四年:2021/08/28(土) 12:19:19.41 ID:6DSNrvBI.net
米国民主党に村を焼かれた人が大人気のようで結構結構w
表に出られなくなった呉座に一切触れずに、こっちを称賛する歴史研究者界隈のスタンスがわかるというもの

988 :人間七七四年:2021/08/28(土) 13:15:28.76 ID:c9ZQ43xS.net
>>986追記
城内の頂上から少し降ったところにある上久堅郷土歴史資料館の近くには御手洗池(みたらしいけ)があり、この池は干魃でも水が枯れないと言われ今も清水がこんこんと湧いていると言う。

白米城伝説は残っているけど、実際には水にあまり困ってはいなかったかも知れない。

989 :人間七七四年:2021/08/28(土) 13:46:34.99 ID:U86npejz.net
>>987
そりゃただ単に呉座氏が新刊出してないから話題にならないだけですよ。
出せないでしょうが。

そういうのは他所のどっかのネットヲチスレとかでやりましょう。
ネトウヨ煽ろうかと思ったら逆襲されて鍵垢逃亡なんてクソダサ過ぎてよく生きていられるな、というのは同意します。
そういう強いメンタルでなければ生きていけない世の中だろうし、
本人の評価は人格ではなくその業績だけです。

990 :人間七七四年:2021/08/28(土) 14:04:23.78 ID:WfPXgI+H.net
生田勇人(39)
高知市朝倉中学校卒業
恐喝と暴行、偽証、傷害容疑で逮捕、起訴。
togetter.com/li/1227954
pbs.twimg.com/media/DbUOGw1VQAAqJcx.jpg:large
i.imgur.com/tuUldwv.jpg
www.youtube.com/watch?v=UyNXI8usCrM
取り調べで「事実無根」と容疑を否認。
卓球所に松岡学(39)と出入りし賭け試合を被害者に強要、一回ミスったら1000円払えと発言。
2万円を取ろうとした。親にチクったらただじゃ済まんぞと被害者の胸倉をつかみ壁の隅に叩き付け
1分間つかみ続けた。2000円を脅し取り、後日腹を殴った疑い。
生田勇人の両親も被害者の親にたかっており親子でたかっていた疑惑がある。

991 :人間七七四年:2021/08/29(日) 01:27:52.83 ID:yFDY/hbU.net
仏さんに閉門を申しつけた男

愛媛県今治市に伝わるお話。
昔、町谷の歓喜寺の近くの街道に小さなお堂があった。そのお堂には河野源六とその一族の供養塔が祭られていた。

だが、当の河野源六がそのお堂の前を馬に乗って通ると何故か決まってそこでだけ必ず落馬してしまうのであった。

ある日、遂に腹を立てた源六は仏さんに向かって

「閉門申しつける!」

と叫んで2枚の板を持ち寄り、お堂に×の字に板を打ち付けた。これ以降源六がこのお堂の前で落馬することは無くなったと言う。

お堂のあった場所の街道はは今では狭いあぜ道程度の細さとなってしまい、この場所にあったお堂や河野一族の供養塔は撤去されて歓喜寺に移され、跡地には『河野源六一族之墓跡』(昭和三十四年十一月建立)と言う石碑が建っている。

実際は、宝篋印塔で供養塔の一つだが、歓喜寺に移す時に人骨が多く出たということでお墓として祭られているのだそうだ。

源六の経歴については一切わかっていないが、歓喜寺には『源光院徳巌圓智居士神像』(表)『じ大永七丁亥十一月九べい河野苗裔俗名源六』(裏)と書かれた位牌ががあるため、相当身分の高い武人であったと推定され、大永七年(1527)に亡くなったとされる。
(参考サイト:今治市商工会)

ちなみに、この河野源六通明は下記参考サイトによると大宇多山城の城主であったそうで、そちらで紹介されている文献では中国勢の武田家や小笠原家の攻撃を受けて城は落城したものの、その後も原野で敵を相手に戦い続けた源六であったが、遂には馬より転んで落ちて戦死したのだと言う。


参考サイト
今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話44)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu

古山城・今治市朝倉上 大宇多山城跡を歩く@
https://ameblo.jp/girou88/entry-12653243759.html

992 :人間七七四年:2021/08/29(日) 06:53:45.25 ID:WSNlkNfl.net
藤原廣當 筆
https://www.touken-world.jp/search-calligraphy/art0002110/
落馬した金砕棒を持った武者が敵の一太刀を首に受ける瞬間が描かれている。

993 :人間七七四年:2021/08/30(月) 16:48:24.64 ID:c3/hkbdL.net
天正五年十一月七日、柿崎和泉守景家父子四人が上杉謙信公によって誅殺された。
これは三年前に、良馬を京都へ売りに家臣を遣わした折、これを知った織田信長公は手を打って
大いに悦び、「上杉君臣を離間する手段これに有り」と、則ち馬代を十層倍で買い取り、
さらに信長公は自筆を以て

『今度差し上げた馬は近頃まれに見る俊足にて、大悦これに過ぎる事は無い。
ところで伝え聞くに、北国には鷹の逸物が有るという。そこで巣鷹を所望したいと思っており、
必ずこれを調えてほしい。』

との書翰が柿崎に届いた。彼はこれを真と思い、度々に鷹を買い調えて信長へ進上した。
しかしこの事が顕れると、信長と内通し逆心するのではないかという事で、謙信公は
平賀宗右衛門、吉江中牟、本庄越前守の勢七千にて柿崎の屋敷を取り巻いた。

これに柿崎和泉守、並びに男子三人、手の者七百ばかりが切って出て、二時あまり戦い
屋敷へ引き籠もった。打ち手は数十人が討たれ、手負いの者は数知れなかった。
その後、遂に寄せ手は屋敷に乱入し、柿崎父子四人は討たれた。

柿崎は越後の国侍で、久しき家であった。

(太祖一代軍記)

史実としては柿崎景家は天正二年十一月二十二日に病死していて、その息子の柿崎晴家
が天正五年に、織田へ内通したとして謙信に誅殺されたという話があるので、これが混同
されたのでしょうね。

994 :人間七七四年:2021/08/30(月) 17:01:08.97 ID:6Q5xQ9CT.net
ちなみに柿崎氏についてはこういうのが

旧上杉家臣は明治以後に屯田兵他で北海道移住した家があり、現在でも北海道に子孫が残り
自家に伝わる古文書を守っておられる例も多いとか

山本勘助の件で有名な市河家も同様ですね


上越市公式サイト2016年8月23日
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/kakizakikemonzyo.html
柿崎家文書について

上杉謙信の重臣柿崎景家の家に伝えられた古文書80点あまりが、北海道在住のご子孫から上越市へ寄贈されました。

慶長3年(1598年)に柿崎家が上越を離れて以来、約400年ぶりの里帰りです。

柿崎家は、戦国時代に上越市柿崎区一帯を支配していた国衆柿崎氏の末裔です。上杉景勝の会津移封に従って上越を離れたのち、
子孫は江戸時代を通じて米沢藩士として過ごし幕末を迎えます。明治時代には北海道開拓のため厚岸へ移住し現在に至ります。

柿崎家に伝えられた古文書の総数は約200点。そのうち戦国時代から江戸時代までの80点あまりが上越市に寄贈されました。
戦国時代の文書10点は、実際に柿崎家が上越で受け取った上越ゆかりの貴重な古文書です。

今後は永く公文書センターで保存し、後世へ伝えていきます

995 :人間七七四年:2021/08/31(火) 00:46:01.53 ID:ik3gw1m9.net
次スレ行ってみる

996 :人間七七四年:2021/08/31(火) 00:47:55.47 ID:ik3gw1m9.net
出来た。ここ埋まったら移動してください

戦国ちょっと悪い話49
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/

997 :人間七七四年:2021/08/31(火) 23:04:19.68 ID:f6XXyc02.net
今治城の石集め

関ヶ原の合戦の戦功で戦功で宇和島8万石に今治12万石を加増された藤堂高虎であったが、
従弟の藤堂良勝を板島丸串城(宇和島城の旧名)の城代に任じ、自身は今治へ居を移すと
慶長7年(1602年)より渡辺勘兵衛を築城奉行、現地の武士である木山六之丞を普請奉行
として今治城の築城を開始した。

この時、最も苦労したのが石垣づくりのための石材集めとその搬入であったという。
これに対し藤堂高虎は一計を思いつく。

「石を持ってくれば米と交換する」

こうお触れを出したことで、人々は船や生竹で編んだ筏に沢山の大石を積んであちこちから築城現場へと
持ち込んだ。高虎はある程度の石が集まったのを見計らうと

「石はもういらね。捨てるのも構わぬが海中へ捨てられては船の航行に邪魔となるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」

こう命じた。船頭たちは持って帰るに持って帰れず、仕方なく海岸に石を積み上げ放棄して各々帰っていった。

さて、船頭たちが居なくなったのを見計らった今治築城班はさっそく捨てられた石を城づくりに活用し、彼らの努力と
石を運んできた船頭たちの献身もあって今治城は着工からわずか2年で完成を見たという。

さて、この逸話であるが福島正則が慶長7年(1603)年から築城を開始した海に面する今治城と似た構造の広島の小方城(亀居城)
にも全く同じ逸話がある。
自分が3年ほど前に投降したので藤堂高虎にも全く同じ逸話があったので驚いたのだが、隣国の大名で徳川寄りでもあるし、
ひょっとしたらこの今治城の成功体験を藤堂高虎公が福島正則公とシェアしたのかもしれない?

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11124.html
大竹市歴史研究会(亀居城)
http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話96)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu

998 :人間七七四年:2021/09/01(水) 07:28:05.64 ID:DcNHd35T.net
>>997
×関ヶ原の合戦の戦功で戦功で→大事なことなので二度
× 自分が3年ほど前に投降したので→投稿

999 :人間七七四年:2021/09/01(水) 09:02:52.74 ID:qPtZ/9Je.net
戦国スレだから投降に違和感なかった

1000 :人間七七四年:2021/09/01(水) 10:48:27.35 ID:nYs+3tc9.net
>>999
許せなかった…自分の書き込みが誤字だらけだなんて……!!

まぁもうそのままで良っか

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

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