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【劉備】 漢中争奪戦 【曹操】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 14:10:45 ID:4+a9Ykwc0.net
三国志の両雄である劉備と曹操の直接対決が実現した、漢中の争奪戦について語りましょう。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 23:51:22 ID:H5k+33C1O.net
W爺ちゃんサイコーだお。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 00:27:26 ID:tu5YB08B0.net
この時点では、もう2人とも老雄って感じだね。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 01:30:23 ID:Y1FHhV+CO.net
劉備の一番全盛期のときだな
補給の諸葛亮
策謀の法正
武勇の張飛、馬超、黄忠、趙雲
など人材もそろってた
その後の没落ぶりと比べると・・・・・・

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 17:17:48 ID:DiFLOyVL0.net
いささか板違いな気もするが、三戦板の過去スレから基本的なデータ

【曹操 「鶏肋」】 漢中 【劉備 「生命線」】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1150725214/2,6,10,15

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 17:25:10 ID:DiFLOyVL0.net
> 2 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/19(月) 22:54:27
> 215年
> ・7月、曹操、張魯討伐。張魯は巴中に逃亡。
> ・劉備、この事態を聞き、孫権との荊州を巡る争いを中止し和議を結ぶ。
> ・11月、張魯、曹操に降る。
> ・劉備は黄権の進言をいれ、張魯を迎えに黄権を派遣するも時既に遅し。
> ・12月、曹操、漢中に夏侯淵を留めおき、帰途に着く。
> 216年
> ・2月、曹操、鄴に到着。
> ・夏侯淵、下弁の氐族や羌族を討つ。(この辺、時系列がちょっと微妙)
> ・張郃、巴中を荒らすも張飛に撃退される。
> 217年
> ・法正、漢中侵攻を進言。
> ・劉備、張飛・馬超・呉蘭らを下弁に派遣し、曹操はこれに曹洪を当てる。
> 218年
> ・劉備、漢中に進軍。
> ・呉蘭が曹洪に打ち破られ、張飛らは漢中に撤退。
> ・劉備は陽平関に布陣し、張郃は廣石に布陣す。
> ・劉備、張郃の陣に夜襲をかけるも防がれる。
> ・7月、曹操、劉備討伐の為、鄴を出発。
> ・9月、曹操、長安に到着。
> 219年
> ・正月、劉備、高翔を留め置き南進。沔水を渡り、山に沿いつつ前進し定軍山・興勢に布陣。
> ・同月、夏侯淵、定軍山に攻勢をかける。
> ・法正、これを討つべしと進言。劉備、黄忠を高所に配す。
> ・劉備、夏侯淵の陣に火を放つ。東を守る張郃が不利になったので、夏侯淵は兵を分けこれを助成させる。
> ・劉備、黄忠に攻め立てさせ、夏侯淵らを斬る。
> ・夏侯淵の司馬郭淮は敗軍の兵を集め、張郃を立て漢水を挟んで劉備と対峙。
> ・曹真、陽平を守る高翔を破る。
> ・3月、曹操、陽平に到着し劉備と対峙、曹真は下弁の曹洪らを回収。
> ・劉備は山に立てこもりこれに抵抗。
> ・5月、曹操、軍を引き上げ長安に帰還。
> ・秋(7月〜9月)、劉備、漢中王即位。


7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 17:26:32 ID:DiFLOyVL0.net
> 6 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/19(月) 23:13:02
> 2に補足
>
> ・山に立てこもる劉備は劉封に山を下りて曹操に戦いを挑ませた。
> →上庸侵攻中の孟達のもとに派遣されたのはこの後?
> ・趙雲の黄忠・張著救出、曹操の大軍に対して空城の計などの活躍。
>
> 上二つはいずれも注ながら劉備も単に山に立て篭もっていただけでなく、結構やってたのが窺える?

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 17:27:56 ID:DiFLOyVL0.net
> 10 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/20(火) 11:19:24
> 建安二十三〜二十四年にかけての漢中攻防戦における両陣営の参加武将
>
> 劉備側
> ☆確実
> 劉備、法正、黄忠
> ☆まず確実
> 張飛、馬超、呉蘭、任夔→下弁攻略失敗の後、漢中へ。なお呉蘭、任夔は戦死。
> ☆多分
> 劉封→任城威王彰伝注より。
> 趙雲、張著、張翼→趙雲伝注より。
> ☆可能性あり
> 魏延、楊儀、劉巴、黄権、呉懿、呉班
>
> 曹操側
> ☆確実
> 曹操、張郃、郭淮、曹真、徐晃、夏侯淵(戦死)、曹洪、曹休(曹洪と曹休は下弁)
> ☆まず確実
> 張既
> ☆多分
> 楊脩→武帝紀注より。
> ☆可能性あり
> 劉曄、于禁
>
> あとはちょっとわからないので補完よろしく。
>
> 15 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/20(火) 15:55:49
> > > 10
> ざっと見たけど、
>
> ・劉備陣営
> 高翔
> 陳式
>
> ・曹操陣営
> 趙顒
> 杜襲
> 夏侯栄(淵・五男)
>
> が抜けてる。
> 可能性としては朱霊も。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 23:14:20 ID:gvAZl7lL0.net
>>6
張魯って、どちらの陣営も勧誘しようとしていたんだね。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 23:44:13 ID:z2Cr7Hb00.net
劉備がその人生の中で一番輝いた時だな。



11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 23:52:18 ID:09SMEaOO0.net
これが関中争奪戦だったら、
その後も変わっただろうねぇ。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 23:22:29 ID:ARwXX2Z70.net
蜀が関中も奪っていたら、その後どうなっただろうか?
魏は何が何でも、関中だけは奪回しようとしたかな。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 18:20:07 ID:hfNbwkI7O.net
>>10
逆に曹操はむーざんなほど衰えが見えて痛々しいね
漢中に残す将の選択といい

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 18:30:49 ID:8Qowvdwb0.net
>>12
関中は篭るのに易いから、無理押しはしないんじゃない?

>>13
淵は拠点防御には向かないよね。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 23:15:49 ID:ojcNA8GS0.net
淵は拠点防衛ではなく、のちに蜀にせめこむために置かれたんじゃないかなあと考えている。
だいたい向き不向きでいったら、騎兵指揮官である張遼が合肥の防衛に向いているとは思えん。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 23:32:21 ID:nEjzdZX20.net
>>15
張郃は巴中に侵攻してるしな。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 23:46:28 ID:qs15dPtQ0.net
>>13
曹操はまあ死ぬ直前だったしね。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 18:40:47 ID:C+0zULNSO.net
この戦いで劉備が負けてたらどう状勢は動いただろうか?


19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 19:23:39 ID:s6MKawVhO.net
>>18
今度こそ曹操は蜀になだれ込み、
呉は荊州を奪い、
曹操が全土を従えたという勲章を胸に禅譲を受ける

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 19:47:21 ID:pjQ3QQp30.net
【読売新聞1月14日】
自国を高評価
中国人は自ら「中国はアメリカに次ぎ世界で2番目の影響力を持ち、
10年後にアメリカに追いつく」と信じている。日本、アメリカ、
中国、インドの四カ国の6649人を対象にした意識調査で、こんな
結果がでた。
調査は国際経済交流団がシカゴ地球問題評議会と共同でおこなった。
それによると中国人が影響力のあると思う国は、1位:アメリカ 
2位:中国 3位:ロシアで日本は8位だという。
なお、中国の影響力について日本人は5位、アメリカ人は3位、
インド人は5位と位置づけていた。


http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070114i201.htm
↑ソース

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 20:12:01 ID:C+0zULNSO.net
両軍の軍勢ってどれぐらいだったのだろう?
曹操軍は数十万ってのをどこかで見たな。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 23:33:56 ID:bfRcKxn80.net
曹操の軍勢の方が兵力の上で優勢だっただろうけど、
そんなに多くは動員してないんじゃないかな。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 13:35:48 ID:gVYNpYSH0.net
>>15
司馬懿の進言退けたり、漢中に執着しなかったことを考えると、それは・・・・。

>>21
マジレスすると、
魏の蜀討伐の時の動員兵力 二十余万
西晋の呉討伐の時の動員兵力 二十万ほど

曹操の時期は政権が不安定で、「漢朝再興」の大義名分を掲げられる恐れがあるから、
とてもとてもそんなに兵を用意出来たとは思えない。
(関羽の北上で魏王国は戦略的に揺らいでいる。魏諷の反乱未遂なども含めて)
曹爽が、六、七万の兵で蜀討伐を画策したとき、逃亡者が出たというし、
兵站の問題から考えても厳しそう。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 15:09:27 ID:/dny6RAj0.net
数万人の範囲内で、
曹操の方が、兵力では劉備よりやや優位といったところかな。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 21:07:40 ID:2dmnVTXq0.net
蜀は10万が北伐用で漢中あたりに駐屯
残り5万くらいが四川盆地と永安・南蛮あたり
にいる感じ、

魏が対蜀・呉用で20万+20万、内地や北方辺境地域を含め30〜40万

呉はわからんので大体蜀の2倍弱くらいだから

蜀が14万+魏が70〜80万+呉が20〜30万弱くらい、どう考えても



26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 23:33:05 ID:Ov2VhAAJ0.net
全部合わせて100万人以上?
100万人を超す兵力を保持できたかな、あの時代に。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 10:49:46 ID:8+ywPF2S0.net
少なくとも、最大、動員出来た兵力は
魏−鍾会の蜀討伐から二十余万
呉─諸葛恪の合肥新城攻撃を見るに二十万
蜀─よくわからんが、十万が限界だったと思う。

というか、魏にそんなに兵力あったなら、
孫権が合肥に攻めることも、諸葛亮が北伐することも無かった筈だ。
215年に合肥の兵力が七千で、張遼が奮闘したり、
228年の第二次北伐でカク昭が篭城・奮闘する光景は信じ難い。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 20:31:41 ID:v/ODXrh/0.net
魏、蜀、呉共、政権としての支配能力が、大きく落ちているからね。
領内の人口を十分に把握できていない。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 23:36:17 ID:5pQWJ/5H0.net
これが、漢中じゃなくて関中ならなぁ…

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 23:56:35 ID:eGqDZe1f0.net
関中争奪となると、かなり盛り上がるね。
諸葛亮の代わりに劉備が北伐を行うと考えれば。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 01:06:43 ID:OHl5x/oWO.net
劉備の北伐かー
なんか大勝するか大敗するかになりそうだな

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 18:25:08 ID:fEyXJ+Pn0.net
>>31
劉備は彼我を良く見極める将軍なので、劣勢と決まればまず撤退する。
(根拠地得るまでは、開戦前に逃亡したことが殆ど)
夷陵が例外なんだよ。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 23:27:39 ID:INpdK2G90.net
超一流には負けてるけど、劉備はかなり強いよ。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/30(火) 23:55:47 ID:jacbRNNr0.net
何だかんだで、三国の一角を形成したわけで、
弱かったら、ああはいかんわねえ。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/31(水) 16:17:10 ID:9q3s6ijM0.net
漢中の人口生産力はどんなものかな。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 23:14:39 ID:+L+nj30P0.net
漢中は風土的には、関中より蜀に近いんだよね。
でも、関中側の方に付属することが多い地域。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 04:21:34 ID:Zl3lejos0.net
漢中を蜀に附属させちまうと独立されるからな
玄関口を関中とセットにしておかないと危険

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 21:56:32 ID:7N8tepaf0.net
粘り強さは曹操より劉備だと思う

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 12:20:41 ID:j3734IKkO.net
それ馬鹿でもわかるだろ。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 13:57:28 ID:uzFoeNK10.net
スペルマの粘り強さはな

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 20:08:27 ID:QqhT+slP0.net
漢中を押さえると、やっぱり蜀へ攻め込むのに決定的に有利になってしまうのか?
逆に押さえておけば、蜀の安全は一挙に高まるとか。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 17:12:40 ID:E860yhfv0.net
>41
そりゃそうだよ。
漢中は物資集積所として機能できるだけのインフラがあるからな。
中原から入蜀するにしてもここを無視して迂回しようとしても後続の輜重が断絶してしまうよ。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 05:42:10 ID:162yLwmk0.net
漢中という地域は、意外と昔から開発が進んでいた地域になるのかな?


44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 11:27:26 ID:TqrnEcDEO.net
曹操の代で漢中と江陵をしっかり維持出来ていれば、曹操の寿命が足りなくても統一が早まったかもね。
漢中の夏侯淵や江陵の曹仁が合肥の張遼くらい頑張ってればって思うことがある。
どれも南方への橋頭堡なんで、バックアップを含め維持するのが困難なんだけど、それが出来るか出来ないかで地方政権か統一政権かに別れるね。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 03:23:46 ID:KHzoIZeZ0.net
ただ漢中は曹操が支配したあと住民数万を強制移住させたから劉備が取ったあとは不毛の地になってたとどこかで聞いた

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 23:53:29 ID:ZtyCdL9v0.net
生産力による収益より、戦略上の要地としての意味合いが強かったのかな。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 00:35:18 ID:lnxJqA4n0.net
例え無人の土地でも、漢中確保は四川の安全保障に直結する。
魏に漢中経営の旨みは無くても、劉備たちにとっては四川の味を引き出す為の出汁として使える。
まさに鶏肋。曹操の指摘は実に正鵠を得ている。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 17:28:14 ID:AU2c76Hm0.net
正鵠を得るという言葉遣いは正しい。

簡略化で、正鵠が的に変化したなら、
的を得るって言葉遣いも
あながち間違いじゃないと思うんだ、おれは。


49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 21:18:47 ID:51pIk//g0.net
学研M文庫「世界戦史〜歴史を動かした7つの戦い〜(著:有坂純)」
Y 漢中争奪戦 P209~210より引用

>三国鼎立を生んだ劉備会心の戦い
>魏呉蜀三国鼎立の戦乱時代が到来した。
>蜀(益州)の制圧を狙う曹操に対し、軍師諸葛亮に兵站指揮を委ね、要地漢中へと進軍する劉備。
>主力を率いて、勇躍出陣した。

>後漢帝国の事実上の崩壊の後、魏・蜀・呉三国によって争われた約一世紀にも及ぶ戦乱の時代は、
>羅貫中が完成させた偉大な創作『三国志演義』のおかげで、
>あるいは関羽、趙雲、張遼を始めとする豪傑たちが干戈を交え、
>あるいは諸葛亮、司馬懿、周瑜らの軍師たちが智略を搾る、
>言ってみればはなはだ個人的な英雄の戦いであったかような印象が一般には浅くないであろう。
>しかしながら、三国時代の戦争の根幹は、他のほとんど全ての戦争においてそうであったように、戦略と兵站であった。
>ことに、社会経済の崩壊と戦禍によって荒廃した広大な漢帝国領内に、
>数万規模の兵力を作戦せしめるためには、きわめて入念な兵站計画が必須であった。
>例えば官渡の戦役(一九九〜二〇〇年)では、
>曹操軍に対して兵力に優る袁紹軍は、後背を衝かれ集積所を破壊されたことで、全軍がたちまち総崩れとなった。
>逆に赤壁の戦役(二〇八〜九年)においては、
>給養の欠乏と気候風土の違いにより、北方人である魏軍の将兵の間には疫病が蔓延した。
>補給線の関係から、曹操は兵力を長江沿いに広く分散させざるを得ず、
>そこを蜀・呉連合軍に急襲され、水軍を撃滅され危うく脱出生還路まで失うところであった。
>今回、物語られることになる漢中の戦役(二一八〜九年)は、
>劉備の蜀による益州の確保と荊州の喪失という二つの重大な事件を時系列的につなぐのみならず、
>それら両事件の戦略的な背景を説明する上で欠かすことの出来ない戦いである。
>そしてこの戦いにおいても、終始、戦場を支配していたのは個人的な武勇や智略ではなく、
>冷たい兵站の論理に他ならなかったのである。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 22:54:00 ID:/fmPpwFG0.net
良書だが全てを転載する必要ある?

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 10:49:08 ID:fslYCW750.net
>>50
有る
読んでみたい

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 14:21:52 ID:Gs9clL4R0.net
>>51
そうか。じゃあ自分で買ってくれ。
紹介のつもりで、さわりの部分だけ転載した。

結論を簡潔に言うと、
劉備は曹操に匹敵する指導者。
法正と諸葛亮はそのポテンシャルを完全に引き出す最良の両翼。
この両名が揃っていた時期の蜀軍は、
劉備本来の統率力に、法正が戦術的な柔軟性を加え、孔明が戦略的な持続性と直接的な大兵力を与えた最強布陣(テラモエス
漢中戦役は「戦争で戦争に勝つ」孔明戦略の白眉。(つまりマトモに蜀軍が魏に対してやった最後の戦争ってことだろう)
また関羽は先鋒や留守番としては優秀だけど、(あの当時の荊州の)司令官としては武骨一点張りでは失格。
荊州失陥〜夷陵の敗戦以後の孔明は「戦闘で戦争に負けない」型の戦争指導を強いられた。
何故なら、半年で天下三分が崩壊し、主力の大半が夷陵で戦死したので、北伐は最初から成功する訳ない。
機動防御としての戦争を企画し、準備し、実行出来るだけで既に神、という孔明を称える内容。
戦術面はともかく、戦略面、兵站面、外交面(赤壁の前後での対呉同盟の成立など)は最高の評を孔明に与えている。
余談だが曹操は漢中戦役の一年後に死んでいる。(劉備が夷陵で敗れて一年後に病死している様に)
という内容だった。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 14:35:30 ID:Gs9clL4R0.net
付け加えておくと、荊州という出城と関羽の部隊があった為に、
曹操は往還の手間で軍隊が機能不全に陥るのを恐れて、
宛洛周辺の軍隊を漢中戦役に投入出来なかった。
だから力を出し切れなかったので負けて、天下統一を諦めざるを得なかった。
消え方があっさりすぎるが、
兵站拠点を電撃的に衝いて関羽の部隊を無力化した呂蒙が優れているのであって、
過大評価でも何でもなく当時の魏呉にとって関羽は脅威の対象だった。
このことからやはり関羽は天下三分における必要不可欠な一上将と言わざるを得ないだろう。
適切な判断力を持った補佐を欠いていたのが惜しまれる。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 04:38:21 ID:LLbjgBwbO.net
上げ

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 23:26:50 ID:qTQrBQ8d0.net
目に付く資料だけをみると果たして補佐の意見を聞き入れる力があったのかどうなのか判断できないからね

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 08:48:04 ID:5xGTreOv0.net
そうかもしれないけど
法正の意見には耳を傾けていたのではないでしょうか?

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 10:39:14 ID:5Oplyo7b0.net
孔明(荊州強奪)は無視して法正(蜀強奪)の意見には耳を傾けたのは、劉備。

関羽は逆に、孔明の意見には耳を貸しそうな気はする。
ただ、戦略・戦術面での進言を劉備が無視したように、
関羽もその方面では無視するかも知れないが。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 11:23:34 ID:5xGTreOv0.net
劉備は黄権にも耳かすよね

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 12:38:42 ID:vyUb09rN0.net
曹操が劉備に敗退した後、作戦を考えたのが法正だと聞いて「劉備があんな作戦を思いつくとはオレも思ってなかった」とのたまわった
これは負け惜しみなのか、それとも劉備本人の作戦能力はその程度だったのか?

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 13:07:22 ID:5xGTreOv0.net
曹操は、劉備は私と同じだが考えるのが遅いと言っているようだからじゃないか?

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 16:27:41 ID:/v/LzJsE0.net
自分と同じ思考だが行動が鈍いと思ってたやつが、
その時に限っては何もかも先手を取って、
今までどおりなら崩れて逃げてたような劣勢を跳ね返す粘り腰を見せたのだから当然だろう。
その時の曹操の評価は「作戦立案:誰某(法正)>曹操≧劉備>>他」の模様。
それくらい振り回し方が違う。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 20:23:53 ID:u31nra34O.net
そう考えると法正ってなかなかの策士だね
そのわりにはマイナー

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 22:20:58 ID:/v/LzJsE0.net
法正は作戦だけ、劉備は指揮だけ、曹操はその両方。
だが法正の作戦を採択できるくらいには劉備も優秀なので素晴らしいコンビが出来上がる。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 23:43:40 ID:sX0x4kZS0.net
劉備も法正と同じ作戦を考える事はできる。
ただし法正の方が遥かに速く具体的に立案できる。
劉備は法正の進言とその時点では漠然とした自分の考えを照合し速やかに決断できる。
法正からすれば劉備に進言すると即座に自説を完璧に理解してくれるので大変嬉しいだろう。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 01:02:07 ID:rTbI/Ux70.net
そうだな。大いにそう思う。
しかし、法正の立案の異常な速度は益州限定かもしれん。
情報収集の手間が無いのだから(あるいはそれまで用意していたか)、
劉備や曹操より先手を取れるのも当たり前だろう。
だからもう少し法正が長生きしていたとしても、曹操を直接倒すまでは至らなかったかもしれない。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 15:07:51 ID:0nlyQ7GH0.net
法正が長生きしていたら、諸葛亮と並んで蜀の双璧になったかな

対立して権力闘争が勃発したかな

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 21:18:53 ID:QY1OdBLV0.net
無理だろ
蜀科制定時も諸葛亮に一喝されて意見曲げてるし
諸葛亮の派閥の領袖に納まって番頭やってるんじゃないか?

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 01:25:05 ID:srmmsiIx0.net
法正が私怨から報復を始めてそのことを諸葛亮に言ったら
「オレじゃ止めらんね」
と答えた、というのは?

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 12:33:23 ID:0679NxAb0.net
その諸葛亮の言を聞いて法正は報復を止めたというエピソードの方が重要だろうな。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 02:38:58 ID:25qZ827VO.net
漢中の戦いにおいての孔明の補給能力もなかなかすごいな。曹操軍が途中で脱走兵が出ていたのと比べると劉備軍はそんな様子をみじんと見してないな

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 04:09:15 ID:JgNg19nT0.net
楊洪さんも褒めてください

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 16:48:18 ID:wIdzku4Q0.net
孔明はショウカみたいな役割に徹する事ができれば最高だったんだろうけどね


73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 18:19:29 ID:rG1fzNoy0.net
万が一、劉備なり孔明なりが関中切り取れてたら
長安に遷都したのだろうか

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 19:51:07 ID:KD56b3f30.net
史記で漢の高祖劉邦が項羽により、関中王ではなく漢中王とされたとあるのを見た時、
俺はなるほど、関中じゃなく漢中ね、項羽って中々うまいなあと思ってしまった。
俺がその誤りに気づいたのは後日のことである。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 00:09:17 ID:8ujBG5WG0.net
>>72
美味い瓜も自分で作れそうだしな。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 12:57:21 ID:8KYTp5g3O.net
五虎大将軍が漢中に揃ってたらなんて良い画を妄想。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 23:56:56 ID:sOvBS+bH0.net
>>73
当時の長安はかなり荒れていたんだよね。
都市としては、長安と成都だったら、どちらが人口が多かったのかな?

そもそも三国時代の都市人口とは?

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 00:24:31 ID:5AYSxB2p0.net
昔蒼天航路連載中に途中から読んでたけどここが一番面白かったなあ
法正スゲーとおもって読んでたわ

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 15:19:59 ID:tuo0KWDwO.net
しかし盛り上げるだけ盛り上げて曹操が逃げて終わっちゃったけどね
漢中の戦いをうまく書けてたのは北方かな
重要な戦いなのに解説書でもさらっと流されることが多いよ

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 06:39:57 ID:Z0rGXAF00.net
>漢中の戦いをうまく書けてたのは北方かな
小説かよ

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 22:38:44 ID:ZuveADoOO.net
概説書でもとばされることが多いかわいそうな漢中の戦い
だいたいショクをとったらすぐに関羽戦死にいってしまう

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 18:56:41 ID:UqzWgn9j0.net
漢中戦が劉備の人生最高の勝ち戦なのになぁ
残念だ

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 04:12:28 ID:T++BfADfO.net
劉備の輝やしき白星

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 04:14:17 ID:y7VfVTz/0.net
あげ

85 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:55:53 ID:zlmC2Sjs0.net
8万もの人間を漢中から引き抜いた時点で、漢中の失陥は決まったようなものだと思う。
策源として機能しない上、関中からの輸送も厳しい場所に軍を置いても、
防衛なんぞできるわけが無い。

司令官が韓浩だろうが張郃だろうが、結果は変わらなかったと思う。
司令官の敗死があるかないか、程度の差しか無いだろう。
陽平関以北に押し込められて、史実同様に曹操が来て、鶏肋と言って撤退するだけの事だろう。

86 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 06:48:42 ID:gMjTE/490.net
>>85
だとすると初めから曹操の重大な失態だったということか。

87 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 15:20:43 ID:h/6qnTIOP.net
>>86
失態は失態なんだけど、仕方ないと言えば仕方ないとは思う。
漢中の住民は五斗米道にどっぷりだっただろうから、
鄴や洛陽などの、監視の容易な土地に置いて、且つ張魯から切り離す必要があっただろうし。

後年、司馬懿が冀州から上邽に徙民を行ったように、
近い内に関東から漢中に民を連れて来るつもりだったんじゃないかと思う。
張郃がわざわざ巴西まで出て住民を連行したのも、その一環じゃないかと。

劉備の侵攻のタイミングが絶妙だったんだと思うよ。

88 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 15:40:34 ID:gMjTE/490.net
>>87
だとしたらその時の漢中防衛軍にできることは、「勝ち目はないから撤退する」しかないということか?
絶妙というが、劉備が漢中を攻めないわけがないんだから、勝ち目のない軍を置いておくなんてそれこそ失態だな

89 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 16:05:45 ID:h/6qnTIOP.net
>>88
「山陽公戴記」の記述ではあるけど、曹操は劉備の事を、
智謀はあっても策を考え付くのが遅い、と評しているから、
漢中に進むのももう少し時間が掛かると思ってたんじゃないかな。
漢中に来た時の曹操の負け惜しみもあるし。
1,2年遅れてくれれば、ある程度の体制は整っただろうから。

もう一つの問題として、劉備が武都方面に陽攻を行った事だね。
真っ直ぐ漢中に進んでくれりゃ、なんとか抑えようもあっただろうけど、
呉蘭らが下弁に入ったものだから、最も優良な故道が押さえられてしまった為、
漢中に入られる隙を作ってしまっている。
故道が押さえられ、険しい桟道しか輸送に使えないとなると、いよいよ策源として機能しなくなる。

曹操の方も、曹洪と曹休に対応はさせているけど、下弁に入られた事に変わりはないしね。
曹操のが後手に回ってるのは確かだね。

90 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 16:08:36 ID:h/6qnTIOP.net
「山陽公載記」ね。間違えた。

91 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:27:35 ID:z+pvfZi10.net
進行方向は逆だが、王平は援軍が来るまで持ち堪えてる
守将と本体が優秀なら防衛できなくもない

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 20:48:56 ID:h/6qnTIOP.net
>>91
劉備が奪って以来、漢中は策源化が推し進められ、
諸葛亮の時代には数万規模の遠征を支えられるだけの基地になったのだから、
奪ってばかりで徙民も行ったこの時とは比較できないと思うが。

曹洪の派遣がもうちょい早くて、張飛らを下弁に寄せ付けなかったら分からないけどね。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 01:44:01 ID:CF6u4RIb0.net
淵を残したのは人選ミス。
速攻で逃げてこいって意味だったのかな?

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 22:11:59 ID:zcdETtS40.net
>>93
夏侯淵は馬超ら関中諸侯との戦いの後始末係りとして西方侵攻の総司令官になったから
漢中に残って劉備と戦ったのはその名残か、異民族慰撫兼監視だったんじゃない?
征西将軍だったし。

それにしてもこの頃の張郃が晩年とは違って名将に見えない。
北伐時の蜀陣営がこの頃より凋落しまくったからかな?

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 22:57:41 ID:mx6qcf5B0.net
漢中戦がらみで張郃伝のおもな記述

・トウキョまで軍を進めたが、張飛に抵抗されて引き上げた
・広石に駐屯しているとき、劉備に夜襲をかけられたが、劉備は勝つことが出来なかった。
・夏候淵死後、その司馬であった郭淮の推薦で総大将になった。
・劉備は夏候淵より張郃を警戒していた

こんなものかな。
具体的な実績が結局劉備に破られなかったことくらい。
蜀側の記述に詳しいのはどんなのがあるのだろう?

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 23:50:14 ID:6FjbBb4d0.net
>>95
> ・トウキョまで軍を進めたが、張飛に抵抗されて引き上げた

郃別督諸軍下巴西、欲徙其民於漢中、進軍宕渠・蒙頭・盪石、與飛相拒五十餘日。
飛率精卒萬餘人、從他道邀郃軍交戰、山道迮狹、前後不得相救、飛遂破郃。
郃棄馬緣山、獨與麾下十餘人從問道退、引軍還南鄭、巴土獲安。【張飛伝】

これを見る限り、抵抗されて引き上げたという穏便なもんじゃなく、狭い土地におびき出されたところを散々に討ち破られて命からがら逃げ出したって感じだけどね。

つうか>>6を見ればいい。
>>95で言えば2番目と3番目の間に
> ・劉備、夏侯淵の陣に火を放つ。東を守る張郃が不利になったので、夏侯淵は兵を分けこれを助成させる。
が入るくらいかな?

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 02:56:28 ID:dy2ZPSynP.net
宕渠の戦いもよく分からんねぇ。
宕渠は巴西南部だから、ここまで進出された時点で結構押し込まれてる事になる。
張飛は当時安漢かロウ中に駐屯してただろうから、張郃に四川盆地に入られた時点で、
これを防御するのに動いても良さそうだが。

それに、地図で見ると宕渠の辺りならある程度開けてるから、
狭い道を通らなければならない状況に簡単に追い込まれなさそうだ。
張飛がどういう機動を採ったのかちょっと分からんな。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 01:10:17 ID:cQl43MjLP.net
張郃の目的は、魏書にあるように巴西の住民を漢中に移送する事。
張飛との対陣が50日余りに及んだって事は、ある程度は達成できたのだろう。

んで、張郃の戦略だけど、宕渠水左岸には、数百mの山が南北に連なっているから、
これを以って左翼の防御にし、蒙頭辺りまで進む事で、宕渠、漢昌、宣漢の三県から張飛を遠ざけ、
防御に徹して対陣を長引かせる事で移送する時間を稼ぐってものだろう。

張飛としても早々に突破したかったんだけど、河川と山に正面と翼を依託してるから、
ちょっとやそっとじゃ突破できない。
効果的に敵を撤退させ、或いは破るには、後方に回り込むのが良い、それも、
できるだけ自身の機動を秘匿しつつ。
とするならば、張郃が左翼の防御に使ってる山が、逆に利用できる。
恐らく張飛は、右翼側から山を越えて敵を迂回し、
まず宣漢、次いで漢昌への道を塞いだ。
張郃が米倉道を通って帰還するには、漢昌方面へ出なければならず、
漢昌へ進む道は途中から険しくなってくる。
そこを張飛は突いたんだろう。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 21:42:24 ID:bF4XswgQ0.net
>>98
なにを言っているのか
よく分からんが納得

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 17:54:33 ID:hlTLjXOd0.net
漢中って農業生産力はどれぐらいだろうか。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/25(火) 22:37:55 ID:OKplclR/O.net
>>100
結構あったんじゃね?

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 00:25:04 ID:ckyowgkK0.net
雷銅はエロい

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 13:06:02 ID:A3vxEp7P0.net
>>100

時代というか年代によるでしょ。

張魯が降伏した時は「倉が一杯」だったというし、
 
 財富土沃

元々↑こういう土地に馬超の戦禍で移民が数万入ってきたらしいので、
農業生産力=人口の当時では随分なモノだったんじゃない?


問題は曹操が移住させたのがどの程度か・・・
劉備支配後は屯田が必要だったというし、曹操得意の強制移住は結構なダメージを与えてるっぽいね。
曹操がいったい何時に撤退の決断を下したのかで、漢中のその後が解りそうなんだけど詳しい人いないかな?

212〜219年は漢中にとって激動の時代だったことは確か。


104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 03:37:22 ID:+CxfXmsM0.net
張魯の後を追ったやつも多いかも。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 18:09:48 ID:B7nLlRb30.net
漢中は劉備支配直後は人あまりいなかったぽい

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 15:32:29 ID:HPhli2pK0.net
戦場になって、人が逃げてしまったっこともある?

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 17:44:03 ID:7KK311OJ0.net
張魯の降伏後、曹操が漢中の人民を移住させてる。
別に戦場になったからって事はないと思う。

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 23:25:52 ID:lTeJ+u6O0.net
あげておく

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 14:33:44 ID:zk76ol2O0.net
強制移住は215年から216年に掛けてあったみたいね
張魯が治めていた時に少なくとも10万戸+馬超の乱で数万戸
さらにそれ以前の李カクの関中政権のイザコザで馬超と比べ物にならない数が入ったっぽいから、相当な人口だったはず

んで強制移住は記述にバラツキがあるけど最大の物で8万戸とあるから、夏侯淵が漢中司令官として居座っていたときは大げさにいうと無人に近かったんでは
なんでバラツキがあるかというと、各方面に移住させている、つまりは何段階かに分けられて執行されて、その時に携わった人も違うので総計幾らとならなかったんじゃないかな
曹操の強制移住に関しては他の例ではこんなことないから、トウタクも真っ青の超大規模な移住政策だったと思われ




110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 04:38:23 ID:l56ld/0RO.net
なるほど

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 13:34:22 ID:5Gfg2Uvg0.net
かんちゅうだめぽ

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 14:19:26 ID:VMEeiwiL0.net
張既伝:住民数万戸を三輔に移住 武都の5万余を天水に移住
杜襲伝:洛陽に8万余を移住
和洽伝:住民を移住させ漢中を放棄した


張飛馬超が攻め入った武都=補給もままならぬ空城
劉備が占領した南鄭近辺=無人地帯

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 21:43:37 ID:3a+QG/+I0.net
話半分としても酷いな。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 17:20:27 ID:FIIgCDRHO.net
アイシールド

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 12:28:06 ID:A3EHIOjb0.net
>>112
>張飛馬超が攻め入った武都=補給もままならぬ空城
>劉備が占領した南鄭近辺=無人地帯

これはむごいな
曹操はこの為にやったのかな?

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 14:03:33 ID:acv3dMx20.net
中国の歴史では、東漢〜三国期に限らず、
大規模な強制移住って頻繁に行われているけど、
実際のところは、どれぐらい徹底していたんだろう?

普通に考えたら、農耕可能な土地の住民を、
一人残らず他所へ移住させるのはかなり難しそうだけど。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 14:30:08 ID:A3EHIOjb0.net
>>116
難しかったとおもうぜ

それを強引にやったのが曹操らしいけど

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 21:21:52 ID:9CQ2sdqW0.net
そもそもこの時代だと、官が把握していた人口は全体の何割だろう? という疑問があるので、
「根こそぎ」というのは無理な話だっただろう。
しかし都市人口とその周辺だけでもごっそり持っていけば経済的な打撃は甚大だろうし、
あとから来た勢力は自陣から移民するか租税を避けて来た土豪的な農民達を服従させねば
ならなくなるので、相当な痛手になるはずだ。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 23:40:23 ID:Li1Nc8p8O.net
経済的に大敗北の蜀

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 23:53:57 ID:jNpQyUpq0.net
政治的に完敗の魏。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/03(木) 01:43:56 ID:/MaZj3930.net
肛門痛い

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 00:21:16 ID:b5maSMmD0.net
司馬家の圧勝

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 00:41:59 ID:M+rTXjabO.net
そして…異民族が中華に乱入

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 14:24:59 ID:f8RIjZTf0.net
関羽の北上のときに、漢中から長安に出撃できなかったのも強制移住が原因だろう。
前線基地として屯田で自給できるようになるまでは、
恐らく駐留部隊の兵糧などはピストン輸送の人海戦術だっただろうから、
漢中に居るだけで大量の人手が動員されたと思われる。

そう考えると、漢中王と夏侯淵の首級というインパクトには隠された高い代償があった。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:36:40 ID:wIxQxWE70.net
戦乱やら飢饉やら冷害やらで
人口大激減してたらしいからねえ
人集めも必死だわ

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 22:22:47 ID:m4F0Gqs80.net
一番の原因は売官なんじゃないかな。
霊帝なんて諡号をつけられるなんて悪政がよっぽど酷かったんだろうな。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 11:48:33 ID:FVxC9t1n0.net
霊帝は悪諡ではないよ

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 11:51:23 ID:+Gv25QBW0.net
平諡だよな。
彼の場合は恐らく 乱而不損曰霊 国乱れるとも損なわれず
有効な手立ては打てなかったけど悪君ではなかったって意味合いだろうな。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 12:19:34 ID:2wXznuXq0.net
皇族の末の末で少年期は貧困に苦しみ、
まさか皇帝になるとは誰もが予想もせず、帝王学といった教育もうけず、
それがトラウマになって金銭欲だけが突出していた不憫な霊帝。
皇帝になった経緯から宦官を頼りにしていたが、別に霊帝が宦官を強く用いた特例でもない。

凡人だったが、胡楽・胡式服装などをさかんに取り入れた風流人だった。


130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:13:03 ID:Qqjaea6cO.net
あげ

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 15:54:43 ID:qp3HgGdy0.net
>>129
金銭欲が突出してたわけではないぞ
国庫が空だから何とかして金を集めて漢を再興しようとしてたんじゃないか
西園軍がそのいい証拠

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 23:07:52 ID:0tFKCMMk0.net
光武帝の軍縮→兵力不足→弱体な軍事力
南陽豪族勢力の拡大→豪族による兼併の抑制を徹底できない→徴兵と徴税の崩壊
清流派の伸張→各地豪族勢力の伸張→全国各地で漢の徴兵・徴税システムが破綻

立て直そうと思ったら皇帝自らが金を集めるしかない
後に曹操が豪族の荘園経営的手法(隷民からしぼりとる)で勢力を拡大したのと同じ

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 19:02:46 ID:kVMrMSQB0.net
要するに霊帝は漢皇室直属の軍事力が欲しかった。
そして、のさばる外戚や地方豪族どもを押さえ込み、政治上の主導権を確保したかったと。
金にガメツかったのは、軍事力を作るにまず資金が必要だったから。
こう解釈するとなかなかの名君に見える。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 19:41:41 ID:nsN/OyD30.net
いや、単なる個人の贅沢が動機では無かったってだけでは
別に名君には見えて来ない。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 20:09:22 ID:kVMrMSQB0.net
しかし金が必要だったのはわかるが、売官までいくとどうなのかと。
あれはかなり漢王朝の権威を落としただろう。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 20:51:41 ID:ni3ROOeg0.net
>>135
落としたも何もそれ以前の段階で皇帝の権威そのものが外戚、宦官、清流派によって滅茶苦茶
その上、檀石槐と鮮卑によってもう既に漢帝国の権威はフルボッコにされてるんで、今更な話だよ

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 22:45:06 ID:86YBBT7D0.net
後漢は皇帝が糞でも下でなんとか舵取りするシステムが出来てないか
らな。その代の皇帝がダメだと外戚、豪族、外圧すべてに影響が出て
しまう。豪族を抑えても結局その1代限りで次に名君が出ないと維持
できない。

言ってしまえば彼の代で豪族、外戚、外圧政策に失敗してること=
彼の皇帝能力なんだよ。

ただ彼が皇帝になった地点で外圧にもとんでもないヤツが出現し
状況は最悪だったのは不幸。

が暗君とは言い切れないが水準以上でない事は否定できない。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 22:48:58 ID:d7ad0ATs0.net
霊帝は死ぬのが早すぎるから能力とか実績とかちゃんと評価できんよ

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 23:03:16 ID:ni3ROOeg0.net
>>137
外圧の出現は桓帝の代だが…

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 23:24:29 ID:x9FbAGen0.net
霊帝は後漢では超長生き。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 23:29:19 ID:d7ad0ATs0.net
>>140
後漢では、な。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 00:11:06 ID:YVVZv8g10.net
>>139 檀石槐と南匈奴のことを言いたかった。すまん。

幼年で即位して若死にだが、在位期間を考えると東晋の明帝のよう
に英邁であれば国家基盤が惰弱でもなんらかの成果を挙げる人物も
いるからな。 英邁であるとは俺には思えない。


143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 05:35:19 ID:oBYeNVr+0.net
>>142
檀石槐による漢レイプは桓帝の代だろ

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 00:22:16 ID:RfIg4iF3O.net
あと少し

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 03:18:00 ID:jvLuycCzO.net
けっきょく劉備の最大版図ってどんくらい?
荊州牧、漢中王、益州蜀帝と三州あわせ持ってた時期があんのかね?
そんで死亡時は、最僻の益州だけってこと?
よくある三国時代の中国図って、どの段階のもんだろ?べつに劉備の全盛期じゃないよな?
まあメルカトル図法かなんかの影響で、魏だけ実際より広く見えてたりしてなw
日本地図でも、北海道は実際よりかなりデカくなってるらしいし

あと判らんのが、益州(蜀)の劉備と、荊州の関羽の関係だな。
劉邦と韓信みたいな微妙な距離感だったのでしょうか?

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 12:30:52 ID:PGsQ6Ws40.net
>>145

漢中王の時が最大版図。
蜀漢帝即位は荊州陥落したあとのこと。

地図の見方だが、居住可能(農耕可能)地域と漢人文化圏を知る必要がある。
揚州は虫食いのように山越のエリアがあり、陸上交通網が未発達。
益州はほぼ盆地の中と河川平野に居住可能地域が限られてる。
涼州は後漢以降ほとんど形だけの官位認定による間接統治か、点(城)と線(街道)の限定的な直接支配しかできなかった。
交州に至ってはほとんど無法地帯。

この当時は支配面積など殆ど意味がなく、仮に蜀の「面積」が魏の10倍であっても人口が魏の1/10なら国力は1/10しかない。
よく記述で「中原の戦乱を避けて難民が南に〜」と出てくるが、正にこれこそ中原=黄河水域が漢の中心であった証拠にほかならない。



あと劉備と関羽の関係はしっかりした絶対君主と忠臣という関係。

もし関羽以外の者が荊州を守っていたら?
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1189212296/

これを読めば解るけど、関羽には何一つ特権が与えられたこともなかったし、独断専権を犯したことも無かった。
関羽死後の張飛の扱い方をみれば参考になるが、最も信頼し、最も期待していた特別な臣下であったことは間違いない。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 21:07:09 ID:y+hvuU1sO.net
賛宮

まあ当時の国は、国境より拠点で語られるモンで、その拠点もかなり流動的
ある程度密度がふえると、核より膜、自我境界線の比重が増すが

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 21:09:08 ID:y+hvuU1sO.net
賛宮

まあ当時の国は、国境より拠点で語られるモンで、その拠点もかなり流動的
ある程度密度がふえると、核より膜、自我境界線の比重が増すが
近代の教科書ではバキバキに区切られていても、当時は空き地の方が多いイメージ

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 02:20:37 ID:AXx0XdtVO.net
円ではなく点と線か

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 07:35:43 ID:Axk5Bs3r0.net
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Sanguo_map.jpg
この地図から更に人が住める地域を考えると……

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/30(水) 16:46:52 ID:Ct6Jug+fO.net

かったな

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 06:57:09 ID:VGUMZmsT0.net
ほしゅ

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 17:02:46 ID:b5uf6xIR0.net




http://love6.2ch.net/test/read.cgi/male/1207390699/
(↑424を見てください↑)
(((( ;゜Д゜)))(((( ;゜Д゜)))(((( ;゜Д゜)))うわああああ

中国のマジ本物の拷問レイプ画像動画っ!!!

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/16(月) 19:00:40 ID:gCE1AZlt0.net
この戦い、はじめから最後まで曹操は全くやる気無し、いいところ無し。
しかも曹操に従軍していたのがいけ好かない楊修ときたもんだ。

勝てるはずが無い。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 01:38:19 ID:okHtSMt1P.net
曹操こそ本当の英雄だな

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 01:45:31 ID:LAQMcW2t0.net
何を今さら。
少なくとも、三国の初代君主は全員英雄だよ。

157 : [―{}@{}@{}-] 名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 06:55:48 ID:okHtSMt1P.net
>>156
劉備は有能な軍師がいないと戦に勝った事ほとんどないんちゃう?
劉備は本物の英雄ちゃうわw

曹操は信長と家康を2で割った感じだわ

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 09:00:47 ID:Xvan+VTF0.net
諸葛亮やら法正やらの参戦以前から
夏候惇を撃破してたり、祭陽撃破して戦死させたり、黄巾に勝ってたり、
劉岱に勝ってたり、車チュウを倒してたり
基本的に参謀いなくても曹操以外の魏将になら大抵勝ってる

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 13:46:15 ID:8yl4dJOC0.net
>>158
つ曹仁


160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 14:11:21 ID:LAQMcW2t0.net
>>157
そもそも、戦いに勝てないと英雄になれないのか?
英雄の意味を履き違えてるよ。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 14:18:08 ID:LAQMcW2t0.net
それに、軍師に頼りきる戦下手(無能)というのは正に「演義」のイメージ。
実際の劉備は、そこそこ戦上手。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 14:26:10 ID:8oyNssVb0.net
>>159
「大抵」と書いてあるぞ
それに曹仁に対してなら南郡争奪戦の時にリベンジしてるだろ
>>161
そこそこっつーか条件さえ整えば曹操にだって勝てるくらいだから
相当な戦上手だろ

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 00:34:00 ID:SJiAMFznP.net
三国志演技だとリュウビは、ソウソウから逃げてるだけじゃん…

ソウソウが強すぎたのかも知れんが…

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 00:37:36 ID:6ToLnAWg0.net
正史なら条件さえ整えば曹操にだって勝てるくらい劉備は強い

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 01:39:37 ID:SJiAMFznP.net
曹操は劉備の事を早くから英雄と認めてて侮ってなかったからさすが曹操は項羽とは違うよねw
だから曹操に劉備は追われまくってたもんな
やっぱ曹操は凄い
最初から劉備の事を甘くみてたら劉備が劉邦みたいになってたかもなあ

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 05:53:36 ID:VUsV9nIa0.net
ってか、演義で劉備が弱いのは、孔明を持ち上げる為だろ。
よくよく考えると、演義で得してるのは蜀や孔明だけで、劉備自身は損してるんだよな。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 06:14:24 ID:qZJrvxwv0.net
そのせいか?
劉備オタって孔明嫌いだよね
よく劉備持ち上げて孔明叩いてるし

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 06:25:05 ID:VUsV9nIa0.net
そうなのか。
俺は両方とも好きだけどな。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 10:15:07 ID:epHGDrtU0.net
>>167
そんな事はないだろ
劉備好きが孔明叩いてるところなんか見たことない
大抵魏オタのなりすましだろ、それ

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 15:45:29 ID:VUsV9nIa0.net
どうしても、劉備を悪い方向に持って行きたいようだね。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 18:24:39 ID:1QPwHrmj0.net
劉備好きだが孔明も好きだぞ

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 00:23:44 ID:vD7OaEq/0.net
劉備オタじゃないのかな
なんか劉備を持ち上げて持ち上げて、〜だから孔明は能力が低い
みたいな論法が多い
劉備は人を見る目があって卓越した名将で、孔明は劉備に信用されてない。だから孔明は戦下手、だとか
劉備が軍を率いていた時は勝っていたのに、孔明が率いた途端に負け続けた。だから孔明は(ryとか
劉備は人を見る目があるのに、孔明は劉備が信頼した人材を冷遇した、だから(ry

劉備好きにとっては叩いてるんじゃなくて事実を言ってるだけのつもりかもしれんが
夷陵の敗北を無視して論拠を組み立ててるとことか、どうも腑に落ちないことが多い
劉備の能力を高く評価するのも、孔明の能力を低く評価するのも結構だが
両者を比較せずに戦いの内容を見て別個で判断した方がいいような。
それとも孔明叩きに劉備が利用されてるだけか?

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 00:29:14 ID:JvEeWlxV0.net
だからそれ、劉備好きじゃないだろ、と
劉備好きな奴は大抵孔明もセットで好きなんだから
孔明叩くわけがない
第一劉備が孔明を深く信任して死後の全権をゆだねたんだから
孔明を叩く意味がない
蜀好きで孔明になってから負け続けなんていってる奴も見たことないしな
そういうのは大抵孔明たたきに劉備が利用されてるだけ
やってるのは大抵魏オタ
野戦不敗に近い孔明を負け続けなんていうのは魏オタくらいなもん

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 01:47:38 ID:T4a+qjwQP.net
劉備はショボイ
夷陵の敗北はいただけない
やっぱ孔明と一緒にいないとダメだな

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 18:56:13 ID:4W84zjR60.net
>>172
それは劉備オタというより、孔明アンチ(魏オタ)でしょ。
でも、魏の武将を使うと、「魏オタ」とバレるから、敢えて同じ蜀の君主・劉備を利用して、孔明を叩く。
つまり、劉備オタになりました、孔明アンチ(魏オタ)。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 00:00:11 ID:E43uzlSt0.net
世の中の三国志を批評する奴は、アンチかオタしかいないのかよw

何はともあれ、レスされた評価が自分の評価と反するとき、反射的にレッテル張って論を封じろうとする奴はウザいな

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 00:29:26 ID:tj67jiax0.net
まぁ、いずれにしろ、劉備・曹操共に、批判しか出来ない奴よりは有能だろうな(笑)

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 15:34:56 ID:pwo7YkwT0.net
まあ、プロ野球ファンが、プロより野球下手でも、批判して言い訳で

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 21:55:33 ID:jKRz/xJL0.net
素人で申し訳ないんだけど、
劉備て、なんで関羽とか張飛とか豪傑が兄と慕ったの?
小説やアニメや漫画の劉備って、普通の人というか、
中肉中背で戦闘は弱くて、頭はむしろ関羽の助言が多いとか
孔明の助言が無いとだめというか、
単純に、人格が異常なくらい目立つ人だったってこと?


180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 22:15:37 ID:tj67jiax0.net
小説やアニメや漫画では凡人で、実際は優秀だったから。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 22:55:33 ID:EfmFykGAP.net
実際は優秀なわけないわw
いい人ぶってただけやろ

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 00:19:44 ID:pFe6uoCl0.net
おおらかで、誰とでも分け隔てなく接し、面倒見がよく、
決断力があり、リーダーシップを取れる人だったから

いわゆる、才徳における徳に秀でていたから

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 07:30:18 ID:tw/n369A0.net
やくざ、任侠とかの人みたい。面倒見がいいのは、見返りをあてに
しているから。劉備は腹黒。ほとんど他人に見せませんけど。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 08:50:42 ID:NScfD9v80.net
腹が黒くない群雄はいないだろ。
劉虞とかは例外かな。

劉備も、自分を殺しに来た刺客やら
善人の糜竺に心酔されたりするほどだから
それなりに善人でも有ったんじゃないのか。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 13:16:18 ID:tLZE/pr10.net
劉備アンチは、相手しないでw
なにいっても、ねつ造してでも、けちをつけてくるからw
そんな無能や偽善者に従うほど乱世は甘くないし

実際は、兵力の差がある時以外は負け知らずで、魏の名将たちを何度は敗走させ、
謙虚で引きこもりの若者に、忙しい中を三度も訪ね、頭を下げて教えを乞うほど謙虚で、
武勇にもひいで、騎兵を率いているという、当時でも珍しい技能を持ち、
ただの県令でありながら、荊州十万の民が頼ってくるほど、統治力や人徳があったから

実際は三国志一のオールラウンドプレイヤーだから
コーエーのゲームの能力値は曹操に甘すぎ、劉備に辛すぎ
(曹操は正史基準で都合悪い記述は無視、劉備は演義基準ってのが、もうね・・)

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 13:40:35 ID:tw/n369A0.net
なんで、漢中争奪戦で、アンチ劉備を排除? 意味不明。

劉備と孔明は徐州で知り合っていて(孔明は徐州出身)、
三顧の礼はやらせっていう説もあるよ。
関羽と張飛が孔明の言う事聞くようにするために。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 15:34:32 ID:dIKJf6PwP.net
劉備ファン多いな・・・
三国演義の影響やろね

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 15:38:14 ID:pFe6uoCl0.net
>>186
えーっと、徐州時代の孔明が何歳かご存知?
12、3才ですよ。
知り合っていたとしても、やらせ云々って話しは考え難いと思いません?

また、劉備生前の孔明は、後方での民政が主。
演義のように軍師ではないので、関張に言うこと聞いてもらうって必要がないですね。

あと、出身は青州です。
幼いころに父親を亡くして徐州に移り住んでいたので徐州にいたのは確かですが
おそらく、曹操の徐州侵攻の殺戮に伴い流れ流れて荊州へ移住します。
劉備と接する事ができる機会はかなり短いですね。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 15:47:59 ID:jIa8u8fW0.net
>>187
劉備ファンが多いのは三国志演義のせいなのか。
俺は正史の劉備が好きなんだが?

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 15:50:54 ID:xKdkPKaq0.net
気に入らないものは全部「演義厨」

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 16:49:48 ID:pFe6uoCl0.net
>>189
一般的に見れば、正史より演義の方が遥かに多く普及されています。
また、演義では主人公として描かれてもいます。

上記の考察から劉備ファンが多いのは、演義の功績が高いとするのは
あながち間違いではないでしょう。
正史での劉備が好きとおっしゃらる方は、全体的に見れば少数でしょう。
また、演義を知らずに正史のみを知る人も、やはり極少数と推測できます。
そして、正史の劉備が好きとおっしゃられる方も少なからず演義の影響を
受けているのではないかとも考えられますね。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 17:07:20 ID:jIa8u8fW0.net
それなら、曹操も演義の影響を受けていると思うがね。

曹操は演義で過小評価だけど、そのお陰で正史での曹操ファンが多いと思われる。
「三国志演義」が存在しなければ、曹操ファンは今よりずっと少ないはず。
曹操も演義の影響を受けているのは間違いない。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 17:23:04 ID:jIa8u8fW0.net
ちなみに、ほとんどの人が「演義→正史」の順番で三国志を知ったと思う。
また、正史を知ったきっかけも演義に有ると思う。
曹操ファンの多くも、演義をきっかけに三国志を知っただろうし。
つまり、曹操ファンも演義の影響を受けているかと。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 17:52:15 ID:tw/n369A0.net
自分は、演義60正史40かな。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 17:55:21 ID:tw/n369A0.net
昨今、上映された映画「レッド・クリフ」みたいな、
曹操=悪、劉備=善は、納得できない。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 19:52:02 ID:4AL7AVIrO.net
日本だと演義の時点で贔屓目にかかれてるしね曹操

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 20:56:11 ID:xKdkPKaq0.net
ドラマやアニメだと中国でも贔屓されまくりだぞ曹操は

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 22:34:43 ID:etbW4I820.net
贔屓ってどういうのか、って事にもよりそうだ
曹操って中国だと悪役一直線だろ

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:01:38 ID:pFe6uoCl0.net
贔屓(ひいき)とは、
自分の気に入った者に対して肩入れし、援助すること。

「仁徳の人」劉備を善として「奸雄」曹操を悪役として、対比を軸に展開する三国演義の前半において、
曹操が贔屓されているとは、個人的にとても思えませんけど、何を持って贔屓されているのでしょう?

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:09:11 ID:dIKJf6PwP.net
三国演義は主役が劉備で悪役が曹操じゃんww

どこが贔屓だよww

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:13:03 ID:nhY0a2eU0.net
他の古典小説の悪役と比べると贔屓されてる方な気がする

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:19:28 ID:4AL7AVIrO.net
>>199-200
曹操は正史みたいに民衆虐殺もやってないし
捕虜生き埋めも人柱もやってないし
なにより美形設定になってるじゃんw

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:19:31 ID:jIa8u8fW0.net
贔屓というか、まだマシな扱いなんだろう。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:20:40 ID:dIKJf6PwP.net
曹操は当時から勢力圧倒してただろw
それが贔屓というのかよー

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:21:05 ID:etbW4I820.net
まあ、確かに曹操は「大悪役として贔屓されてる」ってのはあるかも
曹操は三国志演義の世界において、「劉備最強の敵」「悪のカリスマ」
「仁徳の劉備に対して、智勇供に乱世に隔絶した奸雄(だから他の優秀な武将達と協力しないと倒せない)」
ってキャラ付けがされてるから、曹操以外の他の群雄が
曹操より圧倒的に劣っているかのように描写されがち
袁紹陣営とか曹操に負けるまでは最強に近い陣営だったのに、
演義だと阿呆の集団になってる

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:23:42 ID:etbW4I820.net
>>204
勢力じゃなくて描写のほうだろ
袁紹とか別に演義で描写されるほどに暗愚でも傲慢でもなく
正史の官渡じゃむしろ曹操のほうが「もう勝てない」と何度も弱音はいてるくらい
それが演義だと曹操を劉備最強の敵として引き立たせるために、
袁紹をはじめとする他の群雄達は曹操と比べて圧倒的に劣るように描写されてる


207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:24:39 ID:jIa8u8fW0.net
まぁ、曹操が華北を統一出来たのは、袁紹が死んで、息子達が後継争いを始めたからなんだよね。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:27:27 ID:jIa8u8fW0.net
だから、実際は曹操が圧倒的という訳でも無い。
赤壁だって負けてるしね。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:48:50 ID:dIKJf6PwP.net
曹操って三国演義では悪役だけど、正史ではそれほどでもないよな??

>>207
けど、袁紹死んだのも曹操の影響もあるから華北を統一出来たのは曹操の実力やろ

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:50:36 ID:jIa8u8fW0.net
曹操の影響とは?

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 01:00:48 ID:TXNMBaZBP.net
>>210
エンショウは官渡の戦いで負けて寿命縮まったんだろ

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 01:23:01 ID:wkZQL9540.net
それ、本気で信じてるのか?

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 04:16:25 ID:rGrTYbq00.net
攻め込んだ方が、負けて、国力衰退や政治的基盤の喪失で、滅ぶ事あり。
日本の豊臣政権とか。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 07:08:58 ID:eYhprd+X0.net
官渡の戦い直後に袁紹は反乱をあっさり潰してから病死してる
袁家にはまだまだ余力があった
だから曹操も官渡の後に袁家の河北に手を出す事が出来ず、
後継者争いに乗じて攻め込むしかななかった

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 07:11:10 ID:eYhprd+X0.net
>>209
正史でも十分悪役に近いことやってないか
徐州大虐殺とか皇后殺しとか
基本的に曹操が演義で悪役として描写される事件は大抵正史に元ネタがある

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 08:27:41 ID:rGrTYbq00.net
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

浄土真宗的に、悪人曹操は、善人劉備よりも往生を遂げた。

こんな見方はできるかな・・・

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 17:51:03 ID:x7BuhSKJ0.net
曹操贔屓されてるだろ
>>202>>215みたいな見る人が見れば嫌悪感を抱くような苛烈な所業が
まるで無かったことになってる演義派生ものが多い
これを美化と言わずしてなんと言う
その上史書に書かれてる所業を演義の捏造だと言われる昨今
なんでも演義のせいだよ

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 19:48:16 ID:TXNMBaZBP.net
演義では、リュウビは美化されてないかい?

本当に民を連れてソウソウから逃げようとしたの?


219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 20:18:37 ID:yYbOcCke0.net
>>218
正史でも「民衆なんか捨てて逃げよう」って進言を
「民衆は国の基本だから捨てちゃいかん」って蹴ってるよ。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 20:41:54 ID:TXNMBaZBP.net
あれマジだったのか…

美化する為に作った話かとオモタ

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 20:51:23 ID:s5oXYOXI0.net
よく劉備は演義で美化されているというが
演義で劉備の美談とされている事柄がまんま正史に載ってたり
演義にもないような美談があったり
演義以上に魅力を伺わせる逸話があったりするんで
美化も何もないような気はする

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 21:01:33 ID:7YReB6e70.net
曹操患者とネット右翼って似てね?10
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1278504733/

ネタではなく、マジで「劉備は美化され、曹操は貶められている」
と考えている初心者がいたら、ここにいった方がいいと思う

ネットでは、曹操を偶像化し、劉備、関羽、諸葛亮を誹謗中傷することを生き甲斐とし、
平日の昼間も深夜も構わずレスしまくる曹操信者が間違いなく数人はいる

彼らのレスが多いため、あたかもネットの多数言論を占めているように見えるが実は少数派
おそらくは一般人百人が一レスする間に、百レスぐらいやっている

ある意味、万夫不当w
だまされてはいけない

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 21:18:14 ID:1MvUDUUy0.net
>>221
つーか、演義は関羽や張飛や孔明に見せ場作るために、
劉備の見せ場をゴソっと削ってるよね。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 21:32:31 ID:WWlCMeci0.net
陳寿は後漢王朝の行く末についての劉備の個人的見解を何も載せていない。
が、演義ではいわずもがな。ここが美化だね。
覇を争う群雄・軍人としては史実のほうが遥かに有能で抜け目ないが。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 21:48:08 ID:KwkRYt1F0.net
>>218
徐州大虐殺を起こした曹操が攻め入ってきたら 
人気のあった劉備に付いて行きたくなるのは分かるわ

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 19:30:28 ID:0I+PimQ9P.net
>>221
演義にもないような美談ってどんなのがあるのですか?
教えてー

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:32:36 ID:JJu68fty0.net
>>226
・自分を暗殺しに来た刺客を、何も知らずに手厚くもてなして、
 劉備の人柄に打たれた刺客が事情をすべて打ち明けて帰って行った。
・劉表の前で陳登の悪口を言った許に説教して、黙らせた。
・霍峻が死んだ時、墓の側で何日も宿泊して悲しんだ。
・不遇だったケ芝と外出した時に出会って才能を見抜き、スピード出世させて譜代の重臣と同格の地位に取り立てた。

さっと思い付くのはこんなところ。超有名人なので探せば他にもいくらでもあると思うが時間が無い。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:41:19 ID:0I+PimQ9P.net
>>227
ありがとう。
そんな事は初めて知りましたわ。
興味深いです

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 19:01:12 ID:Npz9d6010.net
>>227
> ・自分を暗殺しに来た刺客を、何も知らずに手厚くもてなして、
>  劉備の人柄に打たれた刺客が事情をすべて打ち明けて帰って行った。
刺客が送られること自体が美談として用いがたい。
誰からも慕われた劉備に対して、配下になるのを不快に感じた劉平の存在自体がね。

> ・劉表の前で陳登の悪口を言った許に説教して、黙らせた。
これは恫喝まがいの行いで美談として用いがたい。
演義での善の劉備らしくない行いじゃね?

> ・霍峻が死んだ時、墓の側で何日も宿泊して悲しんだ。
彼の葬儀に参列して墓の側で宿泊したというが、何日もとの記述ってあった?

また、これから漢中に向けて一代決戦を控えた時期だけに、この手の瑣末な話しをはさむ余地がない。
演義では対して活躍していない端役の武将だしな。
ってか、この頃になれば、すでに善人劉備は出来上がっているから美談を挟む必要も少ない。

> ・不遇だったケ芝と外出した時に出会って才能を見抜き、スピード出世せて譜代の重臣と同格の地位に取り立てた。
あるとき郫を訪問した劉備と語らった際に高く評価され、以降抜擢された事の記述はあるが不遇であったとの記述ってある?
また、これは別段、美談でもなんでもないよな? 単に見る目があるってだけで


230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 20:45:16 ID:AULVatEq0.net
原文読まずになんか言うクセ直したら?

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 20:51:09 ID:5FoqeJQy0.net
>>229
そんなこといったら生涯暗殺を狙われていた曹操なんかどうなるのかと

なんで説教が恫喝なのか

必要とか必要じゃないとかの問題じゃないと思うが
はさもうとすれば簡単にはさめるのだから

美談だろ
さしたる身分でもないものとも親しげに語らい、その才能を認めるって

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 22:20:37 ID:Npz9d6010.net
ケ芝はケ禹の末裔

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 22:23:26 ID:5FoqeJQy0.net
それいったら陸孫や孫権なんか…

234 :月孔雀:2010/12/14(火) 11:29:53 ID:65REr+zJ0.net
劉備は、人徳があったかもしれない。特に大衆に優しかった?
しかし、ライバルには無慈悲。
命を助けられたリョフを殺すように言ったり、エキシュウを盗んだりした劉備は、
ライバルから見れば腹黒狸。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 17:25:06 ID:Dy+MyHza0.net
元々面倒を見たのは劉備の方、呂布は自業自得で無慈悲とは言わないわ


236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 18:13:59 ID:65REr+zJ0.net
劉備をエンジュツから、助けたリョフ。
劉備は、それでも、リョフを殺す。
最終決断は、曹操であるが。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 18:28:21 ID:Dy+MyHza0.net
劉備が呂布のせいで苦難に立ったのに何を今さら
苦難に叩き込んでおいて助けたってのは笑える

238 :上杉謙信:2010/12/14(火) 20:03:33 ID:65REr+zJ0.net
エンジュツに殺されそうになった劉備を、
リョフが助けた逸話知ってる?

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 20:14:57 ID:aBur1dZ80.net
袁術に攻められた劉備を呂布が裏切って徐州を乗っ取ったのと、
劉備を攻めて徐州から追放したのは知ってる?

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 00:12:39 ID:FrDFW2+50.net
崖から突き落としておいてから、引っ張り上げて命の恩人だ
感謝しろって言われて恩に着る馬鹿はいない

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 02:52:03 ID:eLw/PcavO.net
>>221
伝聞だけど、実は羅貫中含む多くの人間が、講談などで受け継がれてきた劉備像が空虚な印象で好きじゃないと聞いた。
宋江もそうだけど、民間人的には非常に薄気味悪い印象を抱いていて、日本の著作物ではない演義原本だと、人物にもそう言わせてるんだと。

関羽や張飛や孔明の忠誠の対象としてはあっても、主体的な何かとして表現する意図は無かったみたい。
蒼天航路の献帝ポジをもっと空虚にすると分かりやすいか。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 05:10:37 ID:+JqhHQ3n0.net
>>239
> 劉備を攻めて徐州から追放したのは知ってる?
これは劉備が呂布の軍門に降って置きながら呂布に内緒で兵力を増強したからで、
呂布が一方的に非難されるいわれはない。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 06:42:08 ID:qtC2/fqt0.net
なんか話題がスレッドとずれてきた。
劉備と呂布のスレッドでも立てようか・・・

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 11:55:02 ID:wiYbu9MS0.net
>>241
民間人的なら今でも昔でも劉備は大徳の君主であって
正義を貫く武将として表現されてるよ
なんか妙な考えにこりかたまってないか

もともと西遊記でも水滸伝でもそうだが、中国の伝統的な主人公像は
大徳あれども他はそれほどでもなく、有能な部下達の力を発揮させて勝利する、ってなもんなんで
三国志演義の劉備もそれに従ったまでだよ

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 05:09:35 ID:8Q2+YtNd0.net
>>244
民間人を大事にするなら、カンウの仇討ちみたいなこと
しちゃ駄目なんじゃないか?
どれだけ、無益な血が流れた事か。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 15:29:46 ID:kQYxBAkIO.net
まーそれでも劉備の最期を語るのに、夷陵戦を語らない訳にはいかないから
それまで徳篤き仁義の人として描いていても出さざるを得ない。
それは物語上と現実の劉備の埋め難い差だからどうにもならんよ。
そこらへんは殆どファンタジーの西遊記の三蔵や史実が曖昧なお陰で話が創りやすい宋江と違う所。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 19:36:26 ID:YeS6La110.net
恩知らず大耳野郎

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 19:42:27 ID:9RJbidtf0.net
>>245
劉備当人としては勝つつもりだったんだから問題なかろ
勝てば荊州を奪還できて蜀の国益にもつながるわけだし
勝つつもりで失敗した、というならどんな武将の失敗だってそう

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 20:26:59 ID:jtSIXWR30.net
>>245
関羽の仇討ちってより、劉備にとっては、
天下狙うためには荊州の土地と生産力と兵力が必要だったわけで、
別に荊州を奪還しようとしたこと自体は間違ってない。何年も周到に準備してるし。
劉備が民間人を大事にする人徳の人なら、そもそも曹操と戦って天下取りを狙う過程で、
既に多くの血が流れてるんだから、戦争やる事自体が間違い。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 20:43:09 ID:cUphcUem0.net
演義の話だろ?
演義で劉備が「関羽より生産力目的で侵略するのだ!」なんて言ってんの?

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 21:13:01 ID:9RJbidtf0.net
>>250
演義だと荊州のみならず呉の滅亡まで狙ってた事になるから
呉を滅ぼしたなら蜀は益州に加えて荊・陽・交の三州をゲットして
江南一体を支配することになるな

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 14:59:07 ID:6/jX57mM0.net
演義劉備は、俺の弟を殺したからには共に天を戴くことは出来ない、としか言ってないよ。
天下平定の志はこの時打ち捨てられている。

しかし、肉親に等しい者の仇を討つってのは義者の必要条件であって、
この行動が演義劉備の人格を貶めることにはならない。
むしろ、史書よりも憤怒を脚色することで劉備の「正義」を強調してさえいる。

この時、天下統一という演義の思想のもう一翼を支えるのが、
あくまで東征に反対した諸葛亮の役割になる。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 17:52:15 ID:dOPLu62CO.net
それに水滸伝が受ける理由のどんなに無茶苦茶であろうが、アウトローであろうが
反官と義侠であればそれでいい中国民衆のメンタリティーからすれば、国家の大計ほったかしで仇討ちまっしぐらの劉備の方が好みだったとも言える。
例えその結末が大兵を失う敗戦であれ、親が官吏でもまだ年端もいかない幼児を殺す李逵の行為であれ。

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 20:12:46 ID:yeQagQlZ0.net
スレタイからして、正史の漢中争奪戦を分析・考察スレくさいんだけど、
いつから演義での劉備を語るスレになったん?
演義の話なら、せめて演義の中での漢中争奪戦の話しようよ?

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 23:27:53 ID:sOdA3oAP0.net
>>253
逆だね。大敗だから物語として有効なんだよ。
古今東西、偉い人の悲劇は作劇の大きな潮流だろう。

256 :月孔雀:2010/12/19(日) 06:13:44 ID:unw68z4c0.net
アレキサンダー、カエサル、信長、義経、龍馬 etc

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/19(日) 17:39:34 ID:McMd4FEA0.net
>>254
漢中の戦いだけだと、話題がなさすぎで話にならん

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/19(日) 19:04:09 ID:5yt/DI/B0.net
漢中戦のスレって三戦板にもあるじゃん
なんで三戦と中英でかぶってんだ

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 11:41:11 ID:+X3TbpiK0.net
月孔雀はビッチのメスブタから生まれたキチガイなので相手をしないようにw

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 12:26:10 ID:iKuEKYUM0.net
259は、なんとかならんかな

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 18:16:54 ID:+X3TbpiK0.net
              / ,.イ;;/ //  `ヾ\ \;;;ト、
                , ' ,. ´ {;;{__///     丶\\ノリ 丶
             / ,.'    \_;ノ/,     、`、 \く    ヽ
              / ,'    i  /:/ ;      ', `,. }__〉ヽ` ゙,
              ,'  ;!     l  〈__{ !  |     i. ゙, l ゙,  ', i i  月孔雀、私の手向けだ。母親のビッチのメスブタと仲良く暮らすがいい。
             ,゙  j{{ i   |  l  |l   |     l| -=‐i-l、 } |ハ}
            ,' ゙ l l|: .|   !  l ,. !‐=‐!   jリ  | |ハi│j ソ                  ,.. -_、..  -─
           ,' ' :l : |l :!   ',/! ヾ、 _ ! _ /ォ扞行ぅ、jノ 八                   //´   ...........
           .' j.:.:!: :八入  ヽ '、ィzヒテミ:: :: :: :::~しツソイ仏ハ′\            {{::::::::::::::::::::::::::
         ,.' _ム┴‐く{_トi\ _〃゙{じジ::: ::: ::  ´   ´|孑''"~`''ー- 、_,. -─‐ 、    ヾゞーzァ──‐‐
  / ̄`゙マ''´ ........    \ヽ\``"´     `    人::::::::::::::::..../......:::::::::::.... ヽ     ̄
 /::::....     丶:::::::::::::::::::..... 仏ゞ彡フ__ 、-‐ァ┌─チ‐┼─r─く;:::::::::::::::::::::::::::_;厶、
 ̄ ̄ ̄`丶、  ヽ:::::::::::::::__/ ,.ィ''"´  `ヾ厂 ̄ ̄ ̄ ̄′  `''ー三三三二 ̄´{ ,. ニ\_____
..:::::::::::::........ `ゝz‐`ー// _/           \             (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)  |〃~ ̄ ̄
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262 :月孔雀:2010/12/21(火) 07:31:06 ID:14tNkMfr0.net
261は、アクセス禁止にしてくれ

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 10:22:33 ID:wWrNFNuv0.net
               l  /´_   _ -`ヽ、ヘ ヽ`、
              ノ i〈 _ ̄  _二 )ハ ! l | }!    あまり怒るな。
            l. /ンー- 、_ ,ニ-_‐ニ=、 | l||l|    月孔雀はビッチのメスブタから生まれたクソブタなのだ。
             ヽ〉_=冖ヲ! ヽF"¨^ニヽ !|ミソ_リ    ニコチン中毒のな。
            {| ヽ ´/ 丶 ` ´  l |ミ「i l′
              ヽ  _`.ニこ.′   / |ソ 'ノ!    その病気を育てたのは、政府のゆとり政策の方針そのものなのだ。
                |  -=‐-ミi i  l lY´丿   そうだな、その意味で言うと、月孔雀はむしろ被害者なのかもしれんな。
              l   _`二´_ ! ,  l |l|    バブルが弾ける前なら、あれで通じたのだが。
                 ヽ、      /// クイ     不幸なブタだ・・・・・・
               _l.` ‐---‐='´_∠-┴i
              l‐-`T"r‐_'"´_ ' "´ ̄]
               ,ムlヘ'l | l/.r、)⊂=-‐ ニコ、_,、_ , 、
          ,-、 _r‐'(`ー-_ィ!| |、`ー-‐_ニ-'" ̄_ノ,へ.//`7^=ァ,‐- 、、_
  ,、..-,'7-/7ー/ / ヽヽ l 「 ノ_!_'、 //´_. -== ' ´_ 」 L..⊥!--┴==テ⌒i



264 :月孔雀:2010/12/21(火) 10:38:19 ID:14tNkMfr0.net
管理人263などを、なんとかしてくれ。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 11:42:30 ID:wWrNFNuv0.net
              / ,.イ;;/ //  `ヾ\ \;;;ト、
                , ' ,. ´ {;;{__///     丶\\ノリ 丶
             / ,.'    \_;ノ/,     、`、 \く    ヽ
              / ,'    i  /:/ ;      ', `,. }__〉ヽ` ゙,
              ,'  ;!     l  〈__{ !  |     i. ゙, l ゙,  ', i i  月孔雀、私の手向けだ。母親のビッチのメスブタと仲良く暮らすがいい。
             ,゙  j{{ i   |  l  |l   |     l| -=‐i-l、 } |ハ}
            ,' ゙ l l|: .|   !  l ,. !‐=‐!   jリ  | |ハi│j ソ                  ,.. -_、..  -─
           ,' ' :l : |l :!   ',/! ヾ、 _ ! _ /ォ扞行ぅ、jノ 八                   //´   ...........
           .' j.:.:!: :八入  ヽ '、ィzヒテミ:: :: :: :::~しツソイ仏ハ′\            {{::::::::::::::::::::::::::
         ,.' _ム┴‐く{_トi\ _〃゙{じジ::: ::: ::  ´   ´|孑''"~`''ー- 、_,. -─‐ 、    ヾゞーzァ──‐‐
  / ̄`゙マ''´ ........    \ヽ\``"´     `    人::::::::::::::::..../......:::::::::::.... ヽ     ̄
 /::::....     丶:::::::::::::::::::..... 仏ゞ彡フ__ 、-‐ァ┌─チ‐┼─r─く;:::::::::::::::::::::::::::_;厶、
 ̄ ̄ ̄`丶、  ヽ:::::::::::::::__/ ,.ィ''"´  `ヾ厂 ̄ ̄ ̄ ̄′  `''ー三三三二 ̄´{ ,. ニ\_____
..:::::::::::::........ `ゝz‐`ー// _/           \             (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)  |〃~ ̄ ̄
::::::::::::::::::::::::; ' / /  ∠-‐ァ   _   ヽ  ヽ               ̄ ̄ ̄  |{{;;;;;;;;;;;;r 、__;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
::::::::::::::::::/...::/ ::/    __/       ヽ   ゙、  `、      r_,.             | \;;;;;;/ー}_,ハ;;;;;;;;;;;;;;;;;




266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/23(木) 22:02:43 ID:Gpyn6/k90.net
[劉備] 攻撃:61 素早さ:88 防御:70 命中:71 運:29 HP:286
[曹操] 攻撃:98 素早さ:55 防御:73 命中:24 運:30 HP:163

劉備 vs 曹操 戦闘開始!!
[劉備]の攻撃 HIT [曹操]は9のダメージを受けた。
[曹操]の攻撃 HIT [劉備]は123のダメージを受けた。
[劉備]の攻撃 HIT [曹操]は37のダメージを受けた。
[曹操]の攻撃 MISS [劉備]は攻撃を回避した。
[劉備]の攻撃 HIT [曹操]は64のダメージを受けた。
[曹操]の攻撃 MISS [劉備]は攻撃を回避した。
[劉備]の攻撃 HIT [曹操]は3のダメージを受けた。
[曹操]の攻撃 MISS [劉備]は攻撃を回避した。
[劉備]の攻撃 HIT [曹操]は88のダメージを受けた。
[劉備]が[曹操]を倒しました(ラウンド数:5)。
魔法のMD5 - MD5バトル http://www.newspace21.com/mix/btl.php

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 14:10:01 ID:roSIMCpt0.net
12月28日 BSジャパン PM7:00〜PM9:00
 三国志ミステリー「曹操の墓は語る 英雄の秘密」北村一輝
(再放送)


268 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:8) 【35.8m】 電脳プリオン ◆3YKmpu7JR7Ic :2012/10/15(月) 00:16:06.47 ID:jVg+E33T0.net ?PLT(12079)
もう語らないのか

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/25(月) 03:20:04.53 ID:EhedWWpQ0.net
いつの間に劉備は陽平関を取ったのか

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/17(水) 15:42:22.84 ID:K/uP/LuTO.net
無人だったからいいんだよ

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/13(金) 10:24:52.91 ID:B3c3MS2n0.net
劉備人徳
https://goo.gl/WDw6Xy

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/29(月) 16:23:13.62 ID:R70ECGvw0.net
山本伸一の一行は、中州賓館に一泊することになり、宿舎に移った。

 突然の訪問にもかかわらず、中国人民対外友好協会の河南省分会の関係者が、熱烈歓迎
してくれた。

 夜には、食事を共にしながら、歓談のひとときがもたれた。

 伸一は、河南省分会の責任者に言った。

「雷雲のために、憧れの鄭州に泊まることができ、こうして新しい中国の友人と出会えま
した。雷雲に心からお礼を言わなければなりません」

 笑いが広がった。

 鄭州の人びととの、せっかくの出会いである。伸一は、この機会に、未来にわたる強い
友誼の絆を結ぼうと思った。

 それには胸襟を開き、どこまでも誠実と情熱を尽くし、魂と魂の触れ合う対話をするこ
とだ。

 語らいは弾み、河南省の文化や歴史について話に花が咲いた。そして、三国時代には、
中原は魏の国の曹操が制していたことから、話題は「三国志」に移っていった。

 伸一は語った。

「私の恩師である、創価学会の二代会長・戸田城聖先生は、『三国志』などを青年に読ま
せ、指導者論や人間学などを講義してくださった。

 その先生がお好きであったのが、蜀漢の名宰相・諸葛亮孔明の晩年をうたった、『星落
秋風五丈原』の歌でした。

 これは、日本を代表する詩人である土井晩翠の詩です。

 今日は訪中団の青年たちが、皆さんにこの歌を披露いたします」

 拍手が起こった。

 同行の青年たちが、立ち上がって歌い始めた。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/01(土) 23:36:53.72 ID:LVHaeuW90.net
漢中を落とした時が劉備の人生の最高時

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/15(土) 15:56:36.77 ID:12DQSeKf0.net
漢中王即位時の家臣序列

平西將軍 都亭侯 臣 馬超
左將軍 領長史 鎭軍將軍 臣 許靖
營司馬 臣 龐羲
議曹從事中郎 軍議中郎將 臣 射援
軍師將軍 臣 諸葛亮
盪寇將軍 漢壽亭侯 臣 關羽
征虜將軍 新亭侯 臣 張飛
征西將軍 臣 黃忠
鎭遠將軍 臣 ョ恭
揚武將軍 臣 法正
興業將軍 臣 李嚴

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/15(土) 15:59:05.23 ID:12DQSeKf0.net
これから考えると前後左右将軍の序列って
左、前、右、後なのかな
ただ魏も漢中も武官トップは前将軍なんだよなあ
後将軍が前将軍の次か一番下かも分からない
袁術とかの懐柔に後将軍から左将軍にしたらしいから、こっちが上なのか

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/15(土) 21:32:01.18 ID:ZEVQc95s0.net
>>274
それは上奏文の序列で=臣下の序列といえるかどうか
上奏文という形式から体裁を慮った序列にも思える
筆頭にきてる馬超は出身が軍閥の巨魁
次点で中原にも聞こえた名士の許靖
龐羲は劉焉との縁故
射援は義父が皇甫嵩という毛並みの良さ

前後左右将軍の序列は少なくとも蜀では関羽が首位で黄忠が最下位だろうから
前左右後に思われ
ただ魏の上尊号碑の序列でみると張郃、徐晃、張遼、朱霊で左右前後となっており
三国間で同じ基準であったと断言し難い
蜀では四征よりも四鎮将軍が上位であったりもする例も見受けられるので

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/16(日) 08:50:26.95 ID:2gS3cTRi0.net
鎮将軍は確実に上だよね
給料表でもあればなあ
尚書は権力のわりに安いんだけど

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/16(日) 08:52:26.76 ID:2gS3cTRi0.net
>>276
夏候惇が前将軍で武官筆頭らしいから同じかも

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/16(日) 12:17:38.37 ID:2gS3cTRi0.net
>>276
季漢輔臣賛の順番の方が良いかな
上奏の順番も実際の権力とは違っても形式的な序列ではあるかと

昭烈皇帝(劉備)
諸葛丞相
許司徒
関雲長・張益徳
馬孟起
法孝直
龐士元
黄漢升
董幼宰
ケ孔山
費賓伯
王文儀
劉子初
糜子仲
王元泰・何彦英・杜国輔・周仲直
呉子遠
李徳昂
張君嗣
黄公衡
楊季休
趙子龍・陳叔至
輔元弼・劉南和
秦子勅
李正方
魏文長
楊威公
馬季常・衛文経・韓士元・張処仁・殷孔休・習文祥
王国山・李永南・馬盛衡・馬承伯・李孫徳・李偉南・龔徳緒・王義彊
馮休元・張文進
程季然
程公弘
糜芳・士仁・郝普・潘濬

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/16(日) 12:25:09.78 ID:2gS3cTRi0.net
諸葛亮が李厳を弾劾した時の上奏文

今、簒賊は未だ滅びず、社稷には難事が多く、国事はただ和合によって克捷すべきで、(不平分子を)苞含する事で大業を危うくしてはなりません。
行中軍師・車騎将軍・都郷侯の臣劉琰、
使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯の臣魏延、
前将軍・都亭侯の臣袁綝、
左将軍・領荊州刺史・高陽郷侯の臣呉懿、
督前部・右将軍・玄郷侯の臣高翔、
督後部・後将軍・安楽亭侯の臣呉班、
領長史・綏軍将軍の臣楊儀、
督左部・行中監軍・揚武将軍の臣ケ芝、
行前監軍・征南将軍の臣劉巴、
行中護軍・偏将軍の臣費禕、
行前護軍・偏将軍・漢成亭侯の臣許允、
行左護軍・篤信中郎将の臣丁咸、
行右護軍・偏将軍の臣劉敏、
行護軍・征南将軍・当陽亭侯の臣姜維、
行中典軍・討虜将軍の臣上官雝、
行中参軍・昭武中郎将の臣胡済・
行参軍・建義将軍の臣閻晏、
行参軍・偏将軍の臣爨習、
行参軍・裨将軍の臣杜義、
行参軍・武略中郎将の臣杜祺、
行参軍・綏戎都尉の臣盛勃、
領従事中郎・武略中郎将の臣樊岐らと議し、ただちに李平の任を解き、官禄・節伝・印綬・符策を免じ、その爵土を削られますよう」

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/05/16(日) 12:29:56.78 ID:2gS3cTRi0.net
行中軍師 車騎将軍 都郷侯 臣 劉琰
使持節 前軍師 征西大将軍 領涼州刺史 南鄭侯 臣 魏延
前将軍 都亭侯 臣 袁綝
左将軍 領荊州刺史 高陽郷侯 臣 呉懿
督前部 右将軍 玄郷侯 臣 高翔
督後部 後将軍 安楽亭侯 臣 呉班
領長史 綏軍将軍 臣 楊儀
督左部 行中監軍 揚武将軍 臣 ケ芝
行前監軍 征南将軍 臣 劉巴
行中護軍 偏将軍 臣 費禕
行前護軍 偏将軍 漢成亭侯 臣 許允
行左護軍 篤信中郎将 臣 丁咸
行右護軍 偏将軍 臣劉敏
行護軍 征南将軍 当陽亭侯 臣 姜維
行中典軍 討虜将軍 臣 上官雝
行中参軍 昭武中郎将 臣胡済
行参軍 建義将軍 臣 閻晏
行参軍 偏将軍 臣 爨習
行参軍 裨将軍 臣 杜義
行参軍 武略中郎将 臣 杜祺
行参軍 綏戎都尉 臣 盛勃
領従事中郎 武略中郎将 臣 樊岐

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/03(木) 14:24:30.82 ID:0M3ug9Er0.net
中軍師って結構上位で楊儀は普通にナンバーツーだったのでは

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/06(日) 14:07:48.16 ID:rMQ2H2An0.net
本稿の狙い
黄権と孟達の評価を再検討したい。あわよくば、ひっくり返したい。
黄権の一般的なイメージは忠義者。孟達のイメージは裏切者。そう相場が決まっている。しかしそんなに単純に割り切っていいのだろうか。もしかしたら黄権が「裏切者」で、孟達が「忠義者」なんじゃないか。
詭弁を弄びつつも、二人の素顔を解き明かしていく笑
 
いきなり黄権と孟達をメインキャラのように扱ってるけど、いま一度、彼らが何をやったか確認しておかないとね。どんな人だったか分からん笑
歴史事実は端折って、書簡や台詞はかなり主観で抄訳してます。故事も適当に料理してます。おかしかったらご指摘下さい。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/15(火) 19:51:58.34 ID:KlWls/HW0.net
魏滅蜀漢之戰 季漢防衛線 戸数二十八万 口数九十四万 兵士十万二千 官人四万

漢城 兵力五千
護軍 綏武將軍 蔣斌

樂城 兵力五千
監軍 王含

陽安関 兵力五千?
關中都督 傅僉
(前)武興督 蔣舒

漢中黄金囲 兵力五千?
黄金囲督 柳隠

剣閣 兵力四万~五万?
(左?)大將軍 録尚書事(領益州刺史?)平襄侯 姜維
仮節 右車騎將軍 并州刺史 中郷侯 廖化
左車騎將軍 冀州刺史 都亭侯 張翼
輔國大將軍 平尚書事 南郷侯 董厥

成都召還 兵力三千?
巴東都督 右(大?)將軍 閻宇

巴東 兵力二千
巴東太守 羅憲

南中六郡 兵力五千?
監軍 安南將軍 建寧太守 霍弋

江由関 兵力五千?
守將 馬邈

涪城 綿竹関 兵力一万?
行都護 衛將軍 平尚書事 武郷侯 諸葛瞻
武郷侯世子 諸葛尚
尚書 張遵
尚書郎 黄崇
羽林右部督 李球

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/08(木) 19:09:37.20 ID:mbrIdYbH0.net
劉備は、後漢の皇族ではない。

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/09(金) 12:52:28.66 ID:KEBH38Vk0.net
>>285
典略では「後漢の宗族」と記されてるよ

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/11(日) 17:56:14.11 ID:OgyocL3w0.net
Jominianが違うって

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/11(日) 19:07:03.08 ID:OgyocL3w0.net
「『備』とは完結するという意味で、『禅』とは授けるという意味だ。劉氏は完結した、他人に授けるべし」

即ち劉性の者による天下は劉備の代で完結している、劉禅はその天下を他の者に授ける役割であるという事、劉備劉禅以後、劉性を勝手に名乗ったり漢の後を勝手に継いだりして、それが長期政権になった試しはない

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/12(月) 14:12:56.48 ID:YMaTaiNs0.net
>>287
また、Jominianなの?

>>288
まあね…「漢は蜀(劉邦)から始まって蜀(劉禅)で終わる」って感じがするね

それ以降の劉氏は匈奴系、項姓劉氏の劉宋、突厥沙陀部の後漢などだね

290 :290:2021/07/12(月) 14:24:06.18 ID:YMaTaiNs0.net
あと、アラブ系とされる南漢も忘れてた…

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/13(火) 11:40:21.98 ID:5m/HS4ua0.net
>>289
独特の説を言っていて面白いんだけど駄目なの?

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/21(水) 06:59:33.29 ID:GX5W+H9s0.net
魏略では臨邑侯の子孫だし、自称は景帝の子の中山靖王の子孫で
どちらかはわからんが多分普通に皇族の傍流の劉氏かと

遊学中の豪勢な暮らし振りとか貴族趣味丸出しな遊び方とか見てると
親が死んで零落ってのも劉備本人が父親死んでちょっと苦労したってだけで
一族トータルでは滅茶苦茶金持ち
母親も再婚しないってことは劉氏で面倒見てたか、母親自体がかなり良いところのお嬢さんだった
ぽいし

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/04(水) 00:16:39.34 ID:tr2k2wSb0.net
秘府錄曰。~祖拓地于幹浸遏。區爲五原。伯屹紳濃和氣治於馬姑岣焉。是爲西原也。 泱汰辰戞和氣治於羊姑岣焉。是爲東原也。納兢禺俊戸栂治於伊樂淇焉。是爲中原也。 湮噉太墜和氣治於柵房熹焉。是爲北原也。 沄冉瀰墜和氣治於柟崤藐焉。是爲南原也。 于是御旦賅安閔調波那阿沄。ヘ矩乃古ゥ勿有畿覲怙曾矣。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/26(木) 20:01:52.55 ID:WujBriQM0.net
蒋琬は紛れもなく、第二の諸葛亮になろうとしていた。

その蒋琬は、諸葛亮の組織した軍隊をどうしようとしていたのだろうか?

彼はまず、腹心であった尚書僕射李福を、前監軍領司馬に任命する。
しかし、李福は就任するやいなや亡くなり、姜維がその後を襲う事になる。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/09(木) 20:07:21.39 ID:/6LCZ+C00.net
中国の歴史家にとっては、慢性的な飢餓など書く必要もないことなのである。それは第一に庶民のことであって、皇帝の正統とは何ら関係のないことである。そして慢性的な飢餓など、中国においてはあまりに当然のことだから、あえて書くまでもないのである。「太陽が東から昇って西に沈んだ」と記す歴史家がいないのと同じことだったわけである。

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/29(月) 06:36:26.53 ID:Rb/umubP0.net
匈奴はトルコ系

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/02(木) 18:00:52.46 ID:AaVJDvc/0.net
>>294
義兄のハンシュンの早死も痛いな

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 21:49:17.35 ID:pW1STQDJ0.net
なお、もう一箇所割拠できる独立したエリアがある。

漢中だ。
漢中は、北に秦嶺山脈、
南は蜀に連なる山脈があり、
南北共に直行するには蜀の桟道を通らなくてはならない。
普通の感覚で言うと、道が作れないエリアだ。

渭水盆地から蜀に行くには、この漢中を庭にある置石のように、
踏み込んでからではないと行けない。
反対に蜀から渭水盆地に行くには、やはり漢中を
飛び石のようにしなくてはいけない。

漢中の東も険しい山だ。
漢水沿いに沿って東に下る、標高としては下りることになるが、
たどり着く先は実は襄陽だ。

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 21:49:43.56 ID:pW1STQDJ0.net
漢中の西は開けている。
そのため陽平関という関所が戦国時代からあった。
陽平関を抜けた後は二つのルートがある。
一つはそこから北に上り、
武都郡(下弁もここに含む)があり、少し開けた平野だ。
さらに北に上ると、
西周の創業の地祁山がある。これより北はやはり山を越えなくてはならない。
越えた先は天水などの隴である。

もう一つのルートは、
陽平関から北西に向かい、秦嶺山脈の谷間を抜けて、
大散関に至る。これを越えれば、渭水盆地だ。

独立したエリアだが、
王朝を建てるには不足している。
漢の高祖劉邦の創業の地であり、
後漢末の五斗米道の教祖張魯が割拠したの場所だが、
ここだけで国が作られることはなかった。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/02(日) 21:42:36.26 ID:fva0quW/0.net
劉備が皇帝となっていた時代については、皇帝たる劉備自身が益州牧を帯びていた。

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/17(月) 17:20:27.85 ID:0JcLQzDv0.net
行大将軍事の行は「ギョウ」と読むのか「コウ」と読むのか?

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/09/22(金) 18:04:10.02 ID:fCg0XfpB0.net
Σ(o>艸<)

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/11/23(木) 14:15:21.24 ID:xfVXLmgC0.net
>>282
武官上位でライン長の権限、権威が強い時期のスタッフはスタッフ肩書きは保持している免許程度の扱いで上下の立ち位置とはほぼ無関係

使持節持ちの将軍からしたら幕僚内の下っ端で雑号将軍とほぼ変わらないぐらいの扱いになると思うけど
逆に蒋琬はライン上の肩書も高くて留守幕府トップなので方面軍司令官兼現地スタッフ総責任者で正に諸葛亮の代理人で破格の扱い

諸葛亮死後、魏延楊儀の衝突から楊儀追放蒋琬が後始末してのちに自分で開府して諸葛亮の後継者となったのも当然の流れ
楊儀は最後までスタッフポストと雑号将軍位しか貰えていないから隔絶した立場の違いがあった
魏延のライバルは楊儀ではなく蒋琬で楊儀はこの2人をライバル視できる立ち位置にすら立てていない

諸葛亮がいかに楊儀では人はついてこないかっていうのを見抜いていた証拠にもなるんじゃないかな

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/11/23(木) 16:34:15.54 ID:OK6hI9Z80.net
>>301
代理の意味だったと思うからコウでいいかと
って古い質問、見てるかな

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/12/05(火) 17:45:34.91 ID:AN8RGNPJ0.net
続き 【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】
上のスレが上げられ同様の質問があった

行都督督軍の行は「ギョウ」と読むのか「コウ」と読むのか?
回答 ギョウトトクトクグン

日本語の代行からすると「ギョウ」は変な気がする
気がするだけなので好きな方選んで

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/12/17(日) 08:25:44.21 ID:88Pv14Vt0.net
中軍師は地位的には高いよ
でも、「x軍師」は本職がすでにある人に付加する名誉職で、それ自体に権力や兵力がない
楊儀が中軍師になった時、費禕は後軍師、ケ芝は前軍師になったが、費禕は蔣琬の成都留守府、ケ芝は軍にそれぞれの実力がある本務としての現職や前職があった。

一方、楊儀は漢中丞相府の最上級幕僚で、諸葛亮の死によって漢中丞相府が解散して、その文武官僚と兵は呉懿と王平に引き継がれた。
成都の蔣琬が主催する府の中での楊儀は、中軍師であっても本務がない蔣琬の一幕僚にすぎない。

307 :307:2023/12/17(日) 08:40:29.11 ID:88Pv14Vt0.net
楊儀の問題は、政治と軍事の中枢がどこにあったのかを理解しておく必要がある。
北伐当時、漢中丞相府(諸葛亮)と成都留守府(蔣琬)、それに後方兵站拠点の江州府(李厳)があった。
李厳の失脚で江州府は?ケ芝が引き継いだ。
そして諸葛亮の死で漢中府は政治的な権力をもたない前線基地・植民地となり、呉懿と王平に引き継がれた。
楊儀は漢中府から成都府に戻った時、根拠も後ろ盾(諸葛亮)も無かった。
中軍師という、地位は高いが名誉職に近い肩書しか残っていなかった。

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/12/20(水) 10:42:10.04 ID:hd1weEz00.net
なんか307と308の説明というか解釈が変な気がする
自分の知識が乏しいので指摘できないのがもどかしいw

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/12/20(水) 12:59:08.00 ID:8/3LH9om0.net
まあ軍事組織語る時に使うスタッフ、ラインて言葉使っていない時点で組織論に関しては素人なんやと思う
役職の意味合いに関しては正しいんやけどね

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/18(日) 08:04:48.10 ID:Y+QQnsbb0.net
>>304
見てるよ

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/18(日) 14:32:10.15 ID:Y+QQnsbb0.net
>>309
スタッフ課長、部長と、ライン課長とか、1つの店に店長複数とか
今の日本はおかしな役職やるからね

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/20(火) 15:34:57.69 ID:qCDE3hZz0.net
劉備即位の時に名前が出てくる「陽泉侯劉豹」「青衣侯向挙」って、県侯ってことのようだから爵位だけならこの時点の張飛や馬超よりも高いんだよな・・・。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/21(水) 07:02:23.86 ID:K5Orv9380.net
キングダム読んでから爵を気にするようになったけど
漢末ごろはほとんど機能してないんでしょ

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/21(水) 10:38:28.81 ID:K5Orv9380.net
>>312
何だよ、313まんまコピペじゃん 知りたいのかと思って調べちゃったよ
その二人についてある程度分かったよ 知りたかったらちゃんと書き込もう

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 05:17:15.19 ID:oyhXMO/80.net
>>275
勘違いしてるぞ
許靖は、左将軍(劉備)の長史であって左将軍じゃない
鎮軍将軍だ

>>308
いや、正しいというか、今の主流の考え方だろ

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 09:31:54.94 ID:hwDu292S0.net
>>313
曹操の祖父でさえ費亭侯だし、曹操も費亭侯→武平侯→魏公で
魏の功臣でも亭侯、都亭侯、郷侯とかで、数も意外に少なく県侯も少数
実質は政治の権限もなく領地の税の一部を給料として貰えるだけだけど
一応多少の優遇策として機能はしている

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 09:34:50.14 ID:hwDu292S0.net
何の実権のない爵位でも結構欲しがる人はいるからなあ

北朝鮮から東京侯とか神奈川侯とか千葉侯とか埼玉侯に封じられたら
給料なしでも嬉しいのだろうか???

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 09:43:24.88 ID:hwDu292S0.net
>>313
それと庶民でも爵位を持っていて爵位がないと賤民だから
実は官職をはいでみたいなのは庶民以下になるってことなんだよね
爵位を差し出すことで罪を免れられるみたいなのもあったし
一部記録では爵位に給料がついていたりだからね

二本だと伯爵から侯爵になると給料?が出なくなって逆に困るとかあったし
お金で爵位を売って財源にとか昔はイギリスでもやっていたしね

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 11:33:03.08 ID:QTX/VlKM0.net
>>316-318
ありがと けど三国志の爵位は別に気にしてないよ
今の興味はキングダム関係w

秦の二十等爵に五大夫てのがあるんだけど
爵位以外で五大夫て名称使うことあるか知ってる?
九卿みたいな五つの大夫て使われ方してないかなあ?

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 11:49:15.84 ID:QTX/VlKM0.net
>>275
今見たサイトにちょうど将軍の序列出てた
左右前後 出典は通典というものらしい 西漢の序列なので注意 

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 12:05:32.78 ID:QTX/VlKM0.net
曹魏や晋の将軍の序列も出てた こちらの出典は近年のい書籍っぽい
前左右後 前後左右 王朝によってマチマチなんだね

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 23:04:20.62 ID:hwDu292S0.net
>>319
劉邦の頃でさえ、江陵から五大夫(五百人長)を何人つけるみたいなだし
下の方の左庶長が小王や白起の爵位だったりで
上の方は本当に少ないんだと思う
徹侯や関内侯(時代が進むと関外?というか格下の侯みたいになるけど)
も始皇帝以前以後含めてかなり少ない

関羽の偏将軍・漢寿亭侯とか低い地位だなあと思っていたけど実は結構高い
宦官の最高位の大長秋の曹騰でようやく費・亭侯なんだし

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/23(金) 23:07:38.12 ID:hwDu292S0.net
>>319
五大夫は、意味は五百人長だと思うといいかと
五を使う用語だと、三皇五帝、三王五覇、五侯九泊とかだけど
大夫が国に何人いたのかよく分からんけど、五人ぐらいだったのかも

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 00:47:08.73 ID:H53d5d5b0.net
>>317
何の実権もない??
土地と領民と租税と裁判権を自分のものにでき、私兵をもつことができ、爵位と財産を子供に引き継ぐことができるんだぞ?
たとえ100戸でも、1戸が3世代4〜10人程度の人口があるので数百人
かなりでかい財産だ

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 02:39:24.04 ID:nVqKc3Yh0.net
>>322-323
そう、上の方少ないよね 話が早くて助かるw
始皇帝巡幸に同行してるのが五大夫、で五大夫は官爵で最下位の9位
...何でこんな下っ端が同行して名前が残ってるんだ?
ということで320の質問になったと

同行者が列侯二名、関内侯?三名、丞相二名、卿二名、五大夫二名
五百人長で名前残るかなあ? 格下過ぎな気がする、本当に9位なんだろうか

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 10:50:33.81 ID:H53d5d5b0.net
>>320-321
前漢では、最初は序列がなく、「遠征地の方向」、「皇帝・上級将軍の左右と先鋒・後衛」、「率いる軍と中央軍との相対位置」のような非常任・非序列の将軍号に始まった。
後に平和な時代の宮廷における中朝廷将軍(※)として序列化されると、「左>右>前>後」となった。
しかし、後漢末期から三国時代になると、乱世・戦時が常態化すると、名目より実態が重要になる。
まずは、先鋒・先行軍の重要さから前将軍の地位が高まり、「前>左>右>後」となった。
さらには、地方において大軍を握って長期間指揮する外朝廷将軍の地位が高まり、四征・四鎮など実務・実態に応じた外朝廷将軍が、名誉職に近い四方将軍の地位より重要視されるようになった。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%87%E8%BB%8D_(%E6%9D%B1%E4%BA%9E%E5%8F%A4%E4%BB%A3)

三国時代は「前>左>右>後」が基本。

魏志巻17張楽于張徐(朱)伝
前:張遼
右:楽進
左:于禁
左:張郃
右:徐晃
後:朱霊

蜀志巻36関張馬黄趙伝
前:関羽
右:張飛
左:馬超
後:黄忠
−:趙雲

曹操時代の四方将軍は、前:夏侯惇、左:于禁、右:楽進。
于禁(左)・楽進(右)が四方将軍の先任で、曹操に仕えた時期も早い。
曹丕時代の四方将軍は、前:張遼→満寵、左:張郃、右:徐晃、後:朱霊→文聘。
張郃(左)・徐晃(右)は後任で、曹操に仕えた時期も于禁たちより遅い。
しかし、左:于禁は例の問題で右:楽進より評価が落ちた。

蜀は全員が同時期に就任。
将軍号の序列では名士の左:馬超が右:張飛より上。
しかし、劉備への貢献、仕えた時期は右:張飛が圧倒的に上。

つまり、伝記の並び順は三国時代の「前>左>右>後」を基本にして、就任時期や功績で伝記の順番を陳寿が調整したと理解できる。

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 11:10:03.43 ID:qa/Jp9ln0.net
>>324
ああ、政治はやれないんです
形式的には君主・領主なんだけど
実質はその租税の一部を貰えるだけ

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 11:11:55.78 ID:qa/Jp9ln0.net
>>326
馬超は特別扱いで所
元々群雄つまり実質君主だし
馬超自身が軍を率いさせてもらえなくて嘆いてる、怖いからだろうけど
生きていても呉との戦いに使わなかったかもしれん

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 11:12:44.36 ID:qa/Jp9ln0.net
>>326
馬超は特別扱いで所
元々群雄つまり実質君主だし
馬超自身が軍を率いさせてもらえなくて嘆いてる、怖いからだろうけど
だから実権としては張飛の方が上
生きていても呉との戦いに使わなかったかもしれん

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 11:17:40.25 ID:qa/Jp9ln0.net
>>325
官僚や警察と同じで
警部補を出世が遅い云々言う人もいるけど
巡査長や巡査部長で終わる人も多いし
警部補や警部がほぼノンキャリアの限界(もちろん極一部の例外はある)
それより上はキャリアが大半で、そこで細かく序列つけているけど
ノンキャリアは警視長に定年退職の日になれておしまいとかでも最高レベル

日本でも警部というのが凄いイメージだけど、役職的には課長補佐だからね
大物が動く時に警部・課長補佐の同行もあるかもしれんし
五大夫は五百人の兵を動かせるから(どこも実数はもっと少ないこと多いけど)

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 11:21:06.27 ID:qa/Jp9ln0.net
>>326
呉も細かく左右に分けて司馬は左、軍師は右とかやったり
周王の卿士とかも左が上だけど、実権は右とかってやり方もやる
中国は古代から落とし入れられない奴を形式的に出世させて権限を奪うともやるし
キョセイだっけや馬超は地位は高くするけど権限はあまりないようにしているのかと

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 16:42:09.03 ID:qa/Jp9ln0.net
>>324
國の王も侯も漢初期は普通にそこの支配者だったんだけど
途中から王侯から政治の実権を奪って
政治は王・侯國の相が政治をやって実質太守と同じになる
ただし、太守より格上になるらしい

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 18:22:51.56 ID:nVqKc3Yh0.net
>>326
前後左右気にしてるの俺じゃない 安価つけるなら276で

>>330
大物が動く時に警部・課長補佐の同行もあるかもしれん
...そりゃあるでしょw 厳重な警備でしょう 

最下位の官爵とされる五大夫の名前が残されてるのが疑問と言ってる
残してるのは始皇帝だよ 自分が始皇帝だったら名前残す?

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 18:36:32.38 ID:nVqKc3Yh0.net
始皇帝は当然、列侯や丞相も、さぞ綺麗な車で巡幸したと思われる
石に名を刻む時に警備担当者?の五大夫の名前も刻んどけって言うかなあ?
俺の始皇帝のイメージと違うw

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 18:52:08.52 ID:qa/Jp9ln0.net
>>333
低いと言いながら、実は高いのかと
五大夫より上が石碑に書かれる数人?しかいないんでしょ

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 19:23:51.63 ID:nVqKc3Yh0.net
>>335
そう 史記読むと五大夫は実は高いとしか感じられないんだよね
国を攻める将として名が残ってるのも五大夫
...で二十等爵を見ると官の最下位爵で待遇も一つ上の爵とかなり違うひどい扱い
...で九卿みたいな五つの大夫て使われ方してないかなあ?という質問に戻るw

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 19:25:35.27 ID:nVqKc3Yh0.net
前漢王朝建立時における劉邦集団の戦闘経過について(上)

ググると15枚のpdfが見れ12ページに初期の劉邦軍団の爵がある
楚の爵を使ってるか知らないけど五大夫は多分同じ扱い
五大夫がどういう価値か何となく分かるんだけど...

劉邦軍団て田舎もんじゃないw 秦の人物と比較していいのかという問題がw

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 19:43:24.92 ID:qa/Jp9ln0.net
光源氏の母の家が身分が低いと言われながら大納言???だったようなもので

上位から見れば低いんだけど、何というか支配者側の最下層みたいな

底辺官僚だけど権限があって給料も庶民よりも高いみたいな

秦の情報が分からなくなったのもあるけど漢はほぼ秦そのままで
印象操作で秦ではないって言い張ってるだけで

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 19:45:18.05 ID:qa/Jp9ln0.net
表3 劉邦集団主要幹部の爵位
曹参 周勃 樊噲 夏侯嬰 灌嬰 傅寛 靳歙 酈商 陳䋭 周緤 備考
二世元年九月 七大夫
二世二年十月 七大夫 五大夫
端月
二月 国大夫
三月 五大夫
七月 五大夫 列大夫 執帛 懐王を立つ
八月 上聞爵 執圭
後九月 執帛
二世三年十月 五大夫 七大夫
三月 執圭 卿 執帛 卿
漢元年十月 建成侯 威武侯 列侯 昭平侯 建武侯 信成侯 侯 侯 漢王になる

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 19:50:24.32 ID:qa/Jp9ln0.net
まず、夏侯嬰が七大夫になっている。このことから彼が劉邦軍団で最高位の家臣か?
その後、夏侯嬰が五大夫に、曹参が七大夫になっていて、曹参が序列2位?
その後、樊噲が国大夫だけど、五大夫になっているのがかなり後だから結構地位が低い?
その後、周勃が五大夫で、樊噲より遅いけど爵位は上

樊噲は、国大夫→列大夫→上聞爵→五大夫で、他の五大夫のみんなよりかなり低い地位から少しずつ上がっている?

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 19:56:29.97 ID:qa/Jp9ln0.net
五大夫の後が、執帛・執圭で、(または卿で)、その後に侯になっているから
五大夫って、実は結構高いじゃん
課長は低いと言われながらも、次長・部長から、役員になったりするもんかな
石碑でも五大夫の名前が書かれているとあるけど、彼等より上位の名前を省く可能性は低いので、低いけど高いというか
知能の高い知的障害者、弱い世界チャンピオンみたいな??4

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 20:13:45.68 ID:qa/Jp9ln0.net
元年九月
七大夫 夏侯嬰

二年十月(秦漢は十月が新年、元年九月の翌月が二年十月)
五大夫 夏侯嬰
七大夫 曹参

二年二月(十月の後)
国大夫 樊噲

二年三月
五大夫 周勃

二年七月(楚の懐王熊心即位)
執帛 夏侯嬰
五大夫 曹参
列大夫 樊噲

二年八月
執圭 夏侯嬰
上聞爵 樊噲

二年後九月(閏月、九月の翌月、十月から新年だから)
執帛 曹参

三年十月(新年)
五大夫 樊噲
七大夫 灌嬰

三年三月(十月の後)
執圭 曹参
執帛 灌嬰
卿 樊噲
卿 傅寛

漢元年十月(秦王子嬰降伏の三年九月の翌月、漢王劉邦即位?)
曹参 建成侯
周勃 威武侯
樊噲 徹侯(列侯)
夏侯嬰 昭平侯
靳歙 建武侯
酈商 信成侯
陳䋭 侯
周緤 侯

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 20:38:33.84 ID:qa/Jp9ln0.net
やはり五大夫はかなり偉いな

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 20:39:59.76 ID:qa/Jp9ln0.net
警部どころか署長ぐらいの地位なんじゃないか?

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 20:51:36.94 ID:nVqKc3Yh0.net
石碑の話はウィキ王賁で紀元前219年 瑯琊台刻石の話
秦始皇本紀に >>325 の同行者11人の名前が

蕭何が抜けてるよね 夏侯嬰じゃなく最高位は蕭何かと
スレ違いと怒られそうなのでこの辺でw

項羽と劉邦 その20スレは時々見てるので五大夫情報あったらお願いします

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/24(土) 21:31:18.20 ID:qa/Jp9ln0.net
>>345
11人の枠に入るぐらいだから五大夫はやはりかなり偉いよね

蕭何は漢の丞相になる前はあまり出世していなかったのかも?
爵位も多分天下が定まった後までないよね?

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/25(日) 08:00:33.03 ID:EHNlw7aC0.net
>>345
もし呉大夫より上の12人目がいたら、そいつも名前を刻まれるから
皇帝と同行するトップ11人の偉い奴の最下位の爵位が五大夫なのかな

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/02/29(木) 03:29:42.27 ID:jSNspXVE0.net
結局ここで書き込み、スレ違いすみません

秦の都尉を調べてたら、郡の組織みたいなとこへ
全国三十六郡 郡トップが郡守(三国志の太守に相当)

簡単に説明すると郡内の県令(県長含む)、郡の監察(三国志の刺史より狭いねw)、
郡の治安軍事担当の郡尉は中央から任命、郡内の他の官吏は任免自由らしい。
郡は大体十数県から構成されてるので十数人+監察1+郡尉1以外は任免自由てこと。

この郡尉が二十等爵で四級の不更から七級の公大夫までが任命されるらしい。
三十六郡の郡尉を県警トップに例えると五大夫は九級で二級上位。署長より上だねw
参考資料は通典·職官十五になってた

五大夫を調べる前は蕭何が沛でやってた秦の官くらいかなーと思ってたwww
ウィキの二十等爵の説明だと低そうな爵位に感じるよね

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/02(土) 04:34:42.19 ID:wVIKYqWL0.net
諸葛亮 丞相
李厳 中都護・驃騎将軍
劉琰 中軍師・車騎将軍・都郷侯 
魏延 使持節・前軍師・征西大将軍・涼州刺史・南鄭侯
蔣琬 丞相留府司馬・撫軍将軍 
陳震 衛尉・城陽亭侯
袁綝 前将軍・都亭侯 
呉懿 左将軍・荊州刺史 
高翔 督前部・右将軍・玄郷侯 
呉班 督後部・後将軍・安楽亭侯 
楊儀 綏軍将軍・丞相長史 
ケ芝 督左部・中監軍・揚武将軍
張翼 前軍都督・扶風太守 
劉巴 行前監軍・征南将軍 
費禕 行中護軍・偏将軍 
許允 行前護軍・偏将軍・漢成亭侯 
董允 侍中・虎賁中郎将
丁咸 行左護軍・篤信中郎将 
劉敏 行右護軍・偏将軍
姜維 行護軍・征西将軍・當陽亭侯
上官雝 行中典軍・討虜将軍
王平 行参軍・討寇将軍
胡済 行中参軍・昭武中郎将
閻晏 行参軍・建議将軍
爨習 行参軍・偏将軍
杜義 行参軍・稗将軍
杜祺 行参軍・武略中郎将
盛勃 行参軍・綏戎都尉
樊岐 領従事中郎・武略中郎将

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/02(土) 23:13:18.89 ID:wVIKYqWL0.net
>>349
護軍の並びを見るに中>前>左>右>後か

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/03(日) 12:51:37.74 ID:tB4r4cOk0.net
本来は左前右後の順番らしいけど
先鋒の前が上位になったとか

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/03(日) 12:53:53.16 ID:tB4r4cOk0.net
最高位の将軍は無上将軍

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/04(月) 14:49:36.88 ID:Ojv77/+70.net
太上皇は皇帝より上

無上皇と天元皇帝は、太上皇より上

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/04(月) 15:08:35.36 ID:3aEwoGwk0.net
>>351
本来は の意味は何?
古代中国は右左の順が本来の気がするけど

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/04(月) 15:57:51.12 ID:Ojv77/+70.net
元々は

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/04(月) 19:09:37.34 ID:Ojv77/+70.net
元々は、最初は、とか。
昔はそうだったけど、途中で変わった

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/08(金) 21:10:21.98 ID:kmki+fdY0.net
燕という国は、初めは弱かったが、力を付けて拡大・南下した。負け始めると、拡大のときの逆回しをやって、滅びた。前燕と後燕は、ぴったり線対称である。燕という国は、徐々に北に押し込められて、立ち消えました。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/08(金) 21:19:26.03 ID:kmki+fdY0.net
運わるく肥水で負けたのではなく、肥水まで運よく勝っていたとも言える。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/08(金) 21:27:06.57 ID:kmki+fdY0.net
足し算をやってると、大きな失敗は少ないが、大きな成功も少ない。

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 06:02:25.69 ID:d8pTl5ur0.net
劉備、法正、黄権、張飛、馬超、黄忠、魏延、趙雲は漢中
劉封、孟達は上庸・房陵
士仁・糜芳・潘濬・・晏・陳鳳は荊州守備だから、関羽・関平・趙累だけの荊州攻撃軍は手薄だなあ

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 07:57:36.88 ID:YqMSgalQ0.net
関羽が軽んじて使わなかっただけで劉備としては有能を残したつもりなんじゃね

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 11:33:42.32 ID:MMCrTBNF0.net
馬良「碁の相手しかやらせてくれないし」

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 19:44:59.75 ID:5K3WeM9g0.net
恐怖そのものが脳を変化させ、実際にダメージを与えるのだ。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 20:00:12.39 ID:5K3WeM9g0.net
さらに分析を進めると、血液中に抗麻疹抗体があっても、病気からの回復や再感染の予防には必要ないことがわかった。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 20:03:37.19 ID:5K3WeM9g0.net
他にもさまざまな免疫細胞があり、それぞれがウイルスと闘うためのユニークな能力を持っている。

このことは興味深い問題を提起している: 抗体産生を刺激するように設計された麻疹ワクチンを外部から導入することは、私たちの複雑な自然免疫防御にどのような影響を与えるのだろうか?
ワクチンによっては、利点よりもむしろ問題を引き起こしている可能性はないだろうか?麻疹ワクチンがそうである可能性は高い。具体的なワクチンの問題を紹介する前に、麻疹ワクチンの歴史を簡単に説明することで、それらがどのように相互に関連しているのかがわかるだろう。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 20:04:58.23 ID:5K3WeM9g0.net
米国で最初に認可された不活化(死滅)麻疹ワクチンは、4年間(1963年から1967年)使用された後、一時的な免疫しか得られないことが判明し、後に麻疹に感染したワクチン接種児が "非定型麻疹 "として知られる重篤な反応を示したため、使用中止となった。
これはCOVID-19とよく似ている。ワクチン接種を "最新の状態 "で受けた子供ほど感染しやすいことがわかった。
1967年のJAMAの研究では、不活化麻疹ウイルスワクチンを接種したことのある10人の小児が、5〜6年後に非定型麻疹を発症したと報告している。

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 20:05:45.14 ID:5K3WeM9g0.net
現在の麻疹ワクチンはもはや死滅したものではなく、生ワクチンであると言う人もいるかもしれない。しかし、非定型麻疹の現象から得られた重要な知見は、ワクチンがウイルスと戦う私たちの免疫システムの自然な方法を打ち消し、好ましくない結果を引き起こす可能性があるということである。
2018年のPLoS Oneの研究では、麻疹ワクチンを接種した12カ月から23カ月の小児に麻疹のリスクが関連していることが示された。その論文では、それらの画期的な症例の正確な診断は示されていないとはいえ、2006年から2009年にかけてインドで発生したいくつかの集団感染でも、非典型的な麻疹症例が報告されている。

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 20:06:52.89 ID:5K3WeM9g0.net
1985年のLancet誌の研究では、注射された麻疹抗体と予期せぬ長期にわたる免疫障害との間に有意な相関関係があることが示された。

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/03/16(土) 20:07:39.44 ID:5K3WeM9g0.net
ある子供たちは麻疹を予防するために、麻疹ウイルスに感染した後に麻疹抗体を注射された。その結果、麻疹感染の典型的な徴候である発疹が見られなかった。しかし、麻疹で発疹が出ないことは、長期にわたる免疫障害により、成人になってから免疫系障害につながる可能性がある。
(ブログ主 コロナ注射ととても似ていますね〜。コロナ注射は免疫を下げちゃいますから、病気にかかっていても、目立った反応は出ずに進みます。過去記事でご紹介しましたように、3ヶ月に一回コロナワクチンを打って免疫を下げ続け、症状が表面化しないようにしてますが、泉市の統計では7回目で人間の身体がもたなくなるようです。)

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/25(木) 20:44:01.62 ID:UK1rY7KC0.net
諸葛亮、法正、劉巴、李厳、許靖、李朝、李邵、廖立、ホウ羲、頼恭、馬良、馬謖、向朗、潘濬、楊儀、ショウエン、費イ、糜竺、糜芳がいて、
関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲、魏延、黄権、孟達、劉封がいた
劉備家臣団最強の時代

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/26(金) 23:56:43.52 ID:m+cxvcTF0.net
https://i.imgur.com/yZ3LaiQ.jpg

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